2024年10月31日
75歳で車の運転はやめる。
75歳で車の運転はやめる。
去年車を買い替えたときに、この車が自分の人生で最後に買う車だと思って買いました。
75歳まで、もう10年ないので、75歳まではこの車に慎重に乗って、75歳になったら、運転免許証は手離すつもりです。あとは、敬老パス利用、タクシー利用、親族が運転する車で移動となるでしょう。なお日本人男性の平均寿命は81歳ぐらいです。
思えば、現役で働いていた頃、鉄道交通が不便な場所に人事異動で配置されたときは、車通勤でがんばりました。
5年間の勤務でしたが、思い出してみると、5年間、一日もハンドルを握らなかった日はありませんでした。自家用車で出勤したあとも、仕事場の車を使ってあちこち移動していました。プライベートでも車移動ばかりで、車を使って国内のあちこちへ旅行にも行きました。
されど、歳をとり、体力・知力は衰えました。現役の時は、複数のことを同時進行でやる能力がありましたが、今は、ひとつのことをひとつずつしかできません。優先順位をつけて、ひとつずつ丁寧にやっています。当然、時間がかかります。うまくいかなくてやりなおすこともけっこうあります。しかたがありません。歳をとったのですから。だれもが通る道です。
交通事故の加害者になると、相手にも、自分の親族にも迷惑をかけるので、最近は、車は、ご近所での買い物ぐらいでしか運転しません。
運転感覚を失うといけないので、なるべく一日一度は短距離でも車を動かすようにはしています。
高速道路には、たまにしかのりません。
以前読んだ本です。
『高齢ドライバーの意識革命 安全ゆとり運転で事故防止 松浦常夫 福村出版』
高齢者の運転免許証の返納者は、ペーパードライバーが多いそうです。あまり、高齢者運転事故の減少にはつながりそうもありません。
運転免許証の返納者は、多いようでそうでもない。数的には少ないそうです。
2019年東京池袋の暴走死亡事故のあと自主返納者が全国で60万人に達したというニュースを聞いたときは、たくさんの人たちが返納したのだなと納得しましたが、この本によると、65歳以上の高齢ドライバーは、1900万人もいるそうです。
この本を読まなければそのことを知ることもありませんでした。まだこれからも、あのような悲惨な事故が続くのだろうか。自分が当事者になることは避けたい。
去年車を買い替えたときに、この車が自分の人生で最後に買う車だと思って買いました。
75歳まで、もう10年ないので、75歳まではこの車に慎重に乗って、75歳になったら、運転免許証は手離すつもりです。あとは、敬老パス利用、タクシー利用、親族が運転する車で移動となるでしょう。なお日本人男性の平均寿命は81歳ぐらいです。
思えば、現役で働いていた頃、鉄道交通が不便な場所に人事異動で配置されたときは、車通勤でがんばりました。
5年間の勤務でしたが、思い出してみると、5年間、一日もハンドルを握らなかった日はありませんでした。自家用車で出勤したあとも、仕事場の車を使ってあちこち移動していました。プライベートでも車移動ばかりで、車を使って国内のあちこちへ旅行にも行きました。
されど、歳をとり、体力・知力は衰えました。現役の時は、複数のことを同時進行でやる能力がありましたが、今は、ひとつのことをひとつずつしかできません。優先順位をつけて、ひとつずつ丁寧にやっています。当然、時間がかかります。うまくいかなくてやりなおすこともけっこうあります。しかたがありません。歳をとったのですから。だれもが通る道です。
交通事故の加害者になると、相手にも、自分の親族にも迷惑をかけるので、最近は、車は、ご近所での買い物ぐらいでしか運転しません。
運転感覚を失うといけないので、なるべく一日一度は短距離でも車を動かすようにはしています。
高速道路には、たまにしかのりません。
以前読んだ本です。
『高齢ドライバーの意識革命 安全ゆとり運転で事故防止 松浦常夫 福村出版』
高齢者の運転免許証の返納者は、ペーパードライバーが多いそうです。あまり、高齢者運転事故の減少にはつながりそうもありません。
運転免許証の返納者は、多いようでそうでもない。数的には少ないそうです。
2019年東京池袋の暴走死亡事故のあと自主返納者が全国で60万人に達したというニュースを聞いたときは、たくさんの人たちが返納したのだなと納得しましたが、この本によると、65歳以上の高齢ドライバーは、1900万人もいるそうです。
この本を読まなければそのことを知ることもありませんでした。まだこれからも、あのような悲惨な事故が続くのだろうか。自分が当事者になることは避けたい。
2024年10月30日
こどもかいぎ 北村裕花
こどもかいぎ 北村裕花(きたむら・ゆうか ) フレーベル館
こどもさんが読む絵本です。
会議の議長であるけんたの、『おっほん……』から始まりました。
「おっほん」という言葉を久しぶりに聞きました。古い表現です。
メンバーは6人です。けんた、あゆみ、まさと、みか、りく(男子)、らん(女子)です。
議題(話し合うテーマ)です。
『おこられたときは、どうしたらいいか?』
けんたが、『きょうの おだいは……』と話し始めました。
「おだい」という言葉も古い。今どき聞きません。落語のお題(おだい)のようです。
作者は年配の人だろうかと思ったら、そうでもない方だったので不思議です。1983年(昭和58年)栃木生まれの女性です。
おこられたときには……
あやまる。(謝る)。
コラー!って、おこられるそうです。
「コラー!」もまた古い表現だと思いました。
おこられたときは……
泣く。
笑ってごまかす。
(いろいろあります。歳をとると怒られる(おこられる)こともなくなります。年寄りにおこってくる相手は、自分のこどもぐらいです。
年金生活者は、とりあえず、死ぬまで生きるだけです。だんだん感情が薄くなっていきます。おこられてもなにも感じません。なんだったぁ?です。
とあるこどもさんから訴えがあります。
手洗いをしないと親におこられるそうです。
(そうかな。今どきは、おふろに入らない女の人が増えたと聞きました。シャワーだけです)
ピーマンを残すと、おとうさんに叱られるそうです。(しかられる)
(設定が古いような。ピーマンで怒る(おこる)父親はいないような気がします)
(ピーマンを食べなくても人間は死なない)
なんだか、会議じゃありません。
それぞれが、自分の親が一番怖いと(こわい)主張します。
ストーップ!
議長役のけんたが、発言を止めました。
けんたが、軌道修正をしました。
『おこられたときには、どうしたらいいのか』についての話し合いです。
らんさんの答えです。
『ぎゅっとする(親にだきつく。だきしめる)』
スキンシップです。
ぎゅとしたあとで、ごめんなさいという。
会議が終わりに近づきました。
絵本の絵で、会議をしている場所が、幼稚園(わかばえん)の教室であることがわかりました。
設定は、小学生低学年だと思って読んでいました。幼稚園の年長さんですな。(6歳)
ページをめくると、園庭のようすです。この絵が、最初にあったほうがわかりやすい。
おこられたら、ママにだきついて、ごめんなさいという。ママに甘える。
けっこうむずかしい解決法です。
こどもを攻撃してくるママもいます。
あしたの会議では、結果報告ですな。
こどももたいへんです。
こどもさんが読む絵本です。
会議の議長であるけんたの、『おっほん……』から始まりました。
「おっほん」という言葉を久しぶりに聞きました。古い表現です。
メンバーは6人です。けんた、あゆみ、まさと、みか、りく(男子)、らん(女子)です。
議題(話し合うテーマ)です。
『おこられたときは、どうしたらいいか?』
けんたが、『きょうの おだいは……』と話し始めました。
「おだい」という言葉も古い。今どき聞きません。落語のお題(おだい)のようです。
作者は年配の人だろうかと思ったら、そうでもない方だったので不思議です。1983年(昭和58年)栃木生まれの女性です。
おこられたときには……
あやまる。(謝る)。
コラー!って、おこられるそうです。
「コラー!」もまた古い表現だと思いました。
おこられたときは……
泣く。
笑ってごまかす。
(いろいろあります。歳をとると怒られる(おこられる)こともなくなります。年寄りにおこってくる相手は、自分のこどもぐらいです。
年金生活者は、とりあえず、死ぬまで生きるだけです。だんだん感情が薄くなっていきます。おこられてもなにも感じません。なんだったぁ?です。
とあるこどもさんから訴えがあります。
手洗いをしないと親におこられるそうです。
(そうかな。今どきは、おふろに入らない女の人が増えたと聞きました。シャワーだけです)
ピーマンを残すと、おとうさんに叱られるそうです。(しかられる)
(設定が古いような。ピーマンで怒る(おこる)父親はいないような気がします)
(ピーマンを食べなくても人間は死なない)
なんだか、会議じゃありません。
それぞれが、自分の親が一番怖いと(こわい)主張します。
ストーップ!
議長役のけんたが、発言を止めました。
けんたが、軌道修正をしました。
『おこられたときには、どうしたらいいのか』についての話し合いです。
らんさんの答えです。
『ぎゅっとする(親にだきつく。だきしめる)』
スキンシップです。
ぎゅとしたあとで、ごめんなさいという。
会議が終わりに近づきました。
絵本の絵で、会議をしている場所が、幼稚園(わかばえん)の教室であることがわかりました。
設定は、小学生低学年だと思って読んでいました。幼稚園の年長さんですな。(6歳)
ページをめくると、園庭のようすです。この絵が、最初にあったほうがわかりやすい。
おこられたら、ママにだきついて、ごめんなさいという。ママに甘える。
けっこうむずかしい解決法です。
こどもを攻撃してくるママもいます。
あしたの会議では、結果報告ですな。
こどももたいへんです。
2024年10月28日
黄色いマンション 黒い猫 小泉今日子
黄色いマンション 黒い猫 小泉今日子 新潮文庫
今、毎週日曜日夜10時からあるNHKBSドラマ、『団地のふたり』を楽しみに観ています。
主人公役を務める小泉今日子さんと小林聡美さんが、それぞれエッセイ本を出されていることを知りました。まず、小泉今日子さんの本を先に読んでみます。
令和3年(2021年)12月1日に発行された文庫本です。単行本は、平成28年(2016年)4月にスイッチ・パブリッシングから刊行されています。
197ページに、この本のもとになるエッセイの連載は、2007年(平成19年)から2016年(平成28年)だったと書いてあります。雑誌、『SWITCH』の『原宿百景』。
『はじめに』があって、35本のエッセイがあって、『あとがきのようなもの』があります。エッセイ:随筆。散文(さんぶん。気楽な文章)。
著者は、1966年(昭和41年)生まれ、デビューは、16歳のとき、1982年(昭和57年)です。
『はじめに』
東京原宿について書いてあります。原宿に愛情、愛着をもたれています。
新宿と渋谷の間にあって、明治神宮の東にある地域です。
18歳から21歳までの4年間、原宿でひとり暮らしをされていたそうです。(73ページの記事)
『黄色いマンション 黒い猫』
読み終えて、絶句します。ぜっく:言葉が出てこない。
なんと感想を書いていいのかわかりません。
アイドルという仕事はたいへんです。
深夜放送の仕事が終わって、放送局から原宿あたりにある自宅マンションに帰る。
帰宅する車をファンに追跡される。
ある日、ドアを開けると、ダンボールの中に両目をつぶされた黒い子猫が入れられていた。
子猫を抱いていたら、子猫が逃げて、階段の7階から落下していった。
あわてて階下へ行ったが、子猫の姿はなかった。見つからなかった。
そんなことが書いてあります。
わたしが思うに、猫をダンボールに入れた人間は、ようすをずっと見ていたと思うのです。その者が、死んだ子猫を回収したと思うのです。ひどいことをする人間がいます。
ここまで読んで、著者は、外国も含めて、全国各地をあちこち飛び回るのでしょうが、とても狭い世界の中で生きて来た人に思えてきます。芸能界という世界です。
『スクーターズとチープ・トリック』
チンコおじさん:小田急線本厚木駅北口にある彫像(ほんあつぎえき)。(グーグルマップの映像で確認できました。円盤投げみたいなかっこうをされています)
ノリコ:男兄弟の中で育っている。
著者:三人姉妹の末っ子。長姉がヨーコさん(8歳年上)。
ヒロコさん:著者の2歳上の姉。著者の天敵。いばる。ばかにする。からだがでかい。口が達者。小さい時から著者とケンカばかりしている。著者は、一度も勝ったことがない。
チープ・トリック:アメリカ合衆国のロックバンド。
サーキュラースカート:円型に生地(きじ)を縫い合わせる。裾(すそ)に向かって広がるスカート。ボリューム感がある。
読んでも、おじいさんのわたしには、わからない内容でした。原宿のことが書いてありました。
『リッチくんのバレンタイン』
けっこう深刻なことが書いてあります。近所に住んでいた幼なじみのリッチくん(ヨーロッパのハーフ)が、青年期に車の中で二酸化炭素ガスを吸って、自殺してしまうのです。
あたしんち→タナカさんち→スガワラさんち→リッチくんち。リッチくんとは、オムツをしているころからの知り合い。同い年。幼稚園、小中学校、高校も同じだった。リッチくんはモテた。
みんなは、強くてかっこいいリッチくんが好きだった。著者は、弱くて悲しいリッチくんを知っていて怖かった。リッチ君は、そのことを知っている著者が怖かったに違いない。
バレンタインデーの話が出ます。モテモテのリッチくんです。
お金があっても、見た目がハンサムでかっこよくても、悲しいことはあります。
『嵐の日も 彼とならば』
ボイストレーナーのコウノ先生のお宅で出るごはんの話です。ふつうのごはんです。ふつうだから心にしみるのです。
歌手発掘番組、萩本欽一さん(きんちゃん)司会の、『スター誕生!』の話が出ます。自分も似たような世代なので、中学・高校のときに、リアルタイムで観ていました。日曜日お昼前の放送だった記憶です。
中学三年生の数学の授業中にクラスメートから、メモのような手紙が回ってきた。スター誕生に応募しようという内容だった。
クラスメートと応募して、オーディションを受けた。
『どこにでもいるような普通の子が、人の目に触れてどんどん垢抜け(あかぬけ)ていくのをまるで身内のような親し気な気分で見守ったりするのも楽しいものだ』と書いてあります。
著者は、予想外に、オーディションに受かってしまった。人生が大きく動き出してしまった。
読んでいて、アイドルは、『商品』だと思う。アイドルを中心において、たくさんの人たちが、収入を分かち合って生活をしていきます。
著者は、日記を書いているのではなかろうか。かなり昔の話です。毎日ではなくても、ぽつりぽつりと、そのときどきの心境を書き残しているものと想像します。
『真剣に親権問題』
驚くほど、家庭内の事情とか人生の流れについて書いてあります。
お父さん自営の会社が倒産して、最終的には、ご両親が別居をして離婚されています。著者中学二年生から別居が始まって、その後、ご家族は、親子がバラバラになるように双方の親と暮らしたり離れたりされていますが、一度別居後は、もうご家族全員でひとつの家で暮らすことはされていません。
ご両親の離婚時、著者は19歳で、離婚届提出時にあたって、著者の親権者を決めて離婚届の用紙に記入しなければなりません。著者の親権者は著者の希望で父親になりました。
今は18歳が成人ですから、19歳なら親権者はいらないのでしょう。
そういえば、高校時代のわたしのクラスにも、親の経営する会社が倒産して、どこかへいってしまった女子がいました。この部分を読んで、忘れていた記憶がよみがえりました。
生(なま)の生活について書いてあります。人間の暮らしが書いてあります。
『ユミさんのお母ちゃん』
実母のことを、『ユミさん』という著者です。著者と実父の距離は近いけれど、実母との距離は少し離れています。実母は、父親以外と恋をする人です。(若い頃は芸者をしていたそうです)。じっさいそういう女性っています。こどもより、男性に寄っていくのです。
母方祖父は、恋をして出奔(しゅっぽん。逃げ出して行方不明)。母方祖母は自殺されたそうです。なんだか、すごいことが書いてあります。現実の生活では、ユミさんにとっての母親が、ユミさんの娘である著者なのです。
『夕暮れの保健室』
著者はよく中学校をサボっていた。途中で帰宅したり、そのあと再び登校したりしていた。(びっくりです)。
ひとりでいるのが好きだった。
タイマン:一対一のケンカ。
『彼女はどうだったんだろう?』
あのころビルから飛び降り自殺をした女性アイドルとのことが書いてあります。40年近く前のことです。
う~む。わたしはそのアイドルのサインを持っていたことがあります。自分は二十代でした。
ただ、もうそのサインは見つかりません。何度か引っ越しをするなかで、なくした覚えはないのですが、どこにあるのかわからなくってしまいました。
ちょっと、ドキッとする文章でした。
『原宿キッス』
たのきんトリオのとしちゃんのことが書いてあります。
なんだかすごいこどものころの体験記です。
中学二年生のときに一家での夜逃げを体験されています。
あとは、勉強は好きではなかった。中学は行ったり行かなかったり、高校はアイドル活動に専念ということで、退学したとか…… けっこう荒れた思春期の生活を体験されています。
お風呂も、電話も、テレビもない生活があります。
テレビで、『三年B組金八先生』を見たかった。(女子中学生が妊娠、出産する内容でした)。
著者は、中学生の時に、妊娠したかもしれないという同級生の友だちと産婦人科に行っておられます。(妊娠はしていなかった。妊娠はしていなかったのに、友だちは残念そうな顔をしていた)。
なんというか、昭和の時代のおおらかさとか、力強さを思い出しました。
たくましく生きている人間たちがいました。
この文庫本は、今年読んで良かった一冊になりそうです。
『天使に会ったのだ』
まあ、思春期の著者にはボーイフレンドがいます。
著者は、優等生ではありません。
ボーイフレンドとは、親しくなって、しばらくたって、なんとなく会わなくなった。
父親が亡くなった。
末期のガンだった。糖尿病で、肺炎になりかけていた。
そしてもうひとりその後亡くなった人がいます。
ボーイフレンドだった人のおかあさんが亡くなっています。
『チャリン、チャリン、チャリン』
今ではふつうに家庭にあるものでも、60年ぐらい前は家にはありませんでした。
電話機(固定電話。黒いダイヤル式電話)、洗濯機、冷蔵庫、テレビ、電子レンジ、テープレコーダー、水洗トイレ、クーラー、エアコン、ビデオデッキ、ビデオカメラ、そして、道は土の状態で、まだアスファルト舗装はされていませんでした。
そんなことが書いてあります。
電話でアイドルの歌を聴けた。著者宅の電話機の横に缶があって、アイドルの歌を聴く時は、通話料として、30円を入れていたそうです。
そういえば、わたしも公衆電話をかけて、アグネス・チャンの歌を何度か聞いたことがあります。
著者は、いつしか、電話機でアイドル歌手の歌を聴く立場から、聴かせる立場に変わるのです。
『海辺の町にて』
いなかの夜道は暗くて怖い。買い物はどうしてもバスを利用するしかないぐらい不便。
東京の街は夜でも明るい。怖くはない。(こわくはない)。
いなかの夜は、月や星が美しい。
18歳から21歳までの4年間、著者は、原宿に自宅があった。ひとり暮らしをしていた。
『ラブレター フロム』
ロンドンから、東京の自分あてにハガキを出した。
ほかに恩師からの手紙、ボーフレンドからの手紙。
ご自身は、年賀状も書かないそうです。
『愛だの 恋だの』
自分の母親のことを、『ユミさん』と呼ぶ著者です。ユミさんは、母親というよりも、『女』です。そして、ユミさんの母親のような存在が、著者なのです。ちょっと変わった親子関係があります。
丸子のおばあちゃん:母方祖父の恋人。妻ではない。いろいろ複雑です。
『ただの思い出』
著者の実家は、神奈川県厚木にある。
著者は若い時から車好き。ホンダのステップバンが好き。
だけど、運転はどうか。仮免の試験に3回落ちています。
音楽を聴きながらドライブすることが好き。
車内でカセットテープをガチャンと押し込んで音楽を聴いていたという行為がなつかしい。今の若い人にはわからないことでしょう。
11月15日、亡き父上の17回忌だったそうです。
『飛行機の音 ラジカセの音』
神奈川県厚木市米軍基地:厚木市に基地なんかないと書いてあります。調べたら、神奈川県綾瀬市と大和市にまたがって米軍の軍用飛行場があるそうです。名称が、『厚木基地』だそうです。米軍と自衛隊の共同使用だそうです。
著者は戦後20年の昭和41年にこの世に生まれた。実家である厚木市には、まだ戦争の名残があった。厚木市内でアメリカ兵をよく見かけた。
そのあと、原宿の話が出ます。
青春時代の遊びは、原宿だった。
代々木公園で遊んだ。
『母と娘の喫茶店』
母親の『ユミさん』はコーヒーが好きだった。
しかし著者は、今もコーヒーがにがてだそうです。コーヒーは飲めないそうです。でも、アルコールは得意だそうです。あとは、喫煙者でヘビースモーカーのようです。
『あの男』
マネージャーだった5歳年上の男性について書いてあります。変わり者の男性だったようです。
まあ、変な男です。
『懐古と感謝(かいことかんしゃ)』
80年代(昭和55年代)の原宿のことが書いてあります。
著者は、82年(昭和57年)に16歳で歌手デビューしています。
18歳から21歳までの4年間、原宿でひとり暮らしをしています。
ふつうにひとりで原宿の街を出歩かれています。
著者がアイドルであることをまわりの人も気づいていますが、ふつうの対応をされています。
仕事が芸能人ということはあります。そして、だれだって仕事をしています。
自分に合う仕事が芸能人だった。自分は芸能人の仕事しかできないタイプだということはあります。まあ、たいていの人は、自分はこれしかできないからこの仕事をしているということはあります。
原宿に住む、あるいは働く人が、著者に優しい。いやむしろ、みんなに優しいのでしょう。
著者の言葉で、『原宿の街には善意が溢れていた(あふれていた)…… 勤労少女だった私の心が健やか(すこやか)だったのは……』
『彼女からの電話』
すごいことが書いてあります。
十代のころの話です。
仲が良かった女友だちから、『好きになっちゃいけない人』を好きになって、付き合いが始まったというような相談事、告白を聞かされます。
結婚している人なの?と問うと、違うという返事です。
著者は、女友だちに自分のカレシを盗られて(とられて)しまいました。
初めての失恋だったそうです。
『ミカちゃん、ピテカン、そして……』
ミカちゃんというのはお姉さんのような女ともだちです。ピテカン(ピテントロプス・エレクトス)は、日本で初めてのクラブの名称です。クラブ:娯楽・社交のための会員制のお店。
ミカちゃんとミカちゃんの友だちのミユキちゃんは、著者のことを、『タマゴ』と呼ぶ。
ミカちゃんは彼氏とパリで暮らすそうです。ちょっと淋しさが(さみしさが)ただよう文章でした。
『あたしのロリポップ』
セントラルアパートの下に、原宿プラザがあった。十代のころの著者にとってワクワクする場所だった。
ロリポップ:ペロペロキャンディー
川勝正幸さんという方について、讃える(たたえる)文章が書いてあります。
川勝正幸:ライター、編集者。2012年(平成24年)55歳没。自宅が火災にあって亡くなった。
文章を読んでいて思うのは、著者は、永遠の18歳です。文章の中では、46歳ですが、気持ちは若い。
(124ページまで読んできて思うことです)
自分は未来において、どうなっていてもいいとする。
自分らしく、今を生きる。
生き抜く自信がある。
自分の未来を、やっていけると信じている。
なんとかなるという力強さが著者にあります。
ときおり、胸にじんとくる文章があります。
アイドルであっても、芸能人であっても、タレントであっても、同じ人間だと思うのです。
『雨の日の246』
246:国道246号。東京千代田区から静岡県沼津市。
アイドルをしていて、何かをあきらめてしまったような気持ちがあった。
いつも自信がなかった。
カレシとの思い出話です。
『あの子の話』
ご本人が、離婚したところから始まります。(婚姻期間1995年(平成7年)29歳-2004年(平成16年)38歳。
離婚して再び始まるひとり暮らしです。青葉台というところ。駅は、中目黒駅。
新居が、自然が豊かな話、猫の話。ひとりの暮らしにウキウキしていた話。
『お化け怖い!(おばけこわい!)』
50歳近いけれど、おばけがこわい。
されど、二十代の頃は、ホラー映画にハマっていた。
歳をとって、怖さに対抗できる免疫(めんえき。体を守る仕組み)がなくなってしまったとのことでした。
『アキと春子と私の青春』
朝ドラです。じぇじぇじぇの『あまちゃん』ですな。アキは、のんさんですな。
アキの母親である春子を演じたのが、小泉今日子さんです。
ご本人の16歳からのアイドル時代は、つらかったそうです。つらかったけれど、楽しいこともあった。原宿や表参道あたりをぶらぶら歩くことが楽しみだった。
『渋滞~そして人生考』
表参道のクリスマスイルミネーションです。
自分でミニクーパーを運転しながら渋滞している道を進みます。車の中で、脳裏に思い出がよみがえってくるそうです。
右に代々木公園、左にNHKです。(今年9月にわたしたち夫婦も散歩したルートです。雰囲気がわかって読んでいて楽しい)
山手通りに出て、ご自宅マンションがある中目黒青葉台へ帰って行かれたようです。
『ジョーゼットのワンピース』
ジョーゼット:薄く、軽く、緩やか(ゆるやか)に編まれた織物。
母親は、日暮里(にっぽり)の染物屋の娘だった。
こどものころの自分の写真は、長姉の写真の数の半分ぐらいしかなかった。それに気づいた母親が、ときおり写真を撮ってくれた。
アイドルになってから、数えきれないぐらいの仕事用の写真が撮られた。街のあちこちに自分の顔写真が飾られた。自分のようで自分ではない顔の写真だった。
これからも仕事で自分の顔やスタイルの写真がたくさん撮られていく。
『花や 庭や』
休日の夕方は、商店街をぷらぷら歩いている。
ひとりの時間、ひとりの生活もずいぶん長くなったとあります。
こどもの頃からお花が好きだった話が書いてありました。
『団地のヌノタくん』
15歳のとき、団地に19歳か20歳のヌノタくんが住んでいた。
パンチパーマのヤンキーファッションだった。
友人たちとヌノタくんが運転するトヨタマークⅡ(マークツー)で、熱海までドライブに行って、札幌ラーメンを食べて帰って来た思い出話が書いてあります。
『ナンパの季節』
中学生三年のときに女友だちと横浜に買い物に行って、『彼女たちぃ……』と、ナンパされた話です。
スウィングトップ:ゴルフ用のジャンパー。
最近、若い女性と間違われてナンパされたそうです。でも、男は中年女性だとわかって、逃げるように去って行ったそうです。
『四月某日の手記』
ユミ(母)78歳の誕生日祝いを新宿の某デパートで、ヒロコ(次姉。2歳年上。もうすぐ52歳)と三人で買いに行きました。
親族の話がいろいろ出ます。甥の(おいの)5歳男児とか、長姉のヨーコさん(著者より8歳年上)が、がんで亡くなったとか。
『続、生い立ちの記』
自分が生まれたときの難産の状態だったことなどが書かれています。
『逃避行、そして半世紀』
神奈川県の葉山です。43歳から46歳までの3年間を葉山で海を見ながら猫と暮らしたそうです。
沢村貞子:1908年(明治41年)-1996年(平成8年)87歳没。女優、随筆家。
沢村さんに影響を受けて、海の見える部屋にしたそうです。
著者は読書家のようです。
この部分を読んでの感想です。
ひとつは、こどもさんの頃はそうではないかもしれませんが、デビューされた以降、お金で苦労されたことはない人なのだなということ。
もうひとつは、年齢を重ねておられますが、気持ちは若いということ。結婚はされましたが、出産子育ての体験をされていないことが、今もなお気持ちが若いということだと推測しました。
あとは、健康に気をつけてくださいということ。とくにタバコはやめたほうがいい。お父上もお姉さんも癌で亡くなっておられます。癌になりやすい体質の遺伝はあろうかと思います。
『和田さんの今日子ちゃん』
和田誠さんのお話です。
和田誠:イラストレーター。グラフィックデザイナー、エッセイスト、映画監督。1936年(昭和11年)-2019年(令和元年)83歳没。料理愛好家の平野レミさんが奥さん。
『あとがきのようなもの』
最初のお話に出た、7階から転落した黒猫の話です。追悔(ついかい。あとになって悔やむこと(くやむこと)。後悔)シーンがよみがえるそうです。
コロナ禍の際中で、実家へ一年以上帰っていないとあります。
過ぎてみれば、コロナってなんだったのだろうと思い出す今日この頃です。
たくさんの人たちが亡くなりましたが、コロナ以外の病気で亡くなった方もいます。
うちの親族も亡くなりました。
お見舞いの面会もきちんとできませんでした。お互いに無念だった出来事と思います。
今度は、NHKBSドラマ、『団地のふたり』で著者と共演されている小林聡美さんのエッセイ本を読んでみます。『わたしの、本のある日々 小林聡美(こばやし・さとみ) 毎日文庫』です。
今、毎週日曜日夜10時からあるNHKBSドラマ、『団地のふたり』を楽しみに観ています。
主人公役を務める小泉今日子さんと小林聡美さんが、それぞれエッセイ本を出されていることを知りました。まず、小泉今日子さんの本を先に読んでみます。
令和3年(2021年)12月1日に発行された文庫本です。単行本は、平成28年(2016年)4月にスイッチ・パブリッシングから刊行されています。
197ページに、この本のもとになるエッセイの連載は、2007年(平成19年)から2016年(平成28年)だったと書いてあります。雑誌、『SWITCH』の『原宿百景』。
『はじめに』があって、35本のエッセイがあって、『あとがきのようなもの』があります。エッセイ:随筆。散文(さんぶん。気楽な文章)。
著者は、1966年(昭和41年)生まれ、デビューは、16歳のとき、1982年(昭和57年)です。
『はじめに』
東京原宿について書いてあります。原宿に愛情、愛着をもたれています。
新宿と渋谷の間にあって、明治神宮の東にある地域です。
18歳から21歳までの4年間、原宿でひとり暮らしをされていたそうです。(73ページの記事)
『黄色いマンション 黒い猫』
読み終えて、絶句します。ぜっく:言葉が出てこない。
なんと感想を書いていいのかわかりません。
アイドルという仕事はたいへんです。
深夜放送の仕事が終わって、放送局から原宿あたりにある自宅マンションに帰る。
帰宅する車をファンに追跡される。
ある日、ドアを開けると、ダンボールの中に両目をつぶされた黒い子猫が入れられていた。
子猫を抱いていたら、子猫が逃げて、階段の7階から落下していった。
あわてて階下へ行ったが、子猫の姿はなかった。見つからなかった。
そんなことが書いてあります。
わたしが思うに、猫をダンボールに入れた人間は、ようすをずっと見ていたと思うのです。その者が、死んだ子猫を回収したと思うのです。ひどいことをする人間がいます。
ここまで読んで、著者は、外国も含めて、全国各地をあちこち飛び回るのでしょうが、とても狭い世界の中で生きて来た人に思えてきます。芸能界という世界です。
『スクーターズとチープ・トリック』
チンコおじさん:小田急線本厚木駅北口にある彫像(ほんあつぎえき)。(グーグルマップの映像で確認できました。円盤投げみたいなかっこうをされています)
ノリコ:男兄弟の中で育っている。
著者:三人姉妹の末っ子。長姉がヨーコさん(8歳年上)。
ヒロコさん:著者の2歳上の姉。著者の天敵。いばる。ばかにする。からだがでかい。口が達者。小さい時から著者とケンカばかりしている。著者は、一度も勝ったことがない。
チープ・トリック:アメリカ合衆国のロックバンド。
サーキュラースカート:円型に生地(きじ)を縫い合わせる。裾(すそ)に向かって広がるスカート。ボリューム感がある。
読んでも、おじいさんのわたしには、わからない内容でした。原宿のことが書いてありました。
『リッチくんのバレンタイン』
けっこう深刻なことが書いてあります。近所に住んでいた幼なじみのリッチくん(ヨーロッパのハーフ)が、青年期に車の中で二酸化炭素ガスを吸って、自殺してしまうのです。
あたしんち→タナカさんち→スガワラさんち→リッチくんち。リッチくんとは、オムツをしているころからの知り合い。同い年。幼稚園、小中学校、高校も同じだった。リッチくんはモテた。
みんなは、強くてかっこいいリッチくんが好きだった。著者は、弱くて悲しいリッチくんを知っていて怖かった。リッチ君は、そのことを知っている著者が怖かったに違いない。
バレンタインデーの話が出ます。モテモテのリッチくんです。
お金があっても、見た目がハンサムでかっこよくても、悲しいことはあります。
『嵐の日も 彼とならば』
ボイストレーナーのコウノ先生のお宅で出るごはんの話です。ふつうのごはんです。ふつうだから心にしみるのです。
歌手発掘番組、萩本欽一さん(きんちゃん)司会の、『スター誕生!』の話が出ます。自分も似たような世代なので、中学・高校のときに、リアルタイムで観ていました。日曜日お昼前の放送だった記憶です。
中学三年生の数学の授業中にクラスメートから、メモのような手紙が回ってきた。スター誕生に応募しようという内容だった。
クラスメートと応募して、オーディションを受けた。
『どこにでもいるような普通の子が、人の目に触れてどんどん垢抜け(あかぬけ)ていくのをまるで身内のような親し気な気分で見守ったりするのも楽しいものだ』と書いてあります。
著者は、予想外に、オーディションに受かってしまった。人生が大きく動き出してしまった。
読んでいて、アイドルは、『商品』だと思う。アイドルを中心において、たくさんの人たちが、収入を分かち合って生活をしていきます。
著者は、日記を書いているのではなかろうか。かなり昔の話です。毎日ではなくても、ぽつりぽつりと、そのときどきの心境を書き残しているものと想像します。
『真剣に親権問題』
驚くほど、家庭内の事情とか人生の流れについて書いてあります。
お父さん自営の会社が倒産して、最終的には、ご両親が別居をして離婚されています。著者中学二年生から別居が始まって、その後、ご家族は、親子がバラバラになるように双方の親と暮らしたり離れたりされていますが、一度別居後は、もうご家族全員でひとつの家で暮らすことはされていません。
ご両親の離婚時、著者は19歳で、離婚届提出時にあたって、著者の親権者を決めて離婚届の用紙に記入しなければなりません。著者の親権者は著者の希望で父親になりました。
今は18歳が成人ですから、19歳なら親権者はいらないのでしょう。
そういえば、高校時代のわたしのクラスにも、親の経営する会社が倒産して、どこかへいってしまった女子がいました。この部分を読んで、忘れていた記憶がよみがえりました。
生(なま)の生活について書いてあります。人間の暮らしが書いてあります。
『ユミさんのお母ちゃん』
実母のことを、『ユミさん』という著者です。著者と実父の距離は近いけれど、実母との距離は少し離れています。実母は、父親以外と恋をする人です。(若い頃は芸者をしていたそうです)。じっさいそういう女性っています。こどもより、男性に寄っていくのです。
母方祖父は、恋をして出奔(しゅっぽん。逃げ出して行方不明)。母方祖母は自殺されたそうです。なんだか、すごいことが書いてあります。現実の生活では、ユミさんにとっての母親が、ユミさんの娘である著者なのです。
『夕暮れの保健室』
著者はよく中学校をサボっていた。途中で帰宅したり、そのあと再び登校したりしていた。(びっくりです)。
ひとりでいるのが好きだった。
タイマン:一対一のケンカ。
『彼女はどうだったんだろう?』
あのころビルから飛び降り自殺をした女性アイドルとのことが書いてあります。40年近く前のことです。
う~む。わたしはそのアイドルのサインを持っていたことがあります。自分は二十代でした。
ただ、もうそのサインは見つかりません。何度か引っ越しをするなかで、なくした覚えはないのですが、どこにあるのかわからなくってしまいました。
ちょっと、ドキッとする文章でした。
『原宿キッス』
たのきんトリオのとしちゃんのことが書いてあります。
なんだかすごいこどものころの体験記です。
中学二年生のときに一家での夜逃げを体験されています。
あとは、勉強は好きではなかった。中学は行ったり行かなかったり、高校はアイドル活動に専念ということで、退学したとか…… けっこう荒れた思春期の生活を体験されています。
お風呂も、電話も、テレビもない生活があります。
テレビで、『三年B組金八先生』を見たかった。(女子中学生が妊娠、出産する内容でした)。
著者は、中学生の時に、妊娠したかもしれないという同級生の友だちと産婦人科に行っておられます。(妊娠はしていなかった。妊娠はしていなかったのに、友だちは残念そうな顔をしていた)。
なんというか、昭和の時代のおおらかさとか、力強さを思い出しました。
たくましく生きている人間たちがいました。
この文庫本は、今年読んで良かった一冊になりそうです。
『天使に会ったのだ』
まあ、思春期の著者にはボーイフレンドがいます。
著者は、優等生ではありません。
ボーイフレンドとは、親しくなって、しばらくたって、なんとなく会わなくなった。
父親が亡くなった。
末期のガンだった。糖尿病で、肺炎になりかけていた。
そしてもうひとりその後亡くなった人がいます。
ボーイフレンドだった人のおかあさんが亡くなっています。
『チャリン、チャリン、チャリン』
今ではふつうに家庭にあるものでも、60年ぐらい前は家にはありませんでした。
電話機(固定電話。黒いダイヤル式電話)、洗濯機、冷蔵庫、テレビ、電子レンジ、テープレコーダー、水洗トイレ、クーラー、エアコン、ビデオデッキ、ビデオカメラ、そして、道は土の状態で、まだアスファルト舗装はされていませんでした。
そんなことが書いてあります。
電話でアイドルの歌を聴けた。著者宅の電話機の横に缶があって、アイドルの歌を聴く時は、通話料として、30円を入れていたそうです。
そういえば、わたしも公衆電話をかけて、アグネス・チャンの歌を何度か聞いたことがあります。
著者は、いつしか、電話機でアイドル歌手の歌を聴く立場から、聴かせる立場に変わるのです。
『海辺の町にて』
いなかの夜道は暗くて怖い。買い物はどうしてもバスを利用するしかないぐらい不便。
東京の街は夜でも明るい。怖くはない。(こわくはない)。
いなかの夜は、月や星が美しい。
18歳から21歳までの4年間、著者は、原宿に自宅があった。ひとり暮らしをしていた。
『ラブレター フロム』
ロンドンから、東京の自分あてにハガキを出した。
ほかに恩師からの手紙、ボーフレンドからの手紙。
ご自身は、年賀状も書かないそうです。
『愛だの 恋だの』
自分の母親のことを、『ユミさん』と呼ぶ著者です。ユミさんは、母親というよりも、『女』です。そして、ユミさんの母親のような存在が、著者なのです。ちょっと変わった親子関係があります。
丸子のおばあちゃん:母方祖父の恋人。妻ではない。いろいろ複雑です。
『ただの思い出』
著者の実家は、神奈川県厚木にある。
著者は若い時から車好き。ホンダのステップバンが好き。
だけど、運転はどうか。仮免の試験に3回落ちています。
音楽を聴きながらドライブすることが好き。
車内でカセットテープをガチャンと押し込んで音楽を聴いていたという行為がなつかしい。今の若い人にはわからないことでしょう。
11月15日、亡き父上の17回忌だったそうです。
『飛行機の音 ラジカセの音』
神奈川県厚木市米軍基地:厚木市に基地なんかないと書いてあります。調べたら、神奈川県綾瀬市と大和市にまたがって米軍の軍用飛行場があるそうです。名称が、『厚木基地』だそうです。米軍と自衛隊の共同使用だそうです。
著者は戦後20年の昭和41年にこの世に生まれた。実家である厚木市には、まだ戦争の名残があった。厚木市内でアメリカ兵をよく見かけた。
そのあと、原宿の話が出ます。
青春時代の遊びは、原宿だった。
代々木公園で遊んだ。
『母と娘の喫茶店』
母親の『ユミさん』はコーヒーが好きだった。
しかし著者は、今もコーヒーがにがてだそうです。コーヒーは飲めないそうです。でも、アルコールは得意だそうです。あとは、喫煙者でヘビースモーカーのようです。
『あの男』
マネージャーだった5歳年上の男性について書いてあります。変わり者の男性だったようです。
まあ、変な男です。
『懐古と感謝(かいことかんしゃ)』
80年代(昭和55年代)の原宿のことが書いてあります。
著者は、82年(昭和57年)に16歳で歌手デビューしています。
18歳から21歳までの4年間、原宿でひとり暮らしをしています。
ふつうにひとりで原宿の街を出歩かれています。
著者がアイドルであることをまわりの人も気づいていますが、ふつうの対応をされています。
仕事が芸能人ということはあります。そして、だれだって仕事をしています。
自分に合う仕事が芸能人だった。自分は芸能人の仕事しかできないタイプだということはあります。まあ、たいていの人は、自分はこれしかできないからこの仕事をしているということはあります。
原宿に住む、あるいは働く人が、著者に優しい。いやむしろ、みんなに優しいのでしょう。
著者の言葉で、『原宿の街には善意が溢れていた(あふれていた)…… 勤労少女だった私の心が健やか(すこやか)だったのは……』
『彼女からの電話』
すごいことが書いてあります。
十代のころの話です。
仲が良かった女友だちから、『好きになっちゃいけない人』を好きになって、付き合いが始まったというような相談事、告白を聞かされます。
結婚している人なの?と問うと、違うという返事です。
著者は、女友だちに自分のカレシを盗られて(とられて)しまいました。
初めての失恋だったそうです。
『ミカちゃん、ピテカン、そして……』
ミカちゃんというのはお姉さんのような女ともだちです。ピテカン(ピテントロプス・エレクトス)は、日本で初めてのクラブの名称です。クラブ:娯楽・社交のための会員制のお店。
ミカちゃんとミカちゃんの友だちのミユキちゃんは、著者のことを、『タマゴ』と呼ぶ。
ミカちゃんは彼氏とパリで暮らすそうです。ちょっと淋しさが(さみしさが)ただよう文章でした。
『あたしのロリポップ』
セントラルアパートの下に、原宿プラザがあった。十代のころの著者にとってワクワクする場所だった。
ロリポップ:ペロペロキャンディー
川勝正幸さんという方について、讃える(たたえる)文章が書いてあります。
川勝正幸:ライター、編集者。2012年(平成24年)55歳没。自宅が火災にあって亡くなった。
文章を読んでいて思うのは、著者は、永遠の18歳です。文章の中では、46歳ですが、気持ちは若い。
(124ページまで読んできて思うことです)
自分は未来において、どうなっていてもいいとする。
自分らしく、今を生きる。
生き抜く自信がある。
自分の未来を、やっていけると信じている。
なんとかなるという力強さが著者にあります。
ときおり、胸にじんとくる文章があります。
アイドルであっても、芸能人であっても、タレントであっても、同じ人間だと思うのです。
『雨の日の246』
246:国道246号。東京千代田区から静岡県沼津市。
アイドルをしていて、何かをあきらめてしまったような気持ちがあった。
いつも自信がなかった。
カレシとの思い出話です。
『あの子の話』
ご本人が、離婚したところから始まります。(婚姻期間1995年(平成7年)29歳-2004年(平成16年)38歳。
離婚して再び始まるひとり暮らしです。青葉台というところ。駅は、中目黒駅。
新居が、自然が豊かな話、猫の話。ひとりの暮らしにウキウキしていた話。
『お化け怖い!(おばけこわい!)』
50歳近いけれど、おばけがこわい。
されど、二十代の頃は、ホラー映画にハマっていた。
歳をとって、怖さに対抗できる免疫(めんえき。体を守る仕組み)がなくなってしまったとのことでした。
『アキと春子と私の青春』
朝ドラです。じぇじぇじぇの『あまちゃん』ですな。アキは、のんさんですな。
アキの母親である春子を演じたのが、小泉今日子さんです。
ご本人の16歳からのアイドル時代は、つらかったそうです。つらかったけれど、楽しいこともあった。原宿や表参道あたりをぶらぶら歩くことが楽しみだった。
『渋滞~そして人生考』
表参道のクリスマスイルミネーションです。
自分でミニクーパーを運転しながら渋滞している道を進みます。車の中で、脳裏に思い出がよみがえってくるそうです。
右に代々木公園、左にNHKです。(今年9月にわたしたち夫婦も散歩したルートです。雰囲気がわかって読んでいて楽しい)
山手通りに出て、ご自宅マンションがある中目黒青葉台へ帰って行かれたようです。
『ジョーゼットのワンピース』
ジョーゼット:薄く、軽く、緩やか(ゆるやか)に編まれた織物。
母親は、日暮里(にっぽり)の染物屋の娘だった。
こどものころの自分の写真は、長姉の写真の数の半分ぐらいしかなかった。それに気づいた母親が、ときおり写真を撮ってくれた。
アイドルになってから、数えきれないぐらいの仕事用の写真が撮られた。街のあちこちに自分の顔写真が飾られた。自分のようで自分ではない顔の写真だった。
これからも仕事で自分の顔やスタイルの写真がたくさん撮られていく。
『花や 庭や』
休日の夕方は、商店街をぷらぷら歩いている。
ひとりの時間、ひとりの生活もずいぶん長くなったとあります。
こどもの頃からお花が好きだった話が書いてありました。
『団地のヌノタくん』
15歳のとき、団地に19歳か20歳のヌノタくんが住んでいた。
パンチパーマのヤンキーファッションだった。
友人たちとヌノタくんが運転するトヨタマークⅡ(マークツー)で、熱海までドライブに行って、札幌ラーメンを食べて帰って来た思い出話が書いてあります。
『ナンパの季節』
中学生三年のときに女友だちと横浜に買い物に行って、『彼女たちぃ……』と、ナンパされた話です。
スウィングトップ:ゴルフ用のジャンパー。
最近、若い女性と間違われてナンパされたそうです。でも、男は中年女性だとわかって、逃げるように去って行ったそうです。
『四月某日の手記』
ユミ(母)78歳の誕生日祝いを新宿の某デパートで、ヒロコ(次姉。2歳年上。もうすぐ52歳)と三人で買いに行きました。
親族の話がいろいろ出ます。甥の(おいの)5歳男児とか、長姉のヨーコさん(著者より8歳年上)が、がんで亡くなったとか。
『続、生い立ちの記』
自分が生まれたときの難産の状態だったことなどが書かれています。
『逃避行、そして半世紀』
神奈川県の葉山です。43歳から46歳までの3年間を葉山で海を見ながら猫と暮らしたそうです。
沢村貞子:1908年(明治41年)-1996年(平成8年)87歳没。女優、随筆家。
沢村さんに影響を受けて、海の見える部屋にしたそうです。
著者は読書家のようです。
この部分を読んでの感想です。
ひとつは、こどもさんの頃はそうではないかもしれませんが、デビューされた以降、お金で苦労されたことはない人なのだなということ。
もうひとつは、年齢を重ねておられますが、気持ちは若いということ。結婚はされましたが、出産子育ての体験をされていないことが、今もなお気持ちが若いということだと推測しました。
あとは、健康に気をつけてくださいということ。とくにタバコはやめたほうがいい。お父上もお姉さんも癌で亡くなっておられます。癌になりやすい体質の遺伝はあろうかと思います。
『和田さんの今日子ちゃん』
和田誠さんのお話です。
和田誠:イラストレーター。グラフィックデザイナー、エッセイスト、映画監督。1936年(昭和11年)-2019年(令和元年)83歳没。料理愛好家の平野レミさんが奥さん。
『あとがきのようなもの』
最初のお話に出た、7階から転落した黒猫の話です。追悔(ついかい。あとになって悔やむこと(くやむこと)。後悔)シーンがよみがえるそうです。
コロナ禍の際中で、実家へ一年以上帰っていないとあります。
過ぎてみれば、コロナってなんだったのだろうと思い出す今日この頃です。
たくさんの人たちが亡くなりましたが、コロナ以外の病気で亡くなった方もいます。
うちの親族も亡くなりました。
お見舞いの面会もきちんとできませんでした。お互いに無念だった出来事と思います。
今度は、NHKBSドラマ、『団地のふたり』で著者と共演されている小林聡美さんのエッセイ本を読んでみます。『わたしの、本のある日々 小林聡美(こばやし・さとみ) 毎日文庫』です。
2024年10月27日
赤と青のガウン 彬子女王(あきこじょうおう)
赤と青のガウン オックスフォード留学記 彬子女王(あきこじょうおう) PHP文庫
(月刊誌『Voice』でのエッセイ掲載期間は、2012年(平成24年)4月号~2014年(平成26年)5月号まで。タイトルは、『オックスフォード留学記-中世の街に学んで』だった。単行本は、2015年(平成27年)に発行されています。2024年(令和6年)の文庫化にあたって、加筆後再編集されています)
テレビ番組、『徹子の部屋』にゲストとして出られて、本を出していると聞いたので、取り寄せて読んでみました。
皇族の方が書いた本です。
彬子女王(あきこじょうおう):1981年(昭和56年)生まれ。学習院大学卒業後、英国オックスフォード大学マートン・コレッジに留学。大正天皇のひ孫。父親は、寛仁親王(ひろひとしんのう。2012年(平成24年)66歳没。大正天皇の孫。愛称『ヒゲの殿下(ひげのでんか)』)。
最初の留学が、20歳の時、2001年(平成13年)9月から1年間留学した。2回目が、学習院大学卒業後の2004年(平成16年)からオックスフォード大学の大学院に入学して、2010年(平成22年)1月に博士課程を修了した。
ざっと目を通して、たくさんの文章を書く方だとお見受けしました。(63ページに、オックスフォード大学で、たくさんのエッセイ(小論文)を書いたと記事があります)
タイトルにある、『赤と青のガウン』は、入学するとまず黒一色のガウンを着る。博士号を授与されると赤と青のガウンを着るそうです。学位(がくい。学びを修めた(おさめた)者に対する称号)によってガウンの色が違う。
皇族の一員として、『自由』が制限された立場でお生まれになった方です。
『役割』を果たすために、『自由』が制限されているのです。
ちょっと、『役割』について書いてみます。わたしは、人はだれしも、人間社会において、なにがしかの役割を与えられて、この世に生まれてくると思っています。
先日、高齢となった親族のお見舞いに九州福岡県まで行って来たのですが、『(人の)役割』について考えさせられました。
初回は、7月に病院に入院した時にお見舞いに行ったのですが、そのときは、意識がはっきりしていて、きちんと受け答えができていました。
その後、病院から施設に移って、9月に施設へ面会に行ったのですが、なにかしら変なのです。喜怒哀楽の表情が薄くなって、意識がぼんやりとしていました。人の固有名詞である名前が、口から出てきませんでした。
同行の妻が、『役割』がなくなったからだと解説してくれました。不自由な体であっても、衣食住の毎日の生活を自分の力で送っていれば、自分の『役割』がある。
人間は自分に、社会的な『役割』、家族の中での『役割』があるときは、しっかりしなきゃという自意識がある。
ところが、施設に入ると、まわりにいる人たちが自分の身の回りのことをやってくれる。本人はただ、生かされているだけになる。なにもしなくても生きていける。しっかりしなきゃという自意識が、だんだん消滅していく。脳みそにある意識が薄れていく。(なるほどと思いました)
そのことに関連付けて考えてみると、皇族の一員としてお生まれになった著者は、自分の役割を果たしていく決断をどこかの時点でされて、がんばっておられるのだと思います。たいしたものです。
エッセイ集です。
『1 百川学海(ひゃくせんがっかい)』:川は海を目標にして流れていく。常に修養・努力して、大きな海(目標)をめざす。
2011年5月(平成23年):オックスフォード大学から博士号を授与された。(専攻は日本美術)
ドミニク:スイス人の友人。学友。
ベネディクト:英国人。男性。英会話ができなかった著者を救ってくれた。2学年上の上級生。
父親に対する感謝があります。
英会話ができなかったけれど、努力を続けた結果、ある日突然相手が話す英語が明瞭に理解できるようになられたそうです。(英語学習者にとっては、いいアドバイスになります)。
英語がわからなかったゆえの孤独があります(日本に帰りたい)。それを救ってくれる学友の存在があります。人間は助け合いです。
まず、2001年9月から1年間留学した。9月に入学して、翌年1月に突然英語が聞き取れるようになった。(その後、2回目の留学があります)。
『2 大信不約(たいしんふやく)』:本当の信義は約束しなくても守られる。信頼関係は大事。
側衛官(そくえいかん):警察庁皇宮警察本部所属皇宮護衛官。国家公務員。
警衛(けいえい):皇族を守ること。
警護:要人を守ること。
警備:モノを守ること。
オックスフォード大学に行って、側衛官がつかなくなった。生まれて初めて、ひとりで街を歩いた。心細く辛かった。(つらかった)。慣れてきたら、楽しめるようになった。帰国してまた側衛官が付くことを心配するように変化した。(側衛官がつかないほうが気楽でいい)。
皇族に関する内輪話が楽しい。
清少納言の、『枕草子(まくらのそうし)』を読むようです。
『3 苦学力行(くがくりっこう)』:働いて学費を稼ぎながら勉学に励む。定時制高校とか夜間の大学みたいです。
日本の大学と英国のオックスフォード大学は、組織と運営が大きく異なる。
オックスフォード大学は、日本の学習院、慶応、早稲田、青山学院等をすべてひっくるめて、東京大学というようなもの(組織)。
コレッジ(学寮):オックスフォード大学の中にある。40近くある。どのコレッジに所属したかが大事になる。
著者は、皇太子殿下(現在の令和天皇)と同じ、マートン・コレッジに所属した。
レクチャー:所属コレッジに関係なく学生が集まる。
セミナー:コレッジで10人程度の専攻学生が集まる。
チュートリアル:先生(チューター)と学生(3人まで)が集まって、個人指導を受ける。
著者は、聴講生として、オックスフォード大学に留学した。(試験を乗り切る必要はない)
ケルト人:紀元前から、ヨーロッパ大陸で繁栄した民族。
著者の専攻は、最初が、『ケルト史』。その後、『日本美術』。
トマス・チャールズ=エドワーズ:ケルト史のチュートリアル(先生)
スティーヴ・ガン先生:特別科目『方法論』のチュートリアル。同級生が、ルイーズとエリッサ。
『4 日常坐臥(にちじょうざが)』:座ること、寝ることで、起きているときも寝ているときも。いつでもという意味。
マートン・コレッジ:1264年設立(日本では鎌倉時代の元寇(げんこう)の頃)
ポーターズ・ロッジ(守衛所):郵便受けの確認に行く。夕食の席を機械にカードを通して予約する。食堂で他の学生などから情報を収集する。
英国映画、『ハリーポッター』の出てくる食堂風景は、自分が利用していた食堂の近くにある別の食堂でのロケだったそうです。
『5 合縁奇縁(あいえんきえん)』:人と人との縁(えん)。巡り合わせ。因縁(いんねん。運命)。
番組『徹子の部屋』でのご本人の語り口調を覚えているので、読みながら、本人がしゃべっているように聞こえる文章です。わかりやすい。
フレッド:マートン・コレッジ所属。偶然のような出会いがあった。原宿駅前で会った。
著者は、私費留学だった。
海外での留学は、日本での就職には不利になる。
日本における研究者の世界は、学閥主義が多い。(同じ学校の出身者で集まる)。
『6 一期一会(いちごいちえ)』:茶道の用語。出会いは一度だけ。
JR:鉄道ではない。ジェシカ・ローソン先生。とても厳しい人。マートン・コレッジの学長。妥協を許さない人。
19世紀末から20世紀にかけて、西洋人が、日本美術をどのように見ていたかを明らかにする。なぜ、大英博物館は、明治時代に多くの日本美術を蒐集(しゅうしゅう。目的をもって特定のものを集める)したのか、理由を研究する。
研究をしながら、自分が日本人であることを自覚したそうです。
外国人は日本人を誤解している。(日本人はみんな寿司を握ることができる。日本には今も忍者がいる)。
日本の絵画は、部屋の中に季節感を生む。
『7 千載一遇』:千年に一回の絶好のチャンス。
ティム・クラーク先生:大英博物館の日本セクション長。完璧主義者。
バッキンガム宮殿に招かれて、エリザベス女王陛下とふたりだけで紅茶を飲んだお話です。女王がお茶を入れてくださったそうです。
2005年(平成17年)夏のことでした。日本では、愛知万博の開催、小泉純一郎政権の時代でした。
『8 危機一髪(ききいっぱつ)』:ほんのちょっとのことで危機におちいる瞬間。
英国は電車が日本のようにちゃんとしていないということが書いてあります。時刻どおりに来ないとか、事故のときの代替え手段を用意してくれないとかです。
でも、時刻どおりに来ないことには慣れるそうです。
『9 多事多難(たじたなん)』:平穏無事(へいおんぶじ)の反対。立て続けに悪いことが起きること。
皇族のパスポートは、一般人とは異なるそうです。赤ではなく、茶色で、たまに、外国入国時に止められるそうです。一般人のようにフリー(自由)に移動ができません。
付き添いなしのひとり移動の苦労が書いてあります。
すごいなあ。冒険です。ヨーロッパ国内の空港移動は不安しかありません。節約のために格安航空会社を利用した時がうまくいかないことがあるそうです。(節約されるということが意外でした)
『10 奇貨可居(きかおくべし)』:チャンスを利用する。
ビジティング・スチューデント(聴講生)。
オックスフォード大学で聴講生として1年間学んだのですが、生徒の立場できちんと大学院で学位をとりたい。
お父上とのむずかしい関係が書いてあります。お父さんは、厳しい人だったそうです。烈火のごとく怒るときがあったそうです。大学院へ行くためには費用がいる。親から出してもらわなければならない。そんな交渉事が書いてあります。理論武装が必要だったそうです。
でも、簡単に許可がおりたそうです。
読んでいて、皇族の人たちも同じ人間だと感じました。
なにかしらめんどうな父子関係があります。意外でした。お金がある人たちなのに。
(なお、お父さんは2012年にご病気で亡くなっています)
英会話学習と習得についての手法、経過が書いてありました。
『11 五角六張(ごかくろくちょう)』:なにをやってもうまくいかない日。
最初の留学が2001年(平成13年)9月、20歳のときでした。
二度目が、2004年(平成16年)9月、23歳です。
マートン・コレッジ大学院生専用寮でひとり暮らしです。
ワンルーム、キッチンは共用です。
うまくいかないことが書いてあります。
バレンタインデーの記事になって、(ヨーロッパでは、女性が男性にチョコレートを贈る習慣はないそうです。逆で、男性が女性にお花やお菓子を贈るそうです)
日本の習慣に従ってやって救われたという話が書いてあります。
『12 一念通天(いちねんつうてん)』:固い決意で取り組めば必ず達成できる。
2005年の夏休みに、大英博物館で、日本セクションのボランティア・スタッフになる。作品の整理整頓作業です。
昔の英国人の筆記体が読めるようになる。(今の日本の英語教育では筆記体を教えなくなっています)
『13 日常茶飯(にちじょうさはん』:いつものこと。
英国の料理はまずい。(まずくはないけれど、おいしくもないそうです)。英国人には、おいしいものを食べようという気持ちがない。宗教で贅沢(ぜいたく)を制止したことが原因のようです。
当時の英国にある日本食は、日本食の味ではなかったそうです。
自分で自炊して料理をするようになった。体が和食を欲する。
マーケット(市場)の話になります。
食事づくりにおいて、いろいろ工夫があります。野菜類の有効活用です。
食事会の話しも出ます。
外国人は、「甘い豆」が苦手(にがて)だそうです。
英国人は、食器をきちんと洗うことをしない。洗剤がついたまま、カゴに入れるというような記事もあり驚きました。洗剤は体に毒ではないようですが、ちょっと気持ち悪いです。
『14 骨肉之親(こつにくのしん)』:血のつながりが濃い肉親関係。その間の深い愛情。
ゴッドドーターがおられるそうです。(著者が名付け親になった)。『菜夏子グレース(ななこグレース。出版当時6歳。2008年(平成20年)6月生まれ)』。
ゴッドファーザー、ゴッドマザー:キリスト教洗礼名の名付け親。
『おもちゃのチャチャチャ』を歌ってあげた。(著者の父親が、著者が小さい頃に歌ってくれたそうです)
『15 前途多難(ぜんとたなん)』:未来に困難と災難がある。
ロンドンの北東、ノリッチという町にあるセインズベリー日本藝術研究所長ニコル・ルーマニエール先生に半分だまされるようにして、フランス国内で巡回式の展覧会を企画実行したことが書いてあります。
かなりしんどい思いをされています。
『16 一以貫之(いつをもってこれをつらぬく)』:ほかに目を奪われず、おのれの道を進む。
ジョープライス:江戸時代の日本絵画の美術収集家。伊藤若冲(いとう・じゃくちゅう)を世界の人気者にした。(私がずいぶん前に読んだ本で、『若冲(じゃくちゅう、江戸時代中期の絵師) 澤田瞳子(さわだとうこ) 文藝春秋』があります)
5年間の留学中に体調を壊された話が出ます。
人間ですから長い人生の間には何度か病気に悩まされることもあります。
自然光で絵画を観ることの大切さについて書いてあります。
日本人は、絵画を見るときに、まず誰が描いたか、偽物ではないかを確認したがる。(お金目的だから)
絵は、作者の名前を気にして鑑賞するものではないとあります。
ロサンゼルスのディズニーランドに行ったことが書いてあります。
ディズニーランドでの一日で、最後の花火を観ることへのこだわりがあります。
『17 玉石混淆(ぎょくせきこんこう)』:よいもの、つまらないものが入り混じっているようす。
勉強以外の時間について書いてあります。散歩の時間です。
植物園、映画館などです。
自分にとっての留学期間は、自分の時間を自分のためにだけ使える贅沢な(ぜいたくな)時間であったそうです。
英国のチャリティーショップ:日本とは趣旨が異なる。お金もうけではない。使わなくなったものをもらって、売れるものは店頭で売る。売上金は、発展途上国のために使う。売れないものは、そのまま発展途上国へ送る。物を提供した人にはお金は渡らない。
ロンドンのノッテングヒル:高級住宅街。高級品がチャリティに出る。
香合(こうごう):茶道で、香(こう。かおり)を持ち運びするふた付の容器。
なんというかすごいことが書いてあります。
皇族ゆえに、『鍵』を持ち歩いたことがない。(日本だと、皇族は、生まれた時から、だれかがいつもそばにいる)
英国に留学して、学生寮に入って、部屋から出かけるときは、部屋に鍵をかけていたが、自分が部屋にいるときは、鍵をかけていなかった。
ある夜、酔っ払った知らない寮生であろう男子が、部屋を間違えて、著者の部屋に入ってきた。その男性にかけた著者の言葉がすごい。
『あなた、この部屋に住んでいる人ですか?』
相手は、自分が部屋を間違えたことに気づいて謝って出て行ったそうです。
ご無事でなによりでしたが、現代の一般人には、ちょっと考えられない鍵の扱いです。
<半世紀前の昭和の時代の庶民の鍵事情>
さきほどの部分を話題にして、家族で半世紀ぐらい昔のわたしたちがこどもだったころの話をしました。いろいろ思い出話が出ました。
日本、とくに農家では、農作業に出るとき、家に鍵をかけるという習慣はなかった記憶です。地域に固まって住んでいるのは、血縁関係がある親族でした。よそ者が来ることもありませんでした。
都市部でも、木造平屋の長屋が並ぶ公営住宅とか、同じく炭鉱の木造長屋とかでも、鍵をかける習慣は薄かった記憶です。玄関は開き戸で、夜寝るときに、内側からねじを回して戸が開かなくするぐらいでした。
そのころ、殺人事件のニュースはめったに聞きませんでした。現代では日常茶飯事です。
人づきあいが濃厚な時代でした。長屋が密集する地域では、昼間は奥さんたちが集まって立ち話しをしていました。男は仕事、女は主婦の時代でした。こどもがたくさんいて、集落ではこどもたちが上級生から下級生までがグループをつくって集団で体を動かすお金のかからない遊びをして遊んでいました。
女の子たちは、輪ゴムをつなげて、ゴム飛び遊びをしていました。男の子は、ゴムボールで、三角ベースの野球をしていました。お金がなくて、不便ではあったけれど、人間らしい生活を送っていました。
『18 古琴之友(こきんのとも)』:自分をよく理解してくれる友人のこと。
ロンドン在住の日本人:京都出身のマキさんと山形出身のケイスケさんご夫妻。筆者が名付けた筆者がロンドンで泊る時の民宿『M&K』がご自宅。
吉岡幸雄先生:染織工房で機織りの仕事をされていた。
本来、お正月に皇室では、お雑煮が出ない話があります。
『御菱はなびら』というものを召し上がるそうです。
スコーン:パンが起源の焼き菓子。
ジェイミー:オックスフォードの友人。英国人男性。おいしいスコーンをつくる。
『19 傾蓋知己(けいがいのちき)』:初対面で意気投合すること。
スイスの話です。
スイス人のお友だちが多いそうです。
スティーヴ・ガン先生:コレッジ・チューター。中世史が専門。
カミラ:イタリア人。一年先輩。
著者はお酒をほとんど飲めない。
ドミニク:カミラの先輩。スイス人。ベトナムの人類学専攻。
バーバラ:ドミニクのパートナー。スイス人。
パーティーのメンバー:カミラ、クリス、ドミニク、バーバラ、著者。
スキー場のケーブルカーの駅、日本人が登山をしたときの写真が飾ってあった。
写真に著者の見覚えがある顔があった。
著者の祖母と叔母だったのでびっくりされたそうです。
祖母である崇仁親王妃百合子様は、現在も存命で101歳であられます。びっくりしました。
『忍之一字(にんのいちじ)』:成し遂げるために最も大切なことは、耐え忍ぶことである。
英国人とはという内容です。英国人は、融通がきくときと、きかないときの差が激しいそうです。
同じことでも、人によって、許可されなかったり、許可されたりするそうです。
もうひとつは、路線バスのことが書いてあります。
日本の路線バスとはずいぶん違います。
時間通りには来ない。そもそも定刻になっても来ない。最後まで来ない。来ないという案内もない。
慣れるそうです。
日本の親切で、ち密な対応のほうが、丁寧すぎるのではないかというようにも思えてくるそうです。
『21 当機立断(とうきりつだん)』:機会をとらえて、すばやく決断すること。
2回目の留学が、当初2年間だったのが、5年間に伸びた理由と経過が書いてあります。
2年間は、修士課程です。5年間は、博士課程です。先生に勧められたことをきっかけにして、最終的に博士号を取得されています。
2006年(平成18年)6月に博士課程の学生になられています。2010年(平成22年)1月に博士課程を修了されています。
『随類応同(ずいるいおうどう)』:人の能力や性質に応じて指導すること。
スーパーバイザー:指導教官。著者の場合、ジェシカ・ローソン先生とティム・クラーク先生。それから、ティム・スクリーチ先生。
ロンドン大学SOAS(ソアス):東洋アフリカ研究学院。
アーネスト・フェノロサ:アメリカ合衆国の東洋美術史家。1853年(日本は江戸末期)-1908年(明治41年)55歳没。
『七転八倒(しちてんばっとう)』:激しい苦痛で、苦しみもだえるようす。
博士論文を仕上げる苦労が書いてあります。孤独があります。
5年間日本美術史の研究を続けた。
ストレス性胃炎になった。
『独りにならないことって大切なんだ』と改めて思ったそうです。
日本からの入浴剤に助けられた。
サンドイッチを出すカフェにも助けられた。
しんどいときに、おいしいものを食べると、生き続けたいという意欲が湧くことがあります。
『24 進退両難(しんたいりょうなん)』:進もことも退く(しりぞく)こともできない状態。
博士論文完成までの話です。
アドバイスとして、『いちばん大切なことは、アキコが書きたいことを書くことだよ』だったそうです。
博士論文にアキコさんの個性を出す。
『25 不撓不屈(ふとうふくつ)』:強い意思をもって、くじけない。
ついに最後のエッセイになりました。
博士課程の修了時の話です。
人間がやることです。人間は感情の生き物です。
『どこの国でも学者間の嫉妬(しっと)というのは大なり小なりあり……』(現実的なお話です)
試験官の話です。口頭試問があります。
慎重に行動されています。
ふたりのうちの一人の試験官は、見た目は日本人だが、中身はドイツ人の試験官です。日本人父とドイツ人母をもつハーフの試験官です。
口頭試問に合格します。
意外なこととして、著者が、博士課程の試験に合格したことを日本社会に公表しないという考えの父上・宮内庁と公表したほうがいいと主張する著者との間で対立が起きます。非公表の理由は、前例がないからです。前例がないから著者のオックスフォード大学博士課程合格を日本社会に公表したくないのです。
読んでいて、宮内庁という組織が不思議な組織に思えました。これまでと同じことをこれからもずっと続けることが仕事のようです。ずーっと考えていると、職員は、毎月決まった日に決まった給料がもらえればそれでいいと考えているだけではなかろうかという推測ができてしまいます。皇族のことは慮らない(おもんばからない。十分に考えない)。面倒な事務処理を前例どおりにこなしていけばよい。例外を好まない。不思議なサラリーマン体質です。公務員体質か。
もうひとつ不思議だったことがあります。
家族関係が他人行儀(たにんぎょうぎ。親子、親族なのに、他人と接する時のよう)です。(367ページ、『特別寄稿』の部分に、『(父と自分は)親子というよりは先輩後輩のような関係であったと思う』と文章があります)
父と子の関係が?です。庶民の親子とは異なります。
とりあえず、エッセイの部分は読み終わりました。
なかなかいい本でした。今年読んで良かった一冊です。
『特別寄稿 父・寛仁親王(ともひとしんのう)の思い出』
2012年(平成24年)6月6日薨去(こうきょ。皇族の死去)。355ページに、『66歳の6月6日に逝かれた(いかれた。亡くなった)』とあります。
奉悼(ほうとう):死を悼む(いたむ。嘆き悲しむ)
斂葬の儀(れんそうのぎ):お葬式の本葬のこと。
お父上に対する深い感謝、愛情、が語られます。
お父上の愛称は、『ともさん』です。裏表のない人だったそうです。お父上は、風貌(ふうぼう。見た目)や着ている服装から、警官官に職務質問をされたこともあったそうです。
お父上は、極度のアナログ人間だった。ビデオ録画の操作、パソコン、メール、携帯電話の使用はできなかった。原稿は手書きだった。文字は小さく、悪筆だった。留学中、メールのやりとりはできず、父と娘は手紙で文通をしていた。そんなことが書いてあります。
その部分を読んでいて、自分自身のこととして思い出したことがあります。
もう10年ぐらい前のことになりますが、働いていた頃、わたしは、なにかの依頼文を複数の人たちに送る時は、封筒に手書きで住所氏名のあて名を書いていました。ふだんから付き合いがある人たちではないので、手書きで住所や名前を書きながら氏名などを暗記するように心がけていました。
それを見ていた年下の社員から、宛名シール(あてな)シールをつくってはったほうが早くて便利ですよと、ばかにしたように声をかけられました。(ああ、何もわかっていないと思いました。IT化(インターネットテクノロジー)とか、ゆとり教育の影響なのか、なんでもかんでも省略して楽をしたがる世代が生まれました。知恵の水準が低下しています。これから先、日本の未来は暗くなるであろうと予測しています)。ちゃんとしたものをつくるためには、時間も手間もかかるのです。
ずっと読み続けていて、とても不思議だったことがあります。
著者のお母さんのことは出てこないのです。お母さんは、ご存命です。妹さんや父方祖母、伯母さんのことは文章に出てきます。お母さんは出てきません。
触れてはいけないタブー(禁止事項)があるようです。
その件について、これ以上書くことはやめておきます。どこの家でもいろいろあります。
『柏さま、「多謝」。雪より。』(意味はたぶん、お父さんありがとう、なのでしょう。柏さまが、お父さんで、雪さんが著者なのでしょう)。
『あとがき』
シェルドニアン・シアター:学位授与式の会場。
父も留学体験あり。父が娘の留学を喜んでくれた。
雑誌編集部への感謝。
2014年(平成26年)9月の記述となっています。
たくさんの人たちが関りになってくれてできあがった一冊です。
『ご留学に乾杯 解説にかえて 学習院大学元学長 福井憲彦(ふくい・のりひこ)』
著者は、仲良し学生の間では、『宮ちゃん』と呼ばれていた。
学習院大学での卒業論文は手書きが義務付けられている。400字詰め原稿用紙で100枚。
2014年(平成26年)の記述になっています。
『文庫版へのあとがき』
本を出したのは、2015年(平成27年)なのに、なぜ今バズっているのかという話で始まっています。
バズる:インターネットやSNS上で大きな話題となる。
2024年1月の記述になっています。
本一冊を読み終えての感想です。
国民に、開かれた皇室、皇族をめざして、有意義な一冊をこの世に送り出されたと、この本の価値を認めます。
本の最初に戻って、巻頭にある白黒写真をながめていて、本に書いてあった内容が、すんなり頭に入ってきました。
若い人は、『広い世界を知りたい』のです。
(月刊誌『Voice』でのエッセイ掲載期間は、2012年(平成24年)4月号~2014年(平成26年)5月号まで。タイトルは、『オックスフォード留学記-中世の街に学んで』だった。単行本は、2015年(平成27年)に発行されています。2024年(令和6年)の文庫化にあたって、加筆後再編集されています)
テレビ番組、『徹子の部屋』にゲストとして出られて、本を出していると聞いたので、取り寄せて読んでみました。
皇族の方が書いた本です。
彬子女王(あきこじょうおう):1981年(昭和56年)生まれ。学習院大学卒業後、英国オックスフォード大学マートン・コレッジに留学。大正天皇のひ孫。父親は、寛仁親王(ひろひとしんのう。2012年(平成24年)66歳没。大正天皇の孫。愛称『ヒゲの殿下(ひげのでんか)』)。
最初の留学が、20歳の時、2001年(平成13年)9月から1年間留学した。2回目が、学習院大学卒業後の2004年(平成16年)からオックスフォード大学の大学院に入学して、2010年(平成22年)1月に博士課程を修了した。
ざっと目を通して、たくさんの文章を書く方だとお見受けしました。(63ページに、オックスフォード大学で、たくさんのエッセイ(小論文)を書いたと記事があります)
タイトルにある、『赤と青のガウン』は、入学するとまず黒一色のガウンを着る。博士号を授与されると赤と青のガウンを着るそうです。学位(がくい。学びを修めた(おさめた)者に対する称号)によってガウンの色が違う。
皇族の一員として、『自由』が制限された立場でお生まれになった方です。
『役割』を果たすために、『自由』が制限されているのです。
ちょっと、『役割』について書いてみます。わたしは、人はだれしも、人間社会において、なにがしかの役割を与えられて、この世に生まれてくると思っています。
先日、高齢となった親族のお見舞いに九州福岡県まで行って来たのですが、『(人の)役割』について考えさせられました。
初回は、7月に病院に入院した時にお見舞いに行ったのですが、そのときは、意識がはっきりしていて、きちんと受け答えができていました。
その後、病院から施設に移って、9月に施設へ面会に行ったのですが、なにかしら変なのです。喜怒哀楽の表情が薄くなって、意識がぼんやりとしていました。人の固有名詞である名前が、口から出てきませんでした。
同行の妻が、『役割』がなくなったからだと解説してくれました。不自由な体であっても、衣食住の毎日の生活を自分の力で送っていれば、自分の『役割』がある。
人間は自分に、社会的な『役割』、家族の中での『役割』があるときは、しっかりしなきゃという自意識がある。
ところが、施設に入ると、まわりにいる人たちが自分の身の回りのことをやってくれる。本人はただ、生かされているだけになる。なにもしなくても生きていける。しっかりしなきゃという自意識が、だんだん消滅していく。脳みそにある意識が薄れていく。(なるほどと思いました)
そのことに関連付けて考えてみると、皇族の一員としてお生まれになった著者は、自分の役割を果たしていく決断をどこかの時点でされて、がんばっておられるのだと思います。たいしたものです。
エッセイ集です。
『1 百川学海(ひゃくせんがっかい)』:川は海を目標にして流れていく。常に修養・努力して、大きな海(目標)をめざす。
2011年5月(平成23年):オックスフォード大学から博士号を授与された。(専攻は日本美術)
ドミニク:スイス人の友人。学友。
ベネディクト:英国人。男性。英会話ができなかった著者を救ってくれた。2学年上の上級生。
父親に対する感謝があります。
英会話ができなかったけれど、努力を続けた結果、ある日突然相手が話す英語が明瞭に理解できるようになられたそうです。(英語学習者にとっては、いいアドバイスになります)。
英語がわからなかったゆえの孤独があります(日本に帰りたい)。それを救ってくれる学友の存在があります。人間は助け合いです。
まず、2001年9月から1年間留学した。9月に入学して、翌年1月に突然英語が聞き取れるようになった。(その後、2回目の留学があります)。
『2 大信不約(たいしんふやく)』:本当の信義は約束しなくても守られる。信頼関係は大事。
側衛官(そくえいかん):警察庁皇宮警察本部所属皇宮護衛官。国家公務員。
警衛(けいえい):皇族を守ること。
警護:要人を守ること。
警備:モノを守ること。
オックスフォード大学に行って、側衛官がつかなくなった。生まれて初めて、ひとりで街を歩いた。心細く辛かった。(つらかった)。慣れてきたら、楽しめるようになった。帰国してまた側衛官が付くことを心配するように変化した。(側衛官がつかないほうが気楽でいい)。
皇族に関する内輪話が楽しい。
清少納言の、『枕草子(まくらのそうし)』を読むようです。
『3 苦学力行(くがくりっこう)』:働いて学費を稼ぎながら勉学に励む。定時制高校とか夜間の大学みたいです。
日本の大学と英国のオックスフォード大学は、組織と運営が大きく異なる。
オックスフォード大学は、日本の学習院、慶応、早稲田、青山学院等をすべてひっくるめて、東京大学というようなもの(組織)。
コレッジ(学寮):オックスフォード大学の中にある。40近くある。どのコレッジに所属したかが大事になる。
著者は、皇太子殿下(現在の令和天皇)と同じ、マートン・コレッジに所属した。
レクチャー:所属コレッジに関係なく学生が集まる。
セミナー:コレッジで10人程度の専攻学生が集まる。
チュートリアル:先生(チューター)と学生(3人まで)が集まって、個人指導を受ける。
著者は、聴講生として、オックスフォード大学に留学した。(試験を乗り切る必要はない)
ケルト人:紀元前から、ヨーロッパ大陸で繁栄した民族。
著者の専攻は、最初が、『ケルト史』。その後、『日本美術』。
トマス・チャールズ=エドワーズ:ケルト史のチュートリアル(先生)
スティーヴ・ガン先生:特別科目『方法論』のチュートリアル。同級生が、ルイーズとエリッサ。
『4 日常坐臥(にちじょうざが)』:座ること、寝ることで、起きているときも寝ているときも。いつでもという意味。
マートン・コレッジ:1264年設立(日本では鎌倉時代の元寇(げんこう)の頃)
ポーターズ・ロッジ(守衛所):郵便受けの確認に行く。夕食の席を機械にカードを通して予約する。食堂で他の学生などから情報を収集する。
英国映画、『ハリーポッター』の出てくる食堂風景は、自分が利用していた食堂の近くにある別の食堂でのロケだったそうです。
『5 合縁奇縁(あいえんきえん)』:人と人との縁(えん)。巡り合わせ。因縁(いんねん。運命)。
番組『徹子の部屋』でのご本人の語り口調を覚えているので、読みながら、本人がしゃべっているように聞こえる文章です。わかりやすい。
フレッド:マートン・コレッジ所属。偶然のような出会いがあった。原宿駅前で会った。
著者は、私費留学だった。
海外での留学は、日本での就職には不利になる。
日本における研究者の世界は、学閥主義が多い。(同じ学校の出身者で集まる)。
『6 一期一会(いちごいちえ)』:茶道の用語。出会いは一度だけ。
JR:鉄道ではない。ジェシカ・ローソン先生。とても厳しい人。マートン・コレッジの学長。妥協を許さない人。
19世紀末から20世紀にかけて、西洋人が、日本美術をどのように見ていたかを明らかにする。なぜ、大英博物館は、明治時代に多くの日本美術を蒐集(しゅうしゅう。目的をもって特定のものを集める)したのか、理由を研究する。
研究をしながら、自分が日本人であることを自覚したそうです。
外国人は日本人を誤解している。(日本人はみんな寿司を握ることができる。日本には今も忍者がいる)。
日本の絵画は、部屋の中に季節感を生む。
『7 千載一遇』:千年に一回の絶好のチャンス。
ティム・クラーク先生:大英博物館の日本セクション長。完璧主義者。
バッキンガム宮殿に招かれて、エリザベス女王陛下とふたりだけで紅茶を飲んだお話です。女王がお茶を入れてくださったそうです。
2005年(平成17年)夏のことでした。日本では、愛知万博の開催、小泉純一郎政権の時代でした。
『8 危機一髪(ききいっぱつ)』:ほんのちょっとのことで危機におちいる瞬間。
英国は電車が日本のようにちゃんとしていないということが書いてあります。時刻どおりに来ないとか、事故のときの代替え手段を用意してくれないとかです。
でも、時刻どおりに来ないことには慣れるそうです。
『9 多事多難(たじたなん)』:平穏無事(へいおんぶじ)の反対。立て続けに悪いことが起きること。
皇族のパスポートは、一般人とは異なるそうです。赤ではなく、茶色で、たまに、外国入国時に止められるそうです。一般人のようにフリー(自由)に移動ができません。
付き添いなしのひとり移動の苦労が書いてあります。
すごいなあ。冒険です。ヨーロッパ国内の空港移動は不安しかありません。節約のために格安航空会社を利用した時がうまくいかないことがあるそうです。(節約されるということが意外でした)
『10 奇貨可居(きかおくべし)』:チャンスを利用する。
ビジティング・スチューデント(聴講生)。
オックスフォード大学で聴講生として1年間学んだのですが、生徒の立場できちんと大学院で学位をとりたい。
お父上とのむずかしい関係が書いてあります。お父さんは、厳しい人だったそうです。烈火のごとく怒るときがあったそうです。大学院へ行くためには費用がいる。親から出してもらわなければならない。そんな交渉事が書いてあります。理論武装が必要だったそうです。
でも、簡単に許可がおりたそうです。
読んでいて、皇族の人たちも同じ人間だと感じました。
なにかしらめんどうな父子関係があります。意外でした。お金がある人たちなのに。
(なお、お父さんは2012年にご病気で亡くなっています)
英会話学習と習得についての手法、経過が書いてありました。
『11 五角六張(ごかくろくちょう)』:なにをやってもうまくいかない日。
最初の留学が2001年(平成13年)9月、20歳のときでした。
二度目が、2004年(平成16年)9月、23歳です。
マートン・コレッジ大学院生専用寮でひとり暮らしです。
ワンルーム、キッチンは共用です。
うまくいかないことが書いてあります。
バレンタインデーの記事になって、(ヨーロッパでは、女性が男性にチョコレートを贈る習慣はないそうです。逆で、男性が女性にお花やお菓子を贈るそうです)
日本の習慣に従ってやって救われたという話が書いてあります。
『12 一念通天(いちねんつうてん)』:固い決意で取り組めば必ず達成できる。
2005年の夏休みに、大英博物館で、日本セクションのボランティア・スタッフになる。作品の整理整頓作業です。
昔の英国人の筆記体が読めるようになる。(今の日本の英語教育では筆記体を教えなくなっています)
『13 日常茶飯(にちじょうさはん』:いつものこと。
英国の料理はまずい。(まずくはないけれど、おいしくもないそうです)。英国人には、おいしいものを食べようという気持ちがない。宗教で贅沢(ぜいたく)を制止したことが原因のようです。
当時の英国にある日本食は、日本食の味ではなかったそうです。
自分で自炊して料理をするようになった。体が和食を欲する。
マーケット(市場)の話になります。
食事づくりにおいて、いろいろ工夫があります。野菜類の有効活用です。
食事会の話しも出ます。
外国人は、「甘い豆」が苦手(にがて)だそうです。
英国人は、食器をきちんと洗うことをしない。洗剤がついたまま、カゴに入れるというような記事もあり驚きました。洗剤は体に毒ではないようですが、ちょっと気持ち悪いです。
『14 骨肉之親(こつにくのしん)』:血のつながりが濃い肉親関係。その間の深い愛情。
ゴッドドーターがおられるそうです。(著者が名付け親になった)。『菜夏子グレース(ななこグレース。出版当時6歳。2008年(平成20年)6月生まれ)』。
ゴッドファーザー、ゴッドマザー:キリスト教洗礼名の名付け親。
『おもちゃのチャチャチャ』を歌ってあげた。(著者の父親が、著者が小さい頃に歌ってくれたそうです)
『15 前途多難(ぜんとたなん)』:未来に困難と災難がある。
ロンドンの北東、ノリッチという町にあるセインズベリー日本藝術研究所長ニコル・ルーマニエール先生に半分だまされるようにして、フランス国内で巡回式の展覧会を企画実行したことが書いてあります。
かなりしんどい思いをされています。
『16 一以貫之(いつをもってこれをつらぬく)』:ほかに目を奪われず、おのれの道を進む。
ジョープライス:江戸時代の日本絵画の美術収集家。伊藤若冲(いとう・じゃくちゅう)を世界の人気者にした。(私がずいぶん前に読んだ本で、『若冲(じゃくちゅう、江戸時代中期の絵師) 澤田瞳子(さわだとうこ) 文藝春秋』があります)
5年間の留学中に体調を壊された話が出ます。
人間ですから長い人生の間には何度か病気に悩まされることもあります。
自然光で絵画を観ることの大切さについて書いてあります。
日本人は、絵画を見るときに、まず誰が描いたか、偽物ではないかを確認したがる。(お金目的だから)
絵は、作者の名前を気にして鑑賞するものではないとあります。
ロサンゼルスのディズニーランドに行ったことが書いてあります。
ディズニーランドでの一日で、最後の花火を観ることへのこだわりがあります。
『17 玉石混淆(ぎょくせきこんこう)』:よいもの、つまらないものが入り混じっているようす。
勉強以外の時間について書いてあります。散歩の時間です。
植物園、映画館などです。
自分にとっての留学期間は、自分の時間を自分のためにだけ使える贅沢な(ぜいたくな)時間であったそうです。
英国のチャリティーショップ:日本とは趣旨が異なる。お金もうけではない。使わなくなったものをもらって、売れるものは店頭で売る。売上金は、発展途上国のために使う。売れないものは、そのまま発展途上国へ送る。物を提供した人にはお金は渡らない。
ロンドンのノッテングヒル:高級住宅街。高級品がチャリティに出る。
香合(こうごう):茶道で、香(こう。かおり)を持ち運びするふた付の容器。
なんというかすごいことが書いてあります。
皇族ゆえに、『鍵』を持ち歩いたことがない。(日本だと、皇族は、生まれた時から、だれかがいつもそばにいる)
英国に留学して、学生寮に入って、部屋から出かけるときは、部屋に鍵をかけていたが、自分が部屋にいるときは、鍵をかけていなかった。
ある夜、酔っ払った知らない寮生であろう男子が、部屋を間違えて、著者の部屋に入ってきた。その男性にかけた著者の言葉がすごい。
『あなた、この部屋に住んでいる人ですか?』
相手は、自分が部屋を間違えたことに気づいて謝って出て行ったそうです。
ご無事でなによりでしたが、現代の一般人には、ちょっと考えられない鍵の扱いです。
<半世紀前の昭和の時代の庶民の鍵事情>
さきほどの部分を話題にして、家族で半世紀ぐらい昔のわたしたちがこどもだったころの話をしました。いろいろ思い出話が出ました。
日本、とくに農家では、農作業に出るとき、家に鍵をかけるという習慣はなかった記憶です。地域に固まって住んでいるのは、血縁関係がある親族でした。よそ者が来ることもありませんでした。
都市部でも、木造平屋の長屋が並ぶ公営住宅とか、同じく炭鉱の木造長屋とかでも、鍵をかける習慣は薄かった記憶です。玄関は開き戸で、夜寝るときに、内側からねじを回して戸が開かなくするぐらいでした。
そのころ、殺人事件のニュースはめったに聞きませんでした。現代では日常茶飯事です。
人づきあいが濃厚な時代でした。長屋が密集する地域では、昼間は奥さんたちが集まって立ち話しをしていました。男は仕事、女は主婦の時代でした。こどもがたくさんいて、集落ではこどもたちが上級生から下級生までがグループをつくって集団で体を動かすお金のかからない遊びをして遊んでいました。
女の子たちは、輪ゴムをつなげて、ゴム飛び遊びをしていました。男の子は、ゴムボールで、三角ベースの野球をしていました。お金がなくて、不便ではあったけれど、人間らしい生活を送っていました。
『18 古琴之友(こきんのとも)』:自分をよく理解してくれる友人のこと。
ロンドン在住の日本人:京都出身のマキさんと山形出身のケイスケさんご夫妻。筆者が名付けた筆者がロンドンで泊る時の民宿『M&K』がご自宅。
吉岡幸雄先生:染織工房で機織りの仕事をされていた。
本来、お正月に皇室では、お雑煮が出ない話があります。
『御菱はなびら』というものを召し上がるそうです。
スコーン:パンが起源の焼き菓子。
ジェイミー:オックスフォードの友人。英国人男性。おいしいスコーンをつくる。
『19 傾蓋知己(けいがいのちき)』:初対面で意気投合すること。
スイスの話です。
スイス人のお友だちが多いそうです。
スティーヴ・ガン先生:コレッジ・チューター。中世史が専門。
カミラ:イタリア人。一年先輩。
著者はお酒をほとんど飲めない。
ドミニク:カミラの先輩。スイス人。ベトナムの人類学専攻。
バーバラ:ドミニクのパートナー。スイス人。
パーティーのメンバー:カミラ、クリス、ドミニク、バーバラ、著者。
スキー場のケーブルカーの駅、日本人が登山をしたときの写真が飾ってあった。
写真に著者の見覚えがある顔があった。
著者の祖母と叔母だったのでびっくりされたそうです。
祖母である崇仁親王妃百合子様は、現在も存命で101歳であられます。びっくりしました。
『忍之一字(にんのいちじ)』:成し遂げるために最も大切なことは、耐え忍ぶことである。
英国人とはという内容です。英国人は、融通がきくときと、きかないときの差が激しいそうです。
同じことでも、人によって、許可されなかったり、許可されたりするそうです。
もうひとつは、路線バスのことが書いてあります。
日本の路線バスとはずいぶん違います。
時間通りには来ない。そもそも定刻になっても来ない。最後まで来ない。来ないという案内もない。
慣れるそうです。
日本の親切で、ち密な対応のほうが、丁寧すぎるのではないかというようにも思えてくるそうです。
『21 当機立断(とうきりつだん)』:機会をとらえて、すばやく決断すること。
2回目の留学が、当初2年間だったのが、5年間に伸びた理由と経過が書いてあります。
2年間は、修士課程です。5年間は、博士課程です。先生に勧められたことをきっかけにして、最終的に博士号を取得されています。
2006年(平成18年)6月に博士課程の学生になられています。2010年(平成22年)1月に博士課程を修了されています。
『随類応同(ずいるいおうどう)』:人の能力や性質に応じて指導すること。
スーパーバイザー:指導教官。著者の場合、ジェシカ・ローソン先生とティム・クラーク先生。それから、ティム・スクリーチ先生。
ロンドン大学SOAS(ソアス):東洋アフリカ研究学院。
アーネスト・フェノロサ:アメリカ合衆国の東洋美術史家。1853年(日本は江戸末期)-1908年(明治41年)55歳没。
『七転八倒(しちてんばっとう)』:激しい苦痛で、苦しみもだえるようす。
博士論文を仕上げる苦労が書いてあります。孤独があります。
5年間日本美術史の研究を続けた。
ストレス性胃炎になった。
『独りにならないことって大切なんだ』と改めて思ったそうです。
日本からの入浴剤に助けられた。
サンドイッチを出すカフェにも助けられた。
しんどいときに、おいしいものを食べると、生き続けたいという意欲が湧くことがあります。
『24 進退両難(しんたいりょうなん)』:進もことも退く(しりぞく)こともできない状態。
博士論文完成までの話です。
アドバイスとして、『いちばん大切なことは、アキコが書きたいことを書くことだよ』だったそうです。
博士論文にアキコさんの個性を出す。
『25 不撓不屈(ふとうふくつ)』:強い意思をもって、くじけない。
ついに最後のエッセイになりました。
博士課程の修了時の話です。
人間がやることです。人間は感情の生き物です。
『どこの国でも学者間の嫉妬(しっと)というのは大なり小なりあり……』(現実的なお話です)
試験官の話です。口頭試問があります。
慎重に行動されています。
ふたりのうちの一人の試験官は、見た目は日本人だが、中身はドイツ人の試験官です。日本人父とドイツ人母をもつハーフの試験官です。
口頭試問に合格します。
意外なこととして、著者が、博士課程の試験に合格したことを日本社会に公表しないという考えの父上・宮内庁と公表したほうがいいと主張する著者との間で対立が起きます。非公表の理由は、前例がないからです。前例がないから著者のオックスフォード大学博士課程合格を日本社会に公表したくないのです。
読んでいて、宮内庁という組織が不思議な組織に思えました。これまでと同じことをこれからもずっと続けることが仕事のようです。ずーっと考えていると、職員は、毎月決まった日に決まった給料がもらえればそれでいいと考えているだけではなかろうかという推測ができてしまいます。皇族のことは慮らない(おもんばからない。十分に考えない)。面倒な事務処理を前例どおりにこなしていけばよい。例外を好まない。不思議なサラリーマン体質です。公務員体質か。
もうひとつ不思議だったことがあります。
家族関係が他人行儀(たにんぎょうぎ。親子、親族なのに、他人と接する時のよう)です。(367ページ、『特別寄稿』の部分に、『(父と自分は)親子というよりは先輩後輩のような関係であったと思う』と文章があります)
父と子の関係が?です。庶民の親子とは異なります。
とりあえず、エッセイの部分は読み終わりました。
なかなかいい本でした。今年読んで良かった一冊です。
『特別寄稿 父・寛仁親王(ともひとしんのう)の思い出』
2012年(平成24年)6月6日薨去(こうきょ。皇族の死去)。355ページに、『66歳の6月6日に逝かれた(いかれた。亡くなった)』とあります。
奉悼(ほうとう):死を悼む(いたむ。嘆き悲しむ)
斂葬の儀(れんそうのぎ):お葬式の本葬のこと。
お父上に対する深い感謝、愛情、が語られます。
お父上の愛称は、『ともさん』です。裏表のない人だったそうです。お父上は、風貌(ふうぼう。見た目)や着ている服装から、警官官に職務質問をされたこともあったそうです。
お父上は、極度のアナログ人間だった。ビデオ録画の操作、パソコン、メール、携帯電話の使用はできなかった。原稿は手書きだった。文字は小さく、悪筆だった。留学中、メールのやりとりはできず、父と娘は手紙で文通をしていた。そんなことが書いてあります。
その部分を読んでいて、自分自身のこととして思い出したことがあります。
もう10年ぐらい前のことになりますが、働いていた頃、わたしは、なにかの依頼文を複数の人たちに送る時は、封筒に手書きで住所氏名のあて名を書いていました。ふだんから付き合いがある人たちではないので、手書きで住所や名前を書きながら氏名などを暗記するように心がけていました。
それを見ていた年下の社員から、宛名シール(あてな)シールをつくってはったほうが早くて便利ですよと、ばかにしたように声をかけられました。(ああ、何もわかっていないと思いました。IT化(インターネットテクノロジー)とか、ゆとり教育の影響なのか、なんでもかんでも省略して楽をしたがる世代が生まれました。知恵の水準が低下しています。これから先、日本の未来は暗くなるであろうと予測しています)。ちゃんとしたものをつくるためには、時間も手間もかかるのです。
ずっと読み続けていて、とても不思議だったことがあります。
著者のお母さんのことは出てこないのです。お母さんは、ご存命です。妹さんや父方祖母、伯母さんのことは文章に出てきます。お母さんは出てきません。
触れてはいけないタブー(禁止事項)があるようです。
その件について、これ以上書くことはやめておきます。どこの家でもいろいろあります。
『柏さま、「多謝」。雪より。』(意味はたぶん、お父さんありがとう、なのでしょう。柏さまが、お父さんで、雪さんが著者なのでしょう)。
『あとがき』
シェルドニアン・シアター:学位授与式の会場。
父も留学体験あり。父が娘の留学を喜んでくれた。
雑誌編集部への感謝。
2014年(平成26年)9月の記述となっています。
たくさんの人たちが関りになってくれてできあがった一冊です。
『ご留学に乾杯 解説にかえて 学習院大学元学長 福井憲彦(ふくい・のりひこ)』
著者は、仲良し学生の間では、『宮ちゃん』と呼ばれていた。
学習院大学での卒業論文は手書きが義務付けられている。400字詰め原稿用紙で100枚。
2014年(平成26年)の記述になっています。
『文庫版へのあとがき』
本を出したのは、2015年(平成27年)なのに、なぜ今バズっているのかという話で始まっています。
バズる:インターネットやSNS上で大きな話題となる。
2024年1月の記述になっています。
本一冊を読み終えての感想です。
国民に、開かれた皇室、皇族をめざして、有意義な一冊をこの世に送り出されたと、この本の価値を認めます。
本の最初に戻って、巻頭にある白黒写真をながめていて、本に書いてあった内容が、すんなり頭に入ってきました。
若い人は、『広い世界を知りたい』のです。
2024年10月26日
愛人!? 困っちゃう… 保科有里(ほしな・ゆり) 山中企画
愛人!? 困っちゃう… 保科有里(ほしな・ゆり) 山中企画
BS放送の番組の合間に、夢グループのコマーシャルが入ります。
初めて見たときには笑いました。
『DVD(デー・ブィ・デーという発音)』とか、『CD(シーデーという発音)』は、笑えるのですが、年配者にとってはわかりやすい! 買う人いるだろうなあ。
小型液晶画面なのに、『大画面(だいがめん)』、やっぱり買う人いるだろうなあ。
じょうずに宣伝してあります。
くわえて、『しゃちょーー もっとお安くしてーー』のかけ声とそのあとの格安値段で、これは、買う人いるだろうなーーと思ってしまうのです。
日曜夕方の番組『笑点(しょうてん)』で、桂宮路さんが、こちらの本の著者女性の物まねをします。『しゃちょーー』のかけ声に笑います。
本を読んでみることにしました。
『愛人(ではない)』ことが強調されている本です。
愛人とは:いろいろ解釈がありそうですが、この本の場合、社長のお妾さん(おめかけさん)のような印象があります。奥さん以外の恋人(社長がお金を女性に渡している)。2号さん。一夫多妻制のなごり。半世紀以上前、わたしがこどものころにはよくあった話です。社会的な立場が確立されていた記憶です。お妾さんでもちゃんとした仕事だった記憶で、地位もありました。お金を持っている男が、おおっぴらに女性を囲っていた時代です。
著者の場合は、まず、自分は社長の愛人ではありませんと否定されています。
“夢グループ”という会社における社長と社員の関係だそうです。
さて、読み始めます。
『千鳥の相席食堂(あいせきしょくどう)』に出たそうです。わたしは、以前は相席食堂を見ていましたが、あまりにも下品なので観るのをやめました。
ただし、先日は、鹿児島県沖永良部島編(おきのえらぶじま)で、島が、どんなところだろうかと興味が湧いたので見ました。女性のお笑いタレントさんが出ていて爆笑しました。8月6日放送、阿部なつき&オダ・ウエダの植田紫帆の旅!でした。植田紫帆さんのダイナマイトボディがすごかった。
株式会社夢グループ:通信販売事業会社。芸能事務所(コンサートの主催)。石田重廣社長。最初は、『狩人(かりゅうど。兄弟でのコーラス歌手。歌曲として、「あずさ2号」』のマネジメント担当会社としてスタートした。歌手三善英史が加入して、夢グループという名称になった。2022年(令和4年)5月、石田社長とこの本の著者保科有里さんがデュエットで歌手デビューした。(保科有里さんはもともと歌手で長い間歌っていたが、会社である夢グループの事務員もしていた)。
保科有里:歌手、62歳、石川県金沢市出身。未婚。
社長の愛人ではない。上司と部下ではある。社長と社員ではある。
石田社長にとって、保科有里さんは好みのタイプではない。
石田社長のご家族も、保科有里さん愛人説を聞いて笑っている。
保科有里さんは、好きで、『シャチョー! 安くして~!』と言っているわけではない。ほんとうは、そんなことを言うような人間ではない。自分は男に甘えるような人間ではない。勉強が好きではなかったので大学に行く気はなかった。高校を出て、自動車販売会社に入って、総務課で経理事務をしていた。車の運転が好きで、運転手役もしていた。そんなこんなが書いてあります。
まあ、すごい。有名人、芸能人がたくさんでてきます。
反発も受けています。ヒット曲がないのに、どうして、同じステージで歌うのだと責められています。
でも、彼女を誘った石田社長が自分のプライドをかけて、彼女を使い続けます。
芸能界というところは、『メンツ(立場。上下関係。世間体(せけんてい)。プライド(自信))』の世界であることがわかります。
保科有里さんについて思うのは、『人は変われる』ということです。
52ページまで読んで、今年読んで良かった一冊になりました。
非常に現実的なことが書いてある本です。
学びがある本です。
『第一章 「愛人」じゃなくて、「社長と社員」!』
保科有里さんは、1993年(平成5年)デビューです。1961年生まれですから、デビュー当時は、32歳ぐらいです。かなり遅いデビューです。
1996年(平成8年)、東京品川駅前のホテルで歌っていた時にレコードディレクターの塩入さんから石田社長を紹介されて、採用された。石田社長は軽い気持ちだったようです。
自分なりに思うのは、仕事は、才能と努力と人間関係です。自分の過去を振り返ってみてそう思います。自分だけの力だけでは伸びていけません。支えてくださる人が必要です。
されど、保科有里さんは、歌手としては売れません。歌を出してもさっぱりです。
夢グループのコンサートや舞台劇に出てくれた人です。
狩人、三善英史、チェリッシュ、千昌夫、松方弘樹、小林旭、黒沢年雄、島倉千代子、新沼謙治、山本リンダ、浅丘ルリ子、そこに保科有里さんが入ります。(本にも書いてありますが、保科有里さんがそこに並ぶのは、何かしらバランスがとれないような……)
本のつくり方に関する感想です。
ご本人のお話の部分は、明朝体の文章でつくられています。
石田社長ほか、お世話になった人たちの文章は、丸文字のゴシック体で文章が書いてあります。
意図的に区別されています。いとてき:目的があって、わざとそうしている。
思うに、文章は、出てくる各自が書かれたものではない。インタビューをもとにして、文章がまとめてある。まあ、そのような企画でつくられた本なのでしょう。
人間界の現実的な話です。お金もうけとか、プライド(自信満々になりたい)とか。
『第二章 金沢・我が町』
金沢市内でラジオ番組をもたれているそうです。ご自身の故郷が金沢市です。
昭和6年生まれの亡父(89歳で死去。クリーニング店をしていたが設備投資で失敗して廃業。保科有里さんが23歳、妹さんが15歳だった。その後借金が理由で離婚。されど親子の交流は続いた。父の借金を保科有里さんと母親で返した。(たいしたものです。親族間での助け合いは必要なことです)。『父の人生は若い頃からずっとつらかった』とあります。
昭和11年生まれの母。8歳年下の妹。4人家族だった。
保科有里さんは、お歌はおじょうずだったようで、NHKのど自慢でチャンピョンになったこともある。(歌がうまいだけでは、歌手としては食べていけない。唯一(ゆいいつ)という個性が欲しい)
石山奈穂美さん(高校時代からの親友)のコメントです。
保科有里さんは、目立たないタイプだった。歌好きで歌謡教室に通っていた。文化祭ではバンドを組んでいた。
二十代後半で、東京の有名な先生に誘われて、歌手になる最後のチャンスとして東京へ出て行った。
歌手ではなく、『社長、安くして~!』のコマーシャルで出てきたのでびっくりした。
そんな話が書いてあります。楽しい。
吉田万里子さん(OL時代の友人)のコメントです。自動車販売会社です。
保科有里さんは、仕事に厳しく怖いイメージの人だった。
色気は皆無だった。付き合ってみれば、気さくでかわいい人だったので意外だった。
お母さんと妹さんからのコメントがあります。
妹さんからみて、8歳年上のお姉さんである保科有里さんは、父親のような存在だそうです。(実父は離婚している)。
お母さんは、26歳ぐらいで東京に行くと行った娘に反対した。東京の先生には、『ダメなら早く返してください』とお願いした。
苦労話があります。親子とかきょうだいとかって、なんだろうなあと考えながら読んでいます。歳をとってから売れるということについても考えさせられました。
両親がトラブルで離婚すると、それを見ていたこどもは、結婚願望がなくなるということはあるようです。
女性も自分で働いて自活できるようになると、結婚を必要と感じなくなるもののようです。
(半面、女性にとっての『結婚』は、男性の収入に依存することと考えてしまいます)
男女交際において、男が複数の女性と交際をする。複数の女性の中にいる自分が、ほかの女性と比較される。男性に選ばれる立場になることが苦しい。
ご自身が、結婚相手ではなく、愛人の対象として見られてしまう。
誘ってくるオジさんが多い。
赤裸々な話がでます。(隠さない)
お金をもっていてもクズみたいなオジさんがいます。
(文句を言わなそうな女性が狙われます(ねらわれます))
そして、石田社長は、そんなオジさんではないのです。
石田社長は、宇宙人だそうです。視点が、へんなオジさんとは違うそうです。
たくさん、有名芸能人のお名前が出てきます。
夢グループでの歌謡ステージとか舞台劇でごいっしょされたのでしょう。びっくりします。
松方弘樹(2017年(平成29年)74歳没)、島倉千代子(2013年(平成25年)75歳没)、浅丘ルリ子(84歳)、小林旭(85歳)、橋幸夫(81歳。先日『徹子の部屋』に出演されたのを見ました)、東てるみ(あずまてるみ。68歳)、桑江知子(くわえ・ともこ。64歳)、石井明美(59歳)、平浩二(たいら・こうじ。75歳)、ロザンナ(ヒデとロザンナ。74歳)、葛城ユキ(2022年(令和4年)73歳没)、あべ静江(72歳)、おりも政夫(71歳)、チェリッシュ(松崎義孝74歳、松崎悦子73歳)、西口久美子(73歳。フォークグループ「青い三角定規」)、黒沢年雄(80歳)、尾藤イサオ(80歳)、江木俊夫(72歳)、伊藤咲子(66歳)、大野真澄(74歳。フォークロックグループ元「ガロ」のメンバー)、あいざき進也(67歳)、元フィンガー5の晃(あきら。63歳)
ユーチューブで、保科有里さんの歌声を聴いてみました。とてもおじょうずです。
床山(とこやま):俳優や力士の髪を結う人(ゆうひと)。
この本は、保科有里さんの人生の集大成という位置づけで出された本だと理解しました。
人はだれしも、自分があの世にいくときに、自分が地球上で、この時代に生きていた痕跡を残しておきたいと思うものです。ときに人は、その夢を『本』という形で残そうとします。そう思いました。
橋幸夫さんのコメントがあります。
橋幸夫さんと聞くと、NHK朝ドラ、『あまちゃん』を思い出します。夏ばっぱのあこがれの人でした。歌曲、『いつでも夢を』が良かった。
ここまで書いてきて、『夢』という言葉が何度も出てくる本です。
読み終えました。なかなかいい本でした。
人には、いろいろな人生のパターンがあるわけで、標準的な就職、結婚、出産、育児というルートをたどらない人生もあるし、そのことを、いいとかそうでないとかと言うこともできないと思ったのでした。
さて、まだ少し感想を付け足しておきます。
橋幸夫さんのコメントがあります。(番組『徹子の部屋』で、一度引退したけれど、周囲に押されて復帰したと、先日お話しされていました。サラリーマンと違って、芸能人の方は、引退も復帰も自分次第です。ファンがいれば復帰はできます)
保科有里さんは、色気がないそうです。サバサバしていて、男の話(恋話)も聞かないそうです。
本格的なクラブ歌手で、松尾和子さん(1992年(平成4年)57歳没)とか、青江三奈さん(2000年(平成12年)59歳没)タイプの歌手だそうです。
東てる美さんのコメントがあります。
保科有里さんは、人柄がいい人ですとあります。また、運の話が出ます。ヒット曲が出るためには、運も関係してくるのです。
桑江知子さんと石井明美さんのコメントがあります。
みんな仲良しです。ひとりで歌う歌手は孤独なのですが、この世代の人たちはとても仲良しだそうです。
第五章に、ご本人からこれまでやってくることができたのは、『奇跡』だとして、その理由が説明されます。(わたしもたまに、これまで長い間生きてくることができたのは奇跡だと思うことがあります。長生きするためには、運が必要です)
人生の変化のタイミングについて書いてあります。
お母さんと妹さんへの感謝があります。
三十年ぐらい続く地元金沢でのラジオ番組の話があります。
ピンチになると、いつもだれかが助けてくれた。
小沢音楽事務所(芸能事務所)、菅原洋一(91歳)、伊東ゆかり(77歳)。
10年以上ホテルで歌を歌えた。
カラオケの先生をした。生徒は、60代・70代の女性(ご主人やご家族のことは忘れて、自分が女子高生だったころを思い出して、ステキな男性を思い浮かべながら歌いましょうというようなことが書いてあります。ずーっと、夫と家庭にしばられて、がまんしてきた自分を解放しましょうということでしょう)。うまい歌ではなくて、心にしみる歌をうたうことを指導されています。
(人生に歴史ありです)
保科有里さんは、自分のためにではなく、人のために歌うことにした。
男にとことん尽くしますというのは、自分はにがてだそうです。
自分には、ライバルがいなかった。(自分のようなタイプがいなかった)
夢スター:夢コンサートが開催する昭和歌謡歌合戦のユニット(集団)。120分間のコンサート。
挫折と奇跡を繰り返す人生だったそうです。
わたしも同じような世代ですから、健康に留意して長生きして、余生を楽しみましょう。
BS放送の番組の合間に、夢グループのコマーシャルが入ります。
初めて見たときには笑いました。
『DVD(デー・ブィ・デーという発音)』とか、『CD(シーデーという発音)』は、笑えるのですが、年配者にとってはわかりやすい! 買う人いるだろうなあ。
小型液晶画面なのに、『大画面(だいがめん)』、やっぱり買う人いるだろうなあ。
じょうずに宣伝してあります。
くわえて、『しゃちょーー もっとお安くしてーー』のかけ声とそのあとの格安値段で、これは、買う人いるだろうなーーと思ってしまうのです。
日曜夕方の番組『笑点(しょうてん)』で、桂宮路さんが、こちらの本の著者女性の物まねをします。『しゃちょーー』のかけ声に笑います。
本を読んでみることにしました。
『愛人(ではない)』ことが強調されている本です。
愛人とは:いろいろ解釈がありそうですが、この本の場合、社長のお妾さん(おめかけさん)のような印象があります。奥さん以外の恋人(社長がお金を女性に渡している)。2号さん。一夫多妻制のなごり。半世紀以上前、わたしがこどものころにはよくあった話です。社会的な立場が確立されていた記憶です。お妾さんでもちゃんとした仕事だった記憶で、地位もありました。お金を持っている男が、おおっぴらに女性を囲っていた時代です。
著者の場合は、まず、自分は社長の愛人ではありませんと否定されています。
“夢グループ”という会社における社長と社員の関係だそうです。
さて、読み始めます。
『千鳥の相席食堂(あいせきしょくどう)』に出たそうです。わたしは、以前は相席食堂を見ていましたが、あまりにも下品なので観るのをやめました。
ただし、先日は、鹿児島県沖永良部島編(おきのえらぶじま)で、島が、どんなところだろうかと興味が湧いたので見ました。女性のお笑いタレントさんが出ていて爆笑しました。8月6日放送、阿部なつき&オダ・ウエダの植田紫帆の旅!でした。植田紫帆さんのダイナマイトボディがすごかった。
株式会社夢グループ:通信販売事業会社。芸能事務所(コンサートの主催)。石田重廣社長。最初は、『狩人(かりゅうど。兄弟でのコーラス歌手。歌曲として、「あずさ2号」』のマネジメント担当会社としてスタートした。歌手三善英史が加入して、夢グループという名称になった。2022年(令和4年)5月、石田社長とこの本の著者保科有里さんがデュエットで歌手デビューした。(保科有里さんはもともと歌手で長い間歌っていたが、会社である夢グループの事務員もしていた)。
保科有里:歌手、62歳、石川県金沢市出身。未婚。
社長の愛人ではない。上司と部下ではある。社長と社員ではある。
石田社長にとって、保科有里さんは好みのタイプではない。
石田社長のご家族も、保科有里さん愛人説を聞いて笑っている。
保科有里さんは、好きで、『シャチョー! 安くして~!』と言っているわけではない。ほんとうは、そんなことを言うような人間ではない。自分は男に甘えるような人間ではない。勉強が好きではなかったので大学に行く気はなかった。高校を出て、自動車販売会社に入って、総務課で経理事務をしていた。車の運転が好きで、運転手役もしていた。そんなこんなが書いてあります。
まあ、すごい。有名人、芸能人がたくさんでてきます。
反発も受けています。ヒット曲がないのに、どうして、同じステージで歌うのだと責められています。
でも、彼女を誘った石田社長が自分のプライドをかけて、彼女を使い続けます。
芸能界というところは、『メンツ(立場。上下関係。世間体(せけんてい)。プライド(自信))』の世界であることがわかります。
保科有里さんについて思うのは、『人は変われる』ということです。
52ページまで読んで、今年読んで良かった一冊になりました。
非常に現実的なことが書いてある本です。
学びがある本です。
『第一章 「愛人」じゃなくて、「社長と社員」!』
保科有里さんは、1993年(平成5年)デビューです。1961年生まれですから、デビュー当時は、32歳ぐらいです。かなり遅いデビューです。
1996年(平成8年)、東京品川駅前のホテルで歌っていた時にレコードディレクターの塩入さんから石田社長を紹介されて、採用された。石田社長は軽い気持ちだったようです。
自分なりに思うのは、仕事は、才能と努力と人間関係です。自分の過去を振り返ってみてそう思います。自分だけの力だけでは伸びていけません。支えてくださる人が必要です。
されど、保科有里さんは、歌手としては売れません。歌を出してもさっぱりです。
夢グループのコンサートや舞台劇に出てくれた人です。
狩人、三善英史、チェリッシュ、千昌夫、松方弘樹、小林旭、黒沢年雄、島倉千代子、新沼謙治、山本リンダ、浅丘ルリ子、そこに保科有里さんが入ります。(本にも書いてありますが、保科有里さんがそこに並ぶのは、何かしらバランスがとれないような……)
本のつくり方に関する感想です。
ご本人のお話の部分は、明朝体の文章でつくられています。
石田社長ほか、お世話になった人たちの文章は、丸文字のゴシック体で文章が書いてあります。
意図的に区別されています。いとてき:目的があって、わざとそうしている。
思うに、文章は、出てくる各自が書かれたものではない。インタビューをもとにして、文章がまとめてある。まあ、そのような企画でつくられた本なのでしょう。
人間界の現実的な話です。お金もうけとか、プライド(自信満々になりたい)とか。
『第二章 金沢・我が町』
金沢市内でラジオ番組をもたれているそうです。ご自身の故郷が金沢市です。
昭和6年生まれの亡父(89歳で死去。クリーニング店をしていたが設備投資で失敗して廃業。保科有里さんが23歳、妹さんが15歳だった。その後借金が理由で離婚。されど親子の交流は続いた。父の借金を保科有里さんと母親で返した。(たいしたものです。親族間での助け合いは必要なことです)。『父の人生は若い頃からずっとつらかった』とあります。
昭和11年生まれの母。8歳年下の妹。4人家族だった。
保科有里さんは、お歌はおじょうずだったようで、NHKのど自慢でチャンピョンになったこともある。(歌がうまいだけでは、歌手としては食べていけない。唯一(ゆいいつ)という個性が欲しい)
石山奈穂美さん(高校時代からの親友)のコメントです。
保科有里さんは、目立たないタイプだった。歌好きで歌謡教室に通っていた。文化祭ではバンドを組んでいた。
二十代後半で、東京の有名な先生に誘われて、歌手になる最後のチャンスとして東京へ出て行った。
歌手ではなく、『社長、安くして~!』のコマーシャルで出てきたのでびっくりした。
そんな話が書いてあります。楽しい。
吉田万里子さん(OL時代の友人)のコメントです。自動車販売会社です。
保科有里さんは、仕事に厳しく怖いイメージの人だった。
色気は皆無だった。付き合ってみれば、気さくでかわいい人だったので意外だった。
お母さんと妹さんからのコメントがあります。
妹さんからみて、8歳年上のお姉さんである保科有里さんは、父親のような存在だそうです。(実父は離婚している)。
お母さんは、26歳ぐらいで東京に行くと行った娘に反対した。東京の先生には、『ダメなら早く返してください』とお願いした。
苦労話があります。親子とかきょうだいとかって、なんだろうなあと考えながら読んでいます。歳をとってから売れるということについても考えさせられました。
両親がトラブルで離婚すると、それを見ていたこどもは、結婚願望がなくなるということはあるようです。
女性も自分で働いて自活できるようになると、結婚を必要と感じなくなるもののようです。
(半面、女性にとっての『結婚』は、男性の収入に依存することと考えてしまいます)
男女交際において、男が複数の女性と交際をする。複数の女性の中にいる自分が、ほかの女性と比較される。男性に選ばれる立場になることが苦しい。
ご自身が、結婚相手ではなく、愛人の対象として見られてしまう。
誘ってくるオジさんが多い。
赤裸々な話がでます。(隠さない)
お金をもっていてもクズみたいなオジさんがいます。
(文句を言わなそうな女性が狙われます(ねらわれます))
そして、石田社長は、そんなオジさんではないのです。
石田社長は、宇宙人だそうです。視点が、へんなオジさんとは違うそうです。
たくさん、有名芸能人のお名前が出てきます。
夢グループでの歌謡ステージとか舞台劇でごいっしょされたのでしょう。びっくりします。
松方弘樹(2017年(平成29年)74歳没)、島倉千代子(2013年(平成25年)75歳没)、浅丘ルリ子(84歳)、小林旭(85歳)、橋幸夫(81歳。先日『徹子の部屋』に出演されたのを見ました)、東てるみ(あずまてるみ。68歳)、桑江知子(くわえ・ともこ。64歳)、石井明美(59歳)、平浩二(たいら・こうじ。75歳)、ロザンナ(ヒデとロザンナ。74歳)、葛城ユキ(2022年(令和4年)73歳没)、あべ静江(72歳)、おりも政夫(71歳)、チェリッシュ(松崎義孝74歳、松崎悦子73歳)、西口久美子(73歳。フォークグループ「青い三角定規」)、黒沢年雄(80歳)、尾藤イサオ(80歳)、江木俊夫(72歳)、伊藤咲子(66歳)、大野真澄(74歳。フォークロックグループ元「ガロ」のメンバー)、あいざき進也(67歳)、元フィンガー5の晃(あきら。63歳)
ユーチューブで、保科有里さんの歌声を聴いてみました。とてもおじょうずです。
床山(とこやま):俳優や力士の髪を結う人(ゆうひと)。
この本は、保科有里さんの人生の集大成という位置づけで出された本だと理解しました。
人はだれしも、自分があの世にいくときに、自分が地球上で、この時代に生きていた痕跡を残しておきたいと思うものです。ときに人は、その夢を『本』という形で残そうとします。そう思いました。
橋幸夫さんのコメントがあります。
橋幸夫さんと聞くと、NHK朝ドラ、『あまちゃん』を思い出します。夏ばっぱのあこがれの人でした。歌曲、『いつでも夢を』が良かった。
ここまで書いてきて、『夢』という言葉が何度も出てくる本です。
読み終えました。なかなかいい本でした。
人には、いろいろな人生のパターンがあるわけで、標準的な就職、結婚、出産、育児というルートをたどらない人生もあるし、そのことを、いいとかそうでないとかと言うこともできないと思ったのでした。
さて、まだ少し感想を付け足しておきます。
橋幸夫さんのコメントがあります。(番組『徹子の部屋』で、一度引退したけれど、周囲に押されて復帰したと、先日お話しされていました。サラリーマンと違って、芸能人の方は、引退も復帰も自分次第です。ファンがいれば復帰はできます)
保科有里さんは、色気がないそうです。サバサバしていて、男の話(恋話)も聞かないそうです。
本格的なクラブ歌手で、松尾和子さん(1992年(平成4年)57歳没)とか、青江三奈さん(2000年(平成12年)59歳没)タイプの歌手だそうです。
東てる美さんのコメントがあります。
保科有里さんは、人柄がいい人ですとあります。また、運の話が出ます。ヒット曲が出るためには、運も関係してくるのです。
桑江知子さんと石井明美さんのコメントがあります。
みんな仲良しです。ひとりで歌う歌手は孤独なのですが、この世代の人たちはとても仲良しだそうです。
第五章に、ご本人からこれまでやってくることができたのは、『奇跡』だとして、その理由が説明されます。(わたしもたまに、これまで長い間生きてくることができたのは奇跡だと思うことがあります。長生きするためには、運が必要です)
人生の変化のタイミングについて書いてあります。
お母さんと妹さんへの感謝があります。
三十年ぐらい続く地元金沢でのラジオ番組の話があります。
ピンチになると、いつもだれかが助けてくれた。
小沢音楽事務所(芸能事務所)、菅原洋一(91歳)、伊東ゆかり(77歳)。
10年以上ホテルで歌を歌えた。
カラオケの先生をした。生徒は、60代・70代の女性(ご主人やご家族のことは忘れて、自分が女子高生だったころを思い出して、ステキな男性を思い浮かべながら歌いましょうというようなことが書いてあります。ずーっと、夫と家庭にしばられて、がまんしてきた自分を解放しましょうということでしょう)。うまい歌ではなくて、心にしみる歌をうたうことを指導されています。
(人生に歴史ありです)
保科有里さんは、自分のためにではなく、人のために歌うことにした。
男にとことん尽くしますというのは、自分はにがてだそうです。
自分には、ライバルがいなかった。(自分のようなタイプがいなかった)
夢スター:夢コンサートが開催する昭和歌謡歌合戦のユニット(集団)。120分間のコンサート。
挫折と奇跡を繰り返す人生だったそうです。
わたしも同じような世代ですから、健康に留意して長生きして、余生を楽しみましょう。
2024年10月25日
出川哲朗の充電させてもらえませんか? 秋田縦断130キロ!
出川哲朗の充電させてもらえませんか? 秋田縦断130キロ!パワスポ“白瀑神社(しらたきじんじゃ)”から目指すは男鹿半島(おがはんとう)“入道崎(にゅうどうざき)”なんですが!初登場の柳葉敏郎&藤木直人が超豪華リレーすぎて哲朗もドキドキ!ヤバイよヤバイよSP ネットもテレ東とか、TVer(ティーバー)とか。
前半のゲストである柳葉敏郎さんの時間帯は実に濃厚でした。充実がありました。
実家がある秋田県内住まいの柳葉さんです。
以前、NHKの番組、『ファミリーヒストリー』で、複雑な生い立ち紹介を見ました。お互いに、きょうだいであることを知らずに育って歳(とし)をとったおふたりが、番組企画が縁で、生まれて初めて会われました。秋田県に住む異母姉の方もいい人で、みんなが感動する涙のシーンでした。
ギバさん(柳葉敏郎)は、話がおもしろい。ときおり、『ソイヤ、ソイヤ、ソレ、ソレ』と一世風靡セピア(いっせいふうびセピア。1980年代(昭和55年代)の男性路上パフォーマンスグループ)時代の振付けをされていました。
冒頭は、神社の敷地内にある滝で、滝の水に打たれるシーンでした。
男優さんですから、勢いのある白い水しぶきに打たれて、映画のシーンみたいでした。滝の流れ落ちてくる水が冷たいそうです。そのうち冷たさに慣れて、温かく感じる変化もあるようです。
出川さんも土方さん(ひじかたさん。ディレクター)もずぶ濡れです。いいシーンを撮れました。おもしろい。そして、清々しい(すがすがしい)
移動の途中で、硬式野球をしていた中学生たちとからんだのですが、中学生たちがおとなしくて、雰囲気の盛り上がりに欠けていたことが不思議でした。いつもなら、こどもたちが、にぎやかに騒ぎ立てます。
ギバさんが、これが秋田県民の県民性ですと代弁されていました。
人口が少ないから元気がないのだろうか。秋田県の人口:91万3000人ぐらい。う~む。鳥取県の人口は、55万人ぐらいですから、秋田県はもっと元気があってもいい。
ギバさんの電動バイクバッテリーの充電依頼は、いい人に当たって良かった。84歳ぐらいのおじいさんでした。
ギバさんもざっくばらんで明るい。秋田弁で通します。
方言は、気持ちがこもっていてとてもいい。
移動途中で、馬肉料理、あんごまもちなどをいただきました。みなおいしそうでした。
広がる緑のじゅうたんのような田んぼ、イネの実りが美しい。
パリオリンピックに出場されたバトミントン選手の志田千陽(しだ・ちはる)さんのご実家(お寺さん)を訪問して、ご住職であるお父さんのお話をうかがいました。
なにせ、ロケ地は、なにもない。ホテルも食堂もなかなか見つかりません。大自然と戸建てが続く地域です。
ようやく旅館が見つかりましたが、ギバさんは、出川さんたちが出かけている最中に、こっそりご自宅へ帰られてしまいました。(観ていて、帰るだろうと思いました。以前は、長島一茂さんがホテルに宿泊せずご自宅へ帰ったことがあります)
土方(ひじかた)ディレクターは、あいかわらず、ドジでおもしろい。
方向音痴なのに、指示役です。
当然、道を間違えます。
メンバーみんなが恥をかきます。
でも、土方さんはきっとなにも気にしていないと思います。
ババヘラというアイスクリームとか、のりが巻いてあるおにぎり、しじみのおみそ汁などがありがたい。見ていても、気持ちがほっとします。ごちそうよりも、おにぎりのほうがいいときもあります。
方言(ほうげん)の響きがいい。気持ちが伝わってきます。
藤木直人さんは、日曜夜10時からやっていた番組、『おしゃれイズム』で、うちの家族にはおなじみでした。番組は終了して、現在はそのあとの山崎育三郎さんと井桁弘恵さん(いげた・ひろえさん)の番組、『おしゃれクリップ』を楽しんでいます。そういえば、井桁弘恵さんもこの番組のゲストで出て、電動バイクを運転されていました。
路上に、『なまはげ』の大きな像が立っています。ほかの旅番組、『東野・岡村の旅猿』でも観たことがあります。
ゲストが、ギバさんから藤木直人さんに交代すると、雰囲気がいっぺんに柔らかくなりました。
藤木直人さんは、お子さんが3人で、高校三年生、中学二年生、小学二年生だそうです。
藤木直人さんは、会話のリズムがじょうずです。そして、子煩悩(こぼんのう。こどもをかわいがる)です。
食堂の若い女性店員さんがすごくいい感じの人でした。(地元が秋田の方(かた))
料理の注文取りがまともで好感をもちました。いまどきの、タブレットで注文とか、自分のスマホで二次元コードを読み取って注文とかではありません。基本通り、お客さんと話をしての心づかいがうれしい。
9月に東京に行ったときの寿司屋では、タブレットで注文なのですが、画面を見ながらどれにしようかなと迷っていると、時間切れみたいに画面がトップ画面に戻ってしまうので、困り果てました。何回もトップ画面に戻るので、さすがにイヤになりました。
藤木直人さんは、釣り好きなので、このあと、料理とか、水族館訪問とかで盛り上がりました。
男鹿半島の海岸線を走る。ゴジラ岩を見学する。充電依頼先のお宅はどこもいい人ばかりです。お宅の家の中には、孫との写真がたくさん飾ってあります。どこもいっしょです。うちにもたくさんそんな写真が壁にあります。
田舎(いなか)です。
道ばたで、サザエを売っています。1個ずつサービスしてくれました。
男鹿水族館GAO(おがすいぞくかんガオ)が出てきたのでびっくりしました。
名古屋の東山動物園にいたホッキョクグマの『サスカッチ』が、2020年5月に寿命で亡くなったのですが、その後、こちらの男鹿水族館GAOから、2023年3月に、『フブキ』というホッキョクグマが東山動物園に来てくれました。ありがとう。
水族館での会話がおもしろかった。出川さんが仕事で、南米アマゾンの大きな魚ピラルクとか、電気ウナギと闘ったことがあるそうです。
わたしは、この番組での記念写真を撮るシーンが好きです。
そのメンバーで、記念写真を撮ることはもうないからです。一期一会(いちごいちえ。人生に一度きりの出会い)です。
水族館前の階段におおぜいで並んで、記念の写真を撮りました。
前半のゲストである柳葉敏郎さんの時間帯は実に濃厚でした。充実がありました。
実家がある秋田県内住まいの柳葉さんです。
以前、NHKの番組、『ファミリーヒストリー』で、複雑な生い立ち紹介を見ました。お互いに、きょうだいであることを知らずに育って歳(とし)をとったおふたりが、番組企画が縁で、生まれて初めて会われました。秋田県に住む異母姉の方もいい人で、みんなが感動する涙のシーンでした。
ギバさん(柳葉敏郎)は、話がおもしろい。ときおり、『ソイヤ、ソイヤ、ソレ、ソレ』と一世風靡セピア(いっせいふうびセピア。1980年代(昭和55年代)の男性路上パフォーマンスグループ)時代の振付けをされていました。
冒頭は、神社の敷地内にある滝で、滝の水に打たれるシーンでした。
男優さんですから、勢いのある白い水しぶきに打たれて、映画のシーンみたいでした。滝の流れ落ちてくる水が冷たいそうです。そのうち冷たさに慣れて、温かく感じる変化もあるようです。
出川さんも土方さん(ひじかたさん。ディレクター)もずぶ濡れです。いいシーンを撮れました。おもしろい。そして、清々しい(すがすがしい)
移動の途中で、硬式野球をしていた中学生たちとからんだのですが、中学生たちがおとなしくて、雰囲気の盛り上がりに欠けていたことが不思議でした。いつもなら、こどもたちが、にぎやかに騒ぎ立てます。
ギバさんが、これが秋田県民の県民性ですと代弁されていました。
人口が少ないから元気がないのだろうか。秋田県の人口:91万3000人ぐらい。う~む。鳥取県の人口は、55万人ぐらいですから、秋田県はもっと元気があってもいい。
ギバさんの電動バイクバッテリーの充電依頼は、いい人に当たって良かった。84歳ぐらいのおじいさんでした。
ギバさんもざっくばらんで明るい。秋田弁で通します。
方言は、気持ちがこもっていてとてもいい。
移動途中で、馬肉料理、あんごまもちなどをいただきました。みなおいしそうでした。
広がる緑のじゅうたんのような田んぼ、イネの実りが美しい。
パリオリンピックに出場されたバトミントン選手の志田千陽(しだ・ちはる)さんのご実家(お寺さん)を訪問して、ご住職であるお父さんのお話をうかがいました。
なにせ、ロケ地は、なにもない。ホテルも食堂もなかなか見つかりません。大自然と戸建てが続く地域です。
ようやく旅館が見つかりましたが、ギバさんは、出川さんたちが出かけている最中に、こっそりご自宅へ帰られてしまいました。(観ていて、帰るだろうと思いました。以前は、長島一茂さんがホテルに宿泊せずご自宅へ帰ったことがあります)
土方(ひじかた)ディレクターは、あいかわらず、ドジでおもしろい。
方向音痴なのに、指示役です。
当然、道を間違えます。
メンバーみんなが恥をかきます。
でも、土方さんはきっとなにも気にしていないと思います。
ババヘラというアイスクリームとか、のりが巻いてあるおにぎり、しじみのおみそ汁などがありがたい。見ていても、気持ちがほっとします。ごちそうよりも、おにぎりのほうがいいときもあります。
方言(ほうげん)の響きがいい。気持ちが伝わってきます。
藤木直人さんは、日曜夜10時からやっていた番組、『おしゃれイズム』で、うちの家族にはおなじみでした。番組は終了して、現在はそのあとの山崎育三郎さんと井桁弘恵さん(いげた・ひろえさん)の番組、『おしゃれクリップ』を楽しんでいます。そういえば、井桁弘恵さんもこの番組のゲストで出て、電動バイクを運転されていました。
路上に、『なまはげ』の大きな像が立っています。ほかの旅番組、『東野・岡村の旅猿』でも観たことがあります。
ゲストが、ギバさんから藤木直人さんに交代すると、雰囲気がいっぺんに柔らかくなりました。
藤木直人さんは、お子さんが3人で、高校三年生、中学二年生、小学二年生だそうです。
藤木直人さんは、会話のリズムがじょうずです。そして、子煩悩(こぼんのう。こどもをかわいがる)です。
食堂の若い女性店員さんがすごくいい感じの人でした。(地元が秋田の方(かた))
料理の注文取りがまともで好感をもちました。いまどきの、タブレットで注文とか、自分のスマホで二次元コードを読み取って注文とかではありません。基本通り、お客さんと話をしての心づかいがうれしい。
9月に東京に行ったときの寿司屋では、タブレットで注文なのですが、画面を見ながらどれにしようかなと迷っていると、時間切れみたいに画面がトップ画面に戻ってしまうので、困り果てました。何回もトップ画面に戻るので、さすがにイヤになりました。
藤木直人さんは、釣り好きなので、このあと、料理とか、水族館訪問とかで盛り上がりました。
男鹿半島の海岸線を走る。ゴジラ岩を見学する。充電依頼先のお宅はどこもいい人ばかりです。お宅の家の中には、孫との写真がたくさん飾ってあります。どこもいっしょです。うちにもたくさんそんな写真が壁にあります。
田舎(いなか)です。
道ばたで、サザエを売っています。1個ずつサービスしてくれました。
男鹿水族館GAO(おがすいぞくかんガオ)が出てきたのでびっくりしました。
名古屋の東山動物園にいたホッキョクグマの『サスカッチ』が、2020年5月に寿命で亡くなったのですが、その後、こちらの男鹿水族館GAOから、2023年3月に、『フブキ』というホッキョクグマが東山動物園に来てくれました。ありがとう。
水族館での会話がおもしろかった。出川さんが仕事で、南米アマゾンの大きな魚ピラルクとか、電気ウナギと闘ったことがあるそうです。
わたしは、この番組での記念写真を撮るシーンが好きです。
そのメンバーで、記念写真を撮ることはもうないからです。一期一会(いちごいちえ。人生に一度きりの出会い)です。
水族館前の階段におおぜいで並んで、記念の写真を撮りました。