2023年09月27日

ねじ式 つげ義春 

ねじ式 つげ義春 小学館文庫

 電子書籍で週刊誌を読んでいました。この本の紹介記事がありました。
 ああ、読んだことがあるなあと思いましが、内容を思い出せません。
 自宅の本棚を見たらこの本がありました。
 買って、本棚に立てかけて、読んだつもりで、読んでいなかったことに気づきました。ぼけています。最近、もの忘れが多くなりました。しっかりしなきゃあ。

 マンガの本です。
 なんというか、変なマンガです。
 芸術性が高いマンガです。
 人の心の深層部分を表現してあります。

 『ねじ』というのは、登場人物の左腕(ひだりうで)上部にクラゲ(メメクラゲ)が触れて(ふれて)、激痛を起こし、医者のところへ行ったら(どういうわけか産婦人科の女医)、患部を切ってくっつけたところに『ねじ』が設置されたのです。切り口をふさいで、ねじで押さえたというふうです。

 古いけれど有名なマンガです。
 クラゲに刺されるとかなり痛い。わたしは中学生の時に熊本県の8月お盆過ぎの海で、クラゲまみれになったことがあります。悲惨な体験をしました。お盆を過ぎたら海に入るなという言い伝えがありました。クラゲが大量発生するのです。クラゲは刺します。毒があります。

 反戦マンガのようです。1965年(昭和40年)少し前のこととして、それまでになかったマンガの形式でしょう。
 宮沢賢治作品『銀河鉄道の夜』みたいなシーンがあります。たぶん下地になっているのでしょう。亡くなった人の霊が電車(このマンガでは蒸気機関車)に乗っているのです。

 不気味な絵です。
 えびすよしかずさんが描く絵に似ています。
 妖怪ものみたい。水木しげるさんの絵にも似ています。
 その当時のみなさんたちは、同類の世界を極めていたのでしょう。昭和20年代後期から30年代、40年代前半です。

 文章も奇妙です。
 『桃太郎ではあっても実は金太郎なのです』

 左腕に付けられたねじを締めると、左腕がしびれるそうです。

 1968年6月(昭和43年)の作品です。

(つづく)

 ひとつのマンガごとにタイトルが付けられていることに気づきました。
 さきほどの作品が『ねじ式』です。

 今度の作品は『沼』です。
 読みました。
 よくわからない。
 結末は、わたしが思う筋書きのとおりにはならなかった。
 『孤独』とか『さびしさ(淋しさ、寂しさ)』がただよう作品です。1966年(昭和41年)の作品です。

『チーコ』
 チーコは、小鳥である文鳥(ぶんちょう)の名前です。
 女性に夜の仕事をさせて、その女性に食べさせてもらっているヒモのような若い男が出てきます。彼は、マンガ家の卵です。
 男は、女が愛情込めて飼っているペットの文鳥を虐待して殺してしまいます。
 作者の自伝のようです。
 人間は『愚鈍(ぐどん。頭が悪く、やることは間抜け)』です。
 1966年(昭和41年)の作品です。

『初茸がり(はつたけがり)』
 詩を読むようなマンガでした。
 男児が、振り子時計の中に入ってしまいます。1966年(昭和41年)の作品
 児童文学で『チョコレート工場の秘密』という本があるのですが、そこでは、男児がテレビの中に入ってしまいます。『チョコレート工場の秘密 ロアルド・ダール クェンティン・ブレイク(絵) 柳瀬尚樹(訳) 評論社』

『山椒魚(さんしょううお)』
 井伏鱒二作品『山椒魚(さんしょううお) 井伏鱒二(いぶせますじ) 新潮文庫』が下地(したじ)にあるのでしょう。こちらの話は途中から、まったく異なる展開となります。
 下水道の中、汚れた水の流れにのって流れてきたのは嬰児(えいじ。あかちゃんの死体)です。哀しみ(かなしみ)があります。精神的に重い。作者は精神を病んで(やんで)いたのでしょう。1967年(昭和42年)の作品です。

『峠の犬』
 読んでいる途中で、「そういうことか。おもしろい」という感想をもちました。
 迷い犬だと思っていたら、迷い犬ではなかった。
 昔読んだ野良猫の話『ルドルフとイッパイアッテナ 斉藤洋(さいとう・ひろし) 講談社』を思い出しました。野良猫は、行く先々で人に適当に名前を付けられるのです。だからその猫は自称『(名前が)イッパイアッテナ』と名乗っているのです。

 こちらのマンガ作品では、人間が、人間を中心にものごとを考えるかってさ(勝ってさ)を描いてあります。

『噂の武士』
 うーむ。人間界の社会のことをきちんと定義してある作品だと受け取りました。
 武士がふたり登場します。そのうちのひとりは「宮本武蔵」ではなかろうかというお話ですが、そいつは偽物(にせもの)です。ウソをついて、お金が動くのです。

 播州(ばんしゅう):兵庫県南部

 人をじょうずにだました人間がお金持ちになる。
 だまされたほう、だまされているほうは、そのことになかなか気づけない。
 世の中というものは、誤解と錯覚で成り立っている。
 金もうけをするときは、イメージづくり(加工されたウソの世界・空間)が大事(だいじ)。
 善人をだまして、善人自ら(みずから)が財産を詐欺行為者に提供させる方向へ導くのがお金持ちになる秘訣(ひけつ。コツ)であることが、人間界の『真実』なりという思考です。
 神格化されたカリスマ的な人物をひとり設定して、彼あるいは彼女のまわりに熱狂的な信者を集中させる。まるで、宗教のようです。教祖さまなのです。そして、大きなお金が動く。
 こちらの作品では、もうひとつ、以上のような考察を離れて、『本物とは何か』という命題(命題。考えるべき課題)に迫っています。別の視点から、『偽物だが、(完璧に完成させることができたのであれば)本物であるともいえる』と断定しています。

『オンドル小屋』
 こちらは、作者の実体験でしょう。
 東北秋田県あたりの温泉地に行って、嫌な思いをした体験がマンガになっています。
 泊まるところ、花札博打(はなふだばくち)をやる騒がしい人間たちと同宿して迷惑をこうむったのです。
 オンドルは、韓国とか中国の暖房方式と聞きました。床下に温かい煙を流すのです。
 旅行をしていると、若い人たちがはめをはずして、一晩中騒ぐシーンにでくわすことがあります。がっかりします。眠れません。そんなことが書いてあります。
 マンガはいろいろなつかしい。1968年(昭和43年)の作品です。
 山本リンダさんの「困っちゃうな……」の歌が出てきます。ほかに「なくな こばとよ こばとよ なくな……」「はるばるきたぜ はこだてへ……」の替え歌、「大きいことはいいことだーー」山本直純さんだったと思います。
わたしは花札はやり方を知らないので、「どっちもどっちも」という掛け声の意味はわかりませんが、なかなか騒がしい。
 作者はこの旅の時のことをよっぽど怒っていて、マンガにしたことがわかります。

『ゲンセンカン主人』
 ゲンセンカンというのは温泉旅館です。
 主人公の男性は、駄菓子屋で天狗のお面を買います。
 主人公が、ゲンセンカンの主人と似ているそうです。
 不思議なマンガなのですが、主人公とゲンセンカンの主人が重なるのです。前世の人と現世の人だろうか。あるいは幽霊だろうか。
 鍵を握る言葉が『鏡』なのですが、わたしには読解力がないのか、意味をとれませんでした。
 ラストシーンの意図がわからない作品でした。1968年(昭和43年)作品

『長八の宿』
 伊豆の温泉旅館です。
 入江長八(いりえ・ちょうはち)は左官屋(さかんや。セメントなどを塗る職人)で芸術家でもあったらしい。鏝絵(こてえ)を描く。
 『…… わしは字は読めねぇ』(昭和40年代の頃は、こどものときに学校に行けなかったからという理由で、文字を読めないお年寄りがけっこうおられました)
 旅館の娘であるマリちゃんは、東京の大学を出て、パンフレットをつくるなどの知的な仕事をしている。東京にクニオさんという好きな人がいて、クニオさんに手紙を書いている。
 ほかに旅館の歴史などの紹介があります。
 川端康成作品『伊豆の踊子』を意識して描いたマンガなのでしょう。
 旅行記でした。1968年(昭和43年)の作品

『大洋電気鍍金工業所(たいようでんきときんこうぎょうしょ。ときんはメッキ。金属加工。金属の上に金属をかぶせる』
 メッキ職人の話です。メッキ工場で働きます。特殊な薬剤を使用するので健康被害が心配です。
 塩酸、硝酸、青酸カリとあります。
 過酷な生活で貧困があります。
 肺を壊して死んでいきます。公害のようなものです。
 予科練(よかれん):海軍飛行予科練習生。航空機要員養成所。少年の志願による募集で採用した。
 朝鮮戦争:1950(昭和25年)-1953年(昭和28年)現在も終結はしていない。韓国VS北朝鮮(後ろ盾(だて)として、米国・国連・ヨーロッパの国々VS中国)

 虚無があります。(きょむ:何も存在せずむなしい)
 努力しても報われない(むくわれない)暮らしです。
 男と女の関係があって、底辺の生活です。

『ヨシボーの犯罪』
 へんな出だしのマンガです。
 雑誌の中にいる若いビキニの女性をピンセットでつまみだして食べるのです。
 人食いです。アニメ作品『進撃の巨人』を思い出しました。グロテスクです。奇怪、異様、気味が悪い。
 自転車修理屋で働いている主人公の若者男性です。(名前は、ヨシボー)兄と自転車修理をしているそうです。
 メッキ工場が出てきます。(さっきの『大洋電気鍍金工業所』の続きの話だろうか)
 ラストシーンで自転車に乗ったヨシボーが、『よし、みんなに(温泉があることを)教えてあげよう。』と言います。(「みんな」ってだれのことだろう?)

『少年』
 うーむ。気持ち悪い。
 ヨシボー(義坊)が、罠で捕まえたねずみを青酸カリに漬けて(つけて)殺しています。(わたしが小学生の頃、金属でできたねずみとりの罠(わな。箱の形状)を水につけてねずみを殺していた場面を見ていたことを思い出しました。昭和40年代のことです)
 クローム:銀白色の金属。クロームメッキに使用する。
 237ページまで読んで、ようやく、『ヨシボー』が作者の『つげ義春さん』であることがわかりました。自伝的要素があるマンガです。かなり苦労されています。
 マンガ家を志しておられます。(マンガの中で)
 家に帰ると母親がいて、まだ小さい弟と妹がいて、義父がいます。幸せそうには見えません。
 女と男のやるせない関係があります。(憂い(うれい)、悲しみ、解決のしようがない)
 お金はないけれど、ある意味平等な世界があります。貧困世界における男女平等、年功序列なしです。
 人間の心の奥に潜む(ひそむ)残酷な面が描写されています。1981年(昭和56年)の作品

『ある無名作家』
 最後の作品になりました。1984年(昭和59年)の作品です。
 奥田という男性が、安井という男性のところへ久しぶりに会いに来ました。
 わたしなんぞは、久しぶりに古い知人から連絡があると、お金の無心ではなかろうかと警戒してしまいます。
 マンガの中の季節は5月のこどもの日です。
 こいのぼりが風になびいています。
 奥田は小学校4年生ぐらいの男児を連れています。(あとでわかりますが、逃げた女房の連れ子です。奥田はその子を暴力的に虐待しています)
 安井という男性は貸本マンガを描いていたそうですから、著者自身のことか、著者の知り合いのことなのでしょう。
 読み続けて、やはり、安井は、つげ義春さんでした。

 小川国夫:小説家。2008年80歳没。「アポロンの島」

 奥田の生活は悲惨です。あまりにもひどくてここには書けません。(だけど、わたしに言わせれば、情けない男です。男ならガッツをもて! 闘志をもて!)
 小学4年生男児は、名を『伸一』といいます。

 つげ義春さんもこどものころ、義父から虐待を受けたらしい。
 虐待は、人の心を壊します。

(最後に、佐野史郎さんのエッセイがありました)
 つげ作品のファンだそうです。
 実際につげさんに会って、つげさんは『観察の人』だと分析されています。
 つげ作品は、「光がどんなにあたっている所でも闇は必ずある」ではなく、「闇だらけで真っ暗な中にも、必ず光はある」という評価だそうです。
 読み手の人生体験で、感じ方が違ってくる作品だと思います。共感される人は、それなりの苦労体験をされていると思います。
 「あいまいとか、わからない」ということがある。「はっきりとしたわかりやすい世界」は、人間界にはあまりない。
 エッセイを読んでいて、コメントにある「緩やかな(ゆるやかな)気持ち」があれば、戦争も起こらないと思ったのです。  

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2023年09月26日

おばけのバーバーパパ

おばけのバーバーパパ さく/アネット=チゾンとタラス=テイラー やく/やましたはるお 偕成社

 おばけはピンク色です。形状はアメーバーのようです。表紙をめくって、おばけは足が何本もあるのですが、形を変化することができると気づけます。
 おばけが、パパということは、パパは亡くなったのだろうか。(最後まで読みましたが、パパのことは出てきませんでした)
 原作者のフランス住まいのご夫婦はすでに亡くなっています。
 原作は、1971年(昭和46年)で、日本での出版は1972年(昭和47年)です。
 物語をつくった人は亡くなっても作品は読まれ続けます。

 絵は、線がすっきりしていてきれいです。
 色も感じがいい。
 登場人物『フランソア』は、女子かと思ったら男子でした。小学校高学年に見えます。
 フランソアが、おばけの球根のようなものを土に埋めて水やりをしています。
 「ジャックと豆の木」の豆のように、土の中から姿が地上に出て、おばけの球根は育っていきます。植物のようです。
 
 おばけは大きくなりすぎて、動物園へ行くことになりました。

 やはり、バーバーパパは、自分の姿の形を変えて、狭くて不自由な檻(おり)から出て、自分の好きなところへ移動します。
 ものまねおばけです。オットセイのまねをしてオットセイの形になります。次は、フラミンゴ、そしてラクダと続きます。形態模写です。
 問題行動だとして、バーバーパパは、動物園を追い出されてしまいました。
 でも目的地がないので、とほうにくれて泣いています。
 
 ほう。バーバーパパは、自分が人の役に立つ役割を果たせることに気づきました。
 火事場で、階段の形に変形して、高いところにいる人を救命救助しました。
 
 今度は、動物園から逃げ出した豹(ひょう)をなんとかします。
 なるほど、ここで、表紙のあたりの絵に戻ります。
 バーバーパパは、足を檻のような形にして豹(ひょう)を閉じ込めました。
 
 世のため人のために働くと人気者になります。
 バーバーパパは、ペットのようなものだろうか。
 それとも人間のことをおばけにたとえてあるのだろうか。
 どうしておばけなんだろう。
 
 愛情深いお話でした。
 『平和』があります。  

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2023年09月19日

おばけのてんぷら せなけいこ

おばけのてんぷら せなけいこ作・絵 ポプラ社

 うさぎがめがねをかけていいます。
 めがね姿がかわいい。
 こどもさんに読み聞かせるための絵本です。

 1976年(昭和51年)の絵本なので、ことばづかいが古いのですが、なつかしい。
 うさぎのお名前は『うさこ』です。
 おみそ汁は『おみおつけ』です。

 にんげんのちびっこは『食べること』が大好きです。うさこも食べることが好きです。
 おや、ねこが出てきました。
 ねこのお名前は『こねこくん』です。

 はり絵のような紙面です。でこぼこした感じがあります。ぬくもりがあります。

 こねこくんのおべんとうです。
 おかずはてんぷらですが、日の丸弁当みたいに見えます。(白米(はくまい)ごはんのまんなかに赤い梅ぼしが1個置いてあります)

 『かあさんねこ』いまどきは、耳にしない言葉です。
 昔の人は、日本語を大切にしていました。

 てんぷらの材料として:にんじん、おいも、さやえんどう、かぼちゃ、たまねぎ、こむぎこ、あぶら、たまご……

 たまご屋、やお屋、かんぶつ屋、昔は個別のお店でした。何の店? と聞かれそうです。今は、スーパーマーケット形式が多くなりました。

 絵で、てんぷらのつくりかたが順番に描いてあります。
 わたしが中学一年生の時に、母方祖母がわたしに、トンカツのつくりかたを手取り足取り教えてくれました。
 祖母にはいろいろと、とても世話になりました。
 もうずいぶん前に亡くなりましたが今でも感謝しています。
 
 うさこは、てんぷらづくりのさいちゅうに、めがねをこむぎこの中に落としてしまいました。気づいていないみたいです。(うさこは、めがねがなくても、目は見えるみたいです)

 ほーー そうくるか。奇想天外です。(きそうてんがい:まったくおもいもよらない展開)
 夕方、おやまのてっぺんにおばけの登場です。
 たのしい発想の展開があります。おばけもてんぷらを食べたいのです。
 うさこは、めがねをはずしていたから、やっぱり見えないのか。うさこはおばけの姿が見えなくて、おばけをてんぷらにしてしまいそうになります。

 そうか。いろいろ考えてある物語のつくりです。
 ちびっこにとって、ハラハラドキドキシーンがあります。
 
 短いお話ですが、なかなかたくさんの情報がこめられています。
 お話はひねってあります。(ひねる:工夫(くふう)する。どんでんがえしとかがある)  

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2023年09月15日

さよならのあとで 夏葉社

さよならのあとで 詩・ヘンリー・スコット・ホランド 絵・高橋和枝 夏葉社(なつばしゃ)

 『あしたから出版社 島田潤一郎(しまだ・じゅんいちろう) ちくま文庫』を読んで、島田さんがひとりで経営している出版社「夏葉社」の本を何冊か取り寄せました。
 まず驚いたのが、どの本も装丁(そうてい:本のつくり)が、ていねいにつくられていたことです。大量販売の本ではありません。大量販売の本は効率優先でつくられています。できるだけ製作経費を安くして、世の中に大量に流通するように、購買者に目立つようにという派手なつくりです。
 夏葉舎の本はそうではありません。まるっきり正反対のつくりです。驚きました。末永く持ち続ける本です。何度でも再読するのです。

 この本は、一片の詩を一冊の本にしてあります。
 珍しい。
 詩集はなんどか読んだことがありますが、このようなつくりの詩集は初めて見ました。
 1ページに、文章が、一行(いちぎょう)か二行(にぎょう)しか書いてありません。

 全体を読み終えて、目を閉じて思ったのは、類似の詩(あるいは歌)として『千の風になって 秋川雅史さん歌唱』があるということです。亡くなった方が、生存している人に贈るメッセージです。
 こちらの本にある詩は、イギリスの詩人がつくったものです。
 ヘンリー・スコット・ホランド:1847年(日本では江戸時代末期。明治維新が1868年)-1918年71歳没
 絵を描かれた方は『盆まねき 富安陽子・作 高橋和枝・絵 偕成社』で見たことがあります。児童文学です。
 こちらの本の挿絵(さしえ:文章に関係がある絵)には味わいがあります。
 
 自分の勝手な解釈を入れながら、もう一度、1ページずつめくって読みながら考えてみます。
 『となりの部屋にそっと移っただけ。』(亡くなった方が、隣の部屋に移動したのです。この文章がこの詩のキモ(最重要点)です)

 人の死というものは、亡くなった方とすごく身近な関係にあった人を除いて、たいていは、お葬式が終わって一週間もたつと忘れ去られてしまう出来事です。
 生きている人たちは、日々の生活に追われて時間が過ぎていきます。

 一年に数回しか、あるいは、数年に数回しか会わない人は、その人が亡くなったあとも、まだ生きているかのような気がしたりもします。(ゆえにわたしの母方祖父母は、わたしのなかではまだ生きています。ただ、本当に生きていたら、とうに100歳を超えています。自分のイメージ(想像、空想)では、歳をとらずに生きています)

 この本は、魂とか心がこもった本です。

 先日親族の三回忌を営みました。
 また、近々お寺さんにお参りにも行きます。
 ヒガンバナが咲く9月になりました。
 おととしの9月にひとり、続けて10月にもうひとり、高齢の親族を見送りました。
 時がたつのは早いものです。
 そのぶん、孫たちが成長しました。幼稚園生だった子どもたちが、いまは小学生です。
 
 生きているうちに、お互いによく会話をして、意志疎通をはかっておこう。
 けっこう、誤解があったりもします。
 みためではなかみはわかりません。

 亡くなった人との思い出を秘めながら(ひめながら:表面には出さないけれど。)これからの日々を過ごしていく。自分なりに、いつもせいいっぱいやってきた。よかったことも、そうでなかったことも、いろいろあったけれど、あれはあれで良かったと自分を納得させています。過ぎた過去を変えることはできません。

 詩の一文(いちぶん)として『人生を楽しんで』(この言葉に尽きます)

 死んだ人からのメッセージです。『ほほえみを忘れないで。』(「ありがとう」という言葉を言えない人は、幸せになれないと思います)

 白黒の絵が秀逸です。(しゅういつ。ぬきんでて、すぐれている)。カラーじゃなく、白黒で良かった。

 深い悲しみがあって、強い克服があった。

 自然でいてくださいというメッセージが続きます。
 平常心の維持がだいじです。

 絵本のようでもあります。
 
 歳をとって思うことです。これまでにたくさんの人の死を見送ってきました。
 自分が迷惑をかけた相手もいますし、逆に迷惑をかけられた相手もいます。
 もう終わったんだなあと思うのです。
 相手はもうこの世にいません。
 そんなことを考えながら、自分もあの世へ行く順番待ちをしているという実感はあります。

 さて、この本の趣旨に戻って考えてみます。
 繊細な心をもつ人にあてた死者からのメッセージです。
 愛する人を失って(男女とか年齢に関係なく)、その人のことを忘れることができないのです。
 亡くなってしまったのはしょうがない。気持ちを切り替えて、ガンガンやっていこう! とは思えないのです。
 愛する人を失って、沈んだ気持ちでいる人が読む本です。(失意とか落胆とか)
 忘れられないのなら、忘れなくていいのです。
 詩に一文(いちぶん)があります。『となりの部屋にそっと移っただけ』

 カノン:クラッシク曲の美しい曲(パッフェルベルの「カノン」)ですが、こちらでは、この詩をつくった人が所属するキリスト教会(セント・ポール大聖堂)での役職が「カノン」として書いてあります。カノンは、司祭(しさい:儀式担当の職員)

 グリーフケア:死別の悲しみをかかえる遺族をサポートする。  

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2023年09月14日

琥珀の夏(こはくのなつ) 辻村深月(つじむらみづき)

琥珀の夏(こはくのなつ) 辻村深月(つじむらみづき) 文藝春秋

 4か月ぐらい前に手に入れた本です。
 これから読む本のダンボール箱に保管してありました。
 夏も終わりに近づいているので、タイトルの夏にちなんだ読書をせねばと、ちょっとあせりぎみで本を手にしました。
 
 読み始めて、迫力のある出だしです。
 幼児の白骨死体が発見されたようです。
 事件モノ、児童福祉施設でのこどもの死を扱ってあるようです。
 いつものように読みながら感想メモを書き足していきます。

 静岡県にあった『ミライの学校』の跡地で女児の白骨死体が発見された。
 死体は自分の孫ではないかという人が現れた。
 弁護士女性が動き出したのですが、どうも彼女がなにかを知っているようです。彼女も同じ施設にいたというような設定に思わせる話の運びです。

 美夏(みか):死体の主ではないか。

 近藤法子(こんどうのりこ):弁護士

 田中:施設の関係者女性。やせている。化粧っけなし。白髪あり。見た目が、近藤法子よりずいぶん年上に見える。

 青年:施設の事務職らしき人。眼鏡をかけて、小鹿のような顔をしている。(施設で育ったこどもではないか)

 プロローグとエピローグがあって、第一章から第八章、そして、最終章があります。

 ミライの学校:雑草の生い茂った「広場」があった。広場の隅に、トタン屋根の物置小屋があった。雑草の生えた広場に何年も乗っていないような自転車が1台横倒しになって放置されていた。
 鳥、蝶、トンボ、お風呂、食堂、木造校舎、工場、先生との問答、泉、女児の白骨死体は、広場に埋められていた。(宗教関係の児童施設だろうか)

(つづく)

 40ページまで読みました。人の名前がたくさん出てきます。
 施設という設定から以前観た邦画を思い出しました。『約束のネバーランド 邦画』化け物に食べられるためにこどもたちが養われていたのです。おぞましい話です。(恐怖、嫌悪、いやな思い)

以下、昔のこととして、

 美夏(ミカ。再掲):白骨死体の主と思われる。今は、幼児。幼稚園年長6歳ぐらいか。幼等部。ミカは、6年生のシゲルが好きらしい。

 近藤法子(ノリコ):今は弁護士。ミカと同い年。幼等部

 ヨシエ:小等部4年生
 ミチエ:4年生
 シゲル:6年生。無口。背が高い。坊主頭。女子にもてる。
 ヨウイチ:3年生
 チトセ:この子がキーポイントのようなポジションに見えます。背中のまんなかまでのびる長い髪。気取っている。ここで(施設で)生まれたこどもではない。幼等部。ミカ、ノリコと同い年。幼稚園年長、6歳ぐらい。(いじめにあうのだろうか)
 ナナ:2年生
 ナルミ:中等部3年生
 シンスケ:高等部
 エリカ:小等部5年生。森の泉にリボンを流してなにかお願いをしたらしい。シゲルと両思いになれますようにかも。
 ユッコ:中等部
 ヒサノ:幼等部。年長6歳ぐらい。
 ユタカ:小等部
 ヤス(ヤスアキ):幼等部
 タカシ:幼等部
 
 くみこ先生
 水野先生:幼等部の校長。白い髪と白いヒゲ。おじいちゃん。絵の先生。ミカにとって、水野先生は好きな先生
 ひとみ先生

 施設の名称は『学び舎(まなびや)』です。
 『ミライはここにしかない』
 ミカの施設入所です。いままでつないでいたはずの手がいつのまにかなくなっているとあります。悲しい話です。(施設入所で、つないでいた親の手が離れた)

 『森の泉』『朝いちばんの泉の水に、大事なものを流してお願いすると、どんな願いでもかなう……』(泉から川のようなものが流れて出ているのだろうか)
 水を泉までくみにいって、生活用水として使用しているようです。
 小学校は麓(ふもと)にある。
 
 工場:泉の水を汲んで詰める工場

 美夏は泉に行って自分の宝物(お父さんとお母さんからもらった絵の具)を泉の水に流すのですが、それは寝ていたときの『夢』ではなかろうか。実際には夜中に泉には行っていないのではないか。美夏は両親に会いたい。(両親はともに事故死したのかと思っていたら生きているようです。年末年始に会えるそうです。わたしの勝手な意見ですが、こどもを捨てるような両親は捨てればいい。追いかける必要はありません)

(つづく)

 80ページまで、第一章「ミカ」の部分を読み終えました。
 前記した出来事は『夢』ではありませんでした。
 なにかしら現実味がないお話が続きます。就学前の女児たちの話は、人間の話ではなくて『妖精(ようせい)』たちの話のようでもあります。
 死んで白骨死体で埋められていたであろう就学前6歳ぐらいの女児「ミカ」が生きていたときのようすが書いてあります。不気味です。

 親が孤児院らしき施設『(ミライのための)学び舎(まなびや)』』に来て、就学前の女の子チトセが引き取られていったようです。やせた髪の短い、唇が赤い女の人が迎えに来ました。男の人が車の運転をしていました。
 『帰るの?』
 そのあと
 『どこに』
 『ナガサキ』(旅行で行ったことがある長崎県内のあちこちの風景が目に浮かびました。チトセの親は冷たそうな人間に見えます)

 会(かい):話し合いの場のことのようです。学び舎(まなびや)の建物と事務所の間にある大きな建物の中で「会」が開催されるそうです。会を開いて「問答(もんどう)」をするそうです。(この施設ではなにを学ぶのだろう?)「ゆるす」という言葉が出てきました。
 
 泉に流したのが、油絵具だったらだめで、水彩絵の具だったらいいという理屈は変です。

 年長らしき幼児たちは、小学校に入学するそうです。ランドセルは新品もあるし、おさがりもあります。

 80ページの位置にいて、作者は、この本で、どんなメッセージを読者に伝えたいのだろうかと思う。

(つづく)

 100ページまで読みました。
 孤児院の話ではありません。
 これは、昔問題になったこどもを農業集団の中で育てる組織のことだろうか。
 親がいるのに親から離れて集団生活をするこどもたちです。へんな親です。親の役割を放棄しています。こどもからみれば、ひどい親です。児童虐待みたいなものです。親にこどもを育てる能力がありません。
 自然の中で農作業や畜産、遊ぶ体験をさせる集団です。
 この本の中では『ミライの学校』です。
 洗脳が恐ろしい。(組織の都合のいいように意識や心理をコントロールされてしまう)
 先日読んだ作品『光のとこにいてね 一穂ミチ(いちほ・みち) 文藝春秋』を思い出しました。自然派食品しかこどもに食べさせない毒親がいました。

 81ページから始まる『第二章 ノリコ』は、成長して弁護士になった近藤法子のことでしょう。いまはまだ小学4年生です。夏休み体験のような企画で、短期間、ミライの学校にいたようです。『夏の(学び舎(や))留学編』です。

 ユイ(小坂井由衣):ノリコの友だち。かわいい。バレエとピアノと英語と習字と新体操をしている。むらさき班。母親が、ちはる先生(きみどり班)
 ケイコ、マリ:ノリコやユイと同年齢
 アミ(アサミ):小学4年生。ユイの仲良し。きいろ班
 コウスケ:アミと関連があるようです。
 メグミとタクマ:こどもクラブというところに属している。ノリコと保育園が一緒だった。
 ノリコの母親:看護師をしている。
 ノリコの父親
 シンタ:ノリコのクラスメート
 エリ、ハルミ、ミエ:ユイの仲良し。エリの言葉『―― ノリコちゃんさ、一緒に(ミライの学校へ)行ってあげることなんてないって。』

 なにかしら、ノリコに対する「いじめ」の雰囲気があります。えこひいきです。ノリコが責められるような言葉の流れが同級生女子にあります。ダサいノリコだそうです。
 
 人の名前がどんどん出てきて把握がたいへんです。
 
 時田:女の人。はきはきしてきれいな人。細くて、優しそう。話もじょうずそう。あかちゃんをだっこしている。アミの母親。英語の先生。アメリカ暮らしの体験あり。黄色班

 こどもの集団は、色分け名称の班に分けられる。

 ノリコ(ノンコ):みどり班
 初日はユイと寝たが、翌日の夜は寝なかった。

 じゅんぺい先生

 しんたろう先生(校長):白髪少々の黒髪、眼鏡

 まみ先生(時田):だいだい班。アミの母親。

 ちはる先生:きみどり班。ユイの母親

 この集団は、どうも『苗字(みょうじ)』を使わないようです。
 おとなもこどもも、下の名前で呼び合います。この集団の独特な慣例なのでしょう。

 以下、学園入所中のこどもたち
 アリサ:ツヨシ:ミチエ:ヨシエ:ショウタ:ヒサノ:ミカ
 シゲル:眼鏡、クール、頭が良さそう。かっこいい。
 サヤ:みどり班。4年生。カワサキから来た。食べることができないものとして、牛乳、卵、肉。食べることができるものとして、野菜

 さちこ先生:みどり班担当

 ミワ:仙台から来た。ユイと仲良し。むらさき班

 (なんというか、うわべだけの仲良し関係の集まりで、なにかしら不気味です)

 ノリコは配膳係です。

 第二章の終わりに、白骨死体でみつかったという『ミカ』が出てきました。

 第三章『法子(のりこ)』を読み始めます。

 近藤法子は成人して結婚してこどもがいます。彼女の職業は弁護士です。夫も弁護士です。
 
 藍子(あいこ):近藤法子夫婦の娘。もうすぐ3歳

 近藤瑛士(こんどうえいじ):近藤法子の夫

 山上法律事務所:近藤法子の所属事務所。近藤法子は15年間所属している。

 山上:山上法律事務所の所長。65歳男性

 新谷(あらや):山上法律事務所の顧客。東京小岩にある工務店の社長。新谷の妻の母親が死去した時に相続手続きで近藤法子が手続きをした。絶縁状態の妻の弟がいた。弟は、新興宗教に入信して出家して親戚づきあいがなくなった。団体名が『道輪の会(みちわのかい)』弟は50代で丸坊主、ガラスのような目をしていた。相続放棄の手続きをした。

 吉住夫妻(よしずみふさい):新谷の知人で老夫婦
 吉住孝信:夫。87歳。元商社マン
 吉住清子:妻。85歳
 長女 保美(やすみ)
 吉住夫婦には、娘がいるが、音信不通になっている。娘である保美(やすみ)がこども(おそらくミカ)を連れて、宗教のような団体で集団生活を始めた。ふたりにとっての孫は、当時2歳だった。以後交流がない。
 こどもの白骨死体のニュースを聞いた。そのこどもは自分たちの孫のミカではないかと思っているとのこと。死亡時の年齢は9歳から12歳、小学3年生から小学6年生。弁護士の近藤法子は、自分が小学生のときに夏休みのときだけ参加していたサマースクール『ミライの学校(静岡県内にあった。2002年に閉鎖(平成14年)2001年団体が売っていた水に不純物が見つかった)』で出会った少女ミカではないかと考え始めた。4年生と5年生のときに会った。6年生のときにはいなかった。

 カルト的:何者かを崇拝する集団。熱烈な信者

 吉住夫婦の娘の経歴です。
 名門私立中高一貫校を卒業して国立大学卒業後就職。同僚の男性と結婚後娘をもうけて離婚。ミライの学校で生活開始。孫娘は二歳だった。両親が孫娘は置いて行けと言ったけれど娘は孫を団体施設へ連れて行った。(組織では親子を離して生活させた。子は団体組織の活動のために利用する人材だったのでしょう)
 
 弁護士近藤法子の思い出ふりかえり部分を読んでいると、ミライの学校という組織は、うわべだけがよく見える組織運営をしていたということがわかります。

 白骨死体が、吉住夫婦の孫娘のミカかどうかを確認する。
 孫娘はもし今生きていたら四十歳になる。
 (こどものまま死んでいったことに深い悲しみがあふれています)

 学力優秀な親が、こどもにとっていい親とは限らないことがわかります。

『第四章<ミカ>の思い出』
 さちこ先生(山下さちこ):なにかわけありの人
 けん先生:さちこより年下。この人も変(へん)
 ノブ:小学4年生男児。学習障害でもあるのか。言動が変(へん)
 水野先生:麓(ふもと)の小学校の校長先生みたいな男性。白髪頭のおじいさん。
 サヤ:光本沙也。川崎支部所属。メガネをかけている。偏食者(へんしょくしゃ)。きれい好き。
 シゲル:沖村滋

 ミカの語りが少しあって、そのあと、ノリコの語りが長時間続きます。
 未来の学校における夏合宿の様子です。六日間です。

 さちこ先生とけん先生の対立があります。小学4年生ノブへの対応の仕方が対立の原因。『一人も、誰のことも、置いて行かない。』
 『泉』がこの集団のシンボルです。天然水を工場でボトルに入れて販売しています。
 RPG:ロールプレイングゲーム。役割分担実行ゲーム
 
 毎夜『会』と『問答』がある。

 ノリコ(みどり班)、アミ(アサミ。きいろ班)、サヤ(みどり班)の三人で寝る。
 
 小学四年生ノブに関してです。なんというか、やろうとか、やらせようとか思っても、できないこどもさんもいます。以前読んだことがある本の読書メモの一部です。『ケーキの切れない非行少年たち 宮口幸治(みやぐち・こうじ) 新潮新書』『どうしても頑張れない人たち ケーキの切れない非行少年たち2 宮口幸治 新潮新書』「認知機能:記憶、思考、理解、計算、学習、言語、判断」に問題があるそうです。病院では、根本的には治せない。
 ふまじめとかやる気がないとかの性格・資質ではなく、もともと能力がない。非行行為をした理由を説明する力が本人にない。深刻な雰囲気です。外見ではわからない。むしろ弱々しくて、線が細い。ふだんは、おとなしく、無口。人なつこい面あり。あいさつはできる。九九ができない。日本地図が理解できない。日本国首相の名前が言えない。日本国首相の名前が、「オバマ」という返答にはあぜんとしました。学校では、いない者として扱われていたのではないかと読みながら思ってしまいます。不登校、暴力、万引きが始まります。

 「平和」と「戦争」について問答をする。「ケンカ」と「戦争」について考える。
 (なんというか、答えのない問題を解こうとしています。人間は欲をもつ生き物です。欲にかられると善悪はなくなり、武力行使で勝った者が正義になります)

 この集団のおとなたちは、しなくてもいいことをして苦しんでいるようにみえます。

 合宿中、小学4年生のノリコに初めての生理が訪れました。そのあと、いろいろあります。

 自習室:反省部屋。ひとりでゆっくり考える。生きることは反省の繰り返しだそうです。自習室は、はたから見れば『罰(ばつ)』です。自分の意思では、外に出られない。

 カマドウマ:わたしは、「ウマオイ」と呼んでいます。虫です。

 いとことは、こどものときはよくいっしょに遊びますが、おとなになると、たいていは、他人のようなものになります。

 『ほんとうは、お母さんといっしょに暮らしたい』

 (ミカが白骨死体になっていたとして、シゲルは今、どこで生きているのか? どこにいるのか? 「シゲルとミカは両思い」シゲルはミカより6歳ぐらい年上)

 世界と未来を考える。

 ヒサノ:小学4年生

(つづく)

 タイトルに『琥珀(こはく)』とあります。
 琥珀:天然樹脂の化石、宝石。石の中に太古の化石があることがある(虫とか)。飴色、黄金色。宝飾品。NHKBSで再放送されているじぇじぇじぇの『あまちゃん』では、登場人物の勉さん(べんさん)がいつも飲食店のカウンターに座って琥珀を磨いています。

 今は、第七章『破片の行方』を読んでいます。第五章『夏の呼び声』第六章『砕ける琥珀』を経ました。(へました)
 登場人物たちの素性がだんだん明らかになっていきます。ここに書くことはやめておきます。

 ノリコが宗教ではないけれど宗教のような集団の夏期合宿に三年間連続で参加してから三十年ぐらいが経過しています。ノリコは40歳の弁護士、夫と保育園の2歳児クラスに預ける娘がいます。

 なんというか、人間の『偽善(ぎぜん。表裏(おもてうら)。うわべだけの良いこと。本心は正反対』を問う作品です。正義の立場で相手を責める人がいます。実は、善良な心をもっていない人です。作品では、自分は「いい人」相手は「悪い人」と決めつけた言動をする人を糾弾します。(きゅうだん:真実を暴き出し(あばきだし)非難する)
 その状況から(たぶんこれからの展開として)『愛情』を見つけ出していくのです。

 カンピロバクター:水の中にあるバクテリア。そういえば、先日、観光地で流しソーメンの食中毒がありました。こちらの本では、集団がつくる泉の水のペットボトルにカンピロバクターが入っていました。

 セリフの書き方として、「 」と表記するときと『 』と交互に表記することで、だれが発言したかわかるようになっています。わたしが初めて見た手法です。

 八街市(やちまたし):千葉県内のことがときどき出てきます。わたしも縁あってときおり千葉県を訪れるので読んでいて、身近に感じることができます。楽しみにしているテレビ番組のバス旅のコースでもよく千葉県内が出てきます。

 299ページ、映画を観ているようなシーンです。
 何十年ぶりかの再会があります。

 <ミライの学校>学校として認定されていない組織で、こどもはミライの学校という宿泊共同施設から、地元の小中学校に通う。ミライの学校の高等部を卒業しても高卒にはならない。学歴は中卒のままとなる。

 宗教ではないけれど、宗教のような団体に加入してくる人のタイプが書いてあります。けっこうきついものがあります。
・裕福な家の専業主婦
・高学歴でも専業主婦でいる女性
・お金がある。
・暇がある。
・熱意がある。
・夫は仕事が忙しい。夫は家庭のことにかまわない。夫は、妻が家庭を守る立場にいると思っている。
・妻は思想にかぶれる。(戦争や平和について語り合うけれど、どこまで真剣なのか怪しいとあります)
・妻はまじめな性格である。
 
 登場人物たちは、正直者ではありません。ウソをついているのではないかと考えながらの読書です。推理小説の要素があります。
 
 <ミライの学校>:絶対的な秩序がない。きまりごとはたくさんあるけれど、何のための組織なのかという『目的』がない。
 
 『子どもたち――特に小さな子には、絶対に家庭が必要です……』(同時期に読んでいた別の本が『児童養護施設という私のおうち 田中れいか 旬報社』でした。7歳から18歳まで児童養護施設に入所体験をされています)
 
 『あそこが一番大事にするのは、自分たちの生活を守ることです……』(組織人というのは、組織と自分たちを守ることを最優先に考えます)

 どこまでが真実で、どこからがウソなのか。ことがらを信じられなくなります。暗い闇が広がっています。

 うわべだけのきれいに見える外見(そとみ)と内面にある毒々しいほどの現実の対比です。

 近藤法子の3歳になる娘が保育園に入れないという悩みが書いてあります。2歳児までしか預かってくれない保育園があります。その次を探さなければなりません。保育園待機児童の話です。
 都会は競争社会です。ひとつのポスト(地位。席(せき))に人が群がります。
 
 369ページ『仕事をやめ、育児のために時間をささげるのはどうして女の方だと決まっているのか……』
 以前読んだ本『彼女の家計簿 原田ひ香 光文社』を読んだ時にショックを受けた記述があります。それまでは、女性における会社の幹部ポストというのは、結婚・出産・育児をしないで、仕事一筋にやってきた女性がなってあたりまえと思っていました。違うのです。
 家庭・家族をもちながら働く女性の、家庭・家族をもたない仕事人間女性に対する攻撃的な意思表示がありました。
 『積極的に家庭をもたなかったあなたには、仕事しかすることがなかった。あなたから仕事をとれば、あなたには何もない。家族がいない。
 わたしだって一生懸命働いた。仕事をしたかったけれど、(育児支援の制度を利用して)結婚・出産・育児をしなければならなかった。子育てをしながら懸命に働いたのに、幹部役職のポストには就けなかった。(家庭も家族ももたなかった)あなたばかりが職場で出世した』家庭・家族をもった勤労女性にとって職場での待遇が不公平であることに強い不満をもち抗議する姿がありました。

 異母きょうだい、愛人の子、本妻の子、継父、継母、実母再婚後の異父きょうだい、家族の枠からはみ出された子、不倫の清算、いろいろあります。施設に入る前に、宗教みたいな集団に入る。血縁関係があっても、親子の縁を切りたい人たち。複雑です。

 『――ずっと放っておいたくせに。(ほうっておいたくせに)』

(つづく)

 殺人なのか、事故なのか、病死なのかはわかりませんが、動機として、複数の女子によるひとりの男子の取り合いという発想が生まれました。

 実の親とこどもがいっしょに暮さない集団です。
 この集団の維持目的である『理由』と『理屈』がわかりません。
 おとなは、自分のこどもではないこどもの集団の世話をします。他人のこどもです。

 まだ読み終えていない自分の想像です。事件の真相として、おとながこどもを殺して、ほかのこどもが、殺したおとなをかばって、自分がそのこどもを殺したとウソをついているのではないか。
 殺人の身代わりを申し出たこどもは『あきらめた』のです。人間不信になったのです。(読み終えて:状況は違っていました)
 
 世の中のありようとは異なる思想として『真実を知りたい』(世の中は、真実よりも形を整えることに専念します)
 高い理想をもった団体に属していたこどもたちの意思として『真実を知りたい』

 416ページから『第八章 ミライを生きる子どもたち』です。
 宗教二世の話みたいです。
 
 女性だから、家事ができるわけではありません。家計簿をつけることができない人もいます。整理整頓の片付けがにがてな人もいます。同じくスタイルが良くて見た目がきれいだからといって、きちんと生活できるわけでもありません。自分を飾ることが得意な人です。この世は、誤解と錯覚で成り立っています。

 子育てができないから保育園に頼る。子育てができないからこどもを集団に預ける。

 近藤法子弁護士にも幼いこどもさんがいます。(二歳女児)
 うまく子育てができているようには見えません。
 仕事との両立です。仕事のほうが優先です。
 なぜ、保育園が必要なのか。
 
 446ページまできました。読みごたえがあります。

(つづく)

 読み終えました。
 くりかえしになりますが、読みごたえ(よみごたえ:充実感、価値がある、長いということも含めて)のある物語でした。

 職業とか仕事について書いてあります:自分が思っていることと正反対のことをしなければならないことがあるのが『仕事』です。(そういうことはしょっちゅうあります。立場で発言をする。それができない人はまだこどもです)
 
 東京地方裁判所:東京駅の近く、日比谷公園のそばにある。

 自分しか知らないと思っていたことが、おとなになってみると、みんなが知っていたということはあります。言いたくても言えない『秘密のようなこと』をそれぞれが、頭の中にしまってあります。

 隠蔽(いんぺい):なにかしら最近報道で話題になっている事務所のことと共通するような雰囲気がある物語の内容です。物語では、人命のことよりも組織の存命を優先したおとなたちがいます。
 
 タイトルにある『琥珀(こはく)』の意味がわかります。閉じ込めたのです。まず人を閉じ込めた。次に真実を閉じ込めた。

 記憶から出来事を消し去ることが、明るいミライにつながるという誤った判断があります。

 『泉』がからんできます。
 最初に戻る手法です。
 
 作者の作品でもう一冊、これから読む本が入れてあるダンボール箱に入っているものがあります。作品名は『傲慢と偽善(ごうまんとぎぜん)』です。テーマはこちらの『琥珀の夏』と同じかもしれません。文庫本である『傲慢と偽善』を読むのはまだだいぶ先の予定です。

 詭弁(きべん):理屈に合わないごまかしの発言

 自分のこどもを育てずに、他人のこどもの教育をしながら、自分は理想を追いかけていると思いこんでいるおとなたちがいます。

 本音と建て前(たてまえ)のぶつかりあいがあります。『キレイゴトばっか……』

 隠すからへんなふうになってしまう。
 こどもたちは、事実をなにも教えてもらえない。

 そうか……

 形式的な父と母はいたが、本来あるべき姿の父と母の存在がなかった。

 人間には二面性があって、そのことを隠すのか、オープンにするのかで、人の生き方がずいぶん異なってきます。オープンにする「お笑いの世界」なら救われるということはあると思いました。

 今度東京に行ったときは、物語にちらりと出てくる東京駅近くにある日比谷公園あたりを散策してみるつもりです。  

Posted by 熊太郎 at 06:52Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2023年09月11日

児童養護施設という私のおうち 田中れいか

児童養護施設という私のおうち 田中れいか 旬報社

 児童養護施設で育ったタレントさんの本のようです。なにかの宣伝で観て興味をもちました。
 いま同時期に読んでいる本が『琥珀の夏(こはくのなつ) 辻村深月(つじむら・みづき) 文藝春秋』で、内容は、児童養護施設を扱った小説作品のようで、同時に読むこの二冊の本を関連付けてなにか自分の脳内に発想が生まれないかと期待しています。

 1995年生まれ(平成7年)。阪神淡路大震災とか地下鉄サリン事件の年です。
 ご両親が離婚されています。母親が家を出て行った。父親に育児能力がなかった。兄(10歳ぐらい)と姉(11歳ぐらい)、本人(7歳。小学二年生)という三人きょうだいで、三人とも施設入所です。姉が妹を連れて、夜、家を出て交番に相談にいきました。父親に『出ていけ!』と言われました。ひどい父親です。母親も同様です。
 7歳から18歳まで、11年間施設で暮らす。『福音寮(ふくいんりょう)』(東京都世田谷区内)第二次世界大戦での戦災孤児の預かりが施設の始まりです。
 ご本人はタレントさんかと思ったら「社会運動家」「モデル」となっていました。

 まずはざーっと全ページをめくってみます。
 複数の人たちの手が入った本です。(199ページに紹介があります)行政もからんでいます。
 わかる部分もあるし、わからない部分もあります。
 啓発本です。(けいはつ:知らない人に知らせて理解してもらう本)
 施設暮らし体験者による施設紹介本です。(いままでにこういう本はなかった記憶です)
 バイト体験があります。
 児童相談所とか社会福祉事務所もからんでいるのでしょう。
 
 家族がいないこどもは、成長しながら自分で自分の家族をつくります。
 されど、自分が育てられたようにしか、自分のこどもを育てられないという現実はあります。
 作品『琥珀の夏(こはくのなつ) 辻村深月(つじむら・みづき) 文藝春秋』では、358ページに、『なぜ、自分がされたことを、自分の子に繰り返してしまっているのか……』とあります。虐待をする親は、こどものころに自分自身が虐待されていたということはあります。

(最初に戻って、1ページずつ読みます)

 始まりの文章です。
 編集者の手が入っているのでしょう。
 読みやすく、わかりやすい文章です。

 児童養護施設と縁をもつ人は少ない。ゆえに同施設の実情はわかりません。
 大衆は、加工された世界のなかで、誤解や錯覚をしながら日常生活を送っているという現実があります。そして、各自の視野は、自分の身の回り2.5mの範囲内であることが多い。

 目次をながめています。
 理路整然とつくられた本です。
 役所的でもある。
 
 悲惨な生活を体験されています。
 こういうこどもさんのことが表面に出てニュースになるのはごく一部で、実際には意外に多い件数が発生しているのでしょう。(なんだか、おとなになって心が折れると、犯罪が近くなりそうです)

 こどもが喜怒哀楽の感情をなくしています。
 『…… 当時の感情の記憶がまったくない…… 流されるまま、その場の状況を受け入れるしかない……』 『「無(む)」だった……』
 
 親に子の養育能力がないことは、よくあることなのでしょう。

 児童養護施設『福音寮(ふくいんりょう)』
 10歳で施設に来た時、3時間、車の中で、ずっと泣いていた。(車から降りることができなかった)

 できれば、知らないほうがいい、体験しないほうがいい世界なのでしょう。
 日本の人口1億2300万人のなかの2万5000人ぐらいが体験する施設生活です。

 入所理由をみると、どちらかといえば、父親よりも母親がこわれています。
 ネグレクト(育児放棄)が多い。
 精神疾患の母親が多い。虐待もあります。お金がないということもあります。
 親が統合失調症だと、こどもはかなり苦しい。
 お笑いコンビ平成ノブシコブシの徳井健太さんが、ヤングケアラーの体験があって、母親が統合失調症だったという記事を読んだことがあります。そのことで気づかいの人になられたのか、路線バス対決旅では、太川陽介さんのフォローをじょうずにされていて感心しました。
 
 自分なりに思うのは、同じ家にいても会話がない親子というのはいます。
 親との死別や離婚があると、家族全員で同じ家で暮らした期間が数年間しかないということもあります。
 メンバーがいても家族という実感がない。家族の形態ってなんだろうなあとか、施設入所もからめて、いろいろ考えながらの読書の始まりになりました。

(つづく)

 読んでいて、施設での暮らしは、毎日が旅に出ているような感じです。異世界体験です。
 インタビュー形式でつくってある文章です。体験記です。
 入所者の世話をする職員にも入所者と似たような体験があったのだろうと推測しながら読んでいます。施設で働く動機です。
 もとがキリスト教の施設のようなので、宗教の教えもあるのでしょう。
 
 なんというか、親の立場でコメントさせてもらうと、こどもというものは、勉強ができるとかできないとか、運動ができるとかできないとか、そんなことは横においといて、とにかく、生きていてくれればいいのです。
 (いま並行して同時に読んでいる本が『琥珀の夏(こはくのなつ) 辻村深月(つじむらみづき) 文藝春秋』です。宗教団体ではないけれど宗教団体のような集団で、親と離れて生活しているこどもたちが出てきます。娘と対立した祖父母が孫にかけた言葉です。『生きててくれて、ありがとう』孫の言葉が『うん、探してくれてありがとう、おじいちゃん、おばあちゃん』)

 ピアノを弾くことが好き→ピアノにふれる時間は、施設内という集団生活の中で、ひとりになれる時間だった。
 遊ぶ、食べる、テレビを楽しむ。その繰り返しの毎日です。
 なにもしないという時間帯は、だいじです。
 ただ、ぼーっとしている時間がだいじです。
 なにもしない時間帯があることが、じつは、一番のぜいたくなのです。

 こちらの本での田中れいかさんの姉の気持ちです。信じていた相手から裏切られた。(母親のことです。育児をしてくれなかった、施設に迎えに来てくれなかった)
 ご本人には、兄と姉がいますが、三人仲良くというわけでもなかったようです。兄には学習障害があり、姉は親をうらんでいる。姉は、まじめにがんばりすぎて、がんばりきれなくなって、とくに母親をうらんでいる。

 施設生活をしていて、トラブルがまったくないことはなくて、それなりにもめごとはあると思います。
 
 母との面会は東京池袋のサンシャインシティがほとんどだった。
 たまたま先日、ミュージカルを観たいと思って調べたときにサンシャイン劇場で、三宅裕司さんと小倉久寛さんのコメディ・ミュージカルを見つけました。(最終的には別のミュージカルを観に行くことになりました)読んでいて、ちょっと本との縁を感じました。

 新潟のおばあちゃん(母親の実家):祖母はありがたい。

 疑問だったこと:父親は基本的にはまじめで、常識のある人だったとあります。(本当だろうか?)
 淋しい(さびしい)雰囲気がただよっています。
 虐待した親をかばうようなことが書いてありますが、そこが相手(加害者)につけこまれる被害者の心理ともいえます。(つけこまれる:うまく利用される)

(つづく)

 199ページあるうちの177ページまで読みました。
 この本は、児童養護施設入所体験者である女性を広告塔(こうこくとう。啓発宣伝のシンボルにして(知らないことを知らせるための象徴として)にして、いろいろな人や組織のことを紹介してある本だと理解しました。
 ご本人の体験した記述には物足りなさを感じました。もっと衣食住に関する記憶があったのではなかろうか。
 
 ページを戻って、考えたことをぽつりぽつりと落としてみます。
 『社会的養護(しゃかいてきようご)』:造語なのでしょう。こどもさんを育てるのは第一に両親なのですが、親の育児放棄や虐待、病気、失踪などで、親を頼ることができないこどもたちをとくに社会福祉の社会で保護して育んでいく(はぐくんでいく)と理解しました。
 
 大学の学歴にこだわるような記述があります。
 わたしの世代からすると不思議です。
 わたしの両親の世代は、ほとんどが中卒で住み込みや会社の寮生活をする形で就職しました。
 わたしの世代も、学力があっても経済的な理由で大学進学をあきらめて就職した人はたくさんいました。働きながら夜学(やがく)に通う人もいました。
 就職して、自分が働いたお金で自分が着たい服を買って、食べたい食べ物を食べることが楽しみでした。
 現代社会をみてみると、大学を出ていても働いていない人はたくさんいます。
 大学で学んだ学問とは関係のない仕事についている人も多い。
 人や組織からお金の援助をしてもらってまで大学へ行く意義があるとは思えないのです。(大卒の人は高卒以下の人を見下しているから大卒でなければならないという誤った思い込みをもっているのではないか)
 わたしは、大学生というのは、合法的な失業者だと思ったことがあります。
 
 マニュアルのように(手引きのようなシミュレーション(仮定設定)があります)お金のことや生活のことが説明文とか図で書いてあります。
 ふつう人は、マニュアルにのっとったような人生は送れません。アクシデントはつきものです。病気や事故、事件や自然災害に巻き込まれることがある日常生活です。離婚や死別もあるでしょう。人生は計画した通りには運びません。
 昔観た洋画で気に入ったセリフがあります。『人生は何が起こるかは問題ではない。なにが起こっても動じない度胸と知識・経験を日ごろから身に着ける努力をしておけば、しっかり生きていける』そんなセリフでした。
 
 若い時にひとり暮らしは体験しておいたほうがいい。衣食住の基本的な生活を学んだほうがいい。自活と自立です。
 さびしくて泣く思いを味あわないと結婚してからうまく家庭を維持していけないということはあります。
 
 高校を卒業して施設を出て、短大に通いながらアルバイト生活をする。そうやってひとり暮らしを始めた田中れいかさんの言葉でいいなと思った言葉です。ふつうは、帰る実家がありますが、彼女にはあるようでありません。『一人だけれど一人じゃない。でも一人だ……』

 後半は、行政の児童福祉施策PRになります。東京世田谷区の例です。寄付金で運営されている部分があります。
 
 統計として、児童虐待相談件数が増えているのはなぜなのだろうか?
 文章の中では、児童虐待を防止するために2000年に児童虐待防止法をつくったとあります。児童虐待防止のための法律をつくったのに、どうして児童虐待の件数が増え続けるのだろうか。いろいろ考えさせられます。政府は結婚・出産を勧めていますが、虐待されるこどもさんが増えるのなら不幸が広がるだけです。
 141ページに、世田谷区に児童相談所をつくった。区の職員150人が働いている。そのうちの半分近くが、「一時保護所」で働いているそうです。親に子の養育能力がなくて保護されるこどもが多いということが示されています。一時保護所というのは、家庭やそのほかの場所で保護したこどもさんを一時的に保護して次の段階につなぐのでしょう。施設入所とか家庭に戻すとか。すったもんだがありそうです。親が怒鳴り込んできそうです。

 こどもさんに対して、金銭的な支援をする。精神的な支援もする。行政の施策のPR記事が続きます。形式的な姿を目指すことが役所のやりかたに見えます。まず、形がだいじなのです。

 コーチング:個人や組織の目標を達成するためのコミュニケーションに関する技術

 施設出身モデル:なにかをPRする目的の存在になる。
 
 ミスコン:ミス・ユニバース(茨城県大会)に参加した。ほかに、ミス・ワールド、ミス・インターナショナル、ミス・アースがある。

 スピーカー:目的をもって自分の体験を聴衆に語る人

 児童養護施設出身者のあるある:時間を守らない。ドタキャンする。お金の管理ができない。(あまりよくないことばかりです。いいのかなあ)

 なにをやるにしてもお金がからんでくるのが『人間社会』です。

 最後のほうには、施設で働いてくれる人はいませんかの求人情報です。アルバイト、ボランティアから始まります。それなりの覚悟がいる仕事だと思います。

(つづく)

 当事者活動:児童養護施設入所体験者としての活動

 本の最後のほうは、田中れいかさんの活動について書いてあります。
 そのさきは、役所の文書を読んでいるような感じになりました。「個別的養育機能」「支援拠点機能」「地域支援機能」まるで学問です。
 こどもを育てることって、こんなにむずかしいことだったかなあと考えました。
 邦画でリリー・フランキーさんの『東京タワー ~オカンとボクと、ときどきオトン』があるのですが、そのときに母親役の樹木希林さん(きき・きりんさん)が、息子のことでいつも気にしていることがありました。
 九州で暮らす母親は成人した東京暮らしの息子に毎回『ごはんをちゃんと食べているか?』と繰り返し聞くのです。
 母親にとっての母親の仕事は、こどもにしっかりおいしいものをたくさん食べさせることなのです。その気持ち1本が母親のこどもに対する愛情です。母親はいつもこどもがちゃんと食べているかと気にして、食べていると聞けば安心して、自分は母親の役割を果たしていると安心するのです。親の仕事はとりあえず、こどもに十分食べさせるだけでいいのです。  

Posted by 熊太郎 at 07:16Comments(0)TrackBack(0)読書感想文