2022年12月19日
不親切教師のススメ 松尾英明
不親切教師のススメ 松尾英明(まつお・ひであき) さくら社
ネットの『これから出る本』をチェックしていて、目に留まったので注文しました。
すると、YAHOO!JAPANニュースでこの本のことが紹介されていたのでびっくりしました。
偶然です。
(1回目の本読み)
わたしの読み方です。
1ページずつ、最後のページまで、ページをめくります。
『背の高さ順』について書いてあります。(五十音順ということもあります。ふーむ。何を基準にすればいいのだろう)
『給食は「完食することが目的」ではない』(同感です)
『子どもには小さなケガやトラブルを経験させておく』(意図的にケガさせるようなことはどうかと)
宿題のことが書いてあります。自分には、漢字の練習ぐらいしか記憶が残っていません。
『「早寝早起き朝ごはん」ができていない家庭(がある)』暮らし方が多様化しました。
(2回目の本読み)
今、同時期に並行して読んでいる本が『人間関係を半分降りる 鶴見済(つるみ・わたる) 筑摩書店』です。こちらの本とかぶるような内容もあります。学校に適応できないこどもさんがいます。
以前別の本を読んだ時にも書いたのですが、親にとって小学校に望むことは、こどもを死なせないでちゃんと卒業させてほしいということです。勉強ができるとか、できないとか、運動ができるとか、できないとか、そういうことは除外です。親としては、こどもが生きていればいい。その一点だけです。
働いていたころ、どうやったら、そんなふうになるのだろうかと疑問をもったことがあります。
その理由のヒントがこの本にあります。
親や教師の言いなりになって育ってきたからです。
本人がやるべきことを親や教師がやってしまっていたからです。
だから本のタイトルが『不親切な教師になれよ それがほんとうはこどものためなんだ』なのです。
働いていたころの一部の大卒社員の嫌だったところです。
いつでもどこでも、だれかが自分の世話を、ただでやってくれると思っている。
質問ばかりです。しじゅうこちらからの指示を求めてきます。
自分の頭で考えません。
失敗した時は、あなたの指示が悪かったから自分には責任はないと主張してきます。
嫌になります。
問題集は解けても仕事はできない個性ができあがっています。
自己防衛のための言い訳や自己主張はいくらでも出てきます。
教師が児童・生徒に対するサービス提供者になっている現状を指摘されています。
教師の長時間残業が新聞記事になることがあります。
不思議です。
効率が悪いだけのことではなかろうか。
やらなくてもいいことをやって、時間をつぶしている。
あるいは、残業賃(ざんぎょうちん)を生活給(せいかつきゅう。生活していくために必要な毎月支給される報酬)の一部として考えている。
働いていたころの労働時間の感じ方についてふりかえってみると、分かれるふたつのタイプがありました。
就業時刻の始まりと終わりを気にしない人が案外いました。まあ、よく働く人たちでした。始業開始時刻の1時間前とか30分前には、職場に来ている人たちがいました。机のぞうきんがけなんかをしていました。さらにそういう人は、終業時刻が過ぎても30分ぐらいは職場にいました。未婚の仕事をやるのが好きな人間だったり、子育てがひと段落した世代だったりの人がそうでした。残業賃はつけていません。働くことが半分趣味のようになっていました。
いっぽう、ぎりぎりに来て、すぐ帰る人たちもそこそこいました。子育て世代でした。
どちらが幸せなことなのかは、人それぞれの感覚です。同じ人でも人生の時期によって違ったりもします。
職場に長時間いる人は、職場が家庭みたいでした。仲間意識が強く、わきあいあいの雰囲気がありました。職場でのコーヒータイムや職場外でも飲食をともにすることも多かった。
職場に最低限の時間しかいない人は、帰宅後の家が家庭なのでしょう。まあ、本来の姿なのでしょう。
授業について書いてあります。
全員が全部を理解できるわけではありません。
人それぞれの能力と適性があります。
得手不得手があります。(えてふえて)
わからないものはわからないのです。
鉄棒で、逆上がり(さかあがり)ができなくても生きていけます。
漢字とか文章は、普段から書いていないと、高学歴の人でも書けなくなります。
テレビ番組『チコちゃんに𠮟られる』を見ていると、漢字を書けない芸能人さんはけっこういます。それでも、稼いでいます。(かせいでいます)
努力と根性の昭和時代を否定されるとつらい。
楽して稼げる(かせげる)わけがない。
会社が倒産したら、職を失って、おだぶつです。
労働者の労働意欲が低下しているような今の現状をみると、今後の日本経済の衰退化が懸念されます。(けねん:心配、不安)
(つづく)
学校という特殊な世界です。
無差別にいろんな人間が同じ場所にいます。
卒業後は、類似の人間で固まって働きます。
たいていは、利潤を追求する仕事に就きます。
学校のなかには、利潤を追求する活動はありません。
靴箱に名前の表示をするといじめにつながるそうです。だれの靴かわかる。靴を隠す。
提案されている内容は、今すぐどうこうできるようなことでもないような気がします。
学校には、卒業とか人事異動があります。生徒にとっても教師にとっても、学校は、一時的な滞在地です。
やることは何も変わりません。毎年同じ時期に同じことを、人が入れ替わりながらしていくところです。
半世紀ぐらい前までは、教師はこどもを腕力(わんりょく)で押さえつけていました。
今老齢の時期にある自分たちがこどものころの教師の体罰はひどかった。ビンタされたり、グーで殴られたり、廊下に正座させられたり、髪の毛をつかんでぐるぐる回しにされたり、男でも女でも先生は、わめいたり、どなったり、そんなことがありました。(ゆえに、社会に出て、職場でのパワハラに耐えられる度胸と忍耐力があるということはあります。あれも教育だったのか。皮肉なものです)
親が体罰を容認していましたから地域や社会の問題とされませんでした。
軍国主義とか、第二次世界大戦の名残り(なごり)があって、終戦後も二十五年間ぐらいは暴力でこどもにいうことをきかせる教育が続いたのでしょう。戦地から復員後の先生も多かった。授業中に何度も戦時中先生たちが戦地で体験された話を聞きました。それはそれで良かった。生きるか死ぬかのいいお話でした。
学校にいるときは、こどもはこどもでしかない。
おとなになってからが、人生の勝負が始まります。
学校という世界をうまくいくようにするというメッセージがあります。
ただ、それが、社会生活につながるかは不確かです。
社会では、ルールを守らない人がけっこういます。
人をだまそうとする人も案外います。
きれいごとだけを教えていてはこどもの心は壊れます。
学校は、世の中の不条理を学ぶ世界でもあってほしい。(不条理:ふじょうり。理屈が通らない。正義が通らない)不条理、不合理、理不尽(りふじん。圧力に屈する)なことがあっても、心が折れない気持ちをつくる場所であってほしい。
校則も卒業してしまえば何のしばりもなくなります。
学校と生徒との権利義務関係は消滅します。
子育てはむずかしい。
たいていは、親や先生の思うとおりには、こどもは動いてくれません。
親は、こどもの未来にばくぜんとした不安を感じながら、とりあえず、こどもが生きていてくれればいいと願うのです。学校では、いじめや体罰のないようにしてほしい。
間違っても命を落とすようなことはないようにしたい。
こどもは、まだ、人生が始まっていないようなものなのです。
宿題は、教師が満足するために出す。
おとなになってみて、宿題をやったから、なにか成果とか実績があったとか、聞いたことがありません。
これまでに教育界が積み上げてきたものを、ひとつずつ消去していく内容です。
こどもが、自分のことを自分でできるようにする。
家庭教育のことは親にやってもらう。
教師がやらなくていいことや、やめたほうがいいことは、やらない。
それが、こどもと親のためになると読み取りました。
ごもっともです。
ネットの『これから出る本』をチェックしていて、目に留まったので注文しました。
すると、YAHOO!JAPANニュースでこの本のことが紹介されていたのでびっくりしました。
偶然です。
(1回目の本読み)
わたしの読み方です。
1ページずつ、最後のページまで、ページをめくります。
『背の高さ順』について書いてあります。(五十音順ということもあります。ふーむ。何を基準にすればいいのだろう)
『給食は「完食することが目的」ではない』(同感です)
『子どもには小さなケガやトラブルを経験させておく』(意図的にケガさせるようなことはどうかと)
宿題のことが書いてあります。自分には、漢字の練習ぐらいしか記憶が残っていません。
『「早寝早起き朝ごはん」ができていない家庭(がある)』暮らし方が多様化しました。
(2回目の本読み)
今、同時期に並行して読んでいる本が『人間関係を半分降りる 鶴見済(つるみ・わたる) 筑摩書店』です。こちらの本とかぶるような内容もあります。学校に適応できないこどもさんがいます。
以前別の本を読んだ時にも書いたのですが、親にとって小学校に望むことは、こどもを死なせないでちゃんと卒業させてほしいということです。勉強ができるとか、できないとか、運動ができるとか、できないとか、そういうことは除外です。親としては、こどもが生きていればいい。その一点だけです。
働いていたころ、どうやったら、そんなふうになるのだろうかと疑問をもったことがあります。
その理由のヒントがこの本にあります。
親や教師の言いなりになって育ってきたからです。
本人がやるべきことを親や教師がやってしまっていたからです。
だから本のタイトルが『不親切な教師になれよ それがほんとうはこどものためなんだ』なのです。
働いていたころの一部の大卒社員の嫌だったところです。
いつでもどこでも、だれかが自分の世話を、ただでやってくれると思っている。
質問ばかりです。しじゅうこちらからの指示を求めてきます。
自分の頭で考えません。
失敗した時は、あなたの指示が悪かったから自分には責任はないと主張してきます。
嫌になります。
問題集は解けても仕事はできない個性ができあがっています。
自己防衛のための言い訳や自己主張はいくらでも出てきます。
教師が児童・生徒に対するサービス提供者になっている現状を指摘されています。
教師の長時間残業が新聞記事になることがあります。
不思議です。
効率が悪いだけのことではなかろうか。
やらなくてもいいことをやって、時間をつぶしている。
あるいは、残業賃(ざんぎょうちん)を生活給(せいかつきゅう。生活していくために必要な毎月支給される報酬)の一部として考えている。
働いていたころの労働時間の感じ方についてふりかえってみると、分かれるふたつのタイプがありました。
就業時刻の始まりと終わりを気にしない人が案外いました。まあ、よく働く人たちでした。始業開始時刻の1時間前とか30分前には、職場に来ている人たちがいました。机のぞうきんがけなんかをしていました。さらにそういう人は、終業時刻が過ぎても30分ぐらいは職場にいました。未婚の仕事をやるのが好きな人間だったり、子育てがひと段落した世代だったりの人がそうでした。残業賃はつけていません。働くことが半分趣味のようになっていました。
いっぽう、ぎりぎりに来て、すぐ帰る人たちもそこそこいました。子育て世代でした。
どちらが幸せなことなのかは、人それぞれの感覚です。同じ人でも人生の時期によって違ったりもします。
職場に長時間いる人は、職場が家庭みたいでした。仲間意識が強く、わきあいあいの雰囲気がありました。職場でのコーヒータイムや職場外でも飲食をともにすることも多かった。
職場に最低限の時間しかいない人は、帰宅後の家が家庭なのでしょう。まあ、本来の姿なのでしょう。
授業について書いてあります。
全員が全部を理解できるわけではありません。
人それぞれの能力と適性があります。
得手不得手があります。(えてふえて)
わからないものはわからないのです。
鉄棒で、逆上がり(さかあがり)ができなくても生きていけます。
漢字とか文章は、普段から書いていないと、高学歴の人でも書けなくなります。
テレビ番組『チコちゃんに𠮟られる』を見ていると、漢字を書けない芸能人さんはけっこういます。それでも、稼いでいます。(かせいでいます)
努力と根性の昭和時代を否定されるとつらい。
楽して稼げる(かせげる)わけがない。
会社が倒産したら、職を失って、おだぶつです。
労働者の労働意欲が低下しているような今の現状をみると、今後の日本経済の衰退化が懸念されます。(けねん:心配、不安)
(つづく)
学校という特殊な世界です。
無差別にいろんな人間が同じ場所にいます。
卒業後は、類似の人間で固まって働きます。
たいていは、利潤を追求する仕事に就きます。
学校のなかには、利潤を追求する活動はありません。
靴箱に名前の表示をするといじめにつながるそうです。だれの靴かわかる。靴を隠す。
提案されている内容は、今すぐどうこうできるようなことでもないような気がします。
学校には、卒業とか人事異動があります。生徒にとっても教師にとっても、学校は、一時的な滞在地です。
やることは何も変わりません。毎年同じ時期に同じことを、人が入れ替わりながらしていくところです。
半世紀ぐらい前までは、教師はこどもを腕力(わんりょく)で押さえつけていました。
今老齢の時期にある自分たちがこどものころの教師の体罰はひどかった。ビンタされたり、グーで殴られたり、廊下に正座させられたり、髪の毛をつかんでぐるぐる回しにされたり、男でも女でも先生は、わめいたり、どなったり、そんなことがありました。(ゆえに、社会に出て、職場でのパワハラに耐えられる度胸と忍耐力があるということはあります。あれも教育だったのか。皮肉なものです)
親が体罰を容認していましたから地域や社会の問題とされませんでした。
軍国主義とか、第二次世界大戦の名残り(なごり)があって、終戦後も二十五年間ぐらいは暴力でこどもにいうことをきかせる教育が続いたのでしょう。戦地から復員後の先生も多かった。授業中に何度も戦時中先生たちが戦地で体験された話を聞きました。それはそれで良かった。生きるか死ぬかのいいお話でした。
学校にいるときは、こどもはこどもでしかない。
おとなになってからが、人生の勝負が始まります。
学校という世界をうまくいくようにするというメッセージがあります。
ただ、それが、社会生活につながるかは不確かです。
社会では、ルールを守らない人がけっこういます。
人をだまそうとする人も案外います。
きれいごとだけを教えていてはこどもの心は壊れます。
学校は、世の中の不条理を学ぶ世界でもあってほしい。(不条理:ふじょうり。理屈が通らない。正義が通らない)不条理、不合理、理不尽(りふじん。圧力に屈する)なことがあっても、心が折れない気持ちをつくる場所であってほしい。
校則も卒業してしまえば何のしばりもなくなります。
学校と生徒との権利義務関係は消滅します。
子育てはむずかしい。
たいていは、親や先生の思うとおりには、こどもは動いてくれません。
親は、こどもの未来にばくぜんとした不安を感じながら、とりあえず、こどもが生きていてくれればいいと願うのです。学校では、いじめや体罰のないようにしてほしい。
間違っても命を落とすようなことはないようにしたい。
こどもは、まだ、人生が始まっていないようなものなのです。
宿題は、教師が満足するために出す。
おとなになってみて、宿題をやったから、なにか成果とか実績があったとか、聞いたことがありません。
これまでに教育界が積み上げてきたものを、ひとつずつ消去していく内容です。
こどもが、自分のことを自分でできるようにする。
家庭教育のことは親にやってもらう。
教師がやらなくていいことや、やめたほうがいいことは、やらない。
それが、こどもと親のためになると読み取りました。
ごもっともです。