2019年11月03日

白狐魔記(しらこまき) 天草の霧 斉藤洋

白狐魔記(しらこまき) 天草の霧 斉藤洋 偕成社

 舞台は熊本県の天草(あまくさ)という島、それから長崎県の島原半島で、この本では、江戸時代天草四郎時貞が出てくる「天草の乱」を扱うことが予想できます。天草には子どもの頃に何度か行ったことがあるので海や島の風景の雰囲気はわかります。
 白狐白狐魔丸(しらこままる)の相手をする新しい人物の名前は、南蛮堂煙之丞(なんばんどうえんのじょう)です。それから、所司代板倉勝重(70歳近い。所司代とは、京都の治安維持職)です。
 白狐魔丸の師匠のキツネである仙人も久しぶりの登場です。白狐魔丸はいつのまにか、世間では、「白狐大仙(びゃっこだいせん)」と呼ばれるようになっています。

(つづく)

 93ページまできましたが、なかなか天草の記事は登場しません。128ページで、島原城が出てきました。キリシタンの人たちが島原城に籠城したと思っていましたが、記事では、島原城に籠城している地元の武士たちが、キリシタンであり百姓である農民の一揆によって城を包囲されています。逆です。武士たちが島原城に籠城しています。
 
 南蛮堂煙之丞は、海路で、大阪の堺から博多に来ています。陸路で、博多から唐津、唐津から伊万里、伊万里から諫早(いさはや)です。そういえばこの時代、長距離の移動は航路です。

 島原の乱。江戸時代初期の百姓一揆。
 1623年三代将軍徳川家光着任後、1629年に踏み絵を導入、島原の乱は、1637年にあった出来事。
 1613年、二代将軍徳川秀忠のときにキリスト教を禁止した。
 
 島原城=原城と勘違いをしていました。別々の城でした。一揆軍が籠城したのは原城です。原城は、有馬というところにあった。原城は本書では、「日暮城(ひぐらしじょう)」と表記されています。

 元の島原藩主だった有馬義貞そしてその次男有馬晴信はキリスト教徒だった。

 松浦勝家:過重な年貢を課して島原の乱のきっかけをつくった。

 大矢野島の益田四郎(天草四郎)17歳か14歳。関ケ原の合戦で豊臣方につき、負けて処刑されたキリシタン大名の小西行長の家臣益田好次の子。

 板倉重昌:徳川方大名。島原の乱鎮圧のために赴くも戦死。駿河生まれ。愛知県三河担当大名。

(つづく)

 読み終えました。キリスト教徒の人が読んだらあまりいい気持ちではないかもしれません。ただ、仏教のほうも横暴でだらしない面があるように記述されていますから、総論的に宗教にのめりこみすぎないようにというようなイメージがあります。
 江戸幕府側の人間に立って、騒乱の終息に向けての努力が書いてあります。
 真相は宗教一揆ではなく、あまりにも過重な年貢を強いた藩主に責任があり、納税に耐えられなくなった百姓たちが根をあげた。本来仏教徒の百姓たちが、益田四郎時貞(天草四郎)はじめキリスト教徒に引っ張られる形で一揆に参加して大量の命を落としていったという構図で描かれていました。

 宗教は、人をがんこにさせます。神や仏の教えだからそうする。そうする理屈はわからない。

 天草が佐賀の唐津藩の飛び地で領地だったことは初めて知りました。

 仇討(仕返し、復讐)の気持ちが強い。

 調べた単語などとして、「伴天連:ばてれん。神父」、「パードレ:父」、「イルマン:きょうだい」、「信仰に殉じる:崇拝するものに命を投げうって尽くす。あの世で天国や極楽にいく」、「破風:はふ。屋根の下の板。雨風から守る」、「具足:ぐそく。よろいかぶとのこと」、「鍋島藩:佐賀藩」、「果報者:かほうもの。運の良い人」

 印象に残った表現などとして、「細い月」、「仏像を薪にして火をたいた跡」、「坊主は城の手先」、「インヘルノは、ポルトガル語で地獄」、「白い犬(白狐魔丸が化けている)」、「熊本藩主細川忠利の母が、ガラシャ様で、キリシタンだった。ガラシャの父は明智光秀。ガラシャ(明智玉・玉子)は、関ケ原の合戦前に、大坂方に屋敷を囲まれて、ガラシャ自身の首を家老にはねさせた(キリシタンは自殺禁止だから)」、「一揆で勝ってもほうびがない」、「敵の大将も無益な人殺しはいやだろう」、「百姓を殺したら、米をつくる人間がいなくなってしまう」、「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ(主よ、主よ、なぜ、わたしを見捨てたか)」

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