2022年05月07日

赤めだか 立川談春

赤めだか 立川談春 扶桑社文庫

 有名なお話のようですが知りません。
 書評のページを巡っていて出会ったので取り寄せました。
 まずは、タイトルの『赤めだか』の意味をとれません。「赤いめだか」という魚が、実際にいるのだろうか。

 読み始めます。
 エッセイ集です。(心のおもむくままに書きつづる)10本あります。
 意外に文字数の多い本です。

 この本を読んだあとで、林家木久扇(はやしや・きくおう)さんの『バカのすすめ』ダイヤモンド社を読むつもりで手元においてあります。
 笑点を楽しみに観ていますが、笑点メンバーは天才の集まりだと思うのです。お笑いの泉です。

 二十代のころに落語を聴いたことがあります。
 ビルの中にある小さなホールでした。
 テレビでしか見たことがなかったので、落語というものは、一話が15分程度のものだと思っていました。
 たしか、一本が45分以上ありました。驚きました。そんな長いお話を暗記できているなんて、なんというずば抜けた記憶力と演技力をもった頭脳であろうかとびっくりしました。たしか、同じ人で、二本の落語を聴いた覚えがあります。途中に休憩がありました。
 職場の先輩に誘われていきました。今思うと、たぶん先輩は彼女を誘ったけれど断られたか、都合が悪くなったかで、まだ若かったわたしを誘ったのでしょう。

 著者は、1966年生まれの方です。あいにく、自分は存じ上げません。これからこの本を読んでいろいろ知ります。

『これはやめとくかと談志は云った(いった)。』
 著者は、競艇選手になりたかったそうです。こどものころ、身近に競艇を知る環境がありました。
 背が高すぎて、体格的に試験に合格できなかったそうです。
 ふつう、背が低くて悩むのですが、いろいろあります。
 サラリーマン的な職業人は、著者のまわりにはいなかったそうです。職人ばかりだった。
 普通の会社員はけっこうつらいのです。会社のためにロボットのように働くのです。
 
 著者は当然、立川談志さんを尊敬されておられます。
 自分は、立川談志さんが、むかしむかしの笑点の司会者をしておられたところしか知りません。自分はまだこどもでした。その後、ご本人が、国会議員になられた姿をテレビでちらりと見ました。
 著者は、昭和59年3月に立川談志師匠のお弟子さんになられたそうです。1984年でした。(立川談志一門の落語協会脱会が、1983年(昭和58年)で、立川流を創設しています)

 もうずいぶん昔の話ですが、黒柳徹子さんのお名前が出てきます。黒柳徹子さんは、たいしたお方です。自分は、毎日のように『徹子の部屋』を見ています。三十代のころに黒柳徹子さんの講演会に行ったことがあります。90分間、機関銃のようにしゃべられたので、びっくりしました。

『新聞配達少年と修行のカタチ』
 ここまで読んできて、ああ、故立川談志さん(2011年75歳癌のため死去。本書は、2008年単行本として発行)とお弟子さんたちとの実際にあった出来事をエッセイ(気ままに書き記した記録)にまとめてある本だと納得しました。一人前の落語家になるまでの修行日記、修行日誌です。
 タイトルの『赤めだか』の意味が書いてあります。赤いのは金魚です。成長できない金魚だから、いつまでたっても「めだか」扱いなのです。お弟子さんのことを意味しています。いくら餌をやっても育たないのです。(いくら練習をつけてやっても落語家としての能力が育たない)エピソード(ことがら)のもととなった立川談秋さんのことが書いてあります。(談秋:だんしゅうさんは、廃業されています)
 
 落語家が生きていく(食べて生活していく)システムがわかりやすく書いてあります。
 
 組織として、落語協会、落語芸術協会があります。

 お弟子さんたちは、立川談志さんのことを『イエモト』と呼んでいたことがわかる記述です。
 
 入門時の年齢として、立川談春17歳、談秋27歳、談々29歳。

 文脈は、落語を聴いているかのような文章です。

 『修業とは矛盾に耐えることだ』
 矛盾(むじゅん):つじつまがあわないこと。理屈が通らないこと。いきどおり(怒りとかあきらめ)を感じること。

 そこまでして、落語家になった理由はなんだろう。
 理由は、金(カネ。稼ぎ(かせぎ))ではないのでしょう。
 年収1000万円の高収入だったのに、サラリーマンを辞めて落語家になった笑点の新メンバー『桂宮治(かつら・みやじ)』さんの顔が頭に浮かびました。

『談志の初稽古、師弟の想い』
 この本を読みながら、同時期に、マンガコミック『ヒカルの碁』を読んでいるのですが、そちらも、囲碁の師弟関係が描いてあります。
 落語とも共通する部分があると感じながら、両方の本を読み続けています。

 立川談志:1935年(昭和10年)-2011年(平成23年)75歳没
 立川談春:1966年(昭和41年)-
 著者の立川談春さんが、17歳の時に、立川談志さんは48歳です。
 談春さんは談志さんに『坊や』と呼ばれていた。
 同時期に本に出てくるのが、以下の方たちです。
 立川志の輔:1954年(昭和29年)-立川談春さんの1年半先輩。立川談春さんからみて、志の輔兄さん。年齢はひとまわり上(12歳上)番組「ためしてガッテン」が今春で終わってしまいました。
 立川志らく:1963年(昭和38年)-立川談春さんより3歳年上。談春さんより後輩だけど先に真打になられたので、自分よりも先輩の立場にある人という微妙な扱いのことが、最後のほうにある談春さんのエッセイに書いてありました。

 道灌(どうかん):落語の演目。室町時代後期の武将「太田道灌」雨具を借りようと一軒のあばら家に立ち寄った話。

 良き言葉として『型をつくるには稽古(けいこ)しかないんだ』『談志の弟子になれたということで満足している奴等ばかりだ。』

『青天の霹靂(へきれき)、築地魚河岸修行(つきじうおがししゅぎょう)』
 築地(つきじ)と聞いて、なにやらしばらく前に、不祥事を起こしたお笑いコンビのタレントさんを思い出してしまいました。このエッセイに築地で働こうとしたきっかけがあるのだろうか。
 師匠である立川談志さんの指令で、弟子たちが、東京築地市場で一年間働かされます。
 落語となんの関係があるのだろうかと思い悩みますが、弟子たちは、破門にされたくないので従いました。著者は18歳です。
 読んでみると、早朝から正午ぐらいまで働いて、月5万円のバイト賃をもらって、退職の時には、50万円をもらって、市場の人たちの人情に触れて、心が成長して、けっこういい体験になっています。
 昭和59年ごろ(1984年)のことですから、バブル景気が始まる前で、日本経済が右肩上がりで元気が良かった時代です。
 いっぽう、その後入門してきた立川志らくさんが、談志師匠の指令である築地市場で働くことを断って、さらに、ならば破門だという話も拒否して、立川談志一門で生き残ったということも、またすごいエピソードでした。
 立川志らくさんの言葉として『私は、自分のしたくないことは、絶対にしたくないんです。師匠はわかってくれました』とあります。たいしたものです。

『己の嫉妬と一門の元旦』
 この部分を書いている前夜、たまたま、千鳥の『相席食堂』に、立川志らくさんが、ひとり旅のゲストとして出ておられました。
 まじめな人で、落語を深く、強く愛しておられることがよく伝わってきました。
 ただ、人とのコミュニケーションはにがてなようすでした。
 芸能人やタレントさんたちは、意外に人見知りな人が多い。芸名の人物(自分とは別の仕事用の個性)を演じるということは得意な人たちです。
 この「己の嫉妬と一門の元旦(おのれのしっとといちもんのがんたん)」という項目のエッセイでは、立川談春さんの立川志らくさんに対する嫉妬(やきもち。立川志らくさんが、立川談志さんから落語で高評価をもらっている)が書いてあります。されど、時期としては、立川談春さんが、19歳のころ、立川志らくさんが、22歳ぐらいのころですから、もうずいぶん昔のお話です。
 立川談志さんの良き言葉として『負けるケンカはするな』
 立川志らくさんの落語に関する高い能力が紹介されます。立川志らくさんは、生活していくために落語に没頭するしかなかったそうです。夫婦で貧乏暮らしを体験されています。
 夫の立川志らくさんが22歳で、奥さんが20歳で、お金がなくて、米粒なしの麦飯を食べていたとあります。(わたしは、小学校一年生ぐらいまで、半分米、半分麦の麦ごはんを食べていました。この部分を読んでいて思い出しました)

『弟子の食欲とハワイの夜』
 この部分は、愉快で、秀逸です。今年読んで良かった一冊になりました。
 立川談志さんの個性とわたしの亡父の言動とか行動が重なりました。うちの親父(おやじ)は40歳で病死してしまいましたが、ふたりの豪快で大胆な言動が似ています。同じぐらいの年齢層だからということもあるのでしょう。人目は気にしないし、自分がやりたいことをやりたいようにやってしまいます。
 変則的な話です。立川談志さんは、家族のためによかれと思って、練馬区に大きな家を購入したのですが、家族は不便だからと言って引っ越しを嫌がり、代わりに十人ぐらいの弟子たちがその家に出入りしています。そのことがらみのエピソードが列記されています。
 立川談志さんが落語協会を脱会して、立川流をつくったことも書いてあります。弟子たちへの影響は大きかった。
 貧乏でもたくましいメンバーたちです。心が洗われます。お金がないからといって、クヨクヨするな!と今どきの若い人たちに言いたい。
 
 心に響く言葉がいくつかありました。読んで納得します。
 『近頃の……親なんていうのは、信じられないような甘ちゃんで、子供より先に親を修行させた方がいいんじゃないか……』
 『馬鹿息子に限って高学歴な場合が多い……最後はケツ割るんだけどね(辞めて逃げていく)』
 『君の青春を徳俵(とくだわら。すもうの言葉)にかけてみないか』すもう部屋にスカウトされたことがあるというお弟子さんがらみのお話。
 
 バブル景気最高潮のときによくあった話ですが、みんなでハワイ旅行へ行かれています。
 まあ本に書いてある内容はドタバタ騒ぎで笑いました。
 以前読んだ、リリー・フランキーさんの小説作品『東京タワー』でも、親族旅行でハワイに行ったら、たしか、リリー・フランキーさんのおかあさんたちが、ワイキキにある高級ホテルのプールで、スーパーマーケットのポリ袋を水泳キャップがわりに、頭にかぶって泳いでいたら、まわりの人たちが引いていたというような記述があったのを思い出しました。
 こちらの本でも立川談志さんたちの似たような体験が記されています。ももひき姿で、海に入っておられます。

『高田文夫と雪夜の牛丼』
 高田文夫:1948年(昭和23年)- 放送作家、タレント
 
 カラオケの話が出ます。なつかしい曲ばかりです。「いちご白書をもう一度」「見上げてごらん夜の星を」「わかってください」「恋(松山千春)」「おゆき(内藤国雄)」
 
 落語家の『勉強会』というものがどういうものかわからないのですが、お客さんたちの前で落語を発表する会のようです。
 立川談志さんから、前座(立川談春さんと立川志らくさん)の勉強会は認めないと言われます。
 勉強会というものは、二つ目になってからでないとやれないそうです。
 発表する場が無ければ、けいこにも力が入らない気がするのですが、上下関係のしきたりがあるのでしょう。
 176ページの夜中のウンコの話には笑いました。おもしろい。

『生涯一度の寿限無と五万円の大勝負』
 エッセイにある冒頭の文章です。『17(才)で入門した春に、目標をひとつだけ決めた。22才までに二ツ目になる』(格付けとして「見習い」→「前座」→「二ツ目」→「真打(しんうち)」)
 思うに、落語家になるということは、大学受験に合格するよりもむずかしい。
 著者は、高校を中退して立川談志一門に入門しています。中学卒で入門する人もいるでしょう。
 「二ツ目」になるためには、とりあえず、落語を五十席(せき。作品数)覚えて、じょうずにしゃべることができるようにならねばならないそうです。
 あの長い話を暗記して五十もしゃべることができるということに驚くのですが、本物の落語家は、20年ぐらいかけて、150から200ぐらいの話ができるようになるそうです。
 とてもまねできません。その道の天才、秀才です。
 職人仕事は、学歴を排除します。
 いい言葉として『目標は誓いに変わった』
 入門しても辞めていく人の数は多い。

 さらにいい言葉として『唄や踊りが嫌いだという奴に伝統芸能をやる資格はない』

 お金がない著者のギャンブルの話がありますが、人生というものは、プラスマイナス0(ゼロ)でよしという気分になれます。強欲になってはいけません。

 著者の記憶力がすごい。文章作成能力もすごい。
 226ページ付近の記述には、感嘆しました。(すばらしさに感心しました)

 根田(ねた)として『包丁』(作品名)
 自分が、ずいぶん前に買った落語の本『決定版 はじめての落語101 講談社』というのを今、本棚から出して見ているのですが、この本にはありません。残念。

 人生には「お祭り」が必要です。
 毎日どんちゃん騒ぎをするのではなく、たまにお祭り騒ぎをして、思い出をつくるのです。

『揺らぐ談志と弟子の罪 立川流後輩達に告ぐ』
 『修業とは、矛盾に耐えることです(矛盾:つじつまがあわないこと。理屈にあわないこと)』『修業はつらいよ、上の者が白いと云えば(いえば)黒いもんでも白いんだよ……』
 弟子もたいへんですが、師匠もたいへんです。
 落語界の組織のことが書いてあります。『〇〇一門(いちもん)」と書いてあります。相撲部屋に似ていると理解しました。『〇〇部屋』です。日本伝統の社会です。

 落語の格付けアップの試験は、落とすための試験ではない。能力が基準に達していればだれでも昇格できる。
 実力がないのに、受験を繰り返す人に悩まされている。どうにもこうにも力がないのに、挑戦を繰り返している。あきらめてほしいのに、あきらめてくれない。もはや、病気のようです。落語が、素人(しろうと。未経験者)以下の技術のお弟子さんもいるそうです。

 『立川談志(イエモト)は、(たぶん情(じょう)があつく、気持ちが)揺らぐ人だった』

 エッセイの最後のほうは、立川談志師匠の病死が近づいているというような含みをもった文章でした。

『誰も知らない小さんと談志 -小さん、米朝、ふたりの人間国宝』
 なかなか思いお話でした。
 組織の役職者は、組織を背負って話をします。役付きの立場で話をします。
 自分の本音ではしゃべりません。与えられた役割をロボットのようになって実行します。
 自分の本音と組織の目標とか対応が一致しないとか、反対であるということは、よくあります。組織と自分を守るために耐えるしかありません。
 立川談志さんが、落語協会の真打の選考のあり方に反発して、同協会を脱会した。(自分の弟子を、自信をもって送り出したら落とされた(年功序列とかあるようです))
 当時の落語協会会長が、立川談志さんの師匠である柳家小さん師匠です。柳家小さん師匠は、落語協会の会長の立場があるので、弟子である立川談志さんを破門しました。(はもん:師弟の関係を絶って一門から追放する)
 立川談志師匠の弟子である立川談春さんは、真打(しんうち。落語家の高位の格付け)になるにあたって、互いに対立した、そして今も対立しているらしき、立川談志師匠と柳家小さん師匠というおふたりの協力が必要です。
 時は流れて、おふたりともお年寄りになられています。おふたりの本音は和解です。(世間に公表しなくてもいい和解です)
 
 富久の久蔵(とみきゅうのきゅうぞう):「富久(とみ)」が古典落語の演目。久蔵は登場人物。

 著者の立川談春さんは、さだまさしさんとのんで、アドバイスをもらっています。
 『……談春にしかできないことは、きっとあるんだ……』

 包丁:古典落語の演目。

 1997年(平成9年)真打昇進した著者立川談春は31歳。立川談志61歳。柳家小さん82歳。落語協会の脱会騒ぎ1983年(昭和58年)

(この本の成り立ちとして)
 2005年(平成17年)から、扶桑社の文芸季刊誌「en-taxi(エンタクシー)」に、あしかけ三年間連載した。
 著者39歳ころの執筆。
 2008年(平成20年)単行本発行。
 2015年(平成27年)文庫発行

この記事へのトラックバックURL

http://kumataro.mediacat-blog.jp/t147608
※このエントリーではブログ管理者の設定により、ブログ管理者に承認されるまでコメントは反映されません
上の画像に書かれている文字を入力して下さい