2023年07月26日
東京都三鷹市山本有三記念館
東京都三鷹市山本有三記念館
井の頭公園内(いのかしらこうえんない)にある弁財天(べんざいてん)でお参りをしたあと、公園内を通って、玉川上水沿い(たまがわじょうすいぞい)に歩き、到着したところが山本有三記念館です。ご家族がご自宅として使用していた建物です。
ここまで来る途中の公園内では、欧米人の人たちがくつろぐようすがあって、外国の風景のなかを歩いているような感じがありました。
中学生のころの自分の愛読書が山本有三作品『路傍の石(ろぼうのいし)』でした。主人公の吾一少年(ごいちしょうねん)が、恵まれない環境にあってもめげずにがんばるお話です。自分と吾一少年を重ね合わせながら、自分もがんばらなければと、ずいぶん励みになりました。今回は感謝の気持ちをもって記念館を訪問しました。
入口に『路傍の石(ろぼうのいし)』の展示がありました。
想像していたものとずいぶん違う石だったのでびっくりしました。大きいので岩のようです。
自分が想像していたのは、道のはしっこにころがっている、手のひらにのるぐらいの小さな石でした。道ばたにある石ころみたいな人間でも、粘り強くがんばっているのだということを示している本のタイトルだと思っていました。
『路傍の石』は、昭和12年ころ(1937年ころ)執筆された作品で、時代背景は明治時代、主人公の吾一少年(ごいちしょうねん)は、丁稚奉公(でっちぼうこう。当時の小学校を出て、商家に住み込みをしながら、読み書き計算、商売のしかたについて学ぶ)に出されていろいろな苦労を重ねるという内容だったと思います。
自分の母方の祖父が明治40年(1907年)生まれで、吾一少年と同じような体験をした人でした。自分が中学生の時に、祖父からは、奉公先での苦労話などを聴きました。祖父はまじめな人でした。
展示してあった年譜をながめていてびっくりしました。
1910年(明治41年)ご本人23歳の時に、栃木県の山奥にあった銅山で労働体験をされて小説作品を書いておられます。
同地に自分は小学生のときに数年間居住しました。山本有三氏がそこにいたときから半世紀ぐらい先、1965年代(昭和40年代)のころです。
次の写真は、同地でのご本人の姿です。
『路傍の石』の読書でお世話になった作家さんと同じ場所にいたということが、今頃になってわかったわけですが、ちょっとした感動がありました。
なおこの地域については、春先に村井美樹さんがBSのテレビ番組で紹介されていました。テレビになつかしい風景映像が流れて自分はこどものころの思い出にひたることができました。『ローカル線よくばり絶景旅 村井美樹が行く わたらせ渓谷鉄道 新名所&穴場徹底満喫スペシャル BSテレ東』という番組でした。
上の写真は建物の二階廊下ですが、今春見学した東京四谷(よつや)にある迎賓館赤坂離宮の雰囲気に似ています。
迎賓館は、赤、白、黄金色のきらびやかなつくりでした。
次の花の写真は、お庭で撮影しましたが、なにかしら由緒あるお花に見えました。
花の名前がわかったら追記してみます。(追記:スーパーベナだと思います。別名『美女桜(びじょざくら)』です)
次の写真は、玄関の反対側から見た全景です。
とても立派なお屋敷でした。
クリスマスには、サンタクロースが来そうです。
井の頭公園内(いのかしらこうえんない)にある弁財天(べんざいてん)でお参りをしたあと、公園内を通って、玉川上水沿い(たまがわじょうすいぞい)に歩き、到着したところが山本有三記念館です。ご家族がご自宅として使用していた建物です。
ここまで来る途中の公園内では、欧米人の人たちがくつろぐようすがあって、外国の風景のなかを歩いているような感じがありました。
中学生のころの自分の愛読書が山本有三作品『路傍の石(ろぼうのいし)』でした。主人公の吾一少年(ごいちしょうねん)が、恵まれない環境にあってもめげずにがんばるお話です。自分と吾一少年を重ね合わせながら、自分もがんばらなければと、ずいぶん励みになりました。今回は感謝の気持ちをもって記念館を訪問しました。
入口に『路傍の石(ろぼうのいし)』の展示がありました。
想像していたものとずいぶん違う石だったのでびっくりしました。大きいので岩のようです。
自分が想像していたのは、道のはしっこにころがっている、手のひらにのるぐらいの小さな石でした。道ばたにある石ころみたいな人間でも、粘り強くがんばっているのだということを示している本のタイトルだと思っていました。
『路傍の石』は、昭和12年ころ(1937年ころ)執筆された作品で、時代背景は明治時代、主人公の吾一少年(ごいちしょうねん)は、丁稚奉公(でっちぼうこう。当時の小学校を出て、商家に住み込みをしながら、読み書き計算、商売のしかたについて学ぶ)に出されていろいろな苦労を重ねるという内容だったと思います。
自分の母方の祖父が明治40年(1907年)生まれで、吾一少年と同じような体験をした人でした。自分が中学生の時に、祖父からは、奉公先での苦労話などを聴きました。祖父はまじめな人でした。
展示してあった年譜をながめていてびっくりしました。
1910年(明治41年)ご本人23歳の時に、栃木県の山奥にあった銅山で労働体験をされて小説作品を書いておられます。
同地に自分は小学生のときに数年間居住しました。山本有三氏がそこにいたときから半世紀ぐらい先、1965年代(昭和40年代)のころです。
次の写真は、同地でのご本人の姿です。
『路傍の石』の読書でお世話になった作家さんと同じ場所にいたということが、今頃になってわかったわけですが、ちょっとした感動がありました。
なおこの地域については、春先に村井美樹さんがBSのテレビ番組で紹介されていました。テレビになつかしい風景映像が流れて自分はこどものころの思い出にひたることができました。『ローカル線よくばり絶景旅 村井美樹が行く わたらせ渓谷鉄道 新名所&穴場徹底満喫スペシャル BSテレ東』という番組でした。
上の写真は建物の二階廊下ですが、今春見学した東京四谷(よつや)にある迎賓館赤坂離宮の雰囲気に似ています。
迎賓館は、赤、白、黄金色のきらびやかなつくりでした。
次の花の写真は、お庭で撮影しましたが、なにかしら由緒あるお花に見えました。
花の名前がわかったら追記してみます。(追記:スーパーベナだと思います。別名『美女桜(びじょざくら)』です)
次の写真は、玄関の反対側から見た全景です。
とても立派なお屋敷でした。
クリスマスには、サンタクロースが来そうです。
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