2021年02月12日

吾輩は猫である 夏目漱石

吾輩は猫である 夏目漱石 上・下 集英社文庫

 1904年(明治37年)夏目漱石さん37歳のときの作品です。読むのは初めてです。(その後:2012年に読んでいたことが判明しました。加齢でだんだん記憶喪失が始まっているようです。とほほ)

 猫:名前はない。教師の家にいる。自分を「吾輩(わがはい)」と称する。
 (吾輩猫の主人)珍野苦紗弥(ちんのくしゃみ)先生:教師。たぶん夏目漱石さんのこと。ネコの目を通して、自分で自分を見る手法です。
 主人のこども:5才と3才
 おさん:下女
 白君(しろくん):近所の猫。軍人の家にいる。
 三毛君(みけくん):近所の猫。代言(だいげん。弁護士)の家にいる。
 三毛子:二弦琴(にげんきん。弦楽器。弦が二本)の御師匠さんの家にいる。
 黒君:別名として大王(だいおう)、近所の猫。車屋の猫。黒猫。吾輩の二倍ぐらいの体格をしている。
 水島寒月(みずしま・かんげつ):珍野苦紗弥の教え子。理学士
 越智東風(おち・とうふう):水島寒月の友人。詩人
 御三(おさん):下女の通称
 迷亭(めいてい):美学者
 牧山男爵:迷亭の伯父
 甘木先生:医者。動物である猫も診るらしい。
 鼻子:角屋敷の金田夫人。鼻子は吾輩猫が付けた名前。夫人の鼻は大きい。いばっている。
 富子(とみこ):金田宅の令嬢
 鈴木藤十郎:実業家。金田夫妻の手下。猫の主人である珍野苦紗弥(ちんのくしゃみ)先生の同窓生
 多々良三平:佐賀県唐津なまりの九州弁で話す。鈴木藤十郎の後輩。法科大学(東大法学部)を卒業して、現在はある会社の鉱山部所属。九州の炭鉱担当
 御夏(おなつ):下女
 雪江:苦紗弥先生の姪。お嬢さん。美人ではない。17歳ぐらい。
 古井武右衛門(ふるい・ぶえもん):旧制文明中学校の生徒
 浜田兵助(はまだ・へいすけ):旧制文明中学校の生徒
 遠藤:旧制文明中学校の生徒
 八木独仙(やぎ・どくせん):猫の主人である珍野苦紗弥(ちんのくしゃみ)先生の同窓生
 
 現代文学創作手法の下地が、明治時代につくられたこの作品にあります。
 動物を登場人物とする。擬人法を用いる。ユーモアをからませる。
 文章にリズムがあります。この作品は「坊ちゃん」よりはリズムを抑え気味ですが、文章のリズム感というものは、生まれ持った才能のなせる技(わざ)だと思っています。
 吾輩と名のる猫が食べたお餅が口の中でひっかかって苦しみます。下女にとってもらって助かりました。
 明治時代の言葉が多く、すっきりと意味を把握できません。
 江戸時代の話も多い。天璋院:てんしょういん。篤姫(あつひめ)鹿児島薩摩藩島津家から徳川家定に嫁いだ。
 現在の文京区本郷東京大学周辺の記事が多い。地名としてわかるのは、上野公園、浅草寺、水道橋、巣鴨、忠臣蔵の泉岳寺、神奈川県大磯ぐらい。
 自分の読み方がまずいのか「吾輩」という猫の語りが、いつのまにか苦紗弥(くしゃみ)先生の語りに変わったような文体の変化があります。この物語は初めて読みますがむずかしい。
 明治時代の日常風俗記録です。もう120年ぐらい前のことなので、読んでいてもわからないこと、理解できないことが多い。案外むずかしい本です。
 学術関係者のヨーロッパに関する文化とか学問の話が多い。大昔の中国、ギリシャ神話とか、ヨーロッパの学者とか絵描きとか、日本だと落語とか。
 車夫の苦紗弥(くしゃみ。夏目漱石のこと)先生評価コメントがおもしろい。本の世界しか知らない変人だ。自分のこどもたちの年齢は知らない。
 自問自答のような会話が続きます。
 書いてあることが理解できないので、目で字を追うだけの読書になってしまっています。あきらめて、流し読みに入ります。
 泥棒の話が出てきました。
 株の話も出てきました。
 ものすごい量の文章量です。文字がびっしり並んでいます。病的でもあります。自分と会話をしている。頭の中に知識が満タンです。
 猫になった気持ちに立って読まねばなりません。
 本当かウソかわかりませんが、江戸時代末期、明治維新のこととして、二歳ぐらいの女の子が天秤棒のかごに乗せられて売られています。人身売買です。昔はこどもには人権がなく、家畜のように労働力として扱われていたということはなにかの本で読んだことがあります。事実なのでしょう。物語の中では、明治三十八年の今は、そういうことはしていないというふうに書いてあります。
 この本は、内容を理解して読み込むには、かなりの労力と時間を要します。ちょっとそこまでする気にはなれません。

 落雲館:旧制中学校
 野球のボールが先生宅に飛び込んでくるので生徒たちとトラブルになったとか、催眠術の話とか。

 下巻の56ページ「9」あたりから読みやすくなりました。とはいえ、理解できない単語がまだまだ出てきます。思うに、現代人と明治時代の人間は、同じ日本人ですが、今お互いに出会ったとしても会話が成り立ちにくい気がします。さらに方言が出てくるとなおさら通じない外国語のようなものになるのでしょう。

 夏目漱石さんはアトピーだったのだろうか。痘痕(あばた)の話が続きます。

 明治時代のようすが垣間見えます。人はなかなか変われないのに、武家社会から庶民の平等社会へと画期的な変化をみなさんが受け入れています。されど、内心は、攻め寄せる西欧文化に抵抗感もあったのではないか。いま日本では大正時代っぽい鬼滅の刃(きめつのやいば)が流行していますが、あんがいこれからは、明治大正時代を知らない新しい世代に、明治大正の文化が流行するのかもしれません。

 吾輩猫は、ビールを飲んで酔っ払って水がめに落ちて、はいあがることができなくて水死してしまいました。動物も人間も飲みすぎには注意しましょう。猫にとっては自殺行為なのに悲壮感がありません。
 読み終えましたが難儀でした。(なんぎ:意味がわからず苦労しました)

 獰悪(どうあく):乱暴で荒っぽい。
 御三(おさん):下女の通称
 一斤(いっきん):食パンの大きさ。600g
 嚢中(のうちゅう):袋の中
 酒掃薪水(さいそうしんすい):家事のこと。掃除、炊事
 瘧(おこり):発熱、悪寒、震え。こどもに多い病気で、熱病
 白木屋(しろきや):明治時代のデパート
 リードル:英語学習の教科書読本
 吾人(ごじん):わたくし
 髣髴(ほうふつ):想像する。
 エピクテタス:古代ギリシャの哲学者
 斃れる:たおれる。事故や事件で不意に亡くなる。

 (解説部分の感想)
 「石崎等さんの解説」
 夏目漱石さんは、生まれて三歳で養子に出されて、養父母が離婚して、十歳のときに実父母に戻された。されど、戸籍は二十二歳のときに復籍した。こどものころの氏名は塩原金之助、おとなになって夏目金之助、筆名が夏目漱石。そういうことを初めて知りました。
 こどものころ、実の両親を祖父母だと思っていたそうです。
 「吾輩は猫である」の登場人物珍野苦紗弥(ちんのくしゃみ)先生と迷亭が夏目漱石氏の分身だそうです。
 「風刺(社会や人物批判)」が「吾輩は猫である」の主流だそうです。ゆえに、ストーリーがないのかと納得できました。筋書きのない純文学のようでもあるし猫の視点を借りた連続的な論評のようでもありました。解説では「断片的で纏まり(まとまり)がない」とあります。
 調べた言葉などとして、
 パラドックス:いっけん正しそうに見えるけれど不成立なもの(だから読んでいて難しく感じるのかも)
 トーマス・カーライル:1795年-1881年 イギリスの歴史家、評論家。夏目漱石さんが信奉した作家さんだそうです。ゆえに影響を受けている。
 ペシミズム:悲観主義。この世は悲しいという人生観
 ニーチェ:1844年-1900年。ドイツの哲学者

「谷川俊太郎さんの鑑賞」
 文章全体を「牛の涎(よだれ)」と表現されています。同感でほっとしました。
 ご本人はこの作品を読んで「これはいったいなんだ」という感想をもたれたそうです。(これまた共感してほっとしました)  

Posted by 熊太郎 at 07:24Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2021年02月10日

出川哲朗の充電バイクの旅 奄美大島

出川哲朗の充電バイクの旅 鹿児島県奄美大島縦断 2018年4月放送分の再構成

 ゲストは井森美幸さんです。
 「リリーさんの家」は、日本映画「男はつらいよ」を見たことがあればすぐわかります。リリーさんは浅丘ルリ子さんで、奄美大島にある家で寅さんといっしょに暮らして、結婚寸前まで行くのですが結婚はできなかったのです。1995年の第48作。渥美清さんが生きて出演した最後の作品でした。翌年8月に癌で病死されています。

 海はどこまでも青く、自然は豊かで、こどもたちがにぎやかな島です。
 
 映像を観ていたら「島尾敏雄文学碑公園」に矢印が伸びる交通案内看板が出てきました。高校生のときに島尾敏雄作品を読みました。第二次世界大戦がからんだ内容でした。たしか「死の棘(とげ)」というタイトルの小説でした。内容はもう覚えていません。

 路線バスは合図をすればどこでも乗り降りできるようです。小さい地域は小回りがきく利便性があります。

 本番中に、偶然、翌日から登場するゲストの井森美幸さんに出会ってしまった出川哲朗さんです。すっぴんの井森美幸さんのお顔は美しかった。
 
 宿探しに苦労しましたが泊まれて良かった。家に鍵をかけなくてもいいのは、奄美大島という田舎ならではの土地柄でしょう。
 翌日グランドゴルフ大会にお出かけになった宿のご夫婦の姿を見て、幸せってどういう状態をいうのだろうかと考えました。健康であること。安全な地域で安心して暮らしていけること。

 ブルーの海が太陽の光を浴びて美しい。
 マングローブの海でカヌーです。
 淡水と海水のぶつかるところを汽水域(きすいいき)というそうです。

 海岸沿いの道路がしっかり整備されています。トンネル内での井森美幸さんのお顔は、ライトのかげんもあってちょっと怖かった。

 快晴だったのに雨になり、雨だったのに雨があがったり、なかなか気候の変化が激しい一日でした。

 一般のお宅でバイクのバッテリーの充電です。ときおり一般人宅に立ち寄りますが、突然のことであり、いろいろ驚かされます。
 奄美大島の特産らしき柑橘類のタンカンがおいしそうでした。

 「ががんばなの夕日」という場所が良かった。龍の目に夕日が入るそうです。ただわたしには、龍というよりも亀に見えました。それはそれでいいと思います。

 「奄美大島サイコー」の縫田ディレクターのひと声が耳に残りました。  

2021年02月09日

(再鑑賞)シンドラーのリスト

(再鑑賞)シンドラーのリスト アメリカ映画DVD 1994年日本公開

 第二次世界大戦中の東欧にあったゲットー(ユダヤ人を集めた区域)のことを知る日本人の数は少ないと思います。
 途中、白黒映像の中で、そこだけ赤い色の服を着た少女が登場します。少女は、ゲットーの中で身を隠そうとします。以前読んだ「マルカの長い旅」を思い出します。実話であり悲惨なこどもさんの体験話がありました。
 この映画は、人間の血がいっぱい流れるシーンがあるから白黒映像にしてあるのだろうと考えました。

 ユダヤ評議会:ドイツナチスの策略でつくられた組織。ユダヤ人をユダヤ人の代表者によって取り締まらせる。ユダヤ人の怒りを、ユダヤ評議会を構成するユダヤ人に向けさせて、ドイツ人が直接ユダヤ人からの攻撃対象にならないようにする。

 シンドラーの良かったセリフとして「私の担当は宣伝と営業だ。机の上の仕事はにがてだ」
 シュターンという会計士がシンドラーを支えてくれます。

 商人と軍人との贈収賄の世界です。給料以外の金と酒とタバコと宝石とが世の中を動かしています。裁量する権限を物々交換で自由自在に操って私腹をこやす者たちがたくさんいます。

 捕まえたユダヤ人を雇用する。ユダヤ人には人件費がいらない。まるで懲役刑のようです。彼らはシンドラーが設立したお鍋をつくる会社で働きます。拘束はされますが、命は助かります。

 贈収賄でお金が飛びかうわけですが、紙幣・貨幣というものは、国の信用がなくなれば、紙くずです。

 シンドラーに命を助けられた片腕のない老人がシンドラーに「アイ ワーク ハード(シンドラーあなたのために一生懸命働きます」シンドラーが軍人に「ヴェルリ ユースフル(彼は有益な人物です)」されど、その後老人は射殺されてしまいました。それは、シンドラーの人として守るべき道を優先しようという方向への心変わりとなる出来事のひとつでした。

 ドイツ人の態度です。
 自分の気に入らない人間は、問答無用で射殺する。(どうも教育として、ユダヤ人は人間ではない。虫のようなものだという誤った教えがドイツ人の脳にしみこんでいます)
 射殺した人間は、最後には処刑台に立つことになります。やったらやりかえさえるのがこの世の常です。復讐の連鎖はやみません。(ユダヤ人収容所長は絞首刑になります。彼は軍の上層部からの指示に従うことでたまるストレス解消のために無差別にユダヤ人を射殺する行為を続けました)

 シンドラーの言葉として「ゼイ アー マイン(ドイツ軍人に対して、ユダヤ人労働者たちは全部自分のものだ)」
 人を人とも思わないドイツ軍人たちです。ドイツという国は深刻な傷を負っています。
 見ていると、お金よりも自由がほしいという気持ちになります。
 金と物が人命と引き換えになるシーンが、贈収賄行為のシーンです。

 金もうけのことしか考えていなかった悪人のシンドラーが、ユダヤ人迫害の実態を見て、これではいけないと考え直して善人に変化していきます。人としてあるべき姿に目覚めたのです。
 シンドラーの言葉として「(無差別射殺殺人を繰り返すユダヤ人収容所長について)平和なときならあいつも普通の男だった。戦争が人の心を壊している」
 シンドラー氏は、お金や物への執着心が薄れて、ユダヤ人の人命を救おうとします。
 今年観て良かった映画になりました。
 シンドラーは、収容所長を説得します。「理由なく殺す力はパワーではない。パワーとは、正当な理由があるときのものを言う。許すことが本当のパワーだ」
 所長は「許す」ことを覚えました。さわやかな風が収容所内に流れ出しました。されどそれは一時的なものでした。

 俳優さんたちの演技に感心しました。人間以下とされているユダヤ人です。強烈な人種差別があります。スピルバーグ監督は、永久に歴史に残る証拠を映画という形で遺しました。すごい。たくさんの人たちを配置して感動を生み出しました。

 映像でタイプライターを打つ人たちを見て、そういえば自分も就職した若いころ、和文タイプライターを打って事務仕事をしていたと思い出しました。もうそんなことは忘れていました。今は、ノートパソコンのキーボードを叩いています。
 映像のなかにあるシンドラーの片腕の事務員シュターンはタイプライターを打ち続けます。打っているのが「シンドラーのリスト」です。命が救われるユダヤ人の人たちの名前です。何千人という単位の人数です。
 見ていると日本人外交官だった杉浦千畝(すぎうらちうね)さんの偉業が光っていたことがわかります。同氏もまたたくさんのユダヤ人の命を助けました。

 戦争というものの異常さを浮き彫りにしてあります。法令でむやみな殺人をやめさせて命を守ることが必要です。

 途中、ドイツ兵の拳銃が壊れていて射殺行為ができなかったシーンがありました。あれはもしかしたら、シンドラーが自社製品の拳銃で人殺しができないように発射能力がない拳銃をわざとドイツ軍に納品していたからではないかと想像しました。

 シンドラーはユダヤ教の祈りの儀式を保証しました。「信仰の自由」があります。
 最後に収容されていた人たちは解放されました。「移動の自由」があります。

 シンドラーはなんども「(自分の)努力が足りなかった」とくりかえします。彼は全財産を使ってユダヤ人の命を買い取るように軍人に賄賂(わいろ)を贈り続けました。されど、そのことの大事さに気づく前の彼にはもっと金や物があった。その金と物を使えば救えた命がもっとあったと後悔します。
 ひとつの命を救える者が世界を救えるというメッセージが流れます。

 映画監督の地位は高い。  

2021年02月08日

(再読)坊ちゃん 夏目漱石

(再読)坊ちゃん 夏目漱石 集英社文庫

 昨年読んだある本の中で、夏目漱石作品は発表された当時はいい評価をされなかったが、何十年間もの時を経て高評価されるに至った。逆に坊ちゃんが発表されたころにちやほやされた小説家は、今はもう消滅して名も残っていないというような文章を読みました。優れた作品は年月をくぐりぬけても不死鳥のように生き続けるのでしょう。
 本棚の整理をしていたらこの本が出てきたので、1980年ごろに訪れたことがある四国愛媛県松山市の風景を思い出しながら読んでみました。

 夏目漱石氏は明治維新の前年に生まれているので、明治の年号イコール同氏の年齢にあたりわかりやすい。
 1895年(明治28年)28歳。東京から愛媛県松山へ。松山中学赴任
 1896年(明治29年)29歳。熊本へ。第五高等学校講師赴任
 1900年(明治33年)33歳。英語研究のために英国留学。1903年(明治36年)帰国。36歳
 1905年(明治38年)38歳。「吾輩は猫である」を発表
 1906年(明治39年)39歳。「坊ちゃん」を発表
 1908年(明治41年)41歳。「三四郎」を発表
 1909年(明治42年)42歳。「それから」
 1910年(明治43年)43歳。「門」を発表
 1914年(大正3年)47歳。「こころ」を発表
 1916年(大正5年)49歳。胃潰瘍で病死
 
 作品「坊ちゃん」では、はなはだ無鉄砲でやんちゃな主人公の坊ちゃんです。
 冒頭の文章の雰囲気が、リリー・フランキー作「東京タワー」に似ています。勝手な推測ですが、リリー・フランキーさんは、もしかしたら「坊ちゃん」を意識して東京タワーを書かれたのかもしれません。
 主人公の坊ちゃんは、母を病気で亡くして、父と兄と自分との男三人で生活してきたそうです。十年来雇っていた清(きよ)という下女に、母親のように優しくしてもらった主人公です。「清はなんと言っても賞めてくれる(ほめてくれる)」とあります。
 明治18年のころの600円の価値:1円が3800円ぐらい。600円は、228万円。
 物理学校(のちの東京理科大学)の学生だった主人公は、父親が死んで仲の良くなかった兄から600円を相続ということでもらいました。兄弟仲が悪かったので、手切れ金のようなものです。
 坊ちゃんは物理学校を卒業後、数学教師として四国愛媛県の松山に赴任します。

 坊ちゃん:24歳。新米数学教師。父も母も死去。兄ひとりあるも兄とは仲が悪い。
 校長:狸(たぬき)
 教頭:赤シャツ。文学士
 古賀:うらなり(この話の場合、蔓(つる)の先のほうにできる成育不良による小さくて弱々しい唐茄子(とうなす。かぼちゃ)に似て顔色が青くて悪いという表現)英語担当。自分の勝手な解釈ですが、このキャラクターのモデルが夏目漱石自身のような気がします。
 堀田:山嵐。数学担当。主人公坊ちゃんの数学教師師匠のポジション
 吉川:のだいこ。画学。芸人風
 マドンナ:マドンナの意味はあこがれの女性。物語では、遠山のお嬢さん。マドンナは、うらなりくんとできていたけれど、教頭赤シャツの計略でだまされて赤シャツについていくというような展開です。(されど、したたかに働いて、稼いで食べさせてくれる赤シャツの嫁というポジションを選択したのがマドンナの決断です)
 萩野老夫婦:坊ちゃんの下宿先の大家

 おもしろい。文章にリズムがあります。読みやすい。1906年作成の文学作品の文章で、この軽さは珍しかったのではないか。
 四国の方言なのか、地元の人の言葉で、語尾に「もし」がつくのがおもしろい。
 主人公も無鉄砲ですが、田舎は、よそ者の言動への関心が強い。
 下女だった清(きよ)に対する信頼と愛情が厚い(あつい)。
 日記のようでもあり、歳時記のようでもあります。(四季、年中行事の記録)

 赤シャツの人をあざむく言動でひともんちゃくが起こりそうです。ひともんちゃくが起こって、坊ちゃんは松山を去ることになるのです。
 この作品は、1906年(明治39年)夏目漱石39歳のときのものですが、1900年ごろの文章にしては、現在の現代文とかわらないことに驚きを感じます。
 人事とお金の権限を握っている人間にはなかなか勝てません。坊ちゃんはそういう奴と戦うのです。そして負けるのです。
 記事に出てくる「祝勝会」は、日清戦争(1894年 明治27年から翌年まで)のことでしょう。夏目漱石自身は、1916年(大正5年)に亡くなっているので、1923年(大正12年)の関東大震災とか、第二次世界大戦(1939年から1945年)はご存じありません。
 坊ちゃんが生卵を画学の、のだいこに投げつけるシーンは痛快でした。
 最終的に坊ちゃんが東京へ戻って、市電の運転手兼整備担当者になって、下女だった清(きよ)のめんどうをみながら暮らしたという終わり方にはしみじみとするものがありました。
 清さんは肺炎で亡くなって、坊ちゃんがお寺に埋葬しています。
 やはり人間は育ての親のようなお世話になった人には恩返しをするものです。(巻末の解説部分に「無条件の和合と愛」とあり自分も賛同します)

 単簡(たんかん):単純でわかりやすい。
 四国での教師としての給料が40円:40円×3800円=15万2000円
 ケット:ブランケット。毛布
 朴念仁(ぼくねんじん):道理のわからない人
 剣呑(けんのん):危険や不安
 乗ぜられる(じょうぜられる):あざむかれる。踊らされる。いいように利用される。あやつられる。
 真率(しんそつ):まじめで飾り気がない。
 磊落(らいらく):度量が広く、小さなことにこだわらない。
 恬然(てんぜん):物事にこだわらず平然としているようす。
 憚りながら(はばかりながら):恐れながら。遠慮すべきかもしれませんが。
 咄喊事件(とっかんじけん):大声をあげながら突進する。
 肯綮(こうけい):物事の急所、要(かなめ)
 剴切(がいせつ):非常によくあてはまった。
 振粛(しんしゅく):ゆるんだ気風を引きしめる。
 手蔓(てづる):頼りにできる特別な関係
 後学:あとに役立つ知識
 椽鼻(えんばな):軒下
 唐変木(とうへんぼく):わからずやや気のきかない人
 いか銀:山嵐が紹介してくれた下宿
 軽跳(けいちょう):落ち着きがなくて言動が軽はずみ
 奸物(かんぶつ):悪知恵が働く心がひねくれた人
 誅戮(ちゅうりく):罪あるものを殺すこと
 意趣返し(いしゅがえし):仕返し
 旧制中学校と師範学校の違い:旧制中学校(12歳から16歳までの5年間)。師範学校は教員を養成する学校で、教職に就くことが前提条件で、授業料がかからず生活保障もされていた。14歳から16歳が対象。
 指嗾(しそう):人に指図して悪事を行うように仕向ける。
 後架(こうか):便所
 天誅党(てんちゅうとう):天に変わって悪人を殺す集団

(解説部分の感想)
文芸評論家 渡部直己氏
 夏目漱石作品は当時の自然主義作家たちから反感をかったとあります。これがこの文章の冒頭で書いた部分にかかってくるのでしょう。自然主義というのは、実生活の体験から小説を書くというふうに受け取りました。
 調べたこととして、
 芥川龍之介:1892年(明治25年)-1927年(昭和2年)35歳没。服毒自殺
 解説を読みながら思ったこととして、日本人の暮らしはこの半世紀ぐらいの間にインターネットを中心とした電子化で急速に変化したわけですが、夏目漱石氏が生きた明治時代も武家社会の江戸時代から欧米文明を取り入れる明治時代へと急展開の変化があった点で、類似の時代背景があると感じました。
 夏目漱石氏は英語研究のために国費でイギリス留学をされていますがエリートという感じではなく、いやいや行かれたような雰囲気です。解説中の文章には「余は英国紳士の間にあって群狼に伍する一匹のむく犬の如く、あわれなる生活を営みたり」とあります。そして、神経衰弱の病気になっています。
 書くことで救われるということはあると思います。そして、読むことで救われるということもあります。
 批評の視点にある「西洋文化と和文化の対立と闘い」を読みこみました。
 欧米文化である「効率優先」は、人の居場所を奪ってしまう。電算化の目的は、人員削減をして、経費を節約することにある。夏目漱石氏は「物質文明」「契約社会」を批判していたということがわかりました。無駄があっても共存できる日本独自の和の文化を大切にしたのです。
 Aがいて、Bがいて、Cがいる。いわゆる三角関係が物語づくりの骨格になっています。Cは第三者、マドンナです。第三者の心持ちの基準をどこに置くか。正義があってもその者に将来食べていく生活能力がなければ、第三者は、正義ではないほうにつくこともあります。むしろそういうことのほうが多い。
 
詩人・小説家 ねじめ正一氏の解説
 印象に残った文節として「正義感は空回りする」  

Posted by 熊太郎 at 07:04Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2021年02月06日

友だちのうちはどこ? イラン映画DVD

友だちのうちはどこ? イラン映画DVD 1987年製作

 映像を観ていて、60年ぐらい前の日本のいなかの風景を見るようでした。
 ニワトリがコケコッコーと鳴き、ネコがニャーニャー、イヌがワンワン、ヤギがメーェ、役牛(えきぎゅう)がいます。日本のへんぴな田舎(いなか)も、当時は、水道はなく、手押しポンプ式の井戸水を集落で共用していました。なつかしい。洗濯は、たらいと洗濯板をもって近所の奥さんたちが連れだって川で洗濯をしに行っていました。桃太郎とか一寸法師とかの民話を信じていたまだ小さかった自分のこども時代がありました。
 この映画の映像では、こどもがおとなたちに痛めつけられているように見えます。思い起こせば、昔のこどもは親に叩かれ、兄弟姉妹に叩かれ、学校へ行けば先生に叩かれ、先輩や級友に叩かれていました。努力と根性と忍耐が合言葉でした。踏まれても踏まれても、雑草のように立ち上がれと教えられました。そういう点では、今は、人が打たれ弱くなっているのかもしれません。叩かれて嫌な思いをしたから自分は叩きたくないという意思が働いて、親は子に優しくなりました。
 映画では、精神面でゆとりのない環境のなかでも「優しい心」が存在します。友だちを思う心であり、人生を渡っていって、静かに老いる心もちがあります。貧困生活があり、怠惰な労働があります。いまある環境のなかで生きる人間を描くという点で秀作です。
 主人公の男子は8歳だそうですが、学校の教室には女子児童の姿がありません。今はどうかわかりませんが、1987年の映画製作当時は、イランでは宗教的な理由で女子への教育は許されていなかったのでしょう。
 若いころに、むかしこどもには人権がなく、こどもは労働力としか見られていなかったと学びました。学校での勉強は、たてまえは本人の自立のためですが、本音(ほんね)は、国家や組織のために貢献する労働者の育成だと思ったこともあります。
 いろいろあったとしても、主人公のアハマッドのような優しい気持ちをもち続けましょうというメッセージが、ラストシーンの本にはさまれた押し花を友愛の象徴として表現されています。  

2021年02月05日

天気の子 邦画

天気の子 邦画 テレビ放送録画 2019年公開

 うーむ。比重として、描画と音楽に力が入りすぎているような。リアルな生活臭が伝わってくる美しくていい絵です。東京の風景がよくわかります。ストーリーはいじくりすぎたのかも。物語としてはうまくいっていません。歌も含めてつくり手が楽しむ映画だったのかも。
 仏教の世界(空の上の世界)に神道(しんとう。神社)の世界もコラボして(連携して)、独特の世界観を生成してあります。神話の世界です。人柱(ひとばしら)は、若い女性の生け贄(いけにえ)でしょう。
 真夏の八月の中頃お盆の時期に毎日雨が降るわけがありません。雨と晴は交互にきます。いいこととそうでないことも交互にきます。トータルで、プラスマイナスゼロがお話づくりの基本設定です。
 描かれているのは、ほぼ、こどもだけの世界です。エロっぽい描写や話のネタから、男の子たちが理想として空想する女子との交際のありかたを願望する内容となっています。恋愛映画です。こういう女子と付き合いたいというものです。現実とはかけ離れています。