2020年11月14日

堂々日本史 第4巻 源義経 楠木正成

堂々日本史 第4巻 源義経 楠木正成 VHSテープ NHKビデオ KTC出版

「源義経 目立て目立ての源平合戦」
 源頼朝に避けられたり、距離を置かれたりした源義経の悲劇があります。
 時代背景として、合戦が、個人プレーからチームプレーへと変化する途中経過の時期にあったそうです。
 平家に勝ったとはいえ、意外性とスピードを重視する義経の戦法は、常識はずれの単独行動をやって、たまたま運よく勝利できただけで、源氏集団の大きな視野をもった作戦には反していたそうです。よって、平家に瀬戸内海を西へ逃げられ、壇ノ浦の合戦(関門海峡)までいってしまった。

 教訓として、大スターは、時代と運命を共にして消えていく。次の時代には生きられない。殺せば殺されるのが人の世の定め。義経は31歳で亡くなっています。個人としてずば抜けた能力があったとしても支援してくれる人がいないと生き残れない。

 もう830年ぐらい前の出来事ですが、当時の甲冑製作技術(かっちゅうせいさくぎじゅつ)の高さとか、武器としての弓矢の殺傷能力の高さ、矢が飛翔する距離の長さ(300mぐらい)などから、日本人の職人技術の高さに恐れ入りました。案外、現代人よりも過去の日本民族のほうが高い工作技術をもっていた気がしてきました。
 それから、もともと日本民族は色彩感覚が豊かだったが、江戸時代の倹約令で、地味な色使いをする性格になったというような解説も興味深かった。以前徳川美術館で、源氏物語絵巻の展示を見たことがあるのですが、軽い色どりでカラフルなパステルカラーの色彩画で驚かされたことが思い出されました。

「籠城100日、千早城(ちはやじょう)ついに落ちず 楠木正成(くすのきまさしげ)の大戦略」
 昔、NHK大河ドラマで足利尊氏(あしかがたかうじ)を観たことがあります。登場していた武田鉄矢さん演じる楠木正成の人物像には感動しました。最後は、戦略を後醍醐天皇に受け入れられず負けを承知で昔は友だった足利尊氏に向かって行って命を散らせてしまいました。自分を幕府の高い位置まで引き上げてくれた後醍醐天皇の恩を裏切ることはできないという固い意志表示がありました。
 
 番組を観ていて、千早城というのは、山城というよりも、峰に位置した陣地の本陣という位置づけだと考えました。峰はどこまでも続いており、峰沿いに山伏の手で食料が運ばれる。また、山中に湧き水が出る。
 勝つためには手段を選ばない。命のやりとりをして、負ければ一族が亡ぶ。
 商業権益を求めて、経済交流活動において束縛のない世の中をつくることが本人の夢だったそうです。

 鎌倉幕府はなぜ全国の武士たちに嫌われたのか。支持されなくなったのか。1333年に滅亡しています。二度の元寇対応もからんで、領土分割供与などの恩賞不足だったそうです。時代の流れには逆らえない人や組織の運命があります。

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