2021年02月19日

しあわせへのまわり道 アメリカ映画

しあわせへのまわり道 アメリカ映画DVD 2015年日本公開

 インド系アメリカ人男性のダルワーンが、運転の教官として、アメリカ人女性書評家ウェンディに車の運転を教えます。夫婦問題を扱ったラブコメディです。
 
 女性書評家ウェンディはまるで男です。稼いでいます。男尊女卑の逆です。夫はヒモ状態に見えます。夫の役割は、妻ウェンディが仕事をするための運転手です。
 ウェンディが夫をペットのような愛玩動物として扱っているようにみえました。だから、夫はもうこんな暮らしは嫌だと言って、浮気をして、新しい女性をつくって、ウェンディにサヨナラを告げます。
 ウェンディは愛する対象物がいなくなったことと、運転手がいなくなったことで困ります。だからウェンディは運転免許をとって、自分で車を運転しなければならなくなったのです。

 運転を教えるインド系アメリカ人男性ダルワーンと運転を教わる白人女性ウェンディの気が合いません。
 ふたりが結婚することはありません。
 別のパターンのお話になっています。

 インド系アメリカ人男性ダルワーンには、責任感と強い意志があります。
 彼は、インドの親族が見つけてくれた初対面のインド人女性をインドからニューヨークに呼び寄せて結婚式をあげます。
 インドでは結婚とはそういうものだそうです。昔の日本のようです。でも新婚夫婦であるふたりの関係はうまくいきません。
 
 自動車運転に関するダルワーンの教えには感心しました。
 感情を路上にもちこんではいけない。(安全第一だから、路上では落ち着いて、ロボットのように運転する)
 (ウェンディが運転練習中事故になりそうになったときダルワーンがウェンディに向かって)「死体になりたいのか!」
 
 女性側のウェンディにもいいセリフがありました。
 わたしは(わたしの性格は)まわりの人を無視して、自分の言葉で(本の)批評(批判)をすること。(自分の仕事は本の批評家だから)
 彼女が、新婚後、新妻とうまくいっていないダルワーンに、新妻にこう言うようアドバイスをします。「これから君を理解する努力をする。君にはその価値がある」
 なかなかいいお話でした。  

2021年02月18日

(再鑑賞)イージーライダー アメリカ映画

(再鑑賞)イージーライダー アメリカ映画DVD 1969年アメリカ合衆国公開

 中学生のころに、テレビの洋画劇場で観た覚えがあります。たしか、ふたりの男性がハンドルの長いバイクに乗って旅をして、最後はふたりとも死んでしまいます。内容は覚えていません。
 今回、映像を見返してみて、この映画を観たときは、まだ自分は中学生で、まだこどもだったけれど、おとなが観るものを観たり、おとなが読む本を読んだりして、内容をわかっていないのにわかったふりをしていた思春期が自分にもあったのだと気づいた次第です。

 映画でのバイク旅は、違法薬物のコカインを搬送しての金もうけが目的です。
 当時はアメリカ合衆国もいろいろと制限が厳しかったようです。男性の「長髪」は悪という扱いです。そういえば、この映画ができた昭和40年代、日本の中学生男子生徒の頭髪はほとんどの学校が丸坊主でした。すっかり忘れていました。今となっては、そのことをいう人もいなくなりました。
 
 映像では、バイク旅の途中で、ヒッチハイクで道ばたに立っていた知らない人をバイクの後席に乗せました。びっくりしました。アメリカ合衆国は銃社会で、相手が銃をもっていたら危険です。バイク仲間はふたりしかいません。バイクには違法薬物と現金がのせてあります。バンバンと撃たれたら簡単に殺されてしまいます。まず人を疑わないといけないのが、アメリカ合衆国社会だと思うのです。

 音楽が流れて、山と川と荒野の風景が続きます。途中には、小さな集落があるだけです。農業でつましく暮らすアメリカ人の生活があります。
 バイクを運転する彼らには、「移動の自由」があります。この映画は、「自由の獲得」を訴えるメッセージがあります。長髪許可の要望です。それから、差別反対のメッセージがあります。映画自体は白人の映画ですが、白人ばかりの世界の中にも差別があります。「標準ではない者」に対する差別です。標準でない者は抹殺しても許されるのです。長髪はだめなのです。
 警察職員と排他的な地元民は仲間です。職権乱用の贈収賄がまかりとおります。警察職員は長髪の被害者を守ってくれません。その体質は今でも変わっていないような最近のアメリカ合衆国警察に関する報道があります。

 やりたいことをやりたいようにやれるのが「自由」、したいことをしたいようにするのが「自由」、されど、自由には自己責任がセットで付いてきます。あっという間の転落が待ち受けています。

 宗教の教えが生活に深く関わっているようです。ラスト付近は狂気の幻覚状態です。
 ちゃんと働かずに自由を欲しがる者に対しては、天罰がくだるのです。
 人間の弱さがあります。なにか寄りかかれるものがほしい。根拠がほしい。頼れるものがほしい。
 男性の長髪に対する人々の拒否反応、男同士でつるんでバイク旅をするのは同性愛者だろうという偏見と差別、もちろん黒人やインディアンに対する差別もあるようです。

 話はふと離れてしまうのですが、ふたりの男性がバイクで田舎道を走る姿を見ていたら、「出川哲朗の充電バイクの旅」みたいだと、印象が重なってしまいました。出川哲朗さんとディレクターが電動バイクで走る姿です。そして、ときおり、ゲストも加えて三人でつるんで走ります。案外この映画が番組企画の下地かもしれません。  

2021年02月17日

マナーはいらない 小説の書き方講座 三浦しをん

マナーはいらない 小説の書き方講座 三浦しをん 集英社

 小説の書き方講座です。
 コバルト短編小説というのがベースにあるようですが、自分はそれを知りません。若い人たちが応募するのでしょう。

 メッセージの趣旨は、小説を書くのは自由。されど、ここを踏まえるともっとよくなるというものです。

 内容の構成は、レストランで食べる料理のようにコース仕立てになっています。
 全部で24皿の料理が出るそうです。

 本を読みながら、創作は「悪役」を設定するところから始まるのかなあと発想しました。次に「主役」、それから脇役(第三者)

 人称の話で、短編順番結合方式(別人の一人称で短編を書いてつなげていくやりかた)は、ときおりみかけます。

 記憶に残ったワードとして、「神の視点」「自分の書きたいように書く」「主役に弱点をもたせる」「時間に神経を配る」

 著者は、文学賞応募作品の選考をされているので、適切なアドバイスがあります。
 おもしろかったのは、よくあることなのでしょうが、冒頭は濃厚で、進むにつれて密度が薄くなる。創作者の気持ちの維持がむずかしい。

 この本の文章は話し言葉の連続のような文章です。

 自己評価されているように「理詰めでものを考えるタイプではない」そうなので、やはり、文章は生まれもった才能と自身の努力で書くものなのでしょう。
 文章を書けるということは、生まれもったひとつの能力だと気づきました。スポーツにおけるなにかの種目と同じです。

 売れている小説家の方なのに「気づけば一週間ぐらいだれともしゃべっていない(黙々と書き続けていたから)」ということがあるそうです。また、昼夜逆転生活という文章もありました。驚きました。一週間のうちにたまには仕事の打ち合わせぐらいありそうなものですが、実態は違うのでしょう。

 公募への応募作の中身で「だれのセリフなのかわからない」ものがある。
 ありがちです。
 提示された対処法は適切だと思いました。

 描写は全体ではなく、ピントを合わせるように。
 共感しました。

 登場人物が住む部屋の間取りや地図をイメージする。
 創作者に役立ちそうです。
 本書はエッセイというよりも実用書です。

 取材方法として飲み会をすることにはびっくりしました。
 取材時にメモを取らないという部分には納得しました。

 ご自身は小説の書き方的な本をほとんど読んだことがないそうなので、それぞれ各自が考えて書けばいいのでしょう。

 調べた言葉などとして、
 ゲラ(校正刷り):試し刷り
 目論見(もくろみ):企て、計画
 バリオタ:バリバリのオタク?
 HiGH&LOW:ハイロ―。テレビドラマ? 映画? 物語? あいにく知りません。
 エモい:感情が高まった状態
 中二感:青臭い
 欲望の翼:1990年のイギリス領香港映画。恋愛群像劇。主役がレスリー・チャン(2003年46歳没)
 原民喜(はら・たみき):詩人、小説家。1951年45歳没
 エージェント:代理人
 パブロフの犬:条件反射
 虚心坦懐(きょしんたんかい):素直でさばさばしている。
 アドレナリン:神経が昂る(たかぶる)ホルモン。心臓ドキドキ、血圧上がる。
 脳がトリップ状態になる:幻覚状態?
 マグノリア:1999年製作のアメリカ映画。男女9人24時間の群像劇
 アンソロジー:同じテーマで複数の作家が作品をつくって集める。
 ルサンチマン:弱者が強者に怒りの感情をもつ。
 縷々(るる):こまごまと。
 パリピ:パーティピープルとかパーリーピーポー。パーティ好きな人  

Posted by 熊太郎 at 07:11Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2021年02月16日

ミツバチのささやき スペイン映画

ミツバチのささやき スペイン映画DVD 1973年製作(昭和48年) 1985年(昭和60年)日本公開

 スペインの内戦に関する本を読んだのは昨年の夏のことでした。「キャパとゲルダ」マーク・アロンソン&マリナ・ブドーズ・著 原田勝・訳 あすなろ書房。ロバート・キャパ、ゲルダ・タロー(女性。タローの名前の由来は岡本太郎氏)、いずれも戦場カメラマンで、それぞれ場所は違いますが、戦場で命を落としておられます。

 この映画は、スペイン内戦(1936年-1939年)が終わった1940年が時代背景としてつくられているそうです。
 スペインにおけるフランコ大統領の独裁主義国家(1939年-1975年フランコ氏82歳死没)で、言論の自由がなかったという政治的な時代背景の中で、この映画には、自由を求めるメッセージが含まれているという前提で鑑賞しました。
 観ても何のことだかわからないようにつくられています。比喩(ひゆ)です。別のことに、たとえてあるのです。
 言論の自由が抑えられていた時代に、なんとか、自由獲得のための意思表示を比喩で表現しようとした映画です。
 
 ミツバチは、スペイン国民だと受け取りました。ミツバチの飼い主である主人公の父親フェルナンドが独裁者です。国民は独裁者に操られて蜜をつくって、蜜を独裁者に奪われます。
 6歳女児アナもまた国民のことだと判断しました。アナは父親を憎んでいます。
 主人の妻テレサも夫が嫌いです。妻は民主主義希望者で、夫は力で国民を制御する独裁者です。
 妻は今の夫と結婚後も元カレを愛しています。元カレというのはたぶん、選挙で代表者を選んで国を運営する民主主義のことです。
 姉のイザベルは、アナから見れば異質な存在です。独裁主義国家での暮らしに順応しています。

 主人公は、設定ではまだ6歳、目の大きな色白の女の子です。(実際は5歳だったそうです)ここでも映画の検閲逃れのために幼いこどもを抜擢(ばってき。選び出して役目につけた)ということがわかります。
 映像は、画家フェルメールの絵「真珠の耳飾りの少女」を見るようです。映像が、美術品のようです。
 
 民主主義が独裁主義に負けることもあります。未来は不確実です。

 アナが慕う映画に登場した「フランケンシュタイン」が、国民が期待する『希望』だと受けとめました。フランケンシュタインは民主主義国家を表しているのです。

 学校の教室に女子の姿が多いシーンにはほっとしました。
 女子には教育を受けさせない国もあります。  

2021年02月15日

キャベツくん 長新太

キャベツくん 長新太(ちょう・しんた) 文研出版

 1980年(昭和55年)の発行ですからもう40年ぐらい前にできた絵本です。
 作者の方はすでに2005年に77歳で亡くなっています。
 とはいえ、何年たっても、見て、読んで、楽しい絵本です。とてもおもしろい。

 おもしろかったところとして、
 『ブタヤマさんは「フー」といいました。キャベツ、おまえをたべる! (キャベツくんが)ぼくをたべると、キャベツになるよ!』

 キャベツくんは強気です。
 ネガティブ(消極的、気弱、暗い、後ろ向き)では、ブタヤマさんに食べられてしまうキャベツの立場です。人間と同じで、気弱になったら生きづらい。<話を転じて、いじめに負けないためには、まず自分が闘志をもって、いじめっこに、はむかうことが解決の基本です>
 胸に生きる勇気が湧いてくる絵本です。
 
 緑色が主体の絵は地味ですが、味わいがあります。
 
 ブタヤマさんがびっくりしたときの「ブキャ!」がおもしろい。
 キャベツになったライオンの顔はスイカみたい。
 ゾウのお鼻がキャベツだゾウ。わっはっは。

 ページを、めくってもめくっても、キャベツの攻撃シーンが続きます。笑えます。たぶんちびっこも。

 最後はよくわからないけれど、心優しいキャベツくんでした。

 絵を見てうまいとは思えないのに楽しくなります。
 絵が愉快です。心がうきうきします。
 こどもさんが描くような絵筆のタッチです。
 マンガっぽさと絵画が合体したような絵です。ページをめくると、空に浮かんでいるキャベツになってしまった動物の絵があって、そこを見ると「ぼよーん」と言いたくなります。
 ブタヤマさんの頭から緑色の帽子が飛んでいる瞬間の絵が楽しい。  

Posted by 熊太郎 at 07:21Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2021年02月13日

きりのなかで 木村裕一・作 あべ弘士・絵

きりのなかで 木村裕一・作 あべ弘士・絵 講談社

 第一巻「あらしのよるに」、第二巻「あるはれたひに」、第三巻「くものきれまに」ときて、今回が第四巻です。少しずつ読み足していきます。

(1回目の本読み)
 善良オオカミ「ガブ」のそばには、巨体のオオカミ「バリー」と自分の片耳を獲物のヤギに抵抗されてくいちぎられた「ギロ」がいます。
 「ガブ」以外の二頭のオオカミは、もちろんヤギが大好物です。
 「ガブ」にとっては、親友のような、あるいは恋人のような、つれあいであるヤギの「メイ」が、凶暴なオオカミであるバリーとギロに襲われて食べられそうになります。大変だ!

 いまいる場所は、「ポロポロがおか」で、近くにオオカミの巣がある「バクバク谷」があります。

 オオカミたちがヤギ肉を食べたときの味の感想はリアルです。
 メイはだいじょうぶだろうか。
 ガブはメイを二頭の凶暴なオオカミから守れるだろうか。

 お話は無事に終了へと向かって行くのですが、どうして、みんな、月を見ることが好きなのだろう。月にはなにか祈りがかかっているのでしょう。
 月は、みんなが仲良く暮らせるところ。天国のような位置づけです。

 仲良しのオオカミのガブとヤギのメイはこれからどうなるのだろうか。
 もう二十年以上前の本ですが、このシリーズの存在を知りませんでした。

(2回目の本読み)
 絵が独特です。
 絵が文章の内容ときっちりマッチ(合致)しているかというとそんなふうでもなく、構図も含めて、絵がうまいとは思いませんが、絵には力強さがあります。
 色づかいが強い。オオカミの表情はまるで生きているように見えます。
 絵に、スリル(はらはらどきどき)とサスペンス(ぞっとする怖さ)、生きるか死ぬか、殺されるかの緊張感があります。
 絵本を見ていて臨場感があります。(実際にその場に自分がいるような感じ)
 
 強いオオカミの世界にも階級があります。
 階級を決める基準は力の強さです。
 体の大きさも関係します。
 ヤギのメイのともだちであるオオカミのガブの階級はオオカミの群れの中では最下位のようです。ほかの二頭のオオカミのほうがいばっています。ボスがバリーで、子分がギロです。
 オオカミを責めることはできません。ヤギをつかまえて食べるという二頭のオオカミがやっていることは、オオカミにとってはあたりまえのことです。
 生きるためにヤギを食べます。
 ガブは、ヤギのメイを守るため、他の二頭に、頭脳で対抗していかねばなりません。

 自然現象がふたりを助けてくれます。
 霧がふたりを隠してくれます。
 だからタイトルが「きりのなかで」なのでしょう。
 
 お話の下地は「ロミオとジュリエット」とか「ウェストサイド物語」なのかも。  

Posted by 熊太郎 at 06:46Comments(0)TrackBack(0)読書感想文