2019年11月12日

なんにもなかった 戦中・戦後の暮らしの記録

なんにもなかった 戦中・戦後の暮らしの記録 拾遺集戦後編 暮らしの手帖社

 第二次世界大戦を体験された方たちの体験を綴った作文集です。現在80代の人たちが多い。歴史をふりかえると、昭和10年頃(1935年)から世の中は戦争準備一色の雰囲気です。そして、敗戦体験が遠ざかっている現在です。

 手記を読みながら、「二十四の瞳」壷井榮作を思い出しました。女教師から見て、小学生の教え子がおとなになって戦争の犠牲者になる悲しい物語でした。

 この本のなかの手記では、事実が、じっさいにあったことが、淡々と語られます。
 物がないから、お金もないから、欲しいものは、買うのではなく、自分でつくる。
 病弱で軍人になるための健康診断ではじかれて、強烈な疎外感と失望感に沈まれた方が、今、90代でご長命なのは、生まれもった人間の運命を感じます。当時は、攻撃に参加できなかった強烈なみじめさを体験されています。
 
(つづく)

 戦後、食べる物がない。食べても伝染病にかかってしまう。
 食糧事情は悲惨です。

 動物園の記事は胸にじんときました。動物の殺処分がありました。そして、ゾウだけが生き残りました。軍馬用飼料をゾウの飼料に横流しする行為があったのですが責められません。組織上層部の誤った指示に従って行動していると、生き物は全滅するのです。
 
 昭和19年から満州の空にもB29が来て爆撃をしていたことは知りませんでした。屋根のない貨車に乗っての移動で狙われたら逃げ場がありません。
 満州や中国からの引き上げは、死と同居のすさまじい体験です。現代人の悩みごとと比較したら比べ物にならないぐらい大きな恐怖と苦悩があります。
 
 白黒の家族写真の画像がきれいです。今のようにいろいろなことが便利ではなくてもみなさんしっかり暮らしていたことが写真から伝わってきます。
 
 生きて終戦を迎えたのに、終戦の翌日にピストル自殺をした将校(部隊の指揮官)の兄のことが書いてありました。生きていてほしかった。

 印象に残った表現などとして、「みんながおおきなどぶねずみのようだった」、「(終戦の8月15日をさして)ゴールラインがスタートラインとなりました」、「(未来のことを)戦争を知らない世代によって再び戦争が起こることがありうる。戦争は起こらない、起こるわけがないと思っていると、戦争は起こる」、「国のためではなく、自分たちの暮らしを守る気持ちをもつ」、「選挙権をもつ国民が、賢い有権者になることが戦争の回避につながる」、「キャラメルを切って分けるのではなく、なめまわしてわけた。5つ数えたらなめるのを交代する」、「食べ物がないのは、終戦後のほうがきつかった」、「闇市は闇のように暗くはなく明るい雰囲気だった」、「配給の粉でカステラやパイをつくって近所の人たちも集まってにぎやかだった。おやつが喜ばれた」、「上野駅にはもっとたくさんの浮浪児がいた」、「最初に覚えた英語が、アイアム・ベリー・ハングリー。ギブ・ミイ・チョコ。おいしい味と同時に屈辱感も味わっていた」、「バナナを1本丸ごと食べてみたかった」、「(広島に動物園をつくるための)1円募金」、「子ゾウの名前が『さくら』」、「じゃがいもの塩煮をおなかいっぱい食べさせてくれた方のご恩は今も忘れていません」、「蒲公英:たんぽぽ。満州、現在中国黒竜江省で生まれた方の文章です。ハルピンで見たたんぽぽ、敗戦後、幼いこどもふたりをかかえて、列車で引き上げる途中で見たたんぽぽ、死ぬかもしれないときに見たたんぽぽの記憶。たんぽぽが、美しかった」、「一家族に子どもを5人産むのが義務だったのに、敗戦近くになると妊娠しても生むな中絶しろと指示された。それでも産んだ。今はおおきくなったその三男坊にとても感謝している。生後34日の三男坊を袋に入れて首から下げて中国から帰国した」、「父が懇意にしていた中国人がそーっと食料を援助してくれた」、「薄い布団をかぶって泣くばかりだった」、「日本軍人の戦没者数が230万人ぐらいで、そのうちの6割138万人が餓死」、「戦地に行った父親に、人を殺したかと聞いたら、殺した。殺さなかったら自分が殺されたと返答があった」、「戦争は、憎しみと悲しみしか残さない」、「日本の一番みじめな時代だった」、「戦争に負けた。日本中が再出発だ」、「言論の自由を守り、民主主義を堅持し、憲兵政治の恐ろしさを後世に伝えて戦争を回避する」、「ラジオで流れる『尋ね人の時間』1946年昭和21年から1962年昭和37年。2万件のうち3分の1が探し出せた」、「一年竹組53人」、「なんにもなかった時代にあったのは、だれかへの優しさ、思いやり、お互いの支え合い、そして、命があった。海、山、川の自然があった。未来があった。愛情と助け合い精神があった」

 調べた言葉などとして、「国民学校:1941年(昭和16年)設立。初等科6年6才で入学。高等科2年14歳で卒業。1947年(昭和22年)廃止」、「りんごのいちょう切り:縦に切って、さらに横に切って、三角の形状にした状態」、「ララ物資:アメリカ合衆国の日系アメリカ人が設立したアジア救援公認団体による日本向けの援助物資。食料、衣料、医薬品」、「ニコヨン:国・地方自治体の失業対策事業における日給240円。日雇い肉体労働者」、「女学校:戦前にあった女子教育のための学校制度。高等女学校は、12歳から1年生で、16歳で5年生。尋常小学校は、明治維新から昭和16年第二次世界大戦勃発までで、修業年限4年、6歳で1年、12歳で6年。高等小学校が、修業年限2年、13歳で1年、14歳で2年。戦時中の名称は国民学校で、年齢は同じで、初等科と高等科」、「新京:満州国の首都。現在の中国吉林省長春市」、「安食:千葉県あじき町」、「サンフランシスコ講和条約:1951年。戦争終了。主権の回復。領土の放棄。賠償」

 本書で紹介されていた沖縄県の相良倫子(さがらりんこ)さんの詩の朗読を聴きました。胸にぐっときました。

 本の帯にある「いまはもう『戦前』かもしれない」というフレーズは不気味です。無関心でいると戦争になるぞという警告です。

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