2016年06月17日
木の好きなケイトさん 2016課題図書
木の好きなケイトさん H・Jホプキンス 2016課題図書
砂漠の緑化に人生を捧げたアメリカ女性のお話です。
「ケイト」さんの正式なお名前は、キャサリン・オリヴィア・セションズです。アメリカ合衆国北カリフォルニアの森で育ちました。1883年にサンディエゴで暮らし始め、やがて、砂漠であった同地の都市緑化に取り組み、同地を緑いっぱいの美しい町に育てて、1940年に82歳で亡くなりました。
何度か繰り返し読んで、思ったことがいくつかあります。
ひとつめです。
子どもの頃に自分のまわりにあった環境が、将来のことを決定していく。
ケイトが生まれたとき、彼女のそばには、北カリフォルニアの豊かな自然がありました。しかし、本を読むと、その後、教師として就職して暮らすようになったサンディエゴはカリフォルニア州の南端、メキシコとの国境の町で、砂漠地帯だったため、景色は砂漠でした。
子どもの頃からの生活で、「木」が好きになった。サンディエゴにも木や森をつくる。動機は単純です。好きだからやるのです。好きだから、好きが夢になります。好きなことを継続して極めていくことが人生のあるべき姿です。
ふたつめです。
男尊女卑(だんそんじょひ)という言葉があります。女子よりも男子が上という考え方です。だから、それほど昔ではなく、女子には選挙権がありませんでした。女性は男性の世話をしていればいいという考えがまかりとおっていました。世界にはまだ、そういう国はあります。
ケイトが子ども時代をすごした1860年代は、女子は教育を受ける必要はないとされていた時代でしたと本にあります。女子は結婚してこどもを生んで、旦那さんとこどもと年寄りの世話をしていればいいのです。余計なことに口出ししなくていいのです。男性による男性のための人間社会でした。
でも、ケイトは、好きな科学の勉強を続けました。雨、風、天気、人間、動物の体のしくみ、木や草花についての授業を熱心に聴きました。
1881年、ケイトは科学者になるためにカリフォルニア大学を卒業した女性の第1号になりました。
みっつめです。
ケイトは、サンディエゴを緑の町にするために、教師という安定した職業を手放しました。凡人にはなかなかできることではありません。凡人はどうしても、生活の糧(かて、給料)を得ることを最優先にします。
サンディエゴの町の公園は、牛に草を食べさせたり、ゴミ捨て場になっていたりして、人々は「あんなところに木なんか育つはずがない」と思いこんでいました。
でも、ケイトは、「木は育つ」と強い自信と信念をもっていました。そうやってやがて偉人となる人は、凡人とは考え方からして違うのです。
ケイトは、教師から園芸家に転身しました。
日ざしの強い、かわいた土地で生きられる木をさがす。途中のページに、「ユッカ」から始まって、「リュウケツジュ」で終わる16種類の木の絵があります。地球上にはいろいろな気候の地域があります。そして、樹木の生命力は強い。きっと世界のどこかに砂漠でも育つ樹木があるはずです。ケイトはそう考えたに違いありません。それらの種類の絵をながめていたら、人間の性格の種類もこんなふうだろうと思いつきました。
ケイトは、研究調査活動が、きっと楽しかったと思う。暑さや乾燥に強い樹木を探す経過のなかに、世界中の人たちとの交流があったことでしょう。現地調査も胸わくわくだったことでしょう。見つけた種類として、「ニレ」、「カシ」、「ユーカリ(たしかコアラのえさ)、「ヤシ」が書いてあります。
1909年「パナマ-カリフォルニア博覧会」が6年後に開催されることが決まりました。
博覧会の場所は、かつて、ケイトが学校の窓から眺めながら緑化できないかと考えた場所で、「バルボア公園」という名前でした。
たくさんの木を植えるには、ケイトひとりでは無理です。たくさんの人たちの協力がいります。たくさんのひとたちの協力でできあがった博覧会にはたくさんのひとたちの愛着がつまっています。博覧会が成功してあたりまえです。人は人を呼んで見学者の延べ数は増えます。
人は、寿命を終えて死ぬまでに、この世になにかを残していきたいと思うものです。それは、子孫(こどもたち)であったり、作品であったりします。ケイトさんの場合は、愛した樹木が生い茂る市民に愛される公園でした。まだ見ぬだれかのために役立つことをしようと考える人生を送れば、しあわせは、自分にもめぐってきます。
絵の色調はシック(上品で洗練されている)です。外国風ですが、アメリカ風というよりもヨーロッパ風です。「森」というとヨーロッパを思い浮かべます。
砂漠の緑化に人生を捧げたアメリカ女性のお話です。
「ケイト」さんの正式なお名前は、キャサリン・オリヴィア・セションズです。アメリカ合衆国北カリフォルニアの森で育ちました。1883年にサンディエゴで暮らし始め、やがて、砂漠であった同地の都市緑化に取り組み、同地を緑いっぱいの美しい町に育てて、1940年に82歳で亡くなりました。
何度か繰り返し読んで、思ったことがいくつかあります。
ひとつめです。
子どもの頃に自分のまわりにあった環境が、将来のことを決定していく。
ケイトが生まれたとき、彼女のそばには、北カリフォルニアの豊かな自然がありました。しかし、本を読むと、その後、教師として就職して暮らすようになったサンディエゴはカリフォルニア州の南端、メキシコとの国境の町で、砂漠地帯だったため、景色は砂漠でした。
子どもの頃からの生活で、「木」が好きになった。サンディエゴにも木や森をつくる。動機は単純です。好きだからやるのです。好きだから、好きが夢になります。好きなことを継続して極めていくことが人生のあるべき姿です。
ふたつめです。
男尊女卑(だんそんじょひ)という言葉があります。女子よりも男子が上という考え方です。だから、それほど昔ではなく、女子には選挙権がありませんでした。女性は男性の世話をしていればいいという考えがまかりとおっていました。世界にはまだ、そういう国はあります。
ケイトが子ども時代をすごした1860年代は、女子は教育を受ける必要はないとされていた時代でしたと本にあります。女子は結婚してこどもを生んで、旦那さんとこどもと年寄りの世話をしていればいいのです。余計なことに口出ししなくていいのです。男性による男性のための人間社会でした。
でも、ケイトは、好きな科学の勉強を続けました。雨、風、天気、人間、動物の体のしくみ、木や草花についての授業を熱心に聴きました。
1881年、ケイトは科学者になるためにカリフォルニア大学を卒業した女性の第1号になりました。
みっつめです。
ケイトは、サンディエゴを緑の町にするために、教師という安定した職業を手放しました。凡人にはなかなかできることではありません。凡人はどうしても、生活の糧(かて、給料)を得ることを最優先にします。
サンディエゴの町の公園は、牛に草を食べさせたり、ゴミ捨て場になっていたりして、人々は「あんなところに木なんか育つはずがない」と思いこんでいました。
でも、ケイトは、「木は育つ」と強い自信と信念をもっていました。そうやってやがて偉人となる人は、凡人とは考え方からして違うのです。
ケイトは、教師から園芸家に転身しました。
日ざしの強い、かわいた土地で生きられる木をさがす。途中のページに、「ユッカ」から始まって、「リュウケツジュ」で終わる16種類の木の絵があります。地球上にはいろいろな気候の地域があります。そして、樹木の生命力は強い。きっと世界のどこかに砂漠でも育つ樹木があるはずです。ケイトはそう考えたに違いありません。それらの種類の絵をながめていたら、人間の性格の種類もこんなふうだろうと思いつきました。
ケイトは、研究調査活動が、きっと楽しかったと思う。暑さや乾燥に強い樹木を探す経過のなかに、世界中の人たちとの交流があったことでしょう。現地調査も胸わくわくだったことでしょう。見つけた種類として、「ニレ」、「カシ」、「ユーカリ(たしかコアラのえさ)、「ヤシ」が書いてあります。
1909年「パナマ-カリフォルニア博覧会」が6年後に開催されることが決まりました。
博覧会の場所は、かつて、ケイトが学校の窓から眺めながら緑化できないかと考えた場所で、「バルボア公園」という名前でした。
たくさんの木を植えるには、ケイトひとりでは無理です。たくさんの人たちの協力がいります。たくさんのひとたちの協力でできあがった博覧会にはたくさんのひとたちの愛着がつまっています。博覧会が成功してあたりまえです。人は人を呼んで見学者の延べ数は増えます。
人は、寿命を終えて死ぬまでに、この世になにかを残していきたいと思うものです。それは、子孫(こどもたち)であったり、作品であったりします。ケイトさんの場合は、愛した樹木が生い茂る市民に愛される公園でした。まだ見ぬだれかのために役立つことをしようと考える人生を送れば、しあわせは、自分にもめぐってきます。
絵の色調はシック(上品で洗練されている)です。外国風ですが、アメリカ風というよりもヨーロッパ風です。「森」というとヨーロッパを思い浮かべます。
この記事へのトラックバックURL
http://kumataro.mediacat-blog.jp/t116953
※このエントリーではブログ管理者の設定により、ブログ管理者に承認されるまでコメントは反映されません