2013年05月05日

(再読)東京タワー -オカンとボクと、時々、オトン-

(再読)東京タワー -オカンとボクと、時々、オトン- リリー・フランキー 新潮文庫

 8年前に書かれたその内容はいまから20年ぐらい前のことです。名作です。再び読んでみました。ラスト付近を読んでいた昨夜、2階から居間に降りると、偶然、テレビでこの作品の映画が放映されていました。ちょうどそのとき読んでいた場面近くあたりでした。縁(えん)を感じました。
 作者は母親と東京の「笹塚」という地名の場所で暮らしました。乃南アサ著「晩鐘」にも登場する地名です。ふたつの作品の事実と虚構があいまって、不思議な感覚をもちながら読み進めました。東京タワーに登場する人物たちの故郷は九州福岡県です。晩鐘では長崎県でした。
 個人の生い立ち・生活をさらけだす力作です。二度目の読書ですが、前回読んだときの内容についての記憶がありません。文章は初めて読むような気がします。「ぐるぐるぐるぐる」という文節が何度も出てきます。東京タワーをコマに見立てています。魅力的な記述です。作者はことに後半部分で苦闘しながら文字を書き連ねています。書く苦しみが伝わってきました。医師や看護師、葬儀社に対する批判は読み苦しい。作中の作者は未熟です。不完全です。作者イコール聖人ではありません。生身の人間の心理が表れています。救われる気持ちに至れる部分があります。
 一番好きなシーンは、ハワイの超高級ホテルのプールで、歳をとった母親姉妹たちが、ABCマートのポリ袋を頭にかぶって、こどものようにはしゃぐところです。プールサイドにいるアメリカ人たちからの冷たい視線があります。
 その次に気に入った部分は、少年時代、政治家のポスター掲示板を引っこ抜いて、掲示板の柱となっている材木を削って野球のバットをつくるところです。政治家の名前をあげながら、だれそれの材木はいいとかよくないとか、笑いました。
 映画を全部観たことはありませんが、2時間の枠に収めるためには、長い小説の一部分に焦点をあてて製作することになるのでしょう。マザコンを想像させますが、小説では、その部分は後半です。前半の昔の暮らしに関する記述のほうが、わたしの好みです。
 前半に「継母」話が出ます。最後半で否定されます。両親別居の原因は嫁姑問題でした。永いときを経て、若い方の嫁は病死し、高齢となった姑は見舞いに来る親族の名前もわからない認知症になって施設入所しています。わびしい。病死した嫁は息子の彼女にやさしかった。攻撃は幸福を生みません。家族について考える物語です。親子そろって暮らす期間は長そうで短い。家族内の紛争は家族をバラバラにします。
 こころに響いた部分を順番に抜き出します。
 家族は引き算もある。
 子どもは愉快犯だ。
 東京ディズニーランドがオープンした。
 パチプロで生きていけるという錯覚にもとづく自信
 遠賀川(おんががわ)
 愛こそはすべて
 サイコロ持って来い!
 切り詰めて、こどもを大学にいかせる
 子育ては、かわいいと思うときよりもくるしいと思うときが何倍もある
 渋谷区京王線笹塚駅
 ピアノ可
 東京でも田舎でも一緒。だれといるのかが大事
 18歳で上京して東京駅のホームに立つ人が多いのに、母親は60歳を過ぎて、ひとりで九州から来て東京駅のホームに立った。
 癌の手術をしてしゃべれなくなって人に迷惑かけてまで生きたくない
 鎌倉のおじさんが自殺した。お疲れさまって言ってやりたい。
 女はこどものために愛情を吐き出し続けてふうせんのようにしぼんでしまった。
 ふりこむかもしれない1000点のために役満を切り崩せるようになった。
 スキルス性の胃がん
 厭世的(えんせいてき)にふるまう。
 枕元に相田みつを、柳美里(ゆうみり)
 松井のサヨナラホームラン
 69歳の春亡くなる。寒い2月ではなく、花が咲く春に死にたい。
 ほとんどの夫婦は互いの真実の姿を相手に見せない。
 こどもの名前の由来(ゆらい)。へその緒(お(ひも))
 亡くなった母から息子へのメッセージ
 勉強のできる子より、人から好かれる子になってほしい。
 あたしは5人の子を産んで育てて、なのに、どうして今はひとりで施設にいるのか。
 母親を泣かすのは、この世で一番いけないことです。


(前回読んだときの感想文)

東京タワー リリー・フランキー 扶桑社

 副題は「オカンとボクと、時々、オトン」リリー・フランキー著です。読み始めの2ページで、圧倒的な魅力に惹(ひ)きつけられます。自叙伝ですが、著者同様私自身も福岡県炭鉱地区筑豊(ちくほう)で過ごしたことがあるので、ひとつひとつの出来事が自分自身の思い出と重なります。複雑な親族関係、酒乱の男たち、頻繁な転居、貧困、花札、性風俗、暴力。読みながらなつかしくて涙がにじんできます。かつ笑えます。
 事実の列挙→著者の考え→事実の列挙という繰り返しの記述方式がまるで音楽を聴いているようです。自分の親の世代、祖父母の世代の生活もよみがえってきます。自叙伝を超えて、日本人という民族の研究書にまで発展しています。
 著者の母親に対する愛情は格別なもので、サトウハチロー氏のおかあさんに捧げる詩を思い出します。著者は病死した母親の遺体と布団で一夜を過ごします。
 著者の生き方は今の私からみれば虚無的で、いささかいいかげんで、私にとっては対角線上にある個性の人です。しかし本来私は著者と同じポジションにいたかった人間だとは思います。距離感を感じつつ羨望(せんぼう)のまなざしで、 作者を本来の人としてあるべき姿ととらえるのです。

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