2019年08月21日

渦 UZU 妹背山婦女庭訓魂結び 大島真寿美

渦 UZU 妹背山婦女庭訓魂結び(いもせやまおんなていきんたまむすび) 大島真寿美 文藝春秋

 「近松門左衛門:浄瑠璃、歌舞伎の脚本作者。1725年72歳ぐらいで没」
 「浄瑠璃:三味線伴奏、太夫が語る。人形は三人の人形遣いが操作する」
 「近松半二:1725年生まれ。1783年58歳ぐらいで没。270年ぐらい前の浄瑠璃作者。役行者大峰桜えんのぎょうしゃおおみねざくら。妹背山婦人庭訓(人形浄瑠璃、歌舞伎の演目)」
 「狂言:こっけいな笑いの劇」

 物語の主人公の名前は、近松半二ですが、近松門左衛門との血縁関係はありません。半二の父親儒学者以貫(いかん)と近松門左衛門が面識があります。ただし、半二生誕時には、門左衛門はすでにあの世の人となっていました。
 9つの章です。

「硯(すずり)」
 読むのに1時間少々かかりました。
 近松門左衛門が使用していた硯を半二が父親から譲り受けます。おまえも浄瑠璃の台本を書けという指令です。
 でもそうそう簡単には書けません。
 生い立ちから、13歳ぐらいのときのようす、その後のていたらくですが、青年期は浄瑠璃づくりに関わりをもちはじめます。
 「師弟関係」があります。やはり、師弟関係がないと仕事が完成に導かれません。師匠として、実父、数人の老人たちが関与します。先生と生徒、師匠と弟子、職人世界です。
 硯から文章が生まれる様子は生き生きとした表現でした。
 浄瑠璃観劇の様子をうまく表した文節として、「この世のようで、この世ではない」
 舞台は、大阪から京都と移り、再び大阪道頓堀に戻ります。
 本名は、穂積成章(ほづみ・なりあき)、筆名近松半二の由来がいい。
 自分の居場所探しの放浪です。
 この物語は、史実なのだろうか。(実在の人物でした)
 
「廻り舞台」
 廻り舞台:舞台のまんなかが円になっていて、場面転換時に回転する。
 気に入った表現として、「芝居語り」、「あの人の書くものは太い」、「板にのせるとなったら芯がいる」、「頭の中にあるものが字にならない」
 仮名手本忠臣蔵:人形浄瑠璃、歌舞伎の演目。仇討話」
 前回の直木賞受賞作「宝島」では、沖縄言葉に苦労しました。今回は関西弁です。いろいろ評価はあろうかと思いますが、標準語でも良かったと思います。読み手は、なじみのない言語は読むのにくたびれます。
 
「あおによし」
 あおによしとは、奈良にかかるまくら言葉。奈良のこと。
 章中にある吉野山の金峯山寺(きんぷせんじ)はなんどか訪れました。わらぶき屋根が美しいお寺さんでした。
 主人公近松半二の兄の許嫁(いいなずけ)だったが、兄の母の策略で結婚できなかったお末が登場します。兄とお末のふたりは愛し合っていた。心中を考えたことがある。「心中」というワードで、作品制作へつながっていくようです。
 読みながら、浄瑠璃というのは、現代のテレビのバラエティ、ドラマ、映画のようなかんじなのだろうと。
 お末をとおして、女の性(さが)が表に出てきます。怖い。思い込んだら命がけとあります。
 「朴念仁:ぼくねんじん。無口で愛想のない人」
 なにかしら気に入った言葉として、「好人物」
 だんだん、小説家を目指している人にとっては、素敵な文章の熱風が吹いてきます。「ええ、文句が書きたい」、「やけくそや、書きたいように書いたる。あそこで、書くしかない」
 この作品全体自体が、小説家を目指している人が読むと心強くなる主題を含んでいます。
 妹背山の形が見えてきます。妹山と背山が向かい合わせであって、間を吉野川が流れている。泣く泣く別れた恋の話です。なんだか、天の川のようです。

「人形遣い」
 浄瑠璃人形遣いの名人が芝居小屋の経営者と対立してクーデター(奇襲による権力奪取)を企図するお話です。浄瑠璃という素材で、ここまで、厚みのある記述ができるのは、強い筆力があるからでしょう。
 「詞章:ししょう。文字表現の言葉」、「小股の切れ上がった:ひざからももが引き締まって、すらりとしている」、「作病:さくびょう。病気のふりをする」、「仁義にもとる:筋道をはずれる」、「海千山千:うみせんやません。経験を積んで悪賢い」、「
 半二は30歳ぐらいです。未婚。芸能事務所のタレント独立騒動に巻き込まれたような様相でおろおろしていますが、半二の意見は正しい。偶然起こった「火事」が運命を分けました。
 共感したセリフなどとして、「もうええ歳や。やれるうちにやりたいことをやって死んでいきたい」、「長生きしてたら(いいことがある)」
 人形遣いは、人形なしでは生きていけない。

「雪月花」
 雪月花:雪・月・花。自然美。
 「奢侈:しゃし。度を超えてぜいたくなこと」、「薹が経つ:とうがたつ。年頃が過ぎる」
 江戸時代のこの頃の景気は下がり気味です。主人公半二は40歳に近くなりました。
 主人公近松半二の母親が死にます。半二を嫌っていた半二から見れば鬼のような母親でした。いいかげんな暮らしぶりに愛想をつかした実母でした。半二は二十年、家に帰っていません。
 舞台の上にいる役者のセリフを間近で聴いているようで心地よい。
 半二は結婚します。妻は妊娠します。

「渦」
 人形浄瑠璃のからくり舞台のことが出てきます。観客席が半分動いたり、舞台が動いたり、その話に人形遣いとか浄瑠璃作者の竹田治蔵(大酒飲み)・宇蔵兄弟の話がからんで、「渦」が生まれるのです。文章、文脈も渦化していきます。生き生きと文章表現がなされます。
 「立作者:歌舞伎で筆頭の作者」
 良かった表現として、「書きたかったから酒に走った」、書くことの怖さが広がります。書くことで、作者自身の心が壊れていきます。そこを酒でカバーする。そして、命を落とす。
 のりうつったような文脈です。
 「三千世界:仏教用語、全宇宙」
 舞台は、道頓堀。
 多用される単語は、「拵える:こしらえる」
 さらに、良かった表現として、「筆は走り続ける。勢いが止まらない」、「虚実の渦に呑み込まれていく」

「妹背山(いもせやま)」
 吉野山、吉野川川岸道路を車で走ったことがあります。小説の記述がリアルに迫ってきます。
 「空が燃えた」から始まります。天変地異。オーロラです。
 主人公近松半二の亡父への感謝の思いがあります。
 人形操り浄瑠璃の衰退があります。
 「切り:浄瑠璃の山場」、「追善供養:命日に法事をして供養する」、「神鹿:しんろく。奈良の鹿」
 ロミオとジュリエットのようなお話なのか。
 首が飛んで鳥になって、なんだかすごい。
 名文句として、「わしが文字になってここへ溶けていく」

「婦女庭訓おんなていきん」
 庭訓というのは、親が子に教えることの定めと解するようです。おんなですから、おんなの道の教えです。しつけともあります。
 主人公近松半二の幼なじみで、兄の許嫁だったお末が5年前に急死していたことが判明します。半二の愚痴のような過去を悔いるひとりごとが続きます。あまり好きになれない章だと思いながら読んでいましたが、そこから新しい物語づくりのヒントが生まれてきます。
 作品は、飛鳥時代蘇我入鹿とか天智天皇とかの背景と舞台でスタートするようです。
 「嬢はん:いとはん。お嬢さん」、「世話物:人形浄瑠璃の分類。町人の日常生活。対して時代物が、遠い過去、武家・公家社会のこと」、「台無し:すっかりだめになる。役に立たない」
 名言として、「生きるとは、絶えず死ぬものを見送ること」、「おきゃんなところ:女性が活発でかるはずみなところ」、「わしはそこにおらんが、それが、わしの内側に広がっている」、「無量無辺百千万:数が多い」、「なゆたあそぎこう:数の単位。かなり大きい」、「外題:げだい。書名、題名」
 書くことを躊躇する部分があるのですが、書くのは自由ではないかという疑問が湧きました。まず、書いて仕上げる。その作品を演じて発表できるかできないかは次の段階で判断すること。
 読んでいたら歌舞伎とか浄瑠璃を見たくなります。
 三角関係、心中、恋が中心です。
 終わりに近づくにつれて、話を最初に戻る。「硯(すずり)」の記事あり。

「三千世界」
 いきなり、筆記の文字タイプが筆タイプに変わったので、びっくりしました。(章の途中までです)浄瑠璃人形が自らの意志でしゃべります。
 「悋気:りんき。男女間のやきもち」
 小説の全体を読み終えてみて、道頓堀を舞台にして、一点集中、その場所で、物語を空に向かって高めていくイメージでした。
 この章は幻想的です。
 上演される限り、物語の登場人物は江戸時代から現代まで、命を得て生き続ける。
 「柝の音:きのね。拍子木の音」

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