2024年07月12日

マツケンサンバを見に行く。東京明治座

マツケンサンバを見に行く。東京明治座

 昨年12月に松平健さんが大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を演じた忠臣蔵(ちゅうしんぐら)のドラマを毎日夜BS放送で観ていました。
 翌月1月に、東京品川駅の近く、高輪ゲートウェイ駅(たかなわゲートウェイ駅)から歩いて、四十七士(しじゅうしちし)のお墓がある泉岳寺(せんがくじ)に行き、志士の皆さんのお墓参りをしました。
 そのとき、松平健さんのマツケンサンバをじかに観てみたいという欲求が湧いてきました。楽しいだろうなあーーー
 ということで、今月7月に東京駅近く、明治座で松平健さんデビュー50周年記念公演があることを知り、チケットぴあの抽選に申し込みました。当たりました。前から6列目の席でした。夫婦で観てきました。よかったーーー サンバ棒(ペンライト)を振り回しながら、盛り上がりました。マツケンサンバーーー オレーー オレーー マツケンサンバーーーです。

 次の写真は、記念写真を撮るところで、開演前には長い列ができていました。
 終演後は入れなくなっていて、観客のみなさんはもうほとんど外へ出て行かれたあとです。そばにあるトイレを利用されるお客さんがウロウロされているだけでした。







 次のポスター写真、『明治座 暴れん坊将軍』は、建物の玄関入口横にありました。
 終演後、夜9時を過ぎて人は少なかったのですが、観劇を終えた人たちが、順番にポスターの前で記念写真を撮っておられました。
 わたしたち夫婦がスマホで慣れない自撮りをしていると、『撮りましょうか?』と、声をかけてくださる親切な方がいて、本当に助かりました。
 この日は、東京駅構内にある『一番街』というところで、ポケモンの絵が描いてある壁の前で自撮りの記念写真をとっていたら、そばにいた日本語を話す小学生高学年ぐらいの外国人の男の子や女の子たちが5~6人近づいてきて、非常にていねいな日本語で、写真をとってあげましょうかと声をかけられました。フランス人かスペイン人みたいな顔立ちをしたこどもたちで、彼らから見れば、私たち夫婦は、おじいさん・おばあさんなのですが、ゆっくり何枚も写真を撮ってくれました。ありがとう。
 東京では、どこへ行っても、写真撮りましょうか?と声をかけてくださるので助かります。ご親切に感謝します。



 自分自身は、写真撮影がにがてで、次のポスターも、天井の照明灯がまんなか付近に反射して写ってしまいました。



 次の写真が公演のタイムテーブルです。(時間割り)
 途中30分ずつ、計1時間の休憩をはさんで、演劇『暴れん坊将軍』の第1部・第2部、そのあと歌のショーという構成です。
 わたしたち夫婦は夜の部で、午後4時前に入場して、終わったのは午後9時ぐらいでした。
 夕ご飯は、劇場内でお弁当を売っていて、幕間休憩のときに席で食べておられる方がそこそこおられました。
 わたしたちは、劇場内で売っていた、きびだんごとか、お菓子のたぐいを食べました。
 晩ごはんは、終演後人形町駅のそばにある居酒屋で食べましたが、仕事を終えた若い男女の人たちがたくさんで、店内は話し声がざわざわと満ち足りていて活気がありました。
 日本橋人形町という場所柄、優秀な能力をもった有名な会社の社員さんたちが集まっているのだろうと勝手な思いをもちながら若い男女のサラリーマンの皆さんたちをながめていました。雰囲気に勢いがあります。もうずいぶん前のことになりますが、自分もああして働いていたのだなとなつかしかった。
 たくさんいる若い店員さんたちは外国人がほとんどのようすで、カウンター席の角にふたりで座ったのですが、厨房(ちゅうぼう)にあるホワイトボードには、アラビア語で業務に関する連絡事項が書かれていました。中東系の人やアジア系の人たちが働いておられましたが、みなさん業務処理能力が高そうな人たちで、てきぱきと働いておられたので感心しました。あんがい本国では、国立大学ぐらいで学ぶような人たちかもしれないと、これまた勝手な推測をしました。



 東京駅から明治座へは、路線バスで行きました。
 これまで知らなかったのですが、東京駅周辺を巡る無料の巡回バスがあります。ふたつのルートがあります。
 次の写真がバス停の位置にあって、メトロリンク日本橋eラインというバスに乗りました。バスは、前から乗って後ろからおります。
 バスの乗客は外国人観光客が多いのかなと予想しましたが、おもに地元の人たちが利用されているように感じました。
 バスの時刻表はなく、わたしたち夫婦が利用したルートは、一周40分ぐらいで2台がまわっているように見えました。ですので、20分ごとにバスがくるような感じです。専用のアプリをスマホに入れると、今バスがどこにいて、何分後に自分がいるバス停にバスが来るのかが、わかるようになっています。便利です。



 宿泊は、明治座のそばにあるホテルに泊まりました。道を隔てて(へだてて)建っていました。
 次の写真では、ちょっと手前のビルが重なっているのですが、部屋から東京タワーが見えました。
 
 ときどき、都内のホテルに泊まるのですが、朝食会場は外国人のかたばかりで、食事をしていると、なんだか外国にいるような気分になれます。欧米の人もアジアの人もいろんな国籍の人たちで、ちびっこ連れのファミリーから年配の人まで、老若男女がたくさんです。

 明治座の前の道路が、広い道路で、なおかつ一方通行だったのでびっくりしました。
 5車線ぐらいありました。一方通行だから歩行者にとっては安全です。



 さて、かんじんの暴れん坊将軍とマツケンサンバ歌謡ショーの感想を、思い出すままに書き落としてみます。

 『暴れん坊将軍』の演劇が始まる前に注意喚起のアナウンスが流れるのですが、その内容が笑えます。
 『上様から(うえさまから)お知らせがあります。守れない人は、成敗(せいばい)します……(せいばい:やっつける。こらしめる)』

 客層ですが、5月に愛知県半田市内のホールで見た綾小路きみまろさんの毒舌漫談のときには、ほぼみなさん高齢者とその付き添いの方たちでしたが、今回の松平健さんのショーは、老若男女がいて、ファンの年齢層が幅広い。若い男女の人たちもけっこう見かけました。

 まあ、すごい数の人です。自分たちの開演前に、昼の部を観た人たちの退出があったのですが、帰られる人たちが乗った観光バスが何台も出発していきました。
 たとえば、なにかの企業の顧客の人が招待されてきているような感じでした。
 けっこう長時間の公演なので、一日二回公演があるときは、運営する側の人たちはてんてこまいでしょう。

 演劇についてです。
 舞台装置がとてもきれいです。大道具さんとか、小道具さんの技術力が高い。
 途中、川のそばで演じるという設定があったのですが、川の水が本当に流れているように見えて不思議でした。
 全体をとおして、舞台芸術を見ているようでした。

 わたしは、自分が中学生だったお正月のときに母方の祖父に連れられて、福岡県の地元の劇場(嘉穂劇場かほげきじょうといいます)へチャンバラ演劇を観に行ったときのことを思い出しました。
 祖父ももうとうの昔に亡くなりましたが、いい思い出です。『暴れん坊将軍』のステージを観ながらそんなことを思い出しました。

 『照明の操作』がとてもおじょうずです。
 照明が、演者と会話をしているような感覚をもちました。
 たいしたものです。

 音楽もぴったり内容と一致しています。
 観ている人の感情を誘導したり、揺り動かしたりする力が音楽にはあります。
 長年の技術や知識の蓄積が重厚にあるのでしょう。

 松平健さんの色とりどりに変化する衣装がステキです。
 仮装大会のようでもありますが、派手で、観ていて気持ちがいい。
 松平健さんが、赤い色の着物姿になったときは、お笑い芸人のコウメ太夫(こうめだゆう)さんみたいになりました。わたしは、小梅太夫さんのファンなので嬉しかった。ギャグ、『チックショー』がセリフで出てもおかしくないようなお衣装でした。

 物語の柱は、暴れん坊将軍徳川吉宗の正義の味方とか、勧善懲悪(悪をこらしめる)、人情重視を下地にしてのカリスマ化(英雄扱い)があります。現実社会ではなかなか実現しない、こうだったらいいのになという理想です。

 登場する人物設定で、徳川吉宗に政策面で対立する相手は、尾張藩の徳川宗春のイメージなのでしょう。
 まじめに考えると、お金は節約して貯めるだけでは経済は回らないのです。お金は使って、経済を回転させて、景気を良くしていかねばならないのが基本です。

 ときおり、盆踊りとかパラパラダンスとかが入ります。いろんな踊り・ダンスが入ります。マツケンさんの衣装も、アラビア風(マハラジャ)、インド風に見えるときもあります。長崎県島原の乱のときの隠れキリシタン天草四郎時貞のような雰囲気の時もありました。多国籍であり、多数の時代にいたであろう人物像です。
 女性の演者の方たちは、ヘアースタイルが日本髪なので和風の踊りや洋風のダンスをするときはたいへんでしょう。ふつうのヘアースタイルでもかまいませんよ。

 舞台で目安箱が出てきます。入館時、劇場内に置いてあった目安箱です。
 開演前に観に来た人が、その目安箱へ投書することが可能でした。
 マツケンさんが、ステージ上で、目安箱から紙を取り出して投書を読み上げられました。リアルに観劇されている人の文章でした。なかなかいい。

 あとさきになりましたが、マツケンさんの冒頭の登場シーンは、白馬にまたがっている姿でした。かっこいい。うちの小学校低学年の男児の孫が観たら、そういう凛々しい(りりしい)姿が好きなので、きっと真似をしたがるでしょう。

 火消しチームのチームワークがいい演技でした。まとまっています。

 マツケンさんの刀さばき(かたなさばき)は、こどものときに映画館で観た『大魔神』のイメージで力強く豪快でした。見ごたえがありました。

 マツケンさんの歌唱は、声に伸びがあります。70歳という年齢を感じません。
 きちんとした正確な歌い方をされるので好感をもちました。力まず、リラックスして、なめらかに歌っておられます。
 
 とにもかくにも明るいのがいい。キラキラ輝いています。
 
 劇中の流れとか、歌の趣旨として、『きょうは、仕事にいきたくないなあとか、(雰囲気として)きょうは学校に行きたくないなあとか思ったとしても、いかなければならいこと、やらなければならないことは、気持ちに折り合いをつけて、ちゃんとやろう。うん。そうしよう……』というような意思が感じられる応援歌に聞こえました。(わたしなりの感じ方、受け止め方です)。それが良かった。劇中で流れた言葉として、『それでも明日(あした)はくるのです』があった記憶です。

 これだけの舞台を仕上げるのには、相当な時間と労力を費やして企画されたのであろうとお察しします。演劇・歌謡ショー企画チームと、表舞台には出てはこない裏方スタッフのみなさんのご苦労をお察しします。

 毎日のように何回も同じ内容で公演されるわけで、どうもそのときの客層で、反応が異なる時があるようです。
 松平健さんの最後のあいさつの内容として、今まで演じてきた中で、今回のお客さんは、一番ノリが良かったというようなお話があって、確かに、会場全体がまるで、若い人たちの音楽フェスティバルのような熱気と興奮で盛り上がっていました。まあ、それだけふだんたまっているものがあるのかもしれません。
 最後に舞台上でずらりと横に並んで、演者のみなさんがたからサヨナラのあいさつがあるのですが、涙ぐんでおられる演者のかたも複数おられて、やはり演者のみなさんは感受性が強い方が多いなと納得して安心しました。
 観ているこちらも、(これまでイヤなことがたくさんあったけれど)生きててヨカッターという気持ちになれました。

 自分は十代後半のころは、こういう舞台や脚本をつくるような仕事をしたいと思ったこともありますが、それでは食べていけないわけで(生活が成り立たない)、あきらめて地道に働いて歳をとりました。
 あと何年ぐらいこの世にいられるかわかりませんが、若かったころの夢を思い出しながら、これからもステージなどを観る側の立場で楽しませていただきます。  

Posted by 熊太郎 at 06:50Comments(0)TrackBack(0)東京

2024年05月18日

東京証券取引所 日本橋 貨幣博物館 日本銀行

東京証券取引所 日本橋 貨幣博物館 日本銀行

 昨年秋に訪れて、『株式投資』のカテゴリー(項目)に入れていた記事の一部分について、観光案内を目的として、カテゴリー『東京』にも再掲しておきます。

 最初に見学したのは、東京証券取引所です。東証アローズです。
 無料で見学ができました。写真撮影もできました。そこそこの人数の見学者がありました。外国の人も見学されていました。
 なんというか、いい職場だなーーと勝手な解釈をしました。静かです。見学者の人たちはどなたも上品そうです。
 医療とか福祉の仕事だと、生きるか死ぬかで悩んだり、すったもんだしたりするのですが、お金扱いのことだけなら生きるか死ぬかまではいかないので安心な仕事だと、熊太郎夫婦は見学を終えて話をしたのでした。こちらは、『損か得か』の世界です。



 次の写真は、儀式の時に鳴らす鐘です。



 次のパネル写真は、大河ドラマの素材になった渋沢栄一さんです。
 以前本を読んだことがあります。『現代語訳 論語と算盤 渋沢栄一 守屋淳・訳 ちくま新書』渋沢栄一:1840年(天保11年)-1931年(昭和6年)91歳没 1968年が明治元年 農家、武士、官僚、実業家、慈善家。この本は、渋沢栄一さんが書いたものではなく、渋沢栄一さんの講演の口述をまとめたものだという説明が冒頭にあります。
 渋沢栄一さんは、「近代日本の設計者の一人」と「はじめに」の記述にあります。設立に関わった会社が481社、500以上の慈善事業に関わった。
 資本主義は、金もうけが推進力だから、ときに、大きな惨事を引き起こす。バブル経済の崩壊、金融危機があったとあります。それにブレーキをかけるのが孔子の「論語」とあります。「人はどう生きるべきか」を前提にして経済活動を行う。









 先日三重テレビで放送されている株式の番組『東京マーケットワイド』を観ていたときに、次の写真のまんなかにある空間で上場の儀式が行われていました。エスカレーターをおりて、わたしたち夫婦もその場所に立ってみました。とても静かでした。



 見学を終えて川沿いに歩き始めたら、『兜神社(かぶとじんじゃ)』がありました。
 世界が平和で、みんながお金持ちになりますようにと、おさいせんを100円入れてお参りしておきました。



 日本橋のモニュメントです。橋の欄干(らんかん)にある青銅の麒麟像(きりんぞう)です。モニュメント:記念碑(きねんひ)



 日本銀行と道をへだてて建っている『貨幣博物館』を見学しました。無料です。手荷物検査があります。館内の写真撮影はできません。
 孫たちが好きな『人生ゲーム』が、ガラス張りの中にある棚に展示してあったので、ひっくりかえるほどびっくりしました。ただし、孫の人生ゲームは、ドラえもん版の人生ゲームです。細長い紙の箱に、おもちゃのお札が種類別に差し込んであるつくりはいっしょです。
 館内では、貨幣の歴史が詳しく、実物を展示しながら説明がなされていました。小判とか紙幣とか、外国のものも含めて展示があります。けっこうたくさんの人が見学されていました。



 貨幣博物館の出入口付近から日本銀行の建物を撮影しました。木の枝がいっぱいでうまく撮影できませんでした。
 事前予約で日銀の見学ができるそうなので、いつか中を見学したいものです。



 東京は、狭い区域の中にぎっしりとたくさんのものが凝縮されています。
 便利ではありますが、少し疲れます。  

Posted by 熊太郎 at 07:56Comments(0)TrackBack(0)東京

2024年01月28日

泉岳寺見学 忠臣蔵

泉岳寺見学(せんがくじ) 忠臣蔵(ちゅうしんぐら)

 東京からの帰路、予定が変わって、品川駅で予約してあった新幹線の発車時刻まで2時間ぐらい時間ができたので、前々から行きたかった品川駅の近くにある泉岳寺を訪問しました。
 泉岳寺に近い品川駅からの最寄り駅は、『高輪ゲートウェイ駅(たかなわゲートウェイ駅)』でした。駅周辺は複数の高層ビルディングが建築中で、お寺さんまで、工事現場の中を歩いて行くような感じでした。
 次の写真では、お客さんを写さないように、上のほう、駅名表示だけを撮影しました。

 駅を出て歩いて、付近を住民であろう街歩きをする人たちは、女性もこどももおしゃれな感じのファッションをされていました。住む世界がわたしとは違うようです。こどもさんがしょってるランドセルは見たこともない高級感がありました。ママのお洋服の生地が高級そうに見えました。

 忠臣蔵は、先月12月にテレビのBS放送連続ドラマで観ました。松平健さんが、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を演じておられました。(いつか、マツケンサンバをじかに観てみたい。楽しいだろうなあ)







 大石内蔵助(おおいしくらのすけ)さんの立派な銅像が迎えてくれました。



 赤穂事件(あこうじけん):1701年4月21日、江戸城松之大廊下で、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、高家(こうけ:儀式典礼を指導する役職)・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に短刀を抜いて切りつけた。刃傷(にんじょう):刃物で人を傷つけること。浅野内匠頭長矩は即日切腹の処分を受けたが、吉良上野介義央はおとがめなし。喧嘩両成敗とはならず。(自分なりに考えると、浅野内匠頭長矩の人格を否定するような言動が吉良上野介義央にあったのだろうと推測するのですが真相はわかりません)。当時は、紛争を平穏におさめるために、『喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)』が事態収拾の定石(じょうせき。きまりきったかたち。最善策)であったようです。でも、そうではない一方的な処分になったことから赤穂藩側の怒りが高まったととれます。
 赤穂藩は改易(かいえき:侍に対する罰。平民とする。赤穂城は明け渡し)となり、その後、再興の道も閉ざされた。
 赤穂藩で筆頭家老だった大石内蔵助始め47人のメンバーは、1703年1月30日(元禄15年12月14日)吉良邸に討ち入り、主君の仇討ちを果たし、吉良上野介の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。討ち入りをしたメンバーは、幕府の指示に従い切腹し、主君と同じく、泉岳寺に葬られた。

 仇討ちのメンバーは、大石内蔵助からの強制ではなく、真に仇討ちをしたい人間だけが選抜されたとなにかで読んだ記憶があります。

 境内(けいだい)に墨で文字が書かれた太い木の柱が立っていました。
 以前、長野県にある善光寺でも、訪れたときに、似たパターンで柱が立っていました。











 以下が、四十七士の(しじゅうしちし)の方たちのお墓です。



 景色の背景に、高輪ゲートウェイ駅あたりで建築中の近代的なビルが写っており、江戸元禄(げんろく)時代の風景と令和6年の高層ビルが同じ写真の中にあり、これはこれで、東京らしい光景です。



 父と子、義父と子の組み合わせで亡くなっているパターンが多い。年長者と若者という組み合わせです。子どもたちの年齢は若い。



 次の墓が、大石内蔵助のお墓です。



 木造建物の中、左にある墓石に大石主税(おおいしちから)と書いてありました。大石内蔵助の息子さんです。16歳でした。まだ若い。



 次が、浅野内匠頭のお墓です。
 たまたまお線香が、ぼうぼうと炎をあげて燃えていました。
 この場所に吉良上野介の首を供養で置いたのだろうか。(わたしなんぞは、人は死んだら終わりと考える人間なので、理不尽さがあったとしてもがまんして、農民として、畑仕事をやりながら生き続けたいと考えるのです)



 仇討ち(あだうち)に関していろいろ考えがあるのでしょうが、自分は自分なりに自分の読書歴から考えてみました。主君の無念をはらすことに加えて、自分のプライドを維持するために報復するということがあるのでしょう。

 以前、各種職業を体験された人たちの体験本をシリーズで何冊か読んだことがあります。
 共通するのは、『恨み(うらみ)』でした。上司や顧客、同僚や後輩からパワハラやカスタマーハラスメントで、人格を否定するような激しい叱責を受けて、相当な憎悪心(ぞうおしん)を各自がもたれて、がまんされて、最後は定年や中途で退職されていました。
 そのとき思ったのは、加害者側として身に覚えのある人は気をつけたほうがいい。お互いに権利義務関係がない状態で偶然出会ったときは、被害者はカッとなって、加害者に罵声を(ばせい)を浴びせたり、ビンタの一発も飛ばしてきたりするかもしれません。
 ハラスメント行為(困らせる。悩ませる。いやがらせをする。人格否定をする。仲間はずれにする)をされたほうは、一生相手に対する恨み(うらみ)を忘れないのです。  

Posted by 熊太郎 at 08:41Comments(0)TrackBack(0)東京

2024年01月27日

国会議事堂衆議院の見学

国会議事堂衆議院の見学

 建物の裏側にある入口から入って、窓口で、午前11時30分からの見学を申し込みました。ほかの見学希望の方たちと並んで記載台で申し込み用紙に住所氏名等を書いて、手荷物検査をして、20人ぐらいの集団で案内の若い男性職員の方についていき説明を聞きました。小学生と幼稚園年長さんぐらいのこどもさんも数人いました。

 みなさんけっこう遠方の県から見学に来られているようすでした。ゴロゴロと引っ張る旅行鞄を持ちながら移動されていました。建物の裏の方から建物の中を歩いて見て、最後は正面中央玄関を見渡す位置で解散しました。
 帰りは、正面方向にある出口から外に出ました。時間は1時間ぐらいでした。もしかしたら自分は、小学校の修学旅行で見学したことがあるのかもしれませんが、半世紀以上昔のことであり、記憶がまったくありません。

 議事堂では高い位置にある木造の傍聴席に座って説明を聞きました。みおろす風景には、茶色の色調と電灯色に味わいがあります。
 木造部分が多い。長い時代を経ているので、座る椅子の部分が狭くもあり、古くもありでした。
 議員席もそれほど広いとは思えませんでした。
 建物内のレイアウトは(配置は)、議場があって、その周囲に関係者の部屋があってと、シンプルでした。

 国会議員は男性ばかりなので、女性用トイレが極端に少ないというようなことを思い出しました。
 なにかの記事で、議場に一番近いトイレは男性用で、女性議員のために男女共用に区分けをしたというような文章を読んだことがあります。思い起こせば、半世紀ぐらい前は、男女共用のトイレが多かった。いまどきの若い女性には抵抗感があるでしょう。あわせて和式でした。そういえば、この見学が始まる前に待合場所(椅子があります)のそばの女子トイレの一部は和式だったと同行の妻が言っていました。だれも使う人はいなかったそうです。

 古い建物なので段差がありバリアフリーにはしにくい部分もあるようです。
 障害者の方が議員になって、バリアフリーにリフォームした部分があるようです。
 もうかなり年数が経過している建物ですから、本当は、一(いち)から近代的な新しい建物として国会議事堂を建てるのがいいのでしょうが、費用面でそうはいかないのでしょう。



















 見学して最初に思ったのは、かなり古いなあということでした。
 国会議事堂は、1920年(大正9年)~1936年(昭和11年)で建築されています。もう100年ぐらい前です。
 つくりは、愛知県でいうと、愛知県庁の本庁舎(1938年 昭和13年完成)とか、名古屋市の本庁舎(1933年 昭和8年完成)に似ています。
 廊下を歩きながら思うのは、(雰囲気が)役所だなあということでした。

 特徴的なことは、皇室が関係してくることです。
 皇室関係者専用の部屋とか、階段がありました。
 なにかしら特殊な世界です。自分は皇室関係者として生まれてこなくてよかったとほっとしました。気楽が一番、自由が一番です。移動の自由、職業選択の自由、居住地選択の自由、言論の自由は、気楽に人生を過ごすうえで大切です。

 建物の細工(さいく。つくりもの)は美術館のようにきれいです。建築様式も味わいがあります。















 上の写真にある階段は、天皇だけが歩く赤じゅうたんが敷いてある階段だそうですが、老齢になられた天皇は利用されなかったそうです。エレベーターで上階へ上がられたそうです。だれでも、歳をとると、ころんでおおごとになりますからね。

 外に出て、『都道府県の木』という小道をぞろぞろと歩いて、建物が正面からきれいに見えるところへ移動しました。都道府県の木の道では、手入れされた立派な樹木が並んでいました。



 中央広間には、伊藤博文、板垣退助、大隈重信の銅像と銅像はない台座だけがありました。三氏と同様の偉業を成し遂げた人がいないからとか、これから先の夢として、空座があるというような説明でした。
 小学生のこどもさんが、『知ってるよ』と話していました。こういった社会科のことに興味が強いマニアのお子さんのようでした。たのもしい。

 国会の大理石の柱には化石があるそうで、みんなで柱の化石探しを少ししました。



 出口を出て地下鉄の駅に向かうところで、首相官邸が見えるので1枚写真を撮りました。国会議事堂の斜め向かいに道をへだてて建っていました。警察職員による厳重な警備体制で、緊張した雰囲気がただよっていました。
 首相官邸は、テレビでよく映像に出る建物です。これから報道番組やニュースを観たときに、ああ、近くまで行ったなあと親しみを感じることでしょう。





(国会議事堂追加記載2024年1月28日日曜日:あとから思い出したこと)
 中庭の池で錦鯉が泳いでいました。新潟県からプレゼントされたものと聞きました。
 今年に入って、都内にあるお屋敷が火災で燃えてしまった新潟県選出の元総理大臣の方を思い出しました。

 建物内の封書類のやりとりに使用している、上の階から下の階に落とす形式の郵便投函筒(メールシューター)を見ました。
 1階が最終的な収集ポストになっていました。
 収集時刻が決まっていて、きちんと収集されて、郵送ルートにのせるそうです。役所ですから文書担当の係があるのでしょう。
 メールシューターを見て、自分が新卒で就職して入居した独身寮を思い出しました。4階建ての独身寮には、郵便物ではなく、ごみを上階から地上階のごみ集積場に落とす投函筒(シューター)が設置されていました。  

Posted by 熊太郎 at 08:36Comments(0)TrackBack(0)東京

2024年01月26日

観劇 斑鳩の王子 戯史聖徳太子伝

『斑鳩の王子(いかるがのおうじ) -戯史(ぎし。おもしろおかしい話) 聖徳太子伝(しょうとくだいしでん。聖徳太子の話)』 IMM THEATER(シアター)のこけら落としに行く。(新しい劇場のお披露目公演 東京ドームそば「水道橋駅」東京ドームホテル南)

(2023年11月初めのこと)
 ステージの出演者で自分がわかるのは、明石家さんまさん、山西惇さん(やまにしあつしさん)、温水洋一さん(ぬくみずよういちさん)、松尾貴史さん(まつおたかしさん)ぐらいです。
 脚本が、刑事ドラマ『相棒』を書いている輿水泰弘さん(こしみずやすひろさん)なので、舞台を観たくなりました。
 入場券の抽選申し込みにチャレンジしましたが、「アクセス集中」でつながらず、ようやく夕方になってつながり申し込みができました。
 抽選にはどうせ当たらないだろうと思っていたら当たりました。うれしい。
 さっそく劇場からひと駅の距離にあるホテルを予約しました。

 想像するに奈良の聖徳太子を明石家さんまさんが演じて、おもしろおかしい、楽しい舞台でしょう。
 奈良には、四十代のころに惹かれて(ひかれて)、何度も訪れました。奈良時代の歴史が深い地域です。そのころは、歳をとったら、奈良の老人ホームに入って、毎日のように散歩で、お寺さん参りを楽しもうという夢のようなものがありましたが、今はそう思いません。介護保険制度を活用して、自宅でできるだけ長く在宅介護、できれば、自宅でお昼寝中にそのままあの世へ旅立ちたい。

(2024年1月のとある日の夜に、夫婦で演劇鑑賞をしてきました)
 思い出すままに感想を記してみます。

 温水洋一さん(ぬくみずよういちさん)の演技が素晴らしかった。ひとりで何役も上手に演じられていました。芸達者です。この劇は、さんまさんを立てる形で、温水さんや山西惇さん(やまにしあつしさん。ドラマ『相棒』で警視庁の課長役)はじめ、ベテランと若手、女優陣が、しっかりと演技と劇の進行を支えておられました。あとでわかりましたが、複数の方が複数の役柄を演じておられました。

 ときおり、きれいな女の人を、『年増(としま)』だと言ってからかうのですが、言わなければ若く見える方でした。また、みなさん、きれいなお顔の女優さんばかりでした。

 歴史を知らないとわかりにくい内容です。ただ、歴史に忠実なようにも思えませんでした。
 ちょっと自分でつくった自分用の歴史年表ノートから項目を拾ってここに落としてみます。

 239年 卑弥呼が魏に使いを送る。魏志倭人伝。
 4世紀ころから 古墳時代。大和朝廷が国土統一を始める。
 538年(あるいは552年) 仏教伝来。
 574年 聖徳太子誕生。622年48歳没。厩戸皇子(うまやどのおうじ)。用明天皇の第二皇子。母親は、欽明天皇の皇女(おうじょ。娘)穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)
 587年 蘇我馬子(そがのうまこ)が仏教反対派の物部氏(もののべし)を倒す。(今回の劇ではこの部分が強調されます)
 592年-710年ころ。飛鳥時代
 593年 聖徳太子が、推古天皇の摂政になる。(すいこてんのう554年-628年女帝。摂政(せっしょう):幼帝、女帝に代わって政務を担当した職)
 603年 冠位十二階
 604年 十七条の憲法
 607年 法隆寺建立。小野妹子(おののいもこ。男性です)が遣隋使で派遣された。国書「日出処天子(ひいずるところのてんしうんぬんかんぬん)」を隋に持参した。
 645年 大化の改新。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ。のちの天智天皇)+中臣鎌足(なかとみのかまたり。飛鳥時代の貴族・政治家。『藤原氏』の始祖(しそ。始めの人) VS 蘇我蝦夷(そがのえみし。蘇我馬子の長男)+蘇我入鹿(そがのいるか。蘇我馬子の孫)

 劇では、天智天皇のこども大友皇子と天智天皇の異母弟天武天皇の争いである『672年 壬申の乱(じんしんのらん)』ぐらいまで表現してあるような雰囲気でした。

 ぼんやりしていたので、確かではありませんが。なにせ、まじめな歴史の話なのに、ほとんどの時間帯は、お笑いの尺(時間帯)なので、筋立てを気にする必要もないようです。下ネタとか、時事ネタ(某お笑い芸人さんの文春砲さく裂ネタ)とか、俳優さんの奥さんのネタ、しのぶちゃんネタ(大竹しのぶさん)など、話がいくらでも飛んで行って、混乱しながらの爆笑が続きます。

 さんまさんは、奥さんやこどもがいる家族持ちの若い男優さんがねたましいらしく、自分は家に帰るとひとりぼっちで、冷蔵庫から冷凍食品をチンして食べているんだと不満のような嘆きのようなことを言って観客を笑わせてくれました。だから、お笑いの舞台に全力をそそいでいるんだと聞き取れました。仕事人間なのです。
 さんまさんは、実母を3歳のときに病気で亡くし、自分がまだこどものとき、実父が連れ子のいる女性と再婚して継母を迎えたものの、継母の発言で、自分のこどもは自分の連れ子だけだという話を聞いて、お兄さんとふたりで二段ベッドで泣いたというような文章を、どこかで読んだことがあります。さんまさんは、仕事は充実しているけれど、家族や家庭には恵まれていない面があります。

 関西弁の聖徳太子で演技が続きます。まあ、舞台は奈良ですから関西弁でしょう。
 鹿のかっこうをした人たちがたくさん出てきます。おもしろい。奈良公園の鹿たちを思い出しました。鹿せんべいの話も出ました。
 さんまさんは、お笑い話をしすぎたのか、声が枯れています。劇の途中で、声枯れのことも笑いにつなげる発言をされていました。
 仏と神、宗教の対立と争いがあります。蘇我馬子(仏教。そがのうまこ)、物部守屋(神道。もののべのもりや)で、仏教の蘇我馬子が勝利します。誤解があるといけないので、補足すると、その後の時代の流れで、お寺と神社は仲良しの関係となっています。信仰の内容が異なりますから対立はしません。仏教は釈迦(しゃか)の教え。神道は、万物が神です。開祖はいません。

 穴穂部皇子(あなほべのみこ):聖徳太子の叔父。欽明天皇の皇子(おうじ)。
 
 さんまさんがらみで、笑いが続く長時間シーンは3か所あったと思います。3時間の公演時間中、以下のシーンで各30分ぐらい。あわせて90分ぐらいあった記憶です。

①3人で、コントを続けます。さんまさん、温水さん(ぬくみずさん)、若手の男性俳優さん(ごめんなさい。わたしにはお名前がわかりません中尾明慶さん(なかおあきよしさん)か一色洋平(いっしきようへいさん)といわれる方ではないかと思います)。たしか、温水さんがザリガニをやって、若い男優さんが、トンビとか、コイとか、カメとかを演じて…… 『昭和の笑い』だと感じました。いじめやいたぶりがあります。それでも、客席は、かなり笑っていました。(客席は年配男女が多い。夜7時から10時までの公演でした。休憩なし。3時間ぶっ続けの演劇です。トイレが心配でしたがだいじょうぶでした。何回かお尻が痛くなりましたが、終わってみればあっという間でした。女性客の大きな笑い声があちらこちらから聞こえていました。不快ではありません。独特なじょうずな笑い方です。演劇関係者の人たちだろうか。声の出し方が俳優さんみたいでした)

②5匹の虫が出てくるお笑いシーン。便所コオロギとか。ダンゴムシとか。ハエとか。かなりおもしろい。笑わせてもらいました。

③ちょっと記憶がさだかではないのですが、さんまさんと若い男性俳優さんのシーンで、若い男性俳優さんが、『死んでやる!』とか、『殺してくれーー』とか、わめいて、さんまさんが、男性の首に長い縄を巻いて引っ張って、『首をしめてころしてやるーー』みたいになるのですが、なんだか、そのあと、犬の散歩みたいになって、そのやりとりが延々とパターンを変えながら25分間ぐらい続くのです。すごいなーー。自分の記憶に間違いがあるのかもしれませんが、『ミーアキャット』のシーンがここか、ほかのコント部分のどこかであったような気がします。
 もう、本題の聖徳太子の劇から遠ざかって、若い俳優さんが、『さんまさん(もうやめてください)』みたいに発言するのです。ちゃんと演劇をやりましょうよ!です。さんまさんは、(きみの事務所から頼まれて)今回の舞台に(きみを)採用したのだから、(オレの言うことを聞け!)みたいな態度をとるのです。そうしないと次は仕事で使わないぞ!みたいに若手をおどすのです。まあ、下品な部分も全開な、昭和時代の笑いのつくりかたです。

 宝塚出身の女優さんがおられるようで、ところどころ宝塚の演劇シーンを見ているようでした。
 馬女を演じておられた方が宝塚がらみの方かもしれません。(音月桂おとづきかつらさんでしょう)
 
 『富士山』の話が出ました。ちょうど、その日、東京へ来るときに新幹線の車窓からきれいな富士山が見えたので、気持ちがぴったりきました。

 わたしは、アドリブが多いのではないかと思っています。何回も演じる演劇ですが、観客も演者みたいなところがあって、そのたびごとに雰囲気や、やりかたが違うような気がします。正確には、同じ劇を複数回観ないとわかりませんが。そういう観劇のしかたをされる方(かた)もおられるのでしょう。
 
 最後はどうオチをつけるのだろうと(結末はどうなるのか)観ていました。
 さんまさんは、舞台から階段を下りてきて、観客席の間を歩いて回られました。『もうすぐ終わりますんで。』と、観客に声をかけられて笑いにつながりました。そうか、あれがオチだったのか。間近でさんまさんの顔を観ることができました。テレビで見るのとおんなじでした。ありがとう。

 最後、ステージ上に演者の皆さんが集まって、終わりのあいさつをされました。
 どなたのお顔にも、やりとげたという達成感が満ちていて、こちらも見ていてすがすがしい気持ちになれました。楽しいお笑いをありがとう。

 演劇の主題にあったものとして、『昭和時代のガッツ(闘志)』がありました。
 不合理、不条理、理不尽な職場・社会でも、根性と努力、忍耐と柔軟性で乗り切ってきた年配世代の人生を讃える演劇でした。
 
 次の写真では、右奥の聖徳太子のポスターが、今回見学した劇でした。斑鳩の王子(いかるがのおうじ)と書いてあります。



 都営三田線水道橋の駅を出て、出口をちょっと間違えて道に迷ってしまいました。開演時間が近かったのであせりました。地図があっても道に迷う方向音痴な熊太郎じいさんです。
 次の写真は劇場前で、写真の下のほうは入場者で黒山の人だかりです。写さないようにカットしてあります。
 『IMM THEATER』のロゴ(ブランドイメージを図案化したもの)は、お笑い芸人ジミー大西さんの作です。



 劇場うしろの背が高い建物が、『東京ドームホテル』です。むかし、若いころ二度ほど泊まったことがあります。東京ドームでプロ野球観戦後に泊まりました。

 熊太郎じいさんは、小学6年生のときの修学旅行が東京で、後楽園遊園地のジェットコースターに同級生たちと乗って遊んだことを覚えています。とても楽しかった。あれからもう半世紀以上がたちました。12歳のときにいた場所あたりに今もまた立つことができて感無量な気持ちもあります。(胸がいっぱいになり、深く感じるところがあります。いつだってがんばってきました。長かった自分の人生もだんだん終わりに近づいてきました)



 IMMシアターのIMMは、『生きてるだけでまるもうけ』です。限りある残りの人生の時間を楽しみたいものです。
 明石家さんまさんは、1985年(昭和60年)夏、御巣鷹山に墜落した日航ジャンボ機に搭乗する予定だったそうです。仕事が早く終わったので、別の飛行機で大阪へ帰って命拾いしたそうです。その出来事から、『生きてるだけでまるもうけ』の発想が生まれたそうです。

(2024年(令和6年)2月3日土曜日に追加記載)
 最近金曜日午後10時にTBSで始まったテレビドラマ『不適切にもほどがある!』を観ていて気付いたことがあります。
 今回見た聖徳太子の劇のはじまり付近で、なんだったか具体的に思い出せないのですが、生き物に名前をたしか、『リイサ』だったか、『リーサ』という名前を付けるのです。そのとき、客席から笑いがさざなみのように湧きおこったのですが、自分には笑える理由がわかりませんでした。さらに、たしか、さんまさんが、気が強いからリイサだというように言って、やっぱりまた笑いが起こったのです。
 『不適切にもほどがある!』に出演されている仲里依紗(なか・りいさ)さんという女優さんが、あのとき舞台上にいた中尾明慶(なかお・あきよし)さんの奥さんだったのかと、ようやく今頃気づいた次第です。
 きのうドラマの第二話を観たのですが、自分なりに最終話は、主人公役を務める阿部サダヲさんが、タイムトラベルをして、病気で亡くなった奥さんと再会できるのではないかと予想し、予想が当たるといいなーーと期待しています。  

Posted by 熊太郎 at 08:21Comments(0)TrackBack(0)東京

2024年01月25日

ゴッホの『ひまわり』を東京新宿SOMPO美術館で観る。

ゴッホの『ひまわり』を東京新宿SOMPO美術館で観る。

 先日映画『永遠の門 ゴッホの見た未来 洋画 2018年』を観たことが美術館訪問のきっかけです。
 東京で用事があったので、用事をすませたあとSOMPO美術館へ行き、ゴッホが描いた『ひまわり』の絵を観てきました。

 フィンセント・ファン・ゴッホ:オランダ印象派の画家。1853年(日本は江戸時代末期。明治維新が1868年)-1890年(日本は明治23年)。37歳没。

 ゴッホ生存当時、地球上に何十億人の人間がいたのかは知りませんが、何十億人の中のひとりという天才画家です。(あとで調べました。1900年で、16億5000万人ぐらいだったそうです)
 展示してあるどの絵も保存状態が良く、『美』を堪能しました。(たんのう:満ち足りて十分なこと)

 美術館の建物の入口玄関から、たいへん混雑していてびっくりしました。
 写真撮影可だったので、列に並んで長いこと順番を待って写真を撮りました。



 次の絵は、『アイリス』の絵です。(アヤメ、カキツバタ、花しょうぶなど)







 ゴッホが描いたほかの絵も、色がとてもきれいでした。



 次の絵は、3冊の本が重ねてあります。



 次の絵はゴッホの作品ではありませんが、とても美しかったので写真をとりました。ここにも載せておきます。あいにく作者である画家のお名前は、メモし忘れました。写真のようですが、写真よりもさらにきれいに見えました。(追加記載:その後、「ジョージ・ダンロップ・レスリー」というイギリスの画家であることがわかりました)



 自分がまだ中学生だったころ、美術部員だったのですが、当時住んでいた福岡県で、美術部顧問の女性の先生に引率されて、福岡市美術館へルノワールほかの印象派の画家の絵などを見に行きました。そんなことを思い出しました。今回同行してくれた妻が、こういうところに来たのは初めてで、自分にはこういう世界はなかったと、たいそう感激してくれました。来て良かった。

 次の写真で、手前の低い白い建物がSOMPO美術館です。
 複雑なつくりの歩道橋を渡って行きました。
 方向音痴なわたしは、帰りに歩道橋のどこからのぼってきたのかわからなくなって、道に迷い、道を戻って、また歩道橋をのぼって逆方向へ行き、ようやく地下鉄駅へ行くルートがわかりました。
 旅が好きでも地図は読めないということはあります。(鉄道旅番組に出る芸能人の村井美樹さんがそうです)わたしにとっては、スマホの地図は、自分がどの方向を向いているのかわからず、いつもチンプンカンプンです。


  

Posted by 熊太郎 at 11:33Comments(0)TrackBack(0)東京