2024年09月18日
見学 気象庁 東京都港区虎ノ門
見学 気象庁 東京都港区虎ノ門
事前に電話予約をして、オペレーションルームの現場見学をしようかと思ったのですが、南海トラフ地震の臨時情報の発表とか、台風10号の来襲などがあって、まあ、見学担当の人は、広報担当の人だろうからだいじょうぶなのでしょうが、なんとなく気が引けて、一般人に解放されている『気象科学館』だけを見学することにしました。
現場見学のかわりに、職員食堂みたいなところで、気象庁の職員さんたちといっしょにお昼ご飯を食べてみることにしました。
ほかに小さな書店があるという事前情報を得ました。(結局、次のNHK放送博物館見学があったので、書店には立ち寄りませんでしたが、地下の食堂ではゆっくりカツカレーを食べました)
(以下は、実際に行ってみての感想です)
入口でお出迎えがあります。
気象庁のマスコットキャラクターで、『はれるん』というお名前だそうです。
展示室に、ウェザーミッション『キミは新人予報官』というクイズ形式の遊びがあったのでチャレンジしてみました。
成績は、1問だけ間違えました。
まあ、こどもさん向けのゲームみたいなものです。
展示室のまんなかに、津波のシミュレーター(模擬装置)がありました。
やってみました。
う~む。津波は怖い(こわい)。
建物の2階が、『気象庁の気象科学館』です。
1階は、『港区立みなと科学館』です。ロボットの展示がしてありました。
食堂が地下1階にありました。
この日は、朝ホテルでカレーライスを食べて、そのあと、カレーパンを食べて、お昼は、こちらの食堂で、カツカレーを食べました。カレーの一日でした。べつにかまいません。
めざしたわけではないのですが、東京見物に来ると、官公庁等の職員食堂で、職員さんたちに混じりながらお昼ご飯を食べています。
去年11月は、市ヶ谷にあるJICA(ジャイカ。国際協力機構)で南米の国のランチを食べました。お隣が防衛省で、自衛隊の制服を着た人たちがお昼ご飯を食べに来ていました。
今年7月は、国立国会図書館の6階の食堂でお昼ご飯を食べました。広々としたところで、お弁当を持参された人用(ひとよう。職員さんでしょう)に、テーブルとイスの席がたくさん用意されていました。
今回の気象庁の食堂は、食堂で働いている人たちに活気がありました。しきりにカツカレーの宣伝をされていました。食べに来ている職員さんたちには、技術屋さんの雰囲気がありました。優秀な人たちで、また、個性的な人たちなのだろうと勝手な想像をしました。
『気象科学館』には、気象庁で働く職員募集の要項やカタログみたいなものがおいてあったのでざっと目を通しました。
国家公務員です。募集人員は少ない。全国転勤がありそうです。好きでないとできない仕事だと思いました。身分保障は手厚いと感じました。いちど就職したら定年まで働く仕事です。
国民を自然災害から守るための仕事ですから、やりがいがあると思います。
事前に電話予約をして、オペレーションルームの現場見学をしようかと思ったのですが、南海トラフ地震の臨時情報の発表とか、台風10号の来襲などがあって、まあ、見学担当の人は、広報担当の人だろうからだいじょうぶなのでしょうが、なんとなく気が引けて、一般人に解放されている『気象科学館』だけを見学することにしました。
現場見学のかわりに、職員食堂みたいなところで、気象庁の職員さんたちといっしょにお昼ご飯を食べてみることにしました。
ほかに小さな書店があるという事前情報を得ました。(結局、次のNHK放送博物館見学があったので、書店には立ち寄りませんでしたが、地下の食堂ではゆっくりカツカレーを食べました)
(以下は、実際に行ってみての感想です)
入口でお出迎えがあります。
気象庁のマスコットキャラクターで、『はれるん』というお名前だそうです。
展示室に、ウェザーミッション『キミは新人予報官』というクイズ形式の遊びがあったのでチャレンジしてみました。
成績は、1問だけ間違えました。
まあ、こどもさん向けのゲームみたいなものです。
展示室のまんなかに、津波のシミュレーター(模擬装置)がありました。
やってみました。
う~む。津波は怖い(こわい)。
建物の2階が、『気象庁の気象科学館』です。
1階は、『港区立みなと科学館』です。ロボットの展示がしてありました。
食堂が地下1階にありました。
この日は、朝ホテルでカレーライスを食べて、そのあと、カレーパンを食べて、お昼は、こちらの食堂で、カツカレーを食べました。カレーの一日でした。べつにかまいません。
めざしたわけではないのですが、東京見物に来ると、官公庁等の職員食堂で、職員さんたちに混じりながらお昼ご飯を食べています。
去年11月は、市ヶ谷にあるJICA(ジャイカ。国際協力機構)で南米の国のランチを食べました。お隣が防衛省で、自衛隊の制服を着た人たちがお昼ご飯を食べに来ていました。
今年7月は、国立国会図書館の6階の食堂でお昼ご飯を食べました。広々としたところで、お弁当を持参された人用(ひとよう。職員さんでしょう)に、テーブルとイスの席がたくさん用意されていました。
今回の気象庁の食堂は、食堂で働いている人たちに活気がありました。しきりにカツカレーの宣伝をされていました。食べに来ている職員さんたちには、技術屋さんの雰囲気がありました。優秀な人たちで、また、個性的な人たちなのだろうと勝手な想像をしました。
『気象科学館』には、気象庁で働く職員募集の要項やカタログみたいなものがおいてあったのでざっと目を通しました。
国家公務員です。募集人員は少ない。全国転勤がありそうです。好きでないとできない仕事だと思いました。身分保障は手厚いと感じました。いちど就職したら定年まで働く仕事です。
国民を自然災害から守るための仕事ですから、やりがいがあると思います。
2024年09月17日
観劇 『ワタシタチはモノガタリ』 東京都PARCO劇場
観劇 『ワタシタチはモノガタリ』 東京都PARCO劇場(渋谷パルコ)にて
ずいぶん前のことですが、笑福亭鶴瓶さんのトーク番組、『巷の噺(ちまたのはなし)』に登場した女優の江口のりこさんが、『わたしは敵が多い』みたいな発言をされて、それを見ていたわたしは、魅力的な女優さんだなと感じました。
今回書く文章のタイトルにある劇に、江口のりこさんが出演されるのを見つけたので、さっそくチケットを申し込んで、東京渋谷にあるPARCO劇場へ観に行ってきました。
前のほうのまんなかあたりの席だったのでよく見えました。江口のりこさんは、テレビで観たとおりの人でした。話し方も体の動きも、ふだんのしゃべりと変わりはありません。
ちょっとむずかしい筋立てではありました。
江口のりこさんが、15歳中学生のころから小説家をめざしているけれど文学賞への挑戦は落選続きで、なかなか芽が出ないまま30歳を迎えたところで、江口のりこさんが投稿しているネット小説の人気が出てきて、ようやく人々に作品を読まれ始めたというようなところから始まりました。
中学の同級生だった松尾諭さん(まつおさとるさん)との文通交流15年間という経過も含めて、自分自身の十代のころの似たような体験を思い出して共感する部分がありました。
作品の題材としては、出版とか演劇とか、映画づくりとか、芸能関係の内輪話ですが、小説作品の商業化はいろいろむずかしいと感じました。
しばらく前に原作とテレビドラマの脚本の内容が異なるということでもめた事件のような出来事がありましたが、劇中では、江口のりこさんが書く原作どおりに映画ができあがらないというもどかしい流れがあるのです。
以下は、わたしが観劇に行く前に知ったなんとなくの、さらりとした話の流れです。
15歳、まだ中学生のカップルが(将来、編集者希望らしき松尾諭さんと小説家希望の江口のりこさん)、どちらもずっと未婚だったら、30歳になったら結婚しようと話をして、30歳になったのですが、ふたりは、結婚に至らないわけです。
15年間という長い間、お互いに文通のやりとりは続くけれど、直接会うことはなかった。(松尾諭さんのほうには、恋愛感情はなかった。江口のりこさんには恋愛感情があった)
松尾諭さんは、30歳になって、別の女性と結婚式を挙げるわけですが、その結婚式に江口のりこさんが招待されたのです。
招待された江口のりこさんは、なんとなくプンプンなのです。(怒っている(おこっている))。
事実として、出版社で編集者をしている松尾諭さんは、江口のりこさんが書く文章は好きですが、江口のりこさん自身を女性として好きということではないのです。(江口のりこさんは誤解していたのです)
松尾諭さん夫婦の結婚式に招待された江口のりこさんは、松尾諭さんに、今まで文通で自分が松尾さんに書いて送った手紙を全部返してちょうだいと要求するのです。松尾諭さんは江口さんの要求に応じます。
江口のりこさんが現在進行形で創作中の小説作品、『これは愛である』の中で、自分と松尾諭さんを模した(もした。似せた)架空のカップルが、松岡茉優さんと千葉雄大さんです。
現実のふたりとはずいぶん違って、松岡茉優さんたちふたりは、かなりのラブラブです。
それぐらいの前知識で、舞台劇を観に行きました。
(以下が、観劇の感想です)
なにせ、お祝いで贈られたお花がきれいでした。
劇場ロビーにいっぱい飾ってありました。わたしは、女優の吉田羊さんが贈られたお花の前で記念写真を妻に撮ってもらいました。
わたしは長いこと生きてきましたが、あんなにきれいで高価そうなお花をたくさん見たのは生まれて初めてです。おそらく貴重であろう珍しいようなお花もありました。わたしは、花尽くしの光景を長いことながめて、来て良かったと満足しました。
思い出すままに、観劇の感想をここに書き落としてみます。
冥土(めいど)のみやげ(安心して死ねるために)といいますか、昨年の夏ごろから、テレビや映画に出ている人をじかに観たいという欲望が湧きだし、舞台やミュージカル、歌謡ショー、漫談などを観るために劇場やホールへ行くようになりました。
これまでに、KinKi Kids(キンキキッズ)の堂本光一さん、森公美子さん、太川陽介さん、さんまさん、温水洋一さん、山崎育三郎さん、綾小路きみまろさん、松平健さん、山﨑玲奈さん(やまさきれなさん。ピーターパン)、そのほかスターを固める脇役のみなさんを拝見しました。なかなか楽しい時間でした。
今までは、派手な音楽やダンス、おおぜいの出演者で明るく楽しくダンスダンスダンスみたいな感じでにぎやかだったので、今回の、少人数、一人二役以上、じっくり会話を繰り返すというパターンの演劇が新鮮でした。
舞台装置はシンプルでしたがとても美しかった。出演者は8人だったと思います。
ラブコメディなので、言葉のやりとりで笑わせてくれます。歌やダンスはありません。
観客は、わたしたち夫婦のような年配の方、それから逆に若い人たちで、午後6時半からの開演で、2時間35分(途中休憩20分間)でした。人口ピラミッドで言うと、年齢層のまんなかぐらいの人たちは(40代ぐらいの人たち)はあまり見かけませんでした。
始まっていきなり右手から江口のりこさんが出てきて驚きました。
ひとり芝居の始まりです。
話し方や動作は、テレビで見る江口のりこさんとまったく同じです。演技をしているというよりも、ふだんのままの言葉づかいで話が進んでいきます。だれかを演じるわけではなく、江口のりこさんという人間の地(じ)のままの演技です。
コメディーです。言葉のやりとりがうまい。関西弁です。
舞台に自分が中学生だったころのなつかしい、教室内にある机とイスが出てきました。
そうそう、掃除の時間には、イスを机の上にのせて、動かして、床掃除をしていました。
『文章の読み書きが好き』(ここがこの舞台の大事なポイントです。恋愛相手としてのあなたが好きなのではなく、出版社で編集者をしている松尾諭さん(まつおさとるさん)は、江口のりこさんが書く文章が好きなのです)
昭和時代の昔は手紙をよく書きました。文通の習慣がありました。手紙とかハガキとか、今はもう、慶弔儀礼(けいちょうぎれい)でしか書かなくなりました。現代は、電子メールとかラインとか、+メッセージなどでやりとりします。スタンプを使ったりもします。
時代が変わりました。いいとも悪いともいえません。
会話のキャッチボールで笑わせてくれます。
会話をしながら、紙ヒコーキの飛ばしあいをするのですが、なかなかよく考え抜かれた演出で効果的でした。
現実のふたり(江口のりこさんと松尾諭さん)と、江口のりこさんが書いている小説作品『これは愛である』に出てくる登場人物の松岡茉優さんと千葉雄大さんが交錯、交流します。現実に存在する人物と想像上の人物の交流があります。
ところどころ難解でややこしい。
どうも笑いのツボが違うのか、若い女性を中心とした観客の人たちが爆笑することが複数回あったのですが、わたしたち年配夫婦はどうして笑えるのかわかりませんでした。若い人たちは、内容を熟知されているのでしょう。
原作どおりに映画をつくれないという原作者と映像製作者とのうまくいかない争いがあります。
先日わたしが、動画配信サービスで観た、三谷幸喜監督映画『ラジオの時間』と共通する題材です。
中学生の娘さんをもつ松尾諭さんが、思春期の娘に振り回されます。
娘のごきげんをとろうとして、娘の好きな人(ウンピョウという書道家 千葉雄大さん ひとり二役)をキャスティング(映画での役を割り振る)する方向へ話が進んで、雰囲気が明るくなるシーンがあって、いいなあと思いました。
人間の欲とか、損得勘定をうまく操ってある(あやつってある)会話表現で感心しました。
ウンピョウという書道家青年(千葉雄大さん)は、『愛』という字を同じ紙に何回も書いて、最後は、紙が真っ黒になる。(そういう発想が珍しい)。
松尾諭さんご夫婦がたくましい。好感をもちました。
けして、ひ弱ではない。だんなに愛情をもっているらしき江口のりこさんが登場しても、松尾諭さんの奥さんはどんと構えているのです。
奥さんは、今ある親子3人の家庭を崩壊させる気持ちなどさらさらないのです。むしろ、逆利用をして、なにかしら利益を得ようとするのです。ママの演技は迫力がありました。OKです。
なんというか、物語やドラマ、映画だと、繊細な気持ちをもつひ弱な男や女という設定で人間が描かれやすいのですが、現実社会を生きている人間は、むしろ野性的で、なにがあろうと負けるもんか!という暮らし方をしている人が多いと感じます。
ささいなことで弱気になっていたら、世間の荒波を乗り越えてはいけないのです。したたかに、強く前進です。
松岡茉優さんは演技上手です。感心しました。どんな性格・人格の人間でも演じられる女優さんだと感心しました。うまい!
ダスティン・ホフマン出演の洋画、『卒業 1967年(昭和42年)作品』が下地にあります。久しぶりにサイモンとガーファンクルの歌、『サウンド・オブ・サイレンス』を聴きました。なつかしい。
江口のりこさんがつくる物語、『これは愛である』の結末を、ハッピーエンドにするかしないかで、もめにもめます。
何のために書くのかという基本的な動機の話になります。
『書きたいから書く』(わたしはそう思います。具体的な理由なんてありません。人は、それぞれ個々の脳みそにその人だけがもつ『欲』が埋め込まれています。やりたいからやる。それだけです)。
最後は、みなさん何度もステージに出てこられて、拍手の中で頭を下げられていましたが、なにかひとことでもコメントをされたほうが、さらに良かったと思います。
マツケンサンバ歌謡ショーを観たときには、松平健さんが、『今夜のお客さんは、これまでで一番ノリが良かった』とコメントされて、会場が割れんばかりの拍手に包まれていました。
森公美子さん(もりくみこさん)の、『天使にラブソングを』を観たときには、森公美子さんが最後に観客席に向かって、『お客さん、サイコーー!!』と叫んでおられました。
(さらに思い出したことの付け足し(つけたし)として)
天井からブランコみたいに大きくて長い木の板のイスが下りてきました。木の幹のようでもありました。
ブラブラと揺れるそのイスを使って、じょうずにコントみたいなやりとりがなされていました。おもしろい。笑いました。
ブランコみたいなイスを揺らせて、松尾諭さんにぶつけて笑いを誘うのです。
(帰宅後、NHK大河ドラマ『光る君へ』を観ていて)
『ワタシタチはモノガタリ』の松尾諭さんと江口のりこさんの関係が、藤原道長(柄本佑さん(えもとたすくさん))と紫式部(吉高由里子さん)さんと重なりました。
松尾諭さんと柄本佑さんは編集者の立場で、江口のりこさんと吉高由里子さんが小説家の立場なのです。
ふたりの男子は、それぞれの女子の創作活動を支援していくのです。
ずいぶん前のことですが、笑福亭鶴瓶さんのトーク番組、『巷の噺(ちまたのはなし)』に登場した女優の江口のりこさんが、『わたしは敵が多い』みたいな発言をされて、それを見ていたわたしは、魅力的な女優さんだなと感じました。
今回書く文章のタイトルにある劇に、江口のりこさんが出演されるのを見つけたので、さっそくチケットを申し込んで、東京渋谷にあるPARCO劇場へ観に行ってきました。
前のほうのまんなかあたりの席だったのでよく見えました。江口のりこさんは、テレビで観たとおりの人でした。話し方も体の動きも、ふだんのしゃべりと変わりはありません。
ちょっとむずかしい筋立てではありました。
江口のりこさんが、15歳中学生のころから小説家をめざしているけれど文学賞への挑戦は落選続きで、なかなか芽が出ないまま30歳を迎えたところで、江口のりこさんが投稿しているネット小説の人気が出てきて、ようやく人々に作品を読まれ始めたというようなところから始まりました。
中学の同級生だった松尾諭さん(まつおさとるさん)との文通交流15年間という経過も含めて、自分自身の十代のころの似たような体験を思い出して共感する部分がありました。
作品の題材としては、出版とか演劇とか、映画づくりとか、芸能関係の内輪話ですが、小説作品の商業化はいろいろむずかしいと感じました。
しばらく前に原作とテレビドラマの脚本の内容が異なるということでもめた事件のような出来事がありましたが、劇中では、江口のりこさんが書く原作どおりに映画ができあがらないというもどかしい流れがあるのです。
以下は、わたしが観劇に行く前に知ったなんとなくの、さらりとした話の流れです。
15歳、まだ中学生のカップルが(将来、編集者希望らしき松尾諭さんと小説家希望の江口のりこさん)、どちらもずっと未婚だったら、30歳になったら結婚しようと話をして、30歳になったのですが、ふたりは、結婚に至らないわけです。
15年間という長い間、お互いに文通のやりとりは続くけれど、直接会うことはなかった。(松尾諭さんのほうには、恋愛感情はなかった。江口のりこさんには恋愛感情があった)
松尾諭さんは、30歳になって、別の女性と結婚式を挙げるわけですが、その結婚式に江口のりこさんが招待されたのです。
招待された江口のりこさんは、なんとなくプンプンなのです。(怒っている(おこっている))。
事実として、出版社で編集者をしている松尾諭さんは、江口のりこさんが書く文章は好きですが、江口のりこさん自身を女性として好きということではないのです。(江口のりこさんは誤解していたのです)
松尾諭さん夫婦の結婚式に招待された江口のりこさんは、松尾諭さんに、今まで文通で自分が松尾さんに書いて送った手紙を全部返してちょうだいと要求するのです。松尾諭さんは江口さんの要求に応じます。
江口のりこさんが現在進行形で創作中の小説作品、『これは愛である』の中で、自分と松尾諭さんを模した(もした。似せた)架空のカップルが、松岡茉優さんと千葉雄大さんです。
現実のふたりとはずいぶん違って、松岡茉優さんたちふたりは、かなりのラブラブです。
それぐらいの前知識で、舞台劇を観に行きました。
(以下が、観劇の感想です)
なにせ、お祝いで贈られたお花がきれいでした。
劇場ロビーにいっぱい飾ってありました。わたしは、女優の吉田羊さんが贈られたお花の前で記念写真を妻に撮ってもらいました。
わたしは長いこと生きてきましたが、あんなにきれいで高価そうなお花をたくさん見たのは生まれて初めてです。おそらく貴重であろう珍しいようなお花もありました。わたしは、花尽くしの光景を長いことながめて、来て良かったと満足しました。
思い出すままに、観劇の感想をここに書き落としてみます。
冥土(めいど)のみやげ(安心して死ねるために)といいますか、昨年の夏ごろから、テレビや映画に出ている人をじかに観たいという欲望が湧きだし、舞台やミュージカル、歌謡ショー、漫談などを観るために劇場やホールへ行くようになりました。
これまでに、KinKi Kids(キンキキッズ)の堂本光一さん、森公美子さん、太川陽介さん、さんまさん、温水洋一さん、山崎育三郎さん、綾小路きみまろさん、松平健さん、山﨑玲奈さん(やまさきれなさん。ピーターパン)、そのほかスターを固める脇役のみなさんを拝見しました。なかなか楽しい時間でした。
今までは、派手な音楽やダンス、おおぜいの出演者で明るく楽しくダンスダンスダンスみたいな感じでにぎやかだったので、今回の、少人数、一人二役以上、じっくり会話を繰り返すというパターンの演劇が新鮮でした。
舞台装置はシンプルでしたがとても美しかった。出演者は8人だったと思います。
ラブコメディなので、言葉のやりとりで笑わせてくれます。歌やダンスはありません。
観客は、わたしたち夫婦のような年配の方、それから逆に若い人たちで、午後6時半からの開演で、2時間35分(途中休憩20分間)でした。人口ピラミッドで言うと、年齢層のまんなかぐらいの人たちは(40代ぐらいの人たち)はあまり見かけませんでした。
始まっていきなり右手から江口のりこさんが出てきて驚きました。
ひとり芝居の始まりです。
話し方や動作は、テレビで見る江口のりこさんとまったく同じです。演技をしているというよりも、ふだんのままの言葉づかいで話が進んでいきます。だれかを演じるわけではなく、江口のりこさんという人間の地(じ)のままの演技です。
コメディーです。言葉のやりとりがうまい。関西弁です。
舞台に自分が中学生だったころのなつかしい、教室内にある机とイスが出てきました。
そうそう、掃除の時間には、イスを机の上にのせて、動かして、床掃除をしていました。
『文章の読み書きが好き』(ここがこの舞台の大事なポイントです。恋愛相手としてのあなたが好きなのではなく、出版社で編集者をしている松尾諭さん(まつおさとるさん)は、江口のりこさんが書く文章が好きなのです)
昭和時代の昔は手紙をよく書きました。文通の習慣がありました。手紙とかハガキとか、今はもう、慶弔儀礼(けいちょうぎれい)でしか書かなくなりました。現代は、電子メールとかラインとか、+メッセージなどでやりとりします。スタンプを使ったりもします。
時代が変わりました。いいとも悪いともいえません。
会話のキャッチボールで笑わせてくれます。
会話をしながら、紙ヒコーキの飛ばしあいをするのですが、なかなかよく考え抜かれた演出で効果的でした。
現実のふたり(江口のりこさんと松尾諭さん)と、江口のりこさんが書いている小説作品『これは愛である』に出てくる登場人物の松岡茉優さんと千葉雄大さんが交錯、交流します。現実に存在する人物と想像上の人物の交流があります。
ところどころ難解でややこしい。
どうも笑いのツボが違うのか、若い女性を中心とした観客の人たちが爆笑することが複数回あったのですが、わたしたち年配夫婦はどうして笑えるのかわかりませんでした。若い人たちは、内容を熟知されているのでしょう。
原作どおりに映画をつくれないという原作者と映像製作者とのうまくいかない争いがあります。
先日わたしが、動画配信サービスで観た、三谷幸喜監督映画『ラジオの時間』と共通する題材です。
中学生の娘さんをもつ松尾諭さんが、思春期の娘に振り回されます。
娘のごきげんをとろうとして、娘の好きな人(ウンピョウという書道家 千葉雄大さん ひとり二役)をキャスティング(映画での役を割り振る)する方向へ話が進んで、雰囲気が明るくなるシーンがあって、いいなあと思いました。
人間の欲とか、損得勘定をうまく操ってある(あやつってある)会話表現で感心しました。
ウンピョウという書道家青年(千葉雄大さん)は、『愛』という字を同じ紙に何回も書いて、最後は、紙が真っ黒になる。(そういう発想が珍しい)。
松尾諭さんご夫婦がたくましい。好感をもちました。
けして、ひ弱ではない。だんなに愛情をもっているらしき江口のりこさんが登場しても、松尾諭さんの奥さんはどんと構えているのです。
奥さんは、今ある親子3人の家庭を崩壊させる気持ちなどさらさらないのです。むしろ、逆利用をして、なにかしら利益を得ようとするのです。ママの演技は迫力がありました。OKです。
なんというか、物語やドラマ、映画だと、繊細な気持ちをもつひ弱な男や女という設定で人間が描かれやすいのですが、現実社会を生きている人間は、むしろ野性的で、なにがあろうと負けるもんか!という暮らし方をしている人が多いと感じます。
ささいなことで弱気になっていたら、世間の荒波を乗り越えてはいけないのです。したたかに、強く前進です。
松岡茉優さんは演技上手です。感心しました。どんな性格・人格の人間でも演じられる女優さんだと感心しました。うまい!
ダスティン・ホフマン出演の洋画、『卒業 1967年(昭和42年)作品』が下地にあります。久しぶりにサイモンとガーファンクルの歌、『サウンド・オブ・サイレンス』を聴きました。なつかしい。
江口のりこさんがつくる物語、『これは愛である』の結末を、ハッピーエンドにするかしないかで、もめにもめます。
何のために書くのかという基本的な動機の話になります。
『書きたいから書く』(わたしはそう思います。具体的な理由なんてありません。人は、それぞれ個々の脳みそにその人だけがもつ『欲』が埋め込まれています。やりたいからやる。それだけです)。
最後は、みなさん何度もステージに出てこられて、拍手の中で頭を下げられていましたが、なにかひとことでもコメントをされたほうが、さらに良かったと思います。
マツケンサンバ歌謡ショーを観たときには、松平健さんが、『今夜のお客さんは、これまでで一番ノリが良かった』とコメントされて、会場が割れんばかりの拍手に包まれていました。
森公美子さん(もりくみこさん)の、『天使にラブソングを』を観たときには、森公美子さんが最後に観客席に向かって、『お客さん、サイコーー!!』と叫んでおられました。
(さらに思い出したことの付け足し(つけたし)として)
天井からブランコみたいに大きくて長い木の板のイスが下りてきました。木の幹のようでもありました。
ブラブラと揺れるそのイスを使って、じょうずにコントみたいなやりとりがなされていました。おもしろい。笑いました。
ブランコみたいなイスを揺らせて、松尾諭さんにぶつけて笑いを誘うのです。
(帰宅後、NHK大河ドラマ『光る君へ』を観ていて)
『ワタシタチはモノガタリ』の松尾諭さんと江口のりこさんの関係が、藤原道長(柄本佑さん(えもとたすくさん))と紫式部(吉高由里子さん)さんと重なりました。
松尾諭さんと柄本佑さんは編集者の立場で、江口のりこさんと吉高由里子さんが小説家の立場なのです。
ふたりの男子は、それぞれの女子の創作活動を支援していくのです。
2024年09月16日
アーティゾン美術館見学『空間と作品』 東京駅の東
アーティゾン美術館見学『空間と作品』 東京駅の東、駅から歩いて5分ぐらいのところでした。
クロード・モネ作品の『黄昏(たそがれ)』を観たかった。
天才画家・芸術家と呼ばれるピカソ本人が描いた絵を観たかった。
もう半世紀ぐらい前の話ですが、福岡県に住んでいたころ、高校の社会科見学で福岡県久留米市を訪れたおりに、バスで石橋美術館という美術館のそばを通った覚えがあります。
タイヤメーカーブリジストン(創業者は久留米市出身の石橋さんという方で、石と橋をひっくりかえして、ブリッジ+ストーン=ブリジストンと社名の由来を教えてもらった記憶があります)
アーティゾン美術館(アート(芸術)とホライズン(水平線)を合わせた造語だそうです)は、もとはブリジストン美術館からつながっているようです。ブリジストン美術館からアーティゾン美術館へと改名されています。
(以下が、見学後の感想です)
写真撮影可だったので、何枚も撮影しましたが、次の写真は、ピカソ(1881年-1973年 91歳没)の作品で、『腕を組んですわるサルタンバンク 製作年が、1923年(日本だと大正12年。ちなみに日本ではその年(とし)は、関東大震災があった年(とし)です』で、自分が一番気に入った角度で撮った写真が次のものです。
とても100年前に書かれたとは思えないようなくっきりとした美しい線でした。つい2・3日前に描いたのではないかと思えるようなきれいな絵でした。とくに、人物の目元の線は、彫りが深くくっきりとしていました。ピカソの作品は、彫刻も含めて、ほかにも数点の展示がありました。
わたしが一番美しいと感じた絵が、次の写真のピエール=オーギュスト・ルノワール(1841年-1919年 78歳没)の作品、『すわるジェルジェット・シャルパンティエ嬢 製作1876年(日本だと、明治9年』でした。キラキラとひときわ明るく輝いて見えました。さすが、ルノワール、印象派の画家だと感心しました。
ところが、同行の妻は、『そうかなあ』と言っていたので、やはり、見る人によって感想は変わるものだと理解しました。
次の写真は、こちらの美術館を訪れる動機になった絵です。
クロード・モネ(1840年-1926年 86歳没)の作品で、『黄昏(たそがれ) ヴェネツィア 製作1908年ごろ 日本だと明治41年ごろ』。
なんというか、見る前の自分の予想イメージだと、『たそがれ』なので、暗くて、うらぶれた雰囲気を期待していたのですが、実際に見ると、やはり印象派の画家らしく、絵は明るく輝いていました。自分としてはちょっと拍子抜け(ひょうしぬけ。あれ?! どうしたの?という感じです)しました。
あとは、わたしが中高生のときに、美術の教科書や、美術雑誌でよく見かけた絵がたくさん展示してあったので、『そうか、ここに(所蔵して)あったのか!』と、宝物を発見したような気持ちになりました。そして、展示してあるたくさんの絵は、ものすごい金額の財産だと、気が遠くなったのです。
次の写真は、岸田劉生(きしだ・りゅうせい 1891年-1929年 38歳没)の作品、『麗子像 製作1922年(大正11年)』です。美術関係の本でよく見かけました。
『麗子像』の絵は何枚もあります。モデルの麗子さんは、画家ご自身の娘さんです。
わたしが東京から愛知県の家に帰宅してから読んだ電子書籍の週刊誌で(サンデー毎日の「えびすごろく」です)、太川陽介さんとバス旅をしていたえびすよしかずさんが、最近、漫画家の長谷川町子美術館(東京世田谷区)を訪れて、『麗子像』の絵を観て感動したようなことが書かれていて、太川陽介さんとえびすさんのバス旅ファンのわたしは縁を感じました。
次の写真は、青木繁(1882年-1911年 28歳没)作品です。
初めてなにかの本でこの作品を観たときは、力強さに圧倒されるものがありました。今回こちらの美術館を訪れて、ここにあったのかと、これまた驚きました。
作品は、『海の幸 製作は1904年(明治37年)』です。
さて、今回の企画展のテーマは、『空間と作品』です。
空間の広がりを味わうことができた一番の作品は、わたしの場合は、次の写真の作品でした。
カミーユ・ピサロ(1830年-1903年 73歳没)の作品、『四季 夏』です。
絵をながめていると、すがすがしい気持ちになれます。
アーティゾン美術館には、2時間半ぐらい滞在しました。
また、訪れてみたいと思いました。
クロード・モネ作品の『黄昏(たそがれ)』を観たかった。
天才画家・芸術家と呼ばれるピカソ本人が描いた絵を観たかった。
もう半世紀ぐらい前の話ですが、福岡県に住んでいたころ、高校の社会科見学で福岡県久留米市を訪れたおりに、バスで石橋美術館という美術館のそばを通った覚えがあります。
タイヤメーカーブリジストン(創業者は久留米市出身の石橋さんという方で、石と橋をひっくりかえして、ブリッジ+ストーン=ブリジストンと社名の由来を教えてもらった記憶があります)
アーティゾン美術館(アート(芸術)とホライズン(水平線)を合わせた造語だそうです)は、もとはブリジストン美術館からつながっているようです。ブリジストン美術館からアーティゾン美術館へと改名されています。
(以下が、見学後の感想です)
写真撮影可だったので、何枚も撮影しましたが、次の写真は、ピカソ(1881年-1973年 91歳没)の作品で、『腕を組んですわるサルタンバンク 製作年が、1923年(日本だと大正12年。ちなみに日本ではその年(とし)は、関東大震災があった年(とし)です』で、自分が一番気に入った角度で撮った写真が次のものです。
とても100年前に書かれたとは思えないようなくっきりとした美しい線でした。つい2・3日前に描いたのではないかと思えるようなきれいな絵でした。とくに、人物の目元の線は、彫りが深くくっきりとしていました。ピカソの作品は、彫刻も含めて、ほかにも数点の展示がありました。
わたしが一番美しいと感じた絵が、次の写真のピエール=オーギュスト・ルノワール(1841年-1919年 78歳没)の作品、『すわるジェルジェット・シャルパンティエ嬢 製作1876年(日本だと、明治9年』でした。キラキラとひときわ明るく輝いて見えました。さすが、ルノワール、印象派の画家だと感心しました。
ところが、同行の妻は、『そうかなあ』と言っていたので、やはり、見る人によって感想は変わるものだと理解しました。
次の写真は、こちらの美術館を訪れる動機になった絵です。
クロード・モネ(1840年-1926年 86歳没)の作品で、『黄昏(たそがれ) ヴェネツィア 製作1908年ごろ 日本だと明治41年ごろ』。
なんというか、見る前の自分の予想イメージだと、『たそがれ』なので、暗くて、うらぶれた雰囲気を期待していたのですが、実際に見ると、やはり印象派の画家らしく、絵は明るく輝いていました。自分としてはちょっと拍子抜け(ひょうしぬけ。あれ?! どうしたの?という感じです)しました。
あとは、わたしが中高生のときに、美術の教科書や、美術雑誌でよく見かけた絵がたくさん展示してあったので、『そうか、ここに(所蔵して)あったのか!』と、宝物を発見したような気持ちになりました。そして、展示してあるたくさんの絵は、ものすごい金額の財産だと、気が遠くなったのです。
次の写真は、岸田劉生(きしだ・りゅうせい 1891年-1929年 38歳没)の作品、『麗子像 製作1922年(大正11年)』です。美術関係の本でよく見かけました。
『麗子像』の絵は何枚もあります。モデルの麗子さんは、画家ご自身の娘さんです。
わたしが東京から愛知県の家に帰宅してから読んだ電子書籍の週刊誌で(サンデー毎日の「えびすごろく」です)、太川陽介さんとバス旅をしていたえびすよしかずさんが、最近、漫画家の長谷川町子美術館(東京世田谷区)を訪れて、『麗子像』の絵を観て感動したようなことが書かれていて、太川陽介さんとえびすさんのバス旅ファンのわたしは縁を感じました。
次の写真は、青木繁(1882年-1911年 28歳没)作品です。
初めてなにかの本でこの作品を観たときは、力強さに圧倒されるものがありました。今回こちらの美術館を訪れて、ここにあったのかと、これまた驚きました。
作品は、『海の幸 製作は1904年(明治37年)』です。
さて、今回の企画展のテーマは、『空間と作品』です。
空間の広がりを味わうことができた一番の作品は、わたしの場合は、次の写真の作品でした。
カミーユ・ピサロ(1830年-1903年 73歳没)の作品、『四季 夏』です。
絵をながめていると、すがすがしい気持ちになれます。
アーティゾン美術館には、2時間半ぐらい滞在しました。
また、訪れてみたいと思いました。
2024年07月15日
東京 憲政記念館見学
東京 憲政記念館見学
国立国会図書館のお隣にありました。
近くに国会議事堂があります。
今は、一時的な建物のようで、小規模な展示でした。
近くに大きな記念館を建てる予定があるようです。
伊藤博文:1841年(天保12年)-1909年(明治42年)68歳暗殺により没。初代内閣総理大臣。
大隈重信:1838年(天保9年)-1922年(大正11年)83歳没。内閣総理大臣。早稲田大学創設者。(慶応大学の創設者が、福澤諭吉)
板垣退助:1837年(天保8年)-1919年(大正8年)83歳没。内務大臣。自由民権運動の創始者。国会を創った(つくった)男と称される。
時代背景として、わたしから見ると、わたしのひいおじいさんとか、ひいおばあさんの時代です。わたしの母方祖父が生まれたのが、1907年(明治40年)です。ひいおばあさんは、わたしが中学生のときに94歳で亡くなったので、明治時代を身近に感じることができます。
今年一月に国会の衆議院を見学したのですが、こちらの記念館に似たような形式の展示部屋がありました。次の写真です。
椅子は木製で、背もたれは垂直で、座りやすいとはいえず、長時間になるとたいへんだろうとお察しします。背もたれの部分はこすれて、布の表面が色落ちしていました。
ちょっとびっくりしたのは、次の写真の展示でした。
わたしは、小学生のときに数年間、栃木県の山奥にある足尾町(あしおまち。現在は日光市)というところで過ごしました。昔は銅山でした。
日本最初の公害発生地(1890年から1891年(明治23年から明治24年)だということは、足尾町を離れてからの中学校での学習で知りました。
中学生だったわたしは、とても不思議でした。
公害関連資料では、鉱毒事件とか、大気汚染で山がはげ山になったとか書いてあるのですが、わたしが知る足尾町は、自然が豊かで、山は緑多く、渓流はきれいでカジカという小魚が泳いでいました。ことに、夏の渓流遊びは楽しかった。紅葉もきれいでした。
おとなにとっては、暮らしにくいところだったかもしれませんが、冬は雪国のように雪が積もり、こどもたちは、雪遊びをしてずいぶんと楽しい思いをしました。土そり(どそり。手づくりのそり遊び)とか、スキーとか、屋外では、雪が積もって凍った生活道路でのスケート遊びとか、かまくらづくり、雪だるまづくり、雪合戦、小学校の教室は石炭ストーブで暖かく、トランプ、手芸、馬飛び、クリスマス会なんかをして遊びました。
成人してからも10年に1回ぐらいのペースで現地を訪れていましたが、すっかりさびれてしまい、今では思い出の地という記憶の中だけの町になりました。
ときおりテレビの旅番組やドラマで、わたらせ渓谷鉄道の映像を見ます。なつかしい。乗ったこともあります。わたしが住んでいたころは、蒸気機関車が走っていました。昔は、足尾線(あしおせん)と呼んでいました。
田中正造(たなかしょうぞう):1841年(天保12年)-1913年(大正2年)71歳没。衆議院議員。1901年(明治34年)明治天皇に足尾銅山鉱毒事件に関して直訴(じきそ。正式な手続きを経ずに(へずに)直接訴える)した。
もうひとつの出来事として、昨年7月に、東京三鷹市にある小説家の山本有三記念館を訪れたときに、山本有三氏が、足尾銅山で働いていたという展示を見ました。
山本有三(やまもとゆうぞう):小説家、劇作家、政治家。1887年(明治20年)-1974年(昭和49年)86歳没。
同氏の作品、『路傍の石(ろぼうのいし)』は、主人公の吾一少年(ごいちしょうねん)が、恵まれない環境にあってもめげずにがんばるお話です。わたしは、中学生のときにその本を読みましたが、自分と吾一少年を重ね合わせながら、自分もがんばらなければと、ずいぶん励みになりました。
『路傍の石』は、昭和12年ころ(1937年ころ)執筆された作品で、時代背景は明治時代、主人公の吾一少年(ごいちしょうねん)は、丁稚奉公(でっちぼうこう。当時の小学校を出て、商家に住み込みをしながら、読み書き計算、商売のしかたについて学ぶ)に出されていろいろな苦労を重ねるという内容だったと思います。
さきほど少し書きましたが、自分の母方の祖父が明治40年(1907年)生まれで、吾一少年と同じような体験をした人でした。自分が中学生の時に、祖父からは、奉公先での苦労話などを聴きました。祖父はまじめな人でした。
自分の人生において、何年かに一回、ポイント(点)みたいに、『足尾銅山』という地名が自分の目の前に出てくるので縁を感じています。
山本有三氏は、1910年(明治43年)ご本人23歳の時に、栃木県の山奥にあった足尾銅山で労働体験をされて、その後、体験をもとにして、戯曲作品『穴』を書いておられます。
憲政記念館の窓口でいただいたパンフレットには、尾崎行雄氏のお名前が書いてありました。
尾崎行雄(おざきゆきお):1858年(安政5年)-1954年(昭和29年)95歳没。司法大臣、文部大臣、衆議院議員。尾崎記念会館が、衆議院に寄贈されて憲政記念会館になったと書いてあります。
そのこともここに書き添えておきます。
国立国会図書館のお隣にありました。
近くに国会議事堂があります。
今は、一時的な建物のようで、小規模な展示でした。
近くに大きな記念館を建てる予定があるようです。
伊藤博文:1841年(天保12年)-1909年(明治42年)68歳暗殺により没。初代内閣総理大臣。
大隈重信:1838年(天保9年)-1922年(大正11年)83歳没。内閣総理大臣。早稲田大学創設者。(慶応大学の創設者が、福澤諭吉)
板垣退助:1837年(天保8年)-1919年(大正8年)83歳没。内務大臣。自由民権運動の創始者。国会を創った(つくった)男と称される。
時代背景として、わたしから見ると、わたしのひいおじいさんとか、ひいおばあさんの時代です。わたしの母方祖父が生まれたのが、1907年(明治40年)です。ひいおばあさんは、わたしが中学生のときに94歳で亡くなったので、明治時代を身近に感じることができます。
今年一月に国会の衆議院を見学したのですが、こちらの記念館に似たような形式の展示部屋がありました。次の写真です。
椅子は木製で、背もたれは垂直で、座りやすいとはいえず、長時間になるとたいへんだろうとお察しします。背もたれの部分はこすれて、布の表面が色落ちしていました。
ちょっとびっくりしたのは、次の写真の展示でした。
わたしは、小学生のときに数年間、栃木県の山奥にある足尾町(あしおまち。現在は日光市)というところで過ごしました。昔は銅山でした。
日本最初の公害発生地(1890年から1891年(明治23年から明治24年)だということは、足尾町を離れてからの中学校での学習で知りました。
中学生だったわたしは、とても不思議でした。
公害関連資料では、鉱毒事件とか、大気汚染で山がはげ山になったとか書いてあるのですが、わたしが知る足尾町は、自然が豊かで、山は緑多く、渓流はきれいでカジカという小魚が泳いでいました。ことに、夏の渓流遊びは楽しかった。紅葉もきれいでした。
おとなにとっては、暮らしにくいところだったかもしれませんが、冬は雪国のように雪が積もり、こどもたちは、雪遊びをしてずいぶんと楽しい思いをしました。土そり(どそり。手づくりのそり遊び)とか、スキーとか、屋外では、雪が積もって凍った生活道路でのスケート遊びとか、かまくらづくり、雪だるまづくり、雪合戦、小学校の教室は石炭ストーブで暖かく、トランプ、手芸、馬飛び、クリスマス会なんかをして遊びました。
成人してからも10年に1回ぐらいのペースで現地を訪れていましたが、すっかりさびれてしまい、今では思い出の地という記憶の中だけの町になりました。
ときおりテレビの旅番組やドラマで、わたらせ渓谷鉄道の映像を見ます。なつかしい。乗ったこともあります。わたしが住んでいたころは、蒸気機関車が走っていました。昔は、足尾線(あしおせん)と呼んでいました。
田中正造(たなかしょうぞう):1841年(天保12年)-1913年(大正2年)71歳没。衆議院議員。1901年(明治34年)明治天皇に足尾銅山鉱毒事件に関して直訴(じきそ。正式な手続きを経ずに(へずに)直接訴える)した。
もうひとつの出来事として、昨年7月に、東京三鷹市にある小説家の山本有三記念館を訪れたときに、山本有三氏が、足尾銅山で働いていたという展示を見ました。
山本有三(やまもとゆうぞう):小説家、劇作家、政治家。1887年(明治20年)-1974年(昭和49年)86歳没。
同氏の作品、『路傍の石(ろぼうのいし)』は、主人公の吾一少年(ごいちしょうねん)が、恵まれない環境にあってもめげずにがんばるお話です。わたしは、中学生のときにその本を読みましたが、自分と吾一少年を重ね合わせながら、自分もがんばらなければと、ずいぶん励みになりました。
『路傍の石』は、昭和12年ころ(1937年ころ)執筆された作品で、時代背景は明治時代、主人公の吾一少年(ごいちしょうねん)は、丁稚奉公(でっちぼうこう。当時の小学校を出て、商家に住み込みをしながら、読み書き計算、商売のしかたについて学ぶ)に出されていろいろな苦労を重ねるという内容だったと思います。
さきほど少し書きましたが、自分の母方の祖父が明治40年(1907年)生まれで、吾一少年と同じような体験をした人でした。自分が中学生の時に、祖父からは、奉公先での苦労話などを聴きました。祖父はまじめな人でした。
自分の人生において、何年かに一回、ポイント(点)みたいに、『足尾銅山』という地名が自分の目の前に出てくるので縁を感じています。
山本有三氏は、1910年(明治43年)ご本人23歳の時に、栃木県の山奥にあった足尾銅山で労働体験をされて、その後、体験をもとにして、戯曲作品『穴』を書いておられます。
憲政記念館の窓口でいただいたパンフレットには、尾崎行雄氏のお名前が書いてありました。
尾崎行雄(おざきゆきお):1858年(安政5年)-1954年(昭和29年)95歳没。司法大臣、文部大臣、衆議院議員。尾崎記念会館が、衆議院に寄贈されて憲政記念会館になったと書いてあります。
そのこともここに書き添えておきます。
2024年07月14日
国立国会図書館を見学する。
国立国会図書館を見学する。
今年の一月は、国会の衆議院を見学しました。
そのとき、国会の横にある国立国会図書館が見学できることを知りました。
事前に電話で国立国会図書館の担当者の方とやりとりなどをして、見学の予約がとれました。
以前、なにかのテレビ番組で、図書館内を紹介していました。NHKだったと思います。地下深くにある書庫の映像が出ていた記憶です。
次の写真で、右側の建物が、『新館』です。まずそこで利用者登録をしました。午前11時半ごろに入館しました。(4時間ぐらい滞在しました)
新規登録希望者は、自分たち夫婦しかいないだろうと思って行ったら、待合場所にたくさんあるベンチに若い人たちがたくさん座っていて、登録利用者カードの交付待ちをしていたのでびっくりしました。
運転免許試験場で、更新後の運転免許証を受け取るシーンに似ていました。ただし、ひとりずつ呼ばれて、名前の確認等がなされます。
登録利用者カードをもらって、駅の改札口みたいな入口を通って中へ入りました。新館と本館はつながっています。
お昼時だったので、本館6階にある食堂でランチを食べました。職員食堂みたいな雰囲気のところでした。お弁当持参の人が利用できるテーブルやイスの区域もありました。
今回訪問した目的は、もう二十年ぐらい前に自費出版した自分の本が国立国会図書館に所蔵されているので、見てみたかったのと、おそらく本のどこかに『国立国会図書館所蔵』みたいな表示があるに違いないと思い、記念に本の表紙と所蔵図書館名部分のコピーをもらおうというものでした。されど、目的の本を申し込んで受け取るまでに20分ぐらいかかりそうで、そのあと複写をお願いしてもまた順番待ちの時間がかかりそうでした。
国立国会図書館内の参観開始時刻が午後2時からだったので、自費出版した自分の本を確認するのはまた今度来た時でもいいかと思い、本館6階の食堂を出たあと、コーヒーでも飲もうと、本館3階の喫茶室へいきました。
行ってみて、そこで食事もできることを知りました。観光客の場合は、職員食堂の雰囲気がある本館6階の食堂よりも、こちらの本館3階の喫茶室のほうが、居心地がいいと感じました。観光中とみられる若い女性たちや少人数連れの外国人客の姿がありました。(その後、帰宅してから、新館の1階にも喫茶室があることに気づきました)
次の写真の左側にある建物が、『本館』です。
午後2時から予約してあった図書館内参観集合場所は、本館の南入口でした。写真にあるのは、本館東側にある一般利用者入口ですから、その前を通り過ぎて、右に曲がり、南側入口から中に入って、すぐ右にあるカウンターで警備員さんに話をして紙に名前を書きました。国会議員が図書館を利用するときはこの出入口から入るようです。
本館東側一般利用者入口のそばにあったオブジェです。(オブジェ:美術作品)
オブジェの反対側には、人間の像がありました。
やせたヨーロッパ人に見えました。男か女かの性別は判然としません。
妖精みたいなものだろうか。
参観では、ほかに申し込みをされた方もいっしょになって回り、職員さんに案内してもらいました。たくさんの質問などのやりとりもさせてもらいました。ご丁寧な説明をありがとうございました。
次の写真2枚は、地下30mの位置にある書庫の吹き抜け最下部から上方向を撮影したものです。
一番上の明るい窓が、地上の地面の位置にあります。外から見ると最上部は温室のようなつくりでした。
ここは、灯り(あかり)とりのための吹き抜けです。地下の書庫空間を照らす役目を果たしているそうです。地下書庫で仕事に従事される職員さんも、労働時間のほとんどを地下ですごすようですので、たまに、書庫から吹き抜け部分に出て、外の空気に触れると心身にいいでしょう。
次の写真で、正面、斜めになっている部分は階段です。
書庫の空間が、何層にも重なって、地下ビルの階層のようになっています。
いくつか、感想を並べてみます。
図書館ですが、利用者が利用する部分で、利用者が本を手に取れるような書庫とか書架、本棚がないことに驚きました。
たくさんパソコンが並べてあるスペースがあります。
パソコンで借りたい本を選んで申し込むそうです。
申し込んだあと、目的の本が受け取りカウンターに届いているのかをパソコンで確認してカウンターまで受け取りに行くそうです。
複写の依頼も同じようなやりかただと感じました。自分で、コピー機にコインを入れてコピーするのではなく、職員が事務室内でコピーしてくれたものを受け取るのです。
コピー代に1円未満の端数があるのが不思議でした。カラーA4だと1枚消費税込104.50円。白黒A4だと1枚税込27.50円、白黒A3だと1枚税込47.3円。支払う時、円未満が出ないような枚数を複写するのかなあと思いました。単位『銭(せん)』の支払いはできませんものね。
館内には、旅行バッグなどは持ち込めません。
ロッカーに預けて、ロッカー室にたくさんぶらさげてある透明のバッグに貴重品だけを入れて持ち歩きました。本の盗難防止のためなのでしょう。透明バッグには、ペットボトルを入れることができる部分がありました。
ロッカーを使用するときに100円玉がいります。100円玉は、使用後戻ってきます。
なんというか、地下書庫には、ものすごい量の本が保管されていました。
歴史があります。
明治10年(1877年)西南戦争のときの新聞を見せてもらいました。熊本県での激戦地田原坂の戦い(たばるざかのたたかい)の記事でした。去年12月に鹿児島市内観光に行ったのですが、西郷隆盛終焉(しゅうえん。命の終わり)の地あたりを見学したことを思い出しました。
地下書庫の通路から書架を見ただけですが、自分が二十代だったころに読んだマンガ本、『少年サンデー』が、本棚にずらりと並んでいて、背表紙を見て、西暦の数字が書いてあって、なつかしかった。心が不安定な若い時期に、マンガに支えられたということはあります。
国立国会図書館の仲間として、関西館(京都府精華町せいかちょう)と国際子ども図書館(東京上野公園内)があることを知りました。
今年の一月は、国会の衆議院を見学しました。
そのとき、国会の横にある国立国会図書館が見学できることを知りました。
事前に電話で国立国会図書館の担当者の方とやりとりなどをして、見学の予約がとれました。
以前、なにかのテレビ番組で、図書館内を紹介していました。NHKだったと思います。地下深くにある書庫の映像が出ていた記憶です。
次の写真で、右側の建物が、『新館』です。まずそこで利用者登録をしました。午前11時半ごろに入館しました。(4時間ぐらい滞在しました)
新規登録希望者は、自分たち夫婦しかいないだろうと思って行ったら、待合場所にたくさんあるベンチに若い人たちがたくさん座っていて、登録利用者カードの交付待ちをしていたのでびっくりしました。
運転免許試験場で、更新後の運転免許証を受け取るシーンに似ていました。ただし、ひとりずつ呼ばれて、名前の確認等がなされます。
登録利用者カードをもらって、駅の改札口みたいな入口を通って中へ入りました。新館と本館はつながっています。
お昼時だったので、本館6階にある食堂でランチを食べました。職員食堂みたいな雰囲気のところでした。お弁当持参の人が利用できるテーブルやイスの区域もありました。
今回訪問した目的は、もう二十年ぐらい前に自費出版した自分の本が国立国会図書館に所蔵されているので、見てみたかったのと、おそらく本のどこかに『国立国会図書館所蔵』みたいな表示があるに違いないと思い、記念に本の表紙と所蔵図書館名部分のコピーをもらおうというものでした。されど、目的の本を申し込んで受け取るまでに20分ぐらいかかりそうで、そのあと複写をお願いしてもまた順番待ちの時間がかかりそうでした。
国立国会図書館内の参観開始時刻が午後2時からだったので、自費出版した自分の本を確認するのはまた今度来た時でもいいかと思い、本館6階の食堂を出たあと、コーヒーでも飲もうと、本館3階の喫茶室へいきました。
行ってみて、そこで食事もできることを知りました。観光客の場合は、職員食堂の雰囲気がある本館6階の食堂よりも、こちらの本館3階の喫茶室のほうが、居心地がいいと感じました。観光中とみられる若い女性たちや少人数連れの外国人客の姿がありました。(その後、帰宅してから、新館の1階にも喫茶室があることに気づきました)
次の写真の左側にある建物が、『本館』です。
午後2時から予約してあった図書館内参観集合場所は、本館の南入口でした。写真にあるのは、本館東側にある一般利用者入口ですから、その前を通り過ぎて、右に曲がり、南側入口から中に入って、すぐ右にあるカウンターで警備員さんに話をして紙に名前を書きました。国会議員が図書館を利用するときはこの出入口から入るようです。
本館東側一般利用者入口のそばにあったオブジェです。(オブジェ:美術作品)
オブジェの反対側には、人間の像がありました。
やせたヨーロッパ人に見えました。男か女かの性別は判然としません。
妖精みたいなものだろうか。
参観では、ほかに申し込みをされた方もいっしょになって回り、職員さんに案内してもらいました。たくさんの質問などのやりとりもさせてもらいました。ご丁寧な説明をありがとうございました。
次の写真2枚は、地下30mの位置にある書庫の吹き抜け最下部から上方向を撮影したものです。
一番上の明るい窓が、地上の地面の位置にあります。外から見ると最上部は温室のようなつくりでした。
ここは、灯り(あかり)とりのための吹き抜けです。地下の書庫空間を照らす役目を果たしているそうです。地下書庫で仕事に従事される職員さんも、労働時間のほとんどを地下ですごすようですので、たまに、書庫から吹き抜け部分に出て、外の空気に触れると心身にいいでしょう。
次の写真で、正面、斜めになっている部分は階段です。
書庫の空間が、何層にも重なって、地下ビルの階層のようになっています。
いくつか、感想を並べてみます。
図書館ですが、利用者が利用する部分で、利用者が本を手に取れるような書庫とか書架、本棚がないことに驚きました。
たくさんパソコンが並べてあるスペースがあります。
パソコンで借りたい本を選んで申し込むそうです。
申し込んだあと、目的の本が受け取りカウンターに届いているのかをパソコンで確認してカウンターまで受け取りに行くそうです。
複写の依頼も同じようなやりかただと感じました。自分で、コピー機にコインを入れてコピーするのではなく、職員が事務室内でコピーしてくれたものを受け取るのです。
コピー代に1円未満の端数があるのが不思議でした。カラーA4だと1枚消費税込104.50円。白黒A4だと1枚税込27.50円、白黒A3だと1枚税込47.3円。支払う時、円未満が出ないような枚数を複写するのかなあと思いました。単位『銭(せん)』の支払いはできませんものね。
館内には、旅行バッグなどは持ち込めません。
ロッカーに預けて、ロッカー室にたくさんぶらさげてある透明のバッグに貴重品だけを入れて持ち歩きました。本の盗難防止のためなのでしょう。透明バッグには、ペットボトルを入れることができる部分がありました。
ロッカーを使用するときに100円玉がいります。100円玉は、使用後戻ってきます。
なんというか、地下書庫には、ものすごい量の本が保管されていました。
歴史があります。
明治10年(1877年)西南戦争のときの新聞を見せてもらいました。熊本県での激戦地田原坂の戦い(たばるざかのたたかい)の記事でした。去年12月に鹿児島市内観光に行ったのですが、西郷隆盛終焉(しゅうえん。命の終わり)の地あたりを見学したことを思い出しました。
地下書庫の通路から書架を見ただけですが、自分が二十代だったころに読んだマンガ本、『少年サンデー』が、本棚にずらりと並んでいて、背表紙を見て、西暦の数字が書いてあって、なつかしかった。心が不安定な若い時期に、マンガに支えられたということはあります。
国立国会図書館の仲間として、関西館(京都府精華町せいかちょう)と国際子ども図書館(東京上野公園内)があることを知りました。
2024年07月13日
靖国神社見学
靖国神社見学
訪問は二回目です。
前回の見学は、記録を見ると、2014年(平成26年)3月ですから、10年ぐらい前です。
前回は小雨が降っていました。今回は炎天下の夏です。
前回は、沿道では、バザーをやっており、外国人の売り手もいて、なんだか外国のストリートに来ているようでした。同行したわたしの妻の記憶では、バザーで、わたしの靴下を買ったそうです。わたしはもうそのことは覚えていません。そのとき、わたしの靴下がなにかしらで濡れたか汚れたかしていたので買ったらしいです。
今回の沿道では、7月13日土曜日から数日間開催される行事の準備をされていまいた。掲示物には、『みたままつり』と書いてあった記憶です。
沿道では、作業員の方々が、人や組織の名前が書いてある小型のちょうちんをたくさん吊り下げる作業をされていました。
次の写真にある屋根の下につりさげてある紙でつくられた球体をした装飾(そうしょく)工芸品のようなものがきれいでした。手毬(てまり)を意味しているのかもしれません。
次の写真で、左右にずらりと並んでいるのが小型の黄色いちょうちんです。中は電球です。夜に来ると風情(ふぜい)が湧くでしょう。
ちょうちんには、わたしが知っている全国各地の地名が書いてあり、身近に感じました。戦没者の遺族会とかが関係しているのかもしれません。
帰宅してから気づいたのですが、次の写真の右にある石の柱に先日落書きがされて問題になっています。
記事を読むと、落書きをするためにわざわざお金を払ってスプレー缶を購入しています。お金を使って、時間を使って、労力を使って落書きという行為をしたことにあきれました。
人の物を傷つけたり壊したりすることは犯罪です。そんなこともわからない人の脳みそは、まだこどもの脳みそです。
なにか主張があるようですが、口実でしょう。こうじつ:つくった理屈(りくつ)。真相は、ただやってみたかった。おもしろそうだった。やんちゃな幼児か、人に迷惑をかけて目立ちたい年頃の中学生みたいです。
靖国神社には、戦争で亡くなった人たちの霊(れい。魂たましい)が祀られています。(まつられています:尊敬し心をなぐさめ感謝する)。政治的にはいろいろ考えの対立もあるようですが、関係者遺族にとっては、心休まる場所でしょう。さかのぼれば、太平洋戦争の時に、うちの親族にも若くして兵隊に行って亡くなった人はいました。夏の暑い時期、お墓参りに行ったときに、父方の祖父母が、戦争で亡くなった自分たちのこどもの名前をしきりにつぶやいていました。
訪問は二回目です。
前回の見学は、記録を見ると、2014年(平成26年)3月ですから、10年ぐらい前です。
前回は小雨が降っていました。今回は炎天下の夏です。
前回は、沿道では、バザーをやっており、外国人の売り手もいて、なんだか外国のストリートに来ているようでした。同行したわたしの妻の記憶では、バザーで、わたしの靴下を買ったそうです。わたしはもうそのことは覚えていません。そのとき、わたしの靴下がなにかしらで濡れたか汚れたかしていたので買ったらしいです。
今回の沿道では、7月13日土曜日から数日間開催される行事の準備をされていまいた。掲示物には、『みたままつり』と書いてあった記憶です。
沿道では、作業員の方々が、人や組織の名前が書いてある小型のちょうちんをたくさん吊り下げる作業をされていました。
次の写真にある屋根の下につりさげてある紙でつくられた球体をした装飾(そうしょく)工芸品のようなものがきれいでした。手毬(てまり)を意味しているのかもしれません。
次の写真で、左右にずらりと並んでいるのが小型の黄色いちょうちんです。中は電球です。夜に来ると風情(ふぜい)が湧くでしょう。
ちょうちんには、わたしが知っている全国各地の地名が書いてあり、身近に感じました。戦没者の遺族会とかが関係しているのかもしれません。
帰宅してから気づいたのですが、次の写真の右にある石の柱に先日落書きがされて問題になっています。
記事を読むと、落書きをするためにわざわざお金を払ってスプレー缶を購入しています。お金を使って、時間を使って、労力を使って落書きという行為をしたことにあきれました。
人の物を傷つけたり壊したりすることは犯罪です。そんなこともわからない人の脳みそは、まだこどもの脳みそです。
なにか主張があるようですが、口実でしょう。こうじつ:つくった理屈(りくつ)。真相は、ただやってみたかった。おもしろそうだった。やんちゃな幼児か、人に迷惑をかけて目立ちたい年頃の中学生みたいです。
靖国神社には、戦争で亡くなった人たちの霊(れい。魂たましい)が祀られています。(まつられています:尊敬し心をなぐさめ感謝する)。政治的にはいろいろ考えの対立もあるようですが、関係者遺族にとっては、心休まる場所でしょう。さかのぼれば、太平洋戦争の時に、うちの親族にも若くして兵隊に行って亡くなった人はいました。夏の暑い時期、お墓参りに行ったときに、父方の祖父母が、戦争で亡くなった自分たちのこどもの名前をしきりにつぶやいていました。