2019年06月17日
星の旅人 小前亮
星の旅人 小前亮(こまえ・りょう) 2019課題図書 小峰書店
江戸時代に、日本列島の測量を行った「伊能忠敬(いのう・ただたか)」という人物の伝記です。
わたしは、以前、伊能忠敬は若い頃に日本を巡ったと思っていましたが、50代半ばから全国の測量を始めたと聞いて驚いたことがあります。その当時の人間の寿命は、50代で終わりだったろうと思っていたので、伊能忠敬の体力と精神力に人間の能力を超えたものを感じました。
物語は、1800年6月11日から始まりました。数え56歳の伊能忠敬が全国制覇を目指して江戸を出発します。
桃太郎の始まりのようです。わたしは、伊能忠敬はひとりで全国を回ったものと思っていました。この物語では、本人を含めて合計6人です。次男の伊能秀蔵15歳を含む弟子3人、従者2人、そして伊能忠敬です。架空の連れとして、上林平次(うえばやし・へいじ)12歳ぐらいが入ります。彼の父親上林彦左衛門は幕府の天文方で働く堀田仁助(ほった・にすけ)に同行する測量士で、蝦夷地(えぞち、北海道)で測量業務従事中に事故で消息不明になっています。事故で死んだという話もありますが確かではありません。この物語は、12歳の平次が父親を見つける旅でもあります。
測量、天文の師匠が、「高橋至時(たかはし・よしとき)」さん。
地球が丸いということが日本で判明したのは、明治時代以降だと勘違いしていたことがあります。日本人は、江戸時代には、地球が丸いことを知っていたと本で読みました。この本でも、織田信長がキリスト教宣教師に地球儀をプレゼントされて、地球が丸いことを知っていたと解説があります。日本人の学力もたいしたものだなと思うのです。西洋人に負けていません。
誤解はほかにもあります。わたしは、伊能忠敬は、自分の興味で日本を回って測量をしたと思っていました。「仕事」として回られたのです。仕事なら、できます。毎日、同じようなことを繰り返して報酬をもらって生活していかなければならないのが仕事です。
解説部分の記述で、マゼランの地球一周が、1519年~1522年。地球が丸いことの証明。最初の場所に戻ってくる。
(つづく)
一日十里40km歩く。
この本は、科学の本です。天文学と測量です。また、生き方の選び方の本でもあります。努力、根気、探求心。それでいて、仕事を楽しむという気持ちもあります。
江戸時代の時刻は、まるで「サマータイム制」です。日の長い短いで、夜明けや日暮れの時点が変化します。また、時間の長さが変わります。
天動説、地動説のお話が出ます。最初は、自分たちを中心に考えますが、自分たちは中心ではないと気づきます。自己中心からの脱却がおとなになることのようにも思えます。
江戸時代は、住宅建築のために江戸とその周辺の木がなくなってしまったというのは意外でした。
江戸時代最大の飢饉として、「天明の飢饉1782年~87年。5年間は長い。
伊能忠敬は事業家です。先見の明がありました。自然災害への備えが十分で、見習いたい。
50歳までは家業のことや一族のことを中心に考えて働く生活をして、事業の前線から退いてから自分の好きな学問に専念したところも見習いたい。義務を果たしてから権利を行使する。それから、病弱であったということは意外でした。老齢でも病気でも、日本中を歩くことができた。熱意のたまものでしょう。健康第一、健康管理が徹底していたのでしょう。
1800年7月1日に青森県津軽の最北端に到着しています。
測量は海岸沿いに歩く。
身分を超えた文化人のつきあいがあった。1804年~1830年。身分差別のない平和で豊かな江戸時代です。天明の飢饉のあとに幸福な時が訪れています。苦労があれば、楽もあります。
ねつ造は学問の世界ではやってはいけないこと。されど、たまにやる人が出ます。心してやめましょう。
オランダ国は、いまは身近ではないけれど、江戸時代は身近だった。アンネ・フランクはオランダ育ち。親日家が多い国。あまり多くのことは知りません。
北海道は、ロシア船が多い。もうこの頃から北方領土問題が発生するきざしがあったのでしょう。
1669年、シャクシャインの戦い。アイヌと和人の戦い。
1854年。日米和親条約締結。1855年、日露和親条約。ロシアとの国境制定。
必要性の低い負担となる道具をわざと置き忘れる。(大方位盤)
歩測だけでは、正確な地図は描けないので、天体観測で緯度を確定させる。
飲酒は、禁止でいいと思います。夜飲むと、星の観測ができません。
間宮林蔵21歳が登場しました。樺太を樺太を探検した人という記憶があります。この本では、間宮海峡は冬に凍る。歩いてロシアに渡れると書いてあります。
測量士たちは、何度も同じところを歩いて地図をつくっています。地図は道しるべです。ありがたい。測量士たちは、美しい日本の自然を満喫したに違いありません。日本国内は、歩いて回ることができるということがわかります。
人間は、生きていて、まずは仕事として、コツコツやれば、偉業を成し遂げられることがわかります。知恵と工夫、根気と努力、そして、記録、読み書き計算です。記録を残せないと、偉業も消去されてしまいます。
上林平次の父親上林彦左衛門は事故死してはおらず、遠くロシアの地で生きて働いています。父親は、自らの思いを手紙にしたためて、アイヌに暗号を託します。てんもんかたの人が来たらわたせ。「神の魚より壬(みずのえ)に二里二十町(にりにじゅっちょう)【神の魚から北北西に約十キロメートルという意味】」
神の魚の場所がすぐにはわかりません。
話ははずれますが、書中にロシアのことが多く書かれているので、読みながら「北方領土」のことを考えてしまいました。どっちかのものに決めなければならないのか。共有とか、共存ではだめなのか。とかく、陣地取りは、人間界ではもめる元なのですが。
「神の魚」とは、「シャケ」のこと。アイヌ語で、「神」は「カムイ」、魚は「チェプ」、カムイチェプが「シャケ」、厚岸湾に(あっけしわん)、ピラッカムイというでかい魚が出た。ピラッカムイは、伝説の魚でやがて崖になった。バラサン岬と呼ぶ。
シーボルトのことが書いてあります。長崎オランダ商館の医師でした。
いい仕事をして、実績を残すには、「手間を惜しんではいけない」と学びました。めんどくさいはだめなんです。
半世紀ぐらい前は、サラリーマンの役職者の定年は55歳でした。その頃は、60代で亡くなる人も多くて、60代ぐらいで、もう人生は終わり、静かに死ぬのを待つだけみたいな雰囲気がありました。その頃の孫は、祖父母に長生きしてねと言ったものでした。今では、みんな長生きになったので、孫のその言葉はあまり聞かなくなりました。伊能忠敬の本業リタイア後の日本全国測量という偉業をみると、定年後に違う分野で活躍できるという勇気をもらえます。書中にあるように、多くの人たちに希望を与えてくれるでしょう。
調べた言葉などとして、「数え年:年齢計算をするときに、生まれた時が1歳から始める。以降、正月を迎えるたびに1歳プラスする。昔の日本の年齢のカウントのしかた」、「人事をつくす:人としてできる限りのことを実行する」、「肺病:肺結核」、「如才のない(じょさいのない):あいそがいい。形式だけのものではない」、「入り鉄砲に出女(いりでっぽうにでおんな):江戸街道関所における規制。江戸への鉄砲、江戸から地方への人質としての大名の家族関係者である妻女の転出」、「梵天持ち:ぼんてんもち。(説明記述あり。280ページに絵あり)棒の先に何枚もの細長い紙をつるした器具。測量の目印にする」、「羅針盤:らしんばん。方位磁石」、「(書中にあり)GPSグローバル・ポジショニング・システム、全地球測位システム。複数の人工衛星から出る電波の時間から距離を測り位置を測定する」
気に入った言葉などとして、「値(あたい)。あと、緯度とか経度とか」、「(忠敬の昔の名前で三治郎は)よく勉強しました」、「蝦夷地の測量は自然との戦い。ただし、勝ち負けを競うのではなく、自然を受け入れる度量が必要になる。厳しいのは、湿地」、「測量は誤差との戦い。伊能隊は特別な測量はしていない。ていねいな測量を地道に続けた」
江戸時代に、日本列島の測量を行った「伊能忠敬(いのう・ただたか)」という人物の伝記です。
わたしは、以前、伊能忠敬は若い頃に日本を巡ったと思っていましたが、50代半ばから全国の測量を始めたと聞いて驚いたことがあります。その当時の人間の寿命は、50代で終わりだったろうと思っていたので、伊能忠敬の体力と精神力に人間の能力を超えたものを感じました。
物語は、1800年6月11日から始まりました。数え56歳の伊能忠敬が全国制覇を目指して江戸を出発します。
桃太郎の始まりのようです。わたしは、伊能忠敬はひとりで全国を回ったものと思っていました。この物語では、本人を含めて合計6人です。次男の伊能秀蔵15歳を含む弟子3人、従者2人、そして伊能忠敬です。架空の連れとして、上林平次(うえばやし・へいじ)12歳ぐらいが入ります。彼の父親上林彦左衛門は幕府の天文方で働く堀田仁助(ほった・にすけ)に同行する測量士で、蝦夷地(えぞち、北海道)で測量業務従事中に事故で消息不明になっています。事故で死んだという話もありますが確かではありません。この物語は、12歳の平次が父親を見つける旅でもあります。
測量、天文の師匠が、「高橋至時(たかはし・よしとき)」さん。
地球が丸いということが日本で判明したのは、明治時代以降だと勘違いしていたことがあります。日本人は、江戸時代には、地球が丸いことを知っていたと本で読みました。この本でも、織田信長がキリスト教宣教師に地球儀をプレゼントされて、地球が丸いことを知っていたと解説があります。日本人の学力もたいしたものだなと思うのです。西洋人に負けていません。
誤解はほかにもあります。わたしは、伊能忠敬は、自分の興味で日本を回って測量をしたと思っていました。「仕事」として回られたのです。仕事なら、できます。毎日、同じようなことを繰り返して報酬をもらって生活していかなければならないのが仕事です。
解説部分の記述で、マゼランの地球一周が、1519年~1522年。地球が丸いことの証明。最初の場所に戻ってくる。
(つづく)
一日十里40km歩く。
この本は、科学の本です。天文学と測量です。また、生き方の選び方の本でもあります。努力、根気、探求心。それでいて、仕事を楽しむという気持ちもあります。
江戸時代の時刻は、まるで「サマータイム制」です。日の長い短いで、夜明けや日暮れの時点が変化します。また、時間の長さが変わります。
天動説、地動説のお話が出ます。最初は、自分たちを中心に考えますが、自分たちは中心ではないと気づきます。自己中心からの脱却がおとなになることのようにも思えます。
江戸時代は、住宅建築のために江戸とその周辺の木がなくなってしまったというのは意外でした。
江戸時代最大の飢饉として、「天明の飢饉1782年~87年。5年間は長い。
伊能忠敬は事業家です。先見の明がありました。自然災害への備えが十分で、見習いたい。
50歳までは家業のことや一族のことを中心に考えて働く生活をして、事業の前線から退いてから自分の好きな学問に専念したところも見習いたい。義務を果たしてから権利を行使する。それから、病弱であったということは意外でした。老齢でも病気でも、日本中を歩くことができた。熱意のたまものでしょう。健康第一、健康管理が徹底していたのでしょう。
1800年7月1日に青森県津軽の最北端に到着しています。
測量は海岸沿いに歩く。
身分を超えた文化人のつきあいがあった。1804年~1830年。身分差別のない平和で豊かな江戸時代です。天明の飢饉のあとに幸福な時が訪れています。苦労があれば、楽もあります。
ねつ造は学問の世界ではやってはいけないこと。されど、たまにやる人が出ます。心してやめましょう。
オランダ国は、いまは身近ではないけれど、江戸時代は身近だった。アンネ・フランクはオランダ育ち。親日家が多い国。あまり多くのことは知りません。
北海道は、ロシア船が多い。もうこの頃から北方領土問題が発生するきざしがあったのでしょう。
1669年、シャクシャインの戦い。アイヌと和人の戦い。
1854年。日米和親条約締結。1855年、日露和親条約。ロシアとの国境制定。
必要性の低い負担となる道具をわざと置き忘れる。(大方位盤)
歩測だけでは、正確な地図は描けないので、天体観測で緯度を確定させる。
飲酒は、禁止でいいと思います。夜飲むと、星の観測ができません。
間宮林蔵21歳が登場しました。樺太を樺太を探検した人という記憶があります。この本では、間宮海峡は冬に凍る。歩いてロシアに渡れると書いてあります。
測量士たちは、何度も同じところを歩いて地図をつくっています。地図は道しるべです。ありがたい。測量士たちは、美しい日本の自然を満喫したに違いありません。日本国内は、歩いて回ることができるということがわかります。
人間は、生きていて、まずは仕事として、コツコツやれば、偉業を成し遂げられることがわかります。知恵と工夫、根気と努力、そして、記録、読み書き計算です。記録を残せないと、偉業も消去されてしまいます。
上林平次の父親上林彦左衛門は事故死してはおらず、遠くロシアの地で生きて働いています。父親は、自らの思いを手紙にしたためて、アイヌに暗号を託します。てんもんかたの人が来たらわたせ。「神の魚より壬(みずのえ)に二里二十町(にりにじゅっちょう)【神の魚から北北西に約十キロメートルという意味】」
神の魚の場所がすぐにはわかりません。
話ははずれますが、書中にロシアのことが多く書かれているので、読みながら「北方領土」のことを考えてしまいました。どっちかのものに決めなければならないのか。共有とか、共存ではだめなのか。とかく、陣地取りは、人間界ではもめる元なのですが。
「神の魚」とは、「シャケ」のこと。アイヌ語で、「神」は「カムイ」、魚は「チェプ」、カムイチェプが「シャケ」、厚岸湾に(あっけしわん)、ピラッカムイというでかい魚が出た。ピラッカムイは、伝説の魚でやがて崖になった。バラサン岬と呼ぶ。
シーボルトのことが書いてあります。長崎オランダ商館の医師でした。
いい仕事をして、実績を残すには、「手間を惜しんではいけない」と学びました。めんどくさいはだめなんです。
半世紀ぐらい前は、サラリーマンの役職者の定年は55歳でした。その頃は、60代で亡くなる人も多くて、60代ぐらいで、もう人生は終わり、静かに死ぬのを待つだけみたいな雰囲気がありました。その頃の孫は、祖父母に長生きしてねと言ったものでした。今では、みんな長生きになったので、孫のその言葉はあまり聞かなくなりました。伊能忠敬の本業リタイア後の日本全国測量という偉業をみると、定年後に違う分野で活躍できるという勇気をもらえます。書中にあるように、多くの人たちに希望を与えてくれるでしょう。
調べた言葉などとして、「数え年:年齢計算をするときに、生まれた時が1歳から始める。以降、正月を迎えるたびに1歳プラスする。昔の日本の年齢のカウントのしかた」、「人事をつくす:人としてできる限りのことを実行する」、「肺病:肺結核」、「如才のない(じょさいのない):あいそがいい。形式だけのものではない」、「入り鉄砲に出女(いりでっぽうにでおんな):江戸街道関所における規制。江戸への鉄砲、江戸から地方への人質としての大名の家族関係者である妻女の転出」、「梵天持ち:ぼんてんもち。(説明記述あり。280ページに絵あり)棒の先に何枚もの細長い紙をつるした器具。測量の目印にする」、「羅針盤:らしんばん。方位磁石」、「(書中にあり)GPSグローバル・ポジショニング・システム、全地球測位システム。複数の人工衛星から出る電波の時間から距離を測り位置を測定する」
気に入った言葉などとして、「値(あたい)。あと、緯度とか経度とか」、「(忠敬の昔の名前で三治郎は)よく勉強しました」、「蝦夷地の測量は自然との戦い。ただし、勝ち負けを競うのではなく、自然を受け入れる度量が必要になる。厳しいのは、湿地」、「測量は誤差との戦い。伊能隊は特別な測量はしていない。ていねいな測量を地道に続けた」
この記事へのトラックバックURL
http://kumataro.mediacat-blog.jp/t135018
※このエントリーではブログ管理者の設定により、ブログ管理者に承認されるまでコメントは反映されません