2020年11月16日

異邦人 カミュ

異邦人 カミュ 新潮文庫

 本棚を整理していたら出てきたので読むことにしました。同作者の「ペスト」は、数か月前に読みました。

 まず、うしろの解説部分から読みます。白井浩司氏で、1965年(昭和40年)の日付で、1995年(平成7年)の追記があります。
 作者は、1913年(大正2年)アフリカ北部地中海に面したのアルジェリア生まれ(旧フランス領。1962年独立)翌年父親は第一次世界大戦で戦死
 1938年(昭和13年)26歳、作品「異邦人」の冒頭を記す。1940年(昭和15年)同作品完成。
 1947年(昭和22年)34歳。「ペスト」刊行
 1957年(昭和32年)44歳。ノーベル文学賞受賞
 1960年(昭和35年)46歳。友人の車に同乗していて立木にぶつかり事故死。

 すぐれた小説であるという批評があります。
 この物語の主人公、「ムルソー」は1930年代フランスの典型的な人物を造形した人物像
 フランス小説史上の傑作と評価されたそうです。

 作者は恵まれない家庭環境だったようです。
 母子家庭となった作者は、祖母宅へ。祖母、叔父、母、兄、自分の五人家族。部屋数は三間。「私は自由を貧困のなかで学んだ」という本人の文章が残っているそうです。70歳の祖母は気取り屋で横柄な人間。叔父は障がい者で無口。母親は耳が聞こえず極端に無口。みな読み書きができなかった。

 調べた言葉などとして、
 マルキシズム:マルクス主義。社会主義思想
 サルトル:フランスの哲学者、小説家。1905年-1980年。74歳没
 実存主義:本質よりも現実を優位として考える思想(サルトルの思想)
 カリギュラ:カミュの戯曲(演劇の脚本)ローマ帝国第三代皇帝カリギュラが題材。暴君。
 「異邦人」について、広瀬和郎、中村光夫論争:主人公ムルソーの人格は、精神が異常な異邦人(広瀬和郎)人格の分析は古い道徳にしばられた考え(中村光夫)と受け取りました。
 普仏戦争:プロシア(現在のポーランドの一部)とフランスとの戦争。1870年-1871年。フランスの負け。
 テーゼ小説:証明されるべき命題が提示されている小説
 書肆(しょし):書店、本屋

 印象に残った文章として、
「生活を混乱させないためにわれわれは毎日うそをつく」

 さて、物語を読み始めます。

第一部
 「きょうママン(母親)が死んだ」から始まります。母親は養老院で三年間を過ごして亡くなりました。
 しばらく進んで、日記を読むような出だしです。
 主人公である息子のムルソーはなにかしらそっけない。棺桶の中の母親の顔を見ません。(棺桶はすでにねじで固定されていたので関係者が開けてあげると申し出ますがムルソーは断ります)

(つづく)

 登場人物として、
 ムルソー:主人公。独身男性。母を養老院で亡くす。
 マリイ・カルドナ:女性。ムルソーと同じ事務所にいたタイピスト。ムルソーの恋人らしき存在だが、ムルソーからみると、男女関係を楽しむためだけのフレンドにもみえる。
 レエモン・サンテス:ムルソーと同じ共同住宅に住む男性。ムルソーの友人だが、ムルソーからは、親友意識は感じられない。仲間意識はある。レエモン・サンテスは、女を食い物にしている女衒(ぜげん。売春あっせん)らしい。表向きは、「倉庫係」という職業。小柄、肩幅広し。きっちりした身なり。ボクサーの鼻。短気。情婦に暴力を振るう。
 サラマノ老人:スパニエル犬を8年間飼っているが可愛がっているわけではない。犬は赤毛で皮膚病にかかっている。皮膚はかさぶただらけ。午前11時と午後6時に犬の散歩をする。現役の時は鉄道の仕事をしていた。奥さんは亡くなっている。
 エマニュエル:ムルソーと同じ会社で働く同僚。発送部で働いている。
 セレスト:レストランで働く中年太りの男性。前掛け(エプロン)をしている。
 レエモン・サンテスの情婦:働かない。モール人(西サハラの住人。アラブ、黒人、ベルベール(北西アフリカ住民)の混血。回教徒)

 調べた言葉として、
 クリュシエンの塩:たぶんクリュシエンという会社が売っている塩だと思いました。
 バルコン:フランス語でバルコニー
 ヴィラ:貸別荘
 カンカン帽:麦わら帽子。高さの低い円柱形

 貧困地域での荒廃した暮らしがあります。
 不満をいじめで解消します。男は女に暴力を振るい、老人は犬を虐待します。家庭内暴力と動物虐待です。そして、母親という身内の死に真摯に向き合えない(しんしにむきあえない。まじめな姿勢で対応できない)息子のムルソーがいます。

 ムルソーの友人レエモン・サンテスが、彼の情婦の兄とトラブルになります。レイモンが情婦に暴力を振るうわけですから、情婦の兄がなにをするんだと出てきてもおかしくありません。兄には連れもいて、ふたりともアラビア人と称されています。彼らとレエモン・サンテスとマソン(レエモン・サンテスの友人)が刃傷沙汰のトラブルになります。
 ついに、ムルソーは殺人をおかしてしまいました。銃で、たぶん五発も撃ち込んでしまいました。レエモン・サンテスのピストルでした。

 それとはべつに、マリイがムルソーに結婚を迫ります。ムルソーは受け入れますが、話を深めると、ムルソーにはマリイに対する愛情がありません。申し込まれれば誰とでも結婚する意識があるのです。

 気に入った文章として、
「(パリは)きたない街だ。鳩と暗い中庭とが目につく…」(いまは、きれいになったのでしょう)

 サラマノ老人の飼い犬がどこかへ行ってしまいました。

第二部
 殺人容疑で警察に逮捕されたムルソーはその後刑務所に収監され裁判を受けることになります。
 刑務所内の様子の記述はリアル(現実的)です。独房中に女が見える女性を抱きたい苦悩、ベッドの板をはがしてできた木片をしゃぶる煙草を吸いたいニコチン中毒症状、アラビア人たち受刑者との会話、他の受刑者もからめた並んだ場所での面会風景、時間つぶしのための16時間から18時間ぐらいの睡眠など。制限された毎日の生活で、どうやって時間をつぶすかという意識が生まれています。

 裁判の争点があります。
 ひとつは正当防衛。相手が匕首(あいくち。つかのない短刀)を持っていてムルソーを威嚇していた。ただ、ムルソーは不利です。拳銃発射の一発目で相手は撃たれて倒れて動けなくなっています。間を開けて、ムスソーは、動けなくなっている相手に連続で銃弾を四発も撃ち込んでいます。その理由は何か。
 もうひとつの争点が、養老院で亡くなった母親への葬儀対応が不可解ということです。端的に言えばムルソーは親不孝者扱いです。母親の面倒をしっかりみなかった。養老院に入れて、その後会いにこなかった。葬儀には来たが亡くなった母親の遺体との対面はしなかった。葬儀後、女と会って、海に行って、情事を楽しんで、喜劇映画を見に行った。
 それらから察するに、ムルソーは精神異常状態であった。あるいは、人格破綻者であるというような印象付けが陪審員に対してなされます。

 ムルソーには、人間の感情がない。喜怒哀楽の感情がない。母親の死を悼めない。今回の被害者も含めて、人の死を悲しんだり嘆いたりできない脳の資質をもっている。加えて、恋人といえる人であるマリイ・カルドナを心から愛しているようにはみえない。

 ムルソーを精神異常者扱いして、どんな判決を下すのか。死刑にするのか。あるいは、判断能力なしで死ぬまでの長期の入院患者で閉じ込めるのか。
 ムルソーは、人から無口で、内に閉じこもりがちな性格に見られていると判事から説明があります。

 そして、「神」の話が判事から出てきます。宗教における「神」は絶対の存在のような記述が出ます。まず、「神」があっての法令です。人が人を裁くときの不完全さが見えます。

 ムスソーの味方はいるようでいないようなもの。
 黒縁メガネの太ったいたちみたいなパリの新聞記者は本当の意味での見方には見えません。
 裁判では、復讐の証人が出廷します。裁判官や検事にあらかじめつくられた結論に向かっての誘導があるようですが弁護士が対抗します。最終的には陪審員の判断に重きが置かれるようです。

 なぜ、母親の葬儀対応がまずかったことということに長時間がさかれるのか。

 裁判風景を読んでいて、以前観た洋画の「愛を語る人」のシーンを思い出しました。裁判所で権力をもった集団に責められて、あきらめて事実とは違うのに罪を認めて、長期間の収監後、出所して自殺したドイツ人女性のお話でした。

 ムルソーの殺人の計画性が問われます。やはり計画殺人の罪は重い。
 
 亡くなった母親の年齢を知らなかったことが重大事としてとりあげられます。だれもが、ムルソーを憎んでいるようです。

 読んでいて、第二次世界大戦の戦時中、戦後の同時期に日本で、創作活動で活躍していた太宰治氏と表現したいことがらが重なると感じました。「人間とは何か」を考えるのです。カミュも太宰氏も健康上の理由で兵役は免除されています。

 人間界には、「標準的な人間像」があって、ムルソーは、「標準的な人間像」に該当しない。物語では、「標準的な人間像」に該当するひとつとして、両親を敬うということがあります。ムルソーの態度は母親をないがしろにしたという評価をもたれます。(親孝行しないことは、犯罪に該当するようです)
 「標準的な人間像」に該当しないことは、「悪」なのかという質問が、作者から読者になされています。答は、「悪」ではありませんになります。
 作者からは裁判のあり方についても問いかけがあります。ムルソーの存在はなく、弁護士と検事と裁判官が、芝居がかったように、裁判の段取りにのっとって、手続きを進めていきます。そこで語られていくことはムルソーの犯行当時の心情に沿ったものではなく、検事や弁護士による創作です。検事が、実際にはなかった虚偽の犯行行動の物語をつくりあげます。
 いっぽうムルソーには、人を殺したことに対する反省の言葉も態度もありません。本人もそれを否定していません。自分が悪いことをしたとは思っていないのです。生い立ちがからんでいる気がします。人から大事にされたことがないから人を大事にできないのでしょう。
 陪審員の心証は、再犯があり得るというものでしょう。
 読んでいると、ムルソーは殺人の計画性を否定するけれど、本当にそうだろうかという疑いが生じます。
 彼の深層心理として、彼は短刀で脅してきたアラビア人たちに恐怖感をもっていた。自分の身を守るために危害を加えてきそうなアラビア人を消去したかった。ただ、本当に計画的にやるには、自分が犯人として捕まらないように逃亡の段取りまで考えるでしょう。

 死刑の宣告が下されます。

 印象を受けた文章として、
「ひとはいつも知らないものについては誇張した考えをもつものだ」
「かれらが(司祭:キリスト教の職。神父)やってくるのは、夜明けだ(死刑執行の日)」ムルソーは、司祭に、「神を信じていない」のだと答えた。司祭に、「神さまがあなたを助けてくださる」と言われたムルソーは逆上します。ムルソーの心の底に、「怒り」があります。ムルソーは司祭につかみ掛かります。
 
 ギロチン斬首による処刑で見世物になることに歓びを(よろこび)を感じているムルソーです。
 数は少ないけれど、そういう脳の性質をもった人間が存在することは否定できません。事実は事実としてあります。
 人類への問題提起を含んだ作品です。

 調べた言葉として、
 フェルナンデスの映画:メキシコの俳優、映画監督
 予謀(よぼう):前もって周到に計画した。
 1789年の大革命:フランス革命。王政打倒。平等と自由、人権保障の獲得

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