2024年12月10日
東京・千葉から見えた富士山
東京・千葉から見えた富士山
11月下旬の金曜日に名古屋から東京まで新幹線に乗車しました。
この日はとてもいいお天気で、車窓から富士山がきれいに見えました。
右のくぼみは、『宝永火口(ほうえいかこう。1707年江戸時代宝永4年の噴火)』というのでしょう。
次の写真は、東京で泊まったホテルからの夕映えで、このあとオレンジ色の太陽が輝きながら西へと沈んでいきました。
翌朝、同じ窓の、昨日夕日が沈んでいったあたりに、白い雪をかぶった富士山の姿が見えたのでびっくりしました。とてもきれいでした。
この日は用事があって千葉市へ移動したのですが、翌朝千葉駅そばにあるホテルで、窓のカーテンを開けたら、また、きれいな富士山が見えました。東京湾の向こうですが、はっきり見えて感激しました。
やはり富士山は、日本人の心のふるさとです。日本に生まれて良かったなあ。
11月下旬の金曜日に名古屋から東京まで新幹線に乗車しました。
この日はとてもいいお天気で、車窓から富士山がきれいに見えました。
右のくぼみは、『宝永火口(ほうえいかこう。1707年江戸時代宝永4年の噴火)』というのでしょう。
次の写真は、東京で泊まったホテルからの夕映えで、このあとオレンジ色の太陽が輝きながら西へと沈んでいきました。
翌朝、同じ窓の、昨日夕日が沈んでいったあたりに、白い雪をかぶった富士山の姿が見えたのでびっくりしました。とてもきれいでした。
この日は用事があって千葉市へ移動したのですが、翌朝千葉駅そばにあるホテルで、窓のカーテンを開けたら、また、きれいな富士山が見えました。東京湾の向こうですが、はっきり見えて感激しました。
やはり富士山は、日本人の心のふるさとです。日本に生まれて良かったなあ。
2024年12月09日
東京都永田町にある日枝神社を訪問しました。
東京都千代田区永田町にある日枝神社(ひえじんじゃ)を訪問しました。
東京で宿泊した翌日、次の用事までに時間があったので、ホテルの近くにあった日枝神社へお参りに行きました。
『ひえだ神社』と読むと思いこんでいたら間違いでした。『ひえ神社』です。
まあ、びっくりしました。
参拝者が多かったので、ここに載せる写真は人が写っていないものにしておきます。
山の上に社(やしろ)があります。エスカレーターが設置してあって、何回か乗り継ぎをしながら山の上までのぼりました。
最後のエスカレーターを降りたら、神社の入口前で、警備員がタクシーを誘導していて、テレビカメラみたいな大きなカメラを肩にのせた男性が撮影していたので、なにかの取材中なのだろうかと思いました。
神社のそばには、首相官邸や国会議員のための議員会館があります。どなたか有名な国会議員が参拝に来ているのだろうかと考えを巡らしましたが違っていました。
この日は、七五三(しちごさん)参りの親子連れがおおぜいお参りに来ておられたのでした。なんというか、リッチな(お金持ちの)ご家族の皆さんで、おおいにびっくりしました。
芸能人の親子連れがいっぱいいるような雰囲気で、ひと家族にひとりという感じで、専属の(専門職の)カメラマンが付いていて、写真や動画を撮影されているのです。
参拝の方々は、きれいで高価そうなお衣装を召されて、こどもさんたちも晴れやかな着物や洋装で、みなさん胸を張ってポーズをつくって写真におさまっておられました。
わたしたち年寄り夫婦は、みなさんをうっとりとながめながら、こういう世界もあるのだなあと感心しました。
境内(けいだい)には、どういうわけか、大きな囲碁盤がふたつかみっつ横並びに設置してありました。神社と囲碁盤と関係があるようです。
七五三を迎えたお子さんは、この大きな囲碁盤の上に立って、ポーズを決めて記念撮影をするのです。
囲碁盤から元気よくジャンプすると、未来に向かって、運勢が伸びていくというような意味合いがあるそうです。マンガ作品、『ヒカルの碁』みたいですなあ。『ヒカルの碁 原作・ほったゆみ 漫画・小畑健 監修・梅澤由香里二段 ジャンプコミックス第1巻から第23巻』全巻読みました。わたしは囲碁をうまくできませんが、小学生の孫たちが将棋や囲碁を習っています。
ちびっこのみなさん、健やかに(すこやかに)育ってくださいな。
東京で宿泊した翌日、次の用事までに時間があったので、ホテルの近くにあった日枝神社へお参りに行きました。
『ひえだ神社』と読むと思いこんでいたら間違いでした。『ひえ神社』です。
まあ、びっくりしました。
参拝者が多かったので、ここに載せる写真は人が写っていないものにしておきます。
山の上に社(やしろ)があります。エスカレーターが設置してあって、何回か乗り継ぎをしながら山の上までのぼりました。
最後のエスカレーターを降りたら、神社の入口前で、警備員がタクシーを誘導していて、テレビカメラみたいな大きなカメラを肩にのせた男性が撮影していたので、なにかの取材中なのだろうかと思いました。
神社のそばには、首相官邸や国会議員のための議員会館があります。どなたか有名な国会議員が参拝に来ているのだろうかと考えを巡らしましたが違っていました。
この日は、七五三(しちごさん)参りの親子連れがおおぜいお参りに来ておられたのでした。なんというか、リッチな(お金持ちの)ご家族の皆さんで、おおいにびっくりしました。
芸能人の親子連れがいっぱいいるような雰囲気で、ひと家族にひとりという感じで、専属の(専門職の)カメラマンが付いていて、写真や動画を撮影されているのです。
参拝の方々は、きれいで高価そうなお衣装を召されて、こどもさんたちも晴れやかな着物や洋装で、みなさん胸を張ってポーズをつくって写真におさまっておられました。
わたしたち年寄り夫婦は、みなさんをうっとりとながめながら、こういう世界もあるのだなあと感心しました。
境内(けいだい)には、どういうわけか、大きな囲碁盤がふたつかみっつ横並びに設置してありました。神社と囲碁盤と関係があるようです。
七五三を迎えたお子さんは、この大きな囲碁盤の上に立って、ポーズを決めて記念撮影をするのです。
囲碁盤から元気よくジャンプすると、未来に向かって、運勢が伸びていくというような意味合いがあるそうです。マンガ作品、『ヒカルの碁』みたいですなあ。『ヒカルの碁 原作・ほったゆみ 漫画・小畑健 監修・梅澤由香里二段 ジャンプコミックス第1巻から第23巻』全巻読みました。わたしは囲碁をうまくできませんが、小学生の孫たちが将棋や囲碁を習っています。
ちびっこのみなさん、健やかに(すこやかに)育ってくださいな。
2024年12月08日
農林水産省の食堂でお昼ご飯を食べる。
農林水産省の食堂でお昼ご飯を食べる。
なにかテーマをもってめざしたわけではないのですが、結果的に、東京見物に行ったときは、官公庁がらみの施設の食堂で、職員さんたちといっしょに並んでお昼ご飯を食べるようになりました。
これまでに、JICA(ジャイカ。国際協力機構。市ヶ谷。お隣が防衛省で、制服姿の自衛隊員の姿があります)、国立国会図書館(お弁当持参の職員のために、広いテーブルだけの席が用意されていました)、気象庁(虎の門。カツカレーがお勧めですという案内がありました)、そして今回が、農林水産省です。いくつか食堂があるのですが、入館するために必要な受付票を書かなくてすむ、『咲くら(さくら)』という食堂に入りました。おとなりに蕎麦屋(そばや)もありました。
システムとしては、丸亀うどんみたいに、列をつくりながら、最初にお盆をもって、自分が食べたいお皿(料理がのっている)をお盆にのせていき、最後のほうで、ごはんの大・中・小とかみそ汁を選んで、現金で支払いです。
定食は別途注文して、できあがったら受け取ります。
次の写真は、クジラ料理です。その次の写真が、カキフライとヒレカツです。いずれも定食です。
夫婦で注文して、ふたりでシェア(ワケワケ)しながら食べました。
お昼時は、職員さんたちで混むので、午後1時半ごろお店に入りました。(昼の部は2時までです。朝と、夜の時間帯も営業されています)。
農林水産省の建物の北別館入口で、警備員に、『観光客ですが、ごはんだけ食べにきました』と告げて(警備員のそばに、お店のメニューが書かれた大きな看板が立ててあります)、お店に入ったら、従業員に、『初めて来ました』と声をかけて、注文のしかたを教わってやりました。午後1時半ごろだったので、食事をする職員は、まばらでした。いかにも公務員という感じの服装・眼鏡姿の人がいました。
クジラの肉は、こどものころに良く食べました。
当時は、熊本県の天草(あまくさ)という島に住んでいて(まだ、天草五橋(あまくさごきょう)は、できていませんでした)、冷凍されたクジラ肉を薄く切って食べていました。刺身ですな。醤油をつけて食べていた記憶です。おいしかった。自分はまだ、就学前の6歳児ぐらいだった記憶です。
今回こちらの食堂で食べたクジラ肉は柔らかくておいしかったです。カキフライもヒレカツもおいしい。農林水産省ですから、日本各地の名物を取り寄せて料理して出しておられるのかなと想像しました。時間的に混んでいなかったので、また同じような時間帯に来てもいいかなと思っています。次回の職員・学生食堂訪問候補地は、東京大学の本郷キャンパスか駒場キャンパスがいいかなと作戦を立てています。思い出づくりの余生を楽しむ東京見物をときどきしています。なお、財務省の食堂のごはんもおいしいと聞きました。
食事のあと、付近を散策して楽しみました。
次の写真は、法務省の古い建物です。
こういう形式、色合いの建物は、全国各地で見かけます。
愛知県だと、県庁とか名古屋市役所の本庁舎がそうです。そのそばには、今年のNHK朝ドラ、『虎に翼』にも登場した名古屋市市政資料館もあります。以前は裁判所でした。
先日福岡県を訪ねたときには、福岡市赤煉瓦文化館(あかれんがぶんかかん)とか、旧福岡県公会堂貴賓室が類似の形態をした建物でした。
次の写真は、警視庁です。
水谷豊さんの刑事ドラマ、『相棒』でよく映像に出てくる建物です。
東京都を管轄するのが、警視庁で、全国を管轄するのが、警察庁と覚えています。警察庁はどこにあるのだろうかと調べたら、警視庁のお隣にありました。ふつうのビルでした。まあ、よく考えたら、そういうレイアウトだわなと。だからドラマでは、お互いの職員が、すぐに警察庁の幹部室で会えるわけかと納得しました。
わたしは現役で働いていた頃は仕事で忙しく、テレビは二十年間ぐらいニュースと天気予報ぐらいしか見たことがありませんでした。
リタイヤしてテレビを見るようになって、『相棒』のようないいドラマがあったことに気づきました。昔の放送をさかのぼって順番に見て、知らずに過ぎた二十年間をふりかえる作業を楽しんでいます。
次の写真は、皇居です。桜田門から入りました。
この日はいいお天気で良かった。お堀も空もビューティフルです。東京駅方向に建つビルの林です。ほんとうに東京は高層ビルがいっぱいです。びっしり建っています。
毎年11月末から12月の始めはお天気が安定しています。穴場の行楽時期です。昨年は、鹿児島市を訪問して、桜島の美しい景色を楽しみました。
次の写真は正門石橋です。その奥に鉄製の正門鉄橋がかかっています。ふたつを合わせて通称で、『二重橋』と言っているというような説明が書いてありました。正式には、『めがね橋』とか、『(石橋を)二重橋』とはいわないようです。
わたしが初めてこの場所に立ったのは12歳のときでした。親戚の叔父さんや叔母さんたちと東京見物に来ました。浅草にも行きました。そのときいっしょだった叔父さんも伯母さんも寿命で亡くなってしまいました。今生きておられたら100歳ぐらいです。12歳だったわたしも前期高齢者の年齢になってしまいました。時がたつのは早いものです。
次の写真は、楠木正成(くすのき・まさしげ)の騎馬像です。
楠木正成は、足利尊氏(あしかがたかうじ)と協力して鎌倉幕府を倒しましたが、その後、足利尊氏と対立して、戦(いくさ)で足利尊氏に負けて自害(じがい。自ら(みずから)命を絶つ)しました。楠木正成は自分を認めてくれた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に強い恩を感じていました。後醍醐天皇を裏切ることはありませんでした。後醍醐天皇と対立した足利尊氏は長いこと逆賊扱いでした。(ぎゃくぞく。主君(天皇)に反抗した悪人)。
1991年NHK大河ドラマ『太平記』のときは、武田鉄矢さんが楠木正成を演じていました。熱演でした。どうして、負けることがわかっているのに戦(いくさ)をするのかと問われて、『戦(いくさ)というものは、勝つからする、負けるからしないというものではない。戦(いくさ)というものは、ただひたすら、自分が愛する人や家族のために命をかけて戦うことだ』と言い切りました。いいセリフでした。人間は、『理屈』で生きているんじゃなくて、『気持ち』で生きているのです。
なにかテーマをもってめざしたわけではないのですが、結果的に、東京見物に行ったときは、官公庁がらみの施設の食堂で、職員さんたちといっしょに並んでお昼ご飯を食べるようになりました。
これまでに、JICA(ジャイカ。国際協力機構。市ヶ谷。お隣が防衛省で、制服姿の自衛隊員の姿があります)、国立国会図書館(お弁当持参の職員のために、広いテーブルだけの席が用意されていました)、気象庁(虎の門。カツカレーがお勧めですという案内がありました)、そして今回が、農林水産省です。いくつか食堂があるのですが、入館するために必要な受付票を書かなくてすむ、『咲くら(さくら)』という食堂に入りました。おとなりに蕎麦屋(そばや)もありました。
システムとしては、丸亀うどんみたいに、列をつくりながら、最初にお盆をもって、自分が食べたいお皿(料理がのっている)をお盆にのせていき、最後のほうで、ごはんの大・中・小とかみそ汁を選んで、現金で支払いです。
定食は別途注文して、できあがったら受け取ります。
次の写真は、クジラ料理です。その次の写真が、カキフライとヒレカツです。いずれも定食です。
夫婦で注文して、ふたりでシェア(ワケワケ)しながら食べました。
お昼時は、職員さんたちで混むので、午後1時半ごろお店に入りました。(昼の部は2時までです。朝と、夜の時間帯も営業されています)。
農林水産省の建物の北別館入口で、警備員に、『観光客ですが、ごはんだけ食べにきました』と告げて(警備員のそばに、お店のメニューが書かれた大きな看板が立ててあります)、お店に入ったら、従業員に、『初めて来ました』と声をかけて、注文のしかたを教わってやりました。午後1時半ごろだったので、食事をする職員は、まばらでした。いかにも公務員という感じの服装・眼鏡姿の人がいました。
クジラの肉は、こどものころに良く食べました。
当時は、熊本県の天草(あまくさ)という島に住んでいて(まだ、天草五橋(あまくさごきょう)は、できていませんでした)、冷凍されたクジラ肉を薄く切って食べていました。刺身ですな。醤油をつけて食べていた記憶です。おいしかった。自分はまだ、就学前の6歳児ぐらいだった記憶です。
今回こちらの食堂で食べたクジラ肉は柔らかくておいしかったです。カキフライもヒレカツもおいしい。農林水産省ですから、日本各地の名物を取り寄せて料理して出しておられるのかなと想像しました。時間的に混んでいなかったので、また同じような時間帯に来てもいいかなと思っています。次回の職員・学生食堂訪問候補地は、東京大学の本郷キャンパスか駒場キャンパスがいいかなと作戦を立てています。思い出づくりの余生を楽しむ東京見物をときどきしています。なお、財務省の食堂のごはんもおいしいと聞きました。
食事のあと、付近を散策して楽しみました。
次の写真は、法務省の古い建物です。
こういう形式、色合いの建物は、全国各地で見かけます。
愛知県だと、県庁とか名古屋市役所の本庁舎がそうです。そのそばには、今年のNHK朝ドラ、『虎に翼』にも登場した名古屋市市政資料館もあります。以前は裁判所でした。
先日福岡県を訪ねたときには、福岡市赤煉瓦文化館(あかれんがぶんかかん)とか、旧福岡県公会堂貴賓室が類似の形態をした建物でした。
次の写真は、警視庁です。
水谷豊さんの刑事ドラマ、『相棒』でよく映像に出てくる建物です。
東京都を管轄するのが、警視庁で、全国を管轄するのが、警察庁と覚えています。警察庁はどこにあるのだろうかと調べたら、警視庁のお隣にありました。ふつうのビルでした。まあ、よく考えたら、そういうレイアウトだわなと。だからドラマでは、お互いの職員が、すぐに警察庁の幹部室で会えるわけかと納得しました。
わたしは現役で働いていた頃は仕事で忙しく、テレビは二十年間ぐらいニュースと天気予報ぐらいしか見たことがありませんでした。
リタイヤしてテレビを見るようになって、『相棒』のようないいドラマがあったことに気づきました。昔の放送をさかのぼって順番に見て、知らずに過ぎた二十年間をふりかえる作業を楽しんでいます。
次の写真は、皇居です。桜田門から入りました。
この日はいいお天気で良かった。お堀も空もビューティフルです。東京駅方向に建つビルの林です。ほんとうに東京は高層ビルがいっぱいです。びっしり建っています。
毎年11月末から12月の始めはお天気が安定しています。穴場の行楽時期です。昨年は、鹿児島市を訪問して、桜島の美しい景色を楽しみました。
次の写真は正門石橋です。その奥に鉄製の正門鉄橋がかかっています。ふたつを合わせて通称で、『二重橋』と言っているというような説明が書いてありました。正式には、『めがね橋』とか、『(石橋を)二重橋』とはいわないようです。
わたしが初めてこの場所に立ったのは12歳のときでした。親戚の叔父さんや叔母さんたちと東京見物に来ました。浅草にも行きました。そのときいっしょだった叔父さんも伯母さんも寿命で亡くなってしまいました。今生きておられたら100歳ぐらいです。12歳だったわたしも前期高齢者の年齢になってしまいました。時がたつのは早いものです。
次の写真は、楠木正成(くすのき・まさしげ)の騎馬像です。
楠木正成は、足利尊氏(あしかがたかうじ)と協力して鎌倉幕府を倒しましたが、その後、足利尊氏と対立して、戦(いくさ)で足利尊氏に負けて自害(じがい。自ら(みずから)命を絶つ)しました。楠木正成は自分を認めてくれた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に強い恩を感じていました。後醍醐天皇を裏切ることはありませんでした。後醍醐天皇と対立した足利尊氏は長いこと逆賊扱いでした。(ぎゃくぞく。主君(天皇)に反抗した悪人)。
1991年NHK大河ドラマ『太平記』のときは、武田鉄矢さんが楠木正成を演じていました。熱演でした。どうして、負けることがわかっているのに戦(いくさ)をするのかと問われて、『戦(いくさ)というものは、勝つからする、負けるからしないというものではない。戦(いくさ)というものは、ただひたすら、自分が愛する人や家族のために命をかけて戦うことだ』と言い切りました。いいセリフでした。人間は、『理屈』で生きているんじゃなくて、『気持ち』で生きているのです。
2024年12月07日
日本武道館に、『第18回 徹子の部屋コンサート』を見に行く。
日本武道館に、『第18回 徹子の部屋コンサート』を見に行く。
(以下の文章は、2024年9月1日・日曜日の朝に書きました)
昨日のことです。
11月下旬に愛知県東海市のホールである舞台、『峠の我が家(仲野太賀、二階堂ふみ、柄本時生、岩松了ほか)』を観ようと、午前10時からの申し込みにネットでチャレンジしましたが、瞬間的につながらなくなり、3分後に全席売り切れの表示が出てしまいました。朝ドラ、『虎に翼』に出ていた仲野大賀さんを観てみたかった。
しかたがない。では、第二候補だと、次は、タイトルにある徹子さんのコンサートを申し込みました。ネットで先行販売と書いてあるページを見つけて、ネット申し込み手続きがにがてなわたしが四苦八苦しながら会員登録をして申し込んで、チケットを手に入れました。さあ、これでよし! 楽しみです。ゲストは、岩崎宏美・良美姉妹、平原綾香さん、松平健さん、コロッケさん、美川憲一さん、南こうせつさんです。
松平健さんは今年7月に東京明治座で舞台劇とマツケンサンバの歌謡ショーを観ました。一年に二回も本物のマツケンサンバを観ることになるとは、今年のお正月には想像もしていませんでした。日本武道館の中に入るのも初めてです。
老後を楽しむぞーーー 体が動くうちに、やりたいことをやっておくのだーーー
死ぬときに、ああすれば良かった、こうしておけば良かったと、なるべく後悔しない人生を送るための終活です。
(その後、『峠の我が家』のほうは、追加公演が設定されたようですが(昼公演が終わったあと、夜公演が追加された。その回は、先着順ではなく、事前申し込みの抽選になったようです)、わたしは、徹子の部屋コンサートのチケットがとれていたので、『峠の我が家』はあきらめました)
もう40年近く前になりますが、自分が30代のときに、黒柳徹子さんの講演を講演会で聴いたことがあります。
90分間、機関銃のようにおしゃべりをされて圧倒された記憶があります。テーマに沿いながら、ユニセフの親善大使をしていることを中心にしてお話をされていました。
長い年月(としつき)が流れて、またご本人を見ることができて、ちょっとした感無量的な気分があります。かんむりょう:感慨無量。人生を、よくここまでやってくることができたというしみじみとする深い気持ち。黒柳さんは本当に長生きでお元気な方です。人類の中で選ばれた人なのでしょう。
(観に行ってきました。以下は、2024年12月2日月曜日に書きました。コンサートは、11月29日金曜日に東京の日本武道館でありました)
会場の中の写真は、開幕の15分ぐらい前のようすです。わたしたち夫婦の席はうしろのほうだったのですが、舞台に向かって正面だったので見やすかったです。
おおぜいの人たちが観覧に訪れておられました。
年齢層は高く、七十代の人たちが多かった雰囲気でした。女性が多かったですが、男性もそこそこおられました。ご友人たちやご夫婦など、みなさん、なごやかな人たちです。
午後5時30分に始まって、午後7時半ぐらいまで演奏と対談、休憩を25分ぐらいとって、再び演奏と対談、最後は出演されたみなさん総出で、『マツケンサンバ』を歌って踊って、午後9時過ぎに幕を閉じました。とても良かった。観に行って良かったと、終わったときに思いました。冥土(めいど。天国)へ旅立つ前のいい思い出ができました。
思い出すままに、感想を並べてみます。
始まって、いきなりハプニングが起きました。(予想外の出来事)
広い舞台の上に、バンドメンバー用のいくぶんこぶりのステージ(台)がつくってあったのですが、向かって左手から岩崎宏美さんが演奏に合わせて出てきて、ワンテンポ間があって、右手から岩崎良美さんがマイクをもって出ようとしたときに、(おそらくまだ一歩も歩いていなかった。ふわーっと広がった白くて長いスカートが、バンドメンバー用のステージにひっかかったのではないか)ものすごい勢いで、前方に良美さんの体が飛び(スーパーマンのように手を伸ばして、空中を飛びました)大きな音をたてて、前のめりに床に落ちられたのです。お顔は床にはあたらなかったようですが、相当痛かったのではないかと思います。出演者始め、何千人ものお客さんが、ぼーぜんとしました。
次の瞬間に、岩崎良美さんがしゅっと立ち上がって、まるで、何もなかったかのように、歌い出しを始められました。(曲はすでに始まっていたと思います。歌詞は、途中からの歌い出しだったと思います)
まあ、びっくりしました。
このことは、なかったことにして、そのあと進行するのかと思ったら、黒柳徹子さんがおおいに受けて、笑いが止まらないような状態で、最後の最後まで、岩崎良美さんが、コンサートが始まっていきなり転倒したという話が続きました。ステージにいて、右手横で椅子に座って舞台を観ていた徹子さんのお話だと、岩崎良美さんの全身が、2mぐらい、空中を飛んで行ったそうです。いやー、たしかに、すごかった。
次に出て来たゲストの南こうせつさんが、ころばないようにおおまたでゆっくり足を運んだり、その後出てきたコロッケさんも、良美さんがころんだことをネタにして笑いを誘ったりしていました。
あの転倒は、なかなか良かった。お笑いの話題づくりにつながりました。
『岩崎宏美・良美姉妹』
最初に、ザ・ピーナッツの歌を歌われました。なつかしかった。わたしがまだ小学校低学年のころ、白黒テレビの前におちゃんこして(正座して)、祖父母と歌番組を観ていたことを思い出しました。ザ・ピーナッツは、わたしの中では昭和三十年代(1955年代)の歌手というイメージがあります。
岩崎姉妹始め、この日のゲストのみなさんは、声の張りと伸びがありとても感心しました。心地よい歌唱が続きました。歌を聴きながら、歌と共に、同じ時代を生きてきたという共感と郷愁が湧きました。岩崎宏美さんの、『思秋期(ししゅうき)』という歌を聴きたかったのですが、あいにく今回の歌唱はありませんでした。残念。
徹子さんとおふたりの対談では、なにせ、徹子さんの話術が巧み(たくみ。うまい)でさすがでした。頭で計算されてお話をされているのではなく、天性のものなのでしょう。徹子さんは、話題のネタをじっくり温めて、時間をかけて、前振りを続けて気分を溜めて(ためて)、ここぞという時に、話を転換させたり、ポンと盛り上げて、ひっくりかえして、オチをつくって(話の締め)大爆笑を誘います。すごいなーー
ふつうなら話題にしにくいのですが、何千人もいるお客さんの前で、宏美さんは2回離婚した。良美さんは1回離婚した。わたしは1回も結婚しなかったと話を出して、『まあ、いいじゃないの』で締めます。徹子さんだからできる技(わざ)です。
『南こうせつさん』
マイクを通してですが、生歌(なまうた)で、『神田川』を聴けて良かった。銭湯に通う歌です。貧乏暮らしです。半世紀ぐらい昔は、自宅にフロがある家は少なかった。銭湯や会社の共同風呂でした。わたしも銭湯通いを長いことしました。働き始めたときも、職場の独身寮から銭湯へ行っていました。そういう時代でした。独身寮は6畳一間(ろくじょうひとま)でした。寮に食堂はありました。朝食と夕食は事前に頼めば出ました。
歌曲、『妹よ』も良かった。妹の結婚式に当たって、兄が妹のことを大事に思う歌です。何か事情があって、兄が親代わりのようなものなのでしょう。妹のことを心配する気持ちに、兄の愛情がしみじみと胸に広がります。
ほかに歌われた歌も含めて、歌詞がきれいです。メロディーは、同じメロディーが繰り返されるのですが、心地よくて、いつまでも、いつまでも聴いていたい。
ステージ前の席は、高齢の方たちが多いらしく、そんな話を南こうせつさんがされていました。
昔話もはずんで、わたしは話の内容から、以前見学したことがある、『NHK放送博物館の展示』を思い出しました。虎の門ヒルズの駅あたりから歩いて見学に行きました。年配の人たちにとっては、思い出多い展示です。お若い頃の黒柳徹子さんが写っている写真も展示してありました。
南こうせつさんは、今年の紅白歌合戦では、自分が最年長の出場者(75歳)になるのだけれど、北島三郎さんのような華やかさは自分にはないとか、自分の葬儀では、自分がつくった寂しげな曲で、棺桶のお見送りをされるのであろうとか、そんな話をユーモアたっぷりにお話しされていました。おもしろかった。
『美川憲一さんとコロッケさん』
コロッケさんは、もう何十年も前になりますが、三重県にある長島温泉のステージを観たことがあります。なんというか、ものまねはおもしろかったのですが、観ていて、やっぱりニセモノはニセモノなのだなと少しがっかりしました。歌で人の心や気持ちを感動・感激させるという極み(きわみ。頂点)はないのです。
その後、ものまねのやり方を転換されて、似てはいないけれど、似ているような雰囲気の世界をつくりあげられました。物まねタレントではなく、アーチスト(芸術家)になられました。
コロッケさんの、『ロボット五木ひろしさん』を、じかに見ることができて良かった。
それから、コロッケさんが岩崎宏美さんの歌物まねを始めたときに、本物の岩崎宏美さんが舞台横から出てきて、わたしの顔はそんな顔じゃありません!みたいにプンプンで文句を言われたシーンがおもしろおかしくて楽しかった。
美川憲一さん(みかわ・けんいちさん)は、年齢のせいか、途中で、(たぶん)新曲の作詞だったか、作曲だったかをしてくださった人のお名前が口から出てこなくなり(ど忘れ)、だいぶ、言葉が詰まった時間が続きました。しかたがありません。だれでも歳をとるのです。歳をとると、顔はわかるけれど、思い出せない人の名前やお店の名称などの固有名詞が増えます。だれでもそうなるのです。
徹子さんを含めた3人で、コロッケさんが太った話が続きました。コロッケさんは遠目から見ても、かなり太っておられます。100キロはないそうですが、ほんとかなあ。100キロ以上あるように見えるお体です。
コロッケさんがやった武田鉄矢さんの物まねがおもしろかった。
ほんの少し、5センチぐらいの段差につまずく物まねで、つまずいたときには、武田鉄矢さんは、怒っている最中(さいちゅう)という設定なのです。武田鉄矢さんが、何度もこけるまねをしていたコロッケさんでした。
*ゲストとのやりとりをしていて、ゲストの交代時に、つぼいさんというアナウンサーさんが、タイムキーパー役(時間の管理)として、ヴァイオリンを弾いて、『ゲストが交代のお時間ですよーー』を教えてくださるのですが、ヴァイオリン演奏がとてもお上手で驚かされました。たいしたものです。なにかしら、楽器演奏の下地があられるのではないかと思いました。
『平原綾香さん』
本職は、サックス奏者という気持ちでいますということでした。師匠は、亡くなったお父さんです。親子の絆(きずな)が強いと感じました。まじめな方でした。『(人生の困難を)メロディーに助けられる』というようなご発言があった記憶です。
ご自身は、ミュージカルに出演している。声楽は習ったことはない。独学で歌っている。歌う時の息づかいは、サックスを吹く時の、息の吹込みを利用しているということで、かなり細かく、息の吐き方・声を出すやりかたを教えていただきました。まじめな人だなあと強く感じました。
マイクを通してですが、生歌(なまうた)を聴けて良かった。歌曲、『Jupiter(ジュピター 木星)』の歌い出しの低音では、鳥肌が立つほどの感情表現が伝わってきました。『生きるんだーー』という気持ちをこめての歌い出しなのでしょう。『エブリディ アイ リッスン トゥマイハート ひとりじゃない……』です。
お話をされるときの声と歌う時の声がまるっきり違っていて(落差がある。しゃべるときは、かわいらしい高い声をされていました)驚きました。
『松平健さん』
安定感があります。わかりやすい。17歳のときに、愛知県の豊橋市から俳優になることを夢見て上京して、勝新太郎さんほかの先輩たちにお世話になって、若い頃から、侍(さむいらい)将軍ドラマ『暴れん坊将軍』の主役(江戸幕府第八代将軍徳川吉宗)をやらせてもらって、とても長い間続いていると、徹子さんとお話をされていました。
ちょんまげ姿、お着物姿のゲストで楽しい。ラストは、マツケンサンバの総踊りで盛り上がりました。最後に、パーンと大きな音がして、金色のテープが天井あたりから大量に客席に落ちてきて、華やかに盛り上がりました。実物のマツケンサンバを観るのは今年二回目で、7月に東京日本橋にある明治座で観たときに買ったサンバ棒を持ってくれば良かったと後悔しました。
コンサート全体をとおしてですが、『継続』がキーワード、そして、テーマになっていました。
みなさん、長いこと歌手生活、芸能生活を続けておられるのです。そして、番組も来年で50周年なのです。
『継続』は、『信用』につながります。
わたしは若い頃先輩から、『仕事は自分から辞めてはいけない。相手が辞めてくれと言ったら退職を考える。だけど、それでも辞めてはいけない。「給料が安い」は仕事を辞める理由にはならない。仕事とはそういうものだ。仕事があるだけでありがたいと思いなさい』と教わりました。また、『銀行は、1回来て100万円預ける客よりも、毎週1000円ずつでも、1年間続けて預金してくれる人間を信用する』とも教わりました。
人間としての信用を築くためには、同じことをずーーっと続けることです。
今回出演されている方々を観て考えたことです。みなさんそれぞれ長期間働いてきた実績をもっておられる方ばかりでした。
『(仕事について)これしかできないからこれを続けている』ということはあります。ゲストである芸能人の皆さんが、事務仕事や営業回り、製造業や運転手などの労務作業をできるとは思えません。
繰り返しになりますが、自分は、これしかできないからこれを仕事にしているのですということはあります。そばで見ていて、あのようなことをよくやれるなと思われることでも、本人にとっては、どうってことなくやれることを仕事にしているのです。仕事は、才能と努力、そして人間関係です。
(付け足しとして)
ものすごい数の観客が一つのところに集まっているので、それなりにたいへんなこともありました。
座席はクッション性があまりなく、長時間座っていると、お尻が痛くなるので、ときおり腰を浮かして痛みを和らげました(やわらげました)。座席の前後の長さが、男性だと足りないので、長時間は座りにくいということはありましたが、ステージの演奏や対談のようすに気持ちが入りこむので、苦痛にまでは至りませんでした。
途中休憩25分間のときには、男子も女子もトイレ待ちの行列がものすごく長くて、みなさんご苦労されていました。男性はそこそこ行列が動く流れがありましたが、女性の列は最後尾がどこにあるのかもわからないような状態だったと思います。後半の始まりに間に合わなかったり、最初から行くのをあきらめたりした人も多かったと思います。
日本武道館という古い建物の構造上、しかたがないのだろうなあと思いました。
なにせ年配の人が多かった。だから、安全だったような気がします。終演後は、地下鉄『九段下』の駅まで、みなさん、土俵上のおすもうさんがすり足をするように、ゆっくりと前へ進んでいかれました。若い頃に、おおみそかに、友だちとふたりで名古屋の熱田神宮に行って、午前0時ごろ、大群衆の行列に並んでなかなか初もうでの列が進まなかったことを思い出しましたが、今回は、そこまでの苦痛はありませんでした。
もうヨロヨロの高齢者の方も何人かお見かけしました。奥さんがだんなさんの手をとったり、逆にだんなさんが奥さんの体を支えたり、なかには、お孫さんがおじいさん・おばあさんの手を引いたり、大群衆でしたが、それぞれ助け合ってゆっくり前へ歩いておられました。それはそれでいい思い出になりました。みなさん、ご苦労を重ねて、人生の終盤までたどりつかれたのです。人生は楽しいこと半分、苦労半分、合わせてプラマイナスゼロでよしです。
この夜は、地下鉄『永田町駅』の改札内にあるお店でラーメンを食べました。
午後10時ぐらいだったのですが、日本の政治の中心地、『永田町』で働く優秀な男女である二十代の若い人たちが、食事をしながら元気よくおしゃべりを楽しんでおられました。みなさん、仕事や婚活にいっしょうけんめいなようすで感心しました。
東京は、夜10時ごろでも人がいっぱいいてびっくりします。
(以下の文章は、2024年9月1日・日曜日の朝に書きました)
昨日のことです。
11月下旬に愛知県東海市のホールである舞台、『峠の我が家(仲野太賀、二階堂ふみ、柄本時生、岩松了ほか)』を観ようと、午前10時からの申し込みにネットでチャレンジしましたが、瞬間的につながらなくなり、3分後に全席売り切れの表示が出てしまいました。朝ドラ、『虎に翼』に出ていた仲野大賀さんを観てみたかった。
しかたがない。では、第二候補だと、次は、タイトルにある徹子さんのコンサートを申し込みました。ネットで先行販売と書いてあるページを見つけて、ネット申し込み手続きがにがてなわたしが四苦八苦しながら会員登録をして申し込んで、チケットを手に入れました。さあ、これでよし! 楽しみです。ゲストは、岩崎宏美・良美姉妹、平原綾香さん、松平健さん、コロッケさん、美川憲一さん、南こうせつさんです。
松平健さんは今年7月に東京明治座で舞台劇とマツケンサンバの歌謡ショーを観ました。一年に二回も本物のマツケンサンバを観ることになるとは、今年のお正月には想像もしていませんでした。日本武道館の中に入るのも初めてです。
老後を楽しむぞーーー 体が動くうちに、やりたいことをやっておくのだーーー
死ぬときに、ああすれば良かった、こうしておけば良かったと、なるべく後悔しない人生を送るための終活です。
(その後、『峠の我が家』のほうは、追加公演が設定されたようですが(昼公演が終わったあと、夜公演が追加された。その回は、先着順ではなく、事前申し込みの抽選になったようです)、わたしは、徹子の部屋コンサートのチケットがとれていたので、『峠の我が家』はあきらめました)
もう40年近く前になりますが、自分が30代のときに、黒柳徹子さんの講演を講演会で聴いたことがあります。
90分間、機関銃のようにおしゃべりをされて圧倒された記憶があります。テーマに沿いながら、ユニセフの親善大使をしていることを中心にしてお話をされていました。
長い年月(としつき)が流れて、またご本人を見ることができて、ちょっとした感無量的な気分があります。かんむりょう:感慨無量。人生を、よくここまでやってくることができたというしみじみとする深い気持ち。黒柳さんは本当に長生きでお元気な方です。人類の中で選ばれた人なのでしょう。
(観に行ってきました。以下は、2024年12月2日月曜日に書きました。コンサートは、11月29日金曜日に東京の日本武道館でありました)
会場の中の写真は、開幕の15分ぐらい前のようすです。わたしたち夫婦の席はうしろのほうだったのですが、舞台に向かって正面だったので見やすかったです。
おおぜいの人たちが観覧に訪れておられました。
年齢層は高く、七十代の人たちが多かった雰囲気でした。女性が多かったですが、男性もそこそこおられました。ご友人たちやご夫婦など、みなさん、なごやかな人たちです。
午後5時30分に始まって、午後7時半ぐらいまで演奏と対談、休憩を25分ぐらいとって、再び演奏と対談、最後は出演されたみなさん総出で、『マツケンサンバ』を歌って踊って、午後9時過ぎに幕を閉じました。とても良かった。観に行って良かったと、終わったときに思いました。冥土(めいど。天国)へ旅立つ前のいい思い出ができました。
思い出すままに、感想を並べてみます。
始まって、いきなりハプニングが起きました。(予想外の出来事)
広い舞台の上に、バンドメンバー用のいくぶんこぶりのステージ(台)がつくってあったのですが、向かって左手から岩崎宏美さんが演奏に合わせて出てきて、ワンテンポ間があって、右手から岩崎良美さんがマイクをもって出ようとしたときに、(おそらくまだ一歩も歩いていなかった。ふわーっと広がった白くて長いスカートが、バンドメンバー用のステージにひっかかったのではないか)ものすごい勢いで、前方に良美さんの体が飛び(スーパーマンのように手を伸ばして、空中を飛びました)大きな音をたてて、前のめりに床に落ちられたのです。お顔は床にはあたらなかったようですが、相当痛かったのではないかと思います。出演者始め、何千人ものお客さんが、ぼーぜんとしました。
次の瞬間に、岩崎良美さんがしゅっと立ち上がって、まるで、何もなかったかのように、歌い出しを始められました。(曲はすでに始まっていたと思います。歌詞は、途中からの歌い出しだったと思います)
まあ、びっくりしました。
このことは、なかったことにして、そのあと進行するのかと思ったら、黒柳徹子さんがおおいに受けて、笑いが止まらないような状態で、最後の最後まで、岩崎良美さんが、コンサートが始まっていきなり転倒したという話が続きました。ステージにいて、右手横で椅子に座って舞台を観ていた徹子さんのお話だと、岩崎良美さんの全身が、2mぐらい、空中を飛んで行ったそうです。いやー、たしかに、すごかった。
次に出て来たゲストの南こうせつさんが、ころばないようにおおまたでゆっくり足を運んだり、その後出てきたコロッケさんも、良美さんがころんだことをネタにして笑いを誘ったりしていました。
あの転倒は、なかなか良かった。お笑いの話題づくりにつながりました。
『岩崎宏美・良美姉妹』
最初に、ザ・ピーナッツの歌を歌われました。なつかしかった。わたしがまだ小学校低学年のころ、白黒テレビの前におちゃんこして(正座して)、祖父母と歌番組を観ていたことを思い出しました。ザ・ピーナッツは、わたしの中では昭和三十年代(1955年代)の歌手というイメージがあります。
岩崎姉妹始め、この日のゲストのみなさんは、声の張りと伸びがありとても感心しました。心地よい歌唱が続きました。歌を聴きながら、歌と共に、同じ時代を生きてきたという共感と郷愁が湧きました。岩崎宏美さんの、『思秋期(ししゅうき)』という歌を聴きたかったのですが、あいにく今回の歌唱はありませんでした。残念。
徹子さんとおふたりの対談では、なにせ、徹子さんの話術が巧み(たくみ。うまい)でさすがでした。頭で計算されてお話をされているのではなく、天性のものなのでしょう。徹子さんは、話題のネタをじっくり温めて、時間をかけて、前振りを続けて気分を溜めて(ためて)、ここぞという時に、話を転換させたり、ポンと盛り上げて、ひっくりかえして、オチをつくって(話の締め)大爆笑を誘います。すごいなーー
ふつうなら話題にしにくいのですが、何千人もいるお客さんの前で、宏美さんは2回離婚した。良美さんは1回離婚した。わたしは1回も結婚しなかったと話を出して、『まあ、いいじゃないの』で締めます。徹子さんだからできる技(わざ)です。
『南こうせつさん』
マイクを通してですが、生歌(なまうた)で、『神田川』を聴けて良かった。銭湯に通う歌です。貧乏暮らしです。半世紀ぐらい昔は、自宅にフロがある家は少なかった。銭湯や会社の共同風呂でした。わたしも銭湯通いを長いことしました。働き始めたときも、職場の独身寮から銭湯へ行っていました。そういう時代でした。独身寮は6畳一間(ろくじょうひとま)でした。寮に食堂はありました。朝食と夕食は事前に頼めば出ました。
歌曲、『妹よ』も良かった。妹の結婚式に当たって、兄が妹のことを大事に思う歌です。何か事情があって、兄が親代わりのようなものなのでしょう。妹のことを心配する気持ちに、兄の愛情がしみじみと胸に広がります。
ほかに歌われた歌も含めて、歌詞がきれいです。メロディーは、同じメロディーが繰り返されるのですが、心地よくて、いつまでも、いつまでも聴いていたい。
ステージ前の席は、高齢の方たちが多いらしく、そんな話を南こうせつさんがされていました。
昔話もはずんで、わたしは話の内容から、以前見学したことがある、『NHK放送博物館の展示』を思い出しました。虎の門ヒルズの駅あたりから歩いて見学に行きました。年配の人たちにとっては、思い出多い展示です。お若い頃の黒柳徹子さんが写っている写真も展示してありました。
南こうせつさんは、今年の紅白歌合戦では、自分が最年長の出場者(75歳)になるのだけれど、北島三郎さんのような華やかさは自分にはないとか、自分の葬儀では、自分がつくった寂しげな曲で、棺桶のお見送りをされるのであろうとか、そんな話をユーモアたっぷりにお話しされていました。おもしろかった。
『美川憲一さんとコロッケさん』
コロッケさんは、もう何十年も前になりますが、三重県にある長島温泉のステージを観たことがあります。なんというか、ものまねはおもしろかったのですが、観ていて、やっぱりニセモノはニセモノなのだなと少しがっかりしました。歌で人の心や気持ちを感動・感激させるという極み(きわみ。頂点)はないのです。
その後、ものまねのやり方を転換されて、似てはいないけれど、似ているような雰囲気の世界をつくりあげられました。物まねタレントではなく、アーチスト(芸術家)になられました。
コロッケさんの、『ロボット五木ひろしさん』を、じかに見ることができて良かった。
それから、コロッケさんが岩崎宏美さんの歌物まねを始めたときに、本物の岩崎宏美さんが舞台横から出てきて、わたしの顔はそんな顔じゃありません!みたいにプンプンで文句を言われたシーンがおもしろおかしくて楽しかった。
美川憲一さん(みかわ・けんいちさん)は、年齢のせいか、途中で、(たぶん)新曲の作詞だったか、作曲だったかをしてくださった人のお名前が口から出てこなくなり(ど忘れ)、だいぶ、言葉が詰まった時間が続きました。しかたがありません。だれでも歳をとるのです。歳をとると、顔はわかるけれど、思い出せない人の名前やお店の名称などの固有名詞が増えます。だれでもそうなるのです。
徹子さんを含めた3人で、コロッケさんが太った話が続きました。コロッケさんは遠目から見ても、かなり太っておられます。100キロはないそうですが、ほんとかなあ。100キロ以上あるように見えるお体です。
コロッケさんがやった武田鉄矢さんの物まねがおもしろかった。
ほんの少し、5センチぐらいの段差につまずく物まねで、つまずいたときには、武田鉄矢さんは、怒っている最中(さいちゅう)という設定なのです。武田鉄矢さんが、何度もこけるまねをしていたコロッケさんでした。
*ゲストとのやりとりをしていて、ゲストの交代時に、つぼいさんというアナウンサーさんが、タイムキーパー役(時間の管理)として、ヴァイオリンを弾いて、『ゲストが交代のお時間ですよーー』を教えてくださるのですが、ヴァイオリン演奏がとてもお上手で驚かされました。たいしたものです。なにかしら、楽器演奏の下地があられるのではないかと思いました。
『平原綾香さん』
本職は、サックス奏者という気持ちでいますということでした。師匠は、亡くなったお父さんです。親子の絆(きずな)が強いと感じました。まじめな方でした。『(人生の困難を)メロディーに助けられる』というようなご発言があった記憶です。
ご自身は、ミュージカルに出演している。声楽は習ったことはない。独学で歌っている。歌う時の息づかいは、サックスを吹く時の、息の吹込みを利用しているということで、かなり細かく、息の吐き方・声を出すやりかたを教えていただきました。まじめな人だなあと強く感じました。
マイクを通してですが、生歌(なまうた)を聴けて良かった。歌曲、『Jupiter(ジュピター 木星)』の歌い出しの低音では、鳥肌が立つほどの感情表現が伝わってきました。『生きるんだーー』という気持ちをこめての歌い出しなのでしょう。『エブリディ アイ リッスン トゥマイハート ひとりじゃない……』です。
お話をされるときの声と歌う時の声がまるっきり違っていて(落差がある。しゃべるときは、かわいらしい高い声をされていました)驚きました。
『松平健さん』
安定感があります。わかりやすい。17歳のときに、愛知県の豊橋市から俳優になることを夢見て上京して、勝新太郎さんほかの先輩たちにお世話になって、若い頃から、侍(さむいらい)将軍ドラマ『暴れん坊将軍』の主役(江戸幕府第八代将軍徳川吉宗)をやらせてもらって、とても長い間続いていると、徹子さんとお話をされていました。
ちょんまげ姿、お着物姿のゲストで楽しい。ラストは、マツケンサンバの総踊りで盛り上がりました。最後に、パーンと大きな音がして、金色のテープが天井あたりから大量に客席に落ちてきて、華やかに盛り上がりました。実物のマツケンサンバを観るのは今年二回目で、7月に東京日本橋にある明治座で観たときに買ったサンバ棒を持ってくれば良かったと後悔しました。
コンサート全体をとおしてですが、『継続』がキーワード、そして、テーマになっていました。
みなさん、長いこと歌手生活、芸能生活を続けておられるのです。そして、番組も来年で50周年なのです。
『継続』は、『信用』につながります。
わたしは若い頃先輩から、『仕事は自分から辞めてはいけない。相手が辞めてくれと言ったら退職を考える。だけど、それでも辞めてはいけない。「給料が安い」は仕事を辞める理由にはならない。仕事とはそういうものだ。仕事があるだけでありがたいと思いなさい』と教わりました。また、『銀行は、1回来て100万円預ける客よりも、毎週1000円ずつでも、1年間続けて預金してくれる人間を信用する』とも教わりました。
人間としての信用を築くためには、同じことをずーーっと続けることです。
今回出演されている方々を観て考えたことです。みなさんそれぞれ長期間働いてきた実績をもっておられる方ばかりでした。
『(仕事について)これしかできないからこれを続けている』ということはあります。ゲストである芸能人の皆さんが、事務仕事や営業回り、製造業や運転手などの労務作業をできるとは思えません。
繰り返しになりますが、自分は、これしかできないからこれを仕事にしているのですということはあります。そばで見ていて、あのようなことをよくやれるなと思われることでも、本人にとっては、どうってことなくやれることを仕事にしているのです。仕事は、才能と努力、そして人間関係です。
(付け足しとして)
ものすごい数の観客が一つのところに集まっているので、それなりにたいへんなこともありました。
座席はクッション性があまりなく、長時間座っていると、お尻が痛くなるので、ときおり腰を浮かして痛みを和らげました(やわらげました)。座席の前後の長さが、男性だと足りないので、長時間は座りにくいということはありましたが、ステージの演奏や対談のようすに気持ちが入りこむので、苦痛にまでは至りませんでした。
途中休憩25分間のときには、男子も女子もトイレ待ちの行列がものすごく長くて、みなさんご苦労されていました。男性はそこそこ行列が動く流れがありましたが、女性の列は最後尾がどこにあるのかもわからないような状態だったと思います。後半の始まりに間に合わなかったり、最初から行くのをあきらめたりした人も多かったと思います。
日本武道館という古い建物の構造上、しかたがないのだろうなあと思いました。
なにせ年配の人が多かった。だから、安全だったような気がします。終演後は、地下鉄『九段下』の駅まで、みなさん、土俵上のおすもうさんがすり足をするように、ゆっくりと前へ進んでいかれました。若い頃に、おおみそかに、友だちとふたりで名古屋の熱田神宮に行って、午前0時ごろ、大群衆の行列に並んでなかなか初もうでの列が進まなかったことを思い出しましたが、今回は、そこまでの苦痛はありませんでした。
もうヨロヨロの高齢者の方も何人かお見かけしました。奥さんがだんなさんの手をとったり、逆にだんなさんが奥さんの体を支えたり、なかには、お孫さんがおじいさん・おばあさんの手を引いたり、大群衆でしたが、それぞれ助け合ってゆっくり前へ歩いておられました。それはそれでいい思い出になりました。みなさん、ご苦労を重ねて、人生の終盤までたどりつかれたのです。人生は楽しいこと半分、苦労半分、合わせてプラマイナスゼロでよしです。
この夜は、地下鉄『永田町駅』の改札内にあるお店でラーメンを食べました。
午後10時ぐらいだったのですが、日本の政治の中心地、『永田町』で働く優秀な男女である二十代の若い人たちが、食事をしながら元気よくおしゃべりを楽しんでおられました。みなさん、仕事や婚活にいっしょうけんめいなようすで感心しました。
東京は、夜10時ごろでも人がいっぱいいてびっくりします。
2024年09月20日
ラヂオの時間 邦画 1997年
ラヂオの時間 邦画 1997年(平成9年) 1時間43分 動画配信サービス
三谷幸喜監督 鈴木京香、唐沢寿明、西村雅彦、細川俊之、藤村俊二、井上順、布施明
ラジオスタジオの中で、朗読劇の生放送をしているようすから映画は始まりました。
余計な声を出してはいけないので、スタッフは、身振り手振りで合図を送り、意思表示をします。まるで、手話をしているように見えました。手話の世界です。スタジオでは、『(俳優さん(声優さん))の声』と、『音』だけで、作品を創造します。ラジオドラマは、音で創造する作品です。音で、感動を生むのです。(このタイトルで文章をつくった翌週に、たまたま東京虎の門ヒルズ近くにあるNHK放送博物館を訪れたのですが、展示内容として、『ハンドシグナル』とか、『人による音づくり』があって、音づくりの道具も展示してあって、この映画の内容を理解するのに役に立ちました)
テレビドラマと比較して、ラジオドラマのいいところ:お金がかからない。声で、『ここは宇宙である』と言うと、そこは『宇宙』になる。
ラジオドラマ放送番組の舞台裏を紹介する映画でした。
最初は、う~むでしたが、30分を経過するあたりからおもしろくなり、その後もなかなか良かった。
シナリオコンクールに応募して選ばれた素人(しろうと)女性の脚本作品です。男女の恋愛もので、あとで明らかになりますが、ご自身の体験が下地になっています。作品の主題に、『愛』があるのです。男女の『愛』であり、『夫婦愛』でもあります。やはり、作品には、『人間愛』は欠かせません。
脚本化にあたって、原作がボロボロになっていくのです。
出演者やラジオ局の都合で、原作の内容がどんどん変えられていきます。ときに、反発する原作者女性です。(これは…… 昨年末から今年にかけて、テレビ局のドラマ放送において、なにかしら事件のようなものがあったような……)
原作の改変は、作者の人格否定につながります。作者が狂暴な人なら暴れるでしょう。(あばれるでしょう)。作者にとっての作品は、自分のこどものようなものなのです。
(これもまた、縁があって、MHK放送博物館を見学した前日に、渋谷にあるPARCO劇場で、江口のりこさんたちが出演する『ワタシタチはモノガタリ』という演劇を鑑賞したのですが、江口のりこさん作の原作小説が映画化されるにあたって、原作どおりに物語が進行しないということでの争いが素材でした)
話ははずれますが、う~む。これもまたタバコ映画か。喫煙シーンがたくさんです。
わたしが好きなコウメ太夫みたいな人が、壁のポスターに出ています。『弁天ガール』だそうです。『極楽浄土のおもしろさーー』とキャッチコピーが見えます。
観ていると、かなりメチャクチャで、もう原作はいらない。勝手にやってくれーーーというような状況が起きます。
これは、三谷幸喜監督による何かの皮肉だろうか。シナリオライターからの放送局に対する皮肉です。ひにく:いじわる。しかえし。
原作の崩し方があまりにも大きくて、話が別物になりそうです。舞台が、日本→外国。人物名が、日本名→外国人名ほか。
ヒロイン女優のワガママがあります。
製作者側の責任者たちが振り回されます。
だけど、サラリーマンスタッフたちは、お金のためにがんばるのです。給料をもらって生活していかねばなりません。
なんというか、『(自分にとって一番大事なことは、いい仕事をすることではなく)毎月決まった日に決まった額の給料をもらうことだ』だけの気持ちになると、いい仕事(作品)はつくれなくなります。この仕事を好きだからやっている。いい仕事を仕上げたいという強い意思がないと、仕事が続かないということはあります。
『混乱』から、『調和』が始まります。演技の見せ所です。
効果音に関するシーンが抜群に良かった。
藤村俊二さんの老いた元音響職人の存在がとても良かった。
藤村俊二さんの今の世の中に対する批判的な語りが胸にしみます。同感です。
『(効果音づくりについて、自分たちが若い頃は)だれも教えてくれなかった。自分で考えた。』
原作者である主婦女性の強い意思表示があります。強固な意思です。原作を変えないでほしい。
どんどん内容を変えられていくことについて、『あたしの本ですから……(男と女は必ず最後には結ばれなければならない(スタッフたちは、男を宇宙の果てに消えて行ったことにしたい)』
『(コンクールで選ばれたということから)ワタシに次はないんです! みなさんの都合で、ワタシの本をメチャクチャにしておいて、よくそんなことが言えますねぇ』(観ていて、スタッフは、原作者に対してひどいことをするなあと思うのです)
井上順さんの演技が光っていました。
まあ、芸能界慣れされています。
パワハラシーンがたくさんです。
思い起こせば、そういう時代でした。みんな耐えていた。
(最近のニュースでは、今もひきずっている人がいますが……(某県知事))
話づくりですから、何でもできる。
想像力です。
まあ、メチャクチャですが、楽しい。
ち密な稽古(けいこ)から生まれた名演技の連続です。
『おかえりなさい』
奇跡が起きました。
花火の音づくりシーンがおもしろい。
まあ、仕事人間のみなさんのお話ですな。
『あんまり、機械に頼らないほうがいいよ』(人間は、AIロボットじゃないのです)
(今夜のラジオドラマは)良かったよと喜んでくれる人がいるからがんばれるということはあります。
にぎやかで楽しい映画でした。
(別の話として、わたしがファンの東野・岡村の『旅猿』ナレーションをしいている女性のこと)
いつも見ている番組、『旅猿』のナレーションをされている奥貫薫さんのお姿を始めて観ました。ずいぶん昔の映画なのであれですが、かわいらしい方でした。
先日NHK放送博物館で観た昔、音づくりで使用していた道具などの展示の写真をここに落としておきます。
三谷幸喜監督 鈴木京香、唐沢寿明、西村雅彦、細川俊之、藤村俊二、井上順、布施明
ラジオスタジオの中で、朗読劇の生放送をしているようすから映画は始まりました。
余計な声を出してはいけないので、スタッフは、身振り手振りで合図を送り、意思表示をします。まるで、手話をしているように見えました。手話の世界です。スタジオでは、『(俳優さん(声優さん))の声』と、『音』だけで、作品を創造します。ラジオドラマは、音で創造する作品です。音で、感動を生むのです。(このタイトルで文章をつくった翌週に、たまたま東京虎の門ヒルズ近くにあるNHK放送博物館を訪れたのですが、展示内容として、『ハンドシグナル』とか、『人による音づくり』があって、音づくりの道具も展示してあって、この映画の内容を理解するのに役に立ちました)
テレビドラマと比較して、ラジオドラマのいいところ:お金がかからない。声で、『ここは宇宙である』と言うと、そこは『宇宙』になる。
ラジオドラマ放送番組の舞台裏を紹介する映画でした。
最初は、う~むでしたが、30分を経過するあたりからおもしろくなり、その後もなかなか良かった。
シナリオコンクールに応募して選ばれた素人(しろうと)女性の脚本作品です。男女の恋愛もので、あとで明らかになりますが、ご自身の体験が下地になっています。作品の主題に、『愛』があるのです。男女の『愛』であり、『夫婦愛』でもあります。やはり、作品には、『人間愛』は欠かせません。
脚本化にあたって、原作がボロボロになっていくのです。
出演者やラジオ局の都合で、原作の内容がどんどん変えられていきます。ときに、反発する原作者女性です。(これは…… 昨年末から今年にかけて、テレビ局のドラマ放送において、なにかしら事件のようなものがあったような……)
原作の改変は、作者の人格否定につながります。作者が狂暴な人なら暴れるでしょう。(あばれるでしょう)。作者にとっての作品は、自分のこどものようなものなのです。
(これもまた、縁があって、MHK放送博物館を見学した前日に、渋谷にあるPARCO劇場で、江口のりこさんたちが出演する『ワタシタチはモノガタリ』という演劇を鑑賞したのですが、江口のりこさん作の原作小説が映画化されるにあたって、原作どおりに物語が進行しないということでの争いが素材でした)
話ははずれますが、う~む。これもまたタバコ映画か。喫煙シーンがたくさんです。
わたしが好きなコウメ太夫みたいな人が、壁のポスターに出ています。『弁天ガール』だそうです。『極楽浄土のおもしろさーー』とキャッチコピーが見えます。
観ていると、かなりメチャクチャで、もう原作はいらない。勝手にやってくれーーーというような状況が起きます。
これは、三谷幸喜監督による何かの皮肉だろうか。シナリオライターからの放送局に対する皮肉です。ひにく:いじわる。しかえし。
原作の崩し方があまりにも大きくて、話が別物になりそうです。舞台が、日本→外国。人物名が、日本名→外国人名ほか。
ヒロイン女優のワガママがあります。
製作者側の責任者たちが振り回されます。
だけど、サラリーマンスタッフたちは、お金のためにがんばるのです。給料をもらって生活していかねばなりません。
なんというか、『(自分にとって一番大事なことは、いい仕事をすることではなく)毎月決まった日に決まった額の給料をもらうことだ』だけの気持ちになると、いい仕事(作品)はつくれなくなります。この仕事を好きだからやっている。いい仕事を仕上げたいという強い意思がないと、仕事が続かないということはあります。
『混乱』から、『調和』が始まります。演技の見せ所です。
効果音に関するシーンが抜群に良かった。
藤村俊二さんの老いた元音響職人の存在がとても良かった。
藤村俊二さんの今の世の中に対する批判的な語りが胸にしみます。同感です。
『(効果音づくりについて、自分たちが若い頃は)だれも教えてくれなかった。自分で考えた。』
原作者である主婦女性の強い意思表示があります。強固な意思です。原作を変えないでほしい。
どんどん内容を変えられていくことについて、『あたしの本ですから……(男と女は必ず最後には結ばれなければならない(スタッフたちは、男を宇宙の果てに消えて行ったことにしたい)』
『(コンクールで選ばれたということから)ワタシに次はないんです! みなさんの都合で、ワタシの本をメチャクチャにしておいて、よくそんなことが言えますねぇ』(観ていて、スタッフは、原作者に対してひどいことをするなあと思うのです)
井上順さんの演技が光っていました。
まあ、芸能界慣れされています。
パワハラシーンがたくさんです。
思い起こせば、そういう時代でした。みんな耐えていた。
(最近のニュースでは、今もひきずっている人がいますが……(某県知事))
話づくりですから、何でもできる。
想像力です。
まあ、メチャクチャですが、楽しい。
ち密な稽古(けいこ)から生まれた名演技の連続です。
『おかえりなさい』
奇跡が起きました。
花火の音づくりシーンがおもしろい。
まあ、仕事人間のみなさんのお話ですな。
『あんまり、機械に頼らないほうがいいよ』(人間は、AIロボットじゃないのです)
(今夜のラジオドラマは)良かったよと喜んでくれる人がいるからがんばれるということはあります。
にぎやかで楽しい映画でした。
(別の話として、わたしがファンの東野・岡村の『旅猿』ナレーションをしいている女性のこと)
いつも見ている番組、『旅猿』のナレーションをされている奥貫薫さんのお姿を始めて観ました。ずいぶん昔の映画なのであれですが、かわいらしい方でした。
先日NHK放送博物館で観た昔、音づくりで使用していた道具などの展示の写真をここに落としておきます。
2024年09月19日
見学 NHK放送博物館 東京都港区愛宕(あたご)
見学 NHK放送博物館 東京都港区愛宕(あたご)
東京虎ノ門にある気象庁の見学を終えたあと、徒歩で10分ぐらい行ったところにNHK放送博物館がありました。
途中、とても高い位置まで上がるエレベーターに乗りました。1階で乗って、2階で降りたと思うのですが、2階がかなり高い位置にありました。エレベーターの壁は透明で外が見えて、見晴らしがいいのですがちょっと怖かった(こわかった)。
エレベーターの外を眺めると、建物を壊したあとの更地に(さらちに)、新しい建築物を建てているようで、東京では、老朽化の進んだ建物が建て替えられていく時期を迎えているのだということがわかりました。
東京は、限られた土地を、地下深く、そして、空高く、高度利用することで、複数の空間と世界をつくっている高密度の都市型タウンであることがわかります。
NHK放送博物館の展示は、なかなか力のこもったいい展示でした。
とくに、昭和20年代から30年代に生まれた人たちにとっては、自分たちがこどものころのことが、くっきりと思い出されて、深いなつかしさにひたれる空間と世界でしょう。
展示物を観ていると、なにもかもがなつかしくなります。
黒柳徹子さんのお若い頃とか、路線バスの旅でがんばっている太川陽介さんが番組『レッツゴーヤング!』で、アイドルで司会者だったころの写真などがたくさん出てきました。さらに思い出したのですが、NHKで、『ステージ101』という歌番組もありました。
以下の写真は、写真撮影が可だったところの写真です。館内展示では、撮影はだめよ、のところもままありました。
次の写真は、昔の暮らしの再現場所です。わたしたちがこどものときの暮らしは、こんな感じでした。
次の写真は、連続人形劇、『ひょっこりひょうたん島』のキャラクターです。
今思うと、毎日この番組を楽しみに観ていて、なんというか、わたしにとっては、日々の心の支えのような物語でした。
左から、『(ギャングの)マシンガン・ダンディ』、『サンデー先生』、『博士(はかせ)』、『(海賊の)トラヒゲ(船長)』、『(政治家)ドン・ガバチョ』ですな。
次の写真にある子ぶたのお話、『ブーフーウー』もよく見ていました。
着ぐるみによる人形劇です。
次の写真にある、『にこにこぷん』は、わたしたち夫婦のこどもたち世代のキャラクターで、息子や娘たちが小さいころ、とてもお世話になりました。今やこどもたちも40歳近い年齢になってきました。
キャラクターは左から、『じゃじゃまる(山猫)』、『ぴっころ(ペンギン)』、『ぽろり(ネズミ)』です。右端のキャラクターは、ちょっとわたしにはわかりません。
次の写真のキャラクターも、わたしにはわかりません。
同行の妻は、わかる。知っていると言っていました。
紅白歌合戦の優勝旗が展示してありました。
ほかの展示としては、第二次世界大戦の戦争のこと、毎週日曜日お昼の番組『のど自慢』のこと、手づくりで『効果音』をつくっていたことや、朝ドラのことなどが紹介されていました。
それから、東日本大震災のときの放送局の活動を中心にしたふりかえりの解説もありました。
まあ、もりだくさんです。ラジオから始まって、テレビへと、使用された機械や機器の展示も充実していました。
あとさきになってしまいましたが、こちらのNHK放送博物館に来る前に、宿泊したホテルが渋谷にあったので、渋谷のNHK放送センターもここに来る前に立ち寄ってきました。
渋谷のNHK放送センターにある『NHKハートプラザ』というところは、現在は館内案内などはやっておらず、事務受付窓口だけですと入口に表示があったので、外からながめて写真だけ撮りました。
NHK朝ドラの『虎と翼』ももうすぐ終わってしまいます。いいドラマでした。伊藤沙莉さんはいい女優さんです。
やはり、ドラマは、最初の頃の破天荒な主人公を中心とした若い女優さんたちの活発さが観ていて楽しかった。活気がありました。
これからは、女性の時代です! もしかしたら今年、女性の総理大臣が誕生するかもしれません。アメリカ合衆国は、女性の大統領かもしれません。さてどうなりますか。楽しみですな。男社会はすぐに戦争を始めるから、女性の力で平和な地球にしてほしい。
次の写真は、渋谷のNHKホールです。門を入って右側にNHKホールがありました。写真は、帰りに撮影したので、位置が反対の 左側になっています。写真でいうと建物の右側をまっすぐ進むと門があります。
毎週火曜日に谷原章介さんが司会をしている歌謡ショーとか、年末おおみそかの紅白歌合戦は、このホールで開催されているのだとわかり、これから番組を見るときは、NHKホールを身近に感じることができそうです。
道路の向こうには、国立代々木競技場の第一体育館と第二体育館がきれいに見えました。
小学校6年生の修学旅行のときに、バスの中から見たような覚えがあります。こちらの体育館は、1964年(昭和39年)開業です。
東京虎ノ門にある気象庁の見学を終えたあと、徒歩で10分ぐらい行ったところにNHK放送博物館がありました。
途中、とても高い位置まで上がるエレベーターに乗りました。1階で乗って、2階で降りたと思うのですが、2階がかなり高い位置にありました。エレベーターの壁は透明で外が見えて、見晴らしがいいのですがちょっと怖かった(こわかった)。
エレベーターの外を眺めると、建物を壊したあとの更地に(さらちに)、新しい建築物を建てているようで、東京では、老朽化の進んだ建物が建て替えられていく時期を迎えているのだということがわかりました。
東京は、限られた土地を、地下深く、そして、空高く、高度利用することで、複数の空間と世界をつくっている高密度の都市型タウンであることがわかります。
NHK放送博物館の展示は、なかなか力のこもったいい展示でした。
とくに、昭和20年代から30年代に生まれた人たちにとっては、自分たちがこどものころのことが、くっきりと思い出されて、深いなつかしさにひたれる空間と世界でしょう。
展示物を観ていると、なにもかもがなつかしくなります。
黒柳徹子さんのお若い頃とか、路線バスの旅でがんばっている太川陽介さんが番組『レッツゴーヤング!』で、アイドルで司会者だったころの写真などがたくさん出てきました。さらに思い出したのですが、NHKで、『ステージ101』という歌番組もありました。
以下の写真は、写真撮影が可だったところの写真です。館内展示では、撮影はだめよ、のところもままありました。
次の写真は、昔の暮らしの再現場所です。わたしたちがこどものときの暮らしは、こんな感じでした。
次の写真は、連続人形劇、『ひょっこりひょうたん島』のキャラクターです。
今思うと、毎日この番組を楽しみに観ていて、なんというか、わたしにとっては、日々の心の支えのような物語でした。
左から、『(ギャングの)マシンガン・ダンディ』、『サンデー先生』、『博士(はかせ)』、『(海賊の)トラヒゲ(船長)』、『(政治家)ドン・ガバチョ』ですな。
次の写真にある子ぶたのお話、『ブーフーウー』もよく見ていました。
着ぐるみによる人形劇です。
次の写真にある、『にこにこぷん』は、わたしたち夫婦のこどもたち世代のキャラクターで、息子や娘たちが小さいころ、とてもお世話になりました。今やこどもたちも40歳近い年齢になってきました。
キャラクターは左から、『じゃじゃまる(山猫)』、『ぴっころ(ペンギン)』、『ぽろり(ネズミ)』です。右端のキャラクターは、ちょっとわたしにはわかりません。
次の写真のキャラクターも、わたしにはわかりません。
同行の妻は、わかる。知っていると言っていました。
紅白歌合戦の優勝旗が展示してありました。
ほかの展示としては、第二次世界大戦の戦争のこと、毎週日曜日お昼の番組『のど自慢』のこと、手づくりで『効果音』をつくっていたことや、朝ドラのことなどが紹介されていました。
それから、東日本大震災のときの放送局の活動を中心にしたふりかえりの解説もありました。
まあ、もりだくさんです。ラジオから始まって、テレビへと、使用された機械や機器の展示も充実していました。
あとさきになってしまいましたが、こちらのNHK放送博物館に来る前に、宿泊したホテルが渋谷にあったので、渋谷のNHK放送センターもここに来る前に立ち寄ってきました。
渋谷のNHK放送センターにある『NHKハートプラザ』というところは、現在は館内案内などはやっておらず、事務受付窓口だけですと入口に表示があったので、外からながめて写真だけ撮りました。
NHK朝ドラの『虎と翼』ももうすぐ終わってしまいます。いいドラマでした。伊藤沙莉さんはいい女優さんです。
やはり、ドラマは、最初の頃の破天荒な主人公を中心とした若い女優さんたちの活発さが観ていて楽しかった。活気がありました。
これからは、女性の時代です! もしかしたら今年、女性の総理大臣が誕生するかもしれません。アメリカ合衆国は、女性の大統領かもしれません。さてどうなりますか。楽しみですな。男社会はすぐに戦争を始めるから、女性の力で平和な地球にしてほしい。
次の写真は、渋谷のNHKホールです。門を入って右側にNHKホールがありました。写真は、帰りに撮影したので、位置が反対の 左側になっています。写真でいうと建物の右側をまっすぐ進むと門があります。
毎週火曜日に谷原章介さんが司会をしている歌謡ショーとか、年末おおみそかの紅白歌合戦は、このホールで開催されているのだとわかり、これから番組を見るときは、NHKホールを身近に感じることができそうです。
道路の向こうには、国立代々木競技場の第一体育館と第二体育館がきれいに見えました。
小学校6年生の修学旅行のときに、バスの中から見たような覚えがあります。こちらの体育館は、1964年(昭和39年)開業です。