2024年07月18日

出川哲朗の充電バイクの旅 茨城大洗海岸から福島ハワイアンズ

出川哲朗の充電バイクの旅 茨城県大洗海岸から福島県スパリゾートハワイアンズ ネットもテレ東

出川哲朗の充電させてもらえませんか? 行くぞ茨城!絶景の海&絶品グルメ
街道110キロ!パワスポ“大洗磯前神社”からゴールは“福島のハワイ”でフラダンス!ですが初登場の本田望結(ほんだみゆ)と春日がルンルンすぎてヤバイよヤバイよSP


 まず女性ゲストさんのお名前が読めませんでした。スケートの選手だろうか。ごきょうだいが多いようです。
 番組内ではかなり苦労されていました。充電バイクの充電が切れて、充電させてもらえませんか?のお願いをしたのですが、断られ続けました。ようやく5軒目で、それもかなりのやりとりがあったあと(声をかけたお宅のご主人が高齢で耳が聞こえにくいようすでした)、ぼんやりした感じで、『出川さんに会いたい』とご主人が言われて充電OKになりました。本田望結さんがようやく充電の了解をもらってかなり涙ぐんでおられましたが、お気持ち、よくわかります。交渉が成立して良かった。
 
 茨城県には、もう半世紀以上前になりますが、自分が10歳ぐらいのころに1年間ぐらい住んだことがあります。映像で出てくる大洗海岸も当時見たことがあります。
 いまは、どんなふうかなあと思いながら充電バイクで走る風景を映像で見ました。
 たんぼとたんぼの間を走る道が広がっています。
 半世紀前と同じ風景の場所も残っていると思います。
 以前、大分県の別府へ行ったときに、北九州小倉(こくら)から別府に向かう鉄道列車の車窓から外の風景を見ながら、もしかしたら、この風景は、江戸時代から変わっていないのではないだろうかと思ったことがあります。

 自分が小学生の時ですが、福島の常磐(じょうばん)ハワイアンセンターは、小学校の冬休みになると、同級生たちが泊まりの家族旅行で遊びに行くというようなことを楽しそうに話していました。
 うちはビンボーだったので、10歳ぐらいだった自分は、ハワイアンセンターというものがどういうものかもわからず、ただぼんやりとみんなが楽しそうに会話をしているのを見ているだけでした。

 ハワイアンセンターで思い出す邦画が1本あります。南海キャンディーズのしずちゃんこと山崎静代さんが出演された、『フラガール』です。
 蒼井優さんも出演されていて、これが縁で、しずちゃんが仲立ちになり相方の山里亮太さんとご結婚されています。
 山里亮太さんは、かなり細かく屈折した性格をもっておられると、ご本人が書いた本を読んだ時に思いました。かなりの文章量を書かれる方です。『天才はあきらめた 山里亮太 朝日文庫』。
 以前テレビで、相方のしずちゃんが、山里亮太さんのことを人間のクズのように言っていたことを思い出しました。ひどいことを言うのだなあとそのときは思いました。でも、この本を読んだら、そのとおりだと共感しました。
 ご自分でも書いておられます。72ページから73ページにかけて『僕は……クズなんです。』、さらに、74ページから75ページに『僕は最低の人間だった……。』そのとおりです。反省されています。
 南海キャンディーズの暗黒期があります。山里亮太さんは、しずちゃんにずいぶんひどいことをしています。邦画『フラガール』へのしずちゃんの出演を断るようにマネージャーに告げています。(それでもしずちゃんは、映画に出演されました。自分は、映画は観ました。炭鉱が閉山して、さびれゆく街の産業を復興させるために炭鉱労働者の娘さんたちがフラダンスショーを始めるお話でした。
 相方(あいかた)の出世を喜ばない山里亮太さんは、自分でも書いておられますが、本当に人間のクズです。
 山里亮太さんの手元に『地獄ノート』というものがあります。呪い(のろい)のノートです。邦画『デスノート』を思い出します。他人に対するうらみつらみが延々と、粘着質に書かれています。復讐心を叩きつけるように書いてあります。
 その後、いろいろあって、山里亮太さんは改心されています。

 映像の途中で出てきた高萩市(たかはぎし)というところでは、自分の記憶だと、山のてっぺんに大きなパラボラアンテナがありました。宇宙と交信をしているというようなイメージで小学生だった自分はそのパラボラアンテナをながめていました。

 『常陸牛(ひたちぎゅう)』の“常陸(ひたち)”を出川哲朗さんが読めなかったという話が出ます。“日立”と思ってしまうようです。
 今年4月ごろ放送した、『北関東パワスポ街道 茨城御岩神社(おいわじんじゃ)→筑波山神社』のときでした。おもしろかったのは、土地の名産である『常陸牛(ひたちぎゅう)』の漢字を出川哲朗さんもミキティさん(藤本美貴さん)も読めなくて、メニューを見ながら、どこに、「ひたちぎゅう」があるのだろうかと不審に思っていたことが判明した時でした。

 土方ディレクターはあいかわらずおもしろい。
 食事を肉屋さんで注文するときに、ヒレ、サーロインときて、土方さんがハンバーグと言い、オードリー春日さんが土方さんに、『(あなたは)帰国子女ですか?』(まわりの雰囲気を読めない)と声をかけたのがおもしろかった。

 オードリーの春日さんは、メチャクチャお金をもっているそうです。たしかにもう億単位の蓄えはあるでしょう。使わないそうです。
 もう仕事を辞めても死ぬまで暮らしていけるだけの資産はあるでしょう。そうなるとあとは、死ぬまで生きるだけです。たぶん、仕事を趣味のように楽しみながら毎日を過ごされているのでしょう。

 途中で立ち寄ったホテルがものすごく立派で感心しました。日本画家の横山大観さんがどうのこうのと説明をされていました。海が見える景色が絶景です。4名宿泊でひとり5万6000円ですから、一泊22万4000円のお部屋ですな。それだけの価値はあります。

 演者の皆さんたちは、ペンションでカレーをいただきました。
 偶然ですが、タレントさんの妹さんのお宅でした。
 タレントさんは、アルコ&ピースの平子祐希(ひらこゆうき)さんでした。平子さんは、太川陽介さんと村井美樹さんのバスVS鉄道旅で拝見したことがあります。
 2020年(令和2年)でした。『ローカル路線バスVS鉄道乗り継ぎ対決旅 観光地を巡るならどっちが早い!? 函館~小樽』で、鉄道チーム:村井美樹さん 井上咲楽(いのうえ・さくら)さん アルコ&ピース 平子祐希さんでした。平子祐希さんの番組評価が良かった。(この番組企画は)『人生の縮図』です。井上咲楽さんも同調されていましたが、幸せと苦しいことが順番に来る。サンサーラという曲が流れて、映像とぴったり合っていました。鉄道チームが有利だったのですが、鉄道の遅延があって、村井美樹さんは太川陽介さんに敗れました。大泣きでした。
 カレーをごちそうしてくださった平子さんのご家族・ご親族は、上品な方たちでした。

 番組の最後に、出川さんも春日さんも福島スパリゾートハワイアンズのステージにほかのダンサーさんたちと立って、元気よく、フランダンスを披露しました。途中、出川さんの来ていた衣装が下にずり落ちて、パンツが丸見えになったりして、観客のこどもたちは大爆笑で大喜びでした。サイコーでした。(最高)  

2024年07月17日

バスVS鉄道乗り継ぎ対決旅 夏の伊勢志摩攻略スペシャル

バスVS鉄道乗り継ぎ対決旅20戦目 爽快!夏の伊勢志摩攻略スペシャル テレビ東京

太川陽介バスチーム:加藤紀子 須藤理彩
村井美樹鉄道チーム:高橋光臣 鈴木奈々

 舞台となった愛知県知多半島とか、三重県伊勢志摩は、自分にとっては身近な地域です。
 映像を観ていて、行ったことがあるところがたくさん出てきていました。
 演者のみなさんたちが、歩いたり、バスや鉄道で移動したりされたところも、自分も鉄道や自家用車、フェリーで行ったことがあります。
 長時間のロケをコンパクトにまとめてあって感心しました。
 内容の企画づくりもていねいにされていて、たいしたものです。

 太川陽介さんバスチーム8勝で、村井美樹さん鉄道チーム11勝で、ずいぶん勝ち負けの差ができてしまいました。
 そして、今回も太川陽介さんが負けてしまいましたので、もう一年以上太川陽介さんには勝利がありません。
 まあ、ここまでくると、勝っても負けてもどちらでもいいじゃないかという気分になります。過去の勝ち負けは忘れて、一戦一勝の気持ちで取り組むといいのでしょう。

 いつものことですが、番組冒頭で、ゲストの人たちが、ご自身の体力自慢をされますが、番組の経過を見ていると、そうでもないのです。何十年も前の十代のときの体力は、今はもうないのです。とくに陸上競技で短距離が強かった人には、この番組は不向きです。長距離ランナーのほうが、この番組には向いています。なにせ、長時間歩きます。
 芸能人の方は歩かない方が多い。運転手付きの車で移動が基本でしょう。そういう職業です。先日見た徹子の部屋で、暴れん坊将軍マツケンサンバの松平健さんが、自分は鉄道の切符の買い方がわからない。新幹線だけはわかると言っておられました。
 身の回りのことは、まわりの人にまかせて、ご自身は芸を演じることに専念です。人を呼んで得た大きな収入のかたまりを、関係者のみんなでワケワケして生活していきます。
 番組では、長距離を歩きますが、一般の人でも仕事の内容によっては、毎日のように長距離を歩く仕事があります。だから歩いて働くことはめずらしいことではありません。

 海がメインの舞台でした。
 日間賀島(ひまかじま)名物のタコ(タコの刺身、タコのまるゆで、タコめしなど)、伊勢のイセエビ、あわび、大あさり、みなおいしいです。途中、三重県内で鵜方(うがた)というところがありましたが、昔若い頃にそこで、うなぎ料理を食べたことがあります。自然の幸(さち)がいっぱいです。

 番組内容は、都会的な競争社会ですが、競争意識の薄い田舎(いなか)もいいものです。

 その後:動画配信サービスで、答え合わせを見ました。
 なかなか厳しくむずかしい。太川陽介さんはルートづくりをよくやられました。

 実行しなくてよかったこととして、中部セントレア空港から三重県津市へのフェリー利用がありました。料金が高くて利用はだめだそうです。そこを観ていて、そういえば昔、津のフェリー乗り場に行ったことがあるのを思い出しました。フェリーには乗りませんでしたが、どんなところか見た覚えがあります。あのころはよく家の車であちこち行きました。今は歳をとったので、交通事故の加害者になるといけないので、運転しなれた近所をうろうろするだけです。もう何か月も高速道路は走っていません。
 自治体から支給された交通系ICカードの機能がある敬老パスを使用して移動しています。先日は、JRのスマートEXと敬老パスをつなげて、名古屋駅から敬老パスで新幹線に乗り、博多駅で在来線(ざいらいせん。新幹線以外の鉄道)に乗り換えて、敬老パス1枚だけで目的地の駅まで行けました。本当に便利なシステムです。スマホを使って予約席を簡単に押さえたり、変更したりすることができます。

 バスはルート選択が複数あってむずかしい。鉄道はシンプルです。その代わり、鉄道は鉄道がない部分の長距離を歩かねばなりません。
 勝つコツとして、タクシー代の温存とどこでタクシーを使うかがありまます。かなり細かい思考が必要です。

 太川陽介さんが勝てたとしたら、知多半島の先端にある師崎港(もろざきこう)から日間賀島(ひまかじま)へ渡ってフェリー代金を節約して、翌日、スペイン村へ行くときにその節約したお金でタクシーを使えば勝てたという筋書きでした。(じっさいには、河和港(こうわこう)から日間賀島にフェリーで行って、師崎ルートよりも高いフェリー代を支払っています)
 たしかに、師崎港(もろざきこう)からのほうがフェリーは距離が近いし、料金は、河和港(こうわこう)からよりは安い。地元の人間でも説明してもらわないとわからないルートでした。それでも、(負けはしましたが)、太川陽介さんのプランづくりはたいしたものです。勝つために、考える考える考えるです。  

2024年07月15日

東京 憲政記念館見学

東京 憲政記念館見学

 国立国会図書館のお隣にありました。
 近くに国会議事堂があります。
 今は、一時的な建物のようで、小規模な展示でした。
 近くに大きな記念館を建てる予定があるようです。



伊藤博文:1841年(天保12年)-1909年(明治42年)68歳暗殺により没。初代内閣総理大臣。

大隈重信:1838年(天保9年)-1922年(大正11年)83歳没。内閣総理大臣。早稲田大学創設者。(慶応大学の創設者が、福澤諭吉)

板垣退助:1837年(天保8年)-1919年(大正8年)83歳没。内務大臣。自由民権運動の創始者。国会を創った(つくった)男と称される。

 時代背景として、わたしから見ると、わたしのひいおじいさんとか、ひいおばあさんの時代です。わたしの母方祖父が生まれたのが、1907年(明治40年)です。ひいおばあさんは、わたしが中学生のときに94歳で亡くなったので、明治時代を身近に感じることができます。



 今年一月に国会の衆議院を見学したのですが、こちらの記念館に似たような形式の展示部屋がありました。次の写真です。
 椅子は木製で、背もたれは垂直で、座りやすいとはいえず、長時間になるとたいへんだろうとお察しします。背もたれの部分はこすれて、布の表面が色落ちしていました。



 ちょっとびっくりしたのは、次の写真の展示でした。
 わたしは、小学生のときに数年間、栃木県の山奥にある足尾町(あしおまち。現在は日光市)というところで過ごしました。昔は銅山でした。
 日本最初の公害発生地(1890年から1891年(明治23年から明治24年)だということは、足尾町を離れてからの中学校での学習で知りました。
 中学生だったわたしは、とても不思議でした。
 公害関連資料では、鉱毒事件とか、大気汚染で山がはげ山になったとか書いてあるのですが、わたしが知る足尾町は、自然が豊かで、山は緑多く、渓流はきれいでカジカという小魚が泳いでいました。ことに、夏の渓流遊びは楽しかった。紅葉もきれいでした。
 おとなにとっては、暮らしにくいところだったかもしれませんが、冬は雪国のように雪が積もり、こどもたちは、雪遊びをしてずいぶんと楽しい思いをしました。土そり(どそり。手づくりのそり遊び)とか、スキーとか、屋外では、雪が積もって凍った生活道路でのスケート遊びとか、かまくらづくり、雪だるまづくり、雪合戦、小学校の教室は石炭ストーブで暖かく、トランプ、手芸、馬飛び、クリスマス会なんかをして遊びました。
 成人してからも10年に1回ぐらいのペースで現地を訪れていましたが、すっかりさびれてしまい、今では思い出の地という記憶の中だけの町になりました。
 ときおりテレビの旅番組やドラマで、わたらせ渓谷鉄道の映像を見ます。なつかしい。乗ったこともあります。わたしが住んでいたころは、蒸気機関車が走っていました。昔は、足尾線(あしおせん)と呼んでいました。

田中正造(たなかしょうぞう):1841年(天保12年)-1913年(大正2年)71歳没。衆議院議員。1901年(明治34年)明治天皇に足尾銅山鉱毒事件に関して直訴(じきそ。正式な手続きを経ずに(へずに)直接訴える)した。

 もうひとつの出来事として、昨年7月に、東京三鷹市にある小説家の山本有三記念館を訪れたときに、山本有三氏が、足尾銅山で働いていたという展示を見ました。

山本有三(やまもとゆうぞう):小説家、劇作家、政治家。1887年(明治20年)-1974年(昭和49年)86歳没。

 同氏の作品、『路傍の石(ろぼうのいし)』は、主人公の吾一少年(ごいちしょうねん)が、恵まれない環境にあってもめげずにがんばるお話です。わたしは、中学生のときにその本を読みましたが、自分と吾一少年を重ね合わせながら、自分もがんばらなければと、ずいぶん励みになりました。
 『路傍の石』は、昭和12年ころ(1937年ころ)執筆された作品で、時代背景は明治時代、主人公の吾一少年(ごいちしょうねん)は、丁稚奉公(でっちぼうこう。当時の小学校を出て、商家に住み込みをしながら、読み書き計算、商売のしかたについて学ぶ)に出されていろいろな苦労を重ねるという内容だったと思います。
 さきほど少し書きましたが、自分の母方の祖父が明治40年(1907年)生まれで、吾一少年と同じような体験をした人でした。自分が中学生の時に、祖父からは、奉公先での苦労話などを聴きました。祖父はまじめな人でした。

 自分の人生において、何年かに一回、ポイント(点)みたいに、『足尾銅山』という地名が自分の目の前に出てくるので縁を感じています。

 山本有三氏は、1910年(明治43年)ご本人23歳の時に、栃木県の山奥にあった足尾銅山で労働体験をされて、その後、体験をもとにして、戯曲作品『穴』を書いておられます。


 
 憲政記念館の窓口でいただいたパンフレットには、尾崎行雄氏のお名前が書いてありました。
尾崎行雄(おざきゆきお):1858年(安政5年)-1954年(昭和29年)95歳没。司法大臣、文部大臣、衆議院議員。尾崎記念会館が、衆議院に寄贈されて憲政記念会館になったと書いてあります。
 そのこともここに書き添えておきます。  

Posted by 熊太郎 at 07:00Comments(0)TrackBack(0)東京

2024年07月14日

国立国会図書館を見学する。

国立国会図書館を見学する。

 今年の一月は、国会の衆議院を見学しました。
 そのとき、国会の横にある国立国会図書館が見学できることを知りました。
 事前に電話で国立国会図書館の担当者の方とやりとりなどをして、見学の予約がとれました。
 以前、なにかのテレビ番組で、図書館内を紹介していました。NHKだったと思います。地下深くにある書庫の映像が出ていた記憶です。

 次の写真で、右側の建物が、『新館』です。まずそこで利用者登録をしました。午前11時半ごろに入館しました。(4時間ぐらい滞在しました)
 新規登録希望者は、自分たち夫婦しかいないだろうと思って行ったら、待合場所にたくさんあるベンチに若い人たちがたくさん座っていて、登録利用者カードの交付待ちをしていたのでびっくりしました。
 運転免許試験場で、更新後の運転免許証を受け取るシーンに似ていました。ただし、ひとりずつ呼ばれて、名前の確認等がなされます。
 登録利用者カードをもらって、駅の改札口みたいな入口を通って中へ入りました。新館と本館はつながっています。
 お昼時だったので、本館6階にある食堂でランチを食べました。職員食堂みたいな雰囲気のところでした。お弁当持参の人が利用できるテーブルやイスの区域もありました。
 
 今回訪問した目的は、もう二十年ぐらい前に自費出版した自分の本が国立国会図書館に所蔵されているので、見てみたかったのと、おそらく本のどこかに『国立国会図書館所蔵』みたいな表示があるに違いないと思い、記念に本の表紙と所蔵図書館名部分のコピーをもらおうというものでした。されど、目的の本を申し込んで受け取るまでに20分ぐらいかかりそうで、そのあと複写をお願いしてもまた順番待ちの時間がかかりそうでした。
 国立国会図書館内の参観開始時刻が午後2時からだったので、自費出版した自分の本を確認するのはまた今度来た時でもいいかと思い、本館6階の食堂を出たあと、コーヒーでも飲もうと、本館3階の喫茶室へいきました。
 行ってみて、そこで食事もできることを知りました。観光客の場合は、職員食堂の雰囲気がある本館6階の食堂よりも、こちらの本館3階の喫茶室のほうが、居心地がいいと感じました。観光中とみられる若い女性たちや少人数連れの外国人客の姿がありました。(その後、帰宅してから、新館の1階にも喫茶室があることに気づきました)

 次の写真の左側にある建物が、『本館』です。
 午後2時から予約してあった図書館内参観集合場所は、本館の南入口でした。写真にあるのは、本館東側にある一般利用者入口ですから、その前を通り過ぎて、右に曲がり、南側入口から中に入って、すぐ右にあるカウンターで警備員さんに話をして紙に名前を書きました。国会議員が図書館を利用するときはこの出入口から入るようです。



 本館東側一般利用者入口のそばにあったオブジェです。(オブジェ:美術作品)



 オブジェの反対側には、人間の像がありました。
 やせたヨーロッパ人に見えました。男か女かの性別は判然としません。
 妖精みたいなものだろうか。



 参観では、ほかに申し込みをされた方もいっしょになって回り、職員さんに案内してもらいました。たくさんの質問などのやりとりもさせてもらいました。ご丁寧な説明をありがとうございました。

 次の写真2枚は、地下30mの位置にある書庫の吹き抜け最下部から上方向を撮影したものです。
 一番上の明るい窓が、地上の地面の位置にあります。外から見ると最上部は温室のようなつくりでした。
 ここは、灯り(あかり)とりのための吹き抜けです。地下の書庫空間を照らす役目を果たしているそうです。地下書庫で仕事に従事される職員さんも、労働時間のほとんどを地下ですごすようですので、たまに、書庫から吹き抜け部分に出て、外の空気に触れると心身にいいでしょう。



 次の写真で、正面、斜めになっている部分は階段です。
 書庫の空間が、何層にも重なって、地下ビルの階層のようになっています。



 いくつか、感想を並べてみます。
 図書館ですが、利用者が利用する部分で、利用者が本を手に取れるような書庫とか書架、本棚がないことに驚きました。
 たくさんパソコンが並べてあるスペースがあります。
 パソコンで借りたい本を選んで申し込むそうです。
 申し込んだあと、目的の本が受け取りカウンターに届いているのかをパソコンで確認してカウンターまで受け取りに行くそうです。
 複写の依頼も同じようなやりかただと感じました。自分で、コピー機にコインを入れてコピーするのではなく、職員が事務室内でコピーしてくれたものを受け取るのです。
 コピー代に1円未満の端数があるのが不思議でした。カラーA4だと1枚消費税込104.50円。白黒A4だと1枚税込27.50円、白黒A3だと1枚税込47.3円。支払う時、円未満が出ないような枚数を複写するのかなあと思いました。単位『銭(せん)』の支払いはできませんものね。
 
 館内には、旅行バッグなどは持ち込めません。
 ロッカーに預けて、ロッカー室にたくさんぶらさげてある透明のバッグに貴重品だけを入れて持ち歩きました。本の盗難防止のためなのでしょう。透明バッグには、ペットボトルを入れることができる部分がありました。
 ロッカーを使用するときに100円玉がいります。100円玉は、使用後戻ってきます。

 なんというか、地下書庫には、ものすごい量の本が保管されていました。
 歴史があります。
 明治10年(1877年)西南戦争のときの新聞を見せてもらいました。熊本県での激戦地田原坂の戦い(たばるざかのたたかい)の記事でした。去年12月に鹿児島市内観光に行ったのですが、西郷隆盛終焉(しゅうえん。命の終わり)の地あたりを見学したことを思い出しました。

 地下書庫の通路から書架を見ただけですが、自分が二十代だったころに読んだマンガ本、『少年サンデー』が、本棚にずらりと並んでいて、背表紙を見て、西暦の数字が書いてあって、なつかしかった。心が不安定な若い時期に、マンガに支えられたということはあります。

 国立国会図書館の仲間として、関西館(京都府精華町せいかちょう)と国際子ども図書館(東京上野公園内)があることを知りました。  

Posted by 熊太郎 at 07:26Comments(0)TrackBack(0)東京

2024年07月13日

靖国神社見学

靖国神社見学

 訪問は二回目です。
 前回の見学は、記録を見ると、2014年(平成26年)3月ですから、10年ぐらい前です。
 前回は小雨が降っていました。今回は炎天下の夏です。
 前回は、沿道では、バザーをやっており、外国人の売り手もいて、なんだか外国のストリートに来ているようでした。同行したわたしの妻の記憶では、バザーで、わたしの靴下を買ったそうです。わたしはもうそのことは覚えていません。そのとき、わたしの靴下がなにかしらで濡れたか汚れたかしていたので買ったらしいです。
 今回の沿道では、7月13日土曜日から数日間開催される行事の準備をされていまいた。掲示物には、『みたままつり』と書いてあった記憶です。
 沿道では、作業員の方々が、人や組織の名前が書いてある小型のちょうちんをたくさん吊り下げる作業をされていました。







 次の写真にある屋根の下につりさげてある紙でつくられた球体をした装飾(そうしょく)工芸品のようなものがきれいでした。手毬(てまり)を意味しているのかもしれません。



 次の写真で、左右にずらりと並んでいるのが小型の黄色いちょうちんです。中は電球です。夜に来ると風情(ふぜい)が湧くでしょう。
 ちょうちんには、わたしが知っている全国各地の地名が書いてあり、身近に感じました。戦没者の遺族会とかが関係しているのかもしれません。



 帰宅してから気づいたのですが、次の写真の右にある石の柱に先日落書きがされて問題になっています。
 記事を読むと、落書きをするためにわざわざお金を払ってスプレー缶を購入しています。お金を使って、時間を使って、労力を使って落書きという行為をしたことにあきれました。
 人の物を傷つけたり壊したりすることは犯罪です。そんなこともわからない人の脳みそは、まだこどもの脳みそです。
 なにか主張があるようですが、口実でしょう。こうじつ:つくった理屈(りくつ)。真相は、ただやってみたかった。おもしろそうだった。やんちゃな幼児か、人に迷惑をかけて目立ちたい年頃の中学生みたいです。

 靖国神社には、戦争で亡くなった人たちの霊(れい。魂たましい)が祀られています。(まつられています:尊敬し心をなぐさめ感謝する)。政治的にはいろいろ考えの対立もあるようですが、関係者遺族にとっては、心休まる場所でしょう。さかのぼれば、太平洋戦争の時に、うちの親族にも若くして兵隊に行って亡くなった人はいました。夏の暑い時期、お墓参りに行ったときに、父方の祖父母が、戦争で亡くなった自分たちのこどもの名前をしきりにつぶやいていました。


  

Posted by 熊太郎 at 06:24Comments(0)TrackBack(0)東京

2024年07月12日

マツケンサンバを見に行く。東京明治座

マツケンサンバを見に行く。東京明治座

 昨年12月に松平健さんが大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を演じた忠臣蔵(ちゅうしんぐら)のドラマを毎日夜BS放送で観ていました。
 翌月1月に、東京品川駅の近く、高輪ゲートウェイ駅(たかなわゲートウェイ駅)から歩いて、四十七士(しじゅうしちし)のお墓がある泉岳寺(せんがくじ)に行き、志士の皆さんのお墓参りをしました。
 そのとき、松平健さんのマツケンサンバをじかに観てみたいという欲求が湧いてきました。楽しいだろうなあーーー
 ということで、今月7月に東京駅近く、明治座で松平健さんデビュー50周年記念公演があることを知り、チケットぴあの抽選に申し込みました。当たりました。前から6列目の席でした。夫婦で観てきました。よかったーーー サンバ棒(ペンライト)を振り回しながら、盛り上がりました。マツケンサンバーーー オレーー オレーー マツケンサンバーーーです。

 次の写真は、記念写真を撮るところで、開演前には長い列ができていました。
 終演後は入れなくなっていて、観客のみなさんはもうほとんど外へ出て行かれたあとです。そばにあるトイレを利用されるお客さんがウロウロされているだけでした。







 次のポスター写真、『明治座 暴れん坊将軍』は、建物の玄関入口横にありました。
 終演後、夜9時を過ぎて人は少なかったのですが、観劇を終えた人たちが、順番にポスターの前で記念写真を撮っておられました。
 わたしたち夫婦がスマホで慣れない自撮りをしていると、『撮りましょうか?』と、声をかけてくださる親切な方がいて、本当に助かりました。
 この日は、東京駅構内にある『一番街』というところで、ポケモンの絵が描いてある壁の前で自撮りの記念写真をとっていたら、そばにいた日本語を話す小学生高学年ぐらいの外国人の男の子や女の子たちが5~6人近づいてきて、非常にていねいな日本語で、写真をとってあげましょうかと声をかけられました。フランス人かスペイン人みたいな顔立ちをしたこどもたちで、彼らから見れば、私たち夫婦は、おじいさん・おばあさんなのですが、ゆっくり何枚も写真を撮ってくれました。ありがとう。
 東京では、どこへ行っても、写真撮りましょうか?と声をかけてくださるので助かります。ご親切に感謝します。



 自分自身は、写真撮影がにがてで、次のポスターも、天井の照明灯がまんなか付近に反射して写ってしまいました。



 次の写真が公演のタイムテーブルです。(時間割り)
 途中30分ずつ、計1時間の休憩をはさんで、演劇『暴れん坊将軍』の第1部・第2部、そのあと歌のショーという構成です。
 わたしたち夫婦は夜の部で、午後4時前に入場して、終わったのは午後9時ぐらいでした。
 夕ご飯は、劇場内でお弁当を売っていて、幕間休憩のときに席で食べておられる方がそこそこおられました。
 わたしたちは、劇場内で売っていた、きびだんごとか、お菓子のたぐいを食べました。
 晩ごはんは、終演後人形町駅のそばにある居酒屋で食べましたが、仕事を終えた若い男女の人たちがたくさんで、店内は話し声がざわざわと満ち足りていて活気がありました。
 日本橋人形町という場所柄、優秀な能力をもった有名な会社の社員さんたちが集まっているのだろうと勝手な思いをもちながら若い男女のサラリーマンの皆さんたちをながめていました。雰囲気に勢いがあります。もうずいぶん前のことになりますが、自分もああして働いていたのだなとなつかしかった。
 たくさんいる若い店員さんたちは外国人がほとんどのようすで、カウンター席の角にふたりで座ったのですが、厨房(ちゅうぼう)にあるホワイトボードには、アラビア語で業務に関する連絡事項が書かれていました。中東系の人やアジア系の人たちが働いておられましたが、みなさん業務処理能力が高そうな人たちで、てきぱきと働いておられたので感心しました。あんがい本国では、国立大学ぐらいで学ぶような人たちかもしれないと、これまた勝手な推測をしました。



 東京駅から明治座へは、路線バスで行きました。
 これまで知らなかったのですが、東京駅周辺を巡る無料の巡回バスがあります。ふたつのルートがあります。
 次の写真がバス停の位置にあって、メトロリンク日本橋eラインというバスに乗りました。バスは、前から乗って後ろからおります。
 バスの乗客は外国人観光客が多いのかなと予想しましたが、おもに地元の人たちが利用されているように感じました。
 バスの時刻表はなく、わたしたち夫婦が利用したルートは、一周40分ぐらいで2台がまわっているように見えました。ですので、20分ごとにバスがくるような感じです。専用のアプリをスマホに入れると、今バスがどこにいて、何分後に自分がいるバス停にバスが来るのかが、わかるようになっています。便利です。



 宿泊は、明治座のそばにあるホテルに泊まりました。道を隔てて(へだてて)建っていました。
 次の写真では、ちょっと手前のビルが重なっているのですが、部屋から東京タワーが見えました。
 
 ときどき、都内のホテルに泊まるのですが、朝食会場は外国人のかたばかりで、食事をしていると、なんだか外国にいるような気分になれます。欧米の人もアジアの人もいろんな国籍の人たちで、ちびっこ連れのファミリーから年配の人まで、老若男女がたくさんです。

 明治座の前の道路が、広い道路で、なおかつ一方通行だったのでびっくりしました。
 5車線ぐらいありました。一方通行だから歩行者にとっては安全です。



 さて、かんじんの暴れん坊将軍とマツケンサンバ歌謡ショーの感想を、思い出すままに書き落としてみます。

 『暴れん坊将軍』の演劇が始まる前に注意喚起のアナウンスが流れるのですが、その内容が笑えます。
 『上様から(うえさまから)お知らせがあります。守れない人は、成敗(せいばい)します……(せいばい:やっつける。こらしめる)』

 客層ですが、5月に愛知県半田市内のホールで見た綾小路きみまろさんの毒舌漫談のときには、ほぼみなさん高齢者とその付き添いの方たちでしたが、今回の松平健さんのショーは、老若男女がいて、ファンの年齢層が幅広い。若い男女の人たちもけっこう見かけました。

 まあ、すごい数の人です。自分たちの開演前に、昼の部を観た人たちの退出があったのですが、帰られる人たちが乗った観光バスが何台も出発していきました。
 たとえば、なにかの企業の顧客の人が招待されてきているような感じでした。
 けっこう長時間の公演なので、一日二回公演があるときは、運営する側の人たちはてんてこまいでしょう。

 演劇についてです。
 舞台装置がとてもきれいです。大道具さんとか、小道具さんの技術力が高い。
 途中、川のそばで演じるという設定があったのですが、川の水が本当に流れているように見えて不思議でした。
 全体をとおして、舞台芸術を見ているようでした。

 わたしは、自分が中学生だったお正月のときに母方の祖父に連れられて、福岡県の地元の劇場(嘉穂劇場かほげきじょうといいます)へチャンバラ演劇を観に行ったときのことを思い出しました。
 祖父ももうとうの昔に亡くなりましたが、いい思い出です。『暴れん坊将軍』のステージを観ながらそんなことを思い出しました。

 『照明の操作』がとてもおじょうずです。
 照明が、演者と会話をしているような感覚をもちました。
 たいしたものです。

 音楽もぴったり内容と一致しています。
 観ている人の感情を誘導したり、揺り動かしたりする力が音楽にはあります。
 長年の技術や知識の蓄積が重厚にあるのでしょう。

 松平健さんの色とりどりに変化する衣装がステキです。
 仮装大会のようでもありますが、派手で、観ていて気持ちがいい。
 松平健さんが、赤い色の着物姿になったときは、お笑い芸人のコウメ太夫(こうめだゆう)さんみたいになりました。わたしは、小梅太夫さんのファンなので嬉しかった。ギャグ、『チックショー』がセリフで出てもおかしくないようなお衣装でした。

 物語の柱は、暴れん坊将軍徳川吉宗の正義の味方とか、勧善懲悪(悪をこらしめる)、人情重視を下地にしてのカリスマ化(英雄扱い)があります。現実社会ではなかなか実現しない、こうだったらいいのになという理想です。

 登場する人物設定で、徳川吉宗に政策面で対立する相手は、尾張藩の徳川宗春のイメージなのでしょう。
 まじめに考えると、お金は節約して貯めるだけでは経済は回らないのです。お金は使って、経済を回転させて、景気を良くしていかねばならないのが基本です。

 ときおり、盆踊りとかパラパラダンスとかが入ります。いろんな踊り・ダンスが入ります。マツケンさんの衣装も、アラビア風(マハラジャ)、インド風に見えるときもあります。長崎県島原の乱のときの隠れキリシタン天草四郎時貞のような雰囲気の時もありました。多国籍であり、多数の時代にいたであろう人物像です。
 女性の演者の方たちは、ヘアースタイルが日本髪なので和風の踊りや洋風のダンスをするときはたいへんでしょう。ふつうのヘアースタイルでもかまいませんよ。

 舞台で目安箱が出てきます。入館時、劇場内に置いてあった目安箱です。
 開演前に観に来た人が、その目安箱へ投書することが可能でした。
 マツケンさんが、ステージ上で、目安箱から紙を取り出して投書を読み上げられました。リアルに観劇されている人の文章でした。なかなかいい。

 あとさきになりましたが、マツケンさんの冒頭の登場シーンは、白馬にまたがっている姿でした。かっこいい。うちの小学校低学年の男児の孫が観たら、そういう凛々しい(りりしい)姿が好きなので、きっと真似をしたがるでしょう。

 火消しチームのチームワークがいい演技でした。まとまっています。

 マツケンさんの刀さばき(かたなさばき)は、こどものときに映画館で観た『大魔神』のイメージで力強く豪快でした。見ごたえがありました。

 マツケンさんの歌唱は、声に伸びがあります。70歳という年齢を感じません。
 きちんとした正確な歌い方をされるので好感をもちました。力まず、リラックスして、なめらかに歌っておられます。
 
 とにもかくにも明るいのがいい。キラキラ輝いています。
 
 劇中の流れとか、歌の趣旨として、『きょうは、仕事にいきたくないなあとか、(雰囲気として)きょうは学校に行きたくないなあとか思ったとしても、いかなければならいこと、やらなければならないことは、気持ちに折り合いをつけて、ちゃんとやろう。うん。そうしよう……』というような意思が感じられる応援歌に聞こえました。(わたしなりの感じ方、受け止め方です)。それが良かった。劇中で流れた言葉として、『それでも明日(あした)はくるのです』があった記憶です。

 これだけの舞台を仕上げるのには、相当な時間と労力を費やして企画されたのであろうとお察しします。演劇・歌謡ショー企画チームと、表舞台には出てはこない裏方スタッフのみなさんのご苦労をお察しします。

 毎日のように何回も同じ内容で公演されるわけで、どうもそのときの客層で、反応が異なる時があるようです。
 松平健さんの最後のあいさつの内容として、今まで演じてきた中で、今回のお客さんは、一番ノリが良かったというようなお話があって、確かに、会場全体がまるで、若い人たちの音楽フェスティバルのような熱気と興奮で盛り上がっていました。まあ、それだけふだんたまっているものがあるのかもしれません。
 最後に舞台上でずらりと横に並んで、演者のみなさんがたからサヨナラのあいさつがあるのですが、涙ぐんでおられる演者のかたも複数おられて、やはり演者のみなさんは感受性が強い方が多いなと納得して安心しました。
 観ているこちらも、(これまでイヤなことがたくさんあったけれど)生きててヨカッターという気持ちになれました。

 自分は十代後半のころは、こういう舞台や脚本をつくるような仕事をしたいと思ったこともありますが、それでは食べていけないわけで(生活が成り立たない)、あきらめて地道に働いて歳をとりました。
 あと何年ぐらいこの世にいられるかわかりませんが、若かったころの夢を思い出しながら、これからもステージなどを観る側の立場で楽しませていただきます。  

Posted by 熊太郎 at 06:50Comments(0)TrackBack(0)東京

2024年07月11日

ぼくはうそをついた 西村すぐり

ぼくはうそをついた 作・西村すぐり 絵・中島花野(なかじまかの) ポプラ社

(1回目の本読み)
 とりあえず、ページを全部めくってみて、どんなことが書いてあるのかを把握します。はあく:(おおまかに)理解する。

 出てくる人たちです。時代設定は、2005年(平成17年)になっているようです。
 舞台は広島県広島市です。

ひいおじいさん:リョウタのひいおじいさんのこと。94歳で今年初めに亡くなったそうです。リョウタの祖父であるシゲルさんとそのひいおじいさんは一緒に暮らしていましたが、ひいおじいさんが亡くなったので、おじいさんは、リョウタの家族といっしょに暮らすようになったそうです。ちょっとややこしい。この物語は、おじいさんやおばあさんなどのお年寄りがいっぱいです。おじいさん・おばあさんに加えて、ひいおじいさん・ひいおばあさんが出てきます。

レイ:リョウタより1歳上の女子。ヘロウばぁ(レイのひいおばあさん)のひ孫娘。物語の途中で、長い髪を切って、ショートヘアに変えます。

シゲル少年:リョウタの祖父シゲルの少年時代でしょう。

カープ:プロ野球チームの広島カープでしょう。

ミノル:リョウタの祖父であるシゲルじいちゃんの3歳年上の兄。原爆に被爆したため13歳で亡くなったそうです。

タヅ(レイのひいおばあさん):90歳代の高齢女性。去年の夏、家を出ていなくなったことがある。認知症の徘徊(はいかい。さまよい歩き)があるのでしょう。今は在宅しているようです。(数日前にニュースで、認知症のために家を出たまま行方不明になって警察に届け出があった高齢者が日本国内で1万9000人ぐらいいるようなことをいっていました。そのうちの何割かはその後発見されているのでしょう)。
タヅは、アメリカへ渡った日本人移民のこどもとして生まれた。(アメリカというのは、アメリカ合衆国ではなく、移民先だった南米の国ということでしょう。ブラジルとかペルーとか)。貧しくて生活できず、一家で帰国したというように書いてあります。認知症のためか、自分で、『(自分は)12歳です。男の子をさがしとります(自分のこども)』と言ったそうです。

リョウタ:小学5年生の夏という設定です。広島市内を流れている太田川のむこうに住んでいた母方祖父シゲルじいちゃんが来て、家族四人の同居になった。両親がいる。ほかに家が二軒建っている。リョウタの家(普通車2台の駐車スペースあり。庭なし。父の普通車と母の軽自動車、シゲルじいちゃんの軽自動車、合計3台を2台分のスペースに無理やり停(と)めている)、隣に広い庭付きの古家(ふるや)がある。リョウタは、ジュニアバレーボール部員で、『大田川プルムス』というチームに所属している。夏休み中は、週に3回練習がある。話の始まりでは小学5年生だが、途中で6年生に進級する。

シゲルじいちゃん:リョウタの母方祖父とあります。

(伝説の)ヘロウばぁ:リョウタの一学年上の女子レイのひいおばあさん。認知症があるように見えます。原爆で子どもさんを亡くしているそうです。

 太田川をはさんで家が2軒ある。小学5年生のリョウタとリョウタの母方祖父であるシゲルじいちゃんが住んでいる一戸建てがある。
 
 広島原爆を扱った反戦ものの児童文学でしょう。
 原爆投下から時が流れて、世代が変わりました。
 以前の物語だったら、祖父母で良かった設定が、令和の今は、ひいおじいさん・ひいおばあさんの時代を設定しての話になりました。広島原爆の投下が1945年(昭和20年)ですから、あれから79年です。ただ、この物語の場合は、西暦2005年ころの設定になっています。平成17年ころです。当時だと、原爆投下は60年ぐらい前です。

 序章:いただきます
 第一章:ひいおじいさんのたからもの
 第二章:猫のタオルハンカチ
 第三章:レイのゆううつ
 第四章:シゲル少年四年生の夏
 第五章:わしらのカープ
 第六章:レイのゆううつ2
 第七章:ミノルがめざした場所
 第八章:たずねびと
 終章:タヅさんのぞうり
 あとがき
 以上の構成です。

 昔大きな戦争があった。第二次世界大戦。1939年(昭和14年)9月1日~1945年(昭和20年)9月2日。
 日独伊(日本、ドイツ、イタリア)と連合国が戦って、連合国が勝利した。
 
 広島市への原爆投下:1945年8月6日午前8時15分に投下された。人類史上初の核兵器による都市攻撃だった。
 56万人ぐらいが放射能に被爆した。投下された年に約14万人が亡くなった。
 当時の広島市の人口は約35万人だった。
 広島市には軍事施設があったので原爆投下の候補地に選ばれたという文章を以前読んだことがあります。

横川駅:原爆ドームの北方向にあるJRの駅(昔は国鉄の駅だった。日本国有鉄道)

あたらしい球場:昔あった広島市民球場でしょう。わたしは広島見物に行ったときに、野球場のスタンドからグランドを見たことがあります。そのときはもう新しいマツダスタジアムができていたような時期で、広島市民球場のグランドでは、中学生同士が試合をしていました。

あとがき:作者西村すぐりさんのおかあさんの戦争体験をもとにして、この児童文学をつくられたそうです。お名前から性別がわからなかったのですが、作者は女性です。

(2回目の本読み)
 (魚釣りをするときの)鑑札(かんさつ):リョウタと祖父のシゲルがアユ釣りをします。釣るための権利としてお金を支払うともらえる。漁業組合に払う。漁業組合が川や魚の管理をしている。環境維持のための費用を負担している。

 祖父と小学生5年生男児の孫とでおとり鮎を使った釣りをしています。祖父と孫のペアという、あまりそのような光景は見かけなくなりました。
 アユ釣りのやり方の講習本のようでもあります。
 
 河川敷で三角ベースの野球遊びをするこどもも見かけなくなりました。
 正式なチームに入って野球をするこどもばかりです。時代が変わりました。

 シゲルじいちゃんが持っている小さな箱:もともとは、シゲルじいちゃんの父親(シゲルのひいおじいさん)の遺言書が入っていた。ひいおじいさんは、一年前に亡くなった。一周忌の法要があった。今は、箱の中には、原爆で亡くなったシゲルじいちゃんの3歳年上の兄ミノルの遺品が入っている。さきっぽが折れた小刀(こがたな。鉛筆を削るための折り畳み式ナイフ)と、つくりかけの木の彫刻が入っている。兄は、学徒動員の勤労奉仕で家屋を倒す作業をしていて原爆の犠牲者になった。遺体は見つからなかったが、さきほどのミノルさんが使っていたナイフは見つかった。

 話の途中でときおり、遊びの、『だるまさんがころんだ』が出てきます。なにか意味があるのでしょう。伏線かも。(あとで感動を生むためのしかけ)(読み終えてとくに伏線らしきものはありませんでした)

 出てくる人の名前がカタカナ表記ばかりです。なにか配慮があるのでしょう。

 リョウタのひいおじいさんは、息子のミノルさん(シゲルさんの3歳年上の兄)を原爆で亡くした。遺体は見つからなかった。持っていた小刀(こがたな。鉛筆を削るための折り畳み式ナイフ)だけが見つかった。

カイト:レイのいとこでレイの家の隣の家に住んでいる。レイより1歳下ですから、リョウタと同じ学年でしょう。将来バイオリニストになりたい。

カイトの妹:生まれたばかりだそうです。

ミドリ先生:1945年(昭和20年)8月広島に原爆が投下された当時、17歳の女子で先生をしていた。戦争で教員不足となり、代用教員として働いていた。原爆投下後、袋を縫って、亡くなった人の遺品を入れる作業をした。袋には亡くなっていた人の情報を書いた。

ユキワリイチゲ:多年草。野山に自然に咲く。作者はこの花になにかこだわりがあるようです。

 なんというか、説明の文章が多いので、こどもさんにとっては、読みづらいかもしれません。人間関係も続き柄がややこしい。
 これから、原爆投下のことを知らない世代へと交代していく経過の中で、表現のしかたをシンプルにする手法に転換する術(すべ。やりかた)を発想していくことが必要でしょう。
 時系列的な表現のしかただと、今はひいおじいさんやひいおばあさんが体験したといえますが、ひいひいおじいさんやひいひいおばあさんとなると伝承のためのインパクト(強調点)が薄くなります。

 リョウタの祖父シゲルが小学四年生だったときの話が出ます。
 広島菜:漬物(つけもの)にできる野菜でしょう。
 シゲルからリョウタに、広島市に原子爆弾が投下されたときについての話があります。
 空襲警報発令です。
 わたしは、広島市は軍都だったから、原爆投下の目標地に選ばれたと聞いたことがあります。
 シゲル少年は当時、広島市内の爆心地から10kmぐらい離れた小学校の校庭にいたそうです。
 原爆投下後、救護活動に従事した。
 6年生は、8人で、ほとけさん(遺体)をのせた戸板(といた。引き戸に使う板)を運んだ。四年生は体がちいさいので、手伝わせてもらえなかった。

松根油(しょうこんゆ):松の根っこにある油。飛行機の燃料にするそうですが、ちょっと考えられません。無理でしょ。

 94ページまで読みましたが、いまだにタイトルの意味がわかりません。『ぼくはうそをついた』の意味です。主人公の小学6年生リョウタはまだうそをついていません。

 リョウタは、『原爆ドーム』を見学に行きます。ちなみにわたしは二度見学したことがあります。最初の時と二度目とは印象が異なりました。
 最初見たときは、次のような感想メモが残っています。
 『第一印象は、建物の色が思っていたものとずいぶん異なることでした。わたしは壁が濃厚な緑がかった暗い雰囲気の構築物を想像していましたが、実際は正反対で、淡いパステルカラーでした。話は脱線してしまうのですが、以前名古屋市東区の徳川美術館で、源氏物語絵巻の再製版を見たことがあるのですが、そのときも深い色の水彩画をイメージしていたのですが、パステル(クレパスのようなもの)で描いたような明るい色調でした。話を戻すと、この広島ドームを見学した前日に京都の同志社大学横の道を歩いていたのですが、同大学の建物と原爆ドームの建物のレンガ色が同一で、かつ両者ともに洋風建築でわたしにとってはいずれも不思議なことでした。ながめていて、原爆ドームについては、建築されたときにこの姿になることが運命づけられていたのではないかと神がかりのように思えました』
 次が、二度目の時の感想メモです。
 『夏の暑さで視野がぼやけてしまいました。4年前に来たときは秋でした。パステルカラーの明るい建物に感じましたが、今回は暗い雰囲気を感じました。季節や朝・昼・晩で印象が変わるのでしょう。(こちらの本に紹介がある平和公園にある折り鶴を上にかかげた少女像を見て)この像を長い間ながめていました。胸にぐっとくるものがありました』
 原爆ドーム:広島県産業奨励館(ひろしまけんさんぎょうしょうれいかん)

 物語の設定では2005年(平成17年)のことですから、プロ野球広島カープスの本拠地は、広島市民球場です。現在はマツダスタジアム広島(2009年竣工、供用開始)に変わっています。先日、九州博多へ行ったときに、新幹線の車窓から見えました。
 広島市民球場だったときのことが書いてあります。『たる募金』。たるの中に募金を入れてもらい球場のために使用する。広島カープは、ほかの球団のように、スポンサーとして、特定の企業をもたない市民球団としてスタートしています。

相生橋(あいおいばし):原爆投下のときの目標地点だった。原爆ドームとか昔の広島市民球場の近くにあります。

 物語は、平和公園内の説明が延々と続きます。
 建物疎開(たてものそかい):空襲が来る前に建物をあらかじめ壊して、火事が延焼しないようにしておく。

 この物語は、原爆の話と、超高齢者の認知症の話が並べてあるような印象です。

ミノル:リョウタの祖父シゲルの兄。

 平和公園あたりを中心において、広島市街地を背景に、超高齢者であるレイのひいおばあさんタヅ(別名ヘロゥばあさん)の記憶の中にある原爆投下時の世界が広がります。
 タヅは、原爆で亡くなった自分の息子の小学一年生タケタショウタ(リョウタの祖父シゲルの兄ミノルと同級生。シゲルも原爆で亡くなった)を探しているのです。(さがしている)

 149ページで、この本のタイトル、『ぼくはうそをついた』の意味がわかります。
 
 お盆の時期が近づいています。
 たまたまこの本を読み終える前日に、わたしたち夫婦は東京見物で、東京九段下(くだんした)の駅から出て、靖国神社(やすくにじんじゃ)へと歩いていました。
 靖国神社には、戦争で亡くなった人たちの霊(れい。魂たましい)が祀られています。(まつられています:尊敬し心をなぐさめ感謝する)。政治的にはいろいろ考えの対立もあるようですが、関係者遺族にとっては、心休まる場所でしょう。わたしたちが訪れたときは、全国各地から寄せられた個人名や組織名などが書かれた小型の黄色い提灯(ちょうちん)をたくさん取り付ける作業をされていました。戦没者の遺族会が関係しているのかもしれません。7月13日土曜日からなにか行事が開催されるようすでした。
 戦争とは違いますが、邦画、『異人たちとの夏』の内容も、ご先祖様を大切に思ういい映画だったことをふと思い出しました。亡くなった若き日のおとうさんおかあさんが、息子である片岡鶴太郎さんの目の前に現れて、おまえもなかなかたいへんだなあとなぐさめてくれるのです。しみじみしました。状況としては、異人たちとの夏ではなく、死人たちとの夏です。こわくはありません。だって、親子なんですもの。

 こちらの物語では、リョウタは、タケタショウタになり、レイは、ミノルになったのです。  

Posted by 熊太郎 at 06:45Comments(0)TrackBack(0)読書感想文