2015年07月15日

若冲(じゃくちゅう) 澤田瞳子

若冲(じゃくちゅう、江戸時代中期の絵師) 澤田瞳子(さわだとうこ) 文藝春秋

 短編8本です。1本目を読んだところで、感想を書き始めます。「若冲」は、京都、錦高倉市場青物問屋「升源」店主源左衛門の居士号(こじごう、お坊さんに命名してもらった。)です。
「鳴鶴(めいかく、2匹の鶴の絵。)」
 力強い夫婦の鶴を描いた絵と短編の後半にあります。趣旨は、若冲夫婦のはかなさの反対という意味と、若冲の妹と若冲の亡き妻の弟弁蔵との祝言を祝福するものですが、ふたりが夫婦になったかどうかまでは記されていません。錦市場とか、相国寺とか、観光で訪れたことがある地名が登場します。親しみを感じます。作品では、姑の嫁いびり、両家の対立、商家に長兄として生まれたけれど商才なく画才あり、きゅうくつで不自由な京の商家のしきたりしばりなどが紹介され、若冲の描く絵は、暗くて、滅びゆくことを示唆しているのだけれど、希望を目指す1枚があるという内容でした。絵に込められた情念を読み取ることがこの短編作品群における作業です。夫婦は別々に過ごすものではない。本日読み終えた直木賞候補作「永い言い訳」も同様のテーマの作品でした。
「芭蕉の夢」
 芭蕉は松尾芭蕉ではなく、植物の芭蕉です。前作に続いて、親族間の対立が描かれています。公家の兄と弟です。若冲の名前は、源左衛門から茂右衛門に変わり隠居しています。店の跡取りは弟です。兄と弟の対立に、若冲をうらむ亡妻の弟弁蔵(今の名を市川君圭)が重なります。若冲は言います。お金のために絵を描くのではない。亡き妻への謝罪の意味で絵を描く。(この一行はわたしの想像です。)亭主であった自分が妻を自死に追い込んだ償いです。昔教科書で習った与謝蕪村(よさぶそん)という人の絵が出てきますが、どんな人なのかわかりません。短編のせいなのか、読者に迫ってくる物語がもつ意思が、弱いような気がします。
「栗ふたつ」
 文章が若冲の絵と同様に濃厚です。読むのに時間がかかります。文脈のリズムのとりかたとも合わせて、好みがわかれる文章運びです。絵画を離れて、お金持ちの家の親族の身の振り方のお話です。旦那が病死すれば、嫁はその「家」を出ていく。お妾さんの娘もしかり。古い日本の暮らし方です。だれが、権力を握っているか。兄弟喧嘩があります。身内同士の争いは荒れる。そんななか、若冲は、自殺した自分の妻に思いを寄せる。妻の弟弁蔵は若冲に憎悪を募らせる。
「つくも神」
 ここまで読んだ短編のなかでは、これが一番の作品です。巧妙な策略が潜んでいました。「商いとは信用があって初めて成り立つものだ。」の表現がまず頭に残りました。中井清太夫(せいだゆう)という役人の個性がいい。
「雨月」
 始まり付近にあるように「血のつながった親子でも、お互いを完全に理解することは不可能」とあるように、妻をいじめた自分の母を許さない若冲の厳しい憎悪が絵に現れています。若冲はこの短編で64才に達しています。永い月日が流れました。妻が自殺してから三十三回忌です。それでも母は妻を許さない。許容がなければ平和は永遠に訪れない。この短編まで読んできて、なにかしら変な感じが続いてきたのは、登場人物すべての学力レベルが同一であることに気づきました。
「まだら蓮」「鳥獣楽土」「日隠れ」
 京都の五条北団栗辻子界隈が火災に見舞われるのが「まだら蓮」です。若冲は73才でした。
 全体を読み終えてみての感想です。若冲と彼の自殺した妻の弟市川君圭(弁蔵)との長年の対立が書いてある小説です。君圭は若冲の絵の模写をしながら、若冲へ仕返しをしていく。「日隠れ」では、若冲はすでに亡くなっていて49日の法要シーンです。
 長すぎた。ゆっくり読む時間が足りない会社人間です。後半はとくに流し読みでした。最終的には、若冲と弁蔵のふたりの気持ちがひとつになった屏風絵が完成するという結末でした。


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