2023年11月29日
さみしい夜にはペンを持て 古賀史健
さみしい夜にはペンを持て 古賀史健(こが・ふみたけ) 絵・ならの ポプラ社
売れている本だそうです。読んでみます。
31ページまで読んでみました。
中学校の教室の中の世界です。海の生き物に擬人化してあります。
タコジロー:主人公男子。中学三年生。時期としては、卒業まであと半年ぐらい。タコジロー少年は気弱です。地味。帰宅部。 いじめっ子の策略による投票で、体育祭での宣誓役を押し付けられて悩んでいます。緊張すると顔が真っ赤になるからタコジローです。ゆでダコジローとからかわれる。
ヤドカリのおじさん:白い殻(から)のヤドカリです。タコジロー少年のアドバイザー(助言者)役でしょう。タコジローと師弟関係になりそうです。10日間の出来事でタコジロー少年は救われたとあります。『永遠みたいなひとりの夜をどうすごせばいいのか』をヤドカリおじさんが教えてくれた。『さみしい夜にはペンをもて』です。
以下、クラスメートとして
ウツボリとアナゴウ:タコジローと同じく帰宅部。冴えない(さえない)
トビオ:元気な少年
イカリ:サッカー部元キャプテン。イカリとタコジロー少年は、小学生のときは仲が良かったが、中学生になってからふたりに距離感ができた。(ふたりが卒業したあと、小学校は廃校になった)
カニエ先生:担任教師
フグイ:ソフトボール部。女子
アジキリ:駅伝部。学級委員
キンメダイのおばあさん
クラゲ
サヨリ先生:保健の先生
目次に目を通しました。
自分だけのダンジョン:ダンジョンは、『地下牢(ちかろう)』(あとでわかりましたが、ロールプレイングゲームRPGの世界のことを示しています。冒険の場所です)
出来事ではなく「考えたこと」を書く。
どんな文章にも、読者がいる。
手紙のようにメモを書く。
どうすれば日記から愚痴(ぐち)や悪口が消えるのか。
どうして日記は長続きしないんだろう?
タレントのさかなクンの本みたいです。
絵があります。「うみのなか中学校」「シロサンゴの森」「うみのなか市民公園」「病院」「イソギンチャクの草原」「アカサンゴの森」(これもまた、読み終えて理解しましたが、うみのなか中学校は、海の中にあるのです)
孤独な出だしです。
『うみのなか中学校に、タコはぼくひとりしかいない……』(ひとりぼっちなのか)
シーチューブ:ユーチューブのことか。
中学校には、弱い者いじめがありそうです。
海の中の世界ですが、路線バスに乗って中学校に行きます。(私立中学校なのだろうか。通常は徒歩圏内に中学校があります)
タコジロー少年は学校をずる休みです。登校拒否児になりそうです。
うみのなか市民公園で、タコジローは、ヤドカリのおじさんと出会って、ヤドカリのおじさんの世界へと導かれる。クラゲはヤドカリおじさんの仲間です。
シェルフォン:スマートフォンのことでしょう。
キーワードとして、『……タコジローくんの部屋だって、ほんとはこれくらい広いはずだよ(ヤドカリおじさんの部屋はとても広い)』
『1章 「思う」と「考える」はなにが違う?』
空想をめぐらせながら読む読書になりました。
ヤドカリおじさんの殻の(からの)中は、無限に広い空間が広がっているようです。
そこは、『頭の中』だそうです。なんとなくわかるような気がします。頭の中は無限です。それなのに人間は狭い領域で暮らそうとします。お金を稼いで生活しなければならないからでしょう。
ヤドカリおじさんから助言があります。『ことばにすることのよろこび』だそうです。それから、『自分に相談する』『ぼくたちは「消しゴム」を持っている(書いては消しを繰り返すことができる)』
コトバクラゲというのが出てきます。
コトバクラゲは、コトバミマン(言葉にならない思い)の泡を集めて『ことば』に変えて、出口へ運ぶそうな。出口は、人間でいうところの『口(くち)』です。
哲学書のようです。人はどうあるべきか。どう生きるかです。
『2章 自分だけのダンジョンを冒険するために』
中学生向けのメッセージ文章です。
『ダンジョン(地下牢)』の表現がピンときません。わかりにくい。(どうも、ゲームの設定のようです。調べたらRPGゲームソフトというものを見つけました。ロールプレイングゲームです。ダンジョンは、「冒険が行われる場所」とありました)
パターンとしては、昔読んだことがある『夢をかなえるゾウ』を思い出します。
『夢をかなえるゾウ 水野敬也(みずのけいや) 飛鳥新社』
登場人物は「僕(なまえはない)」と「ガネーシャ(象の姿かたちをしたインド出身の関西弁の神様」だけです。途中、富士急ハイランドで釈迦が登場しますが彼の出番は長時間ではありません。
ふたりの関係は、「ドラエもん」のドラエもんとのび太、「ヒカルの碁」のヒカルと佐為(さい)のようです。先生役であるガネーシャはいささかいいかげんです。たばこは吸うわ、くいしんぼうのメタボで、うそつきです。とても神様とは思えません。ときにふたりのやりとりは夫婦げんかのようでした。
こちらの本『さみしい夜にはペンを持て』では、ヤドカリおじさんが、ガネーシャのポジションを果たしそうです。
日記を毎日書く。
出来事ではなく「考えたこと」を書く。(熊太郎は中学生のころからの習慣で日記を書きますが、いまどきは、いつどこでなにがあったかの記録を箇条書きするだけです。考えたことを書くのは、青春期にありました。もう今は老齢期で、考えることは少なくなりました)
学生だった頃、提出する文章を書く時は、ウソを書いていた。(ありがちです)
ほめてもらうことが目的だった。
おとなの顔色をうかがって、おとなに好まれる文章を書いていた。
『へんなこと』は書いちゃいけないと思っていた。
その気持ちが、『考えること』を奪っていた。(真実を指摘してあります)
自分の気持ちと書いたことに距離感があった。(ウソを書いていた)
よくある書き方の手法として、『おもしろかった』が提示してあります。中身がない表現です。
例示として、太宰治作品『走れメロス』をもじって、『泳げメロス』という作品が出てきます。
話は進んで、『言葉の暴力』に関する説明があります。
言葉は、相手の気持ちを傷つけることができる。
『面倒くさい』から、口論をする。大声で怒鳴った者が勝ったりする。(コスパがいい。手間を省ける。効率的。費用対効果)
基本は、ていねいに論理的に説明する。
『さみしさ』について考える。
こどものさみしさとおとなのさみしさは違う。
こどものさみしさは、そばにだれもいないさみしさである。
おとなのさみしさは、そばにたくさん人がいても、自分はひとりだというさみしさだ。ときには、ひとりきりになりたいという欲望も生まれる。心が疲れているからひとりになりたい。自分のまわりに人がいると、自分が自分ではない自分のような者を演じていて疲れると読みとれます。
『書くことでひとりになる』
『ダンジョン(地下牢)=自分』
『最大の謎は「自分」』
たとえがダンジョンです。わかりやすそうで、わかりにくいダンジョンです。
自分で自分を好きになる。ありのままの自分を好きになる。「アナと雪の女王」みたいな気持ちだろうか。
『話せばスッキリする』続けて、『書けばスッキリする』という展開だろうか。
『3章 きみの日記にも読者がいる』
読者というのは、最低限のこととして、『自分自身』です。もっと説明を加えると、『未来の自分』です。納得します。なるほど。
登場人物の『ぼく』は、中学校でいじめられている。『タコ』と呼ばれている。学校に行きたくないと思っている。ひきこもりになりそうとあります。タコジロー少年です。
白い殻のヤドカリおじさんは、今度は、ピンクの殻で再登場します。
登校拒否気味のタコジロー少年を、『シロサンゴの森』に誘います。
日記を書く。
『文章ってね、書こうとすると書けなくなっちゃうんだよ』
文章の書き方の教えがあります。スケッチするように文章を書く。『あの時の気持ち』を書く。
(このあたりは、技術的な話で、最初はそうであっても、慣れてくると『いまの気持ち』を書けるようになると考えました)
思うに、文章というのは、スポーツ系の運動と同じで、だれしもが書けるわけではない。生まれもった能力、才能ということはあります。
書きながら自問自答する。
これはこうだと決めつけない。
いつだって、バックできる。
変更はいつだってできる。
どこのだれだかわからない人のアドバイスはあてにならない。
自分で考える習慣を身に着けるために、『書く習慣』を身に着ける。
『言い負かす=勝つこと』というやり方はしないほうがいい。
同じようなことが、先日読んだ本にも書いてありました。
『恐れのない組織 エイミー・C・エドモンドソン 野津智子・訳 村瀬俊朗・解説 英治出版に 『人間は衝突すると、つい競いたくなる。議論に「勝とう」としてはいけない(自分の間違いに気づける人間になる)』とありました。
『人と人とをつないでいるロープの姿は、「言葉」である』
タコジロー少年は、10日間、日記を書き続けることにしました。
次につながる出来事として、『だれかが、タコジロー少年とヤドカリおじさんの姿を盗撮しました』
タコジロー少年が3日ぶりに中学校に行く。(少年は、体育祭で、選手宣誓をやりたくない。いじめの結果、選手宣誓を押し付けられた。そんなことが中学校に行きたくない理由です)
イカリがけがをして入院した。タコジロー少年は病院へ見舞に行った。
イカリが、トビオが、たこ少年をからかう理由を話す。
トビオには、プレッシャーがある。自分はおもしろいことを言わなきゃいけない立場にあるというプレッシャー(圧力、緊張感、義務感)をもっている。
『4章 冒険の剣と、冒険の地図』
アカサンゴの森へ行く。(イソギンチャクがたくさんです)
『書くことが楽しくなる方法=キーワードは、「表現力」』
ボキャブラリー:たくさんの言葉を知って使いこなす。
『スローモーションの文章』と『早送りの文章』
夏目漱石作品『吾輩は猫である』にひっかけて、『吾輩はウニである』という文章があります。
『すり抜けていく感情をキャッチする網が、言葉』
『ノートの目的は、「写す」ことではなく、自分の考えを書くこと』
読みながら自分が思ったこととして、『過去のことについて、自分が覚えていることでも、ほかの人は覚えていないことがある。「関心」というものは、人によって異なる』
『スイムダンク』は、マンガ『スラムダンク』にひっかけてあるのでしょう。
ダンジョンを冒険する話です。
ひきこもりの状態にあるこどもを励ます本ですが、ダンジョンでの楽しみを知ると、さらに引きこもり状態が続いてしまうような感じもします。
『タコっち』イカリが、タコジロー少年をそう呼びました。なにか意味があります。(小学生時代のあだなだそうです)
クラスの進行方向は、リーダーが決めているのではなくて、ナンバー2の人物が決めているのではないかと分析がとあります。
『5章 ぼくたちが書く、ほんとうの理由』
知っていても言えないことがある。
世の中は、誤解と錯覚で成り立っている。そんなお話です。
先日観た邦画『勝手にふるえてろ 邦画 2018年(平成30年) 動画配信サービス』では、主人公の若い女性が10年間ぐらい片思いを続けている同級生だった男性に近づいていい感じになったのですが、その男性が主人公の女性をいつも『君(きみ)』と呼ぶのです。女性が、『イチは(彼氏の名前)、人をきみと呼ぶ人なんだね』と声をかけるとその男性が、『キミはなんていう名前なの?』と聞き返してきたのです。主人公の女性は、『キミはだれ?』とたたみかけるように質問されたのです。主人公女性の気持ちは大きく落ち込みます。彼女は相手の異性から、なんとも思われていない存在だったのです。
こちらが強く相手を愛しているからといって、相手もこちらを愛してくれているわけではないのです。きちんと言葉をかわして確認しないと、相手の脳みそのなかにある世界はわからないのです。
『タコでもいい部分もある』(なんというか、物事というものは、たいてい二面性があります。いいこともあれば、そうでないこともあります)
日記(小説)を書くことで、悩み事を克服するコツを教えてくれるアドバイス本です。
『読書感想文も作文も、嘘が書いてある。人目を気にするから嘘を書く』だから、本音(ほんね)を日記に書く。自分だけしか読まない日記を書く。そうすると、日記の中にもうひとりの自分が誕生するという流れです。(なるほど)『ダンジョンを進んだ先に待っているラスボス(コンピューターゲームで最後に登場する相手)は、ドラゴンじゃなくて自分なんだ』(やっぱりロールプレイングゲームにたとえてあるのか)
『6章 「書くもの」だった日記が「読むもの」になる日』
日記には、今の気持ちを書かない。過去のこととして記述する。今の気持ちを書くと、感情的になって、心が乱れるから。
継続できる状態とは:自分が成長していることを実感できる状態があること。
語り手は、『わかってもららおう』という意欲を持つ。聴き手は、『わかろう』という意識をもつ。それがないと、メッセージはなかなか伝わらない。それがないと、『わかったふり』の状態になる。
『わからせてやろう』では、聴き手はそっぽを向く。(無視する)
感情をぶちまけるだけの日記について解説が書いてあります。ふと、以前読んだ本に、そのような日記を書いていたタレントさんがいたことを思い出しました。
『天才はあきらめた 山里亮太 朝日文庫』
(そのときの感想メモの一部です)山里亮太さんの手元に『地獄ノート』というものがあります。呪い(のろい)のノートです。邦画『デスノート』を思い出します。他人に対するうらみつらみが延々と、粘着質に書かれています。復讐心を叩きつけるように書いてあります。
最後のほうになってようやく、海の中での出来事だったのかと理解できました。それまでは、地上の話を聴く意識で読んでいました。ゆえに、ちょっとわかりにくかった。
最後、タコジロー少年は、時が流れて、高校三年生になっています。
学校でなにがあったかは、社会人になると、なんの関係もありません。
本格的な人生が始まるのは、就職して働いて自分で稼ぐようになってからです。そこからが、はるかに長い。子育てなんかは、気が遠くなるほどの忍耐の積み重ねです。それでもたまに幸せだなあと思うときがあります。
学校は狭くて窮屈(きゅうくつ)な世界です。人間社会は無限の広がりをもっています。若い人たちには、箱の中のロールプレイングゲームではなく、現実の社会で躍動するように冒険して活躍してほしい。社会には、自分が好きなところに住んで、自分が好きなことができる『自由』があります。(おとといから読み始めた本『しごとへの道 パン職人 新幹線運転士 研究者 鈴木のりたけ ブロンズ新社』の第一話で、パン職人になった女性が、いろいろな体験を経て、34歳になって千葉市内にて、個人営業のパン屋を営むようになったことが書いてあります。北海道の牧場に行ったり、ブラジルやフランスに行ったりして、修行をして、資格をとってと努力をしながら人生を楽しんでおられます。
登校拒否やひきこもりで、家の中でじっとしていてもなにもかわりません。社会にはパワハラやセクハラなどのいじめをするようなイヤな人もいますが、心優しい、いい人もたくさんいます。ヤドカリのおじさんとか、同級生イカリくんのような善人もいます)
売れている本だそうです。読んでみます。
31ページまで読んでみました。
中学校の教室の中の世界です。海の生き物に擬人化してあります。
タコジロー:主人公男子。中学三年生。時期としては、卒業まであと半年ぐらい。タコジロー少年は気弱です。地味。帰宅部。 いじめっ子の策略による投票で、体育祭での宣誓役を押し付けられて悩んでいます。緊張すると顔が真っ赤になるからタコジローです。ゆでダコジローとからかわれる。
ヤドカリのおじさん:白い殻(から)のヤドカリです。タコジロー少年のアドバイザー(助言者)役でしょう。タコジローと師弟関係になりそうです。10日間の出来事でタコジロー少年は救われたとあります。『永遠みたいなひとりの夜をどうすごせばいいのか』をヤドカリおじさんが教えてくれた。『さみしい夜にはペンをもて』です。
以下、クラスメートとして
ウツボリとアナゴウ:タコジローと同じく帰宅部。冴えない(さえない)
トビオ:元気な少年
イカリ:サッカー部元キャプテン。イカリとタコジロー少年は、小学生のときは仲が良かったが、中学生になってからふたりに距離感ができた。(ふたりが卒業したあと、小学校は廃校になった)
カニエ先生:担任教師
フグイ:ソフトボール部。女子
アジキリ:駅伝部。学級委員
キンメダイのおばあさん
クラゲ
サヨリ先生:保健の先生
目次に目を通しました。
自分だけのダンジョン:ダンジョンは、『地下牢(ちかろう)』(あとでわかりましたが、ロールプレイングゲームRPGの世界のことを示しています。冒険の場所です)
出来事ではなく「考えたこと」を書く。
どんな文章にも、読者がいる。
手紙のようにメモを書く。
どうすれば日記から愚痴(ぐち)や悪口が消えるのか。
どうして日記は長続きしないんだろう?
タレントのさかなクンの本みたいです。
絵があります。「うみのなか中学校」「シロサンゴの森」「うみのなか市民公園」「病院」「イソギンチャクの草原」「アカサンゴの森」(これもまた、読み終えて理解しましたが、うみのなか中学校は、海の中にあるのです)
孤独な出だしです。
『うみのなか中学校に、タコはぼくひとりしかいない……』(ひとりぼっちなのか)
シーチューブ:ユーチューブのことか。
中学校には、弱い者いじめがありそうです。
海の中の世界ですが、路線バスに乗って中学校に行きます。(私立中学校なのだろうか。通常は徒歩圏内に中学校があります)
タコジロー少年は学校をずる休みです。登校拒否児になりそうです。
うみのなか市民公園で、タコジローは、ヤドカリのおじさんと出会って、ヤドカリのおじさんの世界へと導かれる。クラゲはヤドカリおじさんの仲間です。
シェルフォン:スマートフォンのことでしょう。
キーワードとして、『……タコジローくんの部屋だって、ほんとはこれくらい広いはずだよ(ヤドカリおじさんの部屋はとても広い)』
『1章 「思う」と「考える」はなにが違う?』
空想をめぐらせながら読む読書になりました。
ヤドカリおじさんの殻の(からの)中は、無限に広い空間が広がっているようです。
そこは、『頭の中』だそうです。なんとなくわかるような気がします。頭の中は無限です。それなのに人間は狭い領域で暮らそうとします。お金を稼いで生活しなければならないからでしょう。
ヤドカリおじさんから助言があります。『ことばにすることのよろこび』だそうです。それから、『自分に相談する』『ぼくたちは「消しゴム」を持っている(書いては消しを繰り返すことができる)』
コトバクラゲというのが出てきます。
コトバクラゲは、コトバミマン(言葉にならない思い)の泡を集めて『ことば』に変えて、出口へ運ぶそうな。出口は、人間でいうところの『口(くち)』です。
哲学書のようです。人はどうあるべきか。どう生きるかです。
『2章 自分だけのダンジョンを冒険するために』
中学生向けのメッセージ文章です。
『ダンジョン(地下牢)』の表現がピンときません。わかりにくい。(どうも、ゲームの設定のようです。調べたらRPGゲームソフトというものを見つけました。ロールプレイングゲームです。ダンジョンは、「冒険が行われる場所」とありました)
パターンとしては、昔読んだことがある『夢をかなえるゾウ』を思い出します。
『夢をかなえるゾウ 水野敬也(みずのけいや) 飛鳥新社』
登場人物は「僕(なまえはない)」と「ガネーシャ(象の姿かたちをしたインド出身の関西弁の神様」だけです。途中、富士急ハイランドで釈迦が登場しますが彼の出番は長時間ではありません。
ふたりの関係は、「ドラエもん」のドラエもんとのび太、「ヒカルの碁」のヒカルと佐為(さい)のようです。先生役であるガネーシャはいささかいいかげんです。たばこは吸うわ、くいしんぼうのメタボで、うそつきです。とても神様とは思えません。ときにふたりのやりとりは夫婦げんかのようでした。
こちらの本『さみしい夜にはペンを持て』では、ヤドカリおじさんが、ガネーシャのポジションを果たしそうです。
日記を毎日書く。
出来事ではなく「考えたこと」を書く。(熊太郎は中学生のころからの習慣で日記を書きますが、いまどきは、いつどこでなにがあったかの記録を箇条書きするだけです。考えたことを書くのは、青春期にありました。もう今は老齢期で、考えることは少なくなりました)
学生だった頃、提出する文章を書く時は、ウソを書いていた。(ありがちです)
ほめてもらうことが目的だった。
おとなの顔色をうかがって、おとなに好まれる文章を書いていた。
『へんなこと』は書いちゃいけないと思っていた。
その気持ちが、『考えること』を奪っていた。(真実を指摘してあります)
自分の気持ちと書いたことに距離感があった。(ウソを書いていた)
よくある書き方の手法として、『おもしろかった』が提示してあります。中身がない表現です。
例示として、太宰治作品『走れメロス』をもじって、『泳げメロス』という作品が出てきます。
話は進んで、『言葉の暴力』に関する説明があります。
言葉は、相手の気持ちを傷つけることができる。
『面倒くさい』から、口論をする。大声で怒鳴った者が勝ったりする。(コスパがいい。手間を省ける。効率的。費用対効果)
基本は、ていねいに論理的に説明する。
『さみしさ』について考える。
こどものさみしさとおとなのさみしさは違う。
こどものさみしさは、そばにだれもいないさみしさである。
おとなのさみしさは、そばにたくさん人がいても、自分はひとりだというさみしさだ。ときには、ひとりきりになりたいという欲望も生まれる。心が疲れているからひとりになりたい。自分のまわりに人がいると、自分が自分ではない自分のような者を演じていて疲れると読みとれます。
『書くことでひとりになる』
『ダンジョン(地下牢)=自分』
『最大の謎は「自分」』
たとえがダンジョンです。わかりやすそうで、わかりにくいダンジョンです。
自分で自分を好きになる。ありのままの自分を好きになる。「アナと雪の女王」みたいな気持ちだろうか。
『話せばスッキリする』続けて、『書けばスッキリする』という展開だろうか。
『3章 きみの日記にも読者がいる』
読者というのは、最低限のこととして、『自分自身』です。もっと説明を加えると、『未来の自分』です。納得します。なるほど。
登場人物の『ぼく』は、中学校でいじめられている。『タコ』と呼ばれている。学校に行きたくないと思っている。ひきこもりになりそうとあります。タコジロー少年です。
白い殻のヤドカリおじさんは、今度は、ピンクの殻で再登場します。
登校拒否気味のタコジロー少年を、『シロサンゴの森』に誘います。
日記を書く。
『文章ってね、書こうとすると書けなくなっちゃうんだよ』
文章の書き方の教えがあります。スケッチするように文章を書く。『あの時の気持ち』を書く。
(このあたりは、技術的な話で、最初はそうであっても、慣れてくると『いまの気持ち』を書けるようになると考えました)
思うに、文章というのは、スポーツ系の運動と同じで、だれしもが書けるわけではない。生まれもった能力、才能ということはあります。
書きながら自問自答する。
これはこうだと決めつけない。
いつだって、バックできる。
変更はいつだってできる。
どこのだれだかわからない人のアドバイスはあてにならない。
自分で考える習慣を身に着けるために、『書く習慣』を身に着ける。
『言い負かす=勝つこと』というやり方はしないほうがいい。
同じようなことが、先日読んだ本にも書いてありました。
『恐れのない組織 エイミー・C・エドモンドソン 野津智子・訳 村瀬俊朗・解説 英治出版に 『人間は衝突すると、つい競いたくなる。議論に「勝とう」としてはいけない(自分の間違いに気づける人間になる)』とありました。
『人と人とをつないでいるロープの姿は、「言葉」である』
タコジロー少年は、10日間、日記を書き続けることにしました。
次につながる出来事として、『だれかが、タコジロー少年とヤドカリおじさんの姿を盗撮しました』
タコジロー少年が3日ぶりに中学校に行く。(少年は、体育祭で、選手宣誓をやりたくない。いじめの結果、選手宣誓を押し付けられた。そんなことが中学校に行きたくない理由です)
イカリがけがをして入院した。タコジロー少年は病院へ見舞に行った。
イカリが、トビオが、たこ少年をからかう理由を話す。
トビオには、プレッシャーがある。自分はおもしろいことを言わなきゃいけない立場にあるというプレッシャー(圧力、緊張感、義務感)をもっている。
『4章 冒険の剣と、冒険の地図』
アカサンゴの森へ行く。(イソギンチャクがたくさんです)
『書くことが楽しくなる方法=キーワードは、「表現力」』
ボキャブラリー:たくさんの言葉を知って使いこなす。
『スローモーションの文章』と『早送りの文章』
夏目漱石作品『吾輩は猫である』にひっかけて、『吾輩はウニである』という文章があります。
『すり抜けていく感情をキャッチする網が、言葉』
『ノートの目的は、「写す」ことではなく、自分の考えを書くこと』
読みながら自分が思ったこととして、『過去のことについて、自分が覚えていることでも、ほかの人は覚えていないことがある。「関心」というものは、人によって異なる』
『スイムダンク』は、マンガ『スラムダンク』にひっかけてあるのでしょう。
ダンジョンを冒険する話です。
ひきこもりの状態にあるこどもを励ます本ですが、ダンジョンでの楽しみを知ると、さらに引きこもり状態が続いてしまうような感じもします。
『タコっち』イカリが、タコジロー少年をそう呼びました。なにか意味があります。(小学生時代のあだなだそうです)
クラスの進行方向は、リーダーが決めているのではなくて、ナンバー2の人物が決めているのではないかと分析がとあります。
『5章 ぼくたちが書く、ほんとうの理由』
知っていても言えないことがある。
世の中は、誤解と錯覚で成り立っている。そんなお話です。
先日観た邦画『勝手にふるえてろ 邦画 2018年(平成30年) 動画配信サービス』では、主人公の若い女性が10年間ぐらい片思いを続けている同級生だった男性に近づいていい感じになったのですが、その男性が主人公の女性をいつも『君(きみ)』と呼ぶのです。女性が、『イチは(彼氏の名前)、人をきみと呼ぶ人なんだね』と声をかけるとその男性が、『キミはなんていう名前なの?』と聞き返してきたのです。主人公の女性は、『キミはだれ?』とたたみかけるように質問されたのです。主人公女性の気持ちは大きく落ち込みます。彼女は相手の異性から、なんとも思われていない存在だったのです。
こちらが強く相手を愛しているからといって、相手もこちらを愛してくれているわけではないのです。きちんと言葉をかわして確認しないと、相手の脳みそのなかにある世界はわからないのです。
『タコでもいい部分もある』(なんというか、物事というものは、たいてい二面性があります。いいこともあれば、そうでないこともあります)
日記(小説)を書くことで、悩み事を克服するコツを教えてくれるアドバイス本です。
『読書感想文も作文も、嘘が書いてある。人目を気にするから嘘を書く』だから、本音(ほんね)を日記に書く。自分だけしか読まない日記を書く。そうすると、日記の中にもうひとりの自分が誕生するという流れです。(なるほど)『ダンジョンを進んだ先に待っているラスボス(コンピューターゲームで最後に登場する相手)は、ドラゴンじゃなくて自分なんだ』(やっぱりロールプレイングゲームにたとえてあるのか)
『6章 「書くもの」だった日記が「読むもの」になる日』
日記には、今の気持ちを書かない。過去のこととして記述する。今の気持ちを書くと、感情的になって、心が乱れるから。
継続できる状態とは:自分が成長していることを実感できる状態があること。
語り手は、『わかってもららおう』という意欲を持つ。聴き手は、『わかろう』という意識をもつ。それがないと、メッセージはなかなか伝わらない。それがないと、『わかったふり』の状態になる。
『わからせてやろう』では、聴き手はそっぽを向く。(無視する)
感情をぶちまけるだけの日記について解説が書いてあります。ふと、以前読んだ本に、そのような日記を書いていたタレントさんがいたことを思い出しました。
『天才はあきらめた 山里亮太 朝日文庫』
(そのときの感想メモの一部です)山里亮太さんの手元に『地獄ノート』というものがあります。呪い(のろい)のノートです。邦画『デスノート』を思い出します。他人に対するうらみつらみが延々と、粘着質に書かれています。復讐心を叩きつけるように書いてあります。
最後のほうになってようやく、海の中での出来事だったのかと理解できました。それまでは、地上の話を聴く意識で読んでいました。ゆえに、ちょっとわかりにくかった。
最後、タコジロー少年は、時が流れて、高校三年生になっています。
学校でなにがあったかは、社会人になると、なんの関係もありません。
本格的な人生が始まるのは、就職して働いて自分で稼ぐようになってからです。そこからが、はるかに長い。子育てなんかは、気が遠くなるほどの忍耐の積み重ねです。それでもたまに幸せだなあと思うときがあります。
学校は狭くて窮屈(きゅうくつ)な世界です。人間社会は無限の広がりをもっています。若い人たちには、箱の中のロールプレイングゲームではなく、現実の社会で躍動するように冒険して活躍してほしい。社会には、自分が好きなところに住んで、自分が好きなことができる『自由』があります。(おとといから読み始めた本『しごとへの道 パン職人 新幹線運転士 研究者 鈴木のりたけ ブロンズ新社』の第一話で、パン職人になった女性が、いろいろな体験を経て、34歳になって千葉市内にて、個人営業のパン屋を営むようになったことが書いてあります。北海道の牧場に行ったり、ブラジルやフランスに行ったりして、修行をして、資格をとってと努力をしながら人生を楽しんでおられます。
登校拒否やひきこもりで、家の中でじっとしていてもなにもかわりません。社会にはパワハラやセクハラなどのいじめをするようなイヤな人もいますが、心優しい、いい人もたくさんいます。ヤドカリのおじさんとか、同級生イカリくんのような善人もいます)