2013年01月08日

電池が切れるまで 宮本雅史

電池が切れるまで 宮本雅史 角川つばさ文庫

 こどもさん向けの本で、命の大切さとか、人と人との交流の大事さとか、強く生きることの教訓とかをとおして、優しい人になりましょうというメッセージが記されています。
 思うに、病気というものは、数学の「集合」にたとえると、ものすごく大きな円になるわけで、その円のなかに小さな円があって、小さな円の部分が、病名とか治療法が判明している部分になるのでしょう。つまり、医学がすばらしく進歩しているように思われるのは錯覚で、今なお、病名が付けられないような未知の病気とか治療法がわからない病気のほうがたくさんあるのでしょう。
 この本では、まだ年端もゆかないこどもたちが病院で亡くなっていきます。それを命を動かす電池が切れるまでとたとえてあります。つらいお話です。
 主人公みやこしゆきなさんの病状は、足の痛みから始まります。わたしのこどもも幼児期に足の痛みをよく訴えた時期がありました。この本で親御さんは、成長するときの痛みと勘違いします。そして、腫瘍は8cmまでに成長してしまいます。
 患者に応じた適切な病院にあたることがむずかしい。同じ症状で複数の医療機関を受診するのには勇気がいります。
 冷静に本を読みこむと、ひとつの判断を迫られます。治療しても助からないことがわかっているときに親や医療関係者はこどもにどうしてあげたらいいのか。痛みを我慢させながら、治ることのない治療行為を亡くなるまで続けていくのか。
 患者であるこどもたちの詩を読みながら、先日読んだ本「拝啓十五の君へ」を思い出しました。女子中学生を中心としたこどもたちが悩む姿が紹介されているのですが、「電池が切れるまで」のこどもたちとは、深刻度がはるかに違います。また、「1リットルの涙」では、亡くなった作者の木藤亜矢さんが、頭が悪くてもいいから、丈夫な体がほしいと訴えていました。この本では、それでも、こどもたちは、お互いをいたわりあって生きています。心と心をあわせる努力を続けていきます。
 どうやっても治らない病気なら、病室の外で思い切り楽しい思いをさせてあげて、お別れしたい。体中を切り刻むような痛みを味あわせることはやめたい。それは、親としての気持ちです。そして、自分が死んだら、天国でまたこどもと会えると信じたい。
 この本の後半にあるこどもたちの作文に書かれていることはすべてなのだろうか。本当に「感謝」だけなのだろうか。違うと思う。こどもたちには、不平や不満や怒りが、いっぱいあると思う。


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