2013年01月07日
ニサッタ、ニサッタ (再読) 乃南アサ
ニサッタ、ニサッタ (再読) 乃南アサ 講談社
先日、書店で、乃南作品「いつか陽のあたる場所で」、「すれ違う背中を」がドラマ化されるという広告を見かけました。わたしはこの「ニサッタ、ニサッタ(アイヌ語で明日という意味)」のほうが好みで、映像化されるといいのにと思ってきましたが、特段話題になることもありません。書中で、アイヌ差別とか、黒人差別に触れる記述があることや、新聞販売店の劣悪な労働条件の記述が差し障りがあるのかもしれませんが、竹田杏奈19才の境遇と彼女と95才のおばあさん(片貝耕平の祖母)のやりとりがやさしく、気に入っています。たくさん本を読んで感想をつくってきて、最近は読みたい本が少なくなりました。以前読んで気に入った本を再び読む作業に移りました。
派遣法が改正された今、巷(ちまた、世間)では派遣職員は減りました。この小説では、会社が倒産して、派遣社員になって、正社員間との差別を受けて、退職して、採用されてを繰り返しながら、転落していく片貝耕平大卒25才の記述から始まります。今となっては、内容は「古い」。「派遣」は「嘱託」へと変化を遂げています。
わたしが子どもの頃、45年ぐらい前、将来はコンピューター社会ができて、人びとはしあわせに暮らすという未来への夢がありました。実現してみると、コンピューターに仕事をとられて、凡人の仕事がなくなるという不幸な社会になりました。この小説では、片貝耕平がどん底の生活を味わうことになります。会社が倒産して、あとの仕事も長続きせず、家賃が払えなくなり、アパートから追い出され、手元に残ったのは携帯電話だけ。ネットカフェで寝泊りするホームレス状態になり、カードローンで破綻したあげく、人にもだまされて、心はすさみます。お金がないと心がすさむ。どうでもいいと思うようになる。作者による心理描写がうまい。ことに北海道出身をはじめとして、地方都市の経済地盤沈下による親族の貧困化は痛々しい。なんの目的もなくただなんとなく大学に行くという意識では卒業後の就職につながらない。専門の資格を得て専門職として自活してゆくぐらいの気構えは最低限必要です。小説を読んでいて、もう忘れていた記憶がよみがえりました。片貝耕平は新聞販売店で住み込み従業員となるのですが、そういえば、自分自身も中学2年生から高校3年生までの5年間、朝刊の配達をしていました。学費稼ぎための未来への投資が目的で、片貝耕平のようにパチンコでつくった借金返済目的の過去の清算ではありませんでした。耕平は、生きている意味を自問自答しますが答がでません。どん底です。いっぽう同じ仕事をする竹田杏奈は不幸な生い立ちです。沖縄県出身の彼女は悲しいとき、いつも歌を歌って耐えます。夏川りみさんの「花は咲く」です。がんばれと応援したくなります。
(つづく。いつものように読みながら感想文をつくっています)
513ページのうちの342ページまできました。
「格差」ってなんだろう。「お金」があることと「時間」があることと、どちらが上で、どちらが下なのだろう。失意に陥った耕平と杏奈は千葉県外房の海をながめます。その後ふたりは、北海道知床でオホーツク海を一緒にながめます。お金があっても「海を見る時間がない人」よりもお金がなくても「海を見る時間がある人」のほうがぜいたくな人生を送っています。同じく刻まれる時刻は、人によって長くも短くも感じられます。自然から与えられる恵みを体中で感じることができる人生はお金がなくても裕福です。「格差」とはあいまいなものです。
耕平は行き詰ると必ず時間や事柄をさかのぼります。あのとき、あのことがなければと考えだし、最終的にあの家に生まれてこなければというところまで行き着きます。済んでしまったことは、もう変えることはできません。あのときああならないようにするためにはどうしたらいいのか、これからのことを考えたほうがいい。
北海道にある女満別空港(めまんべつ)空港を利用したことがあります。行ったことがある土地が小説に出てくると想像しやすい。千葉県房総半島しかりです。ここまで読んで印象に残った部分を列記します。
学習塾で派遣社員として働き始めた耕平の感想として、田舎に塾はない。公立学校優先。ところが東京は私立学校優先ということにカルチャーショックを受ける。
派遣社員を辞めて、アパートに住めなくなって、ウィークリーマンションの部屋で、灰色の都会で、自分は埃(ほこり)みたいな存在だ。
新聞販売店の住み込みで、日頃は仲が悪いのに、だれかをいじめることになると結束する連中
つらい思いをして泣く代わりに、小声で沖縄出身歌手の歌を歌う沖縄出身の竹田杏奈(あんな)。うれしくて歌っていると勘違いしていたことに気づいた耕平
寝て起きて働いて空腹を満たしてまた寝るの繰り返しが生活していくということ。
疲れ果てて「どうでもいい」という気持ちになる。
単調な毎日だが、働いた分だけ蓄えができるようになった。自信がついてきた。
杏奈の言葉―わたし、海が見たい。
杏奈は声を出さずにただぽとぽとと涙をこぼし続けた。
杏奈の言葉―先輩に会えるかなと思って。
祖母の言葉「和人ではないしょ」、「苦労してる」、「気をつかえ」
(つづく)
読み終えました。最後にある竹田杏奈が生い立ちを告白するシーンではティッシュが欠かせません。泣けます。
作者はこの作品で、血筋とか先祖から祖先への伝承についてメッセージをおくっています。世代の流れによって、死なずに生きることを教育しています。失意に陥った耕平は気持ちが荒れすさみ、来る人来る人に対して大声で罵声(ばせい)を浴びせるようになります。やがて「消えてしまいたい」と思うようになり、自殺を図ろうとします。それを止めたのは祖母の手のひらです。わたしもこどもの頃、体の具合が悪かったとき、祖母が体をさすってくれたことが何度かあります。薬より効きます。
老人からの教育として同作者の作品「しゃぼん玉」があります。確か、舞台は九州宮崎県でした。こちらもいい作品です。
民族差別の記事は胸に痛い。差別された側の生活苦を読んでいると、本人には信仰心がないと心を支えきれない。本人に責任はないのにアイヌ人ということでこどもの頃は日常的に繰り返されるいじめにあっていた。
心に残った祖母の言葉として、「明日のことは考えなくていい。今日のことだけ考えればいい」
(以下は前回読んだときの感想です。)
ニサッタ、ニサッタ 乃南アサ 講談社
ニサッタとは、アイヌ語で「明日」という意味です。全体で513ページの長編です。378ページまで読んで、題名がなぜニサッタなのかがわかり始めます。464ページまできて、前半と後半がつながり怒涛のように涙が湧き出してきます。体中の膿(うみ)が涙になって出てくるのです。顔中がびしょびしょになります。わたしが今年読んだなかでは群を抜いて最高の作品でした。自分のイメージを壊されたくないので映画化された作品は見ませんが、この作品はぜひ映画化してほしい。
主人公は片貝耕平くん24歳ですが、はっきりいって彼は人間のクズです。どうしようもない奴です。他人(ひと)は他人(ひと)、自分は自分でいいじゃない。彼は人の批判ばかりを繰り返します。当り散らしてみっともない。
本当の主人公は、竹田杏奈(あんな)さん20歳です。彼女は秘密をかかえています。最後の最後でその秘密が明らかになります。心がズシンと沈みます。
人間の弱点をさらけだす作品です。舞台は東京、北海道知床・網走・斜里(しゃり)、そして沖縄です。前半は重苦しい。前半が終わったときに作者がほっとため息をつくのが聞こえました。中盤からコメディに変化します。竹田杏奈の秘密を作者はどう処理するのか、興味はその一点に集中しました。夏川りみさんの歌が聞こえてきます。杏奈の言動には心が暖まります。ハートフルというのでしょうか。お金について考えました。労働という手段があったにしろ、お金というものは天から与えられたもの。そして、お金は自分のものではなくてみんなのもの。だから自分のためだけに使うものではなくて、みんなのために使うもの。自分の悪かった過去を償うため、みんなのためにお金を出すのです。
この作品は別の面で、夢をもとうと呼びかけています。夢が無い人、夢を失った人、食べていけるだけで満足ということだけでは、人生に明るい花は咲かない。
耕平君のばあちゃんはやさしい。同時期に読んでいた「ファミリーツリー」小川糸著の菊おばあさんと共通点があり、わたしはふたりのおばあさんを混在させながらこの物語を読みました。誠実な作品でした。
先日、書店で、乃南作品「いつか陽のあたる場所で」、「すれ違う背中を」がドラマ化されるという広告を見かけました。わたしはこの「ニサッタ、ニサッタ(アイヌ語で明日という意味)」のほうが好みで、映像化されるといいのにと思ってきましたが、特段話題になることもありません。書中で、アイヌ差別とか、黒人差別に触れる記述があることや、新聞販売店の劣悪な労働条件の記述が差し障りがあるのかもしれませんが、竹田杏奈19才の境遇と彼女と95才のおばあさん(片貝耕平の祖母)のやりとりがやさしく、気に入っています。たくさん本を読んで感想をつくってきて、最近は読みたい本が少なくなりました。以前読んで気に入った本を再び読む作業に移りました。
派遣法が改正された今、巷(ちまた、世間)では派遣職員は減りました。この小説では、会社が倒産して、派遣社員になって、正社員間との差別を受けて、退職して、採用されてを繰り返しながら、転落していく片貝耕平大卒25才の記述から始まります。今となっては、内容は「古い」。「派遣」は「嘱託」へと変化を遂げています。
わたしが子どもの頃、45年ぐらい前、将来はコンピューター社会ができて、人びとはしあわせに暮らすという未来への夢がありました。実現してみると、コンピューターに仕事をとられて、凡人の仕事がなくなるという不幸な社会になりました。この小説では、片貝耕平がどん底の生活を味わうことになります。会社が倒産して、あとの仕事も長続きせず、家賃が払えなくなり、アパートから追い出され、手元に残ったのは携帯電話だけ。ネットカフェで寝泊りするホームレス状態になり、カードローンで破綻したあげく、人にもだまされて、心はすさみます。お金がないと心がすさむ。どうでもいいと思うようになる。作者による心理描写がうまい。ことに北海道出身をはじめとして、地方都市の経済地盤沈下による親族の貧困化は痛々しい。なんの目的もなくただなんとなく大学に行くという意識では卒業後の就職につながらない。専門の資格を得て専門職として自活してゆくぐらいの気構えは最低限必要です。小説を読んでいて、もう忘れていた記憶がよみがえりました。片貝耕平は新聞販売店で住み込み従業員となるのですが、そういえば、自分自身も中学2年生から高校3年生までの5年間、朝刊の配達をしていました。学費稼ぎための未来への投資が目的で、片貝耕平のようにパチンコでつくった借金返済目的の過去の清算ではありませんでした。耕平は、生きている意味を自問自答しますが答がでません。どん底です。いっぽう同じ仕事をする竹田杏奈は不幸な生い立ちです。沖縄県出身の彼女は悲しいとき、いつも歌を歌って耐えます。夏川りみさんの「花は咲く」です。がんばれと応援したくなります。
(つづく。いつものように読みながら感想文をつくっています)
513ページのうちの342ページまできました。
「格差」ってなんだろう。「お金」があることと「時間」があることと、どちらが上で、どちらが下なのだろう。失意に陥った耕平と杏奈は千葉県外房の海をながめます。その後ふたりは、北海道知床でオホーツク海を一緒にながめます。お金があっても「海を見る時間がない人」よりもお金がなくても「海を見る時間がある人」のほうがぜいたくな人生を送っています。同じく刻まれる時刻は、人によって長くも短くも感じられます。自然から与えられる恵みを体中で感じることができる人生はお金がなくても裕福です。「格差」とはあいまいなものです。
耕平は行き詰ると必ず時間や事柄をさかのぼります。あのとき、あのことがなければと考えだし、最終的にあの家に生まれてこなければというところまで行き着きます。済んでしまったことは、もう変えることはできません。あのときああならないようにするためにはどうしたらいいのか、これからのことを考えたほうがいい。
北海道にある女満別空港(めまんべつ)空港を利用したことがあります。行ったことがある土地が小説に出てくると想像しやすい。千葉県房総半島しかりです。ここまで読んで印象に残った部分を列記します。
学習塾で派遣社員として働き始めた耕平の感想として、田舎に塾はない。公立学校優先。ところが東京は私立学校優先ということにカルチャーショックを受ける。
派遣社員を辞めて、アパートに住めなくなって、ウィークリーマンションの部屋で、灰色の都会で、自分は埃(ほこり)みたいな存在だ。
新聞販売店の住み込みで、日頃は仲が悪いのに、だれかをいじめることになると結束する連中
つらい思いをして泣く代わりに、小声で沖縄出身歌手の歌を歌う沖縄出身の竹田杏奈(あんな)。うれしくて歌っていると勘違いしていたことに気づいた耕平
寝て起きて働いて空腹を満たしてまた寝るの繰り返しが生活していくということ。
疲れ果てて「どうでもいい」という気持ちになる。
単調な毎日だが、働いた分だけ蓄えができるようになった。自信がついてきた。
杏奈の言葉―わたし、海が見たい。
杏奈は声を出さずにただぽとぽとと涙をこぼし続けた。
杏奈の言葉―先輩に会えるかなと思って。
祖母の言葉「和人ではないしょ」、「苦労してる」、「気をつかえ」
(つづく)
読み終えました。最後にある竹田杏奈が生い立ちを告白するシーンではティッシュが欠かせません。泣けます。
作者はこの作品で、血筋とか先祖から祖先への伝承についてメッセージをおくっています。世代の流れによって、死なずに生きることを教育しています。失意に陥った耕平は気持ちが荒れすさみ、来る人来る人に対して大声で罵声(ばせい)を浴びせるようになります。やがて「消えてしまいたい」と思うようになり、自殺を図ろうとします。それを止めたのは祖母の手のひらです。わたしもこどもの頃、体の具合が悪かったとき、祖母が体をさすってくれたことが何度かあります。薬より効きます。
老人からの教育として同作者の作品「しゃぼん玉」があります。確か、舞台は九州宮崎県でした。こちらもいい作品です。
民族差別の記事は胸に痛い。差別された側の生活苦を読んでいると、本人には信仰心がないと心を支えきれない。本人に責任はないのにアイヌ人ということでこどもの頃は日常的に繰り返されるいじめにあっていた。
心に残った祖母の言葉として、「明日のことは考えなくていい。今日のことだけ考えればいい」
(以下は前回読んだときの感想です。)
ニサッタ、ニサッタ 乃南アサ 講談社
ニサッタとは、アイヌ語で「明日」という意味です。全体で513ページの長編です。378ページまで読んで、題名がなぜニサッタなのかがわかり始めます。464ページまできて、前半と後半がつながり怒涛のように涙が湧き出してきます。体中の膿(うみ)が涙になって出てくるのです。顔中がびしょびしょになります。わたしが今年読んだなかでは群を抜いて最高の作品でした。自分のイメージを壊されたくないので映画化された作品は見ませんが、この作品はぜひ映画化してほしい。
主人公は片貝耕平くん24歳ですが、はっきりいって彼は人間のクズです。どうしようもない奴です。他人(ひと)は他人(ひと)、自分は自分でいいじゃない。彼は人の批判ばかりを繰り返します。当り散らしてみっともない。
本当の主人公は、竹田杏奈(あんな)さん20歳です。彼女は秘密をかかえています。最後の最後でその秘密が明らかになります。心がズシンと沈みます。
人間の弱点をさらけだす作品です。舞台は東京、北海道知床・網走・斜里(しゃり)、そして沖縄です。前半は重苦しい。前半が終わったときに作者がほっとため息をつくのが聞こえました。中盤からコメディに変化します。竹田杏奈の秘密を作者はどう処理するのか、興味はその一点に集中しました。夏川りみさんの歌が聞こえてきます。杏奈の言動には心が暖まります。ハートフルというのでしょうか。お金について考えました。労働という手段があったにしろ、お金というものは天から与えられたもの。そして、お金は自分のものではなくてみんなのもの。だから自分のためだけに使うものではなくて、みんなのために使うもの。自分の悪かった過去を償うため、みんなのためにお金を出すのです。
この作品は別の面で、夢をもとうと呼びかけています。夢が無い人、夢を失った人、食べていけるだけで満足ということだけでは、人生に明るい花は咲かない。
耕平君のばあちゃんはやさしい。同時期に読んでいた「ファミリーツリー」小川糸著の菊おばあさんと共通点があり、わたしはふたりのおばあさんを混在させながらこの物語を読みました。誠実な作品でした。
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