2015年07月04日
ナイルパーチの女子会 柚木麻子
ナイルパーチの女子会 柚木麻子(ゆずき・あさこ) 文藝春秋
カバーにアクアトト岐阜(淡水魚水族館)にいるナイルパーチという、人間にとっては、食用(白身)の淡水魚の写真が載っています。アクアトト岐阜は、東海北陸自動車道のサービスエリアにある水族館で、年に数回休憩で立ち寄りますが、水族館に入ったことはありません。されど、読み始める前に縁を感じました。
害虫・益虫、害獣・益獣という区別がありますが、それにあてはめるなら、ナイルパーチというお魚は、害魚ということになります。
外来種で、池に放つと、他の魚を食い尽くす。小説では、ナイルパーチと主人公志村栄利子30歳未婚、商社員、お嬢さまと重ねてあります。
彼女の標的になるのが、同じく30歳無職主婦丸尾翔子、ぐうたらにみえる日常をブログに書いて人気を得ている人です。夫はスーパーの店長、子どもはいません。
同作家の作品を何本か読みましたが、それらとは趣を異にした作品です。他の作品には柔らかさ、明るさ、親しみやすさがありました。食品を創作にからめることがこの作家さんの持ち味でもあり、そこに人のぬくもりを感じます。
このナイルパーチでは、真剣味を出しておられるように感じました。人間の暗い部分を克明に浮かび上がらせる恐怖小説です。女性向けだと思います。女子同士の世界です。女子同士の「友情」を求める行為が、いわゆるストーカー行為に酷似しています。志村栄利子自身はそれにまったく気づいていません。自覚がありません。相手の人格や誇りを否定することを平気で相手に言います。「刺す言葉」と言い換えてもいい。ただ、それが正論なのがやっかいです。相手は、心が傷つきます。低所得者層を見下す面ももっています。ナイルパーチという魚も、水に放たれても、自分が周囲に害を与えていると気づくことはありません。
今、112ページまで読んだところです。あと、240ページぐらいあります。
代用魚、偽装魚、値段の安い代わりの魚が、寿司ネタとして使われている。それらは、輸入されている。以前釣堀でティラピアという鯛の代用魚を釣ったことを思い出しました。
主人公、志村栄利子は女性という同性の群れに入ることができない。女友達がいないことを引け目に感じている。だから、強く、厳しく、ブロガーの丸尾翔子に迫る。友達でい続けてくれと懇願する。女子が女子をストーカーする。性的意味ではなく、新しいタイプの作品です。
読んでいて、気持ちのよいものではありませんが、作品としての魅力は高い。読み始める前にいくつかの書評を読みました。長編ですが、1日半ぐらいで、読み終えてしまうそうです。理由は、怖いからです。怖いから早く読み終えたいのです。
主人公を冷徹に見つめる小笠原圭子という女性がいます。彼女もまた、被害者のようです。主人公とは、小学校から高校まで同級生です。彼女は、主人公志村栄利子を「つくりもの」と称します。ぐっとくる単語でした。
脱線しますが、東京湯島のラブホテル群みたいな言葉が出てきておやっと思いました。今年、その辺を観光しましたが、ホテルは見かけませんでした。
(つづく)
176ページまで読みました。
事態は、志村の攻撃に対して、複数女子の反撃が始まったもようです。口喧嘩は壮絶です。戦争状態です。反撃は強烈です。でも、志村栄利子は自分の非を認めようとしません。一生気づけない生い立ちなのでしょう。
人間関係において、百点を目指すのが、志村栄利子とあります。あり得ませんし、できません。がんばれば、夢はかなう。かないません。テストで百点満点を目指すように、人間とのやりとりを置き換えてもそれは勘違いだし、そもそも点数制度で人間関係を測れるものでありません。
女子高のクラスでは、高校1年生で、女子とこどもに分かれるという表現は、生々しい。
ときおり、「東電OL事件」というのが、挿入されます。何だろう。
調べてみました。とくにここには書きません。
殺人犯人とされたネパール人が無罪になって帰国するとき、ネパールの妻子始め家族がよろこんでいたニュースのシーンを思い出しました。
女友達がひとりもいないと志村栄利子は嘆き続けます。
(つづく)
180ページ付近から、汚物感覚、きたなきもの、で、読めなくなってきました、ので
、4~5行の固まりで流し読みに入りました。
うーむ。幸福感がなさすぎる小説です。事態はあたりまえの進行をしていきます。主人公は狂っています。こういう人っているのかなあ。いるんだろうなあ。怖いなあ。
(つづく)
読み終えました。2週間かかりました。
読了した瞬間、徳川家康の家訓「人生は、重いものを背負って生きるがごとし」を思い出しました。
直木賞候補というよりも芥川賞候補作品のほうがふさわしい。自分自身のなかにある心象風景を書き綴ってあります。主人公志村栄利子のような自己中心的な意思で周囲にいる人間を自分の都合のいいように使いたいという心持ちを破壊に向けて表現してあります。
最終的には「修復」へと足がかりをつけるので、救われます。
育児に失敗した親も同罪でしょう。お金も家もあって、経済的に十分で、学力も学歴もあって、でも、日常生活、こと、人と人との交流ができない。それは、親も同然で、親がそうだから、娘もそうなる。文中では、「神経質で高飛車なエリート女」と格付けされています。同じく、「ばっさりと、断罪出来る」、主人公女子は、「攻撃力」の固まりです。
金も名誉もなくていい。「平穏」があればいい。
思い通りにならないから、まるで、負けず嫌いのように、自分の思い通りに相手を動かそうとするから、相手は離れていってしまう。それを自分のせいだとは思わず、あなたのせいだと責める。
被害者は加害者を殺しちゃうのかな。
同性同士にしろ、異性同士にしろ、友達がいない人のお話でした。
288ページ付近の記述には、ぐっとくるものがありました。
幸福感がついえていくような小説ですが、やがて、一点の光が見えてきます。
力作でした。
主婦ブロガーの人が読んだらどう思うのだろうか。
被害者の夫の言葉がよかった。自分の精神を支えるお守りが、きみ(妻)にとってはブログだと思っていたという趣旨でした。
カバーにアクアトト岐阜(淡水魚水族館)にいるナイルパーチという、人間にとっては、食用(白身)の淡水魚の写真が載っています。アクアトト岐阜は、東海北陸自動車道のサービスエリアにある水族館で、年に数回休憩で立ち寄りますが、水族館に入ったことはありません。されど、読み始める前に縁を感じました。
害虫・益虫、害獣・益獣という区別がありますが、それにあてはめるなら、ナイルパーチというお魚は、害魚ということになります。
外来種で、池に放つと、他の魚を食い尽くす。小説では、ナイルパーチと主人公志村栄利子30歳未婚、商社員、お嬢さまと重ねてあります。
彼女の標的になるのが、同じく30歳無職主婦丸尾翔子、ぐうたらにみえる日常をブログに書いて人気を得ている人です。夫はスーパーの店長、子どもはいません。
同作家の作品を何本か読みましたが、それらとは趣を異にした作品です。他の作品には柔らかさ、明るさ、親しみやすさがありました。食品を創作にからめることがこの作家さんの持ち味でもあり、そこに人のぬくもりを感じます。
このナイルパーチでは、真剣味を出しておられるように感じました。人間の暗い部分を克明に浮かび上がらせる恐怖小説です。女性向けだと思います。女子同士の世界です。女子同士の「友情」を求める行為が、いわゆるストーカー行為に酷似しています。志村栄利子自身はそれにまったく気づいていません。自覚がありません。相手の人格や誇りを否定することを平気で相手に言います。「刺す言葉」と言い換えてもいい。ただ、それが正論なのがやっかいです。相手は、心が傷つきます。低所得者層を見下す面ももっています。ナイルパーチという魚も、水に放たれても、自分が周囲に害を与えていると気づくことはありません。
今、112ページまで読んだところです。あと、240ページぐらいあります。
代用魚、偽装魚、値段の安い代わりの魚が、寿司ネタとして使われている。それらは、輸入されている。以前釣堀でティラピアという鯛の代用魚を釣ったことを思い出しました。
主人公、志村栄利子は女性という同性の群れに入ることができない。女友達がいないことを引け目に感じている。だから、強く、厳しく、ブロガーの丸尾翔子に迫る。友達でい続けてくれと懇願する。女子が女子をストーカーする。性的意味ではなく、新しいタイプの作品です。
読んでいて、気持ちのよいものではありませんが、作品としての魅力は高い。読み始める前にいくつかの書評を読みました。長編ですが、1日半ぐらいで、読み終えてしまうそうです。理由は、怖いからです。怖いから早く読み終えたいのです。
主人公を冷徹に見つめる小笠原圭子という女性がいます。彼女もまた、被害者のようです。主人公とは、小学校から高校まで同級生です。彼女は、主人公志村栄利子を「つくりもの」と称します。ぐっとくる単語でした。
脱線しますが、東京湯島のラブホテル群みたいな言葉が出てきておやっと思いました。今年、その辺を観光しましたが、ホテルは見かけませんでした。
(つづく)
176ページまで読みました。
事態は、志村の攻撃に対して、複数女子の反撃が始まったもようです。口喧嘩は壮絶です。戦争状態です。反撃は強烈です。でも、志村栄利子は自分の非を認めようとしません。一生気づけない生い立ちなのでしょう。
人間関係において、百点を目指すのが、志村栄利子とあります。あり得ませんし、できません。がんばれば、夢はかなう。かないません。テストで百点満点を目指すように、人間とのやりとりを置き換えてもそれは勘違いだし、そもそも点数制度で人間関係を測れるものでありません。
女子高のクラスでは、高校1年生で、女子とこどもに分かれるという表現は、生々しい。
ときおり、「東電OL事件」というのが、挿入されます。何だろう。
調べてみました。とくにここには書きません。
殺人犯人とされたネパール人が無罪になって帰国するとき、ネパールの妻子始め家族がよろこんでいたニュースのシーンを思い出しました。
女友達がひとりもいないと志村栄利子は嘆き続けます。
(つづく)
180ページ付近から、汚物感覚、きたなきもの、で、読めなくなってきました、ので
、4~5行の固まりで流し読みに入りました。
うーむ。幸福感がなさすぎる小説です。事態はあたりまえの進行をしていきます。主人公は狂っています。こういう人っているのかなあ。いるんだろうなあ。怖いなあ。
(つづく)
読み終えました。2週間かかりました。
読了した瞬間、徳川家康の家訓「人生は、重いものを背負って生きるがごとし」を思い出しました。
直木賞候補というよりも芥川賞候補作品のほうがふさわしい。自分自身のなかにある心象風景を書き綴ってあります。主人公志村栄利子のような自己中心的な意思で周囲にいる人間を自分の都合のいいように使いたいという心持ちを破壊に向けて表現してあります。
最終的には「修復」へと足がかりをつけるので、救われます。
育児に失敗した親も同罪でしょう。お金も家もあって、経済的に十分で、学力も学歴もあって、でも、日常生活、こと、人と人との交流ができない。それは、親も同然で、親がそうだから、娘もそうなる。文中では、「神経質で高飛車なエリート女」と格付けされています。同じく、「ばっさりと、断罪出来る」、主人公女子は、「攻撃力」の固まりです。
金も名誉もなくていい。「平穏」があればいい。
思い通りにならないから、まるで、負けず嫌いのように、自分の思い通りに相手を動かそうとするから、相手は離れていってしまう。それを自分のせいだとは思わず、あなたのせいだと責める。
被害者は加害者を殺しちゃうのかな。
同性同士にしろ、異性同士にしろ、友達がいない人のお話でした。
288ページ付近の記述には、ぐっとくるものがありました。
幸福感がついえていくような小説ですが、やがて、一点の光が見えてきます。
力作でした。
主婦ブロガーの人が読んだらどう思うのだろうか。
被害者の夫の言葉がよかった。自分の精神を支えるお守りが、きみ(妻)にとってはブログだと思っていたという趣旨でした。
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