2020年11月11日
おとうさんがいっぱい 三田村信行
おとうさんがいっぱい 三田村信行 理論社
1975年ころから1977年ころにかけての作品群です。5本の短編が収められています。最初に、「はじめに」があって、「ぼくの心の世界には小さな窓が一つあって……」から始まります。おもしろそう。
「ゆめであいましょう」
夢で会うのは自分です。赤ちゃんから始まります。それから5才ぐらい。次が1年3組。そして同年齢ぐらいの少年。
主人公の名前は、「ミキオ」です。
なんだかおもしろい。ミキオが幽霊になったわけではなくて、「夢」です。
「どこへもゆけない道」
クラゲのようなものが出てきます。
クラゲのようなものは、なんと両親なのです。
ショートショート、ブラックユーモアです。
「ぼくは五階で」
きっかいな設定ですが、楽しめます。
「部屋」のドアを開けて外に出ようとするのですが、ドアの向こうはまた同じ「部屋」なのです。
主人公は、「ヒライナオキ」五階建ての集合住宅501号室に住んでいる小学生です。父親が出版社の会社員で、母親が小学校教師です。共働きの家のかぎっ子です。
タイトルは、「501号室」のほうが、スリルとサスペンスがあった。ヒライナオキは、現実と幻想の間の世界に存在しています。
「おとうさんがいっぱい」
主人公が小学生の、「トシマ・トシオ」
トシオの父親が、1934年東京青山生まれの、「トシマ・タツオ」
トシオの母親が、「エミ子」
トシオのおとうさんが結局三人出てきます。どうも全部本物なのです。混乱します。
トシオの家だけでなく、あちこちの家で、おとうさんが増加するのです。
オチはどうするのだろう。(いくつか予想しました。そのうちのひとつの予想があたっていました。心のつっかえがとれたようで、胸がすっきりしました)
「人間の選別をする」というおもしろい設定話でした。なるほどとうなりました。
「かべは知っていた」
おとうさんがいて、おかあさんがいて、ふたりは、けんかばかり。どうも給料が少なくて、ふた間の狭いアパートから出られない。「カズミ」というこどもがいますが、絵が中性的なので、男の子なのか女の子なのかはっきりしません。
夫婦げんかのあげく、おとうさんは、隣との間にある壁の中に入っていってしまいました。
壁の中にいるおとうさんとカズミはお話ができますが、おとうさんとおかあさんはお話ができません。
読んでいて、頭に、子どもの介護を受ける親とその負担に苦悩する子どもという関係図式が浮かびました。
この本は全体をとおして、「おとうさん」へのこだわりがあります。どうしてなのかはわかりません。
親子ってなんなんだろうなあと考えました。
おかあさんは、おとうさんがいなくなってさばさばしています。「よくまあ、こんなきたないへやに長い間住んでいたものねぇ」とあります。おかあさんには新しい恋人ができたようです。
「家族」というものは、ふだんからよく会話をしていないと、離れ離れになってしまいます。
今年読んで良かった一冊でした。
1975年ころから1977年ころにかけての作品群です。5本の短編が収められています。最初に、「はじめに」があって、「ぼくの心の世界には小さな窓が一つあって……」から始まります。おもしろそう。
「ゆめであいましょう」
夢で会うのは自分です。赤ちゃんから始まります。それから5才ぐらい。次が1年3組。そして同年齢ぐらいの少年。
主人公の名前は、「ミキオ」です。
なんだかおもしろい。ミキオが幽霊になったわけではなくて、「夢」です。
「どこへもゆけない道」
クラゲのようなものが出てきます。
クラゲのようなものは、なんと両親なのです。
ショートショート、ブラックユーモアです。
「ぼくは五階で」
きっかいな設定ですが、楽しめます。
「部屋」のドアを開けて外に出ようとするのですが、ドアの向こうはまた同じ「部屋」なのです。
主人公は、「ヒライナオキ」五階建ての集合住宅501号室に住んでいる小学生です。父親が出版社の会社員で、母親が小学校教師です。共働きの家のかぎっ子です。
タイトルは、「501号室」のほうが、スリルとサスペンスがあった。ヒライナオキは、現実と幻想の間の世界に存在しています。
「おとうさんがいっぱい」
主人公が小学生の、「トシマ・トシオ」
トシオの父親が、1934年東京青山生まれの、「トシマ・タツオ」
トシオの母親が、「エミ子」
トシオのおとうさんが結局三人出てきます。どうも全部本物なのです。混乱します。
トシオの家だけでなく、あちこちの家で、おとうさんが増加するのです。
オチはどうするのだろう。(いくつか予想しました。そのうちのひとつの予想があたっていました。心のつっかえがとれたようで、胸がすっきりしました)
「人間の選別をする」というおもしろい設定話でした。なるほどとうなりました。
「かべは知っていた」
おとうさんがいて、おかあさんがいて、ふたりは、けんかばかり。どうも給料が少なくて、ふた間の狭いアパートから出られない。「カズミ」というこどもがいますが、絵が中性的なので、男の子なのか女の子なのかはっきりしません。
夫婦げんかのあげく、おとうさんは、隣との間にある壁の中に入っていってしまいました。
壁の中にいるおとうさんとカズミはお話ができますが、おとうさんとおかあさんはお話ができません。
読んでいて、頭に、子どもの介護を受ける親とその負担に苦悩する子どもという関係図式が浮かびました。
この本は全体をとおして、「おとうさん」へのこだわりがあります。どうしてなのかはわかりません。
親子ってなんなんだろうなあと考えました。
おかあさんは、おとうさんがいなくなってさばさばしています。「よくまあ、こんなきたないへやに長い間住んでいたものねぇ」とあります。おかあさんには新しい恋人ができたようです。
「家族」というものは、ふだんからよく会話をしていないと、離れ離れになってしまいます。
今年読んで良かった一冊でした。
この記事へのトラックバックURL
http://kumataro.mediacat-blog.jp/t141278
※このエントリーではブログ管理者の設定により、ブログ管理者に承認されるまでコメントは反映されません