2020年11月18日

堂々日本史 「決戦厳島 毛利元就」「島原の乱」

堂々日本史 NHKVHSビデオ 第5巻 「決戦厳島 毛利元就」「島原の乱」 KTC中央出版

「決戦厳島(いつくしま) 毛利元就(もうりもとなり)50歳からの挑戦」
 表題に50歳とありますが、59歳からであり、ほぼ60歳からの挑戦で驚かされました。
 陶晴資(すえ・はるたか)という武将との1555年にあった厳島合戦に関する内容であり、2万人の軍勢に4000人で対抗して毛利元就は勝利しています。
 厳島神社には何度か行ったことがあるので、風景を思い出しながら映像を楽しみました。
 1555年当時にポルトガル人の貿易商人が厳島神社に来ている絵を見て、なんだか感心しました。
 毛利軍が、村上水軍を味方につけたところでは、小説「村上海賊の娘」を読んだことがあるので、これもまた小説の内容を思い出しつつテレビの解説に耳を傾けました。
 「敵の敵は味方」という言葉が頭に残りました。やはり人は利潤の提供をしてくれる側の味方に付きます。
 毛利元就氏は、55歳ごろまでは鳴かず飛ばずでしたが、60歳代から人生の花が咲いたという歴史小説家永井路子さんの解説に聴き入りました。

「島原の乱 矢文(やぶみ。弓矢の矢につけた交渉のための文書、手紙)が明かす真相」
 1637年の出来事です。番組の中では、360年前のこととして語られています。古いビデオテープですので、現在ではさらにそこから20年が経過しています。
 うわべは、キリスト教の弾圧に反対するキリスト教徒の反乱という位置づけだったけれど、実際は、複雑で深い意味合いがあった。キリスト教徒ではなかった農民も多数いた。
 関ケ原の合戦で敗れて武士から村の長になった敗戦の武士たちが立ち上がった江戸幕府に対する反体制運動だった。権力闘争に農民や庶民が巻き込まれています。
 領主の苛政(かせい。年貢の量が多すぎた。厳しすぎる命令があった。江戸幕府の藩とりつぶし策に対する対抗手法として、農民に負担をかぶせた)
 最後は、江戸幕府が幕府と藩制度を今後も維持していくために3万7000人の老若男女を皆殺しにしています。天安門事件とか、香港デモ隊の鎮圧シーンを思い出します。権力者というのはむごいことをします。
 島原と小豆島は関係があるということが初耳で新鮮でした。島原地方の人口が急減したので、小豆島から移り住んだ人たちがいて、小豆島のソーメンをこの地でもつくった。
 島原は平地が少ないので米よりもソーメンの原料となる小麦のほうがつくりやすかった。  

2020年11月17日

出川哲朗充電バイクの旅 奈良井宿から名古屋城まで

出川哲朗充電バイクの旅 長野県奈良井宿から妻籠・馬籠を通って名古屋城まで 2018年放送分の再編集

 定番の観光ルートですが、出川さんもゲストの森三中のメンバーもそして熊谷ディレクターもこのルートに知識も経験もないようで少々とまどいつつ驚きました。
 「寝覚めの床(とこ)」を三人そろって、「ねざめのゆか」と言い、恵那峡(えなきょう)が何なのかがわかりませんでした。
 ほぼほぼ、どこも年齢を変えながら複数回訪れたことがある場所なので、不思議な気分で観ていました。

 飛騨牛のひつまぶしとうなぎの蒲焼が、映像を見ているだけで、おいしさが伝わってきました。

 女性をまんなかにはさんでの混浴シーンは森三中のメンバーだからできるのでしょう。

 青葉がきれいなシーン、あいにくの雨のシーン、雨上がりに太陽が雲間から顔を出したシーン。自然が豊かな日本です。
 野生のニホンザルも顔を出しました。

 いつもながら、こどもさんたち、小中学生との交流が楽しい。野球対決。バレーボール対決。試合が終わって、互いに頭を下げ合うところが良かった。

 電動バイクでけっこうな距離を走れます。電気自動車の時代が来るので、さきがけのような番組です。

 番組で、北海道芦別の回も観ました。島崎藤村記念館の前で、芦別のときに出演されていた人の弟さんとの偶然の遭遇がありました。また、神楽の(かぐら)練習をしていた女子上学生の親ごさんがやっている民宿にも泊めてもらいました。
 人の縁に関して、奇跡とか偶然というものは、長い人生を振り返ってみると、必然だったのだと思います。  

2020年11月16日

異邦人 カミュ

異邦人 カミュ 新潮文庫

 本棚を整理していたら出てきたので読むことにしました。同作者の「ペスト」は、数か月前に読みました。

 まず、うしろの解説部分から読みます。白井浩司氏で、1965年(昭和40年)の日付で、1995年(平成7年)の追記があります。
 作者は、1913年(大正2年)アフリカ北部地中海に面したのアルジェリア生まれ(旧フランス領。1962年独立)翌年父親は第一次世界大戦で戦死
 1938年(昭和13年)26歳、作品「異邦人」の冒頭を記す。1940年(昭和15年)同作品完成。
 1947年(昭和22年)34歳。「ペスト」刊行
 1957年(昭和32年)44歳。ノーベル文学賞受賞
 1960年(昭和35年)46歳。友人の車に同乗していて立木にぶつかり事故死。

 すぐれた小説であるという批評があります。
 この物語の主人公、「ムルソー」は1930年代フランスの典型的な人物を造形した人物像
 フランス小説史上の傑作と評価されたそうです。

 作者は恵まれない家庭環境だったようです。
 母子家庭となった作者は、祖母宅へ。祖母、叔父、母、兄、自分の五人家族。部屋数は三間。「私は自由を貧困のなかで学んだ」という本人の文章が残っているそうです。70歳の祖母は気取り屋で横柄な人間。叔父は障がい者で無口。母親は耳が聞こえず極端に無口。みな読み書きができなかった。

 調べた言葉などとして、
 マルキシズム:マルクス主義。社会主義思想
 サルトル:フランスの哲学者、小説家。1905年-1980年。74歳没
 実存主義:本質よりも現実を優位として考える思想(サルトルの思想)
 カリギュラ:カミュの戯曲(演劇の脚本)ローマ帝国第三代皇帝カリギュラが題材。暴君。
 「異邦人」について、広瀬和郎、中村光夫論争:主人公ムルソーの人格は、精神が異常な異邦人(広瀬和郎)人格の分析は古い道徳にしばられた考え(中村光夫)と受け取りました。
 普仏戦争:プロシア(現在のポーランドの一部)とフランスとの戦争。1870年-1871年。フランスの負け。
 テーゼ小説:証明されるべき命題が提示されている小説
 書肆(しょし):書店、本屋

 印象に残った文章として、
「生活を混乱させないためにわれわれは毎日うそをつく」

 さて、物語を読み始めます。

第一部
 「きょうママン(母親)が死んだ」から始まります。母親は養老院で三年間を過ごして亡くなりました。
 しばらく進んで、日記を読むような出だしです。
 主人公である息子のムルソーはなにかしらそっけない。棺桶の中の母親の顔を見ません。(棺桶はすでにねじで固定されていたので関係者が開けてあげると申し出ますがムルソーは断ります)

(つづく)

 登場人物として、
 ムルソー:主人公。独身男性。母を養老院で亡くす。
 マリイ・カルドナ:女性。ムルソーと同じ事務所にいたタイピスト。ムルソーの恋人らしき存在だが、ムルソーからみると、男女関係を楽しむためだけのフレンドにもみえる。
 レエモン・サンテス:ムルソーと同じ共同住宅に住む男性。ムルソーの友人だが、ムルソーからは、親友意識は感じられない。仲間意識はある。レエモン・サンテスは、女を食い物にしている女衒(ぜげん。売春あっせん)らしい。表向きは、「倉庫係」という職業。小柄、肩幅広し。きっちりした身なり。ボクサーの鼻。短気。情婦に暴力を振るう。
 サラマノ老人:スパニエル犬を8年間飼っているが可愛がっているわけではない。犬は赤毛で皮膚病にかかっている。皮膚はかさぶただらけ。午前11時と午後6時に犬の散歩をする。現役の時は鉄道の仕事をしていた。奥さんは亡くなっている。
 エマニュエル:ムルソーと同じ会社で働く同僚。発送部で働いている。
 セレスト:レストランで働く中年太りの男性。前掛け(エプロン)をしている。
 レエモン・サンテスの情婦:働かない。モール人(西サハラの住人。アラブ、黒人、ベルベール(北西アフリカ住民)の混血。回教徒)

 調べた言葉として、
 クリュシエンの塩:たぶんクリュシエンという会社が売っている塩だと思いました。
 バルコン:フランス語でバルコニー
 ヴィラ:貸別荘
 カンカン帽:麦わら帽子。高さの低い円柱形

 貧困地域での荒廃した暮らしがあります。
 不満をいじめで解消します。男は女に暴力を振るい、老人は犬を虐待します。家庭内暴力と動物虐待です。そして、母親という身内の死に真摯に向き合えない(しんしにむきあえない。まじめな姿勢で対応できない)息子のムルソーがいます。

 ムルソーの友人レエモン・サンテスが、彼の情婦の兄とトラブルになります。レイモンが情婦に暴力を振るうわけですから、情婦の兄がなにをするんだと出てきてもおかしくありません。兄には連れもいて、ふたりともアラビア人と称されています。彼らとレエモン・サンテスとマソン(レエモン・サンテスの友人)が刃傷沙汰のトラブルになります。
 ついに、ムルソーは殺人をおかしてしまいました。銃で、たぶん五発も撃ち込んでしまいました。レエモン・サンテスのピストルでした。

 それとはべつに、マリイがムルソーに結婚を迫ります。ムルソーは受け入れますが、話を深めると、ムルソーにはマリイに対する愛情がありません。申し込まれれば誰とでも結婚する意識があるのです。

 気に入った文章として、
「(パリは)きたない街だ。鳩と暗い中庭とが目につく…」(いまは、きれいになったのでしょう)

 サラマノ老人の飼い犬がどこかへ行ってしまいました。

第二部
 殺人容疑で警察に逮捕されたムルソーはその後刑務所に収監され裁判を受けることになります。
 刑務所内の様子の記述はリアル(現実的)です。独房中に女が見える女性を抱きたい苦悩、ベッドの板をはがしてできた木片をしゃぶる煙草を吸いたいニコチン中毒症状、アラビア人たち受刑者との会話、他の受刑者もからめた並んだ場所での面会風景、時間つぶしのための16時間から18時間ぐらいの睡眠など。制限された毎日の生活で、どうやって時間をつぶすかという意識が生まれています。

 裁判の争点があります。
 ひとつは正当防衛。相手が匕首(あいくち。つかのない短刀)を持っていてムルソーを威嚇していた。ただ、ムルソーは不利です。拳銃発射の一発目で相手は撃たれて倒れて動けなくなっています。間を開けて、ムスソーは、動けなくなっている相手に連続で銃弾を四発も撃ち込んでいます。その理由は何か。
 もうひとつの争点が、養老院で亡くなった母親への葬儀対応が不可解ということです。端的に言えばムルソーは親不孝者扱いです。母親の面倒をしっかりみなかった。養老院に入れて、その後会いにこなかった。葬儀には来たが亡くなった母親の遺体との対面はしなかった。葬儀後、女と会って、海に行って、情事を楽しんで、喜劇映画を見に行った。
 それらから察するに、ムルソーは精神異常状態であった。あるいは、人格破綻者であるというような印象付けが陪審員に対してなされます。

 ムルソーには、人間の感情がない。喜怒哀楽の感情がない。母親の死を悼めない。今回の被害者も含めて、人の死を悲しんだり嘆いたりできない脳の資質をもっている。加えて、恋人といえる人であるマリイ・カルドナを心から愛しているようにはみえない。

 ムルソーを精神異常者扱いして、どんな判決を下すのか。死刑にするのか。あるいは、判断能力なしで死ぬまでの長期の入院患者で閉じ込めるのか。
 ムルソーは、人から無口で、内に閉じこもりがちな性格に見られていると判事から説明があります。

 そして、「神」の話が判事から出てきます。宗教における「神」は絶対の存在のような記述が出ます。まず、「神」があっての法令です。人が人を裁くときの不完全さが見えます。

 ムスソーの味方はいるようでいないようなもの。
 黒縁メガネの太ったいたちみたいなパリの新聞記者は本当の意味での見方には見えません。
 裁判では、復讐の証人が出廷します。裁判官や検事にあらかじめつくられた結論に向かっての誘導があるようですが弁護士が対抗します。最終的には陪審員の判断に重きが置かれるようです。

 なぜ、母親の葬儀対応がまずかったことということに長時間がさかれるのか。

 裁判風景を読んでいて、以前観た洋画の「愛を語る人」のシーンを思い出しました。裁判所で権力をもった集団に責められて、あきらめて事実とは違うのに罪を認めて、長期間の収監後、出所して自殺したドイツ人女性のお話でした。

 ムルソーの殺人の計画性が問われます。やはり計画殺人の罪は重い。
 
 亡くなった母親の年齢を知らなかったことが重大事としてとりあげられます。だれもが、ムルソーを憎んでいるようです。

 読んでいて、第二次世界大戦の戦時中、戦後の同時期に日本で、創作活動で活躍していた太宰治氏と表現したいことがらが重なると感じました。「人間とは何か」を考えるのです。カミュも太宰氏も健康上の理由で兵役は免除されています。

 人間界には、「標準的な人間像」があって、ムルソーは、「標準的な人間像」に該当しない。物語では、「標準的な人間像」に該当するひとつとして、両親を敬うということがあります。ムルソーの態度は母親をないがしろにしたという評価をもたれます。(親孝行しないことは、犯罪に該当するようです)
 「標準的な人間像」に該当しないことは、「悪」なのかという質問が、作者から読者になされています。答は、「悪」ではありませんになります。
 作者からは裁判のあり方についても問いかけがあります。ムルソーの存在はなく、弁護士と検事と裁判官が、芝居がかったように、裁判の段取りにのっとって、手続きを進めていきます。そこで語られていくことはムルソーの犯行当時の心情に沿ったものではなく、検事や弁護士による創作です。検事が、実際にはなかった虚偽の犯行行動の物語をつくりあげます。
 いっぽうムルソーには、人を殺したことに対する反省の言葉も態度もありません。本人もそれを否定していません。自分が悪いことをしたとは思っていないのです。生い立ちがからんでいる気がします。人から大事にされたことがないから人を大事にできないのでしょう。
 陪審員の心証は、再犯があり得るというものでしょう。
 読んでいると、ムルソーは殺人の計画性を否定するけれど、本当にそうだろうかという疑いが生じます。
 彼の深層心理として、彼は短刀で脅してきたアラビア人たちに恐怖感をもっていた。自分の身を守るために危害を加えてきそうなアラビア人を消去したかった。ただ、本当に計画的にやるには、自分が犯人として捕まらないように逃亡の段取りまで考えるでしょう。

 死刑の宣告が下されます。

 印象を受けた文章として、
「ひとはいつも知らないものについては誇張した考えをもつものだ」
「かれらが(司祭:キリスト教の職。神父)やってくるのは、夜明けだ(死刑執行の日)」ムルソーは、司祭に、「神を信じていない」のだと答えた。司祭に、「神さまがあなたを助けてくださる」と言われたムルソーは逆上します。ムルソーの心の底に、「怒り」があります。ムルソーは司祭につかみ掛かります。
 
 ギロチン斬首による処刑で見世物になることに歓びを(よろこび)を感じているムルソーです。
 数は少ないけれど、そういう脳の性質をもった人間が存在することは否定できません。事実は事実としてあります。
 人類への問題提起を含んだ作品です。

 調べた言葉として、
 フェルナンデスの映画:メキシコの俳優、映画監督
 予謀(よぼう):前もって周到に計画した。
 1789年の大革命:フランス革命。王政打倒。平等と自由、人権保障の獲得  

Posted by 熊太郎 at 06:47Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2020年11月15日

お伽草子(おとぎぞうし) 太宰治

お伽草子(おとぎぞうし) 太宰治 新潮文庫

 刊行されたのが、終戦後の1945年(昭和20年)10月です。
 特殊な雰囲気がただよいます。
 戦時中、空襲から避難した防空壕の中で、五才の娘に絵本を読み聞かせます。
 読み聞かせながら、民話の中身を考察するという手法です。

「瘤取り爺さん(こぶとりじいさん)」
 右の頬にこぶがあるおじいさんが、山に行って鬼たちのまんなかで踊りを踊って、まあいろいろあって、鬼がおじいさんのこぶをちぎりとるのです。それを聞いた隣に住む左の頬にこぶがあるおじいさんが、自分もこぶをとってもらおうと、鬼のとこへ行って踊ったのですが、踊りが鬼のお好みに合わず、こぶをとるどころか、前回とったこぶを右の頬にくっつけて、両頬にこぶがぶらさがったとうオチです。
 話の部分をゴシック体の太字で書いてあります。
 考察のほうはけっこう生々しい。当時の生の生活が文章に表れています。
 
 物語の舞台は四国、剣山(つるぎさん)の近くです。阿波地方です。徳島県、阿波踊りの記述も出てきます。
 鬼たちが出てくるお話を読んでいて、今年のはやりの「鬼滅の刃(きめつのやいば)」が思い出されました。「鬼」というものは、これから何十年も人間界に生き残っていく個性なのでしょう。

 まだ、自分が小さかったこどものころに、ほほにこぶがあるおじいさんを実際に見たことがあります。読んでいて思い出しました。

 「瘤(こぶ)」を「孫」としています。民話の内容はなにかの出来事をたとえてあるのでしょう。描かれている鬼は、悪のボスのような鬼ではなく、どちらかといえば、善良なおじいさんたちの飲み会風景です。

 最初のおじいさんは、こぶが話し相手だった。奥さんはいたけれど、奥さんはおじいさんにそっけなかった。おじいさんは孤独だったから、こぶに話しかけていたとあります。

 最初のおじいさんと隣のおじいさんの比較があります。どこが違うかというと、二番目のおじいさんは欲深かった。

 人の心を楽しませてくれる娯楽作品に仕上がっています。

 調べた言葉として、
 興のない(きょうのない):興味がない。おもしろくない。
 鍾馗(しょうき):中国に伝わる神さま。魔除け。

「浦島さん」
 この部分を読んで、今年読んで良かった一冊になりました。
 舞台は京都府丹後地方の海岸、浦島太郎は長男で、弟と妹がいるという設定で始まりました。
 長男は財産を相続できるから下品な遊び人は少ないという人物像です。
 アカウミガメと浦島太郎の会話は現実的です。アカウミガメは浦島太郎を、「若旦那(わかだんな)」と呼びます。
 浦島太郎は、竜宮城には行きたくないと主張します。
 アカウミガメは浦島太郎を攻撃します。あなたは、自分がカメで、いじめていた相手がこどもだったから自分を助けてくれた。いじめられていたのが病気の乞食で、いじめていたのが荒くれ者の漁師だったら、知らん顔をして通り過ぎたのにちがいない。いろいろ説得されて、浦島太郎はカメの顔を立てるような形で竜宮城へ向かいます。太郎はカメの背中に乗って船酔い状態におちいります。
 魚の群れの渦巻きは、海中では火災発生です。真珠の山は、魚のフンです。独創的な発想の記述が続きます。
 乙姫は、感情がない人に思えます。魚人間だからでしょうか。無感情です。そして、すぐ忘れます。浦島太郎に会った数分後には彼のことを忘れています。でも悪い人ではありません。
 
 浦島太郎は300才で故郷に戻ります。
 たとえば長生きの孤独があります。親族も友人もいません。
 玉手箱は、箱ではなく、二枚貝です。
 されど、悲劇ではなく、悲観せず、楽観です。
 浦島太郎は新しい世界を楽しんで亡くなったそうです。
 
 先日読んだ同作者の「パンドラの匣(はこ)」を思い出す記述内容が出てきます。そちらの作品のほうがあとで発表されたような気がしますが、この作品を制作中にすでにパンドラのほうはできあがっていたのではないかと推測しました。

 最後の一行がいい。
 「浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたという。」

 調べた言葉として、
 所謂恒産(いわゆるこうさん):世間一般に、安定した職業、資産
 恒心(こうしん):変わらない正しい心
 鹹水(かんすい):塩を含んだ水。海水
 風諫(ふうかん):遠回しに忠告すること
 顰蹙(ひんしゅく):不快に感じて顔をしかめる。
 聖諦(しょうたい):聖なる真理。仏教用語
 佞奸邪智(ねいかんじゃち):性格がねじれていて悪知恵が働くこと。

「カチカチ山」
 ウサギを16才の処女とし、タヌキを37才の中年男とする。タヌキはまた、作者と重なる。男と女の駆け引きがある。ふたりともうそつきです。情にほだされ、タヌキに痛い目にあわされた正直者のおばあさんの仕返しをするウサギの執念は深い。
 仕返し、復讐の物語です。原作をうろ覚えだったのでうっすらとした記憶に重ねるように読みました。おばあさんは、最近の絵本では暴力をふるわれたとなっているようですが、もともとは、残虐で、婆汁にされたそうです。
 防空壕の中で、五才の娘にカチカチ山の話をしたら、娘が、タヌキさん、可哀想ねと言ったそうです。まあ、年齢的に深い意味がある言葉でもなく、母親にほめてもらおうという気持ちがあると書いてあります。

 男女関係の話になるとなにやらわびしい。37才のタヌキは年齢をごまかして自分は17才だと嘘をつきます。そして、自分の三十代の兄がいいかげんな人間だと強調します。うそつきタヌキです。
 柴刈りに行って、芝に火をつけて、カチカチ山、火がボウボウ燃えて、ボウボウ山、タヌキが背中をやけどして、ヒリヒリする軟膏薬を塗ってさらに痛めつける。最後は、フナ釣りに誘って、泥船で沈めて殺す。
 やられたらやり返す。この単純なパターンが、人間界では延々と繰り返される。物語づくりの基本のひとつと悟ります。
 そうそう、舞台は山梨県、河口湖あたりとされています。
 男と女のだましあいです。
 信じる者(おばあさん)をだます罪は重い。裏切りに対する報復はきつい。
 最後に救われる記述があります。要旨として、この心理は、心全体にあるのではなく、心の一部にあるという分析です。

「舌切り雀(したきりすずめ)」
 民話の内容がおぼろげな記憶です。
 たしか、おじいさんが雀にやさしくして、おばあさんは逆にいじわるで、雀がおじいさんをもてなして、おばあさんがそれを聞いて真似をして、おじいさんは小さなおみやげで宝物が入っていて、欲深いおばあさんは大きなおみやげをえらんで、あけたら中から化け物たちが出てきてというような内容だったかすかな記憶です。

 この物語では、舌切り雀の話になる前の前段が長い。
 おそらくおじいさんを太宰自身として、おばあさんは妻、雀は愛人でしょう。
 男女の物語に変えてあります。

 作品「お伽草子(おとぎぞうし)」を完成させるにあたって、「桃太郎」は選択できない。自分には選択する資格がないと始まります。太宰は、自分は、日本一ではないし、日本二位でも三位でもないと自己分析をします。
 
 気に入った文章として
「私は多少でも自分で実際に経験した事で無ければ、一行も一字も書けない甚だ(はなはだ)空想が貧弱の物語作家である……」
「世の中の人は皆、嘘つきだから、話を交わすのがいやになったのさ。みんな、嘘ばっかりついている。そうしてさらに恐ろしい事はその自分の嘘にご自身お気附きになっていない。」(嘘をつくと生活が暗くなります。幸せが遠ざかります)

 物語作成にあたってのぐずぐずとした愚痴のような部分を読んでいると、津島修治という人は、太宰治という人を演じていた。同様に、現代の歌手や俳優、タレントやスポーツ選手も素の自分ではないだれかを演じている。あるいは、画像が、独自のキャラクター(個性)をつくりだしてひとり歩きしている。本人から見ると、自分ではない自分によく似ただれかが、テレビやパソコン、スマホやスクリーンの中でしゃべっているように見える。そういう空想が成り立ちます。
 演じきれなくなったときに破たんします。怖い。

 舌切り雀の舞台は東北の仙台としてあります。天候は雪です。
 可愛がっていた雀の名前は、「お照さん」で、竹藪の中にある雀のお宿へ案内してくれるのが同じく雀の「お鈴さん」です。
 
 おばあさんは、魑魅魍魎(ちみもうりょう。化け物)たちに食われて死ぬのですが、その後、魑魅魍魎たちは金貨に変化して、おじいさんは金貨を使って、一国の宰相(さいしょう。総理大臣)にまで出世したとあります。そして、女房のおかげだと周囲の人に言うのです。

 調べた言葉として、
 気焔(きえん):積極的な強い気持ち
 狐疑(こぎ):相手を疑う。
 メデウサ:ギリシャ神話に登場する魔物。万蛇頭。毒蛇。頭がたくさんある。
 ジイグフリイド:神話に登場する戦士。勇者。英雄
 刻舟求剣(こくしゅうきゅうけん):時代の変化を知らずに、古い方法や慣習にこだわること。融通(ゆうづう。必要に応じて自在に処理する)がきかない。
 葛篭(くずかご):元来はフジのつるで編んだかご。その後、竹で編んだかごのことをいうようになった。
 簪(かんざし):着物着用時の女性の髪飾り  

Posted by 熊太郎 at 06:55Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2020年11月14日

堂々日本史 第4巻 源義経 楠木正成

堂々日本史 第4巻 源義経 楠木正成 VHSテープ NHKビデオ KTC出版

「源義経 目立て目立ての源平合戦」
 源頼朝に避けられたり、距離を置かれたりした源義経の悲劇があります。
 時代背景として、合戦が、個人プレーからチームプレーへと変化する途中経過の時期にあったそうです。
 平家に勝ったとはいえ、意外性とスピードを重視する義経の戦法は、常識はずれの単独行動をやって、たまたま運よく勝利できただけで、源氏集団の大きな視野をもった作戦には反していたそうです。よって、平家に瀬戸内海を西へ逃げられ、壇ノ浦の合戦(関門海峡)までいってしまった。

 教訓として、大スターは、時代と運命を共にして消えていく。次の時代には生きられない。殺せば殺されるのが人の世の定め。義経は31歳で亡くなっています。個人としてずば抜けた能力があったとしても支援してくれる人がいないと生き残れない。

 もう830年ぐらい前の出来事ですが、当時の甲冑製作技術(かっちゅうせいさくぎじゅつ)の高さとか、武器としての弓矢の殺傷能力の高さ、矢が飛翔する距離の長さ(300mぐらい)などから、日本人の職人技術の高さに恐れ入りました。案外、現代人よりも過去の日本民族のほうが高い工作技術をもっていた気がしてきました。
 それから、もともと日本民族は色彩感覚が豊かだったが、江戸時代の倹約令で、地味な色使いをする性格になったというような解説も興味深かった。以前徳川美術館で、源氏物語絵巻の展示を見たことがあるのですが、軽い色どりでカラフルなパステルカラーの色彩画で驚かされたことが思い出されました。

「籠城100日、千早城(ちはやじょう)ついに落ちず 楠木正成(くすのきまさしげ)の大戦略」
 昔、NHK大河ドラマで足利尊氏(あしかがたかうじ)を観たことがあります。登場していた武田鉄矢さん演じる楠木正成の人物像には感動しました。最後は、戦略を後醍醐天皇に受け入れられず負けを承知で昔は友だった足利尊氏に向かって行って命を散らせてしまいました。自分を幕府の高い位置まで引き上げてくれた後醍醐天皇の恩を裏切ることはできないという固い意志表示がありました。
 
 番組を観ていて、千早城というのは、山城というよりも、峰に位置した陣地の本陣という位置づけだと考えました。峰はどこまでも続いており、峰沿いに山伏の手で食料が運ばれる。また、山中に湧き水が出る。
 勝つためには手段を選ばない。命のやりとりをして、負ければ一族が亡ぶ。
 商業権益を求めて、経済交流活動において束縛のない世の中をつくることが本人の夢だったそうです。

 鎌倉幕府はなぜ全国の武士たちに嫌われたのか。支持されなくなったのか。1333年に滅亡しています。二度の元寇対応もからんで、領土分割供与などの恩賞不足だったそうです。時代の流れには逆らえない人や組織の運命があります。  

2020年11月13日

トスカーナ―の幸せレシピ イタリア映画DVD

トスカーナ―の幸せレシピ イタリア映画DVD 2018年イタリア公開

 トスカーナ:イタリア半島中部の州。州都がフィレンツェ
 トスカーナ料理:イタリア郷土料理。農家の料理

 障害者であるが一流の味覚をもつグイド・セルネージ(アスペルガー症候群)の若者と刑務所出所者(おそらく短気ですぐ手が出るからの暴行罪)であるが一流のイタリア料理シェフであるアルトゥーロとの友情を描く、社会福祉と服役者の社会復帰のための更生保護を柱にした映画でした。

 いくつかいいセリフの流れがありました。いちずです。
「ぼくは試合に勝ちに来た。人に勝ちに来たわけではない(料理コンテスト)試合に勝てば賞金がもらえる。賞金で車を買う。車の運転ができたら仕事と恋人をみつけて結婚できる」
「フルパワー フルパワー フルパワー」
「君はきれいだ(女性に対して)」
「シェフはおまえだ」
「ほどほどに(適量の言いかえとして)」

 映像を見ながら思ったことがふたつあります。
 ひとつは、人間はだれしも、脳の一部分が欠落しているのではないか。その欠落している部分は、「努力」では埋め合わせができない。だから補い合うように助け合う。
 もうひとつは、「これはこうしなければならない」ということは何もない。その先のありようとかやりようはひとつとは限らずある。