2019年09月06日
むらさきのスカートの女 今村夏子
むらさきのスカートの女 今村夏子 朝日新聞出版
近所にむらさきのスカートをいつもはいている女性がいる。まだ、10ページまでしか読んでいませんが、その女性を50代後半と思いながら読んでいます。そのことをひとり語りしている女性が主人公なのですが、ご自分でご自分のことを「黄色いカーディガンの女」とよんでおられます。
むらさきスカートの女は、20年前に両親が離婚して生き別れになった姉に雰囲気が似ている。食べ物への執着心が強い人だった。
黄色いカーディガンの「わたし」は、むらさきスカートの女のストーカーのようです。
カバーの絵が不可解です。白地に黒丸の水玉布(おそらくむらさき色のスカートのつもり)のなかに足が4本あります。2本でないとおかしい。なにか意味がありますが、わかりません。
たった数ページ読んだだけなのに、読みながら、たくさんのことが頭に浮かびました。読み手に空想や記憶回復、想像をかきたてる文脈です。
むらさきおんなが食べるパンは何パンか。アーモンドの飾りがついたクリームパンでした。
「アラカシ:どんぐりの木」
読みながら、80歳を超えた世代の若い頃の記憶が蘇りました。あの頃若かった人たちの大半はもう亡くなっていると思います。なぜかそういうことを考えてしまう文脈です。
「黄色いカーディガンの女」は、うまい書き方です。対比があります。
人々は、むらさきスカート女に対して、①知らんふり②道を空ける③ガッツポーズする④嘆き悲しむという部分もおもしろい。
むらさきのスカート女はマイペースをくずさない。彼女のすばやい動きは、妖怪かスーパーマンです。記述内容は、元フィギャ―スケーター村上佳菜子さんのイメージです。
(つづく)
むらさきのスカート女が、自分が過去に会ったことがあるだれそれに似ているパターンが続きます。①両親離婚によって生き別れになった姉②小学生のときの友だち中国人女性③中学校の同級生ヤンキー女④前に住んでいたところのスーパーのレジ打ち女性。
主人公である「わたし」の頭の中の世界を「むらさき女」ひとりにしぼって、あらゆる方向から視点を当てながら考察していく小説だろうか。
「わたし」は、「むらさき女」と友達になりたい。季節は11月。
「タカオニ:おにごっこ。高いところにいればつかまらない」
「わたし」は、むらさき女を誘導して、彼女をわたしが働いているコンビニに就職させました。
(つづく)
不思議な感覚があります。
過去の自分を記憶でみているのだろうか。本人でないとわからないようなことをむらさきスカートの女に重ねてあります。
むらさきスカートの女は、ホテルの清掃の仕事を始めます。ホテル直轄ではなく、ホテルから委託された業者でしょう。本人の名前や素性、運動能力の良さなどが少し明らかになります。
「ストレスが原因で体が大きくなっていく」の部分は?(クエスチョン 疑問をもちましたがわからずじまい) ストレス解消のための暴飲暴食で太っているようには見えません。
ホテル清掃業の裏話があります。不安です。書いていいのだろうか。
わかりやすい文章で、「空間」を表現してあります。
黄色いカーディガンの「わたし」は幽霊だろうか。
興味をもった文節の要旨として、「新人は、最初の公休日から職場に出て来なくなる」とか「スカート女の鼻をつまんでしまった」、「商店街と公園しか行くところがない」、「各自の時給の高低でもめる」、「女職場ではだれかの噂話ばかり」、「本人の知らないところでさらに多くの敵ができる」、「むらさきおんなには相談相手がいない。まだ、友だちがいない」とか。
生きる希望を与えてくれる小説かもしれない。むらさき女と子どもたちの交流から働く喜びが伝わってきます。
「フレッシュフローラルの香り:新鮮なジャスミン、バラ」
「スピード」と「ダーティハリー」、ずいぶん昔の映画です。
コンビニ前の公衆電話も最近は見かけなくなりました。使う人が減ったので撤去されたのでしょう
匂いとか香りにこだわる部分があります。
成長物語のように、むらさきスカート女も彼女の周囲にいた子どもたちも変化していきます。
ホテルの消耗品を盗んで、バザーに出しているのは、むらさき女か。黄色女か。どっちだろう。
(つづく)
いつの時代の話なのだろう。読んでいると、今から20年から25年ぐらい前、ウィンドウズ95が出た頃のような雰囲気です。PHS、つくば科学万博の500円記念硬貨(85年開催)、公衆電話と電話台の棚にタウンページ。
人間のもつ「悪」とか、「恥部」をさらけだしていきます。みんなで利益を分配する。砂糖の山に群がる蟻です。「悪」を隠すために「悪」をかぶせる。犠牲者もまた加害者には違いない。
自分の黒い部分を他人の黒い部分で上塗りして自分の黒い部分を隠して生き残る。
ブラックジョークの面もあります。タブーに対する遠回しな分析と批判と評価があります。
黄色いカーディガンの女は、一連の経過のコーディネーター(企画・立案、実行、調整役)でした。推理小説の面もありました。
結末は読み手に考えさせる内容で終わっています。「悪意」を描いた作品だろうと思った次第です。
(読後)
まちを歩いていて、むらさきのスカートの女性を見かけると、この作品を思い浮かべるようになりました。
近所にむらさきのスカートをいつもはいている女性がいる。まだ、10ページまでしか読んでいませんが、その女性を50代後半と思いながら読んでいます。そのことをひとり語りしている女性が主人公なのですが、ご自分でご自分のことを「黄色いカーディガンの女」とよんでおられます。
むらさきスカートの女は、20年前に両親が離婚して生き別れになった姉に雰囲気が似ている。食べ物への執着心が強い人だった。
黄色いカーディガンの「わたし」は、むらさきスカートの女のストーカーのようです。
カバーの絵が不可解です。白地に黒丸の水玉布(おそらくむらさき色のスカートのつもり)のなかに足が4本あります。2本でないとおかしい。なにか意味がありますが、わかりません。
たった数ページ読んだだけなのに、読みながら、たくさんのことが頭に浮かびました。読み手に空想や記憶回復、想像をかきたてる文脈です。
むらさきおんなが食べるパンは何パンか。アーモンドの飾りがついたクリームパンでした。
「アラカシ:どんぐりの木」
読みながら、80歳を超えた世代の若い頃の記憶が蘇りました。あの頃若かった人たちの大半はもう亡くなっていると思います。なぜかそういうことを考えてしまう文脈です。
「黄色いカーディガンの女」は、うまい書き方です。対比があります。
人々は、むらさきスカート女に対して、①知らんふり②道を空ける③ガッツポーズする④嘆き悲しむという部分もおもしろい。
むらさきのスカート女はマイペースをくずさない。彼女のすばやい動きは、妖怪かスーパーマンです。記述内容は、元フィギャ―スケーター村上佳菜子さんのイメージです。
(つづく)
むらさきのスカート女が、自分が過去に会ったことがあるだれそれに似ているパターンが続きます。①両親離婚によって生き別れになった姉②小学生のときの友だち中国人女性③中学校の同級生ヤンキー女④前に住んでいたところのスーパーのレジ打ち女性。
主人公である「わたし」の頭の中の世界を「むらさき女」ひとりにしぼって、あらゆる方向から視点を当てながら考察していく小説だろうか。
「わたし」は、「むらさき女」と友達になりたい。季節は11月。
「タカオニ:おにごっこ。高いところにいればつかまらない」
「わたし」は、むらさき女を誘導して、彼女をわたしが働いているコンビニに就職させました。
(つづく)
不思議な感覚があります。
過去の自分を記憶でみているのだろうか。本人でないとわからないようなことをむらさきスカートの女に重ねてあります。
むらさきスカートの女は、ホテルの清掃の仕事を始めます。ホテル直轄ではなく、ホテルから委託された業者でしょう。本人の名前や素性、運動能力の良さなどが少し明らかになります。
「ストレスが原因で体が大きくなっていく」の部分は?(クエスチョン 疑問をもちましたがわからずじまい) ストレス解消のための暴飲暴食で太っているようには見えません。
ホテル清掃業の裏話があります。不安です。書いていいのだろうか。
わかりやすい文章で、「空間」を表現してあります。
黄色いカーディガンの「わたし」は幽霊だろうか。
興味をもった文節の要旨として、「新人は、最初の公休日から職場に出て来なくなる」とか「スカート女の鼻をつまんでしまった」、「商店街と公園しか行くところがない」、「各自の時給の高低でもめる」、「女職場ではだれかの噂話ばかり」、「本人の知らないところでさらに多くの敵ができる」、「むらさきおんなには相談相手がいない。まだ、友だちがいない」とか。
生きる希望を与えてくれる小説かもしれない。むらさき女と子どもたちの交流から働く喜びが伝わってきます。
「フレッシュフローラルの香り:新鮮なジャスミン、バラ」
「スピード」と「ダーティハリー」、ずいぶん昔の映画です。
コンビニ前の公衆電話も最近は見かけなくなりました。使う人が減ったので撤去されたのでしょう
匂いとか香りにこだわる部分があります。
成長物語のように、むらさきスカート女も彼女の周囲にいた子どもたちも変化していきます。
ホテルの消耗品を盗んで、バザーに出しているのは、むらさき女か。黄色女か。どっちだろう。
(つづく)
いつの時代の話なのだろう。読んでいると、今から20年から25年ぐらい前、ウィンドウズ95が出た頃のような雰囲気です。PHS、つくば科学万博の500円記念硬貨(85年開催)、公衆電話と電話台の棚にタウンページ。
人間のもつ「悪」とか、「恥部」をさらけだしていきます。みんなで利益を分配する。砂糖の山に群がる蟻です。「悪」を隠すために「悪」をかぶせる。犠牲者もまた加害者には違いない。
自分の黒い部分を他人の黒い部分で上塗りして自分の黒い部分を隠して生き残る。
ブラックジョークの面もあります。タブーに対する遠回しな分析と批判と評価があります。
黄色いカーディガンの女は、一連の経過のコーディネーター(企画・立案、実行、調整役)でした。推理小説の面もありました。
結末は読み手に考えさせる内容で終わっています。「悪意」を描いた作品だろうと思った次第です。
(読後)
まちを歩いていて、むらさきのスカートの女性を見かけると、この作品を思い浮かべるようになりました。
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