2017年01月12日
i アイ 西加奈子
i アイ 西加奈子 ポプラ社
「i アイ」とは、主人公「ワイルド曽田(そだ)アイ、高校1年生女子」を指します。もうひとつiとは、数学における数値を表します。「この世界にアイは存在しません」という文節が、呪文のように繰り返されます。「二乗してマイナス1になる、そのような数はこの世に存在しない」のです。「i×i=-1」は存在しない。そのiにワイルド曽田アイの存在が重ねてあります。彼女はシリア人だと思われます。アメリカ人男性と日本人女性の養子という位置づけです。血縁関係のあるファミリーツリー(系図)のなかで異色を放っています。本人も自覚して気にしています。
直木賞受賞作「サラバ!」と類似作品です。登場人物たちは裕福な人たちであり、スタイルも抜群です。
56ページまで読みましたので、少しずつ、感想を継ぎ足していきます。
国際的でダイナミックな書きだしです。迫力があります。
アイは悩んでいます。本来シリア国で不幸な暮らしをしていなければならないのに養子としてお金持ちにもらわれて裕福な生活をしている自分に自己嫌悪らしき意識をもっています。彼女の心はみかけによらず繊細です。読みはじめから数十ページは読むのが苦しい。潜在的に、「本当の両親を知りたい」気持ちがあるとわたしは察します。「この世界にアイは存在しません」は、おまじないです。彼女の気持ちを救ってくれます。彼女の本質は養子と言う存在のアイではない、生まれながらにある本来の彼女の定義があるはずなのです。
わからなかった単語などです。「ナーバス:神経質なさま」、「咎められて:とがめられて。漢字を読めませんでした。」、「咄嗟:とっさ。漢字を読めませんでした。」
アイは「数学」が好きで没頭していきます。
背景に時代が流れていきます。今、本の中では、世はアテネオリンピックが開催されています。2004年8月です。
(つづく)
話は大きい。背景にテロ、大地震、内戦などの大事件・大災害・大事故などが流れていきますが、そのなかで、主人公のアイは死者の数を積算していきます。
話は大きいけれど、骨格はシンプルです。アイの存在を考える小説です。先日読んだアドラーの哲学を思い出しました。
アイという人間が、この世に存在していていいのか、そうでないのか。存在を許可するのは、アイ自身なのか、それともアイの近くにいる人間なのか。アドラーの個人心理学です。
独特なのは、通常の小説では、貧しき人が主人公になり、そこが悩みの種として物語が進行していくのですが、この作者さんの場合は、富裕層の人物が主人公になり、自分がこんないい思いをしていいのかと悩みます。「恵まれた人間」であることにおおいに悩むのです。裕福な家庭に養子として迎えられて経済的になに不自由なく成長しているアイは、本来、自分は、ここに、いてはいけない人間ではないかと悩むのです。だから、「この世界にアイは存在しません。」という数学の定理が常に彼女の心のなかで響いているのです。「iは想像上の数」なのです。imaginary number。アイは、どうして自分が不幸にならないのかと悩みます。
あともうひとつこの作者さんの独特さは、どうしても同性愛のお話が出てくるところでしょう。LGなんとかです。LGBT
日本人と外国人の比較があります。血のつながりに固執するのが日本人です。
(つづく)
読み終えました。好みの分かれるところです。正直、わたしには合わない作品でした。
社会へのメッセージ性が高い作品です。シリアの難民問題とか、原子力発電所稼働開始反対運動とか、性同一障害者の人権問題とかです。そこに、人間としての「存在の確認」を置いて、物語を立ち上げてあります。
サラバ!のときのような自由奔放な外への広がりがみられなくなっています。伸びやかさが失われて理屈っぽい。
文章から顔をそむけたくなるところもありました。そちら側の意見ではない意見をもった人間もたくさんいます。いや、大部分かもしれない。自分たちの命が脅かされれば、戦って勝利をめざすべきです。だれも、守ってくれません。また、経済活動の安定を願うならリスクをかかえることもあります。メリットとデメリットは背中合わせで一体のものです。そして、流産という悲しみに耐えて克服するのが人間です。親の慰めのために生まれてくる子どもに負担を負わせたくない愛情もあります。じぶんのために生まれてくる子どもを犠牲者にしないでほしい。
世代の差を感じました。あまりに繊細で弱い。
事件の時系列的記述は安易ではなかろうか。
また、お叱りを受けるかもしれない。
「i アイ」とは、主人公「ワイルド曽田(そだ)アイ、高校1年生女子」を指します。もうひとつiとは、数学における数値を表します。「この世界にアイは存在しません」という文節が、呪文のように繰り返されます。「二乗してマイナス1になる、そのような数はこの世に存在しない」のです。「i×i=-1」は存在しない。そのiにワイルド曽田アイの存在が重ねてあります。彼女はシリア人だと思われます。アメリカ人男性と日本人女性の養子という位置づけです。血縁関係のあるファミリーツリー(系図)のなかで異色を放っています。本人も自覚して気にしています。
直木賞受賞作「サラバ!」と類似作品です。登場人物たちは裕福な人たちであり、スタイルも抜群です。
56ページまで読みましたので、少しずつ、感想を継ぎ足していきます。
国際的でダイナミックな書きだしです。迫力があります。
アイは悩んでいます。本来シリア国で不幸な暮らしをしていなければならないのに養子としてお金持ちにもらわれて裕福な生活をしている自分に自己嫌悪らしき意識をもっています。彼女の心はみかけによらず繊細です。読みはじめから数十ページは読むのが苦しい。潜在的に、「本当の両親を知りたい」気持ちがあるとわたしは察します。「この世界にアイは存在しません」は、おまじないです。彼女の気持ちを救ってくれます。彼女の本質は養子と言う存在のアイではない、生まれながらにある本来の彼女の定義があるはずなのです。
わからなかった単語などです。「ナーバス:神経質なさま」、「咎められて:とがめられて。漢字を読めませんでした。」、「咄嗟:とっさ。漢字を読めませんでした。」
アイは「数学」が好きで没頭していきます。
背景に時代が流れていきます。今、本の中では、世はアテネオリンピックが開催されています。2004年8月です。
(つづく)
話は大きい。背景にテロ、大地震、内戦などの大事件・大災害・大事故などが流れていきますが、そのなかで、主人公のアイは死者の数を積算していきます。
話は大きいけれど、骨格はシンプルです。アイの存在を考える小説です。先日読んだアドラーの哲学を思い出しました。
アイという人間が、この世に存在していていいのか、そうでないのか。存在を許可するのは、アイ自身なのか、それともアイの近くにいる人間なのか。アドラーの個人心理学です。
独特なのは、通常の小説では、貧しき人が主人公になり、そこが悩みの種として物語が進行していくのですが、この作者さんの場合は、富裕層の人物が主人公になり、自分がこんないい思いをしていいのかと悩みます。「恵まれた人間」であることにおおいに悩むのです。裕福な家庭に養子として迎えられて経済的になに不自由なく成長しているアイは、本来、自分は、ここに、いてはいけない人間ではないかと悩むのです。だから、「この世界にアイは存在しません。」という数学の定理が常に彼女の心のなかで響いているのです。「iは想像上の数」なのです。imaginary number。アイは、どうして自分が不幸にならないのかと悩みます。
あともうひとつこの作者さんの独特さは、どうしても同性愛のお話が出てくるところでしょう。LGなんとかです。LGBT
日本人と外国人の比較があります。血のつながりに固執するのが日本人です。
(つづく)
読み終えました。好みの分かれるところです。正直、わたしには合わない作品でした。
社会へのメッセージ性が高い作品です。シリアの難民問題とか、原子力発電所稼働開始反対運動とか、性同一障害者の人権問題とかです。そこに、人間としての「存在の確認」を置いて、物語を立ち上げてあります。
サラバ!のときのような自由奔放な外への広がりがみられなくなっています。伸びやかさが失われて理屈っぽい。
文章から顔をそむけたくなるところもありました。そちら側の意見ではない意見をもった人間もたくさんいます。いや、大部分かもしれない。自分たちの命が脅かされれば、戦って勝利をめざすべきです。だれも、守ってくれません。また、経済活動の安定を願うならリスクをかかえることもあります。メリットとデメリットは背中合わせで一体のものです。そして、流産という悲しみに耐えて克服するのが人間です。親の慰めのために生まれてくる子どもに負担を負わせたくない愛情もあります。じぶんのために生まれてくる子どもを犠牲者にしないでほしい。
世代の差を感じました。あまりに繊細で弱い。
事件の時系列的記述は安易ではなかろうか。
また、お叱りを受けるかもしれない。
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