2021年03月17日
ようこそ、おまけの時間に 岡田淳
ようこそ、おまけの時間に 岡田淳 偕成社文庫
1989年(平成元年)の児童文学作品です。
本のカバーには、6年1組にいる6人の児童の顔が書いてあります。43ページまで読んだところで感想を書き始めてみます。季節設定は、10月下旬から11月上旬でしょう。
主人公が、「ぼんやり賢」と呼ばれている松本賢(まつもと・けん)です。地味で目立たない児童だそうです。彼がどうも四時間目の12時にサイレンがなると白昼夢を見るらしい。(はくちゅうむ:いわゆる幻視。まぼろし)バラの茨(いばら)のようなものにがんじがらめにされている幻の空想です。茨の枝やつるにぐるぐるまきにされています。サイレンが鳴り終わると、現実世界が戻ってきます。
教室で、松本賢の前に座っているのが、聡(さとし)、右に座っているのが、おさななじみの田中明子、ほかに、むっつりガリ勉と呼ばれているメガネをかけた圭一、圭一のうしろの席が、スポーツ刈りで体ががっしりしている太です。
期間を区切るのが、この作家さんの創作の特徴だと受け取りました。先日読んだ本が「ムンジャクンジュは毛虫じゃない」も期間が区切ってありました。この作品も「月曜日・火曜日」から始まります。
映画のシーンのような始まりです。
「茨(いばら)」は、なにを意味しているのだろう。
なんだか痛い話になってきました。
カッターナイフで茨の枝やつるを切る行為が続きます。切り取られたつるは、急速に枯れていきます。
スリルがあります。
松本賢の「孤独」が感じられます。
茨が茂る範囲が教室内に広がってきました。
グリム童話の茨姫(いばらひめ):作品「眠れる森の美女」のこと。魔法使いが王女に呪いをかける。王女は茨に囲まれた城で眠り続ける。100年後、城のそばを通りかかった近くの国の王子が王女を助ける。
「夢と現実をいっしょにしてはいけないぞ」
(つづく)
人は自分のまわりに壁をつくる。壁を茨(いばら。これ以上中に入ってくるなというトゲがある。)として、茨をとりはらって、すっきりした人づきあいをして、友情や愛情を深めるということをテーマにした作品ではなかろうかという感想をもちながら読み続けています。
人は外見から受ける印象と内面は異なる。まるっきり反対のこともある。美人の女優さんでも、がらっぱちな人もいます。(言動が粗野で落ち着きがない)イケメンでもいい加減な性格の男性もいます。見た目にまどわされてはいけないのです。
きざ:服装や言動が気どっていていやな感じ
鉛筆とか小刀が出てきます。今だと、タブレット端末、カッターナイフになるのでしょう。このさき、人は筆記用具で字を書けなくなるのではないか。心配です。心配してもしょうがないのですが。
現実とは違う別の世界で児童同士の交流が始まります。茨をどけていくのです。
彼らは各自が現実世界とは異なる個性をもっています。本音でしゃべる素(す)の姿です。
発想は違うのですが、以前読んだ作品「かがみの孤城」を思い出します。不登校のこどもたちがかがみのむこうの世界に集まるのです。
最初は、自分だけがこの世界を知っているという状態です。やがて、だれもが、この世界を知っているというふうに広がりを見せます。そうなのです。自分だけが特別という思い込みは誤解なのです。みんなが同じなのです。
茨を切り落とすための道具が「なた」です。中学生の時に日曜日になると祖母に頼まれて、なたで薪割り(まきわり)をしていたことを思い出しました。もう今どきそういうことをするこどもは少ないのでしょう。
この物語に出てくる小刀にしても、昔のこどもはけっこう危険な刃物を手にして使っていました。今だと危ないから触っていけないと言われそうです。
個々の12時のサイレンをはさんだ教室での不思議な別世界は、やがて、全体共通のものになってきました。タイトルにある「おまけの時間」がある空間です。空間にいるのは児童だけで先生はいません。
最初におまけの時間が表れてから、二週間が経ちました。
読んでいると本の中に昔の学校の風景があります。タイムマシンで過去へ行ったみたいです。
おとなの視点でこの本を読んでいます。こどもさんが読むとどういう意識をもつのかはもう想像できる年齢ではなくなってしまいました。
物語では、茨(いばら)の反撃が始まります。拘束しようとするものとこどもたちとの闘いがあります。こどもたちが闘いに勝利したとして、その先になにがあるのか。経済的な豊かさがあるとは思えませんが、心の豊かさはあると思えます。いつの時代でもそのふたつのバランス具合でいいこともあるし、そうでないことも起こります。
たとえば、長時間労働が否定される世の中に変化してきましたが、長時間労働によって豊かな経済社会が築かれていたことは事実です。働かなければ財力は衰退していきます。
適度の労働時間におさめるならば、身体が健やかになれます。(すこやかになれます)そのかわりお金はたまらないような気がします。
本の196ページにある絵は「協力」を表しています。協力して、いまあるものを破壊するのです。破壊するときは、破壊したあとの目標を決めてやります。そう思うと、明治維新という時代を思い出します。当時は、外国のようになるという目標がありました。今の日本の世の中だと何が目標になるのだろうか。しばらくゆっくり考えてみます。
1989年(平成元年)の児童文学作品です。
本のカバーには、6年1組にいる6人の児童の顔が書いてあります。43ページまで読んだところで感想を書き始めてみます。季節設定は、10月下旬から11月上旬でしょう。
主人公が、「ぼんやり賢」と呼ばれている松本賢(まつもと・けん)です。地味で目立たない児童だそうです。彼がどうも四時間目の12時にサイレンがなると白昼夢を見るらしい。(はくちゅうむ:いわゆる幻視。まぼろし)バラの茨(いばら)のようなものにがんじがらめにされている幻の空想です。茨の枝やつるにぐるぐるまきにされています。サイレンが鳴り終わると、現実世界が戻ってきます。
教室で、松本賢の前に座っているのが、聡(さとし)、右に座っているのが、おさななじみの田中明子、ほかに、むっつりガリ勉と呼ばれているメガネをかけた圭一、圭一のうしろの席が、スポーツ刈りで体ががっしりしている太です。
期間を区切るのが、この作家さんの創作の特徴だと受け取りました。先日読んだ本が「ムンジャクンジュは毛虫じゃない」も期間が区切ってありました。この作品も「月曜日・火曜日」から始まります。
映画のシーンのような始まりです。
「茨(いばら)」は、なにを意味しているのだろう。
なんだか痛い話になってきました。
カッターナイフで茨の枝やつるを切る行為が続きます。切り取られたつるは、急速に枯れていきます。
スリルがあります。
松本賢の「孤独」が感じられます。
茨が茂る範囲が教室内に広がってきました。
グリム童話の茨姫(いばらひめ):作品「眠れる森の美女」のこと。魔法使いが王女に呪いをかける。王女は茨に囲まれた城で眠り続ける。100年後、城のそばを通りかかった近くの国の王子が王女を助ける。
「夢と現実をいっしょにしてはいけないぞ」
(つづく)
人は自分のまわりに壁をつくる。壁を茨(いばら。これ以上中に入ってくるなというトゲがある。)として、茨をとりはらって、すっきりした人づきあいをして、友情や愛情を深めるということをテーマにした作品ではなかろうかという感想をもちながら読み続けています。
人は外見から受ける印象と内面は異なる。まるっきり反対のこともある。美人の女優さんでも、がらっぱちな人もいます。(言動が粗野で落ち着きがない)イケメンでもいい加減な性格の男性もいます。見た目にまどわされてはいけないのです。
きざ:服装や言動が気どっていていやな感じ
鉛筆とか小刀が出てきます。今だと、タブレット端末、カッターナイフになるのでしょう。このさき、人は筆記用具で字を書けなくなるのではないか。心配です。心配してもしょうがないのですが。
現実とは違う別の世界で児童同士の交流が始まります。茨をどけていくのです。
彼らは各自が現実世界とは異なる個性をもっています。本音でしゃべる素(す)の姿です。
発想は違うのですが、以前読んだ作品「かがみの孤城」を思い出します。不登校のこどもたちがかがみのむこうの世界に集まるのです。
最初は、自分だけがこの世界を知っているという状態です。やがて、だれもが、この世界を知っているというふうに広がりを見せます。そうなのです。自分だけが特別という思い込みは誤解なのです。みんなが同じなのです。
茨を切り落とすための道具が「なた」です。中学生の時に日曜日になると祖母に頼まれて、なたで薪割り(まきわり)をしていたことを思い出しました。もう今どきそういうことをするこどもは少ないのでしょう。
この物語に出てくる小刀にしても、昔のこどもはけっこう危険な刃物を手にして使っていました。今だと危ないから触っていけないと言われそうです。
個々の12時のサイレンをはさんだ教室での不思議な別世界は、やがて、全体共通のものになってきました。タイトルにある「おまけの時間」がある空間です。空間にいるのは児童だけで先生はいません。
最初におまけの時間が表れてから、二週間が経ちました。
読んでいると本の中に昔の学校の風景があります。タイムマシンで過去へ行ったみたいです。
おとなの視点でこの本を読んでいます。こどもさんが読むとどういう意識をもつのかはもう想像できる年齢ではなくなってしまいました。
物語では、茨(いばら)の反撃が始まります。拘束しようとするものとこどもたちとの闘いがあります。こどもたちが闘いに勝利したとして、その先になにがあるのか。経済的な豊かさがあるとは思えませんが、心の豊かさはあると思えます。いつの時代でもそのふたつのバランス具合でいいこともあるし、そうでないことも起こります。
たとえば、長時間労働が否定される世の中に変化してきましたが、長時間労働によって豊かな経済社会が築かれていたことは事実です。働かなければ財力は衰退していきます。
適度の労働時間におさめるならば、身体が健やかになれます。(すこやかになれます)そのかわりお金はたまらないような気がします。
本の196ページにある絵は「協力」を表しています。協力して、いまあるものを破壊するのです。破壊するときは、破壊したあとの目標を決めてやります。そう思うと、明治維新という時代を思い出します。当時は、外国のようになるという目標がありました。今の日本の世の中だと何が目標になるのだろうか。しばらくゆっくり考えてみます。
2021年03月16日
シルバー川柳10 スクワット しゃがんだままで 立てません
シルバー川柳10 スクワット しゃがんだままで 立てません ポプラ社
本屋で、この本のカバーをみて「スクワット しゃがんだままで 立てません」を読んで、思わず吹き出しました。そのとおりです。笑いました。そして、購入しました。
ああ、サラリーマン川柳の本だなと手に取って思いました。以前、読んで感想を書いたことがあります。傑作本でした。
2018年のときのその感想文をみつけました。
「サラリーマン川柳 やみつき傑作編 NHK出版編」
毎年だいたいこの本を読んでいますが、今回のこの本がこれまでで最高に出来がいいという印象を受けました。内容が充実していて笑えます。これまでの年の作品は不満をぶちまけるものが多かったのですが、今回は傾向が異なります。内容が豊かです。これまではたいてい一回読み終えるともうページを開くことはなかったのですが、今回の本はこれから何回も読み返してみようという意欲が湧きます。豊作です。
人間は不可解な性質をもった生き物です。理論・理屈だけでは生きていません。
嘆きがあります。努力してもかなわない項目があります。日本語の乱れがあります。加齢と記憶力低下があります。礼儀作法、慣習、慣例、上下関係の崩壊、自由化による意識の変化・低下、知らんふり、自己本位、協調性なし、迷走、なんだかんだのお悩みを、川柳でいっとき慰めます。
真実をとらえています。
クスリと笑える作品が多い。共感を呼びます。
過去作品の掲載もあります。もう忘れてしまった去年の流行語を思い出します。
相手のためにとか、会社のためにがんばるのですが報われません。逆に嫌われます。せつない。
さて今回の本の感想です。
萩本欽一さんがやっていた昔のラジオ番組「欽ちゃんのドンといってみよう!」方式で、全国からアイデア募集をするといい作品が選ばれます。いいものをつくる手法です。
新型ウィルス感染拡大で移動制限がかかるなかで、気晴らしをするのにいい本です。今年読んで良かった一冊です。
あんまりここに書くといけないのですが「ばあさんの 手づくりマスク 息できず」は現代の世相を反映しています。何年かたって騒ぎがおさまれば、ああ、そんなときもあったなあと思い出話にできるのでしょう。今は、とうぶんマスク生活が続きそうです。
「ゴミ出しの 俺とカラスは 顔なじみ」では、さわやかな気持ちになれました。実感が湧きます。
「何をしに ここに来たかと考える」そういうことって実際にあります。
読んでいて、性別を考える作品に出会いました。歳をとってみるとわかるのですが、性別がよくわからなくなるのです。男性、女性、LGBTという言葉があるのですが、年齢が高くなると、みんな男性のような気もするし、みんな女性のような気もするし、性別を超越したような人間さまになるような感覚があります。どっちでもいいじゃないかという気持ちにもなります。
さらに付けくわえると、先日テレビで夫婦別姓の話が出ていたのですが、リタイアして老齢の単調な年金生活に入ると、名字(みょうじ)を意識することが希薄になります。きちんと相手の名字や自分の名字を呼んだり呼んでもらったりする必要性が低下します。家族や親族、友人間の間では、下の名前か、愛称で呼ばれます。きちんとした名字で呼ばれることが少なくなります。ゆえに呼び名は、お互いに個体が認識できれば、なんでもいいよという気分になります。
「入らない 母の入歯で 騒ぐ父」これもありそうで笑いました。
106歳の方の作品もあります。すごいなあ。
ワンちゃん相手(ペットの犬)の川柳があります。なんだろう。ちょっとわびしい。ちょっとさびしい。話し相手がワンちゃんしかいません。だけど、まあまあ幸せ。そんな人生に折り合いをつけて、とりあえず今日一日を生きてみる。あしたもそうしてみる。
50ページまで読んで、わたしは、大きな勘違いをしていたことにようやく気づきました。年配の人たちの投稿が多いなあ。サラセンなのに、こんな高齢なのにサラリーマンなのだろうか? という疑問が生じてよーく考えてみました。本のタイトルをジーッと見て、これはサラリーマン川柳じゃない。シルバー川柳の本だった。わたしも加齢が進んで認知力、理解力が低下しています。がっくりきました。
「国会を 見て学んでる 言い逃れ」テレビの国会中継をゆっくり観ることができるのも年金生活者になったからなのでしょうという一句です。
補聴器の川柳が出てくるのですが、人間というものは、最終的にはみんな障害者になるのだと悟っています。いくら若いころ健康優良児でも老いによる身体能力低下から逃れることはむずかしい。老眼で目が見えなくなったり、指先がかさかさに乾燥して本のページをめくれなくなったり、耳が遠くなったり、お店や人の名前の固有名詞が口から出なくなったりします。
うまい。なるほど。という川柳が続きます。
スマホで調べる話も出ます。昔は、国語辞典をめくって調べました。そういうめんどうくさいことをしながらものごとを覚えてきましたが、そういうやりかたは、今の世代からはばかにされるようです。そしてめんどうでも手間をかける意義を説明しても理解できないようです。なんでも電子機器頼みになった今、これから先、人類は、電気もガスも水道も使えないという、自然災害後のいざというときに、どうやって生き残るのだろう。
髪の毛が薄くなる川柳もおもしろい。
孫がいて、妻がいて、ペットがいます。娘や息子はあまり出てきません。川柳づくりでは、世話にならなければならないこどもには、気を使っているのかもしれません。
本屋で、この本のカバーをみて「スクワット しゃがんだままで 立てません」を読んで、思わず吹き出しました。そのとおりです。笑いました。そして、購入しました。
ああ、サラリーマン川柳の本だなと手に取って思いました。以前、読んで感想を書いたことがあります。傑作本でした。
2018年のときのその感想文をみつけました。
「サラリーマン川柳 やみつき傑作編 NHK出版編」
毎年だいたいこの本を読んでいますが、今回のこの本がこれまでで最高に出来がいいという印象を受けました。内容が充実していて笑えます。これまでの年の作品は不満をぶちまけるものが多かったのですが、今回は傾向が異なります。内容が豊かです。これまではたいてい一回読み終えるともうページを開くことはなかったのですが、今回の本はこれから何回も読み返してみようという意欲が湧きます。豊作です。
人間は不可解な性質をもった生き物です。理論・理屈だけでは生きていません。
嘆きがあります。努力してもかなわない項目があります。日本語の乱れがあります。加齢と記憶力低下があります。礼儀作法、慣習、慣例、上下関係の崩壊、自由化による意識の変化・低下、知らんふり、自己本位、協調性なし、迷走、なんだかんだのお悩みを、川柳でいっとき慰めます。
真実をとらえています。
クスリと笑える作品が多い。共感を呼びます。
過去作品の掲載もあります。もう忘れてしまった去年の流行語を思い出します。
相手のためにとか、会社のためにがんばるのですが報われません。逆に嫌われます。せつない。
さて今回の本の感想です。
萩本欽一さんがやっていた昔のラジオ番組「欽ちゃんのドンといってみよう!」方式で、全国からアイデア募集をするといい作品が選ばれます。いいものをつくる手法です。
新型ウィルス感染拡大で移動制限がかかるなかで、気晴らしをするのにいい本です。今年読んで良かった一冊です。
あんまりここに書くといけないのですが「ばあさんの 手づくりマスク 息できず」は現代の世相を反映しています。何年かたって騒ぎがおさまれば、ああ、そんなときもあったなあと思い出話にできるのでしょう。今は、とうぶんマスク生活が続きそうです。
「ゴミ出しの 俺とカラスは 顔なじみ」では、さわやかな気持ちになれました。実感が湧きます。
「何をしに ここに来たかと考える」そういうことって実際にあります。
読んでいて、性別を考える作品に出会いました。歳をとってみるとわかるのですが、性別がよくわからなくなるのです。男性、女性、LGBTという言葉があるのですが、年齢が高くなると、みんな男性のような気もするし、みんな女性のような気もするし、性別を超越したような人間さまになるような感覚があります。どっちでもいいじゃないかという気持ちにもなります。
さらに付けくわえると、先日テレビで夫婦別姓の話が出ていたのですが、リタイアして老齢の単調な年金生活に入ると、名字(みょうじ)を意識することが希薄になります。きちんと相手の名字や自分の名字を呼んだり呼んでもらったりする必要性が低下します。家族や親族、友人間の間では、下の名前か、愛称で呼ばれます。きちんとした名字で呼ばれることが少なくなります。ゆえに呼び名は、お互いに個体が認識できれば、なんでもいいよという気分になります。
「入らない 母の入歯で 騒ぐ父」これもありそうで笑いました。
106歳の方の作品もあります。すごいなあ。
ワンちゃん相手(ペットの犬)の川柳があります。なんだろう。ちょっとわびしい。ちょっとさびしい。話し相手がワンちゃんしかいません。だけど、まあまあ幸せ。そんな人生に折り合いをつけて、とりあえず今日一日を生きてみる。あしたもそうしてみる。
50ページまで読んで、わたしは、大きな勘違いをしていたことにようやく気づきました。年配の人たちの投稿が多いなあ。サラセンなのに、こんな高齢なのにサラリーマンなのだろうか? という疑問が生じてよーく考えてみました。本のタイトルをジーッと見て、これはサラリーマン川柳じゃない。シルバー川柳の本だった。わたしも加齢が進んで認知力、理解力が低下しています。がっくりきました。
「国会を 見て学んでる 言い逃れ」テレビの国会中継をゆっくり観ることができるのも年金生活者になったからなのでしょうという一句です。
補聴器の川柳が出てくるのですが、人間というものは、最終的にはみんな障害者になるのだと悟っています。いくら若いころ健康優良児でも老いによる身体能力低下から逃れることはむずかしい。老眼で目が見えなくなったり、指先がかさかさに乾燥して本のページをめくれなくなったり、耳が遠くなったり、お店や人の名前の固有名詞が口から出なくなったりします。
うまい。なるほど。という川柳が続きます。
スマホで調べる話も出ます。昔は、国語辞典をめくって調べました。そういうめんどうくさいことをしながらものごとを覚えてきましたが、そういうやりかたは、今の世代からはばかにされるようです。そしてめんどうでも手間をかける意義を説明しても理解できないようです。なんでも電子機器頼みになった今、これから先、人類は、電気もガスも水道も使えないという、自然災害後のいざというときに、どうやって生き残るのだろう。
髪の毛が薄くなる川柳もおもしろい。
孫がいて、妻がいて、ペットがいます。娘や息子はあまり出てきません。川柳づくりでは、世話にならなければならないこどもには、気を使っているのかもしれません。
2021年03月15日
家族を想う時 イギリス・フランス・ベルギー映画DVD
家族を想う時(かぞくをおもうとき) イギリス・フランス・ベルギー映画DVD 2019年公開
リッキー:夫。不況で建設会社を離職して、個人事業主形式の宅配ドライバーにつく。(フランチャイズ:会社の看板等の使用権をもらって対価を払う。車両は自己負担。車の維持費も自己負担)
アビー:妻。訪問介護ヘルパー
セブ:長男。高校三年生ぐらいに見えます。
ライザ:長女。中学一年生ぐらいに見えます。
生活臭が強そうな始まりのシーンです。「生活保護は?」「イヤだ。オレにもプライドがある。飢えたほうがマシだ」
1ポンドが147.90円ぐらいとして、
中古の配達用の車が、14,000ポンド=2,070,600円
中古の車の毎月のローンが、400ポンド=59,160円
中古の車の購入手付金が、1000ポンド=147,900円
夫の一日の予想収入額が、155ポンド=22,924円
夫婦は、妻が介護ヘルパーとして使っている妻の車を売却して、夫の宅配用のワンボックスカーを購入します。妻はバスで介護するお宅へ行きます。不便でとても困るようになりました。
夫は、一日14時間、週に6日間働きます。妻は、朝7時半から夜9時まで働きます。こどもはほったらかしになります。家族をつなぐのは携帯電話です。
夫は、おそらくリーマンショックで失ったであろうマイホームを再び手に入れたい。強引な父親です。家族関係がどんどん崩壊していきます。(銀行の取り付け騒ぎ:預金引き出し停止騒ぎ。最悪の場合銀行が倒産する)
おそらく夫は、まじめできちんとした性格の人なのでしょう。だから、うまくいきません。家族のためによかれと思って一生懸命やっているのですが、どんどん悪い方向へと導かれていきます。努力が報われません(むくわれません)。これは本人の責任「自己責任」というよりも社会システムがうまくいっていないからです。
子どもの養育がうまくいきません。
OBK(オービーケー)なるものを息子が主張します。アウト バック クルー 恵まれない子を支えるという意味だそうですがピンときません。(こどもたちの嘘ですが)放送大学と警察がからんだ学校のプロジェクトだそうです。
グラフィティ:落書き。息子がグループをつくってスプレー落書きをします。
荒れた学生の様子をみていると去年読んだイギリス現地での生活に関する記述作品「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」ブレイディみかこ著を思い出します。著者の夫もまたダンプですが運転手が職業です。
教育とお金の話が出ます。教育にお金がかかる。
妻の介護ヘルパーの仕事も大変です。妻の言葉として「自分の母親だと思って世話をするのがマイルール」ただ、どこかで線引きをしないと親族でもないのに共倒れになりそうな仕事ぶりです。厳しい。イギリスも長寿社会なのか。そして、お金がほしい話です。
富む者と富まない者との格差が大きい。イギリスは、経済力が上位のような印象があるのですが意外です。
夫婦の会話です。「こんなに苦労するとはな。なにもかもうまくいかない」「(眠っていて夢の中で)こどもたちが助けてくれようとするけれど無理」
映像を観ていて考えたことです。「携帯電話」ってなんだろう。昔はありませんでした。それも、三十年ぐらい前はまだ社会に普及していませんでした。その当時は、業務用のみに使用するものだと思っていました。肩からぶらさげるかなりでかい箱型の携帯電話でした。
人は携帯電話なしで千年以上何百年間もちゃんと生活をしていました。なんだか世界が狭くなって、コンビニと大型ショッピングセンターと各種カードとインターネットの世界に、人の生活は囲まれてしまいました。
映画では、家族四人が携帯電話を使用するシーンがたくさん出てきます。
「携帯電話」って何だろう。重ねてになりますが、昔はなかったけれどちゃんと生活できていました。携帯電話とは、人間を束縛(そくばく。しばりつける)するもの。とくに仕事場からはがんがん仕事の電話がかかってきます。携帯電話依存症という社会問題となるような病気です。
この映画での夫婦は、携帯電話の奴隷になっています。深刻で暗い。救いようがないように見えます。とくに親子関係の修復には永い歳月がかかりそうです。娘さんが言います。「善悪の問題じゃない。(家族は)そばにいることが大事」妻は離婚を口にします。「あなたは、一線を超えると戻れない(人です)」夫は「オレたちどうかなってしまったんだ(夫はアルコールに逃げます)」
見る側の立場として、ここまでの展開は読めます(予測できます)
娘さんがぽつりと言います。「前みたいな家族に戻りたい」
父親が息子に謝って丸く収まるかと思いましたがそうはいきません。
貧困を扱った映画として韓国映画の「パラサイト」が思い浮かびました。家族の貧困に関してはこの映画とは、異なる表現手法がとられています。「貧困」は映画の素材のひとつなのでしょう。
創作作品ですので、そのつもりで観ています。暴力、衝突、破綻(はたん)。どうまとめるのだろう。
息子さんの演技は淡白でしたが、だんだん強みを増してきました。家族の鍵を握る役どころです。
交通事故になりそうです。自動車保険で借金を支払う気なのかと思いましたがそうではありませんでした。父親はクレイジーです。仕事キチガイになってしまいました。近いうちに心身を壊すでしょう。
仕事というものは命を縮めるもの。命を削りながら命をお金に変えていくもの。それぐらいの気持ちでいないとお金は手に入らない。それは事実だと思います。夫の会社の上司マロニーが悪役のような扱いで出てきますが、あれぐらい仕事に打ち込む人はいくらでもいます。そういう人がいないと組織が成り立たないのも事実です。二十四時間、頭の中は仕事のことでいっぱいというような気持でいなければ、大金は手に入りません。
ここまでの経過をみて「破壊」で終わったらこの映画はダメだ!と思いながら結末を待ちました。
中途半端に終わりました。観た人に結末をそれぞれつくってもらう方式です。ちょっと残念。されど、家族関係のありかたを考えるのにはいい映画です。自分はこれからどのような未来を選択するのかと考えさせられます。選択は自由です。強制はありません。
リッキー:夫。不況で建設会社を離職して、個人事業主形式の宅配ドライバーにつく。(フランチャイズ:会社の看板等の使用権をもらって対価を払う。車両は自己負担。車の維持費も自己負担)
アビー:妻。訪問介護ヘルパー
セブ:長男。高校三年生ぐらいに見えます。
ライザ:長女。中学一年生ぐらいに見えます。
生活臭が強そうな始まりのシーンです。「生活保護は?」「イヤだ。オレにもプライドがある。飢えたほうがマシだ」
1ポンドが147.90円ぐらいとして、
中古の配達用の車が、14,000ポンド=2,070,600円
中古の車の毎月のローンが、400ポンド=59,160円
中古の車の購入手付金が、1000ポンド=147,900円
夫の一日の予想収入額が、155ポンド=22,924円
夫婦は、妻が介護ヘルパーとして使っている妻の車を売却して、夫の宅配用のワンボックスカーを購入します。妻はバスで介護するお宅へ行きます。不便でとても困るようになりました。
夫は、一日14時間、週に6日間働きます。妻は、朝7時半から夜9時まで働きます。こどもはほったらかしになります。家族をつなぐのは携帯電話です。
夫は、おそらくリーマンショックで失ったであろうマイホームを再び手に入れたい。強引な父親です。家族関係がどんどん崩壊していきます。(銀行の取り付け騒ぎ:預金引き出し停止騒ぎ。最悪の場合銀行が倒産する)
おそらく夫は、まじめできちんとした性格の人なのでしょう。だから、うまくいきません。家族のためによかれと思って一生懸命やっているのですが、どんどん悪い方向へと導かれていきます。努力が報われません(むくわれません)。これは本人の責任「自己責任」というよりも社会システムがうまくいっていないからです。
子どもの養育がうまくいきません。
OBK(オービーケー)なるものを息子が主張します。アウト バック クルー 恵まれない子を支えるという意味だそうですがピンときません。(こどもたちの嘘ですが)放送大学と警察がからんだ学校のプロジェクトだそうです。
グラフィティ:落書き。息子がグループをつくってスプレー落書きをします。
荒れた学生の様子をみていると去年読んだイギリス現地での生活に関する記述作品「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」ブレイディみかこ著を思い出します。著者の夫もまたダンプですが運転手が職業です。
教育とお金の話が出ます。教育にお金がかかる。
妻の介護ヘルパーの仕事も大変です。妻の言葉として「自分の母親だと思って世話をするのがマイルール」ただ、どこかで線引きをしないと親族でもないのに共倒れになりそうな仕事ぶりです。厳しい。イギリスも長寿社会なのか。そして、お金がほしい話です。
富む者と富まない者との格差が大きい。イギリスは、経済力が上位のような印象があるのですが意外です。
夫婦の会話です。「こんなに苦労するとはな。なにもかもうまくいかない」「(眠っていて夢の中で)こどもたちが助けてくれようとするけれど無理」
映像を観ていて考えたことです。「携帯電話」ってなんだろう。昔はありませんでした。それも、三十年ぐらい前はまだ社会に普及していませんでした。その当時は、業務用のみに使用するものだと思っていました。肩からぶらさげるかなりでかい箱型の携帯電話でした。
人は携帯電話なしで千年以上何百年間もちゃんと生活をしていました。なんだか世界が狭くなって、コンビニと大型ショッピングセンターと各種カードとインターネットの世界に、人の生活は囲まれてしまいました。
映画では、家族四人が携帯電話を使用するシーンがたくさん出てきます。
「携帯電話」って何だろう。重ねてになりますが、昔はなかったけれどちゃんと生活できていました。携帯電話とは、人間を束縛(そくばく。しばりつける)するもの。とくに仕事場からはがんがん仕事の電話がかかってきます。携帯電話依存症という社会問題となるような病気です。
この映画での夫婦は、携帯電話の奴隷になっています。深刻で暗い。救いようがないように見えます。とくに親子関係の修復には永い歳月がかかりそうです。娘さんが言います。「善悪の問題じゃない。(家族は)そばにいることが大事」妻は離婚を口にします。「あなたは、一線を超えると戻れない(人です)」夫は「オレたちどうかなってしまったんだ(夫はアルコールに逃げます)」
見る側の立場として、ここまでの展開は読めます(予測できます)
娘さんがぽつりと言います。「前みたいな家族に戻りたい」
父親が息子に謝って丸く収まるかと思いましたがそうはいきません。
貧困を扱った映画として韓国映画の「パラサイト」が思い浮かびました。家族の貧困に関してはこの映画とは、異なる表現手法がとられています。「貧困」は映画の素材のひとつなのでしょう。
創作作品ですので、そのつもりで観ています。暴力、衝突、破綻(はたん)。どうまとめるのだろう。
息子さんの演技は淡白でしたが、だんだん強みを増してきました。家族の鍵を握る役どころです。
交通事故になりそうです。自動車保険で借金を支払う気なのかと思いましたがそうではありませんでした。父親はクレイジーです。仕事キチガイになってしまいました。近いうちに心身を壊すでしょう。
仕事というものは命を縮めるもの。命を削りながら命をお金に変えていくもの。それぐらいの気持ちでいないとお金は手に入らない。それは事実だと思います。夫の会社の上司マロニーが悪役のような扱いで出てきますが、あれぐらい仕事に打ち込む人はいくらでもいます。そういう人がいないと組織が成り立たないのも事実です。二十四時間、頭の中は仕事のことでいっぱいというような気持でいなければ、大金は手に入りません。
ここまでの経過をみて「破壊」で終わったらこの映画はダメだ!と思いながら結末を待ちました。
中途半端に終わりました。観た人に結末をそれぞれつくってもらう方式です。ちょっと残念。されど、家族関係のありかたを考えるのにはいい映画です。自分はこれからどのような未来を選択するのかと考えさせられます。選択は自由です。強制はありません。
2021年03月13日
大統領の料理人 フランス映画DVD
大統領の料理人 フランス映画DVD 2013年日本公開
出だしは南極の風景です。
2009年公開の邦画「南極料理人」を思い出しました。
可もなく不可もなく普通のドラマ映画でした。
うまくいかないトラブルめいたものは、物語ですので、つくったものでしよう。
フランスの風景を楽しめました。
また、現地なのかどうかわかりませんが、南極の風景も良かった。緑の草原のようなものが広がる風景で、そういえば南極は北極のように氷原ではなく、大陸だったと思い出させてくれました。
ミッテランフランス大統領の大統領専属のシェフだった女性のお話です。二年間の出来事です。その後、南極観測隊の料理人の仕事に転職されています。実話に基づく伝記映画だそうです。
システムとして、おおぜいのお客さまに料理をお出しする「主厨房(しゅちゅうぼう)」なるものがあって、いちどに3000食ぐらいを用意するのです。主人公の女性オルタンス・ラボリはそちらの担当ではなく、大統領とその親族関係者などに少ない食数をつくる料理人で主厨房とは別チームです。類似業種の職場で、ふたつの組織があるとそれなりに対立します。
場違いなところに配置された女性料理人の熱闘があります。大統領においしいものを食べてもらおうと一生懸命です。大統領からの要望として、シンプルな料理をつくってほしい。素材の味を感じることができる料理を食べたい。自分の祖母がつくってくれたような料理がいい。
おいしそうで、見た目も美しい料理が並びます。
良かったセリフなどとして、
「わたしは、大統領が食べる料理をつくるためにここに来た(パリにある大統領官邸であるエリゼ宮殿にて)」
分量は正確にという雰囲気の中で「料理人は会計士ではなく芸術家よ」「(大統領の健康維持のための制限をいろいろと並べられて)栄養士なんかくそっくらえよ!」
(いい素材を手に入れるための経費がかさばっていることを指摘されて)「無駄遣いはしていません」
サントノレ:フランス菓子。特別なときに出す。シュークリーム
味見のようすは、芸能人格付けチェックで連勝を重ねているGACKTさんのようなシーンでした。
逆境は、香辛料だというたとえ話がありました。
曲「ほたるの光」は世界的なお別れの歌で、再会を待つ歌であることがわかりました。
仕事というものは地味で目立たないもの。
トリュフ:キノコ 香りを楽しむ
出だしは南極の風景です。
2009年公開の邦画「南極料理人」を思い出しました。
可もなく不可もなく普通のドラマ映画でした。
うまくいかないトラブルめいたものは、物語ですので、つくったものでしよう。
フランスの風景を楽しめました。
また、現地なのかどうかわかりませんが、南極の風景も良かった。緑の草原のようなものが広がる風景で、そういえば南極は北極のように氷原ではなく、大陸だったと思い出させてくれました。
ミッテランフランス大統領の大統領専属のシェフだった女性のお話です。二年間の出来事です。その後、南極観測隊の料理人の仕事に転職されています。実話に基づく伝記映画だそうです。
システムとして、おおぜいのお客さまに料理をお出しする「主厨房(しゅちゅうぼう)」なるものがあって、いちどに3000食ぐらいを用意するのです。主人公の女性オルタンス・ラボリはそちらの担当ではなく、大統領とその親族関係者などに少ない食数をつくる料理人で主厨房とは別チームです。類似業種の職場で、ふたつの組織があるとそれなりに対立します。
場違いなところに配置された女性料理人の熱闘があります。大統領においしいものを食べてもらおうと一生懸命です。大統領からの要望として、シンプルな料理をつくってほしい。素材の味を感じることができる料理を食べたい。自分の祖母がつくってくれたような料理がいい。
おいしそうで、見た目も美しい料理が並びます。
良かったセリフなどとして、
「わたしは、大統領が食べる料理をつくるためにここに来た(パリにある大統領官邸であるエリゼ宮殿にて)」
分量は正確にという雰囲気の中で「料理人は会計士ではなく芸術家よ」「(大統領の健康維持のための制限をいろいろと並べられて)栄養士なんかくそっくらえよ!」
(いい素材を手に入れるための経費がかさばっていることを指摘されて)「無駄遣いはしていません」
サントノレ:フランス菓子。特別なときに出す。シュークリーム
味見のようすは、芸能人格付けチェックで連勝を重ねているGACKTさんのようなシーンでした。
逆境は、香辛料だというたとえ話がありました。
曲「ほたるの光」は世界的なお別れの歌で、再会を待つ歌であることがわかりました。
仕事というものは地味で目立たないもの。
トリュフ:キノコ 香りを楽しむ
2021年03月12日
ムンジャクンジュは毛虫じゃない 岡田淳
ムンジャクンジュは毛虫じゃない 岡田淳 偕成社文庫
本のカバーの絵を見ると、「ムンジャクンジュ」は赤い花が咲く植物のようです。(あとでわかったのですが、赤い花はクロヤマソウと名付けられ、クロヤマの頂上に咲く花です。そして、ムンジャクンジュは生き物でした)
1979年(昭和54年)の作品です。初めて読みます。
58ページまで読んだところで、タイトルを間違って読んでいたことに気づきました。「ムンジャクンジャ」だと思い込んで読んでいました。「ムンジャクンジュ」でした。
ムンジャクンジュとは、生き物に、三人の小学五年生が相談して付けた名前です。ムンジャクンジュは、虫のようなあるいは、小動物のような生き物で、最初は米粒ほどの大きさだったのですが、58ページを読んでいる今は、ハトぐらいまで大きく育ちました。そして、ムーンとか、クーンと鳴くところからムンで、毛むくじゃらだからジャクンジュだそうです。読みながら感想を付け足していきます。
木造二階建て、元校舎のアパート「オリーブ荘」に住む三人のこどもたちです。
福田克彦:メガネ。父が中学の理科教師。福田克彦は、花や虫が好き。
新井稔:福田克彦の友だち。
山田良枝:五月に福田たちが通う学校に転校してきた。最初は自分のからに閉じこもっていた。親はどうも自営していた会社が倒産したらしく夜逃げのようにして引っ越してきたもようです。
きれいなオレンジ色の花クロヤマソウを絶滅するまでとりつくす人間を本の中で見ていて思ったことです。人間は自己満足する生き物で、人間の欲望は限度を知らない。この世には、破壊行為をする人間と破壊から何かを守ろうとする人間がいて、その間に多数の無関心な人間がいる。おおまかにいって、人間の性質は三種類に分けられる。
クロヤマという架空の山の素材になった実際にある山のモデルを考えています。
静岡県伊豆の伊東市にある「大室山(おおむろやま)」熊本県阿蘇にある「米塚(こめづか)」韓国済州島(チェジュとう)にある「城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)」が思い浮かびました。
クロヤマソウのイメージは、ヒガンバナですが、はなびらは、厚くて大きい。
ムンジャクンジュのことを書きます。毛や目は、リスかモルモットのようだそうです。(いったいこの生き物はなんなのだろう?)
ムンジャクンジュは、クロヤマソウのはなびらを食べます。22日間分のはなびらを三人の小学生は手にしています。
蝶々の幼虫のアオムシは、半世紀前は学校帰りにあったキャベツ畑でよく見かけたものです。今はどうなのかは知りませんが、通学途上のこどもがアオムシを見る機会は減っているような気がします。
ところで63ページまできましたが、ムンジャクンジュの正体はまだわかりません。ネコぐらいの大きさまで育ちました。
鳴く、まばたきする。足がない。つのはある。黒い毛が生えている。ナメクジみたい。呼べば来る。フンをしない。25時間おきに餌のクロヤマソウの花びらを倍々の法則の量で食べる。そんな生き物がいるのだろうか。
なにかしら、転校してきた同級生である山田良枝を下の名前「よしえちゃん」と呼ぶことで、福田克彦と新井稔のふたりの男子に芽生えているものがあります。
ムンジャクンジュがだんだん大きくなってきて、三人だけでは育てることがむずかしくなってきました。福田克彦がいいアイデアを思いついて実行に移します。仲間募集です。
秘密事項を共有することで、集団の協力関係が築かれていきます。
クロヤマソウの価格が上がります。需要と供給のバランスで価格が決まってきます。
どうしてだか、ムンジャクンジュは、体が大きくなるのに、体重は軽くなります。
そして、ぬいぐるみみたいなムンジャクンジュとこどもたちとのスキンシップが始まりました。
飛ぶというよりも浮くという感覚のムンジャクンジュの体です。UFO(ユーフォー 宇宙船)みたいな動きです。山田良枝が疑問点を指摘します。「なんのために飛ぶのか」
山田良枝は、ムンジャクンジュの成長とともに孤独を抜け出して友だち関係の輪と和が広がってきました。
137ページ付近を読んでいます。ムンジャクンジュとの別れが近づいている感覚があります。
(その後)
読み終えました。クライマックスは盛り上がりました。餌が足りれば「クーン」と鳴く。足りなければ「ムーン」と鳴く。そしてムンジャクンジュは「ムーン」と鳴きました。
ラストはさわやかでした。お見事でした。1979年(昭和54年)の作品ですが初めて読みました。今年読んで良かった一冊です。
あとがきを読むと、完成までに五年間もかかった作品だそうです。
壮大なほら話なのですが、おとなたちの私利私欲に走る姿は今も変わりません。ムンジャクンジュが、クマやイノシシのように野生の人間に危害を与えるかもしれない生き物だったら殺処分されていたのでしょう。
読んでいて、最終的に地球上で絶滅するのは、野生動物や植物ではなく、物欲の固まりで自分のことしか考えないわがまま勝手な人間のほうではないかと思った次第です。
こどものころに観た「モスラ」を思い出させてくれます。
怪獣映画です。
こどもたちに育てられていたムンジャクンジュはやがて自立とか自活していこうとします。こどもがおとなになるようなものだなと思いながら読み続けました。
今の時代だったら、ムンジャクンジュをスマホで撮影して動画が拡散するのでしょう。40年ぐらい前はそんなことはできませんでした。
また、あとがきなどを読むと、本作品の原稿は手書きで原稿用紙220枚だそうです。今だとパソコンソフトのワードでつくるのでしょう。
時代をふりかえると、自治体の組織としての「町」が減りました。合併で「市」になったところが多い。あわせて、個人商店は生き残りが厳しい。大型スーパー化、自営業の後継ぎ不足もあります。
急速に世の中のありようが変わってきています。
それらがいいことなのか、そうでないのかは別の問題で、各個人で対応していくことになるのでしょう。どこに価値を求めるかの選択です。
物語の中には40年前の日本人の暮らしがあります。読み終えて、これからさき40年後の日本人の暮らし方はどうなっているのだろうかと思いを巡らしました。変わることもあれば変わらないこともあるでしょう。
ムンジャクンジュ自体はなにも考えていません。まわりにいる人間たちがあれこれ考えています。
野生動物に手を出してはいけないというのが基本的な考え方なのでしょう。物語にも出てきますが、ああだこうだと苦情を言い立てる人は偽善者なのでしょう。偽善者は自分はやらずに人にやらせようとします。
調べた言葉などとして、
とりつくしまもない:冷たい態度をとられる。けんもほろろ
デコラばり:化粧板。表面が加工してある。
ネコジャラシ:エノコログサ
マツヨイグサ:黄色い花を咲かせる。
オリオン座:48星座のひとつ。冬の星座
本のカバーの絵を見ると、「ムンジャクンジュ」は赤い花が咲く植物のようです。(あとでわかったのですが、赤い花はクロヤマソウと名付けられ、クロヤマの頂上に咲く花です。そして、ムンジャクンジュは生き物でした)
1979年(昭和54年)の作品です。初めて読みます。
58ページまで読んだところで、タイトルを間違って読んでいたことに気づきました。「ムンジャクンジャ」だと思い込んで読んでいました。「ムンジャクンジュ」でした。
ムンジャクンジュとは、生き物に、三人の小学五年生が相談して付けた名前です。ムンジャクンジュは、虫のようなあるいは、小動物のような生き物で、最初は米粒ほどの大きさだったのですが、58ページを読んでいる今は、ハトぐらいまで大きく育ちました。そして、ムーンとか、クーンと鳴くところからムンで、毛むくじゃらだからジャクンジュだそうです。読みながら感想を付け足していきます。
木造二階建て、元校舎のアパート「オリーブ荘」に住む三人のこどもたちです。
福田克彦:メガネ。父が中学の理科教師。福田克彦は、花や虫が好き。
新井稔:福田克彦の友だち。
山田良枝:五月に福田たちが通う学校に転校してきた。最初は自分のからに閉じこもっていた。親はどうも自営していた会社が倒産したらしく夜逃げのようにして引っ越してきたもようです。
きれいなオレンジ色の花クロヤマソウを絶滅するまでとりつくす人間を本の中で見ていて思ったことです。人間は自己満足する生き物で、人間の欲望は限度を知らない。この世には、破壊行為をする人間と破壊から何かを守ろうとする人間がいて、その間に多数の無関心な人間がいる。おおまかにいって、人間の性質は三種類に分けられる。
クロヤマという架空の山の素材になった実際にある山のモデルを考えています。
静岡県伊豆の伊東市にある「大室山(おおむろやま)」熊本県阿蘇にある「米塚(こめづか)」韓国済州島(チェジュとう)にある「城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)」が思い浮かびました。
クロヤマソウのイメージは、ヒガンバナですが、はなびらは、厚くて大きい。
ムンジャクンジュのことを書きます。毛や目は、リスかモルモットのようだそうです。(いったいこの生き物はなんなのだろう?)
ムンジャクンジュは、クロヤマソウのはなびらを食べます。22日間分のはなびらを三人の小学生は手にしています。
蝶々の幼虫のアオムシは、半世紀前は学校帰りにあったキャベツ畑でよく見かけたものです。今はどうなのかは知りませんが、通学途上のこどもがアオムシを見る機会は減っているような気がします。
ところで63ページまできましたが、ムンジャクンジュの正体はまだわかりません。ネコぐらいの大きさまで育ちました。
鳴く、まばたきする。足がない。つのはある。黒い毛が生えている。ナメクジみたい。呼べば来る。フンをしない。25時間おきに餌のクロヤマソウの花びらを倍々の法則の量で食べる。そんな生き物がいるのだろうか。
なにかしら、転校してきた同級生である山田良枝を下の名前「よしえちゃん」と呼ぶことで、福田克彦と新井稔のふたりの男子に芽生えているものがあります。
ムンジャクンジュがだんだん大きくなってきて、三人だけでは育てることがむずかしくなってきました。福田克彦がいいアイデアを思いついて実行に移します。仲間募集です。
秘密事項を共有することで、集団の協力関係が築かれていきます。
クロヤマソウの価格が上がります。需要と供給のバランスで価格が決まってきます。
どうしてだか、ムンジャクンジュは、体が大きくなるのに、体重は軽くなります。
そして、ぬいぐるみみたいなムンジャクンジュとこどもたちとのスキンシップが始まりました。
飛ぶというよりも浮くという感覚のムンジャクンジュの体です。UFO(ユーフォー 宇宙船)みたいな動きです。山田良枝が疑問点を指摘します。「なんのために飛ぶのか」
山田良枝は、ムンジャクンジュの成長とともに孤独を抜け出して友だち関係の輪と和が広がってきました。
137ページ付近を読んでいます。ムンジャクンジュとの別れが近づいている感覚があります。
(その後)
読み終えました。クライマックスは盛り上がりました。餌が足りれば「クーン」と鳴く。足りなければ「ムーン」と鳴く。そしてムンジャクンジュは「ムーン」と鳴きました。
ラストはさわやかでした。お見事でした。1979年(昭和54年)の作品ですが初めて読みました。今年読んで良かった一冊です。
あとがきを読むと、完成までに五年間もかかった作品だそうです。
壮大なほら話なのですが、おとなたちの私利私欲に走る姿は今も変わりません。ムンジャクンジュが、クマやイノシシのように野生の人間に危害を与えるかもしれない生き物だったら殺処分されていたのでしょう。
読んでいて、最終的に地球上で絶滅するのは、野生動物や植物ではなく、物欲の固まりで自分のことしか考えないわがまま勝手な人間のほうではないかと思った次第です。
こどものころに観た「モスラ」を思い出させてくれます。
怪獣映画です。
こどもたちに育てられていたムンジャクンジュはやがて自立とか自活していこうとします。こどもがおとなになるようなものだなと思いながら読み続けました。
今の時代だったら、ムンジャクンジュをスマホで撮影して動画が拡散するのでしょう。40年ぐらい前はそんなことはできませんでした。
また、あとがきなどを読むと、本作品の原稿は手書きで原稿用紙220枚だそうです。今だとパソコンソフトのワードでつくるのでしょう。
時代をふりかえると、自治体の組織としての「町」が減りました。合併で「市」になったところが多い。あわせて、個人商店は生き残りが厳しい。大型スーパー化、自営業の後継ぎ不足もあります。
急速に世の中のありようが変わってきています。
それらがいいことなのか、そうでないのかは別の問題で、各個人で対応していくことになるのでしょう。どこに価値を求めるかの選択です。
物語の中には40年前の日本人の暮らしがあります。読み終えて、これからさき40年後の日本人の暮らし方はどうなっているのだろうかと思いを巡らしました。変わることもあれば変わらないこともあるでしょう。
ムンジャクンジュ自体はなにも考えていません。まわりにいる人間たちがあれこれ考えています。
野生動物に手を出してはいけないというのが基本的な考え方なのでしょう。物語にも出てきますが、ああだこうだと苦情を言い立てる人は偽善者なのでしょう。偽善者は自分はやらずに人にやらせようとします。
調べた言葉などとして、
とりつくしまもない:冷たい態度をとられる。けんもほろろ
デコラばり:化粧板。表面が加工してある。
ネコジャラシ:エノコログサ
マツヨイグサ:黄色い花を咲かせる。
オリオン座:48星座のひとつ。冬の星座
2021年03月11日
ともだちは海のにおい 工藤直子 長新太・絵
ともだちは海のにおい 工藤直子 長新太・絵 理論社
1984年(昭和59年)の作品です。
章ごとに最初に詩があって、つぎに散文が続きます。詩集のようでもあります。
人情を感じる詩です。(人情:人のなさけ。人への思いやり)
散文を読んでいるときに思い出したのは、若い時に体験したサイパン島からグァム島への夜間飛行です。両島の距離が近いので暗い夜の低空飛行でした。海面のさざなみがジェット機の窓から見えました。夜空には、たくさんの星が出ていました。
海にて、いるかとくじらの出会いがあります。
「海の地図」という詩を読んでいるときには、江戸時代後半の人物伊能忠敬(いのうただたか)を思い出しました。たしかご本人は73歳で亡くなって三年後の1821年に日本地図が完成でした。明治時代は1868年からです。
本のお話しのほうは、空想物語です。歌を聴いているようでもあります。
いるかの家で、いるかはトレーニングに精を出します。
くじらは本読みが好きで、ときどき小説を書きます。
くじらは『かなり』本を読みます。いるかは『かなり』訓練を積んでいます。
いるかは、くじらの口の中にある書斎を見に行きます。
友情というよりも愛情、友だちというよりも恋人、児童文学というよりも大人向けな感じです。ふたりは、優しい祖父母と孫の関係のようでもある。
海の状態を、とくに海面を、ていねいに観察してある印象です。
魅力的な文節として「くじらは陸を泳ぎたいと思った」
これに対しているかが「泳ぐんじゃなくて、あるくんだ」
くじらはフランスパリ旅行へ出かけました。
フランス語の単語がいっぱい出てきます。サバ?(元気?とか大丈夫?とか)ムッシュ(男性への敬称)トレビアン(すばらしい)メルシー(ありがとう)ボンジュール(こんにちは)マダム(女性への敬称)
くじらは、体は大きいけれど女子に思えます。いるかは逆にからだは小さいけれど、男子に思えます。
文脈が優しい。悪い人は出てこない。(169ページと170ページに、「わるもの」は書けないんだという作者の本音が書いてあります)
245ページのうちの87ページまで読んできて、ちょっと飽きてきましたが、続けて読んでみます。
チャコールグレー:黒に近い灰色
くじらといるか以外に、いかとか、ちょうちょう、ウミガメ、カモメ、が出てきます。
本の中では、くじらはくじら、いるかはいるかと表現されますが、個体の名前があったほうがいいような。くじらのくーさんとか、いるかのいっちゃんとか。そのほうが、愛情が湧きます。
情景描写の文章が優れています。言葉が輝いています。
文章にリズム感があります。
「いいよ。ほいさ」「いくぞ。せえの」「いいよ。ほいさ」
くじらといるかには、親も兄弟姉妹も、もちろんおじいちゃんもおばあちゃんもいません。
設定では、くじらもいるかも男子ですが、読み手のわたしにはそうは思えません。くじらは女子で、いるかは男子に思えます。
このあと、それぞれが、お嫁さんを探そうという話になるのですが、三角関係のきざしがあり、読んでいるとなにかしら危機が迫っているような感じがするのです。
こども向けのお話ですが、ビールを飲みたい話がたびたびでてきて、こどもはアルコールを飲めないのに不思議です。
海が身近にあって、海が好きな人の本です。
よかったセリフなどとして、
「あしたいるところにはな、こほん、あしたつけばいいのじゃよ。」(ウミガメのセリフです。上品な笑いが楽しい)
「ぼく、泳いだんだ。ながれ星みたいに」
「彼らは「本という海」のなかで泳いでいるのですが……」
調べた言葉などとして、
(サーフィンの)キックターン:うしろ足でボードを押し出す。
同じく、ノーズライディング:サーフボードの先端に両足で立つ
ピコット編み:かぎ針編みの基本的な編み方
1984年(昭和59年)の作品です。
章ごとに最初に詩があって、つぎに散文が続きます。詩集のようでもあります。
人情を感じる詩です。(人情:人のなさけ。人への思いやり)
散文を読んでいるときに思い出したのは、若い時に体験したサイパン島からグァム島への夜間飛行です。両島の距離が近いので暗い夜の低空飛行でした。海面のさざなみがジェット機の窓から見えました。夜空には、たくさんの星が出ていました。
海にて、いるかとくじらの出会いがあります。
「海の地図」という詩を読んでいるときには、江戸時代後半の人物伊能忠敬(いのうただたか)を思い出しました。たしかご本人は73歳で亡くなって三年後の1821年に日本地図が完成でした。明治時代は1868年からです。
本のお話しのほうは、空想物語です。歌を聴いているようでもあります。
いるかの家で、いるかはトレーニングに精を出します。
くじらは本読みが好きで、ときどき小説を書きます。
くじらは『かなり』本を読みます。いるかは『かなり』訓練を積んでいます。
いるかは、くじらの口の中にある書斎を見に行きます。
友情というよりも愛情、友だちというよりも恋人、児童文学というよりも大人向けな感じです。ふたりは、優しい祖父母と孫の関係のようでもある。
海の状態を、とくに海面を、ていねいに観察してある印象です。
魅力的な文節として「くじらは陸を泳ぎたいと思った」
これに対しているかが「泳ぐんじゃなくて、あるくんだ」
くじらはフランスパリ旅行へ出かけました。
フランス語の単語がいっぱい出てきます。サバ?(元気?とか大丈夫?とか)ムッシュ(男性への敬称)トレビアン(すばらしい)メルシー(ありがとう)ボンジュール(こんにちは)マダム(女性への敬称)
くじらは、体は大きいけれど女子に思えます。いるかは逆にからだは小さいけれど、男子に思えます。
文脈が優しい。悪い人は出てこない。(169ページと170ページに、「わるもの」は書けないんだという作者の本音が書いてあります)
245ページのうちの87ページまで読んできて、ちょっと飽きてきましたが、続けて読んでみます。
チャコールグレー:黒に近い灰色
くじらといるか以外に、いかとか、ちょうちょう、ウミガメ、カモメ、が出てきます。
本の中では、くじらはくじら、いるかはいるかと表現されますが、個体の名前があったほうがいいような。くじらのくーさんとか、いるかのいっちゃんとか。そのほうが、愛情が湧きます。
情景描写の文章が優れています。言葉が輝いています。
文章にリズム感があります。
「いいよ。ほいさ」「いくぞ。せえの」「いいよ。ほいさ」
くじらといるかには、親も兄弟姉妹も、もちろんおじいちゃんもおばあちゃんもいません。
設定では、くじらもいるかも男子ですが、読み手のわたしにはそうは思えません。くじらは女子で、いるかは男子に思えます。
このあと、それぞれが、お嫁さんを探そうという話になるのですが、三角関係のきざしがあり、読んでいるとなにかしら危機が迫っているような感じがするのです。
こども向けのお話ですが、ビールを飲みたい話がたびたびでてきて、こどもはアルコールを飲めないのに不思議です。
海が身近にあって、海が好きな人の本です。
よかったセリフなどとして、
「あしたいるところにはな、こほん、あしたつけばいいのじゃよ。」(ウミガメのセリフです。上品な笑いが楽しい)
「ぼく、泳いだんだ。ながれ星みたいに」
「彼らは「本という海」のなかで泳いでいるのですが……」
調べた言葉などとして、
(サーフィンの)キックターン:うしろ足でボードを押し出す。
同じく、ノーズライディング:サーフボードの先端に両足で立つ
ピコット編み:かぎ針編みの基本的な編み方