2021年04月23日

はてしない物語 ミヒャエル・エンデ

はてしない物語 ミヒャエル・エンデ 上田真而子(うえだ・まにこ) 佐藤真理子 訳 岩波書店

 最初の30ページぐらいを読んだところで感想を書き始めます。
 映画「ネバーエンディングストーリー」は、ちらりとしか見たことがありませんが、興味がわかなかったのでおもしろさにピンときませんでした。ところが、この原作本のほうは、冒頭からおもしろい。今年読んで良かった一冊になるだろうという期待がもてます。
 「ナルニア国物語」のようにこどもさん向けの冒険空想物語です。その年齢(小学生)のときに読めば感動が大きかっただろうと歳をとった今になっては後悔するのです。
 だから、自分が小学生になった気分で読み続けてみます。はじまりのきっかけに関する文章と26の章からできています。

「Ⅰ ファンタージエン国の危機」
 主人公が10歳か11歳ぐらいの男児であるバスチアン・バルタザール・ブックス。学校ではいじめられています。チビデブでX脚の体格です。母はすでに死去しており、父は無口。
 本屋の店主らしきおじさんが、カール・コンラート・コレアンダー。こちらも太ったずんぐり男です。
 古本屋カール・コンラート・コレアンダーという店名が鏡文字になっているところからこの物語は始まります。
 バスチアン・バルタザール・ブックスがこれから読む本のタイトルが「はてしない物語」です。
 現実の社会のことが茶色の文字、本の中の空想世界のことが緑色の文字で書いてあり、シーンは交互に変わります。(これが、その後のしかけにつながっていくのです)
 ファンタージエンという世界にハウレの森というところがあります。
 いいなあという文章が続きます。
「なんだって、そいつらに一発見舞ってやらないんだね(バスチアンが学校でいじめられていると聞いて)」
「はっきりいえば弱虫なんだな。おまえは、ええ?」
「学校はいつもうちのめされてばかりいる場所だった」
 読んでいて、気持ちがわくわくする感じがあります。

 くされごけの沼の話。あわだつ粥(かゆ)のこと。コウモリに乗って移動する。ほかにも乗り物として、象、鷲とライオンが合体したような大怪鳥グライフ、翼をもつ白馬、飛ぶ犬、とんぼ、蝶など。
 ファンタージエンという世界にあるエルフェンバイン塔に住む「幼ごころの君」とは王子のことだろうか。(女王のことでした。そして女王は病気です)

「バスチアンの好きな本は、手に汗をにぎるようなもの、愉快なもの、読んでいて夢のあるもの、話の中の人物たちが途方もない冒険をするもの、あらゆる 場面を思い描いてみることができるもの、そういう本だった。」(物語づくりの基本のひとつだと納得します)

 バスチアンは、学校に遅刻して、またいじめにあうのがいやで、教室の屋根裏に隠れて、「はてしない物語」を読み始めます。

「Ⅱ アトレーユの使命」
 物語に存在する世界が「ファンタージエン」です。
 宮殿での話し合いで物事が決定されます。
 この世界では、登場人物は人間ではなく、動物や虫が人のようなものになっています。
 バスチアン父子の関係が、バスチアンの母親死去後うまくいっていないことの説明があります。
 バスチアンが読んでいる物語のなかにいる主人公アトレーユが登場しました。10歳ぐらいの少年です。彼は、しろがね山脈の向こうにある草海原に住んでいる。草人です。緑の肌族に属します。アトレーユが乗る彼の馬の名前が「アルタクス」です。
 本の表紙に「二匹の蛇がたがいに相手の尾をかんで楕円になっている絵」があります。そこに意味があります。

「Ⅲ太古の媼(おうな)モーラ」「Ⅳ群衆者イグラムール」
 媼(おうな):老女
 冒険のお話です。病気になった女王の命を救うために、アトレーユは、女王に新しい名前を授けてくれるという人物を探しにいくのです。南のお告げ所のウユララというのが名付けの方法を知っているそうです。

 問題点として「虚無が広がっとるんでがす」
 虚無が広がると、たとえば、生き物の体が少しずつ消えていくのです。
 壮大過ぎて、文章だけでは、情景を想像しきれない部分もあります。
  女王「幼ごころ」の病気の原因はきっと「虚無」です。そしていま、女王は、亡くなりそうなのです。女王の特徴として、ものすごく長く生きている。ものすごく長く生きているけれど歳はとらない。若いまま生き続けている。生き続けるためには新しい名前がいる。女王「幼ごころ」の病気を治すためには、あるいは死を避けるためには、女王に新しい名前が必要なのです。女王が亡くなると、ファンタージエンという世界もこの世から消滅するそうです。

 おひかり:幼ごころの女王がアトレーユに与えた首飾りのお守り。アウリンという名称です。

 厳しい条件が提示されました。アトレーユと幸いの白い竜のフッフールは目的達成の交換条件として、毒による死を受け入れなければなりません。チャンスは毒で死ぬまでの一時間しかありません。

「Ⅴ夫婦隠者(ふうふいんじゃ)」「Ⅵ三つの神秘の門」「Ⅶ静寂の声」
 夫婦隠者:おじいさんである夫がエンギウックで、三つある神秘の門の研究者です。おばあさんである妻が、ウーグルで、アトレーユとフッフールの解毒治療をしてくれます。夫婦は小人(こびと)です。地霊小人(ちれいこびと)というそうです。

 主人公がアトレーユで、彼が乗る白い幸いの竜がフッフールで、フッフールはルビーのような赤い目をしています。フッフールはしゃべります。外国の固有名詞なので何度も確認しないとピンときません。
 本物の生きたスフィンクスが複数いるところにアトレーユとフッフールは行きます。

 ときおり現実世界のバスチアンのことが出てきます。彼は本読みを続けています。「おなかが音を立てて鳴った」という記述部分がおもしろかった。(やがて、バスチアンがいる世界とアトレーユのいるふたつの世界はつながるのです)

 以下が神秘の門です。アトレーコは神秘の門を通過しなければなりません。
 第一の門:大いなる謎の門
 第二の門:魔法の鏡の門。開かれてもおり、閉じられてもいる。門は鏡でできている。(この部分を読んでいるときに辻村深月作品「鏡の孤城」のイメージが湧きました)
 第三の門:鍵なしの門。門は閉まっている。門を壊すことはできない。

 目的は門の先にある南のお告げどころにいるウユララと話をして死にそうな女王の命を救うために新しい女王の名前をもらうこと。

 そして、アトレーユは記憶を失いました。民話の浦島太郎が思い浮かびました。「ぼく、だれなんだろう?」
 ウララが登場しました。でも声だけです。「われらは本の中だけの生き物」
 読書のことについて書いてある物語だとわかります。
 幼ごころの君である女王の新しい名前の名づけ親になるのは本「はてしない物語」をいま読んでいるバスチアンです。

「Ⅷ妖怪の国で」
 エルフェンバイン塔に住む「幼ごころの君(女王)」に新しい名前を授けて女王の命を救うことができるのは「人の子」です。つまり本を読んでいる現実社会にいるバスチアンです。アトレーユは本の読み手のバスチアンに会うための旅を続けます。

 気に入った文節として「幽霊なんていない。だけど、どうしてお化けの話があんなにたくさんあるのだろう?」
 
 アトレーユが現実社会に来ることは無理で、本を読んでいるバスチアンのほうが、ファンタージエンの世界に行くのだろうと予想できます。「かれらには近いが、われらには遠い。」という老いた女性ウユララの言葉が思い出されます。

 『虚無』が強調されます。なにもなくむなしい。すべてに意味も価値もない。無限の空間

「Ⅸ化け物の町」
 人狼(じんろう)グモルクが登場します。
 向こうの世界(本を読んでいるバスチアンのいる世界)という言葉が登場します。バスチアンが読んでいる本「はてしない物語」の中にある世界がこっちの世界です。
 虚言(うそ)にこだわる人狼のグモルクです。

「Ⅹエルフェンバイン塔へ」「ⅩⅠ王幼ごころの君」「ⅩⅡさすらい山の古老」「ⅩⅢ夜の森ペレリン」
 物語が全体の半分まできました。予想どおりの急展開があります。本の読者のバスチアン・バルタザール・ブックスが物語の中に入って来て、勇者になるのです。
 幼ごころの君には「月の子(モンデンキント)」という名前が付けられました。
 一粒の砂が種となって新しい世界が形成されます。ギリシャ神話とか、日本でいうところの古事記の世界です。文章は幻想的で壮大です。「夜の森ペレリン」という新世界が誕生しました。
 「汝の欲することをなせ」
 これからどうなるのだろう。

「ⅩⅣ色の砂漠ゴアプ」「ⅩⅤ色のある死グラオーグラマーン」「ⅩⅥ銀の都アマルガント」
 中近東古代メソポタミア文明の世界を観るようです。王朝制度です。王さまとか女王さまがいる世界です。文章表現の内容はダイナミックです。力強く生き生きと躍動しています。
 砂漠の固有名詞が「ゴアプ」なのですが、砂漠があたかも生きているように動きます。動的です。
 「グラオーグラマーン」という名の巨大なライオンが登場しました。
 空想の世界ですから何でもありです。死んでも生き返ることができます。
 「シカンダ」とは剣の名前です。
 バスチアンは、天地創造の神のようになっています。彼は彼自身にも自覚のない秘密をかかえているそうです。
 ときおり「これは別の物語」という文節が出てきます。先日読んだ川村エミコさんのエッセイでも「これは別の話」というような文節が何度も出てきていました。偶然ですがおもしろい。
 銀でできた世界です。アマルガントという大きい美しい銀の都です。
 2・3年前に映画館で観た「アラジン」の活劇シーンを観ているような文章です。
 ヒンレックが勇士。オグラマール姫はルン王の娘
 ヒンレックの友人の勇士が、ヒクリオン、ヒスバルト、ヒドルン

「ⅩⅦ勇士ヒンレックの竜」
 アマンガルト人の代表者として、銀翁(ぎんおう。銀の国の代表者)ケルコバートは107歳
 クアナという年寄りの女性。クアナの息子がクインという狩人。クインの子が、男の子のアクイル、女の子のムクア。
 アッハライ(常泣き虫。とこなきむし)
 スメーグ(竜)がオグラマール姫をさらった。
 ここから遠くに「モーグル」という国あり。そこは、冷たい火の国と呼ばれている。ヴォドガバイという森あり。鉛の城ラーガーが建っている。第一の堀に緑の毒、第二の堀に硝酸、第三の堀にさそりがいる。鉛の城の主が、スメーグという竜で、広げると32mのねばねばした翅(はね)をもっている。
 スメーグを倒すには、ラーガー城の地下室にある鉛の斧が必要な武器となる。

「ⅩⅧアッハライ」「ⅩⅨ旅の一行」
 クリス・タ:バスチアンが物語を話してあげた女の子(だけどバスチアンには記憶がありません)
 アル・ツァヒール:光を放つ石
 アッハライ:常泣き虫。とこなきむし
 シュラムッフェン:常笑い。とこわらい。道化蛾(どうけが)
 アウリン:おひかり:幼ごころの女王がアトレーコに与えた首飾りのお守り。その後、バスチアンの手にあります。アウリンには、願いをかなえてくれる力がありますが、力を使うとバスチアンの過去の記憶が少しずつ消えていきます。そして現実社会へ戻れなくなります。バスチアンは元の世界での暮らしを好ましく思っていないので、元の世界に帰れなくなってもかまわないと思っています。「父さんはぼくがいなくなってよろこんでいるかもしれない」

 「ⅩⅩ目のある手」「ⅩⅩⅠ星僧院(ほしそういん)」
 イルアン:青い魔鬼(ジン)
 オグライ園(食肉らんの森)には、魔の城ホロークがあり、目のある手という領域となっているそうです。ファンタージエンで一番性悪な女魔術師サイーデが住んでいるそうです。
 味方同士の対立が始まります。いじめられっ子のバスチアンは、優れた能力を授けられて(さずけられて)、人が変わってしまいました。与えられたものに頼って、自分がいい思いをしたいというふぬけになってしまいました。これまで支えきてくれたアトレーユや白い竜のフッフールの助言を聞き入れません。こうして、バスチアンは独裁者になっていくのです。この先は、バスチアンが痛い思いをすることになるのでしょう。なんだかナポレオンの生涯が重なります。
 ゲマルの帯:ガラスでできた姿を見えなくする帯。サイーデからの贈り物
 『ファンタージエンとは、はてしない物語である』
 アル・ツァヒール:光る石。封印してある扉を開くときに使う。

「ⅩⅩⅡエルフェンバイン塔の戦い」「ⅩⅩⅢ元帝王たちの都」
 バスチアンは狂気の独裁者になってしまいました。ファンタージエンという世界は、戦争状態です。
 とある場所です。「はてしない物語」を読んで、バスチアンのようにいい気になって、帝王になって、廃人になった人たちが集められています。元(もと)いた自分の世界に戻れなくなったのです。本人はすっかり記憶を失っています。
 もうすぐ、読み終わるのですが、ものすごい量のページ数でした。きちんとは読み切れていません。また数年後読む機会があるかもしれません。

「ⅩⅩⅣアイゥオーラおばさま」「ⅩⅩⅤ絵の採掘坑」「ⅩⅩⅥ命の水」
 バスチアンは病気で死んでしまった自分の母親みたいな女の人に出会います。でも母親ではありません。アイゥオーラおばさまという人でした。バスチアンはひとときの安心できて充実した気持ちを味わいます。
 バスチアンは「命の水」を飲めば、元いた世界に帰ることができるそうです。
 関係性の薄い父親とのきずなを強調してある物語なのですが、父親を大事にしようというメッセージが物語のなかにあります。妻を亡くした夫である父親もつらい気持ちをかかえているのでしょう。
 盲目の坑夫ヨルという人物がバスチアンを生命の水が湧き出る泉へと案内してくれます。ミンロウド坑という絵の採掘場へ行きます。そのあたりを読んでいるときに考えたことです。『不幸とは世間を知らないということ』『閉じこもっていては、悦び(よろこび)を知ることはできない』物語のなかでは、この世にはない幻想の世界が広がっています。
 バスチアンの人生は、ナポレオンの人生のようです。英雄になって皇帝になって、流刑になって亡くなった。されど、バスチアンはまだこどもで、ナポレオンのような人生は物語のなかだけのことです。バスチアンは、もともと自分がいた世界に戻らなければなりません。小学校へ通わねばなりません。
 白い幸いの竜フッフールとアトレーユがバスチアンを助けに来てくれました。
 二匹の蛇がいます。
 感動的なシーンが続きました。
 「愛すること」の大事さが説かれます。フッフールは「幸いの竜」です。
 
 バスチアンはもといた世界に戻ることができました。そして、「はてしない物語」という本は消滅してしまいました。
 バスチアンが自宅で翌朝起きてみると、初雪が降っていたそうです。
 書店の店主もまたファンタージエンへ行ってきた体験があることが判明します。
 このあたりを読んでいて思ったことです。『自分以外の人は、自分とは違う脳内の世界をもっている』
 バスチアンがこれから先、作家になる道が示されたような小説でした。1982年(昭和57年)初版の本でした。  

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2021年04月22日

イーダちゃんの花 アンデルセン 

イーダちゃんの花 原作・アンデルセン 文・角野栄子 絵・市川里美 小学館

 松谷みよ子作品『ふたりのイーダ』のなかで、登場人物のニックネーム「イーダ」の由来としてこの絵本が紹介されていたので読んでみました。
 『ふたりのイーダ』は広島原爆投下の犠牲者のことがからんだお話になっていました。

 アンデルセン:デンマークの童話作家。「マッチ売りの少女」「みにくいアヒルの子」「人魚姫」「裸の王さま」など。1805年-1875年、70歳没 日本は江戸時代後期から明治時代初期のころ。明治元年が1868年。

 優しくて落ち着いた色合いの絵です。ページをめくりながら、絵を見てから文章を読んでいます。
 小学生ぐらいのイーダと家庭教師をしている男子学生さんとの会話のようすだと想像して読み始めました。
 学生は、花が枯れてしまっていると嘆くイーダに、花は舞踏会に行った。花は踊り疲れて枯れてしまったと説明します。
 ヨーロッパの雰囲気があります。王さまがいて、女王さまがいて、王子や王女がいる世界です。君主制でひとりの人間が国家を統治する社会制度です。王族と高級聖職者が国をコントロールしていた時代でしょう。
 チョウたちが飛ぶ絵がきれいです。
 冬になって、王さまたちがまちの城へ帰ると、いなかにある城に花たちが入って来て、歌や踊りの舞踏会を開催するそうです。
 繰り返し読んでみると、少女のイーダは、「イーダさん」ではなくて、「イーダちゃん」のようです。小学生ではなくて、小学校就学前ぐらいの女の子で、お花を使って、ままごとごっこをしているように見えます。イーダちゃんは、しおれたお花をベッドに寝かせました。
 月の光に照らされながら花たちが踊ります。童話や少年少女向け文学では『月』がよく出てきます。こどもにとって『月』にはなにかしら魅力があるのでしょう。
 楽しい夢が広がります。おもちゃのチャチャチャという歌で、兵隊さんが夜中に動いたり、洋画アニメであるトイ・ストーリーのシーンが思い浮かんだりします。

 お話のなかはお祭り騒ぎになってきました。
 ミュージックとダンスです。

 でも花にも命の期限がありました。
 されど花は種になりました。
 命は続くのです。

 文章にある「ノルウェーからいとこたちが来る」というのは、舞台がデンマークという土地柄でしょう。
 最後のページは、お花のお墓がつくられているシーンです。
 フランス映画『禁じられた遊び』を思い出しました。なんだか心にしみじみとくる絵本でした。反戦のメッセージがあるなと勝手に自己解釈をしました。  

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2021年04月21日

ふたりのイーダ 松谷みよ子

ふたりのイーダ 松谷みよ子 講談社

 広島原爆投下を素材にした幻想的な物語で、物語の基本に反戦の強い意思表示があります。のりうつり(憑依。ひょうい)のような話の運びもあります。
 直樹、小学四年生、直樹の妹ゆう子、二歳十一か月、ふたりの母親(職業は、雑誌のライターに思えます)、母親の祖父母、りつ子という若い女性の姿がありますが、100ページぐらいを読んできて、今は、母親の配偶者の姿は見えません。物語の中身は、幻想的です。少し怖くて、幽霊が出てきているような雰囲気もあります。
 
 イーダというのは、ゆう子のニックネームですが、けんか相手に「イーダ」と言って、たとえば、両手のひとさしゆびで、自分の両目の目尻を下げたり、口をうすく横に広げて強がる表情をつくったりしたときに出る言葉「イーダ」から由来がきているのだろうと読みながら想像しています。(その後、アンデルセンの童話作品「イーダちゃんの花」が関係することがわかります)

 舞台は『花浦』というところですが架空の地名でしょう。設定は、広島県内のお城があるところで、時代は昭和四十年代初めぐらいまでのどこかの時代と推測しました。(その後調べたら、お城のモデルは山口県の岩国市にある城だったそうです)

 木のいすがしゃべるのですが、Eテレで見かけるいすがキャラクターで出てくる幼児向けの番組を思い出しました。

 広島県内の祖父母宅に預けられる兄の直樹と妹のゆう子です。
 母親は熊本県阿蘇地方へ、取材で単身出張します。
 
 ばぶ:毛布のこと。二歳児であるゆう子の口癖です。
 
 小学四年生の直樹の仕事は、二歳児ゆう子の子守りです。
 
 庵主(あんじゅ):とくに尼寺の尼僧

 イスが話す声はロボットのようです。

 秘密の屋敷にはテレビがないので、テレビがない時代に暮らしていた人の話です。テレビが普及し始めたのは昭和28年だったと思います。西暦だと1953年です。それでも全世帯に普及できたのは、昭和40年代初めでした。1965年以降です。

 ギッチョー ギッチョー:キリギリスの鳴き声だと思います。わらべうた。ギッチョー ギッチョー こめつけこめつけ

 読んでいて、たぶん、もうひとりのイーダは「りつ子」のことだろうとピンときます。今は、100ページ付近を進んでいます。

(つづく)

 物語に登場するお城のモデルは山口県岩国市錦帯橋のそばの山に建つ岩国城だそうです。そばにある錦帯橋を見学した時に、山頂に建つ岩国城を見上げたことがあるので、そのときのことを思い出して、イメージをふくらませながら本読みを続けています。
 自由に発想されてのびのびと創作されています。空間の広がりがあります。
 『とうろう流し』は、中学生の頃に、九州地方で、海に流す『精霊流し』を見たことがあるのでイメージが湧きます。
 同じく、広島の平和公園も行ったことがあるので、読んでいて、風景を想像できます。

 心に響いた一節として「生と死は、紙一重じゃった……。」
 運不運があります。

 世代が入れ替わって、記憶が薄れたときに、再び戦争の惨禍が繰り返されます。人間は、そのときのメンバーを変えながら、同じ過ちを繰り返す歴史をもっています。ゆえに、戦争にならないように文化の力で戦争を回避しなければなりません。されど、戦いと殺し合いの表現が世の中で流行するのは、人間が好戦的であるからです。今は矛盾をかかえて人間は地球上に存在しています。

 松谷みよ子さんの作品は「いないいないばあ」を始め乳幼児向けのお話し本ぐらいしか読んだことがなく、この作品を読んだのは初めてでした。こどもさんの命を守ることを一番に思われている気持ちが伝わってきました。  

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2021年04月20日

シュリーマン旅行記 清国・日本

シュリーマン旅行記 清国・日本 石井和子・訳 講談社学術文庫

 トロイの遺跡の記事を読んでからこの本に来ました。
 シュリーマン氏に関する詳しいことは知りません。
 シュリーマン:1822年-1890年 68歳没 ドイツの考古学者 実業家 ギリシャ神話に出てくる都市トロイアの遺跡を発見した。
 トロイアの考古遺跡:ギリシャ神話に登場する都市。紀元前1200年代にトロイア戦争があったとされる。現在のトルコ共和国。1870年発掘開始。シュリーマン氏の日本訪問は、1865年で、当時43歳でした。明治元年が1868年。

「第一章 万里の長城」「第二章 北京から上海へ」「第三章 上海」
 万里の長城へは行ったことがあります。万里の長城は遠くから眺めるもので、登るものではないというのが当時の感想でした。坂がきつくて息が切れます。一方通行の通路を、楽をしたいと思って逆方向に歩いたら、制服姿の中国人警備員に警棒でコツンと脳天を叩かれてびっくりしました。
 本を読むと、当時の税務業務において清国の汚職がひどかったようです。外国人が中国人の代わりに業務をやって事務改善がされています。中国役人の腐敗と書いてあります。
 ただその後の記述を読んでいると、清国では、賃金が相当低いので、そこが汚職をする動機となったのではないかと推測します。
 ドイツ人、フランス人、イギリス人などがする中国語の学習が書いてあります。高度な知識と技術を習得するために留学による勉強があります。清国にとっては外国人なのに、ヨーロッパ人の彼らは税官吏の卵です。
 中国は人口が多く、まずは、食糧確保のための農業がおもな産業と、読みながらわかります。水田耕作です。食べ物がいります。
 町の部分はかなり市街地がかなり汚れていたそうです。ぞっとするほど不潔と書いてあります。

(つづく)

 中国訪問の部分を読み終えたところですが、いろいろと考えさせられました。書いてあることは大昔のことではなく、今から175年ぐらい前のことで、日本では、幕末でした。日本やアメリカ合衆国の成り立ちかたと中国の成り立ち方はかなり違います。
 読んでいて、国を統治するシステムが異なってもしかたがないことだという気持ちになりました。お互いの立場を理解するには難しいものがあります。お互いの立場を認め合う寛容さが平和につながります。対立よりも共存で、各個人としては、自由を求めて移住できるのであれば移住して、自分の居場所を探すのが賢明なのでしょう。
 いろいろ考えながら読んでいます。今年読んで良かった一冊になりそうです。

 北京のことが書いてあります。
 韃靼人(だったんじん):タタール。モンゴル、シベリア、東ヨーロッパリトアニアなどの広範囲にいた民族。
 床几(しょうぎ):折り畳み式の腰かけ。布の部分に座る。
 175年前の北京の風景・光景は、十三年ぐらい前にわたしが北京を訪れた時に観た裏通りとか、未開発、未整備地区と変わりがないようにみえる記述です。
 シューマンが訪問した当時のこととして、食べ物が粗末、乞食がたかってくる。ヨーロッパ人とは音楽や演劇などの文化に対する価値観が違う。
 中国は、かなり昔には栄えて、市街地整備も立派だったのに、その後の世代によって、せっかく立派につくった街が破壊されてしまっている。「いまは、無秩序と頽廃(たいはい)、汚れしかない」とあります。街は、かなり汚いという内容で表現されています。

 きちんと記録されています。覚書(おぼえがき)とされています。思うに、太古の昔から、きちんと記録を継続して残していく習性をもった人間が複数いたのだと思います。
 はたからみればその行為は大変そうでも、本人にとっては、苦痛どころかやりがいと快感があったのでしょう。

 万里の長城に関するシュリーマン氏の感想は驚嘆したという内容になっています。ただ、何のためになったのかという疑問が残っています。
 あわせて、長城付近の住民はとても親切だと喜んでいます。

 通過の単位が「ピアストル」です。フランやポンドのヨーロッパ通貨との換算では、大量のピアストル硬貨が必要で、持ち歩くことも重たくて持ち歩けないと書いてある部分もありました。

 鉄道敷設(ふせつ)の意識、意欲が低いとあります。蒸気機関を取り入れると、国民の雇用の場が減るので取り入れない方針だったそうです。ゆえに、その後の鉄道技術や整備も不十分だったそうです。

 上海も現在の上海のようすとはかなり異なります。1864年に上海港開港。重要な港だそうです。されど、当時は、過酷な自然環境のなかに位置していたそうです。沼に囲まれていて、疫病が多い。川の流れるは複雑で溺死者が出る。初めて知る記述が続きます。

「第四章 江戸上陸」「第五章 八王子」「第六章 江戸 6月24日から29日」
 時期は梅雨時6月1日から始まります。約一か月間の日本滞在です。記述を読むと雨の日が多い。それでも日本は素晴らしいところだという言葉が続きます。
 上海から横浜までの航路を経て、江戸を訪れ、八王子に足を運んでいます。
 事前に訪問した中国との比較があります。正反対だと分析されています。
 おいしいトビウオ、美しい富士山、気候や風景、食物にも満足されています。日本の米の味は質が高いとあります。
 清潔な街並みが広がっています。中国と違って、賄賂(わいろ。公権力の行使者に金品を渡して融通をはかってもらう)を固辞して受け取らない正直な江戸時代の役人たちです。シュリーマンは、日本人は、賄賂を受け取らなくても親切丁寧に対応してくれると驚いています。日本人として、読んでいて、胸がすく思いです。気持ちがすっきりして、すかっとさわやかになれます。当時の日本人は暮らしのありかたに整然とした秩序があって、きちんとしています。
 「日本人が世界中で一番清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている」と記されています。
 公衆浴場では、三十人から四十人の老若男女が、男女の仕切りはあるもののお互いに素っ裸が見える姿で入浴していたそうです。男女混浴は恥ずかしいことでもいけないことでもないとあります。日本人は清らかで素朴だと驚嘆されています。
 日本人は、富を追うことによって、本来日本人がもっていた良きものを失ったようです。
 読みやすい平易な文章が続きます。
 日本には、四百家以上の大名がいるとあります。地方自治体の数みたいなものだと考えました。例として、加賀藩が120万2700石(こく。以前、以前1石は人ひとりが1年間に消費する米の量と学んだことがあります)と記されています。
 愛宕山(あたごやま):江戸にある山として記述があります。江戸城があまり遠くないところに見えるそうです。現在の東京都港区愛宕あたりなのでしょう。
 著者本人の考察として、日本は地震が多いので、外国のように石で組み上げた建物はない。壁や間仕切りは、強い紙を使用している。また、火災から保管物を守るために、ぶ厚い土壁の蔵がある。陶器は卵の殻のように薄いが硬くて強いなどの西洋との比較記述には読んでいて強い興味をもちました。さらに、外国の野良犬は凶暴だが、日本の野良犬はとてもおとなしくて、吠え(ほえ)もせず、道に寝そべっているとあります。観察はさらに続き、日本には、肉屋も牛乳屋もバターを売る店もない。家具屋もなく、家具がなくても暮らせる生活の知恵がみられたそうです。いろいろと省エネです。
 
 江戸時代末期の商店街の記述が丁寧で細かく、読みながら、自分がタイムマシンで過去へ行った気分になれます。著者は、見学して、覚書をメモしてという行為を根気よく繰り返しています。優れた(すぐれた)文章が続きます。
 他国では、人々は娼婦をあわれみながらもいやしいものとしている。されど、日本では「おいらん」を尊い職業と考えて神格化しているとあり、著者は西洋とは異なる文化的な相違にかなりショックを受けています。
 また、宗教に関しても、民衆の生活のなかに真の宗教心は浸透しておらず、ことに上流階級の人間は宗教に懐疑的(かいぎてき。疑問をもっている)とあります。
 大道芸としての「独楽回し(こままわし)」に感嘆し、世界に通用する技術とほめたたえておられます。
 
「第七章 日本文明論」
 サントーペテスブルク:著者の帰国先。ロシア

 日本を賞賛する文章が続いていましたが、ここでは、日本の良くないこととしていくつか列挙されています。
 まず、「自由」が抑圧されているという趣旨の文章があります。封建体制(主従関係、身分制度)が敷かれて、監視社会ができあがっている。諜報機関が存在する。密告が武器になっている。スパイです。
 幕府のメンバーは、大名を信用していない。大名は自分たちの利益しか考えていない。国益を考えていない。外国と貿易をすると自分たちの利益が損なわれるから開国に反対していると読み取れます。
 
 プロシア:ドイツ帝国建国の中核となった王国
 兌換(だかん):外貨との交換。江戸幕府が認めていた外貨は「メキシコピアストル」で外国商人には不利で法外な兌換率だったとのこと。

「第八章 太平洋」
 1865年7月4日、横浜からサンフランシスコへ船で向かいます。
 イギリス製の小さな帆船です。蒸気船の便がなかったそうです。
 ドラマや映画とは違うつくりものではない現実に関する記述があります。いいことばかりじゃない。嫌なこともたくさんある。人生は旅のようなものだという思いにかられながら読書を終えました。  

Posted by 熊太郎 at 07:18Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2021年04月19日

ぼくは王さま 寺村輝夫・作 和田誠・絵

ぼくは王さま 寺村輝夫・作 和田誠・絵 理論社

「第1話 ぞうのたまごのたまごやき」
 王さまが王子さまの誕生を祝うために、ぞうのたまごの卵焼きをみんなに振る舞うと言い出します。
 ぞうの卵なんてありません。なのに、王さまにつかえる人たちがぞうの卵探しを始めます。
 結末をどうするのだろうかと首をかしげながら読み続けました。
 リズム感がある文章です。
 こどものぞうが登場してうまくまとまりました。

「第2話 しゃぼんだまのくびかざり」
 王さまは、志村けんさんのバカ殿みたいです。遊ぶのが好きで、ほかは、食べているか、寝ているかの生活です。ちょっとは勉強をするようですが、本気さが感じられません。
 王さまは、今度は大臣に、つぶれないしゃぼんだまをつくりなさいと命令しました。博士がつぶれないしゃぼんだまづくりの研究を始めました。
 その後あれこれあって、王さまはみずから肉体労働を始めます。畑にしゃぼんだまの種を植えて心をこめて農作業をして育てるのです。
 王さまは、なまけものからいい人に立派に変化しました。

「第3話 ウソとホントの宝石ばこ」
 王さまはうそつきです。王さまはうそを隠すために、うそをオルゴール式の宝石箱にしまっています。おもしろい。事柄は異なりますが、むかし、穴の中に王さまの耳はロバの耳ということをしまっておいた話がありました。
 人に迷惑をかけるうそをつく人は罰せられます。王さまも同じく罰せられます。
 その後、宝石箱がウソ発見器のようになって、流れ星の話とか、隣国との戦争勃発かというとこまで話が発展します。
 力の入った物語でした。

「サーカスにはいった王さま」
 王さまはたべすぎで、おなかをこわしてしまいました。
 腹痛を治すための注射はだいきらいです。1961年(昭和36年)の本です。いまどきは、注射はあまりしなくなりました。
 自由奔放(じゆうほんぽう。なにものにもしばられずに思うがまま)な展開になっていきます。
 だんだん王さまが気の毒に思えてきました。
 王さまのことを王さまだと知らない世界に行ったら王さまは無力です。
 読み終えて、健康管理は自己管理、人が代わりにはやれませんというお話とうけとりました。  

Posted by 熊太郎 at 07:11Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2021年04月18日

ローカル路線バス乗継対決旅陣取り合戦 茨城県取手市から水戸

ローカル路線バス乗継対決旅 陣取り合戦 茨城県取手市から水戸・偕楽園 テレビ番組

 太川陽介チーム:Dream Ami(ドリーム・アミちゃん。家族に聞いたら、エグザイルの女性チームにいた女性だということでした。歌とダンス) インディアンス(漫才)田渕章裕さん(太川陽介さんへのヨイショが適切で良かった。円滑な人間関係を築くためには大事です)
 河合郁人チーム(かわい・ふみと。A・B・C-Z。同じチームのメンバーである辰巳雄大さんとの売れなかった頃の苦労話として、河合郁人さんが売れないことで気持ちが沈んで、自宅の風呂の中で泣いていたという苦労話が良かった。今はテレビに出られるようになって幸せだそうです。ふたりとも二十年以上かかって、ようやくテレビに出られるようになったそうです):川崎麻世さん ふぉ~ゆ(ジャニーズのグループ)辰巳雄大さん

 にぎやかで明るくて、いつもだと深刻で苦しさがにじみ出る暗い雰囲気のときがあって、これはちょっとと思うときもあるのですが、今回はいつもよりも笑いどころも多く、安心して楽しめました。みなさん仲がいいからお互いに言いたいことを言える関係でした。
 なかなかいい勝負でした。太川陽介さんと河合郁人さんの師弟関係が始まっているように見えました。
 競技とは離れて、地方再生のための地方PRの目的もある番組としての位置づけが育ってきています。
 小学生のころに茨城県に住んでいたことがあって、土地勘があるので、番組内容がおもしろかった。地元のみなさんは親切で心が温かい。参加者からの面倒な質問が多いなか、丁寧に対応されていました。
 いくつか笑ったとこを列挙してみます。
 「茨城県の県庁所在地ってどこ?」という話が出て(これから両チームが行く目的地である県庁所在地水戸市の名称が出ませんでした。同様に三重県の県庁所在地はという質問で、漢字一文字(ひともじ)のヒントに対して「よ」という返答だったのでひっくりかえりました。「津」です)
 太川陽介さんが、からぶりしたはったり(嘘)と両チームが同じバスに乗車したなりゆき経過が愉快でした。人間の心理が重層に表現された重苦しい時間帯でした。(そのときの太川陽介さんのようすを物まねした辰巳雄大さんが、お上手で大笑いできました)
 太川陽介さんはみじめな思いをされましたが、最後は勝負に勝ちました。さすがです。
 タクシーの後部座席で、川崎麻世さんの自信たっぷりの今後のチェックポイント予想のあとの言葉「オレ賭け(かけ)に弱いんだよ」も笑いました。
 河合郁人チームのメンバーが、大きな橋のたもとでの撮影シーンができて、二か所いっぺんに陣地を手に入れたところは、うまくプランがつくってありました。城郷町(しろさとまち)+常陸大宮市(ひたちおおみやし)でした。
 太川陽介チームは、海鮮丼としじみラーメンを食べておいしい思いができて良かった。

 つくばみらい市での陣取りで、間宮林蔵さんはたしか1808年に間宮海峡を発見されました。最近歴史に興味が湧いてきてちょっと勉強しているので、数日前に見た間宮林蔵さんの記事と重なり嬉しかったです。そのころフランスではナポレオンが皇帝として活動していました。

 観終えての感想ですが、ひたすらあわただしい。もはやこれは旅ではないと感じました。だからといって、否定する気持ちはありません。
 偶然ですが、数日前の夜に、BSテレビ東京で2008年の番組太川・蛭子の路線バス乗継の旅、東京の日本橋から京都までを見ました。ゲストは相本久美子さんでした。みなさんお若い。蛭子さんの動きもいい。三泊四日で琵琶湖の南まで路線バスだけでたどり着いています。京都まではたどりつけませんでしたが、すごいなー とても真似できません。
 仕事中心の生活で二十年間ぐらいあまりテレビを見ませんでした。リタイアして今は過去の放送などを見て、ああこんなことがあったのかと楽しんでいます。過去の番組であっても自分にとっては初めて観るものなので新鮮です。
 初期の頃の太川陽介さんと蛭子能収さん(えびすよしかずさん)の路線バス乗継の旅では、バス路線のないところは、タクシーを使うことができたし、随時、観光地巡りもされています。のんびりしていました。今は競争です。蛭子能収(えびすよしかず)さんも去って、ずいぶん内容が様変わりしました。