2015年09月15日

ファイトクラブ 洋画 DVD

ファイトクラブ 洋画 DVD

 なんともよくわからない映画でした。タイトルは聞いたことがあるので、それなりにヒットはしたのでしょう。1999年の映画です。映画とはなにかという問いかけがあるとすれば、これが映画です。夜、眠っているときにみる「夢」の動画化が映画です。

 不眠症の青年がいる。彼の前にブラッド・ピットが現れる。ふたりは、航空機の中で出会うのですが、観ていたわたしは、ふたりは同一人物だと感じました。そう感じた人がほかにもいたのではないでしょうか。しばらくして、別人だと理解するのですが、最後付近でやっぱり同一人物だということが判明するのです。幻(まぼろし)です。もうひとりの自分、とても凶暴な自分が、自分の脳に内在しているのです。

 観る前は、ボクシングとかレスリング、プロレスで、更生していく人たちのドラマかと思いました。違っていました。社会の底辺で働く人たち、特段の知識・技能・学歴がなくてもできる仕事をしている人たち。サラリーマンだけれど、組織で重要視されていない社員たち、そういった人たちがうさばらしで、酒場の地下室において、1対1の殴り合いを始めます。それが、ファイトクラブです。
 幻覚・幻聴をもつ主人公がリーダーです。リーダーは気弱で平凡なサラリーマンですが、彼が造り出したもうひとりの彼(タイラー)は攻撃的です。タイラーは、ファイトクラブを爆弾犯罪組織につくりあげていきます。

 主人公は不道徳なファイトクラブの活動を阻止しようと自分がつくりだした幻影に戦いをいどみますが、彼が言います。主人公がつくりだした幻影だから、ピストルの弾では死なない。弾(たま)は幻影の体をすりぬける。つくりだした主人公自身が死なないと幻影の自分は消滅しない。主人公はピストルを口に入れて撃ちます。だけど、彼は死なないのです。死ねない。人間がもつ暗い部分である「殺意」は、人類が絶えるまで消えないという意味にしかとれませんでした。
 それは、前半部分にある癌闘病者たちの語りの会に参加するがん患者ではない主人公と女子観光気分の見学者マーラーの意識にも通じます。他人の不幸が嬉しい。

 格言のような言葉がしばしば出てきます。
 1回きりの何々という表現のしかたで、使い捨て人生を表しています。その時だけという表現もされます。
 われらは、母子家庭世代。父親を知らない。
 持っている「物」が自分を束縛する。だから、物をもたない。
 コントロールすることをやめて、流れにまかせてみろ。
 どん底の生活に落ちてそれを味わってみろ。 

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