2024年08月26日

向田邦子ベストエッセイ ちくま文庫

向田邦子ベストエッセイ 向田和子編(妹さんです。向田邦子さんは長女で和子さんの9歳年上、和子さんは末っ子です。邦子さん没後40年になるころこの本の出版について声をかけられたそうです。2020年(令和2年)ころでしょう) ちくま文庫

 向田邦子(むこうだくにこ):わたしが昨年12月に鹿児島市を観光で訪れたときに、城山公園でかけっこのイベントが開催されていて、参加していたのが、向田邦子さんが通っていた小学校の児童さんたちだったので驚きました。(本書の98ページあたりから105ページにかけてのエッセイで、当時のことがいろいろ書いてあります)
 1929年(昭和4年)-1981年(昭和56年)台湾にて航空機墜落事故で死去。51歳没。脚本家、エッセイスト、小説家。

 アンソロジー:選んで集めた本。

 1945年(昭和20年)3月10日東京大空襲の夜のことが書いてあります。(たまたまですが、このあと読んだ、『板上(ばんじょうに)咲く 原田マハ 幻冬舎 (木版画家である棟方志功の妻チヤの語り)』にも東京大空襲のことが書いてありました)
 空襲で大きな火災が発生する中、大八車で逃げる一家がいます。
 B29という爆撃機による激しい空襲の中で、筆者は、大八車を捨てて逃げる家族を見ます。
 大八車の上に、おばあさんが置き去りにされました。
 向田邦子さんのお父さんがそのおばあさんを助けます。
 おばあさんは助かります。翌日、おばあさんを探しに来た息子を、おばあさんが叩きます。(たたきます)
 そんな話が書いてあります。

 読んでいると、筆者も含めての亡くなった人たちの暮らしがよみがえります。
 心にしみる文章です。

 男が女をしもべのように使う時代でした。しもべ:召使(めしつかい)

 味わい深い文章が続きます。
 同じ日本でも、現在と戦前のようすはずいぶん異なります。
 おたき婆さんは、靴をはいたことがなかった。下駄(げた)をはいていた。
 著者の母の世代は、洋服を着たことがあまりなかった。着物を着ていた。人生70年のほとんどを和服で通してきた。
 女にとって、結婚は、『賭け(かけ)』だった。見合い結婚ばかりだった。
 知らない男と一生を過ごす。その男の子を産む。その男の母親に仕え(つかえ)、その男と、その男の子に仕える(つかえる。その人のために働く)。どれをとっても大博打(おおばくち)だったとあります。
 わたしが若い頃に聞いた言葉として、『男は就職、女は結婚』が人生のポイントだと示した言葉がありました。

 著者は乳がんを患って(わずらって)いたことがあるそうです。
 初めて知りました。

 著者の父親像は、当時の一般的な父親像でもあったそうです。
 人一倍情が濃い癖に、不器用で家族にやさしい言葉をかけることができず、なにかというと怒鳴り手を上げる。自分には寛大、妻には厳しい身勝手な夫です。
 ふんどしひとつで家じゅうを歩き回り、大酒を飲み、癇癪(かんしゃっく)を起して母や子供たちに手を上げる父親だったそうです。(昔は、そういう男がたくさんいました)
 
 留守番電話のことが書いてあります。
 今では加入電話の数も減るばかりです。
 黒柳徹子さんが出てきます。
 向田邦子さんの留守番電話に黒柳徹子さんが録音するのですが、徹子さんは、機械相手に話をすることがにがてで、合計9連続で(1回1分間)で留守録が入っていたそうです。結局、用件はあとで話すわねとなっていたそうです。

 読んでいて、著者も含めて、登場するだいたいの人たちは亡くなっています。
 著者のお父さんは、64歳のときに心不全で急死されています。
 人は亡くなっても文章は残ります。

 父上は、筆まめな人だった。
 遺伝でしょう。著者は、文筆業を職とされました。

 男中心の社会で、女は耐えることを強いられていた(しいられていた)時代です。
 今なら非常識と指摘できますが、当時は、あたりまえの風習、習慣でした。女性の生き方に選択肢がほとんどありません。男に仕えることが(つかえる)女の役割であり宿命だったのです。

 昭和10年(1935年)ころのこどものおやつが書いてあります。
 当時、父親は保険会社の次長で、月給が95円だったとあります。アンパン1個が2銭です。森永のキャラメル、明治のキャラメル、そして、グリコのおまけ付きキャラメルのことが書いてあります。
 
 『農林一号』という銘柄が出てきました。
 わたしが、小学一年生のとき、農家だった父方祖父が、おそらく農協の職員が家をたずねてきたときに、銘柄は何にするかと問われて、『農林一号にしてくれ』と返答していたことを記憶しています。そのときは、お米の銘柄だと思いましたが、こちらのエッセイを読むと、ジャガイモの銘柄とあります。知りませんでした。

 村岡花子:1893年(明治26年)-1968年(昭和43年)75歳没。翻訳家、児童文学者。『赤毛のアン』の翻訳者。

 関屋五十二(せきや・いそじ):1902年(明治35年)-1984年(昭和59年)81歳没。童話作家、放送作家。
 
 鹿児島に対する愛着が書いてあります。
 保険会社に勤める父親の転勤に伴って、1939年(昭和14年)から足かけ三年間滞在した。筆者は、鹿児島市内にある山下小学校に三年生のときから通った。
 筆者が10歳のとき、父親は33歳だった。
 鹿児島は、食べ物がおいしかった。

 直木三十五(なおき・さんじゅうご):1891年(明治24年)-1934年(昭和9年)43歳没。小説家、脚本家。

 阿部定事件(あべさだじけん):1936年(昭和11年)阿部定(あべ・さだ)という女性が、愛人の男性を殺害して、男のシンボルをちょん切った事件。新聞の号外が出て、小説や映画になった。

 勅使河原蒼風(てしがわら・そうふう):生け花草月流の創始者。1900年(明治33年)-1979年(昭和54年)78歳没。

 動物に関するエッセイがあります。『犬と猫とライオン』。昔の話ですが、ライオンを東京中野区の自宅で飼っていた人が出てきます。びっくりです。深大寺の墓に葬った。(ほうむった)。深大寺:じんだいじ。東京調布市。本には、動物慰霊塔があると書いてあります。

向田鉄(むこうだ・てつ):犬の名前です。甲斐駒と呼ばれる中型の日本犬。著者の飼い犬だった。著者が、二十代の中ごろ飼っていた。(1954年。昭和29年ころ)。病気で、生後10か月で死んだそうです。
 
林芙美子(はやし・ふみこ):作家。1903年(明治36年)-1951年(昭和26年)47歳没。第二次世界大戦時中国において日本軍国主義を支持する従軍記者。放浪日記。

コラット:ブルー・グレイの猫。著者の飼い猫。なぜ、猫を飼うことにしたのかについて、結婚とからめた話が出ます。コラットを、『ただ何となく』飼った。猫には縁があったが、男には縁が薄かった。なんとなく結婚しなかった。『なぜ結婚しないのですか』という問いに正確に答えるのはむずかしい。具体的な理由を提示できない。(わたしが思うに、人間というものは、やりたいからやるだけです。理由はあるようでないのです。(その行為を)やりたいからやる。個々の脳みその中に個々の性質として生まれながらに、その人なりの『欲』が埋め込まれているのです)

 猫の頭が、ラディッシュの大きさしかない(ちいさい):ラディッシュとは、赤い小さなダイコン。地中海沿岸が原産地。

串田孫一(くしだ・まごいち):詩人、哲学者、随筆家。1915年(大正4年)-2005年(平成17年)89歳没。わたしがたしか中学生の時に、教科書にこの方の旅をしている風景についての随筆が載っており、自分もおとなになったら、このような文章を書いてみたいと思ったことがあります。

 旅に関するエッセイがあります。
 筆者が小学校4年生・5年生の2年間を過ごした鹿児島市内の訪問について書いてあります。
 居住していたのは、1939年(昭和14年)から足かけ三年間です。太平洋戦争が、昭和16年から20年でした。もうずいぶん前のことであり、訪問しても、昔あった風景がすっかり消えてなくなっています。そのかわりに、当時の同級生や先生たちとの再会があります。風景を失った失意と、なつかしい人たちとの感激の再会があります。40年ぶりの同窓会を13人で開かれています。風景は変わったけれど、人は変わっていなかったとあります。壺井榮さんの作品、『二十四の瞳(にじゅうしのひとみ)』のようです。
 (わたしは、昨年12月に観光で鹿児島市内を訪れました。こちらの本に書いてある文章を読みながら訪問した時の風景が頭によみがえりました。いいお天気でした。著者と同じホテルに宿泊したことが本を読んでわかりました)

日支事変:にっしじへん。日本と中国の紛争。1937年(昭和12年)7月盧溝橋事件(ろこうきょうじけん。日本と中国の軍事衝突)に始まる。

 ニューヨークに旅したことが書いてあります。
 滞在中に、ロナルド・レーガン大統領の暗殺未遂事件があったようです。(1981年(昭和56年))。ビートルズとか、ジョンレノンとかオノ・ヨーコという名前が文章に出てきます。
 世の中のありようが書いてあります。大統領が狙撃されても、騒ぐのは関係者だけで、人々は淡々と日常生活を送っていると書いてあります。『一国の大統領が撃たれても、人は同じように食べ、同じように眠り、同じように犬を散歩に連れてゆく。』

 アフリカモロッコへの旅について書いてあります。
 訪問したけれど、映画、『カサブランカ』で観た景色がない。街には高層ビルが立ち並んでいる。
 映画のセットの部分だけが、観光地として残っている。
 あわせて、南米アマゾン川に行ったときのことが書いてあります。原住民だと思ったら、観光用の原住民で、観光客のために集められた原住民を演じる人たちだったそうです。
 観光客の要望を満たすためにしかたがないと結んであります。

 読み終わりました。
 最後は、261ページあたりから最後の373ページまでを休み休み読みました。
 なんというか、後半部分は、著者の遺書のような、あるいは、遺言のような内容になっていました。
 航空機事故で自らが死ぬことを予言しているようなエッセイがありました。そして、自分のこれまでの生き方をふりかえるようなエッセイもありました。

 旅の話です。
 いろいろなところに海外旅行をされています。
 稼いだお金を自分に投資される生き方をされる方です。
 わたし自身にもそういう傾向があるので共感というか、同じ仲間の人間だと感じます。
 著者の訪問先として、ペルー、カンボジア、ジャマイカ、ケニヤ、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、多彩です。
 でも、飛行機への搭乗には、不安をかかえておられました。
 昔の話ですから、ジェット機ではなく、プロペラ機の話です。

 『一杯のコーヒーから 夢の花咲くこともある』そういうコマーシャルがありました。1939年(昭和14年)の作品です。

 著者の愛称は、『クロちゃん』。色黒だった。夏は水泳、冬はスキーに夢中だった。いつも黒い服を着ていた。

 書いたテレビドラマの脚本として、『寺内貫太郎一家』、『七人の孫』、『きんきらきん』、『時間ですよ』、『だいこんの花』、『じゃがいも』など。『阿修羅のごとく(あしゅらのごとく)』もありました。
 エッセイに有名な俳優さんが次々と登場します。もう亡くなられた方が多い。
 小坂明子さんがピアノを弾きながら歌う、『あなた』もよく流行りました。(はやりました。1974年(昭和49年)。
 
 四国の香川県高松の記述が出てきます。
 わたしは、偶然ですが、高松駅で列車待ちの時間があったので、近くにあったお城を見学したことがあって、その近くに著者が住んでいたことを後年知りました。保険会社の父親の転勤に伴って、小学6年生のときに高松市内で1年間過ごしたそうです。
 エッセイでは、『四番丁小学校』が出てきます。著者は、7回から8回転校されています。わたしも、父親の仕事続かず癖が原因で、小学校は6校、中学校は3校通いました。こどものときから日本列島を東へ西へと引っ越しをしました。そんなふうだったので、著者と似たような体験があります。著者は、栃木県の宇都宮市に住んでいたことがあるとも書いてあります。宇都宮市ではありませんが、わたしも栃木県に住んでいたことがあります。

 お金ほしさで、物を書くようになったそうです。出版社で働き始めたけれど、給料は安かった。
 脚本1本を書くと、いいお金をもらえた。そのお金でスキー遊びに行った。

 なんだろう。
 読んでいて思うのは、人を集めるためには、言葉は悪いのですが、優れた(すぐれた)詐欺的(さぎてき)な技術と能力がいる。作為的に(さくいてきに。わざと。作戦として)人の気持ちを感動させることに導く技術がいるのです。出来事を加工、脚色して作品として仕上げるのです。

 読んでいると、それほどまじめ一筋(ひとすじ)の方でもありません。喜怒哀楽、欲もある普通の人です。文章を書く才能はこどものころからあった。そして、文章を書くことが好きだった。

 340ページに、『ヒコーキ』というエッセイがあります。
 飛行機に乗るのがにがてだと書いてあります。
 飛行機が墜落して死者が出たというような話が書いてあります。
 自分は、いつもこわい思いをしながら飛行機に乗っているというようなことが書いてあります。それでも旅には出たいのです。
 自分が飛行機墜落事故で死ぬ(1981年(昭和56年))ことを予言しているような文章です。
 お母さんのことが書いてあります。(著者の)母親は、飛行機が大好きだった。理由は、落ちると、飛行機会社でお葬式をしてくださるからだとあります。

 『職業』も『つき合う人』も、自分で選ぶというようなことが書いてあります。

 22歳だったときのことが書いてあります。1951年(昭和26年)ころのことです。
 自分は、子供のころから、ぜいたくで、虚栄心(きょえいしん。うぬぼれ、じまん、みばえ、見栄)が強い子供だった。
 自分は、若くて健康だった。親きょうだいにも恵まれていた。暮らしに事欠いたこともない。つきあっていた男性たちもいたし、縁談もあった。立派な男性ばかりだった。どの人と結婚しても世間並みの暮らしを送れた。
 自分で、自分は、何をしたいのかがわからなかった。今のままではいやだという気持ちだけは強かった。やりなおすなら今だと強く思った。結婚することはやめて、このままゆこうと決めた。結婚を求めない人生を歩むことにした。
 ここで、ちょっとびっくりする言葉が出てきました。『(そしてわたしは決めたのです)反省するのをやめにしよう』(この言葉は、以前テレビ番組、『徹子の部屋』で、ゲストが黒柳徹子さんにモットー(信条。生き方に関する方向性)を質問した時だったと思うのですが、徹子さんが、『反省しないこと』と返答されました。長生きの秘訣は?という質問だったかもしれません。なお、黒柳徹子さんと向田邦子さんは親しかったという印象があります)
 
 著者は、『清貧(せいひん。貧しくとも清く正しく美しく)』という言葉がキライだそうです。『謙遜(けんそん。へりくだる。相手より自分を下におく)』もキライだそうです。
 『謙遜』は、おごりと偽善に見えるそうです。
 お金がほしい、地位も欲しい、自分はなになにができると正直に自慢する人が好きだそうです。
 自分は人生において、がまんしない。やりたいことをやる。

 読み終えて思い出した一冊があります。
 『東京を生きる 雨宮まみ(あまみや・まみ) 大和書房』
 福岡県出身の女性が東京暮らしを体験します。『こじらせ女子』という流行語を発信された方だそうです。40歳のときに、自宅で事故死されています。
 人生を、太く短く生きる人と、細く長く生きる人がいます。
 自分でも知らないうちに、どちらかの生き方を選択しているということがあります。そう思いました。

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