2021年02月04日

(再鑑賞)風が強く吹いている 邦画

(再鑑賞)風が強く吹いている 邦画 2009年公開 テレビ放映の録画

 マンガチックです。(誇張、滑稽こっけい、ドラマチック)
 先日小説作者の「しをんのしおり」を読みました。漫画が大好きな三浦しをんさんです。
 映像は、昭和時代の運動部風景に見えます。
 ストーリーは、大学間の意地の張り合いもありますが、終盤に向けて対立する気持ちを乗り越えこえます。
 女子を巡る恋愛話はぼやけています。
 搬送車に乗った監督さんが物語の説明役です。
 前回観た時よりも感動は小さくなりました。
 テーマは「仲間意識の賛歌」です。

(2012年に本を読んで映画を観た時の感想)
風が強く吹いている 三浦しおん 新潮社
 スポーツライターの文体である。
 その書き方は書き進むにつれて落ち着いてくる。
 漫画チックでもある。コミック漫画のページをめくっているようだ。
 こんなことはありえないという話だ。作者はラストシーンをどう置くのだろうか。
 映画「しこふんじゃった」「ウォーターボーイズ」系の内容である。
 登場人物ハイジは竹中直人だ。
 作者が読者に伝えたい意思は「嫌なことが世の中にはいっぱいあるけれど楽しもうよ!」ということである。
 本を読むよりも映像で見たほうがいいと思った。
 読み終えてみると本を読んだほうがいいと思った。
 駅伝を素材にしているけれど駅伝の話ではない。
 走り方には人生の学びがある。自分には自分の能力と継続維持のための速度がある。
 競馬のようでもある。
 映像化されるときには原作どおりにはいかないのだろう。

(上の感想を書いた数年後に映画化されて、今回ケーブルテレビで観ました。以下は映画の感想です。)
風が強く吹いている 映画
 気持ちがいいさわやかな青春群像作品でした。小説は読んだことがあります。名作です。小説の文章と映像は違います。小説では、「ひたひたひた」と後ろから駆け足が近づいてきます。映画では駆ける映像が映ります。違っていてもいい。表現したいことは同じです。箱根駅伝に大学生たちが挑戦する内容です。それぞれはそれぞれが生きる重みをかかえています。家族であったり、病気であったり、障害であったりします。「速さ」だけでは勝てない。「強さ」が必要というセリフにあるとおり、速くても弱かったかれらは協力し合って徐々に強さを増していきます。
 ハイジとクララとユキちゃんは、アルプスの少女ハイジからとったのでしょう。原作者三浦しをんさんの小説ではときにその名付け手法がとられています。本屋大賞受賞作「舟を編む」もそうです。かぐや姫でした。
 駅伝シーンが長い。1冊の本を2時間の映画に納めることはむずかしい。本も読んでください。映画とは違ったおもむきがあります。  

2021年02月03日

太川&えびすローカル路線バス乗継の旅 館山から会津若松

太川陽介&蛭子能収ローカル路線バス乗継の旅 千葉県館山から福島県会津若松 DVD

 2014年の第16弾です。失敗に終わっています。
 ふたりとも若い。えびすさんの笑顔はお肌ツルツルでてかっています。
 ゲストは、ちはるさんです。
 
 えびすさん語録などとして、
「きのうホテルで髪を染めた。髪染め禁止って書いてあったけど」
「(バスのなかでちはるさんに)かわいいけれど……ばかっぽい」
 えびすさんは、朝9時にカツ丼を食べていた。
「(バスからおりたとき)お金を払おうとしたら先払いだった」
 えびすさんは、途中で立ち寄ったお寺の若くてきれいな奥さんが気になる。
「(二連敗できないと言いつつ)もう行き当たりばったりだ」
「ノープロブレム(問題ない)」

 自分としては、小学生の時に茨城県、栃木県に住んでいたことがあるのでなつかしかったです。
 旅路風景の映像をながめながら、日本って小さな島国だなあとか、日本は都市部にいろいろなことが集中しすぎているなあと感じました。
 三人と関わりになる人たちが心優しい。日本人のもつ人情っていいなあ。ありがたい。でも善意を悪用する人がいるから、だんだん日本も居心地が悪くなってきています。
 三人が旅の途中でいただいた干し柿がおいしそうでした。
 
 映像を見ていると、うまくいかなくて、バスの出発時刻までが長時間あって、どうしてこんな無理な旅のしかたをしているのだろうかという気持ちになります。  

2021年02月02日

少年と犬 馳星周(はせ・せいしゅう

少年と犬 馳星周(はせ・せいしゅう) 文藝春秋

 震災が素材になっていると知って敬遠していましたが、書評の評価が高いので読んでみることにしました。なんというか、自分の性格が屈折しているのでしょうが、災害に関して他のことも含めてですが、人の不運を利用して自分の利益にするように思えて嫌悪感が湧くのです。もし、自分だったら、「被災者」というしるしを付けられて同情されるのはまっぴらごめんです。
 されど文章書きは学びたい。まずは読み始めてみます。
 
 短編6本の連作です。

「男と犬」
 2011年3月11日に発生した東日本大震災から半年が経過していますから同年9月でしょう。コンビニの前に飼い主不明の犬がいます。姿かたちのイメージは、オオカミです。誇り高い。かっこいい。シェパードの雑種らしい。
 中垣和正と犬との出会いがあります。
 人情なのか、同情なのか、犬が自分の生き写しに見えたのか、かわいそうという気持ちが生まれて、彼は犬を自分の車に乗せてドラマが始まります。
 すっきりした文体です。
 読んでいると津波災害発生時の悲惨な映像が脳裏によみがえります。
 暗い影のある姉と認知症の母とのかかわりがある暮らしです。
 母親が犬を「カイト」と呼ぶ。杉下右京が登場する刑事ドラマ「相棒」の甲斐亨(かいとおる。カイト)を思い出します。カイトは凧(たこ)だから、カイトと名付けられた犬は、縁(えん)という糸が切れれば、どこかへ飛んでいってしまうという暗示があるのでしょう。
 犬であるカイトのことは覚えていても、息子の存在は忘れる認知症を発症している中垣和正の母親です。
 カイトは「南」へ行きたい。「南」がこれからキーワードになっていくのでしょう。今の舞台は仙台市です。
 中垣和正に、犯罪成功の快感があるのはお金の魔力でしょう。
 予測していたとおりにならない意外な展開です。行って、戻る。ドラマがあります。揺れる心。近づいては遠ざかる海の波のようです。
 Ⅴシネマみたいです。ハードボイルドタッチです。劇画調です。
 調べた言葉として、相好(そうごう):表情、顔つき

「泥棒と犬」
 この犬は善良な神ではなく、邪悪の神という悪のほうの象徴かもしれません。今度は、この犬は、名を多聞(たもん)と名付けられました。この犬と関わりをもった人間は、飼い主が罪人ゆえに、転落が確定するパターンかと。とはいえ、多聞は、相手がどんな人間であってもその人間の心の支えにはなってくれる。

 脚本の長いト書きを読むようです。読みやすい。
 被災地の空き家から財産を盗む泥棒をする登場人物です。
 仙台市→名取市→新潟市をめざして、郡山市、会津若松市→へと移動します。魚沼市も出てきます。読んでいて、太川陽介&蛭子能収(えびすよしかず)のローカル路線バス乗継の旅を思い出しました。
 
 犬の多聞はいつも南の方角に顔を向けています。意味をもたせてあるのですが、読み手の自分はその気になれません。犬のすることです。

 メルセデスのゲレンデヴァーゲン:大型のジープ型の車。5000cc

 中東の人(アラブ人)がからみます。ごみの山で物を探して売る生活です。
 ごみの中に隠してあった拳銃を見つけた幼い少年と犬を捕まえようとする悪人たちの目的がわかりませんでした。悪人たちは、拳銃は売却されていることがわかっていただろうに。制裁と見せしめか。
 アラブでの生活において、こどもを好きな変態(女児対象)おとなはどこにでもいるが、男児が好きな変態も負けず劣らずいるというくだりにすごみを感じました。あわせて、フクシマやミヤギでの略奪行為を死体からものを盗むのと同じとしてあります。
 日本人にとっては、幻想の世界です。
 
 とくに記述手法の点で、今年読んで良かった一冊になりました。

 ホダハフェズ:ペルシャ語で、さようなら
 アディオス、アミーゴ:スペイン語で、さらば友よ(しばらく会えないことを想定)この物語の場合、永遠に会えなくなります。それとも最後の短編のラストで会えるのだろうか。(読みながら感想を継ぎ足して文章をつくっています)

「夫婦と犬」
 気持ちのすれ違いがある夫婦と犬が関わりをもちます。夫は犬を「アルベルト・トンバ」と名付け、妻は「クリント」と名付けて、それぞれが付けた名で犬を呼びます。
 以前児童文学で「イッパイアッテナ」という本を読んだことを思い出しました。のらネコなのですが、いくさきざきで違う名前で呼ばれるのです。そして、のらネコ自身は自分の名前をねこ仲間に(名前が)「イッパイアッテナ」と名のるのです。
 物語は、ふたり(夫婦)の交互の語りで進行していきます。

 きれいな文章がいくつも出てきます。「(妻が言うには、夫の)大貴は回遊魚だ。動き続けていないと沈んでしまう」「(妻が言うには、夫の大貴は)悪い人間だというのではない。ただ、夫に選ぶべき男ではなかった」「大貴には人の気持ちを読み取る能力が絶望的に欠けている」「こんなはずじゃなかった」「わたしたち、群れだったんです」
 夫は、見かけはおとなでも中身はこどもです。

 犬はあいかわらず南方向(西南)をみつめています。なお、現在地点は富山市内です。

 (大貴に対する評価として)「めんどくさい」と言う人には伸びしろがない(成長する見込みがない)

 終りがけで物語の先が予想できます。(ずばりではありませんでしたが、核心は当たっていました)話のつくりがワンパターンになってきました。あと残り三本ある短編の結末も同じパターンのような気がしてきました。

 この短編の最後は、なるほど。しっかり締まりました。

 矍鑠(かくしゃく):年をとっても丈夫で元気

「娼婦と犬」
 犬は、こんどは「西」を向き続けます。現在地は滋賀県大津市内です。
 海水浴ではなく、湖水浴。琵琶湖です。
 また、死ぬのだろう。どうやって、二十四歳の若い女性の命を失わせるのだろう(予想ははずれました)
 
 つじつまが合わない。金があるなら金を借りない。男が死んでいるなら金はある。それとも男はもう金を使ってしまったのだろうか。

 浮気の代償は大きい。恥をかかされた人間のうらみは深い。
 
 シーンは、最初の犬との出会いのシーンに戻ります。

 物事を複雑に積み重ねてある短編です。これまでに読んできた短編のなかでは、自分にとっては、この短編部分が一番の好みです。

 良かった表現として、「(犬の)人を見透かすような目」「(その女性は)金をかせいで男に貢ぎ(みつぎ)、やりたいときにやらせてくれる女でしかなかった」

 犬の多聞を地震津波被災者と重ねてあるのだろうか。
 以前読んだ児童文学で、人間の代わりに江戸から四国の金毘羅山(こんぴらさん)までお参りに行く犬の話を思い出しました。

 コンソール:車で、運転席と助手席の間にある物入れ
 僥倖(ぎょうこう):思いがけない幸い
 負けが嵩む:まけがかさむ

「老人と犬」
 この短編部分はうまくいっていないのではないかというのが本音の感想です。
 犬は島根県の山に住む70歳になったばかりのひとり暮らし猟師の世話になります。熊や猪や鹿を撃つ猟師です。

 雪平鍋(ゆきひらなべ):アルミ製をよく見かけます。木の長い取っ手が1本、底が深くて丸い。熱伝導がいい。
 
 物語をつないでいく秘密として、犬の最初の飼い主は、埋め込まれたマイクロチップにある岩手県のだれで、犬はどんな生活を送っていたのか。マイクロチップは犬の体のどこに埋め込まれているのだろう。(調べたら首の後ろの皮膚の下とありました。獣医さんが埋め込み施術を行うそうです)

 犬は西南、九州の方向を向いています。

 良かった文章として「畑で採れたサツマイモをふかし、日本茶を啜り(すすり)、縁側で日に当たる。ただそれだけのことがしたい。(だけど、入院して癌を治療中でできない)」「ゆるしを与えてくれるのは犬たちだけだった」「(犬は)家族を捜してる?」(探す期限は死ぬまでです。犬は一生をかけて飼い主であった家族を捜す)」「ずっとおとうさんのことを恨んでいたけれど死んでくれと思ったことはないというくだり」

 疑問として、癌で病床にある熊撃ち猟師に、いくら名人だったからといって、凶暴な熊を撃つことを頼むだろうか。頼まないと思います。設定が苦しい。

「少年と犬」
 この短編部分だけは、これまでの短編とは色合いが違っていました。
 かなり話をつくりこんであります。
 これまでの短編では、犬の実態がおぼろげでした。東日本大震災との関連も詳しい説明はありませんでした。この短編で詳しい説明が出てきます。
 少年は津波のショックが原因で言葉を失っています。そして、犬が登場します。タイトル少年と犬の意味がわかります。「縁」の話です。
 舞台は熊本です。犬は、5年かけて移動しています。犬が岩手県釜石から熊本まで移動できるのですから人間にも徒歩でできるのでしょう。
 マイクロチップがつないでいくお話でした。
 そいうつなぎかたか。
 この世に生(せい)を受けたものの「役割」について考えた作品でした。
 宗教的な終わり方をしました。

 踵をかえす(きびすをかえす):後戻りする。引き返す。かかとをもとの方向へ戻す。
 たんぼ二反(にたん):一反が、991.736㎡
 毘沙門天(びしゃもんてん):仏教の仏神。四天王のひとつ。(持国天、増長天、広目天)
 多聞天:毘沙門天の別名。福の神。守護神
 御の字(おんのじ):望みどおりでとてもいいこと。  

Posted by 熊太郎 at 07:30Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2021年02月01日

(再鑑賞)ニューシネマパラダイス イタリア・フランス映画

(再鑑賞)ニューシネマパラダイス イタリア・フランス映画 1989年公開 テレビ放映録画

 6年前にDVDで観ましたが、今回再び観て、以前は、おおざっぱに観ていたことがわかりました。
 伏線に気づきました。ラストシーンは、冒頭付近のシーンが伏線になっています。最後はやはりラブ(愛)です。
 映画の始まりにある主人公トトがこどものころのシーンで、映画は検閲のようなかたちで、ラブシーンが許されず、映写技師アルフレードがフィルムからカットしたキスシーン部分をつなげて一本のフィルムを残します。
 それから何十年もの時がたって、映写技師のアルフレードが亡くなり、その1本のフィルムは、イタリアの有名映画監督にまでになったトトへ贈る形見(かたみ。亡くなった人を思い出す品物)になるのです。
 現在の映画がフィルムでつくられているのかどうかは知りません。コンピューター・グラフィックを駆使するので、記憶媒体はフィルムではないような気もします。
 この映画を観て感動できる世代もだんだん高齢になってきていると思います。
 こどものころに住んでいた離島では、映画は映画館ではなくて、屋外に張られたスクリーンに映し出して、学校が夏休みの暗い夜などに、近所の広場で観ていました。この映画ではそんなシーンが出てきます。映像のなかに類似体験があると共感と感動が生まれます。
 物が豊かになって、便利なように見えるけれど、人間は、大事なものを失おうとしているような気もします。思い出して見れば、白黒テレビジョンが登場したのは、1953年(昭和28年)ごろだったと思いますが、その後、全国に普及するまでにはずいぶん年数がかかりました。60年前ぐらいまでは、家にテレビジョンがない静かな夜がありました。自然との共存があって、家にいると身近なところから虫の音や鳥や小動物の鳴き声が聞こえました。
 最近思うのは、社会において「これまでの秩序」が否定されるようになってきている。時代が大きく変化している時期を迎えているということです。
 昔のテレビの登場・普及に類するものが、現代においては「電気自動車」なのでしょう。
 劇中で映画館が爆破方式で取り壊されるのはさびしいシーンですが、しかたがないのでしょう。これまでの時代をつくってきた世代は、これからゆっくり静かに消えていくのです。「栄枯盛衰」とか「順ぐり」という言葉が頭に浮かびます。