2023年09月27日

ねじ式 つげ義春 

ねじ式 つげ義春 小学館文庫

 電子書籍で週刊誌を読んでいました。この本の紹介記事がありました。
 ああ、読んだことがあるなあと思いましが、内容を思い出せません。
 自宅の本棚を見たらこの本がありました。
 買って、本棚に立てかけて、読んだつもりで、読んでいなかったことに気づきました。ぼけています。最近、もの忘れが多くなりました。しっかりしなきゃあ。

 マンガの本です。
 なんというか、変なマンガです。
 芸術性が高いマンガです。
 人の心の深層部分を表現してあります。

 『ねじ』というのは、登場人物の左腕(ひだりうで)上部にクラゲ(メメクラゲ)が触れて(ふれて)、激痛を起こし、医者のところへ行ったら(どういうわけか産婦人科の女医)、患部を切ってくっつけたところに『ねじ』が設置されたのです。切り口をふさいで、ねじで押さえたというふうです。

 古いけれど有名なマンガです。
 クラゲに刺されるとかなり痛い。わたしは中学生の時に熊本県の8月お盆過ぎの海で、クラゲまみれになったことがあります。悲惨な体験をしました。お盆を過ぎたら海に入るなという言い伝えがありました。クラゲが大量発生するのです。クラゲは刺します。毒があります。

 反戦マンガのようです。1965年(昭和40年)少し前のこととして、それまでになかったマンガの形式でしょう。
 宮沢賢治作品『銀河鉄道の夜』みたいなシーンがあります。たぶん下地になっているのでしょう。亡くなった人の霊が電車(このマンガでは蒸気機関車)に乗っているのです。

 不気味な絵です。
 えびすよしかずさんが描く絵に似ています。
 妖怪ものみたい。水木しげるさんの絵にも似ています。
 その当時のみなさんたちは、同類の世界を極めていたのでしょう。昭和20年代後期から30年代、40年代前半です。

 文章も奇妙です。
 『桃太郎ではあっても実は金太郎なのです』

 左腕に付けられたねじを締めると、左腕がしびれるそうです。

 1968年6月(昭和43年)の作品です。

(つづく)

 ひとつのマンガごとにタイトルが付けられていることに気づきました。
 さきほどの作品が『ねじ式』です。

 今度の作品は『沼』です。
 読みました。
 よくわからない。
 結末は、わたしが思う筋書きのとおりにはならなかった。
 『孤独』とか『さびしさ(淋しさ、寂しさ)』がただよう作品です。1966年(昭和41年)の作品です。

『チーコ』
 チーコは、小鳥である文鳥(ぶんちょう)の名前です。
 女性に夜の仕事をさせて、その女性に食べさせてもらっているヒモのような若い男が出てきます。彼は、マンガ家の卵です。
 男は、女が愛情込めて飼っているペットの文鳥を虐待して殺してしまいます。
 作者の自伝のようです。
 人間は『愚鈍(ぐどん。頭が悪く、やることは間抜け)』です。
 1966年(昭和41年)の作品です。

『初茸がり(はつたけがり)』
 詩を読むようなマンガでした。
 男児が、振り子時計の中に入ってしまいます。1966年(昭和41年)の作品
 児童文学で『チョコレート工場の秘密』という本があるのですが、そこでは、男児がテレビの中に入ってしまいます。『チョコレート工場の秘密 ロアルド・ダール クェンティン・ブレイク(絵) 柳瀬尚樹(訳) 評論社』

『山椒魚(さんしょううお)』
 井伏鱒二作品『山椒魚(さんしょううお) 井伏鱒二(いぶせますじ) 新潮文庫』が下地(したじ)にあるのでしょう。こちらの話は途中から、まったく異なる展開となります。
 下水道の中、汚れた水の流れにのって流れてきたのは嬰児(えいじ。あかちゃんの死体)です。哀しみ(かなしみ)があります。精神的に重い。作者は精神を病んで(やんで)いたのでしょう。1967年(昭和42年)の作品です。

『峠の犬』
 読んでいる途中で、「そういうことか。おもしろい」という感想をもちました。
 迷い犬だと思っていたら、迷い犬ではなかった。
 昔読んだ野良猫の話『ルドルフとイッパイアッテナ 斉藤洋(さいとう・ひろし) 講談社』を思い出しました。野良猫は、行く先々で人に適当に名前を付けられるのです。だからその猫は自称『(名前が)イッパイアッテナ』と名乗っているのです。

 こちらのマンガ作品では、人間が、人間を中心にものごとを考えるかってさ(勝ってさ)を描いてあります。

『噂の武士』
 うーむ。人間界の社会のことをきちんと定義してある作品だと受け取りました。
 武士がふたり登場します。そのうちのひとりは「宮本武蔵」ではなかろうかというお話ですが、そいつは偽物(にせもの)です。ウソをついて、お金が動くのです。

 播州(ばんしゅう):兵庫県南部

 人をじょうずにだました人間がお金持ちになる。
 だまされたほう、だまされているほうは、そのことになかなか気づけない。
 世の中というものは、誤解と錯覚で成り立っている。
 金もうけをするときは、イメージづくり(加工されたウソの世界・空間)が大事(だいじ)。
 善人をだまして、善人自ら(みずから)が財産を詐欺行為者に提供させる方向へ導くのがお金持ちになる秘訣(ひけつ。コツ)であることが、人間界の『真実』なりという思考です。
 神格化されたカリスマ的な人物をひとり設定して、彼あるいは彼女のまわりに熱狂的な信者を集中させる。まるで、宗教のようです。教祖さまなのです。そして、大きなお金が動く。
 こちらの作品では、もうひとつ、以上のような考察を離れて、『本物とは何か』という命題(命題。考えるべき課題)に迫っています。別の視点から、『偽物だが、(完璧に完成させることができたのであれば)本物であるともいえる』と断定しています。

『オンドル小屋』
 こちらは、作者の実体験でしょう。
 東北秋田県あたりの温泉地に行って、嫌な思いをした体験がマンガになっています。
 泊まるところ、花札博打(はなふだばくち)をやる騒がしい人間たちと同宿して迷惑をこうむったのです。
 オンドルは、韓国とか中国の暖房方式と聞きました。床下に温かい煙を流すのです。
 旅行をしていると、若い人たちがはめをはずして、一晩中騒ぐシーンにでくわすことがあります。がっかりします。眠れません。そんなことが書いてあります。
 マンガはいろいろなつかしい。1968年(昭和43年)の作品です。
 山本リンダさんの「困っちゃうな……」の歌が出てきます。ほかに「なくな こばとよ こばとよ なくな……」「はるばるきたぜ はこだてへ……」の替え歌、「大きいことはいいことだーー」山本直純さんだったと思います。
わたしは花札はやり方を知らないので、「どっちもどっちも」という掛け声の意味はわかりませんが、なかなか騒がしい。
 作者はこの旅の時のことをよっぽど怒っていて、マンガにしたことがわかります。

『ゲンセンカン主人』
 ゲンセンカンというのは温泉旅館です。
 主人公の男性は、駄菓子屋で天狗のお面を買います。
 主人公が、ゲンセンカンの主人と似ているそうです。
 不思議なマンガなのですが、主人公とゲンセンカンの主人が重なるのです。前世の人と現世の人だろうか。あるいは幽霊だろうか。
 鍵を握る言葉が『鏡』なのですが、わたしには読解力がないのか、意味をとれませんでした。
 ラストシーンの意図がわからない作品でした。1968年(昭和43年)作品

『長八の宿』
 伊豆の温泉旅館です。
 入江長八(いりえ・ちょうはち)は左官屋(さかんや。セメントなどを塗る職人)で芸術家でもあったらしい。鏝絵(こてえ)を描く。
 『…… わしは字は読めねぇ』(昭和40年代の頃は、こどものときに学校に行けなかったからという理由で、文字を読めないお年寄りがけっこうおられました)
 旅館の娘であるマリちゃんは、東京の大学を出て、パンフレットをつくるなどの知的な仕事をしている。東京にクニオさんという好きな人がいて、クニオさんに手紙を書いている。
 ほかに旅館の歴史などの紹介があります。
 川端康成作品『伊豆の踊子』を意識して描いたマンガなのでしょう。
 旅行記でした。1968年(昭和43年)の作品

『大洋電気鍍金工業所(たいようでんきときんこうぎょうしょ。ときんはメッキ。金属加工。金属の上に金属をかぶせる』
 メッキ職人の話です。メッキ工場で働きます。特殊な薬剤を使用するので健康被害が心配です。
 塩酸、硝酸、青酸カリとあります。
 過酷な生活で貧困があります。
 肺を壊して死んでいきます。公害のようなものです。
 予科練(よかれん):海軍飛行予科練習生。航空機要員養成所。少年の志願による募集で採用した。
 朝鮮戦争:1950(昭和25年)-1953年(昭和28年)現在も終結はしていない。韓国VS北朝鮮(後ろ盾(だて)として、米国・国連・ヨーロッパの国々VS中国)

 虚無があります。(きょむ:何も存在せずむなしい)
 努力しても報われない(むくわれない)暮らしです。
 男と女の関係があって、底辺の生活です。

『ヨシボーの犯罪』
 へんな出だしのマンガです。
 雑誌の中にいる若いビキニの女性をピンセットでつまみだして食べるのです。
 人食いです。アニメ作品『進撃の巨人』を思い出しました。グロテスクです。奇怪、異様、気味が悪い。
 自転車修理屋で働いている主人公の若者男性です。(名前は、ヨシボー)兄と自転車修理をしているそうです。
 メッキ工場が出てきます。(さっきの『大洋電気鍍金工業所』の続きの話だろうか)
 ラストシーンで自転車に乗ったヨシボーが、『よし、みんなに(温泉があることを)教えてあげよう。』と言います。(「みんな」ってだれのことだろう?)

『少年』
 うーむ。気持ち悪い。
 ヨシボー(義坊)が、罠で捕まえたねずみを青酸カリに漬けて(つけて)殺しています。(わたしが小学生の頃、金属でできたねずみとりの罠(わな。箱の形状)を水につけてねずみを殺していた場面を見ていたことを思い出しました。昭和40年代のことです)
 クローム:銀白色の金属。クロームメッキに使用する。
 237ページまで読んで、ようやく、『ヨシボー』が作者の『つげ義春さん』であることがわかりました。自伝的要素があるマンガです。かなり苦労されています。
 マンガ家を志しておられます。(マンガの中で)
 家に帰ると母親がいて、まだ小さい弟と妹がいて、義父がいます。幸せそうには見えません。
 女と男のやるせない関係があります。(憂い(うれい)、悲しみ、解決のしようがない)
 お金はないけれど、ある意味平等な世界があります。貧困世界における男女平等、年功序列なしです。
 人間の心の奥に潜む(ひそむ)残酷な面が描写されています。1981年(昭和56年)の作品

『ある無名作家』
 最後の作品になりました。1984年(昭和59年)の作品です。
 奥田という男性が、安井という男性のところへ久しぶりに会いに来ました。
 わたしなんぞは、久しぶりに古い知人から連絡があると、お金の無心ではなかろうかと警戒してしまいます。
 マンガの中の季節は5月のこどもの日です。
 こいのぼりが風になびいています。
 奥田は小学校4年生ぐらいの男児を連れています。(あとでわかりますが、逃げた女房の連れ子です。奥田はその子を暴力的に虐待しています)
 安井という男性は貸本マンガを描いていたそうですから、著者自身のことか、著者の知り合いのことなのでしょう。
 読み続けて、やはり、安井は、つげ義春さんでした。

 小川国夫:小説家。2008年80歳没。「アポロンの島」

 奥田の生活は悲惨です。あまりにもひどくてここには書けません。(だけど、わたしに言わせれば、情けない男です。男ならガッツをもて! 闘志をもて!)
 小学4年生男児は、名を『伸一』といいます。

 つげ義春さんもこどものころ、義父から虐待を受けたらしい。
 虐待は、人の心を壊します。

(最後に、佐野史郎さんのエッセイがありました)
 つげ作品のファンだそうです。
 実際につげさんに会って、つげさんは『観察の人』だと分析されています。
 つげ作品は、「光がどんなにあたっている所でも闇は必ずある」ではなく、「闇だらけで真っ暗な中にも、必ず光はある」という評価だそうです。
 読み手の人生体験で、感じ方が違ってくる作品だと思います。共感される人は、それなりの苦労体験をされていると思います。
 「あいまいとか、わからない」ということがある。「はっきりとしたわかりやすい世界」は、人間界にはあまりない。
 エッセイを読んでいて、コメントにある「緩やかな(ゆるやかな)気持ち」があれば、戦争も起こらないと思ったのです。

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