2021年05月31日

サンドイッチクラブ 長江優子

サンドイッチクラブ 長江優子 岩波書店

 本の表紙のカバーにサンドイッチの絵が描いてあります。サンドイッチのまわりにちいさな人の姿が見えます。男子が三人、女子がひとりです。(あとでわかりましたが、女子はふたりでした。水色の帽子が羽村ヒカルで、ツインテールの髪型で白い服を着ているのが桃沢珠子。左奥でiPad端末を構えているのが勝田三兄弟のうちのふたごの弟たち。そのそばにいるのが兄の勝田葉真(かつた・ようま)右奥離れたところにいるのが砂像彫刻家のシラベさんに見えます)手に道具をもっています。シャベルとスコップとナイフに見えます。

 タイトル「サンドイッチクラブ」だけだと、ともだちみんなでいろいろなサンドイッチを毎日つくるクラブ活動のように思えますが、どうもそうではなさそうです。

 目次を見たら「砂かけババア」という文字が目に飛び込んできました。わたしが知っている幼稚園児向けのお話で「おしいれのぼうけん」というのがあります。「ねずみばあさん」というのが出てくるのを思い出しました。この本の11ページには「妖怪砂かけババア」と書いてあります。どんな妖怪だろう。興味が湧いてきました。(妖怪はでできませんでした)
 目次に「マルタ島」というのも目につきました。マルタ島:ヨーロッパ地中海、イタリアのシチリア島の南にあるマルタ共和国に属する島。
 とりあえず25ページまで読んだところで感想を書き始めます。

 主人公であろう神山小学校の桃沢珠子(ももざわ・たまこ。ひとめ見て、ちょっといまどきのこどもさんの名前ではないと思いました。「子」は付けなくなりました。なお、珠子さんの成績はかんばしくないそうです)小学6年生の夏休みですが、午前中も午後も塾通いです。(その後、桃沢珠子は、「ペッシュ」というパン屋さんの娘であることがわかりました)
 どうして別々の塾に一日二回も通うのだろう。中学受験準備なのでしょうが、お金がかかります。
 午前中は、進秀学舎(しんしゅうがくしゃ)<集団塾>、午後からは、マドック個別指導塾です。

 森田ちず:神山小学校6年生。桃沢珠子の同級生。トノサマバッタのような触覚眉毛(まゆげ)。アマゾンツノガエルにも似ている。
 羽村ヒカル:この物語の鍵を握るらしき小学6年生。学力優秀です(マドック個別指導塾での特待生。授業料無料の生徒。国立中学という私立中学をめざしている。将来はアメリカ合衆国大統領になりたい)。ショートカット。切れ長の目(目尻が細長く切れ込んでいる。美しく見える)ショートパンツからのびた小麦色の足。オレンジ色のビーチサンダル。ちょっと言動が不審な感じの女子。美竹小学校(みたけしょうがっこう)の児童から「黄金のシャベルを奪還(だっかん。うばいかえす)することが今の彼女の目標。
 橋本杏(はしもと・あん。女子):隠田小学校(おんでんしょうがっこう)6年生。羽村ヒカルの同級生。夏休みはハワイの別荘ですごすので、家は裕福なのでしょう。お金でものごとを解決しようとする面があります。
 聖葉女学院(せいようじょがくいん):彼女たちが目指しているらしき私立中学校
 雪原学園(せつはらがくえん):同じく私立中学

 ツインテールの結び目(むすびめ):髪型。長い髪の毛を頭の高い位置で左右にまとめてたらす。ツインはふたつ。テールは、しっぽ。桃沢珠子の髪型。
 カチューシャ:髪飾り。C字型のヘアバンド。
 
 「砂」の話が出てきます。この本のタイトルで「サンド」は英語のサンド:砂のことだろうか。SANDです。

 ポンデケージョ:ブラジル生まれのチーズパン。ネットで写真を見ました。じゃがいもか、さといもの皮をむいたあとのような姿をしていました。食べやすそうで、おいしそうなパンです。
 ブラジルでは「パン・ジ・ケージョ」意味はチーズパン。

 神山小学校6年生の桃沢珠子と隠田小学校6年生の羽村ヒカルは、美竹小学校の児童と何かの勝負をしに行きます。場所は、美竹公園というところで、そこには児童館があるそうです。美竹公園の隣に美竹小学校があります。
 ちょっと整理します。
 神山小学校:桃沢珠子、森田ちず。学校は静かな住宅地にあります。
 隠田小学校:橋本杏、羽村ヒカル。学校は商業地と住宅地の中にあります。
 美竹小学校:学校は商業地と住宅地の中にあります。
 隠田小学校と美竹小学校の間は歩いて20分間ぐらい。神山小学校はほかのそれぞれの小学校に対して歩いて40分ぐらい離れているそうです。
 
 美竹公園の砂場で野球帽をかぶった男の子が待っていました。どうもこの物語には「砂」が関係あるらしい。
 男の子も羽村ヒカルも日焼けしています。
 砂場には跳び箱7段ぐらいありそうな大きな砂山がふたつあります。
 羽村ヒカルは「ハム」と呼ぶらしい。「ヨーマ」というのは野球帽の男の子の仲間らしい。(その後、名前が、勝田葉真(かつた・ようま)であることがわかりました。それから、勝田葉真の弟が勝田羽衣音(かつた・はいね)と勝田愛衣音(かつた・あいね)です。ふたごですなあ。4年生だそうです)
 シラベさん:だれ? まだわかりません。
 なにやらシャベルをどちらが使うかでもめていそうです。
 ケンペー(憲兵のことだと思います。軍隊の組織で、警察的役割を果たす。交通整理も担当する)
 シンパン:砂の彫刻の審査員役。桃沢珠子が羽村ヒカルに押し付けられた役割。勝田羽衣音(かつた・はいね)も審判をするそうです。
 砂の彫刻づくり勝負が始まりました。制限時間60分です。
 勝田葉真はライオンをつくる。羽村ヒカルは、チーターをつくる。その後、どったんばったんがあって、騒ぎはおさまります。

 サンドアート:砂像彫刻
 シラベ・モトヤ:サンドアートのアーティスト(砂像彫刻家)口癖が「これ、常識」
 
 桃沢珠子と羽村ヒカルは友だちになることにしました。

 国立中学:くにたちちゅうがくと読むのだと思います。私立中学校でしょう。

 物語の内容から考えて、登場するこどもたちは、いまは三十代ぐらいになっているのでしょう。
 第二次世界大戦のことがからんできます。
 羽村ヒカルの祖母は68歳で亡くなっています。戦争を体験していない世代だったそうです。
 羽村ヒカルは将来に向けて、大きな夢をもっています。壮大です。
 羽村ヒカルの将来の夢を聞いた桃沢珠子も自分の夢をかなえるために自分を変えようと思い立ちます。

 ジョゼフィーヌの娘:この物語の中だけの架空のお話なのでしょうか。1789年のフランス革命、ナポレオンのいたころを思い浮かべます。物語では、ジョゼフィーヌの恋人役が月組の笹風流斗(ささかぜ・りゅうと)という人で、宝塚歌劇団でいうところの女優が演じる男役だとうけとりました。

 アデリーペンギン:中型のペンギン。南極大陸にいるのは、このペンギンと大型のコウテイペンギンの二種類。
 
 桃沢珠子(ももざわ・たまこ。勝田くんに付けられたニックネームが「タマゴ」)、羽村ヒカル(勝田くんに付けられたニックネームが「ハム」)、橋本杏(はしもと・あん)の三人は、勝田葉真(かつた・ようま。YouTubeでは「ヨーマX(エックス)」)、ふたごの弟で4年生勝田羽衣音(かつた・はいね)、勝田愛衣音(かつた・あいね)、勝田三兄弟と「砂像(砂の彫刻)製作」でバトル(勝負)を始めます。
 女子三人は、いったん負けますが、勝田三兄弟に対する対抗意識は燃え上がります。仕返しのための強いエネルギーが生まれます。

 青いシャベルは「筋トレシャベル」
 黒いシャベルは「黄金のシャベル」

 ライオンじゃなくて、「キメラ:伝説の猛獣。勝田葉真が創造したオリジナルキャラクター。頭がライオン、胴体がヤギ、しっぽがヘビ」

 今どきの「SNS(ソーシャル・ネットワーク・システム)」を素材にした児童文学作品です。ようやくこういう作品が出てきました。こどもたちを取り巻く時代背景となる環境は、未来に向けて、昔とは違ってきています。

 ラップ:音楽のスタイル。ビートに合わせた語り歌。主張をもりこんである。

 砂像のつくり方の講習会を聴いているようです。
 スケッパー:おもにパンづくり、お菓子づくりで使用される。まぜる、切る、すくう、こねる。四角で薄いカード型の道具

 桃沢珠子と羽村ヒカルは意気投合して(気が合って盛りあがって)、「砂像」を中心においたグループ活動をすることにしました。桃沢珠子の発案で、チームの名前を決めて、クラブ活動をすることにしました。クラブの名称が「サンドイッチクラブ」です。ハム(羽村ヒカル)とタマゴ(桃沢珠子)のサンドアートクラブが最初の発想です。
 約束事として、①仲良くすること ②約束を守ること ③悲しい時やイライラしたときは…… 両手をぱちんと合わせて「ポンデケージョ(ブラジル生まれのチーズパン)」

 羽村ヒカルがアメリカ合衆国初代大統領の「ジョージ・ワシントン」をかっこいいと言います。渋い(ほめ言葉として、味わいがある)

 8月31日(夏休み最後の日)にサンドイッチクラブと勝田三兄弟との「砂像制作対決」が開催されることになりました。審判が、砂像制作作家のシラベさんです。

 イワトビペンギン:小型のペンギン。インド洋から南太平洋にいる。南極にはいない。
 モリニーニョ:ホットチョコレートをかきまぜる棒。先端がギザギザの形をしたドリルのようになっている。
 
 砂が簡単にくずれていくお話が出ます。その部分を読んでいて、日本映画の名作「砂の器(すなのうつわ)」小説は松本清張作品を思い出しました。悲しいドラマがありました。つくりあげた栄光に輝く人生が、ちょっとしたほころびで、深刻なまでの悲劇に結びつき、砂の器のようにくずれていくのです。

 いろいろな項目が細切れ(こまぎれ)に出てくる不思議な雰囲気をもつ小説です。いろいろなことが混在しています。友情、対立、協力。
 場面が急に変わるときがあり、とまどうことがありました。(自宅で母親とミサイルの話をしていたら二行あとで砂場のシーンに転換)

 私立中学受験:未来の幹部候補生を育てるための学校ととれます。「世界で通用するトップリーダー」「グローバルリーダー」(雪原学園説明会)私立中学受験の話題も今どきの素材です。文芸小説の本を読むのも私立中学受験生が多いのでしょう。
 登場人物である裕福な家の娘である橋本杏の言動で、私立中学受験競争の中で、学力で人間を評価する差別が生まれていますが、社会に出ても学力だけでは食べていけません。人間力が必要です。そのことを知らないと挫折(ざせつ。うまくいかなくてへこむ)を味わうことになります。
 私立中学受験の是非(ぜひ。いいわるい)を考える部分があります。自分の意思を抑えて、親の意思に従って、塾に通っているとしたらやがてゆきづまるときがきます。親の顔色をうかがいながら自分の未来を決めることはやめたほうがいい。いずれ破たんします。自分の人生は自分のものであって親のものではありません。イヤなことはイヤですと言えるようになりたい。

 砂像制作に関して:エローラ石窟寺院(インド国ムンバイの東)5世紀から10世紀の遺跡。岩山をくりぬいた寺院。この本では、製作に100年以上かけたとあります。

 反戦に関して:サンパチ銃(三八式歩兵銃)1905年(明治38年。三十八年だからサンパチなのでしょう)日本陸軍採用の銃。
 ミサイルの話(イメージとしては、北朝鮮発射。文中に飛行時間が40分とあって、?(クエスチョン)でした。ミサイルで40分あるとかなり遠くまで飛んでいってしまいます)
 
 難民に関して:戦火から逃げる庶民。本では、地中海を中東や北アフリカから船でヨーロッパ方面へ逃げます。

 印象に残った言葉、文節などです。
 「『歴史』に素手でさわる……」
 「おしゃぶり」(難民船が難破して海に投げ出されて溺死(できし。おぼれて亡くなった)した乳児が使っていたものではないだろうか……)
 「お金がないって不幸だ、と思った」(今はないだけで、さきざきもないわけではありません)
 「すがすがしいほど自己中心的」
 「あたし、心が弱いから」(羽村ヒカルの言葉)

 物語は、ライオン(キメラ)対ペンギン(コウテイペンギンの親子)の構図になっていきます。
 ペンギンが翼を広げた形を砂像で表現するためにはどうしたらいいのか。工夫と知恵が必要です。
 ペンギンの親子の部分を読んでいたら、以前読んだことのある絵本「タンタンタンゴはパパふたり」を思い出しました。アメリカ合衆国ニューヨークの動物園で実際にあったことで、温めることを放棄したペンギン夫婦の卵を、男同士の夫婦に与えたところ、上手に温めてくれて、ヒナが生まれて、仲良し三人家族になれましたというお話でした。
 日本の水族館や動物園で多いフンボルトペンギンの数は、世界的には少ないとか、生息地は、南米のチリとかペルーということは、今回この本がきっかけで調べて初めて知りました。長い間生きていても知らないことがたくさんあります。
 
 ユニバーサルランドは、ディズニーランドなのでしょう。

 松崎サラサ:資産家の娘である橋本杏(はしもと・あん)の学校の友だち。大柄。
 まあいろいろと女子の世界が展開されます。

 自由業:フリーランス。自分が得意な技術を使って好きなときに仕事をする。組織に属さない。社員ではない。個人事業主。

 テレビ番組「テレビチャンピオン」みたいになってきました。
 舞台は神奈川県江の島の砂浜海岸です。
 大船駅でモノレールに乗車します。自分も乗ったことがあるのでなつかしい。
 最後は、海で決着をつけるのです。

 雪原学園の前川さんがいい話をしてくれます。本を読んでください。『種屋』がヒントです。  

Posted by 熊太郎 at 09:56Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2021年05月29日

エカシの森と子馬のポンコ 加藤多一・文 大野八生・絵

エカシの森と子馬のポンコ 加藤多一(かとうたいち)・文 大野八生(おおのやよい)・絵 ポプラ社

 本の表紙の絵がかわいい。おはながブタさんみたいな子馬の絵があります。たぶんメスでしょう。
 35ページまで読んだところで感想を書き始めます。全体で190ページあります。

 エカシ:大きな木だそうです。ハレニレの大木。この物語では樹齢400年以上ですから、関ケ原の合戦から江戸時代初期に芽を出したのでしょう。その頃の北海道は大自然に埋もれていたことでしょう。

 ポンコはやはり女子の馬の名前でした。
 舞台は北海道です。二回訪れたことがあるので、そのときのことを思い出しながら読んでみます。アイヌの人の話が出てくるようです。アイヌの人たちの集落を見学した記憶があります。日高ケンタッキーファームというところで宿泊して、翌日、平取町(ひらとりちょう)というところにあったアイヌの人の場所を訪れました。たしか二風谷(にふうだに)というところでした。あいにく記憶が薄れて、集落だったのか施設だったのか、それともその両方だったのかを思い出せません。周辺の雰囲気だけはなんとなく記憶に残っています。
 近くを沙流川(さるがわ)という川が流れていて、宮本輝作品「優駿(ゆうしゅん。競馬に出場するサラブレッド)」を読んだときに記述がありました。本は名作です。

 こちらの物語のほうは、ぼーっとしていて、わたしは大きな勘違いをして読み始めてしまいました。途中で気づきました。
 乳牛牧場から子牛が逃げ出したのだと思って読んでいました。しばらく読んで、逃げ出したのは、どさんこの馬だということがわかりました。どさんこは、おとなの馬だと、大きくて太くて重たい。スピードはないけれど力は強い。ページを最初に戻ったら、最初の一行目に「子っこ馬のポンコが行く。」と書いてありました。

 31ページにきたときに、ポンコはどさんこの子馬で、牧場から逃げていて、ポンコが名付けたらしいエカシという名前の大木がある森にいるということがわかりました。そこまで理解する途中、白いふわふわの毛の中に目がひとつある虫みたいな物体との出会いがあります。妖精だろうか。蛍の先祖だそうです。(読んでいたら正解が書いてあって、本当はガガイモの種だそうです。つる性多年草。名前がいもだからといって、おいもができるわけではないようです)38ページで、その名前を「ふるふる」として書いてあります。47ページには「ふわふわ」と書いてあります。
 アイヌの人のことを考える。自然は大事ということを考える。そういうメッセージがある物語のようです。

 本の表紙をめくると地図の絵があります。最初、日本なのか外国なのかわからないけれど、日本だとしたら、日本のどこにでもある山の近くの風景だと思いました。山があって、樹林があって、川が流れています。ここがポンコの森なのでしょう。

 目次を見て、舞台が北海道であることがわかりました。
 アイヌという言葉が見えたからです。
 エカシを調べたら、アイヌ語で「長老」というそうです。ただこの本では、エカシは大きな木としてさきほどの絵に描いてあります。(39ページにエカシは「長老」と書いてありました)

 アイヌの人たちは、昔からここに住んでいて、水や木やけものを尊敬して楽しく暮らしていたそうです。そういえば、似た事例で、オーストラリアに行ったときにアボリジニという原住民の存在を知りました。なんだか似ています。

 森にひとりきりの子馬のポンコは自由ですが、なんだか孤独です。だから、エカシの大きな木に甘えます。体をこすりつけます。
 
 エゾシカが走って行きます。
 
 ポンコが体感します。川で水を飲んだ時になんだかいつもと違うへんな感じがしたそうです。

 ポンコはエカシの木を大切にします。お年寄りを大切にしましょうというメッセ―ジだろうか。

 ポンコ:アイヌ語でポンは小さいという意味
 和人(わじん):北海道から見て南の島である本土(ほんど)に住む人
 シサム:アイヌ語でとなりの土地に住む人。和人のこと。
 エミシとかエゾ:アイヌの人のこと。
 
 和人はアイヌにひどいことをした。アイヌから土地や川、魚をとりあげた。

 ポンコがエカシに「忙しい」と言ったのですが、?(はてな)でした。なにが忙しいのだろう。時間に自由な子馬さんです。

 この物語は、エカシ(樹齢400年の大木)とポンコ(どさんこ馬の女子の子馬)との問答集です。ポンコがエカシに質問をして、エカシがポンコに回答します。人生相談みたい。
 ポンコが川に水を飲みに行ったときに、体に変な感じを感じたことをポンコはエカシに相談します。エカシはポンコの「成長」だとヒントを与えます。ポンコの体は、エカシの森からの移動を求めているそうです。
 
 めんこい:かわいい
 やんちゃ:ちいさなこどもがいやいやとだだをこねたり、かんしゃくを起こしたり、人の気をひこうと相手がいやがるようないたずらをしたりする状態

 ポンコは牧場がなぜ嫌だったのだろう。自由がなく束縛(そくばく。しばられる。制限を加えて行動の自由を奪う)されていたからだろうか。
 ポンコは「牧場のにおい」が嫌だったそうです。「鉄のにおい」だそうです。なるほど。わかる気がします。トラクター、草刈り機、草集め機のにおいです。それから機械が出す「ガスのにおい」もきらいだったそうです。

 もくし:馬の頭(顔)に取り付ける馬具。皮ひもと金具でできている。
 スタンチョン:牛の首をはさんで安定させるつなぎ止め。つなぎとめておく金属製の枠(わく)調べて写真を見ましたがかわいそうだと思いました。

 いま53ページ付近を読んでいます。作者は何を表現したいのか。作者はどんなメッセージを読者に送りたいのか。まだわかりません。
 文章は「詩」のようです。ポンコの気持ちは、話し相手であるエカシがいる場所にずっといたい。だけど、ポンコの体は、移動を欲し(ほっし)始めている。

 トドマツ:マツ属ではなくモミ属に属する。高さ20m-25mぐらい。
 ヨブスマソウ:キク科の多年草。山野草
 エゾニウ:セリ科の植物。多年草。高さ1m-3m
 イタドリ:タデ科の植物。高さ1mぐらい。
 クサムシ、ヘタレムシ:どちらもカメムシのこと。
 モンベツの浜:北海道の紋別市(もんべつし。オホーツク海に面した市)か、門別町(もんべつちょう。その後、日高町)が頭に浮かびましたが、競馬馬とかアイヌとかの言葉で、この物語では旧門別町であるということがわかります。
 カラマツ:落葉針葉樹。高さ20m-40m
 
 カメムシはいろいろなことを知っています。ポンコの亡くなった母親のことも知っています。ポンコが生まれた時に母親馬が死んだそうです。母親の命を救うかこどもの命を救うかという厳しい選択があったそうです。どちらが正解なのでしょうか。むずかしい選択です。

 カメムシは自分の意思で自分の行きたいところへ行けることが強調されています。78ページから79ページに広がる子馬のポンコの顔の上にカメムシがたくさんたかっている絵はなんだかすごい絵です。ポンコは自分の顔の上にのっかっているカメムシと話をしています。
 
 カメムシは「ムラ(村)」の話をしていると思います。カメムシが集まって、共同体として暮らしているのです。たくさんのカメムシの体が集まって「ひとつの命」なのです。
 
 エカシと問答をしていたポンコは、こんどは、カメムシのお話を聞いています。
 牧場には、とうさんとばばちゃんがいる。ふたりの男の子は学校へ行ったので今は家にはいない。
 とうさんとばばちゃんがポンコの話をしていますが、とうさんはポンコが悪いと言い、ばばちゃんはポンコをかばうという発言をします。ばばちゃんは、ポンコの好きなようにさせてあげたいそうです。この部分を読んだ時に、こんなことが頭に浮かびました。生まれた者には、それぞれ役割が与えられて生まれてきている。好きなことをやるということは、その役割を実行して達成することであろう。
 
 生き物が出す電波のこと。人間は頭だけで考えるから自然界で生きるにはだめな存在であること。そんな話が続きます。
 
 本の中は、雪が降る頃、冬に近づいてきて、やがて冬を迎えました。カメムシたちは、木の皮の奥に入って冬眠に入りました。
 冬の嵐がやってきました。たつまきです。たつまきに巻き込まれた木が空中を飛んでいます。川を流れている水まで上空へと巻き上げられました。
 ポンコは強風に耐えました。<たすけて>と叫んでしまいましたが、助けてほしい相手は馬を守って下さる神さまか、亡くなって天国にいってしまった母親馬だったのでしょう。
 
 ポンコは、数えで三歳の誕生日を迎えます。生まれた時が一歳です。
 
 ポンコの暮らしを聞いておどろいたことがあります。
 ポンコの体の血をすいにくる虫がいるそうです。
 ブヨ:ハエ
 アブ:ハエの種類だがブヨ(ハエ)より大きい。
 ヨモギ:キク科の多年草。高さは1mぐらい。
 シナノキの種:落葉高木。直径は1mぐらい。高さは20m以上。
 カツラ:落葉高木。直径2mぐらい。高さ30mぐらい。
 チキサニ:チキサニはアイヌ語。ハレニレの木のこと。この物語のエカシのこと。
 
 「水」の大切さが書かれています。ポンコは川の水を飲もうとしましたが、北海道の冬は極寒なので、川の水は凍っていて飲むことができません。ポンコの足の力では、氷に穴を開けることもできません。(あとで出てくるおじじが助けてくれます)
 冬は厳しく、地ふぶきがやってきます。雪がポンコの体に当たります。
 救世主が現れます。ポンコが所属する牧場のとおさんです。ポンコが食べるほし草の固まり(牧草ロール)をもってきてくれました。さらに、そばに住む人間である「おじじの小屋」をポンコに案内してくれました。
 冬なれど陽ざしが暖かい日に木の皮のむこうのスキマにいるカメムシがポンコに声をかけてきて、昔話を始めました。
 エカシは昔から切り倒されたあと木製の舟に加工されたかった。舟になってこの場所から移動したかった。丸木舟になって、海を見にいきたかったのでしょう。広い世界を知りたいという願望があったのでしょう。丸木舟をつくってくれるのはアイヌの人です。
 和人によって、アイヌの土地が侵略されたことが書いてあります。150年ぐらい前のことです。厳しい言葉があります。「(いまの人には責任無いよねに対して)そうはいかんよ。自分たちの先祖がやったことだもの」
 ホッチャレ:産卵後のサケのこと。
 
 冬眠中のカメムシは春が温かい日差しが照る日に、眠たいながらもポンコの話し相手になってくれます。百年以上生きているエカシの話やポンコが逃げてきた牧場の話を語ってポンコに聞かせてくれます。幼児に絵本を読み聞かせてくれる両親や祖父母みたい。
 
 ポンコもカメムシもにおいの話をします。なんのにおいかというと機械のにおいです。ふたりは、機械化を望んでいないようです。なにもかも機械化されてしまったから、馬のする仕事がなくなってしまったという考察です。人間界でも同じです。機械化されて便利になったけれど、もともとその仕事をしていた人たちは仕事を機械に奪われて仕事を失くしてしまいました。むかしはすき間仕事のようなものがあって、仕事にありつけるということはありました。こんなにに機械化が進んだのに、それでも人手不足という話を聞くと不思議です。人口構成比も関係あるのでしょうが、働かない人が増えたのだろうかという疑問が生じるのです。

 機械は、文句はいわないけれど、壊れます。手入れが大事です。
 人間は文句を言うし病気やけがもします。心身の手入れが大事です。

 表現のしかたとして、ポンコの感情とポンコの足の動きが一致していません。ポンコはそこへ行きたくないと思っているのに、足は反対方向へと歩んでいきます。足は「本能(生まれもった性質)」

 読んでいると舞台が北海道であることもあってドラマ「北の国から」を思い出します。過疎化が進んでしまいましたが、たしかにあった昔の奥地での集落生活です。「離農」「衰退」という言葉が頭に浮かびます。

 ラストは「春」で締めます。
 ポンコは牧場の外で厳しい冬を乗り越えました。「成長」があります。そして、恋の季節へと向かって行くのです。その先にあるのが結婚でしょう。機械のにおいはやがて、男と女の出会いのにおいに変化していきます。
 「農業小説」の印象がある作品です。
 こどもさん向けの作品ですが、けっこうむずかしい。擬人法を用いてあります。カメムシの存在はなにを意味するのかをいまは考えています。考え着くと、カメムシもエカシも神さまになります。自然のなかにおられる神さまからの教えなのです。
 
 タラのキ:落葉低木。タラの芽を食べる。

(その後)
 探し物をしていたらたまたまアイヌの人たちの資料館があった場所の写真をアルバムで見つけました。もう三十年ぐらい前にいったときの写真です。



  

Posted by 熊太郎 at 07:20Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2021年05月28日

学問のすすめ 福沢諭吉 斎藤孝・現代語訳

学問のすすめ 福沢諭吉 斎藤孝・現代語訳 ちくま新書

 有名な本ですが読むのは初めてです。
 福沢諭吉:1835年(天保5年)-1901年(明治34年)66歳没 慶応義塾大学の創設者 著述家、啓蒙思想家、教育者
 学問のすすめ:1880年(明治13年)出版。内容は、1872年(明治5年)-1876年(明治9年)に発行された17編を合本したもの。
 自分が明治時代のことを思う時は、明治の年号と夏目漱石さんの年齢が同じなので、夏目漱石さんのそのときの年齢を基準にしてそのころの時代風景のイメージをつくっています。
 
 『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』
 武士出身の福沢諭吉さんが、江戸時代における士農工商制度を否定するところに、明治維新の気概を感じます。(気概:きがい。やる気。強い気性)また、バランス感覚がすばらしい。「これからは、日本中ひとりひとりに生まれつきの身分などといったものはない……」とあります。
 生まれたときにはみんな平等ということに続けて、それなのに、世の中は不平等だとつながっていきます。その違いはどこからくるのか。「学ぶか学ばないかによって決まる」と明快な答えが書いてあります。「人は学ばなければ、智(ち:物事をよく理解して、正しく判断して、対応すること)はない。智のないものは愚かな人である」とあります。
 鎖国だとか、攘夷(外国を追い払う)だとか、心の狭い対応をしていてはいけない。世界はひとつだ。みんなで協力しようというような趣旨の記述もあります。
 
 まずやらなければならないこととして、「文字を学ばなければならない」

 胸にぐっとくる文節が続きます。
 『ひどい政府は愚かな民がつくる』
 けっこう厳しいことが書いてあります。

 おもしろい。
 ひとつの文章の固まりはそれほど多くはなく、現代語訳をしてあるので読みやすい。
 福沢諭吉さんが書いたエッセイ集という感覚で読み続けています。
 『人間は平等である』そこにかなりこだわっていらっしゃいます。

 地頭(じとう):領主のこと。幕府の土地とそこに住む百姓を管理する。金があり権力があるとこの本には記されています。

 人同士が平等なら、国同士も平等だという考察と主張があります。
 豊かな国が貧しい国に無理を加えてはいけないという意見があります。
 
 桶狭間の戦い(1560年)の話が出てきました。織田信長に敗れた今川義元ですが、趣旨としては、今川義元のワンマンチームで、今川義元が亡くなったら、あとかたもなく滅びてしまった。国は領主ひとりがつくるのではなく、国民が気概(困難にくじけない強い意識)をもって維持していくとあります。『国民の気風(きふう。意識。気性。前向きな性質)が国をつくる』とのことです。
 
 当時の日本が外国に負けていることとして「学術」「経済」「法律」と提示されています。その原因は「国民の無知無学」と指摘があります。(これと同様なことを中国人小説家・思想家の魯迅が(ろじんが)自国民に対して思って、医師になることをやめて、小説家、思想家になって意識の啓もう者(知らない人を教えて導く)になろうとしたという話を以前別の本で読んだことを思い出しました)
 具体的には、自分が支配されていることに慣れて、一定のわくのなかで生活していることに疑問をもつ力もないということをいいたいのだろうと推測しました。
 胸にぐっとくる言葉としての要旨が「日本全国の人民は、非常に長い間、専制政治に苦しめられて、それぞれの心に思うことを表現できなくなっている……」

 ひとりひとりの人間は、人間的には立派であっても、そういう優秀な人たちが、政府に集まって政治をすると、いい政策が生まれてこないという現状を嘆いておられます。ひとりの人に、ふたつの人格があるように見えるそうです。ひとりなら賢明だが、集まると暗愚との批判があります。(ならばどうすればいいのかがこの本に書いてあります)

 精神論の面が強い。
 その後の歴史をみると怖さもあります。がんばりすぎるところがあります。うまくいかなくて、軍国主義化にまで至ってしまいます。
 自分が中学だった時に、明治生まれの祖父が、戦争でせっかくコツコツと貯めた貯金がパーになってしまったとか、有価証券のような商品がすべて無駄になってしまったと、昔を思い出しながら言っていたことを思い出しました。戦争は「無」をつくるのです。

 明治7年1月1日のことが書いてあります。1874年です。
 『人民独立の気概』について書いてあります。読んで理解したこととしては、なんでもかんでも政府とか国の組織を頼ってはいけない。自分たちの頭で考えて、民間の力を活用しようというアピールがあります。当時の国民のことを「わが国の人民が無気力である」と断定されています。「人民は、ただ政府の命じるところに向かって奔走するだけだった」とあります。

 国法と書いてあります。憲法のことです。国法の重要性が強調されています。国法は、政府がつくって押し付けるのではなく、自分たちでつくって、自分たちでつくったその法を守るという精神が説かれています。法は悪人から善人を守るためにあるとあります。政府が国民を保護するのです。

 忠臣蔵の話が出ます(1701年)。忠臣蔵をほめたたえるのは間違っているという考察です。なにかしら不満があったとはいえ、吉良上野介(きらこうずけのすけ)に切りつけた浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は罪びとであり、不満があるなら言葉でそのことを上層部に訴えるべきであった。次の段階として、その件の裁判も浅野内匠頭が属する赤穂藩(あこうはん)にとって不公平であった。仕返しとして討ち入りをしたのは間違い。切腹も間違い。そう断定されています。やられたらやりかえすという行為を繰り返すかたき討ちは、どちらかが絶滅するまで続いて、終りがないと嘆いておられます。切腹行為を美化することにも失望されていて、武士出身の福沢諭吉さんですから、読んでいて意外に思いました。
 
 国民の義務と権利について書いてあります。「国」は会社、「国民」は社員です。本には書いてありませんが、労働の提供をして、報酬をもらう関係だと理解しました。
 なんども「人間は平等である」ということ強調されています。そのうえで、他者との平衡感覚、同等関係を説いておられます。
 ふと思ったのは、昔はやった「お客さまは神さまです」というキャッチフレーズは、ゆきすぎなのです。売り手も買い手も平等な立場なのです。
 
 150年ぐらい前に書かれた本ですが、今年読んで良かった一冊です。著者の貫く熱い意志が伝わってきます。

 税金は気持ちよく払いなさいとあります。
 趣旨としては、少ない会費で大きなメリットを手に入れることができるのが税金の制度だとあります。薄く広く集めて、おおきなお金のかたまりをつくって、そのお金を、国民の生活を守るために使うのが税金の役割とあります。
 
 歴史をさかのぼって、武士の時代、貴族の時代を含めて、当時の政府となる組織を全面否定されています。
 このときふと記憶がよみがえったのですが、江戸幕府が倒れて、明治維新を迎えたころに、各地にあった「城」を解体取り壊しした記事を昔新聞で読んだことがあります。庶民は城を「武士の権力の象徴」ととらえ、あんなものは壊してしまえと腹をたてたと書いてありました。
 それが、長い時をへて、明治維新のころを知らない世代の時代になると、「城」を観光資源にしたり、歴史を考える貴重な遺跡と考えたり、つまり、「城」を大事にしようということになっているのです。
 結局、人間の気持ちというものは、いかようにでもなるのだと思いました。でしたら、なるべく、ハッピーになれるように気持ちをコントロールしていけばいいのだと気づかされます。

 「切腹」について書いてあります。責任をとる行為で、一見美しいようだけれども、実際は世の中の役には立っていないと評価されています。
 メッセージの趣旨として、日本には「文明」がない。文明とは、知恵や徳を進歩させ、人々が主人公になって世間で交わり、お互いを害することなく、それぞれの権利が実現され、社会の安全と繁栄を達成することとあります。
 なんというか、読んでいて「言論の自由」というのは、大事だなと思うのです。政府に苦言を呈して政府から危害を加えられるのは異常な社会です。

 マルチドム:殉教者
 功徳(くどく):善い行い(よいおこない)。神仏の恵み
 佐倉宗五郎:江戸時代前期の義民。現在の千葉県成田市の名主。重税に苦しむ農民のために直訴して処刑された。

 アメリカのウェーランドという人が書いた「モラル・サイエンス」:人間の心と体の状態、気持ちのもちかたについて書いてあるようです。①人間には体がある②人間には知恵がある③人間には欲がある④人間には良心がある⑤人間には意思がある。
 自分なりに解釈すると①から⑤をコントロールして「独立」をする。そのさいに、天が定めた法によって、分限(限界。身のほど)を超えないようにする。
 
 男尊女卑の不合理について書いてあります。147年前に書かれたものですが、147年後の現在も女性差別は解消されていません。日本人は変化をにがてとする民族なのかもしれません。これからさき、147年後はどうなっているのか興味がわくのですが、そんなに長生きはできそうにもありません。
 女大学(という本):女子は、こどものときは両親に従い、結婚したら夫に従い、老いたら子に従う。(いまだったらとんでもない話です。でも、江戸・明治のころは常識だったのでしょう)

 妾制度(めかけせいど)に対する痛烈な批判があります。本妻以外に愛人をもつ。お金のある男子の特権のような風習です。いまは聞かなくなりましたが、自分がこどものころにはまだありました。
 『わたしの目から見ればこれは人の家ではない。家畜小屋である。(男子の種を増やして後継ぎ候補を用意しておく)』同じ屋敷に本妻と妾とそのこどもたちが同居しているのは異常だと言っておられます。そういえば、明治・大正・昭和初期時代のころの戸籍は、戸主制度で、戸主と本妻と妾とそれぞれにできたこどもたちが同じ戸籍に書かれていたことを思い出しました。パソコンやタイプライターなどなかったので、書道の筆の筆跡で書かれていました。
 第二次世界大戦の敗戦後、いろいろなことが変わりました。欧米化、とくに米国化が進みました。一夫多妻制をなんとも思わなかった人間の歴史があります。これは外国も同じでしょう。なんだか、女子もこどもも家畜同然の扱いです。

 『衣食住を得るだけでは蟻(あり)と同じ』とあります。現状維持に満足せず、進歩をめざそうとアピールしておられます。

 人間の集団生活について書いておられます。人は一人では生きられない。広く交際しましょうとあります。おひとり様暮らしを勧める昨今の風潮とは正反対であります。

 わがふるさと中津:大分県中津市。福沢諭吉さんが、19歳ぐらいまで過ごした実家があるふるさと。

 現代を生きる人がこの本を読んでどう感じるのだろう。気持ちが鼓舞(こぶ。気持ちがふるいたつ)される部分もありますし、押しつけがましい雰囲気もありますので、大きなことをねらわず、ささやかな幸せでいいとも思います。

 名分(めいぶん):立場や身分に応じて守るべきつとめ
 職分:その職に就いている者がしなければならない仕事

 明治7年当時の日本の人口:明治4年(1871年)戸籍法公布(壬申戸籍じんしんこせき)本籍人口(戸籍上の人口)33,625,646人(1月1日現在)
 1億2541万人(2021年4月1日現在)

 スピイチ:演説

「読書・観察・推理・議論・演説……」
 実際に生かせない学問は、学問ではない。
 この部分を読んでいると、学者は思考力はあっても、実戦力に欠けているという現象が思い浮かびます。
 
 怨望(えんぼう):ねたむこと。うらむこと。(他人に害を与えるという理由で慎むとあります)

 猜疑(さいぎ):人の言動を素直に受け取らずに疑う。

 江戸時代における御殿女中に対して厳しい批判があります。辛辣です(しんらつ。とげとげしい指摘)御殿女中というのは「大奥」のようなところで働く女性だろうかと推測しました。
 『無学無教養の婦女子が集まって、無知無徳の主人に仕えている。(以下、そこでは、なにをしてもしてなくてもいい。ただ毎日臨機応変に主人の寵愛を期待するだけと続き、これはまさに人間社会の外にある別世界と結論付けます)』
 当時の日本人の性質として、『ただ陰湿にうらむ』とあります。権利の主張はするけれど、おもいやりはない人たちというふうに受けとれます。

 読んでいると、白い霧の中にぼんやりと見えていたものが、明瞭に見えてくる明解さがあります。

 緊要(きんよう):さしせまって、重要なこと。

 何年たっても人間の性質は変わらないというようなことも出てきます。『口には最新流行のことを言いながら、心でしっかり理解しているわけでもなく、自分自身がどうであるかということを考えない者は、売り物の名前は知っているけれども値段をしらないようなものである』

 『保護』と『指図(さしず)』の範囲は一致させよの記述部分では、干渉ではなく世話をしているのだという理屈が生まれます。
 
 貧乏な人間に対して、なにも考えずに『貧民救済』をすることはよくない。その者の貧乏の原因を知ってから救済しなければならない。援助物資やお金が、貧困者が飲む酒に変わることがある。度が過ぎた援助は、相手自身のためにもならない。

 科学的な判断が必要と説いておられます。『信じることには偽りが多く、疑うことには真理が多い』例として、ガリレオ(地動説)、ガルヴァーニ(動物電気の発見)、ニュートン(万有引力)、ワット(蒸気機関)、トーマス・クラークソン(反奴隷制運動の指導者)、マルチン・ルター(宗教改革。プロテスタントの誕生)
 アジア人は、迷信を信じて、まじないや神仏に溺れている。相当昔の聖人賢者の言葉に縛られている。
 判断力を学問で養う。
 信じる者は信じすぎ、疑う者は疑いすぎて、両者のバランスを失っている。
(巻末の訳者のあとがきにもありますが、福沢諭吉氏がその後も生きていたら第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)は防げたかもしれません)

 アルコールのことが書いてあります。読みながら思うに「アルコールをたくさん飲んでも幸せにはなれない。病気にはなる」
 酒にのまれるなというような趣旨が書いてあります。酒=欲望です。

 この本が書かれてから、日本は、途中、大きな戦争や急速な経済成長があって、
 150年後ぐらいの現代があるわけですが、現代でも通用する考え方が書いてあります。
 
 さまざまなことに関心をもち、他者との交流をすすめて、学問(学ぶこと)をすすめておられます。
 最後の一節です。『人間のくせに、人間を毛嫌いするのはよろしくない』明治9年11月出版

 訳者の解説部分で印象に残った文節です。
 『国などいらない、税金など払う必要はないと考えてしまいがちです』福沢諭吉さん流(りゅう)に言えば、国が安定することで国民は恩恵を受けているのに、そう考える人には、いやならこの国から出て行ってくださいということになるのでしょう。権利と義務はワンセットという考え方です。  

Posted by 熊太郎 at 07:35Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2021年05月27日

カラスのいいぶん 人と生きることをえらんだ鳥 嶋田泰子

カラスのいいぶん 人と生きることをえらんだ鳥 嶋田泰子(しまだやすこ)・著 岡本順・絵 童心社

 いいぶん:(反論めいた)主張

 カラスといえば、燃えるゴミ(生ごみ)収拾の日に、ごみ袋をつついて、ひっぱって、やぶいて、道路を散らかす迷惑行為を思い浮かべます。
 こどものころには、夕空をながめながら学校帰りにか~ら~す、なぜなくのと「ななつの子」という童謡を歌ったり、コメディアンのギャクを思い出したりします。最近だとチコちゃんに叱られるに出てくるキョエちゃんを数日前にテレビで見ました。
 むかしは愛されていたらしきカラスはどうしていまは嫌われものになってしまったのだろう。
 カラス対策で、生ごみを出すときには、緑色の大きな網をごみにかぶせています。

 カラスは頭がいい。小学校の中学年から高学年の学力はありそうです。生き残るために生活の知恵を身につけたのでしょう。チームワークとか、仲間意識も感じられます。カラスは孤独ではありません。(読み進めたところ、44ページに8歳ぐらいの知能ではないかと書いてありました)

 さて、本を読み始めます。
 左開きの横書きです。英語の作品みたいです。めずらしい。
 カラスの絵があります。日常的にカラスは見かけます。電信柱の上で鳴いているときは、仲間とゴミあさりの打ち合わせをしているに違いないと思います。
 散歩のときに公園で見かけることもよくあります。きっと、里山のどこかに巣があるのでしょう。

 本にカラスが人を襲うと書いてあります。そういえば、北海道にある摩周湖を見に行ったときに、手に持っていた食べ物を狙われたことがありました。おそろしいです。
 それから、飼い猫がカラスに襲われたという話も聞いたことがあります。
 まあ、カラスにとっては、生きていくためにはしかたがないことなのでしょう。
 この本では、カラスのつごうも聞いてみましょうという提案があります。
 ハシブトガラスとハシボソガラスという種類があって、この本では、ハシブトガラスを主人公にするそうです。

 絵を見ていたら鎖につながれた飼い犬も出てきました。鎖でつながれた飼い犬よりも食べ物の保証はないけれど、自由に空を飛び回って移動ができるカラスのほうが幸せそうです。

 カラスは「害鳥」なのか。
 人間の立場で見たらそんな気もするけれど、違う気もします。

 カラスは生ごみをあさるために人間の行動を調べているけれど、人間はカラスのことを調べようとはしていいないという指摘はあたっています。

 本書では、カラスが共同購入しているニワトリの卵を盗んでいるそうです。わたしは、卵を足でつかんで盗んでいくと思っていましたが、くちばしで卵をくわえていくやりかただったので驚きました。
 カラスはどうやって、ニワトリの卵を食べるのだろうか。穴を開けて中身をすするのだろうか。不思議です。まさか、ニワトリの卵を温めてヒナをかえして食べるなんてことはしないでしょうに。
 
 先日散歩中に、カラスを見かけました。くちばしが細いハシボソガラスでした。体は小さくて、にごった声で鳴いていました。地上に降りてよく歩くそうです。くちばしが太くて、体も大きくて、にごらない鳴き声で鳴くのが、ハシブトカラスだそうです。地上を歩くのはにがてだそうです。さらに動物の死骸を食べてくれるいいところもあるそうです。天敵がタカやフクロウですが、街中ではタカもフクロウも見かけません。

 二羽で行動するカラスはたぶんご夫婦なのでしょう。

 本を読んでいておどろいたのは、カラスが民家の庭にある木に巣をつくっていたことでした。人を怖がらないというか、人をばかにしているというか。ちょこざいなカラスです。(なまいきな)

 カラスの巣は使い捨てだそうで。もったいない。何度も使えばいいのに。ごみ減量のために再利用することが人間界の努めです。
 
 クルミを車にひかせて、割れたクルミの中身の果肉を食べるカラスがいるそうです。カラスの知恵があります。種類に関係なく、ハシブトガラスもハシボソカラスもそうするそうです。
 以前、テレビ番組の「探偵ナイトスクープ」で、中身が不明の物体が空から降ってきたという不思議さを追いかけた取材を見たことがあります。確実ではありませんが、カラスがくちばしでくわえていた物が落ちたのでしょうという推理でした。ちなみに中身は粘土だったと思います。
 ロシアの作曲家であるチャイコフスキー作曲の「くるみわり人形」も思い出しました。

 クルミ:落葉高木。

 カラスでさえ学習する(カラスに失礼ですが)のですから人間もがんばらないと。

 ニューカレドニア:フランス領。オーストラリアの東のほうにある島々。海が美しいリゾーチ地(心身ともにリラックスできる観光地)
 そんな広い太平洋に浮かぶ島にもカラスがいるのかと驚きました。カレドニアガラスという名前で枝をくわえて虫の幼虫を捕まえる狩りをするそうです。
 
 日本では、カラスが公園の蛇口をひねって開けて水を飲むそうです。生きるために食べるし飲むし、だから、カラスも必死で考えるのでしょう。精神的に人間よりも強いかもしれません。

 本を書いている人の自宅の庭のようすです。犬を二頭飼育されています。
 「ななこ」は14歳ですから人間にたとえるともうお年寄りでしょう。
 「ぬふ」は3歳です。ぬふはなんとなく発音として呼びにくい。
 毎日カラスがお庭にやってきます。カラスにも名前を付けます。
 「カー」体が大きくて、ずうずうしい。人や犬を怖がらない。
 「ヒトミ」カーにいつもくっついている。
 「ジミー」存在感が薄い。
 「クロスケ」おでこの羽が美しい。なれなれしい。そばにくる。
 「おつれ」クロスケの彼女。いつも、おどおどびくびくしている。羽につやがなくみすぼらしい。神経質。
 もう一羽いて、「クルミ」と名付けようとしていたけれど来なくなってしまったそうです。
 5羽のカラスが自宅に来る目的は何でしょうというような疑問があるのですが、それは、やはり、「食べる」ためでしょう。

 犬とカラスたちのドッグフードをめぐる争いがあります。犬の食べ物をカラスがねらっています。
 食べ物のおいしい、おいしくないの話があります。犬は、ドッグフードよりも手づくりごはんのほうがおいしく食べたそうです。カラスもたぶん同じでしょう。
 だけど、犬の飼い主である著者はカラスが犬の食べものを横取りしていることに時間がかかりました。
 カーとクロスケがななこの食べ残しをねらいます。ななこはおばあさんなので、カラスに負けています。
 カラスたちの行動は五歳児ぐらいのいたずらっこに見えます。
 カラスたちの犬に対する行動は、母親に餌をねだるようなものであったり、飼い主に食べ物を要求するような態度に見えたりします。

 カラスの「貯食(ちょしょく)行動」について書いてあります。食べきれなかった食べ物は、あとで食べるときのために土の中をはじめとしていろいろなところに隠しておくのです。

 ふだん生活していて不思議に思っていたことについて本に書いてあります。カラスというのは、「曜日」がわかるのではないかということです。カラスは、地域ごとの生ごみ収集の日を知っているようなのです。収集日の前になると、高いところにとまっている司令塔の役割を果たすカラスがカー、カーと声を出して、仲間に合図を送り、お互いに打合せをしているようの見えるのです。「あしたは、生ごみの日だからがんばるぞー」って言っているようです。
 カラスの頭の中には、カレンダーがあるのです。

 カラスの「遊ぶ(という行動)」について書いてあります。
 空中トイレットペーパーちぎり遊びには感心しました。カラスは人間に似ています。「貯食(ちょしょく)」で食べものを確保してあるから気持ちに遊ぶ余裕があるのでしょうと分析されています。人間も貯金があると遊べる余裕があるのでしょう。

 カラスの目には「しゅんまく」という目を守るための薄い膜があって、まぶたは、上から下ではなく、下から上へ動く。この本を読んで初めて知りました。
 それからカラスはヒキガエルを食べる。まだまだ知らないことがたくさんあります。

 ジャーキー:干した肉。保存食。

 カラスの子育てが書いてあります。人間もカラスも子育ては大変です。それでも卵の全部が無事に生まれて育つわけではないそうです。カラスの親は、自分を犠牲にして子育てに専念しなければなりません。カラスの年間計画をみると初夏を迎えつつあるちょうどいまごろが子育ての最中です。一生懸命ヒナを育てるのは、愛情と本能があるからと思いたい。
 そして、カラスの敵はカラスです。なわばりあらそいでは、カラスがカラスを襲い、カラスはカラスから身を守ります。
 以前テレビで「ライオンの敵はライオン」という映像を見たことがあります。そしてやはり「人間の敵は人間」なのでしょう。

 カラスの夫婦は死ぬまでいっしょにいるそうです。人間も見習いたい。

 しぶといカラスくんも最近はその数が減少しているそうです。やはり「カラスの敵は人間」なのでしょう。
 「駆除」から「共存」へ。そうしないと、人間同士の争いで人間が減少することにつながっていくのでしょう。戦争は反対です。
 
 さいごに、著者自作のカラスに関する記録として「あゆみ」の紹介があります。カラスは、においにどんかんというところが意外でした。

 読んでいる途中の区切りで「まめちしき」が出てくるのですが、ストーリーが頭の中で途切れるので、最後にまとめて読むことにしました。
 「神の使い」というところで、以前読んだ玉依姫(たまよりひめ) 阿部智里(あべ・ちさと)作品、
バベル九朔(ばべるきゅうさく) 万城目学(まきめ・まなぶ)作品、気がつけばカラス きむらゆういち作品、からすのパンやさん かこさとし 偕成社、そういえば、鬼滅の刃(きめつのやいば)にもしゃべるカラスがいたと、自分の読書メモが残っています。  

Posted by 熊太郎 at 06:38Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2021年05月26日

鴻上尚史のほがらか人生相談 息苦しい「世間」を楽に生きる

鴻上尚史のほがらか人生相談 息苦しい「世間」を楽に生きる処方箋 朝日新聞出版

 著者のことを知りませんが、書評の評判が良かったので読んでみることにしました。
 家族に聞いたら、テレビに出ている人で、面白くて、物事をはっきり言うさばさばしたいい人だとほめていました。

 鴻上尚史(こうかみ・しょうじ):作家、演出家。

 28の相談ケースがあります。二十代ぐらいの若い人からの相談が多い。

 これは人に聞くようなことではないようなという相談があります。怒られるかもしれませんが、相談者がこどものままで、おとなになりきれていません。おとなは、不条理、不合理な世間に気持ちで折り合いをつけながら、心ひそかに耐えて生活しています。どうしてかというと、生活費というお金を得るためです。この世に純白な世界はありません。おとなは白と黒のバランスを考えながら、今回はどうしたらいいかという選択をしたり、なるべくころばないようにと障害物競争のようなことをしたりしています。グレゾーンで生活費を稼いでいます。

 今の暮らしが嫌だから変化したいという気持ちをもちながらも、変化できない相談者がいます。未来は、あなたしだいなのです。成功すれば周囲は祝ってくれます。そうでないときは、そうでないなりになぐさめてくれます。

 結婚の場合は、ひとり暮らしの体験者同士で暮らし始めるのが無難で望ましいのでしょう。最初に楽をすると、あとで苦労が待っています。

 異質な人(世間的には標準でない人)が、自分は悪くないと回答者に言ってほしい相談内容です。周囲から責められても、法律違反の行為でなければ、自分のやりたいようにやればいいと思います。ただやりかたは複数あって、どちらでもいいし、どちらかを決めるのはご自身です。

 著者は「同調圧力が強く」と「自尊意識が低い」日本人気質を問題点としてとらえています。
 朱子学(江戸時代の封建制度にふさわしい学問。目上の人の言うことに従う)とか儒教(子は親を敬う。血縁が基本で仲良く)とか、仏教をはじめとした宗教とか、村の掟(おきて)とか、軍隊のような学校教育とか、これまでの日本史が下地にあるのでしょう。歴史をふりかえって、それでうまくいった部分もありますし、破たんした部分(戦争)もあります。

 著者が、ほかの事実としてあった事例を出しながら説明されるのは、けっこう勇気がいることです。
 
 言わずもがな:あえて言うまでもなく。

 手紙形式の文章による一方的な相談なので、実態が不明なまま答えなければならない苦しさがあります。すべてが事実とはうけとれないのです。ならば、井戸端会議のようなバラエティとしてとらえるように読むかという選択になります。相談者が苦にしているという相手方にもそれなりの言い分があるでしょうが、相談者から攻撃される相手の言い分は、本の文面には出てきません。

 誤解とか勘違いで、相談者本人が気づけていないことがあります。たいていの場合、自分が相手を愛しているほど、相手は自分に関心をもってくれてはいません。
 相談者は自分に被害や負担を与えている人を「友だち」だといいます。著者も言うとおり、そんな相手は、「友だち」ではありません。この世は誤解と錯覚で成り立っています。自分は相手を友だちだと思っていても、相手はあなたを友だちだとは思っていないこともあります。あなたは、相手にとってつごうのいい「道具」なのです。

 書きにくいですが、ときによりメンタルのふりをしているのではないかという人がいます。自分で自分はメンタルだという人はメンタルではないような気がするのです。自覚症状がない人が病気だと考えるのです。
 また、メンタルの病院に行くと病人にされるような気もします。服薬がずっと続きます。風邪なら治癒すれば通院も服薬もやめます。著者は相談者にしきりに受診を勧めていますが、病院に行って、病気が完成するのは怖い。文面だけの訴えなので、事実関係と実態の把握が必要です。

 初めて見た文字として「所与性(しょよせい)」が登場しました。変化しない。変化させない。今ある状態を受け入れるというようなことだそうです。確かにそういうことがあります。実体として一億人ぐらいいる人口の多数がそうであればそうせざるをえないのが現実です。その中で収入を得て生活していかなければならないからです。

 この本のタイトルは「ほがらか」ですが、内容は「ほがらか」とはかけ離れているような気分で読んでいます。

 恋愛話があります。相手の何が好きなのか。どんなところが好きなのかが見えてこない相談です。容姿だけが好きというように受けとれます。

 苦しみから解放される手法が示されています。「逃げる」です。同感です。そして自分にとって場違いな場所には行かないほうがいい。

 できないことは小さな声でもいいからできませんと言う勇気をもつ。できない理由について、理屈を並べる必要はありません。できないものはできないのです。

 『長幼の序(ちょうようのじょ)』また、自分にとって新しい言葉が出てきました。後継ぎの話です。長男が役にたたないなら役に立つ長女にやってもらうのです。それでも世間体では長男がトップなのです。

 回答の文章が長いかなと感じます。くどいかなあ。アドバイスしすぎると、実態が事実とずれていたときに怖い。

 配偶者である妻を自分の道具だと思っている夫がいます。驚きました。妻は働いてはいけないのです。奥さんが就労したいという希望を叩きのめす夫からの相談内容です。うちは貧乏だったから共働きをしないと生活していけませんでした。信じられません。

 人間を製品扱いする相談者もいます。その人は、魅力がない人です。

 著者から『人間の価値とは何か?』という提示があります。むかし「容姿が良ければいいじゃないか」と言った人がいました。その人はなんども結婚と離婚を繰り返しました。
 年齢を重ねてくるとわかるのですが、容貌は歳をとってみると、同じ人間でも、若い時と比べるとかなり変わります。若かった頃の自分の写真を見て、この人だれ? という気分になるときがあります。この人というのは、自分のことです。若い時は、たぶんパートナーを得るために、男も女も若いというだけで美しくもかっこよくも見えるのです。

 『最下層』という言葉が出てきました。今もなお江戸時代のような士農工商制度が残っているかのようです。学校での悩み事です。学校は短期間の一時的滞在地です。卒業すれば、はいさよならの世界です。学校での出来事については、気に病(や)まなくていい。
 いいフレーズが書いてあります。「お互いがお互いのことにまったく興味がないのに、ひとりになりたくないから友達のふりをしている人達はいます」
 ほかにもいいアドバイスがあります。

 『日本の謙虚文化』これもまた新しく出会った言葉でした。
 謙虚(けんきょ):人と接するときに出しゃばらない。控えめ。相手を立てる。自分を相手より下に見せる。
 
 説得力があった文節の趣旨として『日本人は宗教に関してはいいかげんですが、「世間(せけん)」という強力な一神教(いっしんきょう)が存在していて、日本人を守っていた』
 「世間」という団体維持のための世界と「社会」という個人活動優先の世界がある。イメージとして、昭和の時代は「世間」でした。「平成」「令和」の時代が社会なのでしょう。どちらがいいのかはわかりません。世の中の流れが決めるのでしょう。そして、将来、「社会」はまた変化するでしょう。案外「世間」に戻るのかもしれません。
 「世間」の中にいる人間と「社会」にいる人間とは対立するでしょう。

 ときおり著者が出した本の宣伝文章が顔を出します。これは人生相談の本なので本の宣伝は必要なかったような気がします。
 
 「社交不安障害」また自分にとっての新語が登場しました。どんな症状にも病名をつくれそうです。

 大学という学歴への執着があります。大学というのは、お金で卒業証書を買うところという印象があります。それから、大学という組織と関係する職員のために学生が学費というお金を提供するところという構図を頭に描いています。勉強は年齢に関係なくいつだって必要で、やりかたはいろいろです。
 一般的に歳をとって、人生をふりかえって、あれはむだだったなと思うのは「アルコールとニコチン」「生命保険料」そして「学歴」です。お金を得るために必要なことは、なるべく「無職」である期間を短くすることです。生涯獲得収入は延々と働き続けることで増加していきます。

 妻にやきもちを焼かれていることに気づけない旦那さんがいます。夫はアイドルファンですが、アイドルを愛するように妻も愛さないとバランスが悪いです。

 完璧な親は少ない。こどもに対して、親が考えたこどもにとって幸せな生活・進路を押し付ける親が登場します。こどもに自分がたどった苦労の人生を体験させたくないという親御さんの気持ちはわかります。こどもが強い自立心をもって親を振り切るしかないのでしょう。

 良かった助言として「あなたのおかあさんの問題はおかあさんの問題であって、あなたの問題ではありません」たいてい親はこどもより先に死にます。親のことよりも自分のことを考えましょう。

 苦労を体験した人=いい人でもありません。

 著者が劇団オーディションの審査員をしている立場としての助言は光っています。三十歳での初めての挑戦は遅すぎるのです。競争除外です。

 「学力」だけでなく「人間力」がいります。

 整形手術の相談話があります。
 自分だったら自分の顔のどこを整形するだろうかと鏡を見ながら考えました。結局今のままでいいという結論に至りました。顔のつくりよりも、目が良く見えるとか、虫歯がないとか、耳がよく聞こえるとか、そういうことのほうがほしいです。
 人生相談に相談するよりもまずは相手とよく話し合った方がいいという相談が多いです。案外お互いに誤解もあると思います。

 鴻上尚史さんは、相談事に対して真剣に回答されていますので、本を読んでいる自分も真剣に自分の考えを書いています。

 いい言葉があります。「恋愛は禁止されればされるほど燃える」(ロミオとジュリエットを例に出して)禁止されなければ時間が経つとたいてい飽きます。なにもかも思いどおりにいったらお互いに見せたくもない、見たくもない素(す)の部分が表面に出てきます。こんなはずじゃなかったとなります。相手のイヤな面が見えたけれど、結婚するかしないか、結婚を続けていくか中断するか。そこからが勝負です。
 もうひとつ「恋愛は許可を求めるものではない」もいいセリフです。生理現象と同じとあります。
 
 精神的余裕をもつために「ひとりになる時間」をつくるはいいアドバイスで同感です。いつもふたりでいるとイヤになるときもあります。束縛(そくばく。自由を奪われる)されたくないのです。この場合は、反抗時期を迎えた幼児のお子さんとのふたりきりの相談事の回答で示されています。まわりの協力がいります。

 親が、自分のこどもたち、兄弟姉妹間の対応で違いがあるともめます。
 親は意図的に差別的対応をしようとしたわけではなく、結果的にそうなってしまうということがあります。
 自分が親になってみるとそういうことがわかります。
 自立できる年齢になったら、家を出てひとり暮らしをするということがそのことの解決につながると考えたら、鴻上尚史さんも同じ答えだったので共感しました。

 日本人の「不寛容」の話が出ます。思い出すに、昔はおおざっぱで、おおらかな空気がありました。いいかげんといえば、たしかにそういう面もなきにしもあらずですが、理屈よりもお互いの心情を優先して、お互いの共存をめざす協調社会が大半でした。近頃は、人間の心が狭くなってしまった感じがあります。権利の主張と攻撃があります。
 関連してですが、二十年間ぐらいテレビをあまり見ませんでした。仕事中心の生活を送ってきました。だれもがそうだと思うのですが、仕事に専念しているとテレビを見る時間はそれほどありません。ニュースと天気予報ぐらいです。数年前にリタイアして、テレビをゆっくり見ることができるようになって驚いたことがありました。
 午前中も午後もワイドショー的な番組で、タレントさんたちが、いったいどういう権限があって、どういう立場で、どんな責任をもって、その時話題になっている不祥事をしでかしたらしき人物を、再起不能なまでに追いこんで、徹底的に叩きのめす発言をするのだろうかと理解できませんでした。そして、攻撃対象とされる人物は、まるで使い捨ての消費物のように次々と変わっていくのです。袋叩きにするいじめ大会です。異常な光景でした。
 なんというか、そもそも、起きたことの本当のことというのは、当事者自身と、当事者にごく近い関係者でしかわからないものです。まさかと思うようなことがからんでいたりもします。
 情報の一部分だけをとらえて、狙いを定めた相手を攻撃することは危険です。出来事の内容は、表に出すことができないこともあるし、わざわざ無関係の人たちの前にさらし出す必要がないものもあります。
 そのうちわたしは理解しました。これは、バラエティショーなのだと。ああだこうだ、なんだかんだと言い合う娯楽なのです。おもしろおかしくやってだれかを徹底的に攻撃して、自分たちのストレスを解消するのです。うさばらしです。
 出演者の立場は、出来事に関する利害関係人ではありません。実害をこうむった被害者でもありません。どうしてこんな放送をするのかと考え続けてようやく結論にたどりつけたのです。
 出演者と出演者が所属する事務所はテレビ局からギャラをもらいたいのです。そしてテレビ局はスポンサーから広告料をもらいたいのです。
 マスコミの映像による心理操作の気配もあるので、こういった番組は観ないようになりました。テレビ番組はすべてそうなのですが、内容が制作者の意図(いと。企て(くわだて))に基づいて加工されてつくられていると自覚しています。心理を誘導されない賢い(かしこい)視聴者でいたい。
 知りたい権利があるのでしょうが、知りたくない権利もあります。
 本書では、「自粛警察」のような事例についての考察があります。
 
 ポカホンタス:ディズニーアニメ映画。結婚がかなわないアメリカインディアン女子と探検家イギリス人男子との悲恋話。

 女子高校で、女子が同級生の女子に恋をして苦しむ相談があります。彼女は自分の心は男だと表明します。
 もし自分のそばでそういうことが起こったら自分はどうしたらいいのかわかりませんが、鴻上尚史さんはきっぱりとアドバイスを与えておられます。「うまくいってもいかなくてもどーんと当たってみてください」と。

 結婚したばかりの男性から実感がこもった言葉での相談があります。「『新婚さん』と冷やかされるが、早くもしんどさを感じています」
 奥さんには、ストレスがたまっています。奥さんはかなりがまんをしていたようです。いい人、いい妻という評価を得るためにがまんしていたけれど、結婚してから、気を許した夫に対して、新妻のストレスが爆発します。
 相手にひとつでも尊敬できるところがあると、そのほかの嫌なことは受け入れることができると、自分は考えています。
 
 「こどもを愛さない親なんているわけない」というようなことがからんだ相談があります。
 こどもをつくることができても育てることはむずかしいです。
 自分の時間を奪うこどもの存在をうとましく思う親はけっこう多いと思います。
 物語やドラマに出てくる仲良し家族というのは、あまりありません。暗い雰囲気の家庭が多い。

 紹介されている言葉として日本人のもつ「無意識の優越感」(日本人以外への人種差別があります)
 
 まじめな人のむくわれていない相談があります。就活に関するものです。励ましてあげたい。
 鴻上尚史さんからのアドバイスとして「大丈夫」を口癖にするとあります。そこを読んだときに、沖縄のおばあさんが「なんくるないさー(なんとかなるさー)」とかイスラムの人が口にする「インシャラー(神の御心(みこころ)のままに)」という言葉が思い浮かびました。
 基本的に気持ちの持ち方次第で自分の気分をコントロールできないことはありません。
 
 人生に100点満点での点数をつける話が出てきます。自分は60点で十分幸せです。

 おとなになった発達障害の人からの相談があります。
 大学を出て学力も優秀でマニュアルに沿った接客も上手なのに、まわりの人と雑談をするという日常会話ができない人がいます。案外、そういう人は少なくない気がします。一芸に秀でて(ひいでて)いるけれど、一芸以外のことはにがてなのです。この部分を読んでいて、村田沙耶香作品(むらた・さやか作品)「コンビニ人間」を思い出しました。
 この本に書いてある相談者の文面には「脳の器質的なもので、今後の改善の蓋然性(がいぜんせい)が低いもの」とあります。常人(じょうじん。平凡な人)にはなかなか書けない文章です。
 器質的:(脳の)構造、性質
 蓋然性(がいぜんせい):確実性の度合い
 
 両親が特定の外国人の悪口を言うことについて、こどもさんから相談があります。ヘイトスピーチです。(人種、国籍、宗教、性別などに関して行う攻撃、脅迫、侮辱など)
 GDP(国内総生産)の順位が高いということは自慢になるのだろうか。人間や国の価値はお金の多い少ないで決まるとは思えません。
 指摘があります。何も自慢することがない人が、自分が日本人であるということを自慢する。最後の砦(とりで)です。
 ネトウヨ:インターネット+右翼

 別の相談で、気に入った文章がありました。趣旨として、こども時代は、嫌な事、受け入れたくないことを、なんとなくうやむやにされることが多い。  

Posted by 熊太郎 at 07:02Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2021年05月25日

ぼくのあいぼうはカモノハシ ミヒャエル・エングラー・作

ぼくのあいぼうはカモノハシ ミヒャエル・エングラー・作 はたさわゆうこ・訳 杉原知子・絵 徳間書店

 本の帯にある「オーストラリアにはどうやって行くの?」というキャッチコピーを見て、以前シドニーを訪れた時に見学したタロンガズー(タロンガ動物園)を思い出しました。水槽に入ったカモノハシをのぞき込みましたが、カモノハシがいるにはいましたが、暗くて姿がはっきりとは見えませんでした。
 それから2005年に開催されたあいち万博のオーストラリア館で、おおきなカモノハシのつくりものが展示されていました。

 さて、この物語では、ドイツ人の男の子が人間のことばを話すことができるドイツの動物園にいたカモノハシとオーストラリアに行くようです。(人間のことばを話すのでしょうが、ドイツ語でしょう)
 本のカバーの絵をながめています。かわいいまんが絵です。ベンチに座った男の子は両手でリュックをかかえています。その右となりで、カモノハシが両手を(両前足を)をびんのようなものの上にのせています。なんだろう? 旅行に出かけるのに何をもっていこうとしているのだろう。わかりません。(読み続けて、27ページでなにかがわかりました。「ピーナツバター」の容器でした。名前がシドニーというカモノハシの好物です。人間のこどもみたい)
 本のカバーを見て、男の子の名前が「ルフス」であることがわかりました。姉のヤニーネ11歳と母とドイツで暮らしているそうです。父親はエンジニア(技術者)で、オーストラリアに単身赴任で働きに行っているそうです。

 本のページをめくります。コアラの絵があります。オーストラリアといえばコアラです。そして、カンガルーです。
 名古屋市にある東山動物園のコアラは、オーストラリアのタロンガ動物園から来ました。ちなみに名古屋市とシドニーは姉妹都市です。
 いろいろと身近に感じながら読書が始まりました。
 タイトル「ぼくのあいぼうはカモノハシ」から、テレビドラマの番組である「相棒」が頭に浮かびました。

 ドイツにある動物園のバス停の近くで、10歳ぐらいに見えるドイツ人男子ルフスと動物園から逃げて来たというカモノハシのシドニーが出会います。(読み終えてみると訳者のあとがきで、ルフスは小学二年生か三年生ぐらいとありますので、八歳か九歳でした)
 シドニーはふるさとのオーストラリアに帰りたい。ルフスは、オーストラリアに働きに行っている父親に会いに行きたい。ふたりの望む行き先が一致しました。

 カモノハシの姿を文字で表現するとしたら、ルフスのことばでは「くちばしビーバー」「水かきウサギ」わたしが考えたのは「あひる口(くち)をしたコツメカワウソ」です。
 ポケモンのコダックが思い浮かびます。
 カモノハシのシドニーの話だと、カモノハシの意味は「美しさと勇気と知性あふれる無二の生きもの」だそうです。とても長い。
 日本だとカモノハシはどこの動物園にいるのだろう。調べましたがどうも日本にはいないみたいです。(訳者のあとがきにも日本の動物園にカモノハシはいないと書いてありました)
 
 おもしろいことが書いてあります。
 カモノハシが人間にことばを教えたそうです。

 違和感があったのは、「パパに会いたい」の部分でした。
 単身赴任先の父親に会いたいという少年はいないような……
 小学生の頃の自分をふりかえってみると、父親は怖い存在で、それなりにうっとおしかった。息子に優しいパパって少ないんじゃないかな。でもママはパパに会いたいかもしれません。
 そんなこともあって、このお話には、おとながおとなの気持ちで書いた児童文学作品の雰囲気があるのです。
 パパはエンジニアで、シドニーに新しい工場をつくるために一年間という期間で単身赴任をしているそうです。まあ、夫というものは家庭をかえりみずに仕事だけに専念する時期が数年間あります。そうしないと会社で昇進できません。

 34ページあたりからおもしろくなってきました。生き生きとした文章です。

 カモノハシのシドニーは、いざというやばいときは、死んだふりをして、ぬいぐるみになったまねをします。クマと出会った時に人間は死んだふりをするといいとは聞きますが、それとは逆パターンです。でも、動物同士でもありそうな話です。
 シドニーは死んだふりの練習をします。きちんとやらなければならないそうです。徹底的に仕上げるというドイツ人気質を感じました。ちょっと怖い。

 カモノハシのシドニーとルフスの関係は、ドラえもんとのび太の関係のようです。ドラえもんがのび太くんにアドバイスするように、シドニーがルフスにいろいろ教えます。
 わたしはふたりがすぐに飛行機でオーストラリアに飛ぶのだと思っていましたが違いました。
 木登りをしたあとなんとふたりは、バスでドイツからオーストラリアに行こうとします。(カモノハシは自力で木登りはできないと思うのですが、シドニーはできると言っていました。シドニーはいろいろとほらふきですが(うそをつく)言動が前向きなので、にくめません)
 
 ウルル:オーストラリアにある山に見える一枚岩。エアーズロックともいう。
 ミュンヘン:ドイツの都市。1972年(昭和47年)に夏のオリンピックが開催された。
 
 シドニーの顔が緑色とあります。茶色だけかと思っていましたが、ネットでみたカモノハシの顔色が緑色に見える写真もありました。

 ヤギが木に登るという文章があるので、調べたら、本当にヤギが木に登って葉っぱを食べている写真がネットにあったのでびっくりしました。アフリカモロッコにあるサハラ砂漠のヤギは木に登るのです。(でも観光用のやらせの疑惑があるようです)

 バスでオーストラリアに向かったふたりです。日本の絵本で「こんとあき」があります。こんはきつねのぬいぐるみで、あきは小さな女の子です。ふたりは、電車に乗っておばあちゃんに会いに行きます。こんのくちぐせは「だいじょうぶ。だいじょうぶ」です。こんもシドニーもこどもを守る妖精のような存在なのでしょう。

 サルディーニャ島:イタリア沖の地中海にある島。
 
 ○○ごっこの世界です。旅ごっこ、旅行ごっこ、冒険ごっこ、疑似旅行です。
 旅の困り事はたいてい「トイレ」です。
 バスの中にはトイレがありません。
 人に見つかって、死んだふりをしてぬいぐるみに化けるシドニーには、ウフフフフと笑いがこみあげてきます。
 
 地球儀が出てきます。自分が小学生だった頃、地球儀を見て、どうしてなにも疑問をいだかなかったのか不思議です。地球が丸いということを素直に受け入れています。白黒テレビで、ウルトラQとかウルトラマンの映像を見ていたからでしょう。
 
 壊血病:かいけつびょう。ビタミンCの不足で、体の中で出血する。

 バスでオーストラリア行きに失敗したふたりは、こんどは、池にある足こぎ貸しボートでオーストラリアへ行こうとします。だんだん漫才みたいになってきました。
 面かじ:おもかじ。進行方向を右にとる。左のときは「取りかじ」
 まわりを岸に囲まれているので、ボートは当然オーストラリアには着きません。
 いろいろと勉強をいっぱいしないとオーストラリアまでは行けないよ。

 タスマニアデビル:オーストラリアのタスマニア島に住む動物。肉食有袋類(にくしょくゆうたいるい)

 カモノハシは卵を産む哺乳類です。
 カモノハシは食べられるかというような文章が出てくるのですが、食べようと思えばなんでも食べられるわけで、でも、カモノハシは食べちゃいけないんです。食料用の生きものではありません。貴重な動物です。生きていてくれなければなりません。人間が自然界にある動物の種類を根絶やしにしてはいけないのです。

 ついに飛行機でオーストラリアへ行けることに気づいたふたりです。
 なんと航空券を偽造します。
 もう半世紀ぐらい前にまだ十代だった自分が生まれて初めて飛行機に乗った時のことを思い出しました。まず、飛行機の切符がどこで売っているのかがわからなくて、バスで駅前から空港まで行きました。そして、たぶん手荷物を預ける受付カウンターのところで「切符をください」と言ったら相手の方はたいそうびっくりした顔をされていました。当日分のチケットだと思われたようで、一か月ぐらい先のチケットがほしいと言うとその場で売ってもらえたような記憶が残っていますがちょっと記憶があいまいです。そして、わざわざ空港まで来なくても営業所のようなところの窓口で売っていると教わりました。その後は、バブル景気まっさかりのころなどには、窓口の長い行列に並んで購入していました。いまは、インターネットでも購入できるのでとても便利になりました。

 マジョルカ島:マヨルカ島。地中海にあるスペインの島。

 ふたりは、路面電車にも乗りました。

 カモノハシのシドニーはなにかしらコアラに対抗意識をもっています。同じオーストラリアの動物ですから協調してオーストラリア観光をPRしてほしい。

 漫才の台本を読むような感じで、喜劇としてお話が進行していきます。

 ハンブルク:ドイツ北部の港湾都市

 空港でお年寄り夫婦との出会いがあって、なんとなくテレビ番組の「空港ピアノ」とか「駅ピアノ」のシーンが脳裏に浮かびました。
 退職して年金生活の穏やかで仲の良いご夫婦です。見習いたい。
 ご夫婦はオーストラリアに住む娘さん夫婦に会いに行くそうです。
 
 ソーラー発電:太陽光発電

 まあ、壮大なほら話パターンの物語です。
 シドニーを抱いたルフスは「小さな密航者」です。

 日本からオーストラリアに飛行するときは、オーストラリアの東海岸沿いに南下しますが、ドイツから行くときは、西海岸のほうから近づいていくそうです。かなり遠い。訳者のあとがきによると、ドイツからだと、日本からブラジルに行くような位置関係にあるそうです。

 こどもたちよ、世界に羽ばたいてくれたまえ。

(その後)
 NHKのテレビ番組「ダーウィンが来た」を見ていたら、少しだけカモノハシの映像が出ました。カモノハシの攻撃を受けた人の手が傷ついて腫れていました。(はれていました)カモノハシは蹴爪(けずめ。後ろ足にある突起物)に毒をもっているそうです。映像にあるカモノハシは、見るからに野生の動物であり、物語やアニメに出てくるような愛らしさはありません。むしろ、生きるためのたくましさと強さを感じる動物でした。

(さらにその後)
 「いきもの最強バラエティー ウソナンデス」という本を読みました。
 162ページにカモノハシが出てきます。
 最初は、生き物だとは思われなかったそうです。つくり物だと判断されています。1799年ごろのお話で、カワウソにくちばしをくっつけたつくり物だと思われたそうです。
 ほ乳類なのに、卵を産みます。お乳はおなかのしわから出します。オスの後ろ足のツメには毒があります。大昔の生き残りのほ乳類だそうです。恐竜みたい。進化の途中のようでもあります。  

Posted by 熊太郎 at 06:13Comments(0)TrackBack(0)読書感想文