2022年04月10日
明治村にある夏目漱石邸を訪ねる 愛知県犬山市
明治村にある夏目漱石邸を訪ねる 愛知県犬山市
ようやく行くことができました。
思い立ったのは、2021年2月のことでした。その頃に読んだ『吾輩は猫である』集英社文庫の表紙をめくったところに白黒写真で、東京本郷千駄木から明治村に移築された家の写真を見た時でした。
自宅から自家用車で行けば1時間もかからないところにあるのですが、コロナ禍の自粛が続いて遠い場所になっていました。
夏目漱石氏が住んでいた家が、明治村にあることはそれまで知りませんでした。(同じ家屋に夏目漱石氏の前に、時を異にして、森鴎外氏も住んでいたそうです)
あわせて、2020年の夏に読んだ「廉太郎ノオト(れんたろうノオト) 谷津矢車(やつ・やぐるま著 男性) 中央公論新社」に出てくる「幸田露伴邸(こうだ・ろはん邸)」がそばに建っていることも知り見学したくなりました。
森鴎外、夏目漱石、幸田露伴の三氏は、日本の近代文学を代表する小説家です。
幸田露伴邸は、作品「廉太郎ノオト」の85ページに、「蝸牛庵(かぎゅうあん。かたつむり)」という名で登場して、東京音楽学校の生徒である瀧廉太郎さんと幸田露伴氏の妹さんであるピアニストの幸田延(こうだ・のぶ)さん、ヴァイオリンを弾く幸さん(こうさん)姉妹との交流があります。
瀧廉太郎氏の師匠が幸田延さんという位置づけでした。
滝廉太郎:1879年(明治12年)-1903年(明治45年)26歳没 肺結核
参考までに、1872年(明治5年)鉄道開業東京新橋-横浜。
1878年(明治11年)東京で電灯が点灯。1879年(明治12年)琉球藩が(りゅうきゅうはんが)沖縄県になる。
夏目漱石邸にある書斎で自分も座って原稿を書くポーズをとりながら、かみさんに記念写真を撮ってもらいました。なにかしら嬉しかった。机の前に猫の置物が置いてあって、センサーが反応すると、ニャーと鳴いて説明が始まります。
ここで、夏目漱石氏は、「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」を執筆されたそうな。
次の写真が幸田露伴邸です。この部屋で、滝廉太郎氏や幸田露伴氏、彼の妹である幸田延、幸田幸(こうだ・こう)姉妹ほかが集まって、ヴァイオリンなどの楽器を演奏したり音楽談義をしたりしたのだろうと想像しました。
本『廉太郎ノウト』の90ページには『厠(かわや)から戻った廉太郎は蝸牛庵(かぎゅうあん)の縁側をよたつく足取りで歩いていた。』とあります。次の写真にある縁側のことなのでしょう。
明治村は、桜が散り始めで、桜吹雪が舞い始めていました。
大きな白いシデコブシの花は満開で絶景でした。
たくさん生えている青紫色のヤマツツジは、太陽光線を浴びながらきらきらと輝いていました。
赤色と白色のまじったモクレンもきれいでした。
丘の上から見える入鹿池(いるかいけ)の湖面はのどかで、景色としては、空中に池が浮かんでいるように見えて不思議でした。
園内を回っているのは、わたしたちのような年配の夫婦が多い平日の訪問でした。
そのほか、昨年大河ドラマで話題になった渋沢栄一氏が設立の発起人になった帝国ホテルの建物の中にある中二階のような喫茶室でホットコーヒーを飲んでのんびりしました。
次の写真が帝国ホテルの玄関です。
明治村(愛知県犬山市)、大正村(岐阜県明智町)、昭和村(岐阜県美濃加茂市)には、それぞれ行ったことがあります。
明治村は、半世紀ぶりぐらいに訪れました。前回来たときは、まだ中学校を卒業してまもなくの弟とふたりで、駅前からバスに乗って来ました。
永い(ながい)時が流れて、いまでは、ふたりともおじいさんになって、孫たちに囲まれる生活となりました。
みっつの村はこれから先、五十年後も存在することでしょう。
(2023年10月追記)
東京の日比谷公園付近を散策しました。
次の写真は、「帝国ホテル」です。
明治村で観た「帝国ホテル」の建物が、日比谷公園のあの位置に立っていたとイメージすると、文化的なデザインの建築物がたいしたものだと思えるのです。
ようやく行くことができました。
思い立ったのは、2021年2月のことでした。その頃に読んだ『吾輩は猫である』集英社文庫の表紙をめくったところに白黒写真で、東京本郷千駄木から明治村に移築された家の写真を見た時でした。
自宅から自家用車で行けば1時間もかからないところにあるのですが、コロナ禍の自粛が続いて遠い場所になっていました。
夏目漱石氏が住んでいた家が、明治村にあることはそれまで知りませんでした。(同じ家屋に夏目漱石氏の前に、時を異にして、森鴎外氏も住んでいたそうです)
あわせて、2020年の夏に読んだ「廉太郎ノオト(れんたろうノオト) 谷津矢車(やつ・やぐるま著 男性) 中央公論新社」に出てくる「幸田露伴邸(こうだ・ろはん邸)」がそばに建っていることも知り見学したくなりました。
森鴎外、夏目漱石、幸田露伴の三氏は、日本の近代文学を代表する小説家です。
幸田露伴邸は、作品「廉太郎ノオト」の85ページに、「蝸牛庵(かぎゅうあん。かたつむり)」という名で登場して、東京音楽学校の生徒である瀧廉太郎さんと幸田露伴氏の妹さんであるピアニストの幸田延(こうだ・のぶ)さん、ヴァイオリンを弾く幸さん(こうさん)姉妹との交流があります。
瀧廉太郎氏の師匠が幸田延さんという位置づけでした。
滝廉太郎:1879年(明治12年)-1903年(明治45年)26歳没 肺結核
参考までに、1872年(明治5年)鉄道開業東京新橋-横浜。
1878年(明治11年)東京で電灯が点灯。1879年(明治12年)琉球藩が(りゅうきゅうはんが)沖縄県になる。
夏目漱石邸にある書斎で自分も座って原稿を書くポーズをとりながら、かみさんに記念写真を撮ってもらいました。なにかしら嬉しかった。机の前に猫の置物が置いてあって、センサーが反応すると、ニャーと鳴いて説明が始まります。
ここで、夏目漱石氏は、「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」を執筆されたそうな。
次の写真が幸田露伴邸です。この部屋で、滝廉太郎氏や幸田露伴氏、彼の妹である幸田延、幸田幸(こうだ・こう)姉妹ほかが集まって、ヴァイオリンなどの楽器を演奏したり音楽談義をしたりしたのだろうと想像しました。
本『廉太郎ノウト』の90ページには『厠(かわや)から戻った廉太郎は蝸牛庵(かぎゅうあん)の縁側をよたつく足取りで歩いていた。』とあります。次の写真にある縁側のことなのでしょう。
明治村は、桜が散り始めで、桜吹雪が舞い始めていました。
大きな白いシデコブシの花は満開で絶景でした。
たくさん生えている青紫色のヤマツツジは、太陽光線を浴びながらきらきらと輝いていました。
赤色と白色のまじったモクレンもきれいでした。
丘の上から見える入鹿池(いるかいけ)の湖面はのどかで、景色としては、空中に池が浮かんでいるように見えて不思議でした。
園内を回っているのは、わたしたちのような年配の夫婦が多い平日の訪問でした。
そのほか、昨年大河ドラマで話題になった渋沢栄一氏が設立の発起人になった帝国ホテルの建物の中にある中二階のような喫茶室でホットコーヒーを飲んでのんびりしました。
次の写真が帝国ホテルの玄関です。
明治村(愛知県犬山市)、大正村(岐阜県明智町)、昭和村(岐阜県美濃加茂市)には、それぞれ行ったことがあります。
明治村は、半世紀ぶりぐらいに訪れました。前回来たときは、まだ中学校を卒業してまもなくの弟とふたりで、駅前からバスに乗って来ました。
永い(ながい)時が流れて、いまでは、ふたりともおじいさんになって、孫たちに囲まれる生活となりました。
みっつの村はこれから先、五十年後も存在することでしょう。
(2023年10月追記)
東京の日比谷公園付近を散策しました。
次の写真は、「帝国ホテル」です。
明治村で観た「帝国ホテル」の建物が、日比谷公園のあの位置に立っていたとイメージすると、文化的なデザインの建築物がたいしたものだと思えるのです。
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