2016年11月08日

どうせ死ぬのになぜ生きるのか 名越康文

どうせ死ぬのになぜ生きるのか 名越康文 PHP新書

 講演会用の下地本だろうかと思いつつ手に取って読み始めました。(連載をまとめたものでした)。
「人はなぜ生きるのか」、考えても答えのないこと、仕方ないこと、考え出すと精神病になるんじゃないかということがらがテーマです。本のなかではパンドラの箱(災いの詰まった箱。ギリシャ神話)を開けるようなこと表現されています。
 仏教の教えでそんな悩みごとを解決するようです。まだ読みはじめたばかりなので、少しずつ感想を足していきます。
 「アイロンかけの行(ぎょう。修行でしょう)」がおもしろそう。「無常」は、「無情」ではなく、この世ははかないという意味
わからなかった単語として、「サンスクリット語:紀元前4・5世紀のインド系に言語」、「方便:ほうべん。便宜的な手段ですが、本書では、実践です」、「アバンギャルド:新しいことを産みだすための芸術運動」、「審美眼:しんびがん。見極める力」

説得力ある趣旨として、「人は悩む。不安をもつ」、「人は必ず死ぬ」、「言葉には限界がある」、「怒りは心にダメージを与える(怒り静めるためにメガネをふくとかアイロンかけをする。わたしも以前はアイロンかけがストレス解消につながっていました。何もかもを忘れて、ひとつの行為に没頭できます」、「静かな心を維持することはむずかしい」、「退屈は死につながる」

 10歳のときに邦画を観て、「なぜ生きるか」の壁にぶつかり、48歳で再びそれと向き合う。
医者として、いつかは、必ず死ぬ人間を治療することに悩む。救いは仏教の「瞑想(めいそう。目を閉じて、心を静め無心になる)」

(つづく)

 内容を自分なりにかみくだきながら理解していきます。「瞑想(めいそう)」→「暗示」→「演技」なのかと思います。
 「怒り」を抑える。怒りを含む広範囲の気持ちの動きが「瞋(しん)」、それに連なるのが、「貪:とん。貪欲どんよく」、「痴:ち。無智(智恵がない)。無知は知識がない」、
 瞑想は、ひとーつ、ふたーつと九まで数えてひとーつに戻る。15分ぐらい繰り返す。お香は、仏さまの息である。

 本書では仏教の良いところが紹介されます。自分も40代の悩み多き頃、主に奈良のお寺へお参りに行くことが多かった。精神的に助けられたことも多々あった。信仰心が強かった亡き祖母の影響も大きかった。ところが、その後、寺社参りは行かなくなりました。一度、他人が不幸になることを祈願したら、ひどいしっぺ返しを受けたからです。仏さまが怖くなりました。

 現実的な話題として、寺院数は減少している気がするのですが調べてみましたが、よくわかりません。本書はお寺さんのPR本のような位置づけです。

 後半にある仏教理論は、わたしには理解できませんでした。「共に戯れる」という趣旨は理解できました。子育ての基本です。

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