2020年11月15日

お伽草子(おとぎぞうし) 太宰治

お伽草子(おとぎぞうし) 太宰治 新潮文庫

 刊行されたのが、終戦後の1945年(昭和20年)10月です。
 特殊な雰囲気がただよいます。
 戦時中、空襲から避難した防空壕の中で、五才の娘に絵本を読み聞かせます。
 読み聞かせながら、民話の中身を考察するという手法です。

「瘤取り爺さん(こぶとりじいさん)」
 右の頬にこぶがあるおじいさんが、山に行って鬼たちのまんなかで踊りを踊って、まあいろいろあって、鬼がおじいさんのこぶをちぎりとるのです。それを聞いた隣に住む左の頬にこぶがあるおじいさんが、自分もこぶをとってもらおうと、鬼のとこへ行って踊ったのですが、踊りが鬼のお好みに合わず、こぶをとるどころか、前回とったこぶを右の頬にくっつけて、両頬にこぶがぶらさがったとうオチです。
 話の部分をゴシック体の太字で書いてあります。
 考察のほうはけっこう生々しい。当時の生の生活が文章に表れています。
 
 物語の舞台は四国、剣山(つるぎさん)の近くです。阿波地方です。徳島県、阿波踊りの記述も出てきます。
 鬼たちが出てくるお話を読んでいて、今年のはやりの「鬼滅の刃(きめつのやいば)」が思い出されました。「鬼」というものは、これから何十年も人間界に生き残っていく個性なのでしょう。

 まだ、自分が小さかったこどものころに、ほほにこぶがあるおじいさんを実際に見たことがあります。読んでいて思い出しました。

 「瘤(こぶ)」を「孫」としています。民話の内容はなにかの出来事をたとえてあるのでしょう。描かれている鬼は、悪のボスのような鬼ではなく、どちらかといえば、善良なおじいさんたちの飲み会風景です。

 最初のおじいさんは、こぶが話し相手だった。奥さんはいたけれど、奥さんはおじいさんにそっけなかった。おじいさんは孤独だったから、こぶに話しかけていたとあります。

 最初のおじいさんと隣のおじいさんの比較があります。どこが違うかというと、二番目のおじいさんは欲深かった。

 人の心を楽しませてくれる娯楽作品に仕上がっています。

 調べた言葉として、
 興のない(きょうのない):興味がない。おもしろくない。
 鍾馗(しょうき):中国に伝わる神さま。魔除け。

「浦島さん」
 この部分を読んで、今年読んで良かった一冊になりました。
 舞台は京都府丹後地方の海岸、浦島太郎は長男で、弟と妹がいるという設定で始まりました。
 長男は財産を相続できるから下品な遊び人は少ないという人物像です。
 アカウミガメと浦島太郎の会話は現実的です。アカウミガメは浦島太郎を、「若旦那(わかだんな)」と呼びます。
 浦島太郎は、竜宮城には行きたくないと主張します。
 アカウミガメは浦島太郎を攻撃します。あなたは、自分がカメで、いじめていた相手がこどもだったから自分を助けてくれた。いじめられていたのが病気の乞食で、いじめていたのが荒くれ者の漁師だったら、知らん顔をして通り過ぎたのにちがいない。いろいろ説得されて、浦島太郎はカメの顔を立てるような形で竜宮城へ向かいます。太郎はカメの背中に乗って船酔い状態におちいります。
 魚の群れの渦巻きは、海中では火災発生です。真珠の山は、魚のフンです。独創的な発想の記述が続きます。
 乙姫は、感情がない人に思えます。魚人間だからでしょうか。無感情です。そして、すぐ忘れます。浦島太郎に会った数分後には彼のことを忘れています。でも悪い人ではありません。
 
 浦島太郎は300才で故郷に戻ります。
 たとえば長生きの孤独があります。親族も友人もいません。
 玉手箱は、箱ではなく、二枚貝です。
 されど、悲劇ではなく、悲観せず、楽観です。
 浦島太郎は新しい世界を楽しんで亡くなったそうです。
 
 先日読んだ同作者の「パンドラの匣(はこ)」を思い出す記述内容が出てきます。そちらの作品のほうがあとで発表されたような気がしますが、この作品を制作中にすでにパンドラのほうはできあがっていたのではないかと推測しました。

 最後の一行がいい。
 「浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたという。」

 調べた言葉として、
 所謂恒産(いわゆるこうさん):世間一般に、安定した職業、資産
 恒心(こうしん):変わらない正しい心
 鹹水(かんすい):塩を含んだ水。海水
 風諫(ふうかん):遠回しに忠告すること
 顰蹙(ひんしゅく):不快に感じて顔をしかめる。
 聖諦(しょうたい):聖なる真理。仏教用語
 佞奸邪智(ねいかんじゃち):性格がねじれていて悪知恵が働くこと。

「カチカチ山」
 ウサギを16才の処女とし、タヌキを37才の中年男とする。タヌキはまた、作者と重なる。男と女の駆け引きがある。ふたりともうそつきです。情にほだされ、タヌキに痛い目にあわされた正直者のおばあさんの仕返しをするウサギの執念は深い。
 仕返し、復讐の物語です。原作をうろ覚えだったのでうっすらとした記憶に重ねるように読みました。おばあさんは、最近の絵本では暴力をふるわれたとなっているようですが、もともとは、残虐で、婆汁にされたそうです。
 防空壕の中で、五才の娘にカチカチ山の話をしたら、娘が、タヌキさん、可哀想ねと言ったそうです。まあ、年齢的に深い意味がある言葉でもなく、母親にほめてもらおうという気持ちがあると書いてあります。

 男女関係の話になるとなにやらわびしい。37才のタヌキは年齢をごまかして自分は17才だと嘘をつきます。そして、自分の三十代の兄がいいかげんな人間だと強調します。うそつきタヌキです。
 柴刈りに行って、芝に火をつけて、カチカチ山、火がボウボウ燃えて、ボウボウ山、タヌキが背中をやけどして、ヒリヒリする軟膏薬を塗ってさらに痛めつける。最後は、フナ釣りに誘って、泥船で沈めて殺す。
 やられたらやり返す。この単純なパターンが、人間界では延々と繰り返される。物語づくりの基本のひとつと悟ります。
 そうそう、舞台は山梨県、河口湖あたりとされています。
 男と女のだましあいです。
 信じる者(おばあさん)をだます罪は重い。裏切りに対する報復はきつい。
 最後に救われる記述があります。要旨として、この心理は、心全体にあるのではなく、心の一部にあるという分析です。

「舌切り雀(したきりすずめ)」
 民話の内容がおぼろげな記憶です。
 たしか、おじいさんが雀にやさしくして、おばあさんは逆にいじわるで、雀がおじいさんをもてなして、おばあさんがそれを聞いて真似をして、おじいさんは小さなおみやげで宝物が入っていて、欲深いおばあさんは大きなおみやげをえらんで、あけたら中から化け物たちが出てきてというような内容だったかすかな記憶です。

 この物語では、舌切り雀の話になる前の前段が長い。
 おそらくおじいさんを太宰自身として、おばあさんは妻、雀は愛人でしょう。
 男女の物語に変えてあります。

 作品「お伽草子(おとぎぞうし)」を完成させるにあたって、「桃太郎」は選択できない。自分には選択する資格がないと始まります。太宰は、自分は、日本一ではないし、日本二位でも三位でもないと自己分析をします。
 
 気に入った文章として
「私は多少でも自分で実際に経験した事で無ければ、一行も一字も書けない甚だ(はなはだ)空想が貧弱の物語作家である……」
「世の中の人は皆、嘘つきだから、話を交わすのがいやになったのさ。みんな、嘘ばっかりついている。そうしてさらに恐ろしい事はその自分の嘘にご自身お気附きになっていない。」(嘘をつくと生活が暗くなります。幸せが遠ざかります)

 物語作成にあたってのぐずぐずとした愚痴のような部分を読んでいると、津島修治という人は、太宰治という人を演じていた。同様に、現代の歌手や俳優、タレントやスポーツ選手も素の自分ではないだれかを演じている。あるいは、画像が、独自のキャラクター(個性)をつくりだしてひとり歩きしている。本人から見ると、自分ではない自分によく似ただれかが、テレビやパソコン、スマホやスクリーンの中でしゃべっているように見える。そういう空想が成り立ちます。
 演じきれなくなったときに破たんします。怖い。

 舌切り雀の舞台は東北の仙台としてあります。天候は雪です。
 可愛がっていた雀の名前は、「お照さん」で、竹藪の中にある雀のお宿へ案内してくれるのが同じく雀の「お鈴さん」です。
 
 おばあさんは、魑魅魍魎(ちみもうりょう。化け物)たちに食われて死ぬのですが、その後、魑魅魍魎たちは金貨に変化して、おじいさんは金貨を使って、一国の宰相(さいしょう。総理大臣)にまで出世したとあります。そして、女房のおかげだと周囲の人に言うのです。

 調べた言葉として、
 気焔(きえん):積極的な強い気持ち
 狐疑(こぎ):相手を疑う。
 メデウサ:ギリシャ神話に登場する魔物。万蛇頭。毒蛇。頭がたくさんある。
 ジイグフリイド:神話に登場する戦士。勇者。英雄
 刻舟求剣(こくしゅうきゅうけん):時代の変化を知らずに、古い方法や慣習にこだわること。融通(ゆうづう。必要に応じて自在に処理する)がきかない。
 葛篭(くずかご):元来はフジのつるで編んだかご。その後、竹で編んだかごのことをいうようになった。
 簪(かんざし):着物着用時の女性の髪飾り  

Posted by 熊太郎 at 06:55Comments(0)TrackBack(0)読書感想文