2024年01月24日
見学 国立競技場
見学 国立競技場
ほかの方(かた)のブログを見て、東京にある国立競技場を見学できることを知りました。
見たいと思いました。
新幹線で、びゅーんと東京まで行って、見てきました。
グラウンドのまんなかあたり、じっさいにゲームをする部分は本物の芝だそうです。
そのまわりは人工芝です。やわらかい人工芝で驚きました。
変な感想になってしまうのですが、その場に立った感じとしては、思っていたほど広くはない。
翌日と翌々日はアメリカンフットボールの試合があるそうで、コートの左右を見て、それほど長いとは感じませんでした。調べたら、約91mだそうです。サッカーコートだと、長さは105メートルだそうです。ふ~む。テレビで見るともっと広そうな感じです。今の自分は歳をとったので無理ですが、十代のころの自分だったら、これぐらいの範囲なら、びゅんびゅん走れそうな気がしました。走り心地が良さそうな地面です。走るだけで解放感に包まれてストレス解消ができそうです。
次からの写真は、4階の位置から見下ろした風景です。
いっぱいの観客がシートに座って、老眼のこの目でコートの選手を見たら、たぶん、選手がどんなプレイをしているのかを自分はわからないだろうと悟りました。スタジアムの雰囲気を味わうだけになりそうです。今の自分の場合は、プレイをテレビ画面で見るほうが見やすそうです。
4階まであがるスタンドの階段をのぼる前に、サッカー選手たちがちびっこと手をつないで出てくる出入口を自分も通ってみました。
これからテレビを見るたびに、その場所を思い出すことができそうです。
屋内の見学もできました。
ロッカールームなどです。
歴代の有名選手のユニフォームやサッカーボールが展示してありました。
ここでもまた変な感想をもってしまいました。
サッカーボールが小さく感じるのです。ピンポン玉(そんなことはないのですが)ぐらいの大きさ・軽さに感じました。ボールがきれいにデザインされていて、装飾品のように見えたからかもしれません。
森保一監督(もりやすはじめかんとく)のサインが展示されていました。今年元旦の日付です。
ここを見学した後に行われたアジアカップ19日イラクとの試合は、思いがけない敗戦だったようです。
勝つこともあれば、負けることもあるのが、『勝負』です。
もうかるときもあれば、損をするときもあるのが、『商売』です。
わたしは、人生は6勝4敗で十分やっていけると判断している人間です。
されど、常勝を求められるチームの指揮官の立場はたいへんです。
次のインドネシア戦は、勝てるといいですね。
(追加記載 2024年1月25日木曜日)
森保監督さん、サッカーアジアカップでのインドネシア戦勝利おめでとうございました。
国立競技場見学コメントで書き忘れたことを思い出したので追加で記載します。
競技場を設計された隈研吾さん(くまけんごさん)がデザインされた照明ホールの部分を見ました。プレイヤーがマスコミからインタビューを受ける空間です。行燈(あんどん)型の照明器具が天井から床を照らしています。
それから、以前読んだ隈研吾さんの本を紹介しておきます。
『建築家になりたい君へ 隈研吾(くま・けんご) 河出書房新社(かわでしょぼうしんしゃ)』(そういえば、国立競技場の1階外の部分から(国立競技場は、高い位置に建っています)「河出書房新社」のビルが見えました)
以下は、本を読んだ時の感想メモの一部です。
建築家は、一風変わった人に見られがちですが違いますというものでした。建築家は「神様」でも「変人」でもない。いい建築家であるためには、普通の人の普通の生活を広く知っていなければならない。普通人イコール建築家です。過去には奇抜な人が建築家でいたこともありますが、現在はチームで動いて構造物という作品を仕上げるから、普通の人格をもっていることが求められますというように受け止めました。普通の人が普通に使って、快適な建物を作品としてつくるのです。共感しました。
昔(むかし)、日本人は、狭い畳部屋で、家族全員が、食事をして、ふとんを敷いて寝たり、起きてふとんをたたんで押し入れにしまったり、折り畳み式のちゃぶ台(小さな食事用座卓)を利用して食事をしたり、やぐらこたつの上で勉強をしたり、ゲームをして余暇を過ごしたりするという狭い場所を最大限に活用するというコンパクトな生活をしていた。みんなで同時に同じことをする共同生活をしていた。
時代が流れて、生活様式に変化が生まれて、家屋の間取りにおいては、日本では、なんとか(部屋数)LDK(リビング、ダイニング・キッチン)パターンという間取りの構造になってから、家族でいっしょにという共同行動がくずれて、個別化の生活になった。
夫婦の家庭内別居とか、こどもの引きこもりが可能になった。個食(こしょく)あるいは、孤食(こしょく)という言葉も生まれた。(個食:家族そろって食事をしない)
<本を読んでいて、思考の方法に、教えがあります。自分なりに深く考えてみました>
こどもは、個室で鶏舎のニワトリのように、問題集を与えられて、テストの点取り虫になった。
こどもは、自然とのふれあいがなくなった。祖父母との交流も減った。親戚づきあいも薄くなった。こどもは、資本主義の組織で働くためのアンドロイドロボット的なものになった。こどもは、いざ、社会に出ると、人づきあいができない人間になった。脳みその中は、いつまでもこどものままで、おとなになれない人間ができあがった。というところまで、部屋の間取りから始まった考察が至ります。
(追加記載 2月8日木曜日)
日本のサッカーは、アジアカップで負けてしまいましたが、敗戦ゲームを観たあと、自分なりに思ったことがあるので、ここに書き落としておきます。
勝負に勝つために必要なものは、『ひらめき』と、『勢い(思いっきりやる)』と、『真剣チャンバラ勝負(お互いに刀を(かたなを)ぶつけあいながら闘う(たたかう。しのぎを削る。こうと決めたらあとに引かない))』です。敗戦の原因は、気迫不足でした。なにがなんでも勝ちたいと思わないと、勝負事では勝てません。
ひらめき:教科書どおりのおとなしいやり方では勝負には勝てません。『おとなしいこと』は、勝利にはつながりにくい。某選手のように、『ブラボー』と叫び続けるぐらいでちょうどいい。
頭(あたま・監督)を代えたからといって勝てるものでもありません。ほかに適任者(人材)があればいいですが、なければ、首をすげかえても戦力は低下します。
ほかの方(かた)のブログを見て、東京にある国立競技場を見学できることを知りました。
見たいと思いました。
新幹線で、びゅーんと東京まで行って、見てきました。
グラウンドのまんなかあたり、じっさいにゲームをする部分は本物の芝だそうです。
そのまわりは人工芝です。やわらかい人工芝で驚きました。
変な感想になってしまうのですが、その場に立った感じとしては、思っていたほど広くはない。
翌日と翌々日はアメリカンフットボールの試合があるそうで、コートの左右を見て、それほど長いとは感じませんでした。調べたら、約91mだそうです。サッカーコートだと、長さは105メートルだそうです。ふ~む。テレビで見るともっと広そうな感じです。今の自分は歳をとったので無理ですが、十代のころの自分だったら、これぐらいの範囲なら、びゅんびゅん走れそうな気がしました。走り心地が良さそうな地面です。走るだけで解放感に包まれてストレス解消ができそうです。
次からの写真は、4階の位置から見下ろした風景です。
いっぱいの観客がシートに座って、老眼のこの目でコートの選手を見たら、たぶん、選手がどんなプレイをしているのかを自分はわからないだろうと悟りました。スタジアムの雰囲気を味わうだけになりそうです。今の自分の場合は、プレイをテレビ画面で見るほうが見やすそうです。
4階まであがるスタンドの階段をのぼる前に、サッカー選手たちがちびっこと手をつないで出てくる出入口を自分も通ってみました。
これからテレビを見るたびに、その場所を思い出すことができそうです。
屋内の見学もできました。
ロッカールームなどです。
歴代の有名選手のユニフォームやサッカーボールが展示してありました。
ここでもまた変な感想をもってしまいました。
サッカーボールが小さく感じるのです。ピンポン玉(そんなことはないのですが)ぐらいの大きさ・軽さに感じました。ボールがきれいにデザインされていて、装飾品のように見えたからかもしれません。
森保一監督(もりやすはじめかんとく)のサインが展示されていました。今年元旦の日付です。
ここを見学した後に行われたアジアカップ19日イラクとの試合は、思いがけない敗戦だったようです。
勝つこともあれば、負けることもあるのが、『勝負』です。
もうかるときもあれば、損をするときもあるのが、『商売』です。
わたしは、人生は6勝4敗で十分やっていけると判断している人間です。
されど、常勝を求められるチームの指揮官の立場はたいへんです。
次のインドネシア戦は、勝てるといいですね。
(追加記載 2024年1月25日木曜日)
森保監督さん、サッカーアジアカップでのインドネシア戦勝利おめでとうございました。
国立競技場見学コメントで書き忘れたことを思い出したので追加で記載します。
競技場を設計された隈研吾さん(くまけんごさん)がデザインされた照明ホールの部分を見ました。プレイヤーがマスコミからインタビューを受ける空間です。行燈(あんどん)型の照明器具が天井から床を照らしています。
それから、以前読んだ隈研吾さんの本を紹介しておきます。
『建築家になりたい君へ 隈研吾(くま・けんご) 河出書房新社(かわでしょぼうしんしゃ)』(そういえば、国立競技場の1階外の部分から(国立競技場は、高い位置に建っています)「河出書房新社」のビルが見えました)
以下は、本を読んだ時の感想メモの一部です。
建築家は、一風変わった人に見られがちですが違いますというものでした。建築家は「神様」でも「変人」でもない。いい建築家であるためには、普通の人の普通の生活を広く知っていなければならない。普通人イコール建築家です。過去には奇抜な人が建築家でいたこともありますが、現在はチームで動いて構造物という作品を仕上げるから、普通の人格をもっていることが求められますというように受け止めました。普通の人が普通に使って、快適な建物を作品としてつくるのです。共感しました。
昔(むかし)、日本人は、狭い畳部屋で、家族全員が、食事をして、ふとんを敷いて寝たり、起きてふとんをたたんで押し入れにしまったり、折り畳み式のちゃぶ台(小さな食事用座卓)を利用して食事をしたり、やぐらこたつの上で勉強をしたり、ゲームをして余暇を過ごしたりするという狭い場所を最大限に活用するというコンパクトな生活をしていた。みんなで同時に同じことをする共同生活をしていた。
時代が流れて、生活様式に変化が生まれて、家屋の間取りにおいては、日本では、なんとか(部屋数)LDK(リビング、ダイニング・キッチン)パターンという間取りの構造になってから、家族でいっしょにという共同行動がくずれて、個別化の生活になった。
夫婦の家庭内別居とか、こどもの引きこもりが可能になった。個食(こしょく)あるいは、孤食(こしょく)という言葉も生まれた。(個食:家族そろって食事をしない)
<本を読んでいて、思考の方法に、教えがあります。自分なりに深く考えてみました>
こどもは、個室で鶏舎のニワトリのように、問題集を与えられて、テストの点取り虫になった。
こどもは、自然とのふれあいがなくなった。祖父母との交流も減った。親戚づきあいも薄くなった。こどもは、資本主義の組織で働くためのアンドロイドロボット的なものになった。こどもは、いざ、社会に出ると、人づきあいができない人間になった。脳みその中は、いつまでもこどものままで、おとなになれない人間ができあがった。というところまで、部屋の間取りから始まった考察が至ります。
(追加記載 2月8日木曜日)
日本のサッカーは、アジアカップで負けてしまいましたが、敗戦ゲームを観たあと、自分なりに思ったことがあるので、ここに書き落としておきます。
勝負に勝つために必要なものは、『ひらめき』と、『勢い(思いっきりやる)』と、『真剣チャンバラ勝負(お互いに刀を(かたなを)ぶつけあいながら闘う(たたかう。しのぎを削る。こうと決めたらあとに引かない))』です。敗戦の原因は、気迫不足でした。なにがなんでも勝ちたいと思わないと、勝負事では勝てません。
ひらめき:教科書どおりのおとなしいやり方では勝負には勝てません。『おとなしいこと』は、勝利にはつながりにくい。某選手のように、『ブラボー』と叫び続けるぐらいでちょうどいい。
頭(あたま・監督)を代えたからといって勝てるものでもありません。ほかに適任者(人材)があればいいですが、なければ、首をすげかえても戦力は低下します。