2024年05月21日
市子(いちこ) 邦画 2023年
市子(いちこ) 邦画 2023年 2時間5分 動画配信サービス
ほかの方のブログを見ていて目に留まったので、自分も観てみました。
暗い内容です。
なんというか、隠そうとするから、ウソをつくから、成立するストーリーです。
隠さず、ウソもつかず、正直に言えば、なんとかなる話です。
なるようになる。そのときは苦しくても、未来ではちゃんと生活できる話です。
隠れて生きようとするから苦しいのです。
世間はもっと明るい。へんな人もいるけれど、いい人もたくさんいます。
主演の杉咲花さんは、日曜夜10時の番組、『おしゃれクリップ』のゲストで、山崎育三郎さんと井桁弘恵さんにインタビューを受けたときに、幼なじみの女友達が杉咲花さんの実像を話していました。
同級生のお話だと、映像に出てくる杉咲花さんは、現実の彼女とは別人だそうです。素は(すは。じっさいは)とても明るくて、お調子者で、おいしい食べ物が大好きな人ですということでした。
杉咲花さんは、こちらの映画では熱演でした。力いっぱいで、力のこもった演技の花を咲かせておられました。映像では、杉咲花さんの女優魂が爆発しています。
また、市子の小学生時代を演じる子役さんもがんばっておられました。
ストーリーは、無戸籍の女性の人生を小学生の時期から二十代まで、追いかけたものです。
戸籍の話が出ます。戸籍は、日本人として生きるための重要な役所の記録です。
戸籍の様式も変わりました。昔は、縦書きでした。大昔は筆を使った墨(すみ)による手書きだったし、その後、和文タイプライターで文章を打つ記載でした。
今は、パソコンでつくられた横書きです。ちょっと内容がわかりにくい。昔の縦書き文章では、いつ・どこで・だれが・どうしたというふうに書いてありました。今は、できる限り省略してあります。出自(しゅつじ。生まれ育ちの場所など)による差別対策なのでしょう。
戸籍法では、夫婦が婚姻中に生まれたこどもは、その夫婦のこどもです。
原則として、妻が夫以外の男性と交渉をもって生まれてきたこどもも、戸籍上の夫のこどもとしてしか出生届が出せません。(例外として、裁判所の決定後、出生届を出す手法があったと思いますが、う~む。それでも最初は父欄が空欄で、婚姻関係にない男女のこども扱いになる記憶です。ほんとうの父親の認知届がいると思います。認知届をすんなり出してくれない男性もいそうです。ややこしい)
また、離婚後300日以内に生まれたこどもは、婚姻中の夫のこどもとみなされます。原則として、いったんは、実際の父親が異なっていても離婚した夫のこどもとして出生届を出すことになります。
かなりもめます。若い頃に法令の勉強をしましたが、ちゃんとするためには、たしか家庭裁判所で、真実を決定してもらわなければなりません。『嫡出否認(ちゃくしゅつひにん。戸籍上の夫が自分のこどもではないと否認する)』とか、もうひとつは、『親子関係不存在(戸籍上の夫、妻、こどもという関係者が申し立てることができるふうだった記憶です)』という訴えを起こすという手段だった記憶です。訴えが認められてからいったん届け出があった出生届の処理(修正)をするという流れだったと思います。
だから、こどもを産んでも、その子の出生届を役所に出さずに放置するという人がいます。
こどもはたいへんな苦労をすることになります。
戸籍がなければ、社会生活を送ることが不自由になります。まず、国籍がない、住民登録がない、それから病院にかかるときの医療保険証がない、義務教育の案内が来ない、就職がむずかしい、本人の婚姻届(結婚)がしにくくなります。(救済措置はあると思いますが、十分なものではないと思います)
こちらの映画は、杉咲花さんが演じる『市子(いちこ)』は、出生届が出されていないので、杉咲花さん演じる市子は、戸籍上は存在しない人間なのです。
市子は、障害をもつ妹(母親は3回結婚していて、妹は夫婦間に生まれているので戸籍がある)を殺して、妹『月子』の名前を引き継ぎ、『月子』になりすまします。年齢も偽ります。(いつわります)
法令というものは、想定された枠の中で生活している分には、身分を手厚く保証してくれますが、想定の枠(わく)の外(そと)に身をおくと非情です。だから、できるだけ法令の枠の中で生活することを心がけますが、そうできない人もいます。
映画は、大海原の映像から始まって、大海原の映像で終わる基本的な流れの映画でした。最後は最初に戻るのです。
だれかの思い出がベースになったストーリーだろうか。
戸籍のうえでは存在していない人間が現実の世の中では存在している。推理小説です。
貧困を扱っています。映像に出る共同住宅は、市営住宅・県営住宅・公団住宅・雇用促進住宅のつくりを思い出させてくれます。狭い部屋で、エレベーターもない階段で、ビル形式で古い建物です。障害者も出てきます。そういったことで、この映画は、社会福祉を考える映画でもあります。
ときおり、白い文鳥の映像が出ます。何かのメッセージがあります。『孤独』だろうか。
男が悪いということはあります。男が女を性の対象としていたぶります。男は、ばかたれです。
こんな家に生まれてしまったことを嘆く。
いつだったかのニュースで、SNSつながりで家出をして、誘った男の家に行った十代女性が、あんな家では(実家)生活ができないんですと訴えていました。虐待でもあるのだろうか。家庭に暴君の男がいるのだろうか。母親が狂っているのだろうか。いろいろあります。
偽りの市子は、最後に警察に逮捕されて終わるのだろうかと予想しましたが、そうはなりませんでした。(最後は、犯罪を重ねる形で終わっています。それでいいのだろうかと疑問が残りました。倫理(りんり。人の道)にはずれています)
ローカル感(いなか風景)満載の映像です。
過去の記憶が呼び起こされます。
昭和の時代にあった、自分がこどものころに見た風景です。
市子が道を歩く。左右に緑が広がっています。
市子が何かの歌をハミングする。曲名はわからない。(その後、『にじ』という曲であることがわかりました。1990年(平成2年)ケロポンズ)
雷雨のシーンに意味がある。
激しく降る雨に顔をあげて、水浴びをする。
花火のシーンに意味がある。
パッと散る。
市子が長谷川を好きな理由はわかります。長谷川は、市子に心優しい。
しかし、長谷川が市子を好きな理由がわかりません。市子の心の持ち方のどこがよくて、愛情が湧くのだろうか。市子の心は屈折しています。長谷川が気に入ったのは、市子の見た目だけという理由しか浮かんできませんでした。ペットのようなものです。現実的な恋愛ではありません。見た目だけの愛情は長続きしません。心の中にあることをさらけだしてぶつかって、妥協点を見つけ出して、障害物競走のような人生を共に送って思い出づくりをします。映画では、ふたりで協力して困難を乗り越えていくだけの愛情をベースにした理由付けが見つかりません。
名作邦画、『砂の器(すなのうつわ)』のようでもある。出生の秘密がベースにあります。
人の心の中に、『悪魔』がいる。
また、タバコのシーンです。日本映画はいつになったら、タバコシーンから卒業できるのだろうか。製作関係者に喫煙者が多いのでしょう。もう、タバコで感情を表現する時代は終わっています。映像は、非喫煙者にとっては、嫌悪感(けんおかん)しかありません。
不気味です。
あんなふうで人が死ぬとは思えません。障害者である妹への対応です。
シーパップ(無呼吸症候群の人が、寝るときに顔に装着する空気排出マスク)のようでした。
介護疲れがあります。ヤングケアラーです。
介護する相手は、映画ではこどもさんですが、相手が高齢者でも介護についての同じつらさがあります。相手が若くても年寄りでも、介護することは大変です。
じょうずなカメラワーク(動かし方、シーンづくり)だと思う映像もありました。
ほかの方のブログを見ていて目に留まったので、自分も観てみました。
暗い内容です。
なんというか、隠そうとするから、ウソをつくから、成立するストーリーです。
隠さず、ウソもつかず、正直に言えば、なんとかなる話です。
なるようになる。そのときは苦しくても、未来ではちゃんと生活できる話です。
隠れて生きようとするから苦しいのです。
世間はもっと明るい。へんな人もいるけれど、いい人もたくさんいます。
主演の杉咲花さんは、日曜夜10時の番組、『おしゃれクリップ』のゲストで、山崎育三郎さんと井桁弘恵さんにインタビューを受けたときに、幼なじみの女友達が杉咲花さんの実像を話していました。
同級生のお話だと、映像に出てくる杉咲花さんは、現実の彼女とは別人だそうです。素は(すは。じっさいは)とても明るくて、お調子者で、おいしい食べ物が大好きな人ですということでした。
杉咲花さんは、こちらの映画では熱演でした。力いっぱいで、力のこもった演技の花を咲かせておられました。映像では、杉咲花さんの女優魂が爆発しています。
また、市子の小学生時代を演じる子役さんもがんばっておられました。
ストーリーは、無戸籍の女性の人生を小学生の時期から二十代まで、追いかけたものです。
戸籍の話が出ます。戸籍は、日本人として生きるための重要な役所の記録です。
戸籍の様式も変わりました。昔は、縦書きでした。大昔は筆を使った墨(すみ)による手書きだったし、その後、和文タイプライターで文章を打つ記載でした。
今は、パソコンでつくられた横書きです。ちょっと内容がわかりにくい。昔の縦書き文章では、いつ・どこで・だれが・どうしたというふうに書いてありました。今は、できる限り省略してあります。出自(しゅつじ。生まれ育ちの場所など)による差別対策なのでしょう。
戸籍法では、夫婦が婚姻中に生まれたこどもは、その夫婦のこどもです。
原則として、妻が夫以外の男性と交渉をもって生まれてきたこどもも、戸籍上の夫のこどもとしてしか出生届が出せません。(例外として、裁判所の決定後、出生届を出す手法があったと思いますが、う~む。それでも最初は父欄が空欄で、婚姻関係にない男女のこども扱いになる記憶です。ほんとうの父親の認知届がいると思います。認知届をすんなり出してくれない男性もいそうです。ややこしい)
また、離婚後300日以内に生まれたこどもは、婚姻中の夫のこどもとみなされます。原則として、いったんは、実際の父親が異なっていても離婚した夫のこどもとして出生届を出すことになります。
かなりもめます。若い頃に法令の勉強をしましたが、ちゃんとするためには、たしか家庭裁判所で、真実を決定してもらわなければなりません。『嫡出否認(ちゃくしゅつひにん。戸籍上の夫が自分のこどもではないと否認する)』とか、もうひとつは、『親子関係不存在(戸籍上の夫、妻、こどもという関係者が申し立てることができるふうだった記憶です)』という訴えを起こすという手段だった記憶です。訴えが認められてからいったん届け出があった出生届の処理(修正)をするという流れだったと思います。
だから、こどもを産んでも、その子の出生届を役所に出さずに放置するという人がいます。
こどもはたいへんな苦労をすることになります。
戸籍がなければ、社会生活を送ることが不自由になります。まず、国籍がない、住民登録がない、それから病院にかかるときの医療保険証がない、義務教育の案内が来ない、就職がむずかしい、本人の婚姻届(結婚)がしにくくなります。(救済措置はあると思いますが、十分なものではないと思います)
こちらの映画は、杉咲花さんが演じる『市子(いちこ)』は、出生届が出されていないので、杉咲花さん演じる市子は、戸籍上は存在しない人間なのです。
市子は、障害をもつ妹(母親は3回結婚していて、妹は夫婦間に生まれているので戸籍がある)を殺して、妹『月子』の名前を引き継ぎ、『月子』になりすまします。年齢も偽ります。(いつわります)
法令というものは、想定された枠の中で生活している分には、身分を手厚く保証してくれますが、想定の枠(わく)の外(そと)に身をおくと非情です。だから、できるだけ法令の枠の中で生活することを心がけますが、そうできない人もいます。
映画は、大海原の映像から始まって、大海原の映像で終わる基本的な流れの映画でした。最後は最初に戻るのです。
だれかの思い出がベースになったストーリーだろうか。
戸籍のうえでは存在していない人間が現実の世の中では存在している。推理小説です。
貧困を扱っています。映像に出る共同住宅は、市営住宅・県営住宅・公団住宅・雇用促進住宅のつくりを思い出させてくれます。狭い部屋で、エレベーターもない階段で、ビル形式で古い建物です。障害者も出てきます。そういったことで、この映画は、社会福祉を考える映画でもあります。
ときおり、白い文鳥の映像が出ます。何かのメッセージがあります。『孤独』だろうか。
男が悪いということはあります。男が女を性の対象としていたぶります。男は、ばかたれです。
こんな家に生まれてしまったことを嘆く。
いつだったかのニュースで、SNSつながりで家出をして、誘った男の家に行った十代女性が、あんな家では(実家)生活ができないんですと訴えていました。虐待でもあるのだろうか。家庭に暴君の男がいるのだろうか。母親が狂っているのだろうか。いろいろあります。
偽りの市子は、最後に警察に逮捕されて終わるのだろうかと予想しましたが、そうはなりませんでした。(最後は、犯罪を重ねる形で終わっています。それでいいのだろうかと疑問が残りました。倫理(りんり。人の道)にはずれています)
ローカル感(いなか風景)満載の映像です。
過去の記憶が呼び起こされます。
昭和の時代にあった、自分がこどものころに見た風景です。
市子が道を歩く。左右に緑が広がっています。
市子が何かの歌をハミングする。曲名はわからない。(その後、『にじ』という曲であることがわかりました。1990年(平成2年)ケロポンズ)
雷雨のシーンに意味がある。
激しく降る雨に顔をあげて、水浴びをする。
花火のシーンに意味がある。
パッと散る。
市子が長谷川を好きな理由はわかります。長谷川は、市子に心優しい。
しかし、長谷川が市子を好きな理由がわかりません。市子の心の持ち方のどこがよくて、愛情が湧くのだろうか。市子の心は屈折しています。長谷川が気に入ったのは、市子の見た目だけという理由しか浮かんできませんでした。ペットのようなものです。現実的な恋愛ではありません。見た目だけの愛情は長続きしません。心の中にあることをさらけだしてぶつかって、妥協点を見つけ出して、障害物競走のような人生を共に送って思い出づくりをします。映画では、ふたりで協力して困難を乗り越えていくだけの愛情をベースにした理由付けが見つかりません。
名作邦画、『砂の器(すなのうつわ)』のようでもある。出生の秘密がベースにあります。
人の心の中に、『悪魔』がいる。
また、タバコのシーンです。日本映画はいつになったら、タバコシーンから卒業できるのだろうか。製作関係者に喫煙者が多いのでしょう。もう、タバコで感情を表現する時代は終わっています。映像は、非喫煙者にとっては、嫌悪感(けんおかん)しかありません。
不気味です。
あんなふうで人が死ぬとは思えません。障害者である妹への対応です。
シーパップ(無呼吸症候群の人が、寝るときに顔に装着する空気排出マスク)のようでした。
介護疲れがあります。ヤングケアラーです。
介護する相手は、映画ではこどもさんですが、相手が高齢者でも介護についての同じつらさがあります。相手が若くても年寄りでも、介護することは大変です。
じょうずなカメラワーク(動かし方、シーンづくり)だと思う映像もありました。
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