2015年05月09日
レジェンド! 葛西紀明選手と下川ジャンプ少年団 2015課題図書
レジェンド! 葛西紀明選手と下川ジャンプ少年団ものがたり 城島充 講談社 2015課題図書
2時間ぐらいあれば全体を読める文章量です。
オリンピックスキージャンプ葛西紀明選手の伝記ですが、彼を始めたくさんのスキージャンプ選手を輩出した北海道下川町の紹介と町のメンバーに対する賛辞が書いてあります。
葛西選手に関していえば、負けず嫌い、努力家、練習の鬼、周囲のサポートあり、そんなことが、川の流れのように記述されていました。冬季オリンピック出場歴として、1992年19歳でフランスアルベールビル大会から、ノルウェーリレハンメル、長野、アメリカソルトレイク、イタリアトリノ、カナダバンクーバー、ロシアソチまでで、次回は韓国平昌(ピョンチャン2018年)に挑戦すると言っています。
お話のなかで、ことに貧しい環境の中での努力や忍耐は、その当時の時代背景とそこで生きてきた人たちの体験とも重なります。
日本国民の寿命が伸びました。スポーツ界における選手寿命も伸びています。野球にしても、サッカーにしても、元気な中高年が増えています。
さらに女性の進出が盛んになりました。本のなかにある白黒写真では、女子選手の表情が明るい。
北海道にある下川町は人口が3500人ぐらいというのは、とても少ない。位置的には、旭川市の北です。冬の気温はマイナス30℃と本に書いてありました。
自分が、初めて北海道に行ったのは、今から30年ぐらい前でした。千歳空港着陸時は赤い屋根の建物がいくつも見えて、着陸後も牧場形式のホテルで過ごしたりして、なんだか、ヨーロッパに来たみたいでした。
北海道の冬は、厳しい寒さと雪でしょう。本土の太平洋側に住む都会人にはその実感がわきません。
少ない人口、スキー部のない学校、資金、教育者など、さまざまな悩みを、以前は、地域に住む人たちの自助努力と犠牲、奉仕活動でまかなってきましたが、それができない時代にもなりました。行政、民間企業の支援優先のシステム構築が必要です。
お金に対する考え、家族に対する考え、いろいろな考えが昔と変わってきています。昔は当然とされたことが、現在はけっこう否定されています。
下川町にあるものとして、「ジャンプ留学」があります。1977年に結成された下川ジャンプ少年団の所属者は2014年現在、小学生8人、中学生5人、合計13人。そのうちの、福島県郡山市、北海道上川町のふたりが、ジャンプ留学をしています。上川町の出身者が、ソチ五輪4位の髙梨沙羅選手ですが、下川ジャンプ少年団には属していないようです。
下川町には、スキーのジャンプ台があります。飛行距離に合わせて、65m、40m、26m、8m、下川町シャンツェ(競技台)といいます。ナイター設備もあります。
下川商業高校スキー部に、最初からスキー部があったわけではありません。葛西選手の時代には、同高校にスキー部がなかったので、選手志望者は中学を卒業すると町を出て、よその高校のスキー部に入部して合宿生活を送っていました。家を出なくてもいいよう、町の人たちの努力で、町内にある高校にスキー部ができました。
下川ジャンプ少年団の選手が着ているジャンプスーツは有名選手たちのお古です。お金がかかるスポーツなので、倹約しています。サイズが違うので、縫い直します。下川町には、「ジャンプ文化」があります。葛西選手は先輩選手からおさがりでスキー板ももらっています。
葛西選手は町営住宅で暮らしていました。公営住宅で暮らすということは、お金持ちではないということを意味します。意外でした。家族数も多い。両親と姉と妹、こどもは3人です。
あちこちに貧しかったと書いてありました。つけ払いという借金、姉がお米を近所に借りに行く、1枚のパンを家族で分け合う、電話もファミコンもゲームもない。あるのはお母さんの笑顔。お母さんがつくってくれる「いも餅」が大好物だった。おとうさんがお酒のみで働かなかったに違いないと思いこんで読んでいたら、やっぱりそのようなことが書いてありました。1960年代から70年代には、そんな男が日本中にいました。対して、お母さんはしっかりした働きものなのです。お母さんが、どうして、火災に遭われたのか、残念なのですが、97年5月10日にやけどが原因で、48才で亡くなっています。人生に、事件や事故はつきものです。人生は、障害物競争という側面をもっています。
本の後半に記述があります。貧しいということは恥ずかしいことではない。貧しいからという理由で、人の道に反したことをしたら、それが恥ずかしいことだ。
「ふわりとうかんで、すとんとおちる」。葛西少年は、ジャンプの才能をもっていました。しかし、才能だけでは花が開きません。努力、練習、周囲の支援、お金もいります。所属していた会社が2回倒産しています。選手は会社のスキー部に所属しながら国際大会に出るなどの費用を会社に負担してもらってスポーツ大会に出場しています。葛西さんの競技人人生は、けして、順調な道のりではありませんでした。
マラソン。最初はどんなスポーツでも走ることから始まるのでしょう。葛西選手はマラソンとクロスカントリーを始めます。小学校1年生でした。
3年生の時にジャンプとの出会いがあります。
下川町出身者にとって、感動的なシーンが、131ページ最終行付近にあります。2006年イタリアトリノオリンピック本番前練習ジャンプのとき、こんな場内アナウンスが流れました。「ノリアキ・カサイ、シモカワ、ジャパン」
「カミカゼ(神風)」と呼ばれていた葛西選手が「レジェンド(伝説)」と呼ばれたのは、2014年1月11日ワールドカップオーストリアバートミッテルンドルフ大会です。ワールドカップ史上最年長41歳7か月での優勝です。
家族のことが書いてあります。ろくでなしだったらしき70才過ぎ、アパートで一人暮らしをしている父親に愛情が寄せられています。部屋には、葛西選手のおかあさんの仏壇があります。夫婦は両方生きていてこそ夫婦です。
妹さんは、再生不良性貧血という病気で苦労されています。弟である葛西選手はいつも家族の中心にいて、長い間、飛び続けているとコメントされています。
葛西選手自身も気づいていないと思いますが、葛西選手からみなさんへの貴重な助言があります。
すべてをオリンピックに合わせていくのではなく、流れの中に自然にオリンピックがあるようにする。
加えて、「勝負のときは無心」
ソチ五輪時の個人銀メダルと団体銅メダルをとったときのことが書いてあります。銀メダルは銀でよかった。次の金メダルへつながる道ができました。自分は、どちらかといえば、銅メダルの記事のほうが感動しました。涙なくしては読めません。やはり、チームワークは尊い。
「運」について、ところどころに書いてあります。勝負事には必要なものです。日々の暮らし方で、神さまが提供してくださるものと受け止めています。
2時間ぐらいあれば全体を読める文章量です。
オリンピックスキージャンプ葛西紀明選手の伝記ですが、彼を始めたくさんのスキージャンプ選手を輩出した北海道下川町の紹介と町のメンバーに対する賛辞が書いてあります。
葛西選手に関していえば、負けず嫌い、努力家、練習の鬼、周囲のサポートあり、そんなことが、川の流れのように記述されていました。冬季オリンピック出場歴として、1992年19歳でフランスアルベールビル大会から、ノルウェーリレハンメル、長野、アメリカソルトレイク、イタリアトリノ、カナダバンクーバー、ロシアソチまでで、次回は韓国平昌(ピョンチャン2018年)に挑戦すると言っています。
お話のなかで、ことに貧しい環境の中での努力や忍耐は、その当時の時代背景とそこで生きてきた人たちの体験とも重なります。
日本国民の寿命が伸びました。スポーツ界における選手寿命も伸びています。野球にしても、サッカーにしても、元気な中高年が増えています。
さらに女性の進出が盛んになりました。本のなかにある白黒写真では、女子選手の表情が明るい。
北海道にある下川町は人口が3500人ぐらいというのは、とても少ない。位置的には、旭川市の北です。冬の気温はマイナス30℃と本に書いてありました。
自分が、初めて北海道に行ったのは、今から30年ぐらい前でした。千歳空港着陸時は赤い屋根の建物がいくつも見えて、着陸後も牧場形式のホテルで過ごしたりして、なんだか、ヨーロッパに来たみたいでした。
北海道の冬は、厳しい寒さと雪でしょう。本土の太平洋側に住む都会人にはその実感がわきません。
少ない人口、スキー部のない学校、資金、教育者など、さまざまな悩みを、以前は、地域に住む人たちの自助努力と犠牲、奉仕活動でまかなってきましたが、それができない時代にもなりました。行政、民間企業の支援優先のシステム構築が必要です。
お金に対する考え、家族に対する考え、いろいろな考えが昔と変わってきています。昔は当然とされたことが、現在はけっこう否定されています。
下川町にあるものとして、「ジャンプ留学」があります。1977年に結成された下川ジャンプ少年団の所属者は2014年現在、小学生8人、中学生5人、合計13人。そのうちの、福島県郡山市、北海道上川町のふたりが、ジャンプ留学をしています。上川町の出身者が、ソチ五輪4位の髙梨沙羅選手ですが、下川ジャンプ少年団には属していないようです。
下川町には、スキーのジャンプ台があります。飛行距離に合わせて、65m、40m、26m、8m、下川町シャンツェ(競技台)といいます。ナイター設備もあります。
下川商業高校スキー部に、最初からスキー部があったわけではありません。葛西選手の時代には、同高校にスキー部がなかったので、選手志望者は中学を卒業すると町を出て、よその高校のスキー部に入部して合宿生活を送っていました。家を出なくてもいいよう、町の人たちの努力で、町内にある高校にスキー部ができました。
下川ジャンプ少年団の選手が着ているジャンプスーツは有名選手たちのお古です。お金がかかるスポーツなので、倹約しています。サイズが違うので、縫い直します。下川町には、「ジャンプ文化」があります。葛西選手は先輩選手からおさがりでスキー板ももらっています。
葛西選手は町営住宅で暮らしていました。公営住宅で暮らすということは、お金持ちではないということを意味します。意外でした。家族数も多い。両親と姉と妹、こどもは3人です。
あちこちに貧しかったと書いてありました。つけ払いという借金、姉がお米を近所に借りに行く、1枚のパンを家族で分け合う、電話もファミコンもゲームもない。あるのはお母さんの笑顔。お母さんがつくってくれる「いも餅」が大好物だった。おとうさんがお酒のみで働かなかったに違いないと思いこんで読んでいたら、やっぱりそのようなことが書いてありました。1960年代から70年代には、そんな男が日本中にいました。対して、お母さんはしっかりした働きものなのです。お母さんが、どうして、火災に遭われたのか、残念なのですが、97年5月10日にやけどが原因で、48才で亡くなっています。人生に、事件や事故はつきものです。人生は、障害物競争という側面をもっています。
本の後半に記述があります。貧しいということは恥ずかしいことではない。貧しいからという理由で、人の道に反したことをしたら、それが恥ずかしいことだ。
「ふわりとうかんで、すとんとおちる」。葛西少年は、ジャンプの才能をもっていました。しかし、才能だけでは花が開きません。努力、練習、周囲の支援、お金もいります。所属していた会社が2回倒産しています。選手は会社のスキー部に所属しながら国際大会に出るなどの費用を会社に負担してもらってスポーツ大会に出場しています。葛西さんの競技人人生は、けして、順調な道のりではありませんでした。
マラソン。最初はどんなスポーツでも走ることから始まるのでしょう。葛西選手はマラソンとクロスカントリーを始めます。小学校1年生でした。
3年生の時にジャンプとの出会いがあります。
下川町出身者にとって、感動的なシーンが、131ページ最終行付近にあります。2006年イタリアトリノオリンピック本番前練習ジャンプのとき、こんな場内アナウンスが流れました。「ノリアキ・カサイ、シモカワ、ジャパン」
「カミカゼ(神風)」と呼ばれていた葛西選手が「レジェンド(伝説)」と呼ばれたのは、2014年1月11日ワールドカップオーストリアバートミッテルンドルフ大会です。ワールドカップ史上最年長41歳7か月での優勝です。
家族のことが書いてあります。ろくでなしだったらしき70才過ぎ、アパートで一人暮らしをしている父親に愛情が寄せられています。部屋には、葛西選手のおかあさんの仏壇があります。夫婦は両方生きていてこそ夫婦です。
妹さんは、再生不良性貧血という病気で苦労されています。弟である葛西選手はいつも家族の中心にいて、長い間、飛び続けているとコメントされています。
葛西選手自身も気づいていないと思いますが、葛西選手からみなさんへの貴重な助言があります。
すべてをオリンピックに合わせていくのではなく、流れの中に自然にオリンピックがあるようにする。
加えて、「勝負のときは無心」
ソチ五輪時の個人銀メダルと団体銅メダルをとったときのことが書いてあります。銀メダルは銀でよかった。次の金メダルへつながる道ができました。自分は、どちらかといえば、銅メダルの記事のほうが感動しました。涙なくしては読めません。やはり、チームワークは尊い。
「運」について、ところどころに書いてあります。勝負事には必要なものです。日々の暮らし方で、神さまが提供してくださるものと受け止めています。
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