2023年03月08日

これでいいのだ 赤塚不二夫自叙伝

これでいいのだ 赤塚不二夫自叙伝 文春文庫

 以前、著者の娘さんの本を読んだことがあります。『ゲゲゲの娘、レレレの娘、ラララの娘 水木悦子 赤塚りえ子 手塚るみ子 文藝春秋』それぞれ有名な父親をもつ娘さんたちの対談集でした。おもしろかった。水木しげるさん、赤塚不二夫さん、手塚治虫さんたちの娘さんたちです。有名漫画家の娘さんたちです。
 父親が亡くなったあと、娘たちは、父親の作品をむさぼり読み、亡き父親が残したメッセージを読み取ろうとします。また、作品中に自分をモデルにしたキャラクターを探そうともします。父と娘の関係とか愛情にまで言及(げんきゅう)が至ります。
 有名な漫画家さんの家族は派手な生活を送っているものとの誤解がありました。中小企業、家内工業のようなもので、地味で、かつ身近に倒産の危機があるものでした。また、父親3人は仕事に対してとても真剣で、天才といえども朝から晩まで、あるいは夜も寝ずに徹夜で何日もマンガの構想を練り、描(か)いていたことがわかります。

 さてこちらの本を読み始めます。
 著者は昭和10年生まれ(1935年)で、わたしの親の世代です。
 満州で生れて、第二次世界大戦後、帰国されています。たいへんなご苦労があった戦争体験者の世代です。ご本人は平成20年(2008年)8月2日に72歳でご逝去されています。
 この本は、1993年(平成5年)に単行本で発行されています。
 構成は①戦中編満州1 ②満州2 このあたりまでが、10歳になるまでのころでしょう。
 続いて③戦後編1大和郡山(奈良県でしょう)と新潟県でのこと ④東京でのこと

 とりあえずすべてのページを全部ゆっくりとめくってみました。
 文章がしっかり書き込んであります。
 全部で211ページあります。
 思い出話でもあります。50代後半のときに原稿をまとめられたのでしょう。66歳ぐらいのときに脳出血を起こされています。手術をされて、以降、創作活動は休止されています。(意識不明のまま6年間ぐらいが経過して、72歳でご逝去されています。その6年間の間に、妻と前妻が亡くなっていますが、本人はご存じありません)

『戦中編(満州1)』
 現在の北京市(ぺきんし)北東部にある古北口(こほくこう)生まれ。本籍は新潟市だそうです。
 北京は行ったことがあるので、地図を見てイメージしてみました。古北口は、ずいぶん山のほうにあるところでした。万里の長城があるところのようです。自分は八達嶺というところの長城を見学しました。(はったつれい。登るのがたいへんで、わたしはインチキをして、一方通行を逆行したら、中国人男性警備員に警棒で脳天をコーンとたたかれました。「おそるべし中国」と、恐怖におののきました)

 著者の父親が、特務警察官です。日本と対立する中国のゲリラ対策対応が業務のようです。ずいぶん危険そうな職業です。髭(ひげ)を生やして(はやして)いた。怖い人というイメージだった。
 読んでいて、子育てがにがてな男親だったのだろうと思いました。
 父親の息子に対する夢は警察官になってくれることでした。厳しい反面酒席では下ネタの歌ばかりを歌っていた。(日本人男性の原点を見るようです)
 本人の日記のような記録が残っている。『星霜の記憶』星霜:せいそう。年月、歳月、一年。昭和8年12月5日結婚。父26歳。母24歳だった。ああ、だから、作品天才バカボンに警官が登場するわけか。
 著者は、産婆さん代わりの近所の奥さんにとりあげられたそうです。(出産時のこと)
 わたしも自宅で産婆さんの手によって産まれました。半世紀以上前は、それがふつうの出産でした。
 自分がいて、その下に、妹、弟、弟とお生まれになっています。昔の女性はたくさんこどもを産みました。
 内容は、きちんとした記録文を読むようです。

(つづく)

 父は新潟生まれ農家の七人きょうだいの末っ子。だから名前が『藤七(とうしち)』。吃音(きつおん)があった。
 軍隊に入隊して憲兵になったが、満州に渡り警察官になった。
 パールー:中国共産党軍。八路軍(はちろぐん)

 戦時中のことの記述は壮絶です。
 平和な現在をのんきに過ごしている今の日本人にとっては、記述内容は身が引き締まる思いがします。生きるか死ぬか、殺されるか、殺すかの世界です。法令は命を守ってくれないこともあります。
 中国人に対して、残虐非道(ざんぎゃくひどう)なことをすれば命を奪われます。
 財産をひとりじめしない。富(とみ)をひとりじめすると命を失います。ワケワケ(分け分け)することが平穏と安全につながります。
 父親の人間観を表す言葉があります。『敵も味方も同じ人間じゃないか』父親は中国人の村人に物資を分け与え続けます。
 天才バカボンのモデルはお父さんだそうです。息子からみて父親は『これでいいのだ』という生き方をめざした人だったそうです。

 ペチカ:ロシアの暖房器具。暖炉(だんろ)兼オーブン。

 記述内容は、まあ、昭和時代です。他人のこどもでも悪さをすれば、叩きます(たたきます)。体罰OKの時代です。
 
 滝沢家(たきざわけ):満州大連小学生当時の親戚。著者は身の安全のために預けられた。
 生きていくための心意気があります。
 読みながら思うこととして、一見(いっけん)ばかなことを描いて(あるいは書いて)いると思われている人は、実は知的な人なのです。
 日本では想像できない中国大陸の変化が激しい自然があります。(ふだん水のない川が豪雨によって短時間で大河に変化する)

 昭和20年8月15日が終戦記念日、満州に居る著者は小学4年生です。
 これから生きるか死ぬか、中国に置き去りになって中国残留孤児になるかの緊張の中で、日本への帰国を目指します。
 敗戦国の国民の厳しい生活が描かれています。戦争に負けた国の国民の悲劇があります。中国人に対して、これまでの上下関係の立場が逆転します。
 当然、日本人が中国人に追いたてられます。それでも、著者の家族を救おうとしてくれる中国人がいます。父親がこれまで中国の人たちを大事にしてきたからです。

 父親はシベリアへ送られます。
 翌年昭和21年6月、母子5人で満州から日本への帰国にチャレンジです。かあちゃんと小学5年生の長男の著者と長女、長女の背中にはまだ生後5か月のあかちゃんの次女、そして、4才の次男がいます。こどもたちは、はぐれたら中国残留孤児になってしまいます。こどもを売ってくれという中国人たちがいます。おそろしい。
 帰国の経過の悲惨さとして、なかにし礼さんの作品『赤い月』があります。みなさん、ほんとうにご苦労されました。
 (たまたまですが、この部分を読んだ翌週に、福岡県飯塚市にある歴史資料館で、満州から帰還する家族を描いた大型の油絵を見ました。この物語の内容に合致する情景が描かれていました(えがかれていました)油絵のタイトルは『満州から引き上げる母子』でした)

 ふと読んでいると『東洋タイヤの社宅』とういう安全な場所に家族が移動できたとあります(中国人のおかげです)
 これもまた、たまたま偶然なのですが、現在自分が保有している株のなかに『TOYO TIRE(トーヨータイヤ)』があります。ちょっと嬉しくなりました。同じ会社ではないのかもしれませんが、なんとなく親しみを覚えました。
 
 戦後満州に進駐したソ連兵の残虐さが表現されています。ウクライナに侵攻したロシア兵と同じです。現地の人たちに暴力をふるいます。許せません。
 
 話は飛びますが、先日、電子書籍に目を通していたら、ベトナム人は日本人以上に優秀な頭脳と体力をもっていると紹介された文章を読みました。現地に滞在したことがある日本人の方の記憶でした。
 案外日本人は島国意識で、自分たちが一番だと誤解しているのかもしれません。
 ベトナム人は、知恵と体力で、米国の軍事力に負けなかった(ベトナム戦争)と書いてありました。

 今年読んで良かった一冊になりました。
 漫画家の方なので、ギャグが飛びかうのかと思っていたら、まじめな一冊です。

 奉天(ほうてん現在の瀋陽市(しんようし。北朝鮮の北西に位置する)から葫蘆島(ころとう。北京の東に位置する。日本人帰国者の収容所があった。ここで日本に帰国するための乗船順番を待った。ここには、港がある)
 
 戦争で人間の心が崩れていく様子が書いてあります。ひどい。

 長崎県佐世保港へ到着しました。
 先日番組『東野&岡村の旅猿』で、平成ノブシコブシの吉村崇さんをゲストに迎えて、岡村隆史さんが船を操縦して佐世保港の軍艦を見学していたシーンがありました。
 佐世保港は、軍国主義時代の歴史の地です。昭和時代初期は、外交手段が戦争でした。

(つづく)
 
 65ページから戦後編①(大和郡山・新潟)です。昭和21年6月15日が長崎佐世保港への上陸でした。
 母親の実家がある現在の奈良県大和郡山市内で暮らす赤塚一家です。著者は小学5年生です。のちのちの作品となる『おそ松くん』の下地がつくられる生活内容です。(チビ太のモデルとなる人物が近所にいます)
 母方祖母、かあちゃんの妹2人、弟1人、そこへ赤塚家の母子5人が入りますが、いちばん下のお子さん、まだ生後6か月のあかちゃん女児は亡くなってしまいました。
 家は、狭い家です。
 『枇杷(びわ)』の話が出ます。おいしい果実です。わたしも農家だった父方祖父母の熊本県の家にいたころにたくさん枇杷を食べました。畑にたくさん枇杷の実がなっていました。
 大きくなって、スーパーマーケットで枇杷が売られているところを見てびっくりしました。
 枇杷が、買って食べるものだとは知りませんでした。その値段の高さに二度びっくりしました。
 たぶん農家のこどもは、枇杷以外の作物でも、似たような体験をしたことがあると思います。

 読みやすくなりました。これまでは、戦時中の暗さがありました。
 内容が明るくなりました。

 奥村:ボスの小学生男児。赤塚不二夫氏が子分。

 ハチに刺された患部へおしっこをかけて、おしっこを薬代わりにする。(わたしも小学二年生の時に同様にやってもらったことがあります)

 荒木又右衛門の家があった:江戸時代初期の武士。大和郡山藩(やまとこおりやまはん)の剣術師範だった。新陰流の剣豪。

 こどもたちの危険な遊びが連続する戦後、昭和23年ころのことです。されど、自分も思い出しみると、昭和30年代から40年代にかけても、同じような危なっかしい(あぶなっかしい)遊びを野山でしていました。今思い出すと、よく事故にならなかったなと、ぞっとすることもあります。

 読んでいると『こどものころの貧乏体験』は、将来への財産になることがわかります。
 そして本を読むことが大事です。
 著者は、エジソンや野口英世の伝記を読んで『境遇がぼくと似ている。ぼくも貧乏だから、これは絶対うまくいくにちがいない……』と思ったそうです。
 そう言いつつ、ボスの命令でこどもたちが、警察署にある本棚から本を盗んでいくのがおもしろおかしかった。
 本のあちこちに『郡山警察署(こおりやまけいさつしょ)』のゴム印が押してあったそうです。(このときの本との出会いが、著者の漫画家志望と実現に生かされます)

 著者の小学生のころの思い出が語られ続けます。
 キャラクター『チビ太』のモデルが登場します。モデルさんは、まだ3歳です。こどものグループは、3歳から小学6年生まで、一団となって遊ぶのです。

 このころは、親も子も教師も兄弟姉妹も日本全国体罰の時代でした。軍事教育の影響でしょう。暴力の時代をくぐりぬけていくチビ太の存在があります。
 今だったら警察沙汰(けいさつざた)ですが、当時はふつうの日常でした。こどもは、親にたたかれ、先生にたたかれ、同級生や兄弟姉妹にたたかれることが多かった。
 今と比較して、人間の生存能力が高かった。なにくそという気持ちが強かった。

 恋の思い出があります。

 本を読むことで、著者の体験を読者である自分も体験することができます。本の魅力です。

 差別があります。『満州』から来た人間に対する差別です。『よそ者』です。
 著者は、差別されたくやしさを晴らすために漫画家を目指します。
 人間をランク付けする人がいます。
 生まれや育ちでランクをつける人がいます。
 もっているお金の多さでランクをつける人がいます。
 学力でランクをつける人がいます。
 いろいろあります。
 
 寝小便の話が出ます。
 あの当時、寝小便をするこどもは多かった記憶です。
 トイレ事情が要因のひとつでもあります。
 トイレは屋外で別棟だったり、共同便所だったりしました。夜はそこまで歩いて行かないと用を足せないのです。

 母親は映画がすごく好きだったそうです。
 遺伝なのでしょう。ストーリーづくりが必要な漫画家の素養を母親から引き継いでいる著者です。
 母親はこどものころの事故で右目が義眼だったそうです。

 小学6年生の著者と母親は、父親の実家がある新潟へ奈良県内から米の買い出しに行きます。過酷な旅程です。父親はシベリアに抑留されています。
 その時代、その時代の時代背景の中で、人間がせいいっぱい生きています。
 
 テヅカジチュウ:好きな漫画家の名前をたずねられて、小学六年生の著者は、漫画家の名前を正確に読むことがまだできませんでした。「手塚治虫(てづか・おさむ)氏」です。(著者は成長して、その後、手塚治虫氏に出会います)

 著者は母方祖母からいろいろなことを教わります。年寄りと孫の良好な関係があります。
 松根油(しょうこんゆ):松の切株からとる油。
 テグス:釣り糸
 たたらをふませる:よろめいた勢いで足踏みをさせる。

 昭和23年9月、こども3人は父方実家の親せきがある新潟県へ移ります。
 母親は奈良県の自分の実家に戻り、父親はシベリア抑留中です。
 著者は、満州で世話になった滝沢家へ世話になりに行き、妹と弟は父の実家へ移ります。
 
 昭和24年12月2日、シベリア抑留生活を終えた著者の父親が福井県舞鶴港に帰還しました。ソ連のナホトカ港から船で、3日間かかったそうです。港に着くと、ハガキ5枚と千円が支給されたそうです。そのころの連絡手段は郵便が基本だったのでしょう。
 夫婦・親子の対面は4年ぶりです。12月6日に夫婦が再会しました。
 昭和24年に、小学4年生だった著者は、中学2年生に成長しています。
 
 昭和25年1月8日、父と妹と弟は、新潟県のお寺で生活を始めます。(お寺の一室を住居としてあてがわれた)。父親の仕事先は農協です。1月20日ごろ、滝沢家から著者が合流します。おやじさんは作品『天才バカボン』のパパのモデルです。『これでいいのだ』のパパです。
 おやじさんの教えです。『生活が貧しいからといって、心まで貧しくなっては絶対いけないぞ!』(貧困であることを、犯罪の言い訳にしてはいけないのです)
 『一週間、塩をなめてでも頑張るんだ。』おやじさんの言葉です。
 あとのページに、著者は、お金がなかったから修学旅行に行けなかったとあります。
 
 漫画雑誌『冒険王』(わたしもこどものとき読んでいました)それから『漫画少年』という雑誌があったそうです。
 こどものころは、「いとこ」とつるんで遊ぶことが多い。
 漫画雑誌が人生を支えてくれる。
 手塚治虫作品のSF(サイエンス・フィクション)に没頭する。
 昭和26年ころから著者の漫画投稿が始まります。

 新潟人と関西人の比較があります。両者は対照的です。
 新潟人は保守的です。
 関西人は開けっぴろげです。
 新潟の若い人は、東京に行って、東京人になりたい。
 
 嵐勘十郎:映画時代劇スター。1903年(明治36年)-1980年(昭和55年)。77歳没。作品として『鞍馬天狗シリーズ』ほか。
 大河内伝次郎:映画時代劇スター。1898年(明治31年)-1962年(昭和37年)。64歳没。作品として『丹下左膳(たんげ・さぜん)シリーズ』ほか。
 
 昭和25年8月24日から奈良県の実家にいた母親も新潟に来て、ようやく親子五人の生活が始まります。

 父親の言葉がおもしろい。
 『赤塚藤七は男でござる』

 『行商』の記事があります。
 父親と著者ふたりで、砂糖、煮干し、お菓子などを売り歩きます。
 私も小学校一年生ぐらいの頃、父方祖母について、行商をしていたことがあります。祖母はリヤカーを引きながら、点在する集落を回っていました。
 著者親子は、もうからないからという理由で、昭和26年に行商をやめています。

 著者は中学を卒業すると、新潟市の看板屋に就職します。高校には行けません。経済的に無理なのです。だから著者の学歴は中卒です。
 著者に映画館での洋画との出会いがあります。作品はジョン・フォードの『駅馬車』でした。強烈な印象を受けたそうです。
 昭和29年9月、著者は、東京へ出ます。著者は19歳でした。著者は昭和10年(1935年)生まれです。

(つづく)

戦後編②(東京)
 著者は、江戸川区小松川というところにある化学工場で働きます。エビス工業です。そういえば、路線バスの旅の蛭子能収(えびす・よしかず)さんも、看板屋で働いて、漫画家を目指していたことがありました。
 著者の労働時間は、朝6時から夜8時までです。過酷です。
 休みの日は、朝10時から最終回まで同じ映画を何度も見続けます。
 鑑賞した作品として『聖衣(せいい)』『帰らざる河(かえらざるかわ)』
 著者の20歳前後の暮らしぶりが、自分自身とも重なります。休日はひとりで繁華街にある映画館に行っていました。とくに夏は、職場の独身寮の部屋の中が暑かったので、映画館の冷房を利用して暑さをしのいでいました。

 記述内容は、昭和26年あたりから昭和27年あたりです。
 著者の漫画制作にかける努力はすさまじい。時間をかけています。
 以前読んだ本『父「永六輔」を看取る(みとる) 永千絵 宝島社』を思い出します。永六輔さんは、永六輔というキャラクターを演じていたという娘さんの手記でした。
 全国のラジオ愛聴者ファンが知る永六輔氏と生身の父親永孝雄氏との間にはかけ離れている距離感がありました。
ファンにとっての素敵な人は、彼がつくった人物像です。そんなことが娘さんの視点で書かれていました。
 そういえば、俳優である高倉健さんも渥美清さんも、役を演じる時と素の自分(すのじぶん)の時は別人だったというお話も聞いたことがあります。

 中卒の20歳ぐらいの赤塚不二夫さんが、2歳年下高校生の石森章太郎(いしのもりしょうたろう)さんに気を使います。中学卒の赤塚さんは、高校生である石森正太郎さんの書く難しい漢字入りの文章に驚嘆されています。
 昭和30年8月に長谷邦夫(ながたにくにお)さんを含む3人は、手塚治虫先生に会っています。
 先生から、漫画だけじゃだめだ。ほかのことも体験しなさいというアドバイスをもらっています。

 ギャグ漫画:なにもないところに、なにかをつくりだす技術がいる。

 石森章太郎(いしのもり・しょうたろう):本の中の記述では、漫画づくりの天才です。1938年(昭和13年)-1998年(平成10年)60歳没。

 漫画家志望者の若者たちが集まっていた『トキワ荘』のお話が出ます。
 昭和32年、著者の母親もトキワ荘に来ます。(著者には、マザーコンプレックス(母親依存)があったことがあとあとのページに書いてありました)
 著者のかあちゃんは、トキワ荘のみんなの食事をつくり始めます。藤子不二雄さんのふたりのお母さんもいます。石森章太郎さんのお姉さんもいます。他人同士が家族のように固まって暮らしています。なんだか、すごい。なんだか、天才バカボンとドラえもんとサイボーグ009が同居しているような錯覚におちいります。
 
 モッコ担ぎ(かつぎ):土木工事の時に棒でかつぐ網状の入れ物。

 出版社との連絡方法が『電報』です。
 電話が普及していなかった時代です。
 
 昭和33年6月、家を建てるために借りた借金の返済に苦慮している父親がいます。
 
 著者26歳、妻21歳で結婚です。漫画制作のアシスタントの女性です。相手に好かれて押し切られての結婚です。
 そして作品『おそ松くん』の誕生です。
 『シェー』『ダヨーン』『ホエホエ』『……デヤンス』の誕生です。
 
 戦後の日本人の暮らしぶりがわかる内容です。
 今年読んで良かった一冊です。
 昭和36年、新潟から父親が上京してきました。
 経理を父親に頼んだけれど、事務処理が間に合わなくなって、人を雇ったら、2億円を使い込まれて、いろいろあります。この当時の2億円は、ものすごい金額です。
 父親が結核になって、父親が亡くなったときのためにとお墓を買って、それなのに、プロパンガスの事故で、59歳だったお母さんを、お父さんよりも先に亡くされています。

 福岡県博多から出て来たタモリさんとの出会いがあります。昭和49年か50年だそうです。1年間同居生活をしたそうです。
 
 著者のお父さんは、昭和46年6月から、NHK受信料の集金人を始めておられます。昭和54年春にリンパ線癌(がん)が見つかって、同年5月17日に71歳でお亡くなりになっています。

 人生は、いいことばっかりではない。山あり谷ありです。

 著者は後半部で、戦争反対を主張されています。
 親子は協力することも訴えておられます。

巻末にある「解説にかえて 武井俊樹」の部分について
 『ダメオヤジ 古谷三敏』(ああ、そういう作品がありました)
 告別式でのタモリさんの弔辞(ちょうじ)が『私もあなたの数多くの作品の一つです』
 赤塚不二夫さんの言葉として『おやじとかあちゃんに感謝のココロを捧げるのだ』

 いい本でした。

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