2024年05月24日
しぜんにタッチ! どうやって できるの? チョコレート
しぜんにタッチ! どうやって できるの? チョコレート ひさかたチャイルド
しかけ絵本です。軽いしかけ絵本でした。(ところどころ折れ曲がっている。ページが小さくなっている)。
写真絵本でもあります。
チョコレートがきらいなこどもはいないと予想します。
ちびっこは、甘いものが好きです。
2・3ページをめくって、チョコレートができあがるまでのことを写真絵本にしてある本だろうと予想ができます。
『おいしい チョコレート なにから どうやって できるのかな?』と書いてあります。
カカオ豆:チョコレートの原料です。
産地は、西アフリカ、中南米、アジアの各熱帯地域とあります。
詳しく調べて見ました。
西アフリカ:ガーナ、コートジボワール、ナイジェリア、カメルーン、シェラレオネ
中南米:エクアドル、ブラジル、ペルー、ドミニカ共和国
アジア:インドネシア
こどものころ、『お口の恋人ロッテガーナチョコレート』というコマーシャルはよく耳にしました。
カカオの実の写真があります。けっこう大きい。予想していたものと違っていました。長さ15cm~25cm、直径10cm~15cmです。その大きな実の中に、小さなカカオ豆がいっぱい入っています。白いねばねばに包まれて、日本でいうところの、『あけび』みたいです。そういう構造だということは知りませんでした。初めて知りました。
白いねばねばをとって、茶色の実が顔を出す。
見たことがあるアーモンドの形です。(アーモンド状の形をしているけれど、アーモンドではないことが調べてわかりました)
日本に輸入されてきたカカオ豆の写真がでてきました。
ウェルカムトゥジャパン(日本へようこそ)です。
使える豆を選ぶ→熱い火であぶる→機械で皮をむく(昔は手作業だったのでしょう。ふと思う、チョコレートの中に入っているアーモンドと、この写真にあるカカオ豆は違うみたいです。そうか、カカオ豆とアーモンドは違うのか)→むいたあとのものがチョコレートの原料になります。すりつぶす→粘ってくる→ねっとりしてくる→5時間たった→なめらかになってきた→(しかし、最初に作り方を考えた人はたいしたものです)→砂糖を入れて、三日間もすりつぶす(72時間。そういうタイトルのNHKのドキュメンタリー番組があります。いい番組です)→この工程を、『メランジング』というそうな→とろとろのチョコレート原液に見えます→ていねいな温度管理があります→あっためたり冷やしたりです→板状に加工します→とりあえずここでおしまい。
次は、自分たちでお好みのチョコレートをつくります。
スプーン、シリコンカップ、アルミカップを使います。
小さくしたチョコをお湯で温めて、スプーンやカップに入れます。
どろどろになったチョコレートを、くだものやマシュマロにくっつけるそうです。
デザートやおやつにいいですな。
飲み物のジュースもほしいですな。
くつろぐくつろぐ。
いいものをつくるためには、時間がかかる。時間をかける。
ごちそうさまでした。
(その後:ニュース番組でカカオ豆のことが放送されていました。今年はガーナでのカカオ豆の収穫がかんばしくないそうです)
干ばつ(雨が少ない)くて、カカオ豆の木が枯れたり、実が乾燥してしなびたり、小さいな実しかできないそうです。
だから、カカオ豆の値段があがって、チョコレートも値上げされる可能性があるそうです。
去年から今年にかけて、値上げラッシュです。
きゅうりもトマトも高くなって、なおかつ質が落ちました。
なんでもない普通の気候が待ち遠しい。
今年も異常に暑い夏になるのかなあ。
しかけ絵本です。軽いしかけ絵本でした。(ところどころ折れ曲がっている。ページが小さくなっている)。
写真絵本でもあります。
チョコレートがきらいなこどもはいないと予想します。
ちびっこは、甘いものが好きです。
2・3ページをめくって、チョコレートができあがるまでのことを写真絵本にしてある本だろうと予想ができます。
『おいしい チョコレート なにから どうやって できるのかな?』と書いてあります。
カカオ豆:チョコレートの原料です。
産地は、西アフリカ、中南米、アジアの各熱帯地域とあります。
詳しく調べて見ました。
西アフリカ:ガーナ、コートジボワール、ナイジェリア、カメルーン、シェラレオネ
中南米:エクアドル、ブラジル、ペルー、ドミニカ共和国
アジア:インドネシア
こどものころ、『お口の恋人ロッテガーナチョコレート』というコマーシャルはよく耳にしました。
カカオの実の写真があります。けっこう大きい。予想していたものと違っていました。長さ15cm~25cm、直径10cm~15cmです。その大きな実の中に、小さなカカオ豆がいっぱい入っています。白いねばねばに包まれて、日本でいうところの、『あけび』みたいです。そういう構造だということは知りませんでした。初めて知りました。
白いねばねばをとって、茶色の実が顔を出す。
見たことがあるアーモンドの形です。(アーモンド状の形をしているけれど、アーモンドではないことが調べてわかりました)
日本に輸入されてきたカカオ豆の写真がでてきました。
ウェルカムトゥジャパン(日本へようこそ)です。
使える豆を選ぶ→熱い火であぶる→機械で皮をむく(昔は手作業だったのでしょう。ふと思う、チョコレートの中に入っているアーモンドと、この写真にあるカカオ豆は違うみたいです。そうか、カカオ豆とアーモンドは違うのか)→むいたあとのものがチョコレートの原料になります。すりつぶす→粘ってくる→ねっとりしてくる→5時間たった→なめらかになってきた→(しかし、最初に作り方を考えた人はたいしたものです)→砂糖を入れて、三日間もすりつぶす(72時間。そういうタイトルのNHKのドキュメンタリー番組があります。いい番組です)→この工程を、『メランジング』というそうな→とろとろのチョコレート原液に見えます→ていねいな温度管理があります→あっためたり冷やしたりです→板状に加工します→とりあえずここでおしまい。
次は、自分たちでお好みのチョコレートをつくります。
スプーン、シリコンカップ、アルミカップを使います。
小さくしたチョコをお湯で温めて、スプーンやカップに入れます。
どろどろになったチョコレートを、くだものやマシュマロにくっつけるそうです。
デザートやおやつにいいですな。
飲み物のジュースもほしいですな。
くつろぐくつろぐ。
いいものをつくるためには、時間がかかる。時間をかける。
ごちそうさまでした。
(その後:ニュース番組でカカオ豆のことが放送されていました。今年はガーナでのカカオ豆の収穫がかんばしくないそうです)
干ばつ(雨が少ない)くて、カカオ豆の木が枯れたり、実が乾燥してしなびたり、小さいな実しかできないそうです。
だから、カカオ豆の値段があがって、チョコレートも値上げされる可能性があるそうです。
去年から今年にかけて、値上げラッシュです。
きゅうりもトマトも高くなって、なおかつ質が落ちました。
なんでもない普通の気候が待ち遠しい。
今年も異常に暑い夏になるのかなあ。
2024年05月20日
アフリカで、バッグの会社はじめました 江口絵里
アフリカで、バッグの会社はじめました 寄り道多め仲本千津の進んできた道 江口絵里 さ・え・ら書房
とりあえず27ページまで読みました。
読みながら感想をつぎ足していきます。
偉人伝、伝記のようです。
仲本千津さんという女性の方について、江口絵里さんが聞き取りをして文章をつくって、この本ができあがっています。
仲本千津(なかもと・ちづ):1984年生まれですから、40歳ぐらいの女性です。社会起業家。ブランド(特定の商品、品物のこと。会社、組織)RICCI EVERYDAY(リッチーエブリデイ)の共同創業者兼COO(シーオーオー。チーフ・オペレーティング・オフィス。組織の責任者という役職名)。ロングヘアの小柄な女性。いつも心に秘めている思いは、『人の命を救いたい』です。
仲本千津さんは、アフリカにあるウガンダの工房で、現地の女性たちと布製のカバンをつくって日本で販売しています。
仕事をするときの動機付けは大事です。気持ちの根っこに、『世のため人のために働く』と、強く思わないと、職場での不祥事につながります。
『仕事は楽で、給料が良くて、休みが多いほうがいい』とだけ思う人は、仕事の手順を省略したり、会社や同僚のお金をポケットに入れたりすることがあります。働く場所では、仕事仲間同士の信頼関係は、とてもだいじです。
仲本千津さんの母親である律江さん:会社名の由来です。律(りつ)から「り」と千津から「ち」で、『リッチーエブリデイ』という社名です。おかあさんも会社のスタッフのひとりです。
ウガンダ:東アフリカにある国。旧イギリス植民地(1962年(昭和37年)にイギリスから独立)。人口約4570万人。首都カンパラ。
43ページに詳しい記事があります。赤道直下だが、高地にあるので(標高が高い。平均標高1200mぐらい)、一年中、日本の初夏のような気候が続く。湿度が低く快適な環境にある。治安がいい。人々が穏やか(おだやか)。農作物がよくとれる。マンゴー、スイカ、くだもの、お米、トウモロコシ、牛肉、鶏肉(とりにく)など。暮らしやすい。
されどウガンダは、世界で最も貧しい国のひとつだそうです。『産業』が不足している。『観光業』はある。国民は、大学を出ても安定した仕事がない。
男性が働かない。男性は、おしゃべりとギャンブルをしている。女性が働く。女性はとても忙しい。ある意味、女性で社会が成り立っている。でも、女性の立場は弱い。浮気男や暴力を振るう夫がいる。離婚するので、シングルマザーが多い。母子家庭です。
『はじめに』があって、第1章から第11章まであって、『おわりに』で終わります。
ウガンダの布地(色鮮やか。アフリカンプリント)を素材にして、ミシンで布バッグを縫って(ぬって)、日本で販売する組織の運営をしている人です。
ウガンダ人の女性8人(シングルマザーが多い)が、ミシンの前に座って、作業をしているようすが書いてあります。
社会起業家:社会にある課題を、事業によって解決することに取り組む人。社会にある課題とは、『貧困』、『格差』、『差別』、『戦争』、『環境破壊』、『地球温暖化』などです。
こどもたちに、社会起業家になることを勧める本だろうか。それとも、社会起業家という職種もありますという情報を提供する本だろうか。
『第1章 社会起業家 仲本千津』、『第2章 「私、国連で働く』
6歳ぐらいのころのエピソードがひとつ書いてあります。すべり台をすべって、泥水の水たまりに頭からつっこんだというような勇敢な姿です。
仲本千津さんは、4人きょうだいの一番上だそうです。
静岡県生まれ、その後千葉県居住ののち小学4年生から、静岡県内で育ったそうです。
両親と祖母、4人きょうだいの7人家族です。
小学5年生のとき、医師になりたいと思った。『国境なき医師団』に入ろうと思った。
中学一年生のときに、洋画、『シンドラーのリスト』を観て、深い感銘を受けたそうです。
わたしもシンドラーのリストを何回か観ました。最初シンドラーは、けしていい人ではありませんでしたが、ナチス・ドイツが、ユダヤ人を迫害するようすを見て、これはおかしいと思い、収容所に収容されているユダヤ人を自分の工場で雇用して、最終的にたくさんのユダヤ人の命を救います。シンドラーは、金もうけという商売をしながら、自分の利益を確保しつつ、ばれたら自分もナチス・ドイツに殺されるかもしれないという危険をくぐりぬけて生き延びた人でした。
わたしが映画を観たときの感想の一部をここに落としてみます。
『商人と軍人との贈収賄(ぞうしゅうわい)の世界です。給料以外の金と酒とタバコと宝石とが世の中を動かしています。(軍人が商人から金銭や物品を不正に受け取って、商人に有利なはからいをする)。(軍人が)裁量(さいりょう。決める)する権限を物々交換で自由自在に操って私腹をこやす者たちがたくさんいます。
捕まえたユダヤ人を雇用する。ユダヤ人には人件費がいらない。まるで懲役刑のようです。彼らはシンドラーが設立したお鍋をつくる会社で働きます。拘束はされますが、命は助かります。
シンドラーに命を助けられた片腕のない老人がシンドラーに、『アイ ワーク ハード(シンドラーあなたのために一生懸命働きます)』、シンドラーが軍人に、『ヴェルリ ユースフル(彼は有益な人物です)』、されど、その後老人は射殺されてしまいました。(片腕のない人間は道具として工場で役に立たないから)。それは、シンドラーの人として守るべき道を優先しようという方向への心変わりとなる出来事のひとつでした。
金もうけのことしか考えていなかった悪人のシンドラーが、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害の実態を見て、これではいけないと考え直して善人に変化していきます。人としてあるべき姿に目覚めたのです』
仲本志津さんは中学時代コーラス部に所属していた。学級委員、生徒会役員、部活の部長などリーダー的な役をやった。そのころのご本人の気持ちの持ち方として、『人の話をよく聞いて、それを実現する』というようなことが書いてあります。
緒方貞子(おがた・さだこ):国際政治学者。国際協力機構理事長。国連人権委員会日本政府代表。1927年(昭和2年)-2019年(令和元年)92歳没。
自分は長い間生きてきて、国連の職員として働いている人には一度だけ出会ったことがあります。ご近所に子どもさん連れのご家族で引っ越してこられて、話を聞いて、『国連』というところに就職するのにはどうやって試験などを受けるのだろうかとびっくりしました。その後数年たって、転居していかれました。
国際協力機構(JICAジャイカ)は、昨年秋、東京見物に行ったときに見学しました。中央線の市ヶ谷駅で降りて、坂道を上って行きました。『地球ひろば』を見学して、レストランで、そのとき提供されていたペルーのランチを食べました。おいしいというよりも、現地の人たちがふだん食べているもので、安価なふつうの味の主食という食事でした。
ジャイカの見学では、食事に加えて展示の内容も含めて、貧しい国を援助するということが、国際協力機構の果たす役割だと理解しました。
ウクライナへのロシアの攻撃を見ていて、国連(国際連合)の無力さを感じます。
国連は、そういう組織(集まり)があるというだけで、平和を成し遂げる機能を果たしていません。お役所的です。みための形が整っていればいいだけなのです。仕事はしていないけれど、仕事をしているふりをしていれば、給料がもらえて、自分の地位が保たれるのです。よくある話です。
仲本千津さんは、早稲田大学で、『国際関係論』を学んで、一橋大学大学院に進まれて、アフリカのサブサハラ(サハラ砂漠より南。アフリカの南部)で起きていた民族紛争を研究されています。
アフリカがヨーロッパの植民地だったことが書いてある本を読んだことがあります。アフリカの国境というのは、直線的なのですが、その土地の国民が引いた線ではなくて、よそから来た外国人が現地の人たちの意向とは関係なく引いた線だというものでした。
現地に住んでいるアフリカの人たちにとっては、意味のない国境線だったのです。
19世紀の中ごろから、イギリス、フランス、ドイツなどが、アフリカの地域を植民地にしたのです。その後、アフリカの国々として独立しています。民族ごとに国ができあがっていないので、民族紛争があるそうです。民族紛争はかなり深刻なようすです。
読んでいて思い出した本が一冊あります。
『インパラの朝 中村安希 集英社』読んだ時の感想の一部です。
この本は旅行記です。作者が26歳から28歳までの2年間、ユーラシア大陸からアフリカ大陸を女ひとり、バックパッカーとして旅をした記録です。
作者のテーマは、『貧富の差を目の当たりにすること(まのあたり)』そして、人間にとって大事なことは、『自由』であることです。『自由』とは、移動の自由です。旅であり、住む場所の選択でもあります。加えて、日本の国際貢献活動に関する批判があります。
予算の消化、派遣数の確保、宣伝のために、現地の人たちが望まない援助を無理やり押し付けている。これに対する作者の怒りは正当であり、正義があります。何ができるのか、真実をつきとめたいという若さがみなぎっています。
『援助』は、現地住民の平衡感覚を狂わせる。学校が建っても裕福なこどもしか通えない。ねたみ、そねみ、嫉妬(しっと)、対立が始まり、やがて『援助』が原因で地域内紛争が始まる。
外国人の日本人の性質に対する評価は低い。(厳しいご指摘です。援助は大切ですが、やり方を考えないと現地で暮らす人たちの迷惑になります)
-読後の記録が残っていないのですが、たしかこの本に次のようなことが書いてあった記憶です。
アフリカのジャングルの中で道に迷って一夜を過ごした。翌朝、現地住民に出会った。恐怖と不安で心が震えた。そしたら、みんなとても親切にしてくれた。みんな優しかった。
作者は、日本に自分の居場所がなかったから海外へ出た。作者が知ったのは、世界の国々に住む人たちは、お互いを知ろうとせず、マスメディア等でつくられたイメージで相手を判断する。おおいなる勘違いで世界が成り立っている。
そんなことが書いてあった記憶です。人間は本来、心優しい生き物なのです。いろいろな欲が入り混じると鬼になるのです。
こちらの本では、49ページに、支援されたほうが支援先に依存してしまうから、『自立』できる支援が大事だと書いてあります。国の上下関係、人間の上下関係はつくりたくないようすです。
さて、仲本千津さんは、大学院一年生の終わりに、アメリカ合衆国で栃迫篤昌(としさこ・あつまさ)さんという起業家に会い、彼が行っていた開発途上国の人を助けるビジネスを知ります。今後の進路を決めるきっかけがあった時です。
仲本千津さんは、大学院を二年生で修了し、大手銀行へ就職します。
27ページまで読みましたが、少ないページのなかに、大量の情報が入っている文章の書き方です。こどもさんが読むのには、ついていくのがたいへんかもしれません。
『第3章 銀行からアフリカ支援NGOへ』
NGO:非政府組織。市民が主体。営利を目的としない活動。ノン・ガヴァメンタル・オーガニゼーションズ。世界的な問題に取り組む。貧困、飢餓、環境などに取り組む市民団体のこと。
(つづく)
56ページまで読み終えました。
う~む。仕事の選択に関する小学校高学年向きの本なのでしょうが、一般的ではありません。
特殊な職業選択です。なかなか真似(まね)はできません。
第3章のはじめのところに書いてありますが、仲本千津さんは、大手銀行に就職したあと、業務内容が自分の望むものではなかったということで退職されています。
ひとつは、制服職場であることが理由でした。銀行に限らず、制服を着用して働く職場は、上司からの職務命令と、従業員の服従が基本で仕事を進めていきます。
従業員は、機械の歯車のようなものです。組織の上層部から言われたことを言われたとおりにやっていきます。
そうすれば、毎月決まった日に決まった給料がもらえます。ボーナスももらえます。たいていは退職金ももらえます。福利厚生があって、年金も本人負担と事業主負担(同額)分を納めることで、国民年金よりも多い額で年金の受給ができます。医療保険もあります。病気になったとき、安心して病院にかかることができます。そしてたいてい従業員は、一度や二度は、大きな病気やケガで入院をしたりもします。そうなっても、従業員の立場を守る規則があります。
組織目標は(会社の目標は)、まずは社会貢献ですが、大きな目標として、利潤の追求(りじゅんのついきゅう。お金を稼ぐ(かせぐ))ということがあります。お金がなければ会社や組織を維持していくことができません。
営利目的の組織で働く時には、自分ではない自分のようなものを演じて働きます。仕事用の自分を演じます。立場に応じてものを言います。かなり苦しいです。でも、お金をもらって、生活していかなければなりません。家族がいれば、家族を養っていかなければなりません。
人間にはふたつのタイプがあります。雇われて生活していく人と、自営で働いていく人です。
仲本千津さんは、自営で働いていくことにされました。
ご自分では銀行に就職されて、『やばっ! 私、まちがったところに来ちゃった……』と気づかれています。
仲本千津さんは、『決められた通りに、確実にやること』ができません。銀行職場には場違いの資質と能力の持ち主でした。
仕事を選ぶ時は、よ~く考えたほうがいい。わたしは、仕事は、才能と努力と人間関係だと思っています。自分は何だったらできるか、どんな苦痛だったら耐えられるか(仕事は苦痛に耐えるという面があります)、よ~く考えて仕事を選んだほうがいいです。
仲本千津さんは、三年間ぐらい銀行で働かれたあと、自分が希望する職に転身されています。
最近は、就職後すぐに辞めてしまう大卒の人が多い。
仕事を辞めて、食べていける(生活できる)ということが不思議です。親の援助でもあるのでしょうか。それとも、わざわざ正社員の職を捨てて、アルバイト生活を選択するのでしょうか。老齢である自分の世代にとっては不可解です。人生においては、なるべく無職の期間を短くすることが、生涯獲得賃金を十分確保するコツです。老後に受け取る年金の受給額にも影響してきます。若い頃はそういったことがわかりません。あとになって後悔します。
雇う側の立場として、ひとこと書いておきます。人、ひとり雇うのでも、時間と経費と手間がかかっています。この会社で働きたいと言ってきたから採用したのに、短期間で辞められたら、雇うほうにとっては、採用までに費やした、時間、経費、手間が水の泡です。損失が出ます。採用後の研修計画の実施にも変更がいります。ちゃんと手順を踏んだ段取りがしてあるのです。新人に仕事を教える先生役もあらかじめ決めてあります。
そして、仕事を辞めた人間にはわからないことでしょうが、辞めたあとのポスト(職)に欠員が出てしまいます。辞めた人の代わりはそうそう簡単には見つかりません。欠員となったひとり分の仕事量をほかの人たちでやらなければならなくなります。やりたくもない残業、やるはずでなかった残業を、在籍している従業員たちが、ぶつぶつ文句を言いながらやることになります。チームワークが乱れます。新規採用の早期退職は、まわりの人たちにたくさん迷惑をかけることに気づいておいてほしい。
あわせて、年休は全部消化してから辞めますとか、夏のボーナスをもらってから辞めますなどと言われると、仕事もしていないのにお金と休みだけもらって辞めるのか、バカヤローとなります。
それでも辞めるのなら引き止めませんが、みんな、あいつの顔は二度と見たくないと思うでしょう。
次の仕事がすんなり見つかるとも思えません。履歴書を見て、なぜ短期間でやめたのかという話になります。ああ、この人は仕事が続かない人だと判断されて、以降の求職活動では不採用になる可能性が高いでしょう。どこの会社や組織でも、負の財産になりそうな人は雇いません。自分のことだけ考えて、会社に貢献する意志がない人は雇えません。
2011年3月11日に起きた東日本大震災のことが書いてあります。
『死』を意識します。
仲本千津さんの中で、自分はいつ死ぬかわからないから、後悔のないような職業選択をしようという気持ちが湧いてきます。
小暮さん(こぐれさん):テーブル・フォー・ツー代表
凡人には、大学院に行ったり、アフリカに行ったりということはなかなかできません。発想すらしません。
笹川アフリカ協会(ささかわアフリカきょうかい):農業で、アフリカの貧困を救う。
英語はガッツで話せるようにしたというようなことが書いてあります。
鮫島弘子(さめじま・ひろこ):途上国で作った商品を先進国の人に売るビジネスをしている。バッグのブランドをつくった。エチオピア特産の羊の革(かわ)で高品質なバッグをつくり日本で売る。仲本千津さんは、鮫島弘子さんと行動を共にします。
プロボノ:ボランティア。社会人経験、専門技術、知識のある人が、そのスキル(技術)を使ってボランティア活動をする。
師弟関係は仕事を身に着けるうえで必要な手段でしょう。教えてもらわないとできないことってあります。鮫島弘子さんが師匠で、仲本千津さんが弟子(でし)です。ファッション業界で事業をしていく手法を学びます。鮫島弘子さんの会社名が、『アンドゥアメット』。
メンター:自分の悩みや夢を聞いてくれる人。相談にのってくれる人。
仲本千津さんは、笹川アフリカ協会の配慮で、ウガンダ駐在員になりました。任期は一年以上です。
『第4章 起業』
仲本千津さんのウガンダ・首都カンパラでの生活スタートです。
母国語が英語ではないところの人が話す英語は聞き取りやすくわかりやすい。記号のようなものです。
60年ぐらい前の日本のいなかの暮らしに似ています。いなかでは、畑があって自給自足の暮らしがベースにありました。都市部で生活するには買い物をしなければならないのでお金がいります。
こどもの世話も田舎(いなか)なら、親族や近所の人に頼めましたが、都市部ではお金を出してどこかに預けなければなりません。
カンパラは都市部なので、お金がいります。シングルマザーたちには負担です。
いなかでの燃料は、豆炭、練炭(れんたん。七輪を使用していました(しちりん)、薪(まき))など、都市部では光熱費がいります。また、家賃がいります。
競争社会ではとかく弱者がおいてきぼりにされます。女、こども、高齢者、障害者などがおいてきぼりです。
仲本千津さんの願いは、人のためになる仕事をしたいことです。
仲本千津さんは、色鮮やかなアフリカンプリントに目を付けました。
布地を買ってきて、オーダーメイドで服をつくって、日本で売るという商売を思いつきます。おおもとの気持ちは、シングルマザーでがんばっている地元の主婦を応援するためです。
グレース・ナカウチ:自分のこども3人と亡姉のこども1人、ひとりで4人の子育てをしているシングルマザー。手先が器用(きよう。細かい作業をじょうずにできる)。
ウガンダの人は、お金で学歴を買う面があります。まあ、日本も同様ですが。
経済的な事情で、学力、能力があっても学校に行けない人たちが多いそうです。
ウガンダは、豚(ぶた)がお金代わりになる社会です。一度に8匹ぐらいの子豚が生まれる。子豚はお金になるそうです。子豚を売って学費にあてるそうです。
投資として豚を飼う。
先日読んだ長崎県を舞台にした本にも同類のことが書いてありました。豚ではなく、ニワトリでした。
『ニワトリと卵と、息子の思春期 繁延あづさ(しげのぶ・あづさ) 婦人之友社』以下、感想の一部です。
自立したいという、お子さんの反抗期の始まりがあります。
これまでは、おかあさんの言うことをきいてきた。でも、これからは、おかあさんのいうことをききたくないのです。母は母で、どう対応したらいいのかわからず悩みます。まっこうからダメと言えなくて、条件闘争になったりもします。(そうしたかったら、こういう条件をのみなさいというパターンです) 『お母さんがなんと言おうと、オレは放課後ゲームを買いに行く!』強い主張があります。オレの人生はオレのもので、お母さんのものではない。オレの人生をお母さんが支配することはできないというこどもさんからの強い主張が母親に対してあります。オレのことはオレが一番わかる。オレのことは、お母さんにはわからない。
ゲーム機を買うと吠えていた(ほえていた)ご長男が、ゲーム機ではなく、ニワトリを買ったというところがおもしろいエピソードです。理由は、卵がとれるからでした。
スーザン・アグーチ:従業員のひとり。バッグをつくってもらった。縫製(ほうせい。ミシンで縫ってつくる)の技術が高い女性だそうです。
ナジェラマ・サラ:革を縫う技術をもった女性。
雇う側の仲本千津さんの心の持ち方が書いてあります。『この人たちがいなかったら事業が成り立たない、対等のパートナー』として、三人のウガンダ人女性と接する。『従業員の生活に責任を負う経営者』になる。
『第5章 おかあちゃん 百貨店飛び込み営業事件』
ハンドメイドの生産です。(てづくり)。内職仕事のようでもあります。(主婦が、家事の合間に家でする仕事)。アフリカのシングルマザーを支援するバッグのビジネスを始めます。かわいそうな人たちが作ったバッグではない。同情で一度だけ買ってもらうバッグではなく、“サステナブル(持続可能な)”なビジネスにする。
実のお母さんにスタッフに入ってもらう。
アフリカンプリントの布地でバッグをつくって売る商売に参加してもらいます。
バイヤー:商品の買い付けや商品管理の仕事をする人
ポップアップストア:期間限定の特設ショップ
農業支援の仕事を辞めて、バッグ作りと販売に専念する。
レベッカアケロ:ウガンダでの会社組織名。仲本千津さんのウガンダ名からきているそうです。アケロが、『幸運』で、幸運を呼ぶ女性という意味だそうです。バッグの商品名が、『アケロバッグ』です。そこまでたどり着くまでに4年がかかりました。
『第6章 原石が宝石に変わるとき』
最初のうちは、バッグに不良品もあったそうです。根気よくやり直します。
ウガンダには、健康保険制度(みんなで、保険料を納めて、いざというときに保険料から医療費を支払う)がなく、借金をしてその場をしのぐそうです。
従業員の医療費を会社で出す。(年間限度額あり)
会社のお金を自分のポケットに入れてしまう人がいるそうです。本にも書いてありますが、盗んだお金で生活を続けることは容易ではありません。盗むことを仕事にするよりも、ちゃんと毎日働く方がお金になります。盗んだお金は一時的な収入でしかありません。
給料だけでは、従業員の確保がむずかしい。医療費支援や無利子のローンを提供したそうです。経営する人と雇われる人の間に信頼関係を築きます。
相場よりも高い給料も払います。
工房で働く現地女性の生活が豊かになっていきます。
『第7章 罪深きファッション産業』
「大量に作って大量に捨てる」やり方を問題視されています。
自然環境に悪影響を与えている面もあるそうです。「染料」とか、化学薬品の使用です。
大手のファストファッションブランドは、大量に作って、売れ残りを大量に捨てるそうです。
大量生産、大量消費、大量廃棄のサイクルがあるそうです。
いろいろ課題は多いです。
中国やインドから、コピー商品がウガンダに入ってくるそうです。布地の質が落ちるそうです。
西アフリカのガーナに、アフリカンプリントの工場がある。ウガンダとガーナの間は飛行機で10時間以上もかかるそうです。アフリカはなんて大きな大陸なのでしょう。
材料費はかかるけれど、本物のアフリカンプリントを仕入れていいものを作ります。
エシカル:倫理的という意味。エシカル消費は、①環境にダメージを与えていない。②その会社で働く人を苦しめていないというような商品をつくる。
『生産現場』のことが書いてあります。
ウガンダでは、劣悪な環境の中で労働者が働いているそうです。安い給料で長時間労働です。
政府に頼っても動いてくれないようです。
仲本千津さんは、快適な生産現場(職場)をつくって、インターネットで公開する取り組みをされています。お客さんから、いい商品をつくってくれてありがとうの声が労働者に届きます。働く張り合いがあります。
インスタライブ:インスタグラムを使って、リアルタイムで配信ができる機能。
『第8章 ウガンダのために、日本のためにも』
アフリカンプリントは、もとは、ヨーロッパ生まれだそうです。
ウガンダ生まれの素材を使ってものづくりをしたい。
『バークロス』:木からつくる。スエードのような革のような素材。不思議な風合い(ふうあい:手ざわり、感触、見た目、着心地など)がある。木の幹からとれる布。木は、『ムトゥバ』という種類。木の幹をはいで、素材にする。
マサカ:バークロスづくりで有名な土地。首都カンパラから車で、何時間もかかる。
大島紬(おおしまつむぎ):テレビ番組、『東野・岡村の旅猿 プライベートでごめんなさい』で、奄美大島ロケのときに、工程を観ました。泥で黒く染めた織物です。黒いバークロスは泥で染めるそうです。黒、白(もともとの色のようです)、茶色(日光にあてる)がある。バークロスでバッグをつくって売る。作り方の手法を知っている首都カンパラ在住ベルギー人女性エバと一緒に考える。できあがった商品に、『エバ・バッグ』と名づけました。
やりたいと思っていないことを仕事としてやっていくか、自分のやりたいことを仕事としてやっていくかというような迷いと選択のことが書いてあります。人はたいていやりたくないことをやってお金をもらうことでがまんしています。まずは、生活していくことが優先なのです。
テーブル・フォー・ツー(ふたりのための食卓。こどもたちが食事を分かち合う):途上国の課題と先進国の課題を同時に解決するビジネスのあり方。
『第9章 救えなかった命』
暗い話です。仲本千津さんの弟さんが、2歳のときに川遊び中、水の事故で亡くなっています。仲本千津さんは10歳でした。
こどもの事故は一瞬で起きるので、目を離さないようにしなければなりません。うちの息子も幼児のときに片足を大やけどしたことがあります。長いこと通院しました。まだ小さかったので、やけどのあとは消えました。ホッとしましたが、親として深く後悔しました。こどもが小さい時は、外へはあまり出歩かないほうが安全です。とくに水のそばと火のそばは危険です。キャンプやバーベキューは要注意です。車を動かすときにも車のそばに幼児がいないか注意を払います。最近のニュースだと、マンションの上階から幼児の転落事故などがあることを聞きます。
仲本千津さんとお母さんの律江さんは、会社リッチーエブリデイの創業日を、弟の大毅(だいき)さんの命日である8月26日にされました。みんなでがんばります。
『第10章 夢見る力』
2019年(令和元年)5月、代官山(東京都渋谷区)で直営ショップのオープンです。
2020年(令和2年)3月下旬、コロナ禍の影響が出始めます。ウガンダはロックダウンになってしまいました。仲本千津さんは、会社の倒産が心配です。工房スタッフに出勤しなくても給料は払う。3か月後にはロックダウンは終わると予想している。(そうしないと、優秀な従業員が離れて行ってしまう)。1か月半後に、ロックダウンが解除されています。
クラフト:工芸品、民芸品、手芸品
『第11章 平和をつくるバッグ』
ウガンダの工房:20人近いスタッフがいる。
仲本千津さんは、日本とウガンダを行ったり来たりしている。
UNHCR:ユーエヌエイチシーアール。国連難民高等弁務官事務所。難民の保護と支援をする国連の組織。難民:武力紛争や戦争などから他国に逃げてきた人。
国境なき医師団:国際的緊急医療団体。非政府組織。非営利の医療、人道援助団体。
赤十字(せきじゅうじ):人道支援を目的とする団体。人道:じんどう。人として行うべき道。
アフリカの課題:貧困、女性差別。
仲本千津さんの意思、願いとして、『女性が「こうありたい自分」を実現できるように支えたい』
なかなかできないことです。
まずは、将来自分がなにをして生活を成り立たせていくのかをじっくり考えることでしょう。そのためには、人の話を聞いたり、本を読んだりするといいでしょう。
とりあえず27ページまで読みました。
読みながら感想をつぎ足していきます。
偉人伝、伝記のようです。
仲本千津さんという女性の方について、江口絵里さんが聞き取りをして文章をつくって、この本ができあがっています。
仲本千津(なかもと・ちづ):1984年生まれですから、40歳ぐらいの女性です。社会起業家。ブランド(特定の商品、品物のこと。会社、組織)RICCI EVERYDAY(リッチーエブリデイ)の共同創業者兼COO(シーオーオー。チーフ・オペレーティング・オフィス。組織の責任者という役職名)。ロングヘアの小柄な女性。いつも心に秘めている思いは、『人の命を救いたい』です。
仲本千津さんは、アフリカにあるウガンダの工房で、現地の女性たちと布製のカバンをつくって日本で販売しています。
仕事をするときの動機付けは大事です。気持ちの根っこに、『世のため人のために働く』と、強く思わないと、職場での不祥事につながります。
『仕事は楽で、給料が良くて、休みが多いほうがいい』とだけ思う人は、仕事の手順を省略したり、会社や同僚のお金をポケットに入れたりすることがあります。働く場所では、仕事仲間同士の信頼関係は、とてもだいじです。
仲本千津さんの母親である律江さん:会社名の由来です。律(りつ)から「り」と千津から「ち」で、『リッチーエブリデイ』という社名です。おかあさんも会社のスタッフのひとりです。
ウガンダ:東アフリカにある国。旧イギリス植民地(1962年(昭和37年)にイギリスから独立)。人口約4570万人。首都カンパラ。
43ページに詳しい記事があります。赤道直下だが、高地にあるので(標高が高い。平均標高1200mぐらい)、一年中、日本の初夏のような気候が続く。湿度が低く快適な環境にある。治安がいい。人々が穏やか(おだやか)。農作物がよくとれる。マンゴー、スイカ、くだもの、お米、トウモロコシ、牛肉、鶏肉(とりにく)など。暮らしやすい。
されどウガンダは、世界で最も貧しい国のひとつだそうです。『産業』が不足している。『観光業』はある。国民は、大学を出ても安定した仕事がない。
男性が働かない。男性は、おしゃべりとギャンブルをしている。女性が働く。女性はとても忙しい。ある意味、女性で社会が成り立っている。でも、女性の立場は弱い。浮気男や暴力を振るう夫がいる。離婚するので、シングルマザーが多い。母子家庭です。
『はじめに』があって、第1章から第11章まであって、『おわりに』で終わります。
ウガンダの布地(色鮮やか。アフリカンプリント)を素材にして、ミシンで布バッグを縫って(ぬって)、日本で販売する組織の運営をしている人です。
ウガンダ人の女性8人(シングルマザーが多い)が、ミシンの前に座って、作業をしているようすが書いてあります。
社会起業家:社会にある課題を、事業によって解決することに取り組む人。社会にある課題とは、『貧困』、『格差』、『差別』、『戦争』、『環境破壊』、『地球温暖化』などです。
こどもたちに、社会起業家になることを勧める本だろうか。それとも、社会起業家という職種もありますという情報を提供する本だろうか。
『第1章 社会起業家 仲本千津』、『第2章 「私、国連で働く』
6歳ぐらいのころのエピソードがひとつ書いてあります。すべり台をすべって、泥水の水たまりに頭からつっこんだというような勇敢な姿です。
仲本千津さんは、4人きょうだいの一番上だそうです。
静岡県生まれ、その後千葉県居住ののち小学4年生から、静岡県内で育ったそうです。
両親と祖母、4人きょうだいの7人家族です。
小学5年生のとき、医師になりたいと思った。『国境なき医師団』に入ろうと思った。
中学一年生のときに、洋画、『シンドラーのリスト』を観て、深い感銘を受けたそうです。
わたしもシンドラーのリストを何回か観ました。最初シンドラーは、けしていい人ではありませんでしたが、ナチス・ドイツが、ユダヤ人を迫害するようすを見て、これはおかしいと思い、収容所に収容されているユダヤ人を自分の工場で雇用して、最終的にたくさんのユダヤ人の命を救います。シンドラーは、金もうけという商売をしながら、自分の利益を確保しつつ、ばれたら自分もナチス・ドイツに殺されるかもしれないという危険をくぐりぬけて生き延びた人でした。
わたしが映画を観たときの感想の一部をここに落としてみます。
『商人と軍人との贈収賄(ぞうしゅうわい)の世界です。給料以外の金と酒とタバコと宝石とが世の中を動かしています。(軍人が商人から金銭や物品を不正に受け取って、商人に有利なはからいをする)。(軍人が)裁量(さいりょう。決める)する権限を物々交換で自由自在に操って私腹をこやす者たちがたくさんいます。
捕まえたユダヤ人を雇用する。ユダヤ人には人件費がいらない。まるで懲役刑のようです。彼らはシンドラーが設立したお鍋をつくる会社で働きます。拘束はされますが、命は助かります。
シンドラーに命を助けられた片腕のない老人がシンドラーに、『アイ ワーク ハード(シンドラーあなたのために一生懸命働きます)』、シンドラーが軍人に、『ヴェルリ ユースフル(彼は有益な人物です)』、されど、その後老人は射殺されてしまいました。(片腕のない人間は道具として工場で役に立たないから)。それは、シンドラーの人として守るべき道を優先しようという方向への心変わりとなる出来事のひとつでした。
金もうけのことしか考えていなかった悪人のシンドラーが、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害の実態を見て、これではいけないと考え直して善人に変化していきます。人としてあるべき姿に目覚めたのです』
仲本志津さんは中学時代コーラス部に所属していた。学級委員、生徒会役員、部活の部長などリーダー的な役をやった。そのころのご本人の気持ちの持ち方として、『人の話をよく聞いて、それを実現する』というようなことが書いてあります。
緒方貞子(おがた・さだこ):国際政治学者。国際協力機構理事長。国連人権委員会日本政府代表。1927年(昭和2年)-2019年(令和元年)92歳没。
自分は長い間生きてきて、国連の職員として働いている人には一度だけ出会ったことがあります。ご近所に子どもさん連れのご家族で引っ越してこられて、話を聞いて、『国連』というところに就職するのにはどうやって試験などを受けるのだろうかとびっくりしました。その後数年たって、転居していかれました。
国際協力機構(JICAジャイカ)は、昨年秋、東京見物に行ったときに見学しました。中央線の市ヶ谷駅で降りて、坂道を上って行きました。『地球ひろば』を見学して、レストランで、そのとき提供されていたペルーのランチを食べました。おいしいというよりも、現地の人たちがふだん食べているもので、安価なふつうの味の主食という食事でした。
ジャイカの見学では、食事に加えて展示の内容も含めて、貧しい国を援助するということが、国際協力機構の果たす役割だと理解しました。
ウクライナへのロシアの攻撃を見ていて、国連(国際連合)の無力さを感じます。
国連は、そういう組織(集まり)があるというだけで、平和を成し遂げる機能を果たしていません。お役所的です。みための形が整っていればいいだけなのです。仕事はしていないけれど、仕事をしているふりをしていれば、給料がもらえて、自分の地位が保たれるのです。よくある話です。
仲本千津さんは、早稲田大学で、『国際関係論』を学んで、一橋大学大学院に進まれて、アフリカのサブサハラ(サハラ砂漠より南。アフリカの南部)で起きていた民族紛争を研究されています。
アフリカがヨーロッパの植民地だったことが書いてある本を読んだことがあります。アフリカの国境というのは、直線的なのですが、その土地の国民が引いた線ではなくて、よそから来た外国人が現地の人たちの意向とは関係なく引いた線だというものでした。
現地に住んでいるアフリカの人たちにとっては、意味のない国境線だったのです。
19世紀の中ごろから、イギリス、フランス、ドイツなどが、アフリカの地域を植民地にしたのです。その後、アフリカの国々として独立しています。民族ごとに国ができあがっていないので、民族紛争があるそうです。民族紛争はかなり深刻なようすです。
読んでいて思い出した本が一冊あります。
『インパラの朝 中村安希 集英社』読んだ時の感想の一部です。
この本は旅行記です。作者が26歳から28歳までの2年間、ユーラシア大陸からアフリカ大陸を女ひとり、バックパッカーとして旅をした記録です。
作者のテーマは、『貧富の差を目の当たりにすること(まのあたり)』そして、人間にとって大事なことは、『自由』であることです。『自由』とは、移動の自由です。旅であり、住む場所の選択でもあります。加えて、日本の国際貢献活動に関する批判があります。
予算の消化、派遣数の確保、宣伝のために、現地の人たちが望まない援助を無理やり押し付けている。これに対する作者の怒りは正当であり、正義があります。何ができるのか、真実をつきとめたいという若さがみなぎっています。
『援助』は、現地住民の平衡感覚を狂わせる。学校が建っても裕福なこどもしか通えない。ねたみ、そねみ、嫉妬(しっと)、対立が始まり、やがて『援助』が原因で地域内紛争が始まる。
外国人の日本人の性質に対する評価は低い。(厳しいご指摘です。援助は大切ですが、やり方を考えないと現地で暮らす人たちの迷惑になります)
-読後の記録が残っていないのですが、たしかこの本に次のようなことが書いてあった記憶です。
アフリカのジャングルの中で道に迷って一夜を過ごした。翌朝、現地住民に出会った。恐怖と不安で心が震えた。そしたら、みんなとても親切にしてくれた。みんな優しかった。
作者は、日本に自分の居場所がなかったから海外へ出た。作者が知ったのは、世界の国々に住む人たちは、お互いを知ろうとせず、マスメディア等でつくられたイメージで相手を判断する。おおいなる勘違いで世界が成り立っている。
そんなことが書いてあった記憶です。人間は本来、心優しい生き物なのです。いろいろな欲が入り混じると鬼になるのです。
こちらの本では、49ページに、支援されたほうが支援先に依存してしまうから、『自立』できる支援が大事だと書いてあります。国の上下関係、人間の上下関係はつくりたくないようすです。
さて、仲本千津さんは、大学院一年生の終わりに、アメリカ合衆国で栃迫篤昌(としさこ・あつまさ)さんという起業家に会い、彼が行っていた開発途上国の人を助けるビジネスを知ります。今後の進路を決めるきっかけがあった時です。
仲本千津さんは、大学院を二年生で修了し、大手銀行へ就職します。
27ページまで読みましたが、少ないページのなかに、大量の情報が入っている文章の書き方です。こどもさんが読むのには、ついていくのがたいへんかもしれません。
『第3章 銀行からアフリカ支援NGOへ』
NGO:非政府組織。市民が主体。営利を目的としない活動。ノン・ガヴァメンタル・オーガニゼーションズ。世界的な問題に取り組む。貧困、飢餓、環境などに取り組む市民団体のこと。
(つづく)
56ページまで読み終えました。
う~む。仕事の選択に関する小学校高学年向きの本なのでしょうが、一般的ではありません。
特殊な職業選択です。なかなか真似(まね)はできません。
第3章のはじめのところに書いてありますが、仲本千津さんは、大手銀行に就職したあと、業務内容が自分の望むものではなかったということで退職されています。
ひとつは、制服職場であることが理由でした。銀行に限らず、制服を着用して働く職場は、上司からの職務命令と、従業員の服従が基本で仕事を進めていきます。
従業員は、機械の歯車のようなものです。組織の上層部から言われたことを言われたとおりにやっていきます。
そうすれば、毎月決まった日に決まった給料がもらえます。ボーナスももらえます。たいていは退職金ももらえます。福利厚生があって、年金も本人負担と事業主負担(同額)分を納めることで、国民年金よりも多い額で年金の受給ができます。医療保険もあります。病気になったとき、安心して病院にかかることができます。そしてたいてい従業員は、一度や二度は、大きな病気やケガで入院をしたりもします。そうなっても、従業員の立場を守る規則があります。
組織目標は(会社の目標は)、まずは社会貢献ですが、大きな目標として、利潤の追求(りじゅんのついきゅう。お金を稼ぐ(かせぐ))ということがあります。お金がなければ会社や組織を維持していくことができません。
営利目的の組織で働く時には、自分ではない自分のようなものを演じて働きます。仕事用の自分を演じます。立場に応じてものを言います。かなり苦しいです。でも、お金をもらって、生活していかなければなりません。家族がいれば、家族を養っていかなければなりません。
人間にはふたつのタイプがあります。雇われて生活していく人と、自営で働いていく人です。
仲本千津さんは、自営で働いていくことにされました。
ご自分では銀行に就職されて、『やばっ! 私、まちがったところに来ちゃった……』と気づかれています。
仲本千津さんは、『決められた通りに、確実にやること』ができません。銀行職場には場違いの資質と能力の持ち主でした。
仕事を選ぶ時は、よ~く考えたほうがいい。わたしは、仕事は、才能と努力と人間関係だと思っています。自分は何だったらできるか、どんな苦痛だったら耐えられるか(仕事は苦痛に耐えるという面があります)、よ~く考えて仕事を選んだほうがいいです。
仲本千津さんは、三年間ぐらい銀行で働かれたあと、自分が希望する職に転身されています。
最近は、就職後すぐに辞めてしまう大卒の人が多い。
仕事を辞めて、食べていける(生活できる)ということが不思議です。親の援助でもあるのでしょうか。それとも、わざわざ正社員の職を捨てて、アルバイト生活を選択するのでしょうか。老齢である自分の世代にとっては不可解です。人生においては、なるべく無職の期間を短くすることが、生涯獲得賃金を十分確保するコツです。老後に受け取る年金の受給額にも影響してきます。若い頃はそういったことがわかりません。あとになって後悔します。
雇う側の立場として、ひとこと書いておきます。人、ひとり雇うのでも、時間と経費と手間がかかっています。この会社で働きたいと言ってきたから採用したのに、短期間で辞められたら、雇うほうにとっては、採用までに費やした、時間、経費、手間が水の泡です。損失が出ます。採用後の研修計画の実施にも変更がいります。ちゃんと手順を踏んだ段取りがしてあるのです。新人に仕事を教える先生役もあらかじめ決めてあります。
そして、仕事を辞めた人間にはわからないことでしょうが、辞めたあとのポスト(職)に欠員が出てしまいます。辞めた人の代わりはそうそう簡単には見つかりません。欠員となったひとり分の仕事量をほかの人たちでやらなければならなくなります。やりたくもない残業、やるはずでなかった残業を、在籍している従業員たちが、ぶつぶつ文句を言いながらやることになります。チームワークが乱れます。新規採用の早期退職は、まわりの人たちにたくさん迷惑をかけることに気づいておいてほしい。
あわせて、年休は全部消化してから辞めますとか、夏のボーナスをもらってから辞めますなどと言われると、仕事もしていないのにお金と休みだけもらって辞めるのか、バカヤローとなります。
それでも辞めるのなら引き止めませんが、みんな、あいつの顔は二度と見たくないと思うでしょう。
次の仕事がすんなり見つかるとも思えません。履歴書を見て、なぜ短期間でやめたのかという話になります。ああ、この人は仕事が続かない人だと判断されて、以降の求職活動では不採用になる可能性が高いでしょう。どこの会社や組織でも、負の財産になりそうな人は雇いません。自分のことだけ考えて、会社に貢献する意志がない人は雇えません。
2011年3月11日に起きた東日本大震災のことが書いてあります。
『死』を意識します。
仲本千津さんの中で、自分はいつ死ぬかわからないから、後悔のないような職業選択をしようという気持ちが湧いてきます。
小暮さん(こぐれさん):テーブル・フォー・ツー代表
凡人には、大学院に行ったり、アフリカに行ったりということはなかなかできません。発想すらしません。
笹川アフリカ協会(ささかわアフリカきょうかい):農業で、アフリカの貧困を救う。
英語はガッツで話せるようにしたというようなことが書いてあります。
鮫島弘子(さめじま・ひろこ):途上国で作った商品を先進国の人に売るビジネスをしている。バッグのブランドをつくった。エチオピア特産の羊の革(かわ)で高品質なバッグをつくり日本で売る。仲本千津さんは、鮫島弘子さんと行動を共にします。
プロボノ:ボランティア。社会人経験、専門技術、知識のある人が、そのスキル(技術)を使ってボランティア活動をする。
師弟関係は仕事を身に着けるうえで必要な手段でしょう。教えてもらわないとできないことってあります。鮫島弘子さんが師匠で、仲本千津さんが弟子(でし)です。ファッション業界で事業をしていく手法を学びます。鮫島弘子さんの会社名が、『アンドゥアメット』。
メンター:自分の悩みや夢を聞いてくれる人。相談にのってくれる人。
仲本千津さんは、笹川アフリカ協会の配慮で、ウガンダ駐在員になりました。任期は一年以上です。
『第4章 起業』
仲本千津さんのウガンダ・首都カンパラでの生活スタートです。
母国語が英語ではないところの人が話す英語は聞き取りやすくわかりやすい。記号のようなものです。
60年ぐらい前の日本のいなかの暮らしに似ています。いなかでは、畑があって自給自足の暮らしがベースにありました。都市部で生活するには買い物をしなければならないのでお金がいります。
こどもの世話も田舎(いなか)なら、親族や近所の人に頼めましたが、都市部ではお金を出してどこかに預けなければなりません。
カンパラは都市部なので、お金がいります。シングルマザーたちには負担です。
いなかでの燃料は、豆炭、練炭(れんたん。七輪を使用していました(しちりん)、薪(まき))など、都市部では光熱費がいります。また、家賃がいります。
競争社会ではとかく弱者がおいてきぼりにされます。女、こども、高齢者、障害者などがおいてきぼりです。
仲本千津さんの願いは、人のためになる仕事をしたいことです。
仲本千津さんは、色鮮やかなアフリカンプリントに目を付けました。
布地を買ってきて、オーダーメイドで服をつくって、日本で売るという商売を思いつきます。おおもとの気持ちは、シングルマザーでがんばっている地元の主婦を応援するためです。
グレース・ナカウチ:自分のこども3人と亡姉のこども1人、ひとりで4人の子育てをしているシングルマザー。手先が器用(きよう。細かい作業をじょうずにできる)。
ウガンダの人は、お金で学歴を買う面があります。まあ、日本も同様ですが。
経済的な事情で、学力、能力があっても学校に行けない人たちが多いそうです。
ウガンダは、豚(ぶた)がお金代わりになる社会です。一度に8匹ぐらいの子豚が生まれる。子豚はお金になるそうです。子豚を売って学費にあてるそうです。
投資として豚を飼う。
先日読んだ長崎県を舞台にした本にも同類のことが書いてありました。豚ではなく、ニワトリでした。
『ニワトリと卵と、息子の思春期 繁延あづさ(しげのぶ・あづさ) 婦人之友社』以下、感想の一部です。
自立したいという、お子さんの反抗期の始まりがあります。
これまでは、おかあさんの言うことをきいてきた。でも、これからは、おかあさんのいうことをききたくないのです。母は母で、どう対応したらいいのかわからず悩みます。まっこうからダメと言えなくて、条件闘争になったりもします。(そうしたかったら、こういう条件をのみなさいというパターンです) 『お母さんがなんと言おうと、オレは放課後ゲームを買いに行く!』強い主張があります。オレの人生はオレのもので、お母さんのものではない。オレの人生をお母さんが支配することはできないというこどもさんからの強い主張が母親に対してあります。オレのことはオレが一番わかる。オレのことは、お母さんにはわからない。
ゲーム機を買うと吠えていた(ほえていた)ご長男が、ゲーム機ではなく、ニワトリを買ったというところがおもしろいエピソードです。理由は、卵がとれるからでした。
スーザン・アグーチ:従業員のひとり。バッグをつくってもらった。縫製(ほうせい。ミシンで縫ってつくる)の技術が高い女性だそうです。
ナジェラマ・サラ:革を縫う技術をもった女性。
雇う側の仲本千津さんの心の持ち方が書いてあります。『この人たちがいなかったら事業が成り立たない、対等のパートナー』として、三人のウガンダ人女性と接する。『従業員の生活に責任を負う経営者』になる。
『第5章 おかあちゃん 百貨店飛び込み営業事件』
ハンドメイドの生産です。(てづくり)。内職仕事のようでもあります。(主婦が、家事の合間に家でする仕事)。アフリカのシングルマザーを支援するバッグのビジネスを始めます。かわいそうな人たちが作ったバッグではない。同情で一度だけ買ってもらうバッグではなく、“サステナブル(持続可能な)”なビジネスにする。
実のお母さんにスタッフに入ってもらう。
アフリカンプリントの布地でバッグをつくって売る商売に参加してもらいます。
バイヤー:商品の買い付けや商品管理の仕事をする人
ポップアップストア:期間限定の特設ショップ
農業支援の仕事を辞めて、バッグ作りと販売に専念する。
レベッカアケロ:ウガンダでの会社組織名。仲本千津さんのウガンダ名からきているそうです。アケロが、『幸運』で、幸運を呼ぶ女性という意味だそうです。バッグの商品名が、『アケロバッグ』です。そこまでたどり着くまでに4年がかかりました。
『第6章 原石が宝石に変わるとき』
最初のうちは、バッグに不良品もあったそうです。根気よくやり直します。
ウガンダには、健康保険制度(みんなで、保険料を納めて、いざというときに保険料から医療費を支払う)がなく、借金をしてその場をしのぐそうです。
従業員の医療費を会社で出す。(年間限度額あり)
会社のお金を自分のポケットに入れてしまう人がいるそうです。本にも書いてありますが、盗んだお金で生活を続けることは容易ではありません。盗むことを仕事にするよりも、ちゃんと毎日働く方がお金になります。盗んだお金は一時的な収入でしかありません。
給料だけでは、従業員の確保がむずかしい。医療費支援や無利子のローンを提供したそうです。経営する人と雇われる人の間に信頼関係を築きます。
相場よりも高い給料も払います。
工房で働く現地女性の生活が豊かになっていきます。
『第7章 罪深きファッション産業』
「大量に作って大量に捨てる」やり方を問題視されています。
自然環境に悪影響を与えている面もあるそうです。「染料」とか、化学薬品の使用です。
大手のファストファッションブランドは、大量に作って、売れ残りを大量に捨てるそうです。
大量生産、大量消費、大量廃棄のサイクルがあるそうです。
いろいろ課題は多いです。
中国やインドから、コピー商品がウガンダに入ってくるそうです。布地の質が落ちるそうです。
西アフリカのガーナに、アフリカンプリントの工場がある。ウガンダとガーナの間は飛行機で10時間以上もかかるそうです。アフリカはなんて大きな大陸なのでしょう。
材料費はかかるけれど、本物のアフリカンプリントを仕入れていいものを作ります。
エシカル:倫理的という意味。エシカル消費は、①環境にダメージを与えていない。②その会社で働く人を苦しめていないというような商品をつくる。
『生産現場』のことが書いてあります。
ウガンダでは、劣悪な環境の中で労働者が働いているそうです。安い給料で長時間労働です。
政府に頼っても動いてくれないようです。
仲本千津さんは、快適な生産現場(職場)をつくって、インターネットで公開する取り組みをされています。お客さんから、いい商品をつくってくれてありがとうの声が労働者に届きます。働く張り合いがあります。
インスタライブ:インスタグラムを使って、リアルタイムで配信ができる機能。
『第8章 ウガンダのために、日本のためにも』
アフリカンプリントは、もとは、ヨーロッパ生まれだそうです。
ウガンダ生まれの素材を使ってものづくりをしたい。
『バークロス』:木からつくる。スエードのような革のような素材。不思議な風合い(ふうあい:手ざわり、感触、見た目、着心地など)がある。木の幹からとれる布。木は、『ムトゥバ』という種類。木の幹をはいで、素材にする。
マサカ:バークロスづくりで有名な土地。首都カンパラから車で、何時間もかかる。
大島紬(おおしまつむぎ):テレビ番組、『東野・岡村の旅猿 プライベートでごめんなさい』で、奄美大島ロケのときに、工程を観ました。泥で黒く染めた織物です。黒いバークロスは泥で染めるそうです。黒、白(もともとの色のようです)、茶色(日光にあてる)がある。バークロスでバッグをつくって売る。作り方の手法を知っている首都カンパラ在住ベルギー人女性エバと一緒に考える。できあがった商品に、『エバ・バッグ』と名づけました。
やりたいと思っていないことを仕事としてやっていくか、自分のやりたいことを仕事としてやっていくかというような迷いと選択のことが書いてあります。人はたいていやりたくないことをやってお金をもらうことでがまんしています。まずは、生活していくことが優先なのです。
テーブル・フォー・ツー(ふたりのための食卓。こどもたちが食事を分かち合う):途上国の課題と先進国の課題を同時に解決するビジネスのあり方。
『第9章 救えなかった命』
暗い話です。仲本千津さんの弟さんが、2歳のときに川遊び中、水の事故で亡くなっています。仲本千津さんは10歳でした。
こどもの事故は一瞬で起きるので、目を離さないようにしなければなりません。うちの息子も幼児のときに片足を大やけどしたことがあります。長いこと通院しました。まだ小さかったので、やけどのあとは消えました。ホッとしましたが、親として深く後悔しました。こどもが小さい時は、外へはあまり出歩かないほうが安全です。とくに水のそばと火のそばは危険です。キャンプやバーベキューは要注意です。車を動かすときにも車のそばに幼児がいないか注意を払います。最近のニュースだと、マンションの上階から幼児の転落事故などがあることを聞きます。
仲本千津さんとお母さんの律江さんは、会社リッチーエブリデイの創業日を、弟の大毅(だいき)さんの命日である8月26日にされました。みんなでがんばります。
『第10章 夢見る力』
2019年(令和元年)5月、代官山(東京都渋谷区)で直営ショップのオープンです。
2020年(令和2年)3月下旬、コロナ禍の影響が出始めます。ウガンダはロックダウンになってしまいました。仲本千津さんは、会社の倒産が心配です。工房スタッフに出勤しなくても給料は払う。3か月後にはロックダウンは終わると予想している。(そうしないと、優秀な従業員が離れて行ってしまう)。1か月半後に、ロックダウンが解除されています。
クラフト:工芸品、民芸品、手芸品
『第11章 平和をつくるバッグ』
ウガンダの工房:20人近いスタッフがいる。
仲本千津さんは、日本とウガンダを行ったり来たりしている。
UNHCR:ユーエヌエイチシーアール。国連難民高等弁務官事務所。難民の保護と支援をする国連の組織。難民:武力紛争や戦争などから他国に逃げてきた人。
国境なき医師団:国際的緊急医療団体。非政府組織。非営利の医療、人道援助団体。
赤十字(せきじゅうじ):人道支援を目的とする団体。人道:じんどう。人として行うべき道。
アフリカの課題:貧困、女性差別。
仲本千津さんの意思、願いとして、『女性が「こうありたい自分」を実現できるように支えたい』
なかなかできないことです。
まずは、将来自分がなにをして生活を成り立たせていくのかをじっくり考えることでしょう。そのためには、人の話を聞いたり、本を読んだりするといいでしょう。
2024年05月17日
さよならプラスチック・ストロー ディー・ロミート文
さよならプラスチック・ストロー ディー・ロミート文 ズユェ・チェン絵 千葉茂樹・訳 光村教育図書
これから読みながら文章をつくりますが、地球環境を守ろうという呼びかけの本でしょう。
プラスチックが、地球上でゴミとなって、分解されずに(土に戻らない)、生物に対して悪い影響を及ぼしています。生物が死んじゃいます。
そんな話が始まるのでしょう。
5000年以上前に地球上にいた古代シュメール人が、いまでいうところのストローがなくて困っていたという話から始まります。
その部分を読んで思い出した一冊があります。
『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 ムンディ先生こと山﨑圭一 SBクリエイティブ』
メソポタミア文明(『メソポタミア』は、『川の間の土地』という意味らしい)。ティグリス川とユーフラテス川にはさまれた現在のイラクに昔いた民族の文明です。
アッカド王国と古バビロニア王国があります。シュメールの都市国家として、『ウルク』と『ウル(この絵本では、ウルの女王であった「女王プアビ」のことが書いてあります)』があります。約6000年前にメソポタミア文明が成立したと書いてあります。
シュメール人の土木に関する技術が非常に高度だった。シュメール人は、高さ20mのジックラド(聖塔)を建てた。
さて今読んでいるこの絵本では、シュメール人がつくったビールを飲むのに、ビールの上に麦の殻(から)や、かけらが浮いていて飲みにくかったとあります。ビールの底には、おり(かす)が沈んでいた。
シュメール人には、知恵があったようで、いろいろ工夫しています。シュメール人が、世界で最初の文字を考案した。農作業用の鋤(すき)をつくった。帆船や車輪を発明したとあります。
ストローがわりに、植物の『葦(あし)』を使うことを発案したとあります。
『人間は考える葦である』という言葉を思い出しました。フランスの思想家・哲学者パスカル(1623年-1662年39歳没)の言葉です。人間は葦のように弱弱しいけれど、考えることができるという意味だそうです。考えることができるということは、偉大な力をもっているということらしい。(言葉の意味は、自分には、ちょっとよくわかりません。いずれにしても、シュメール人は、ストローの役割をするものを考え出しました。そして、葦(あし)のストローは、使わなくなれば、自然界にかえるのです)(その後:人間は考えることで、『無限の可能性をもっている』けれど、『人間の力は有限(限りがある)でもある』という表現だそうです。葦(あし)はちっぽけなのです)
絵本の表紙では、海鳥やウミガメが、海に捨てられたストローで困っています。かれらにとって、ストローが命を落とす原因になっているからです。
人間はわがままです。自分たちだけがいい思いをすれば、ほかの生き物はどうなろうと、知ったこっちゃないという気持ちで生活しているのです。
理科の本みたいです。
中国でワインを飲むときに使用した、『植物のくき』とか、南アメリカでお茶を飲むときに使用した、『ボンビージャ』という金属のチューブが書いてあります。
1800年代で、ライ麦のくきが使われています。
ストロー=稲や麦など穀物のくきだそうです。
アメリカのマービン・ストーンという人が、紙をくるくると丸めてのりでとめて、自前のストローを考案します。考えたら、簡単なことでした。1888年に特許をとって、事業化しています。さぞやもうかったことでしょう。『人造ストロー』です。
日本のことは書いてありませんが、日本人の頭脳だって優秀ですから、ストローぐらいのことは、昔の日本において、考案できていたと想像します。
ストローの歴史紹介です。
まっすぐなストローは飲みにくい。発明家のジェゼフ・フリードマンと彼の娘のジュディスが、ミルクシェークを飲むことをきっかけにして、曲がるストローをつくりだしています。
1937年(日本だと、昭和12年)に、『ドリンキング・チューブ』と名づけて特許をとっています。それでもすぐには売れなかった。10年ほどがたって、病院で使用が始まった。さらに10年ぐらいがたって、1960年代にプラスチックのストローが世界中に普及した。なにせ、ストローは便利です。
やがて、使い捨てのプラスチック製品が地球環境を破壊するものとして問題になります。
プラスチックには、『生分解性』がない。土にかえらない。自然に腐らない(くさらない)。水にとけない。
プラスチック製品が捨てられて、海にたどりついて、海で暮らす生き物たちの命を奪っていく。
利用する人間にも問題があるのでしょうが、そういうものをつくって、お金もうけをする人間に問題があります。
『ストローをやめて海を守ろう』
『ストローをなくそう』
そう考える人間もいます。人間は考える葦(あし)なのです。
2011年にマイロ・クレスという少年が、『ストローをなくそう』というキャンペーンを始めたそうです。キャンペーン:宣伝活動
絵本にはいろんなストローの絵があります。竹のストロー、紙のストロー、金属製のストローなどです。
絵本のタイトルどおり、『さようならプラスチック・ストロー』です。
地球環境保護のための啓発本です。けいはつ:教えて、理解してもらえるよう導くこと。
ウミガメの鼻につまったプラスチック製のストローを引き抜くシーンの動画があったそうです。
もうひとつは、太平洋のミッドウェー島に生息するコアホウドリの胃に、ぎっしりとプラスチックがつまっていたそうです。
3Rについて書いてあります。
地球環境を守るための行動指針です。(目標)
Reduce(リデュース):ゴミを減らす。
Reuse(リユース):再利用する。
Recycle(リサイクル):資源として再利用する。
もうひとつ、Refuse(リフューズ):必要がないものを断るとあります。
そういったことは、今言われ始めたことではなく、日本ではごみ処理問題が顕在化(けんざいか。表に出た)した2000年過ぎぐらいから、とても細かいごみの分別収集への取り組みがあったことを思い出しました。
ゴミ捨て場となる埋立地がごみで満杯になりそうで、大慌てになったことがありました。ごみの埋め立てをするための代替え地が見つからないのです。結局、人間はやりたい放題やると、自分たちの居場所までなくしてしまうのです。地球に住めなくなってしまいます。
これから読みながら文章をつくりますが、地球環境を守ろうという呼びかけの本でしょう。
プラスチックが、地球上でゴミとなって、分解されずに(土に戻らない)、生物に対して悪い影響を及ぼしています。生物が死んじゃいます。
そんな話が始まるのでしょう。
5000年以上前に地球上にいた古代シュメール人が、いまでいうところのストローがなくて困っていたという話から始まります。
その部分を読んで思い出した一冊があります。
『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 ムンディ先生こと山﨑圭一 SBクリエイティブ』
メソポタミア文明(『メソポタミア』は、『川の間の土地』という意味らしい)。ティグリス川とユーフラテス川にはさまれた現在のイラクに昔いた民族の文明です。
アッカド王国と古バビロニア王国があります。シュメールの都市国家として、『ウルク』と『ウル(この絵本では、ウルの女王であった「女王プアビ」のことが書いてあります)』があります。約6000年前にメソポタミア文明が成立したと書いてあります。
シュメール人の土木に関する技術が非常に高度だった。シュメール人は、高さ20mのジックラド(聖塔)を建てた。
さて今読んでいるこの絵本では、シュメール人がつくったビールを飲むのに、ビールの上に麦の殻(から)や、かけらが浮いていて飲みにくかったとあります。ビールの底には、おり(かす)が沈んでいた。
シュメール人には、知恵があったようで、いろいろ工夫しています。シュメール人が、世界で最初の文字を考案した。農作業用の鋤(すき)をつくった。帆船や車輪を発明したとあります。
ストローがわりに、植物の『葦(あし)』を使うことを発案したとあります。
『人間は考える葦である』という言葉を思い出しました。フランスの思想家・哲学者パスカル(1623年-1662年39歳没)の言葉です。人間は葦のように弱弱しいけれど、考えることができるという意味だそうです。考えることができるということは、偉大な力をもっているということらしい。(言葉の意味は、自分には、ちょっとよくわかりません。いずれにしても、シュメール人は、ストローの役割をするものを考え出しました。そして、葦(あし)のストローは、使わなくなれば、自然界にかえるのです)(その後:人間は考えることで、『無限の可能性をもっている』けれど、『人間の力は有限(限りがある)でもある』という表現だそうです。葦(あし)はちっぽけなのです)
絵本の表紙では、海鳥やウミガメが、海に捨てられたストローで困っています。かれらにとって、ストローが命を落とす原因になっているからです。
人間はわがままです。自分たちだけがいい思いをすれば、ほかの生き物はどうなろうと、知ったこっちゃないという気持ちで生活しているのです。
理科の本みたいです。
中国でワインを飲むときに使用した、『植物のくき』とか、南アメリカでお茶を飲むときに使用した、『ボンビージャ』という金属のチューブが書いてあります。
1800年代で、ライ麦のくきが使われています。
ストロー=稲や麦など穀物のくきだそうです。
アメリカのマービン・ストーンという人が、紙をくるくると丸めてのりでとめて、自前のストローを考案します。考えたら、簡単なことでした。1888年に特許をとって、事業化しています。さぞやもうかったことでしょう。『人造ストロー』です。
日本のことは書いてありませんが、日本人の頭脳だって優秀ですから、ストローぐらいのことは、昔の日本において、考案できていたと想像します。
ストローの歴史紹介です。
まっすぐなストローは飲みにくい。発明家のジェゼフ・フリードマンと彼の娘のジュディスが、ミルクシェークを飲むことをきっかけにして、曲がるストローをつくりだしています。
1937年(日本だと、昭和12年)に、『ドリンキング・チューブ』と名づけて特許をとっています。それでもすぐには売れなかった。10年ほどがたって、病院で使用が始まった。さらに10年ぐらいがたって、1960年代にプラスチックのストローが世界中に普及した。なにせ、ストローは便利です。
やがて、使い捨てのプラスチック製品が地球環境を破壊するものとして問題になります。
プラスチックには、『生分解性』がない。土にかえらない。自然に腐らない(くさらない)。水にとけない。
プラスチック製品が捨てられて、海にたどりついて、海で暮らす生き物たちの命を奪っていく。
利用する人間にも問題があるのでしょうが、そういうものをつくって、お金もうけをする人間に問題があります。
『ストローをやめて海を守ろう』
『ストローをなくそう』
そう考える人間もいます。人間は考える葦(あし)なのです。
2011年にマイロ・クレスという少年が、『ストローをなくそう』というキャンペーンを始めたそうです。キャンペーン:宣伝活動
絵本にはいろんなストローの絵があります。竹のストロー、紙のストロー、金属製のストローなどです。
絵本のタイトルどおり、『さようならプラスチック・ストロー』です。
地球環境保護のための啓発本です。けいはつ:教えて、理解してもらえるよう導くこと。
ウミガメの鼻につまったプラスチック製のストローを引き抜くシーンの動画があったそうです。
もうひとつは、太平洋のミッドウェー島に生息するコアホウドリの胃に、ぎっしりとプラスチックがつまっていたそうです。
3Rについて書いてあります。
地球環境を守るための行動指針です。(目標)
Reduce(リデュース):ゴミを減らす。
Reuse(リユース):再利用する。
Recycle(リサイクル):資源として再利用する。
もうひとつ、Refuse(リフューズ):必要がないものを断るとあります。
そういったことは、今言われ始めたことではなく、日本ではごみ処理問題が顕在化(けんざいか。表に出た)した2000年過ぎぐらいから、とても細かいごみの分別収集への取り組みがあったことを思い出しました。
ゴミ捨て場となる埋立地がごみで満杯になりそうで、大慌てになったことがありました。ごみの埋め立てをするための代替え地が見つからないのです。結局、人間はやりたい放題やると、自分たちの居場所までなくしてしまうのです。地球に住めなくなってしまいます。
2024年05月13日
宙わたる教室(そらわたるきょうしつ) 伊予原新
宙わたる教室(そらわたるきょうしつ) 伊予原新(いよはら・しん) 文藝春秋
本の帯を読むとどうも定時制高校のお話らしい。
まだ、自分が二十歳前後の頃、定時制高校に通っていた親族がいて、一度見学に行ったことがあります。また、大学の夜間部も見たことがあります。
なんというか、年齢がさまざまでした。昼間の学校のように、学年に応じた年齢の生徒・学生のかたまりではありません。年齢層の幅がとても広い。夜間の大学では、60代の男性もいました。彼は、片道2時間半ぐらいかけて、遠方にある港町のご自宅から電車で休まず通学されているということでした。それだけ、学習意欲が強い人たちが集う(つどう)学校でした。
定時制高校にしても大学の夜間部にしても、勤め先の企業や組織が、通学する社員のためにいろいろ配慮をしてくれていました。仕事の終業時刻が午後4時半ぐらいに設定されていました。企業や組織にとって、優秀な人材を確保して働いてもらって、企業や組織の寿命を継続していくという目的がありました。お金も大切ですが、人材はお金以上に大切な財産でした。昭和時代は、終身雇用の時代でした。
さて、この小説の出だしでは、柳田岳人(やなぎだ・たけと)という若い人が、定時制高校の授業をサボっているような記述から始まります。タバコも吸っています。
現実の学生が柳田岳人のようないいかげんな人間ばかりだと誤解を生むような内容ではないことを願って文章を読み始めます。勉強ができないから夜学に行っているのではないのです。経済的に通うことが無理だから夜学に行っているのです。夜学には、昼間の学生に負けない学力をもっている人もおられました。
第一章から始まって、第七章まであります。全体で282ページの小説です。
仮想の高校でしょう。都立東新宿高校です。昼間は昼間部の生徒、夜は、夜間定時制の生徒がいます。1学年に1クラスある。クラスの定員が30人。定員割れになっている。5時45分開始、9時に4時限が終了する。一日4時限で、4年間で卒業する。
『第一章 夜八時の青空教室』
柳田岳人(やなぎだ・たけと):21歳。2年生。喫煙者。授業に途中から出席する。愛称、『ガッくん』。麻薬の売買に関与しそうになっている。大麻はやらない。酒はほとんど飲まない。常にシラフ(飲酒せず通常の状態)でいたい。柳田岳人が在籍する2年生のクラスは、在籍者数が18人。本人いわく、自分はごみ収集の仕事をしている。リサイクル作業所。定時制高校を辞めたいという気持ちがある。計算式を解く能力が高いが、文章題問題を解けない。なにか障害があって文章を読めないようすです。
藤竹:柳田岳人のクラスの担任教師。34歳男性。見た目は頼りない。なでがた。なまっちろい(顔色が白い)。態度はでかい。理科、数学担当。口癖として、『自動的にはわからない』。つかみどころのない人間。頭脳明晰(ずのうめいせき)、冷静沈着。怒らない(おこらない)。論理的な思考で行動する。
佐藤:藤竹の前の担任教師。メンタルの不調で休職中。
三浦:定時制高校の退学者。一年で中退。原付、ノーヘル(ヘルメット)で校内を走る。麻薬の売人をしている。
朴(パク):退学者。一年で中退。三浦と同じく原付、ノーヘル。坊主頭を赤く染めている。麻薬の売人をしている。
長老:柳田のクラスメート。70代男性。やせこけている。最前列に座っている。だれよりも勉強熱心。
麻衣:新宿歌舞伎町のキャバクラ嬢。授業中に男性客からスマホに電話が入ると教室を出て廊下に出て行く。
クラスメート:40代~50代の女性がふたり。ひとりはいつもノートをとっている。もうひとりは東南アジア系小太りでよくしゃべる。ニックネームは、『ママ(フィリピンパブのママのイメージ)』。外国にルーツをもつ生徒が複数いる。かれらは、日本語が不自由である。ほかに、素行不良で全日制の高校をつまみだされた生徒たち。それぞれ、カラフルな髪色にごついアクセサリーを付けている者。授業中は寝ている者。それから、中学校での元不登校組、小中学校でいじめにあった者。集団生活になじめなかった者。アニメオタクが多い。クラスとしてのまとまりはない。
場所は、東京新宿駅近くの牛丼屋から始まります。
20ページまで読んで、心配していたとおり、おちこぼれの人間たちが定時制高校に通っているような書き方で不快です。
『こんなとこに(定時制高校)、まともに勉強してるやつなんているかよ』(こんなセリフは書かないでほしい。勉強したくて来ている人間がちゃんといます)
関係者が読んだら、世間に誤解が広がると怒るでしょう。
昔、『同情するなら金をくれ』という決めゼリフで大ヒットした、『家なき子』というドラマがありました。その後、似たようなドラマを放映したところ、関係先から猛攻撃を受けて(事実とは違うという理由で)、スポンサーが全部降りて、途中で放送がたちいかなくなったことがあったと思います。
大麻の価格表として、ヤサイ7500:(乾燥大麻の隠語1グラムの単価(円)7500円)そして、リキッド18000:(大麻リキッド(大麻から抽出された液体)単位は本。1本の単価(円)18000円)
三浦と朴(パク)は、やくざや不良外国人とのつきあいあり。
柳田岳人が廃棄物処理工場の職場で暴力を振るいます。定時制高校に通っていることを馬鹿にされたからです。
柳田岳人は、もともと、周囲の同僚と仲良くしようという気持ちがありません。だからまわりから嫌われます。『金さえもらえりゃそれでいいんだ』(そんな気持ちで働いてほしくありません。仕事は楽で、給料が良くて、休みが多いほうがいいと思っているだけの人間は不祥事を起こします。会社のお金を自分のポケットに入れたりします。まずは、世のため人のために働くという動機付けが必要です)
柳田岳人が暴力をふるった相手は、暴力を振るわれる前に、定時制高校の生徒を馬鹿にするセリフが出てきます。また、柳田岳人の人格を否定するような発言があります。一般的に、人格を否定された人間は、一生そのことを忘れず、相手を憎み続けます。
まあ、意図的につくってある物語です。つまらなくなりました。流し読みに入ります。
主人公の柳田岳人に学習障害があるようです。文章を読めない。ディスなんとか。(読み進めていたら31ページに『ディスレクシア』という言葉が出てきました。文字の読み書きが困難。俳優のトム・クルーズ、アメリカ大統領だったブッシュ、映画監督のスティーブン・スピルバーグがディスレクシアという記事を読んだことがあります)だからこれまで、家庭や学校で苦労をしてきた。柳田岳人は、大手電機メーカーの社員である父親に突き放されています。
柳田岳人は、運転手の仕事に就きたい。ひとりでする仕事がいい。他人とはできるだけ関わり合いになりたくない。
でも、文章を読めない。運転免許を取得するための教本の文章を読めない。運転実技は合格できても学科試験に合格できない。文章を読めるようになるために、定時制高校に入学した。彼が定時制高校で学ぶ動機です。
藤竹教諭が柳田岳人を導きます。
文字のフォント(デザイン)で、ディスレクシアの人でも文字や文章を読めることがある。
まあ、たばこの話が多いです。
ヒムネ:韓国のことばで、がんばれ。
柳田岳人は、科学的なことに興味が強い。理科教師の藤竹が、柳田岳人をいい方向へと誘導していきます。
話が飛びますが、毎週日曜日の午前10時過ぎから、NHKのラジオ番組で、こども科学電話相談が流れています。そのラジオ番組でこどもたちがする質問と柳田岳人の考える質問が重なります。
自分の長い人生をふりかえってみると、自分がとても世話になった人が何人かいます。逆に、自分が一生懸命世話をして立ち直ってくれた人も何人かいます。人は、やってもらうと、お返しをしようという気持ちになります。
お世話になった人たちはもう他界されました。世話をした人からは年賀状が届きます。
歳をとって、今は、特段世話になることも、世話をすることもなくなりました。
今どきの日本人は、なんだか、人の性質が変わってしまいました。自分が悪いとは定義せずに、うまくいかないのは、自分ではなく、相手のせいだと主張する人が出てきました。
他者への依存では、いつまでたっても、自活や自立はできません。
柳田岳人は、普通の昼間の高校に行きたかった。
『空がなぜ青いのか』を知りたかった。宇宙とか地球のことを知りたかった。雲はどうして白いのか、虹はどうして七色なのか、知りたかった。
教師である藤竹は柳田岳人と、科学部をつくりたい。
『第二章 雲と火山のレシピ』
以下、定時制高校の生徒として、
越川アンジェラ:40歳。日本とフィリピンのハーフ。フィリピン料理店、『ジャスミン』を夫婦で営んでいる。店の営業は今年で12年目である。夫は商業高校を出ている。娘が、栄養専門学校に通っている。母が定時制高校に通学している時間帯は、娘が店を手伝っている。夫も娘も、アンジェラの通学に協力している。アンジェラは、『高校』にあこがれて入学した。クラスメートからは、『ママ』と呼ばれている。フィリピンパブのママの印象がある。若い頃は、ホステスをしていたことがある。越川アンジェラは、ほんとうは、小学校の先生になりたかった。
池本マリ:16歳。愛嬌(あいきょう。人と接するとき、相手に好感を与える雰囲気)がある。中学を卒業して定時制高校に入学してきた。昼間は、清掃業の会社で働いている。ホテルや病院の清掃をしている。父親は日本人、母親はフィリピン人のハーフである。両親はマリが幼いころに離婚した。以降、母親と妹と三人で暮らしている。母親は体調がすぐれない。マリが家族の生活を支えている。大学に行って教師になりたいという希望がある。
長嶺(ながみね):70代の男性。陰で、『長老』と呼ばれている。
昼間の女子生徒が教室に入って来て、夜、定時制で自分の机を使っている池本マリが、机の中に入れてあった自分のペンケースを盗んだんじゃないかと言い出す。
池本マリが知らないと返答する。
そんなことがあった。
昼間の生徒は、ブレザーの制服姿ですが、夜の生徒は私服です。柳田岳人は、清掃会社の作業服姿です。
物理準備室:物理担当藤竹教師の部屋。ここが、なにかの本拠地になるようです。
みそ汁で、積乱雲をつくる実験をする。柳田岳人と越川アンジェラがいます。
『対流(たいりゅう)』の実験です。
カラマンシージュース:カラマンシーは、フィリピン方面東南アジアの柑橘系(かんきつけい)果実。さわやかな酸味がある。別名「フィリピンレモン」
2年2組の黒田玲奈(くろだ・れな):昼間の生徒。黒髪ロング。定時制の生徒をばかにする。定時制の生徒を泥棒扱いする。生活保護者をばかにする。
べっこう飴を使って、地震発生モデル実験を行う。逆断層、正断層。
物語に出てくる中学校というところは、いじめがあって、教師たちは知らん顔をしてひどいところです。
わたしは、中学校は、父親が中1の6月に、いきなり病死したことで、どたばたがあって、3校通いました。最初の中学校にいじめはありませんでした。転校した次の中学校もいじめはありませんでした。さらに転校した3校目もいじめはありませんでした。だけど、先生の体罰がありました。けっこうきつい体罰でした。体罰があったから生徒がおとなしくしていたということはありました。まあ、そんな時代でした。親も教師の体罰を容認していました。思うに、第二次世界大戦中の軍国教育が、終戦後30年間ぐらいは尾を引いていたのだと思います。
キムワイプ:アメリカ製のふきんみたいな布。油をふきとる。藤竹の物理準備室に置いてある。
『じゃぱゆきさん』という言葉が出てきます。フィリピン生まれの女性が、日本に渡って風俗の仕事をするのです。
わたしは逆に、『からゆきさん』という言葉を知っています。九州の西海岸地方で生まれた女性が、東南アジアの国へ行って風俗の仕事をするのです。小説作品があります。『サンダカン八番娼館 山崎朋子 文春文庫』、映画にもなりました。
どこもかしこも、女性は、売られる扱いです。
倉橋先生:小学校の先生。越川アンジェラがこどもの頃に世話になった。
火山の噴火実験をする。重曹(じゅうそう)と酢を使う。
短い推理小説にも似た書き方です。
『第三章 オポチュニティの轍(わだち)』
オポチュニティ:チャンス、良い機会、タイミング
名取佳純(なとり・かすみ):定時制高校1年生。三人家族。母と姉。父親は、佳純が7歳のときに出て行った。母がおかしい。姉と妹を比較して、妹を差別する。佳純は中学時代不登校になった。中学3年生からリストカット(カミソリで手首を切る。自殺企図だが死ねない)を始める。定時制高校は、5月23日から保健室登校になり、3週間が経過している。教室は1A。
佐久間:定時制高校保健室の先生。養護教諭。読んでいて最初保健師かと思いましたが、元看護師でした。いろいろわけありです。髪を真っ赤に染めている。30歳より上ぐらい。
松谷真耶(まつたに・まや):定時制高校一年生。この子もわけありです。リストカットの常習者。なお、名取佳純も同様の常習者です。年齢は、名取佳純より1歳上ですから、17歳ぐらいか。全身黒づくめで、肩までの黒髪にピンクのメッシュ(髪全体に薄いピンク色をつけてある。立体感が出る)。起立性調節障害(自律神経の異常)がある。全身がだるい。立ちくらみと頭痛がする。松谷摩耶のバイト代を、母親が、パチンコと酒に使う。(とんでもない母親です)
<来室ノート>:保健室に置いてあったノート。4年間ぐらいだれも書き込みをしていなかった。保健室登校をしている名取佳純が書き込んでいる。(定時制高校にも保健室登校というものがあるのかと驚きました)
火星の話です。
ソル:火星における一日のこと。約24時間40分
ハブ:火星での居住施設
星を継ぐもの:イギリスのSF(サイエンス・フィクション)作家ジェームス・P・ホーガン(1941年(日本だと昭和16年)-2010年(平成22年)69歳没)のSF小説。
EVA:宇宙服を着ての船外活動(施設外活動)
火星の人:アメリカ合衆国のSF作家アンディ・ウィアー(1972年生まれ(昭和47年)51歳)の作品。アメリカの小説家。火星の人は、2011年発表(平成23年)
定時制高校を火星とし、ハブを保健室とする。名取佳純は、ハブでしか、呼吸ができない。
名取佳純は、EVAを着て、教室に行く。決死の覚悟がいる。
過換気:発作的に息苦しくなって、呼吸が早くなる。
過呼吸:緊張、ストレスで、呼吸の深さが増加する。
熊太郎は長いこと生きてきて、一度だけ、リストカットというものを見たことがあります。手首に無数の細い切り傷がある人でした。わたしには、理解できない行動です。心の病気です。よっぽどひどい目にあったのでしょう。自殺するために切ったというよりも、自分を傷つけるという軽い傷の付き方でした。自傷行為で心が満たされる。異常です。
この物語では、リストカット常習者の松谷摩耶が、名取佳純に、『(自分たちは)同類だね』と声をかけます。
夏への扉:1956年(昭和31年)発表のSF作品。アメリカ合衆国SF作家ロバート・A・ハインライン(1907年(明治40年)-1988年(昭和63年)80歳没)。タイムトラベルもの。1970年(昭和45年)と2000年(平成12年)を行き来する。3月に放送が終わったドラマ、『不適切に問ほどがある!』みたいです。
アイザック・アシモフ:アメリカ合衆国の生化学者(生物化学)、作家。1992年(平成4年)72歳没。
アーサー・C・クラーク:イギリスのSF作家。2008年(平成20年)91歳没。作品として、『2001年宇宙の旅』
いろいろむずかしい言葉が多い。
アムカ:アームカット。腕を傷つけること。
ふと気づいたのですが、『リストカットの痕(あと)』と、この章のタイトル、『オポチュニティの轍(火星探査車のわだち)』が、重ねてあるのです。痕(あと)も轍(わだち)もどちらも、『これまで生きてきた証(あかし。軌跡)』なのです。
物理準備室で、科学クラブの実験です。
『火星の夕焼けを再現する』という実験です。
透過光(とうかこう):透明な物体を通した光。
オデッセイ:『火星の人』を原作としたハリウッド映画。2015年(平成27年)のアメリカ合衆国のSF映画。(この本を読んだあと、動画配信サービスで観ました。アメリカらしい豪快な映画でした)
100ページで、この第三章の部分のタイトル、『オポチュニティの轍(わだち)』の意味が解き明かされます。味わいがあります。
オポチュニティ:火星で活動する無人探査船の名称。オポチュニティの轍(わだち。左右に3つずつの車輪の2本の跡(あと))が、人生の軌跡と重なります。
火星探査船オポチュニティを擬人化してあります。オポチュニティは、遠く離れた火星で、ひとりぼっちでがんばったのです。火星の写真をたくさん撮って、地球に送ってくれたのです。
オポチュニティは、2003年(平成15年)7月に打ち上げられ、2004年(平成16年)に火星に到着した。運用期間3か月の予定だったが、気がつけば、14年間火星での旅を続けてくれた。
2018年(平成30年)、オポチュニティは、大規模な砂嵐に襲われて、太陽電池がダウンして、機能が停止した。
2019年(平成31年)2月、NASA(アメリカ航空宇宙局)は、ミッション終了を宣言した。
オポチュニティは、調査中に、前輪を一つ失ったり、砂だまりにはまりこんだり、原因不明の電力低下に見舞われたり、数々の困難に直面したが、克服し続けた。
『この子(オポチュニティにたとえて)は、自分の後ろに続く轍(わだち)を見て、ただ孤独を感じたわけではないのだ。きっと、もう少しだけ前へ進もうと思ったに違いない……』オポチュニティの背後には、地球に応援してくれる仲間がいた(NASAのスタッフメンバー)。この子にも、仲間が必要だ(定時制高校科学部の生徒)。
108ページにいいことが書いてあります。共感します。
『……わたしの第一の仕事は、学校の中で子どもたちを死なせないこと……』
小学生や中学生をもつ親が教師に望むことは、『生きて卒業させてください』ということです。勉強も運動もできなくてもかまいません。いじめや体罰や事故でこどもが死んだら、親は教師や学校を許しません。
トリアージ:おおぜいの負傷者が出たとき、患者の状態に応じて、治療や搬送の順位を決めること。
レイリー散乱(さんらん):地球の空は青い。夕焼けは赤いという理由の説明があります。昼間は、波長の長い青色の光が散乱する。日没時は、太陽光が大気を通る距離が長くなり、散乱されにくい赤い光が生き残って夕焼けになる。火星ではその逆になるそうです。火星の昼間は赤色の空で、日没のころは青い夕焼けだそうです。空気が薄い、塵(ちり)が多いことが理由だそうです。
『第四章 金の卵の衝突実験』
長嶺省造:定時制高校二年生。昭和23年生まれ。74歳。金属加工の会社を自営で経営していたが、70歳で会社経営を閉じた。子どもはふたりで、孫がいる。福島の常磐炭田(じょうばんたんでん)の炭鉱町で育った。炭鉱が斜陽化したためもあり、中卒で、集団就職で東京に来て町工場でがんばった。37歳で独立した。父親は10歳のときに炭鉱事故で亡くなった。
長嶺江美子:長嶺省造の妻。『じん肺(仕事中に大量の粉塵(ふんじん。ほこり、金属の粒(つぶ)などを長期間吸い込んで肺の組織が壊れた)』で現在は入院中。退院はいつになるのかわからない。学歴は中学卒業。青森から集団就職で上京して、タイル工場で10年間粉まみれで働いた。高校に行きたかった。
木内:50代。英語教師
庄司麻衣(しょうじ・まい):定時制高校二年生。いつもスマホをさわっている。キャバ嬢。
昭和三十年代から四十年代、日本の高度経済成長期にあった、地方に生まれた中学卒業者男女を列車に乗せて都市部へ就職させるという『金の卵』という歴史を振り返ります。長嶺省造夫婦が紹介されます。
現在の六十代以上で体験者がいると思います。こちらの本では、青森、福島の東北地方ですが、九州の鹿児島あたりからでもありました。電車に乗せられて延々と都会まで義務教育卒業の男女のこどもたちが運ばれていくのです。当時、新幹線はなかったか、あっても東京・大阪間で、今ほど普及していませんでした。みなさんたいへんな思いをされました。
いっぽう、もともと都会暮らしをしていた人たちは、景気がいい時期で、生まれてから歳をとるまでずっと貧困暮らしを体験したことがないという人もいます。人は、生まれる場所で人生の過ごし方が大きく変わります。
物語の中の学校では、世代間の対立が、くっきりと出てきて、荒っぽい言動も出てくる表現になってきます。世代間衝突です。
老齢者は、いまどきの若いもんはと定時制高校に来ても勉強しない若い人たちを𠮟りつけ、若い人は、自分たちのことを何も知らないくせにうっとおしいと高齢者の世代を攻めます。
気づくのは、貧困という苦労はあったけれど、昭和時代の若い人には未来への夢があった。地方から出て来てがんばって、じっさいに経済的に豊かになった人が多い。ところが、今の若い人には、未来への夢がないということです。
社会制度とか社会秩序が変わりました。人口構成も大きく変化しました。
この部分を読んでいて思ったのは、昔は、たいてい、まわりにいるみんなが、同じように貧乏だった。
今は、貧富の差とか、学歴・学力の差が、極端に分かれてしまった。格差というのでしょう。
わたしが高校生の頃、大学進学にあたって、家が経済的に苦しい母子家庭だったので、日本育英会の奨学金を申請しました。審査のために面接があったのですが、今はどうか知りませんが、当時は集団面接で、面接会場に行ってみたら、同じ高校に通っている顔見知りの生徒がたくさんいて、なんだおまえもかという雰囲気になり、みんな貧乏なんだなあとお互いにお互いを思った次第です。あんな、頭が良くてかっこいい奴でも、家は貧乏なんだなあです。いいとこのボンボンなんていない田舎でした。
クレーター実験。砂地に鉄球を落とす。
食えん:ずるがしこくて油断ができない。
『第五章 コンピューター室の火星』
昼間部の高校生が出てきます。2年2組です。定時制の柳田岳人と同じ机を共用しています。
丹羽要(にわ・かなめ):高校2年生17歳ぐらい。この子もわけありです。学力が高かったのに、いろいろあって低レベルの高校にしか入学できなかったと嘆いています。家庭が壊れています。両親はケンカして父親が家を出て行き、弟は素直ないい子だったのですが、荒れて、家庭内暴力で暴れています。丹羽要は、自宅に帰りたくない。昼間の高校のコンピュータークラブの部員です。部員とはいえ、まあ、ひとりぼっちです。陰キャらのパソコンオタクだと書いてあります。
第五章を読み終えたときに思ったことです。(読みながら感想をつぎ足しています)
社会に出ると、学校で何があったかはまったく問題になりません。
学校であったことは、社会では、関係ないのです。
社会では、年齢層の幅が広い、人が多い、広い空間で自分の居場所を探します。
学校で何があったかなんて気にすることはありません。
社会に出ると、一日一日、日にちがたつごとに、学校のことは、日常生活から遠ざかっていきます。そのうち学校に通っていたことも忘れてしまいます。
山崎:丹羽要の前の席に座っている。
河本(こうもと):コンピュータークラブの部員一年生。一年生部員3人のうちのひとり。丹羽要を入れて、実質4人しかコンピュータークラブの部員はいない。
津久井:昼間の高校の数学教師。コンピューター部顧問。
コンピューター室:別棟の校舎にある。4階にある。以前は、地学実験室で使用されていた部屋である。室内には、白いパソコンがずらりと並んでいる。隣に、コンピューター準備室がある。
藤竹教師が、コンピューター準備室の天井パネルをはずして、実験の下準備をしている。
定時制のメンバーが利用している物理準備室は同じ建物の2階にある。
エンカウント:ゲーム用語で、「敵との遭遇(そうぐう)」のこと。
アルゴリズム:手順、計算方法、問題解決の手法
筐体(きょうたい):機器の箱
日本情報オリンピック:丹羽要がチャレンジしている。プログラミング能力を競う。数学・物理の大会、『科学オリンピック』の種目のひとつ。『国際情報オリンピック』日本代表の選考を兼ねている。
定時制の科学部が、コンピューター準備室を実験で利用したい。数か月間毎日利用したい。
拒否反応を示すコンピュータークラブの丹羽要です。
定時制の科学部は、実験成果を、学会で発表したい。(毎年5月に開催される日本地球惑星科学連合の大会にある高校生セッションで発表したい。セッション:期間、時間
実験では、『火星を作る』作業を行う。
最小二乗法(さいしょうじじょほう):わたしには説明できる能力がありません。ご自分で調べてくださいな。データをとって、グラフ化するようです。もっとも確からしい結果を表現するようです。
リム:クレーター作成実験で、鉄の玉を砂地に落とすと、砂がはじかれて、円形に穴があき、その穴のふちが盛り上がるのですが、その盛り上がった部分をリムと呼ぶようです。
ランパート・クレーター:リムのまわりに、エジェクタ堆積物が花びらみたいに広がった状態をいうようです。
エジェクタ:排出。エジェクタ堆積物を研究者は、『ローブ』と呼ぶ。
火星のランパート・クレーターを実験室で再現する。
丹羽要と定時制科学部との間で、コンピューター準備室の利用について衝突があります。
丹羽要は、パソコンがあればしたいことができるのですが、自宅にある彼のパソコンは、弟の家庭内暴力で破壊されてしまったそうです。だから、学校のパソコンをどうしても神経を集中できる静かな環境下で使いたい。
丹羽要の弟は、母親は殴らない。自分を守るために、親を殴るかわりに、物をぶっこわしている。(おそろしいけれど、かわいそうでもあります。暴力ではなにも解決しません)
弟の名前は、『衛(まもる)』。兄の要が高一のとき、衛は中一だった。半年ほどで不登校になり、家の中の物を破壊する家庭内暴力が始まった。
丹羽要は、小学三年生の時に、システムエンジニアだった父親が、中古のノートパソコンを要にくれたことがきっかけでプログラミングを始めた。
丹羽要の両親の性格:ふたりとも、自分の考えが常に正しいと思っているタイプの人間。
藤竹:大学研究者。席はまだ大学にある。(無給)。なにやら事情があって、定時制高校で教師をしている。
秘密兵器:滑車のこと。
タワー・オブ・テラー:ディズニーシーにあるアトラクション
重力可変装置:重力の力を変えることができる装置と理解しました。火星の重力をつくる。
加速度計:部費の予算1万円で買ったそうです。
食えん:ずるがしこくて、油断できない奴。
第五章まで読んで、第三章まで戻ることにしました。
実験装置のことが文章で書かれています。
絵本なら実験装置の絵が描いてあるでしょうから、すんなりわかりますが、文章ではわかりにくいというか、わかりません。
第三章から流し読みをしながら、自分で、いらなくなった紙の裏に実験装置の絵を描いてみます。
トロ舟:一般的には、セメントをこねる容器に使用するようです。長さ1m四方ぐらいのプレスチック容器のようです。長方形かもしれない。
乾燥珪砂(かんそうけいしゃ):石英の粒(つぶ)。陶磁器、ガラスの原料。
クレーターの形成実験:鉄球をトロ舟に落とす。鉄球が隕石(いんせき)のつもり。鉄球は、直径4cm、3cm、2cmがあるが、藤竹は、4cm以上のものがほしいらしい。
高さ2mから直径4cmの鉄球を珪砂に落とすと、鉄球がくぼみに沈んで頭を出す。頭のまわりに、輪ができる。砂が持ち上げられて、放出された砂がたまる。たまった砂が盛り上がった部分を、『リム』という。くぼみは直径が10cmぐらい。
鉄球の運動エネルギーとクレーターの直径には、比例関係がある。そこからスクーリング則(そく)という話になるのですが、わたしには理解できません。規則的なものがあるのでしょう。
科学部のメンバーはさらに、砂の固まりを加工して(お湯で溶かした寒天を流し込んである)、色付けをした砂を地層のように扱います。下から、緑色、青色、赤色、茶色とし、火星の地面を表現します。そこへ鉄球を落とします。同心円状に飛び散った4色の砂の飛び散り方の規則性を調べます。
次は、鉄球の発射装置の図面です。溶接やネジやバネをつくる製造業をしていた長嶺省造のアイデアが登場します。上等なパチンコ、下に向けて撃つとあります。
科学部のメンバーで研究して、全国的な学会で発表して、栄誉をもらうという人生の思い出づくりをするのです。学会は年に一度千葉市にある幕張メッセで開催されるそうです。(幕張メッセには行ったことがあるので、身近に感じます)
鉄球発射装置は、台のような形で、トロ船の上に設置する。アルミの4本足の上に木の板の台がある。台のまんなかに穴が開いている。穴の中に直径20cmの塩ビ管が通してある。
塩ビ管の上に、幅広ゴムが十文字に設置してある。このゴム紐(ひも)の弾力で、鉄球を飛ばす。
塩ビ管の下に、速度測定装置(光センサー使用)が取り付けてある。
3m50cmの高さが必要になるから、コンピューター準備室の天井のパネル板をはずして、実験装置をつくる。滑車を利用する。数か月間、同室を利用する。
この装置のことを、『重力可変装置』と呼ぶ。火星の重力を再現する。
直径50cm~60cmのプラスチック製たらいに、粒(つぶ)が非常に細かい砂が入れてある。砂は、火山灰のつもりである。砂は、水気(みずけ)を含んでいる。砂の火山灰が100gに水が56gでつくってある。越川アンジェラがなんどもチャレンジして適度な火山灰をつくった。
櫓(やぐら)のようなもの:メンバーいわく、『秘密兵器』。てっぺんに自転車のホイールがはめてある。
ホイールには、金属の細いワイヤーがかけてある。ワイヤーの両端に金具で木製の箱が取り付けてある。片方は長辺が40cmほどの箱で、もう片方は、一片15cmの箱で、小さい箱のほうが軽い。これを、『重力可変装置』と呼ぶ。大きいほうの木箱を、『実験ボックス』と呼ぶ。大きいほうの木箱を落下させる。底に4cm角ほどの加速度計が取り付けてある。小さいほうの箱は、おもりの役割を果たす。火星の重力が発生するように砂を入れてある。(地球の0.38倍)
火星は意外に小さい。半径が地球の半分ぐらいしかない。大気は二酸化炭素で、地表の気圧は地球の0.6%しかない。休眠状態の微生物とか、地中で生きている生命体がいる可能性はある。寒い。赤っぽい地面ばかりしかない。質量は地球の10分1。
加速度計:物体の加速度を測定する装置。1万円ぐらい。
『第六章 恐竜少年の仮説』
相澤(あいざわ):藤竹の友人。准教授。ふたりは、東都大学の同期生。オフィスの主人。ずんぐりした体と短い指をしている。藤竹は、東都大学大学院理学研究科で無給の学術研究員の立場にある。藤竹の研究テーマは、『天体衝突と惑星の進化』
奥多摩の雪景色が見えるオフィスには、探査機『はやぶさ2』、金星探査機『あかつき』、月周回衛星『かぐや』のプラモデルなどが飾ってある。時は、2月である。
JAXA(ジャクサ):宇宙航空研究開発機構。
宇宙科学研究所:所在地は、神奈川県相模原市(さがみはらし)。
アカデミア:大学や公的機関で働く研究者。教授、准教授など。
日本地球惑星科学連合大会:千葉市幕張メッセで5月に開催される。
藤竹の実験:定時制高校に科学部をつくるということ。定時制高校に科学部をつくり、どんなことが起きるのかを観察する。
首肯(しゅこう):うなずくこと。
メンバーの多様性:メンバーが同じような能力だと伸びない。
逡巡(しゅんじゅん):決心がつかずためらう。
(ちょっと横道にそれます)
たまたま先日の夜、BSフジのプライム・ニュースという番組を見ていたら、JAXA(ジャクサ)の人たちが出ていて、今年月面に着陸したSLIM(スリム。小型月着陸実証機)についてお話をされていました。ちょうどこの本に出ていた組織なので興味をもって見ました。
AI(エーアイ)みたいなもので、着陸20分前に相模原市のJAXAから指示を出すと、あとはSLIM(スリム)が自分自身で判断して月面に着陸していくそうです。
横流れしながら着陸して転倒した状態で静止した。計画していたとおりの姿勢での着陸ではなかったが、太陽光発電は利用できる状態だった。
月面の温度は昼100℃以上、夜は、-170℃前後だそうです。
地上では、事前にいろいろなパターンを考えてあって、実際の状況があてはまるパターンで淡々と処理を進めていくというようなお話でした。冷静沈着、機械的でもありますが、落ち着いて実行していくのです。
宇宙開発は基本的には、『ものづくりです』という言葉を聞いて、この物語に出てくる74歳の定時制高校生長嶺省造さんを思い浮かべたのです。
(では、もとに戻ります)
文章を読みながら装置のイメージ図を紙に書いているのですが、だんだんわからなくなってきました。
実験ボックス(大きいほうの木箱→透明のアクリル容器に変更した。側面が扉のように開く。長辺40cmの箱である)にデジタルカメラをつける。
コンピューター準備室の角(すみ)に、角材で組まれた櫓(やぐら)がある。
天井パネルが2枚はずされている。
その穴に、櫓の頭が少しつっこんでいる。
天井の穴から、自転車のホイールが下半分だけ見える。
櫓の高さは3mである。
滑車にワイヤーが釣り下がっている。ワイヤーの片方に実験ボックス、もう片方におもりの役目の小箱が付いている。
火星の重力は、0.38Gである。
その持続時間は、0.6秒である。
実験ボックスの中に、標的の砂(これがなにかわかりません→その砂を、火星の地表として、0.38Gの環境をつくって、隕石にたとえた金属球を撃ち込むのだろうか)を入れたプラスチック容器を入れる。
実験ボックスが滑車で落下する間に、上から金属球の弾(たま)を打ち込んで、クレーターをつくる。
実験ボックスの上に、金属球の発射装置を付ける。実験ボックスと金属球の発射装置は、一体である。両者は一体となって落下する。
発射装置は、スプリング式空気銃の仕組みを応用したものとする。
発射装置はアルミ製の筒で、長さは20cmぐらい、内部に、強力なばねとピストンが仕込まれている。(こどものころ、竹でつくった水鉄砲みたいです)
押しつぶしたばねが、元に戻る力で(伸びる)ピストンを押し出し、圧縮された空気が弾を撃ち出す。
この発射装置が、実験ボックスの上ぶたに金具で取り付けられている。
アクリル製実験ボックスの箱の上に、アルミの筒が立っている。アクリル箱の上ぶたには、筒から弾を通すための丸い穴が開いている。
引き金にばねを取り付ける。収縮したばねが動かないように小さな金属の留め金でとめる。留め具と櫓の最上部とを紐(ひも)でつなぐ。実験ボックスが、紐の長さまで落下したときに、留め具がはずれて、ばねが引き金を引いて隕石にたとえた球が、火星の地表にたとえた砂に向かって発射される。
紐は、細くてがんじょうなチェーンにした。チェーンの長さで、引き金を引くタイミングを調整する。誤射を防ぐ安全装置も装着した。製造業を職としていた長嶺省造さんのアイデアと技術です。
ストッパーである留め具はアルミ製にした。
ランパート・クレーター:この意味がなかなかしっくり頭に入ってきません。花びら状のクレーター。
二重ローブのクレーター:円形が二重になっているクレーター。まずひとつ円形があって、さらにひとまわり大きな円形が囲む状態でしょう。
名取佳純の性質・資質・性格として:記録魔です。いつどこでだれがなにをどうしてそうしてどうなったのかをていねいに記録します。たぶん、こういう人って、古代大和朝廷の時代からいたと思います。そういう人たちが文書を残してくれたおかげで、昔の歴史をふりかえることができます。
ドライアイス:火星の二酸化炭素の氷とする。
間隙率(かんげきりつ):すきま。火山灰の粒子の間のすきま。ちょっとむずかしくて、わたしにはわかりません。
昇華量:ドライアイスが蒸発することだと受け取りました。
マハブランカ:フィリピンの伝統的なスイーツ。ココナッツミルクでつくる。お豆腐みたいに見えます。
220ページまで読んできて、話がうまくいきすぎている感じがします。(このあと、波乱が訪れて、研究が中断します。冒頭の定時制高校退学者ふたりがコンピューター準備室に乗り込んできて、実験装置を破壊します。バカヤローたちです)
224ページ、読んでいて、脳の中で登場人物たちが生きている感覚があります。
実験装置を壊されて、メンバー同士の諍い(いさかい)があります。
おもりの小箱を手動で操作するのをやめて、電磁石を導入した。
藤竹の思考と苦悩が明かされます。
以前ノーベル賞を受賞したアメリカ合衆国在住日本人のお話と共通します。日本では、しがらみがあって、研究に専念できないのです。
読んでいて共感します。今年になって政治家の派閥が大きな問題になりましたが、それは、国会だけのことではなくて、日本中いたるところにある組織で行われていることです。
基本的に、大学ごとという学閥で、グループで集まって、師匠と弟子の関係ができて、自分たちの利益のために物事を決めていきます。師匠のポストを弟子が引き継いでいく手法です。派閥に入れない者は、能力があっても排除されます。自由度が低い。また、上司にあたる人のいうことに従わないと上司がもつ人事権で排除されます。
税金とか保険料とか、そんなお金という、『砂糖の山』に、みんなでアリのように群(むら)がって、権利を得て、関係者でお金を分け合うのです。そこに正義はありません。不合理、不条理、理不尽な世界が広がっています。
生き残るためには、パワハラやセクハラになどに耐えて、気持ちに折り合いをつけていくことが必要です。忍耐と順応です。それが現実です。
エリート:優秀とされる人。指導者の立場になる人。人口1億2300万人の日本人から選ばれた人。
233ページに重い言葉があります。『エリートという連中は、真っ当なレールの上を歩んでこなかった人間が自分たちの足もとまでのし上がってきた途端、手のひらを返して蹴落としにかかるものだ……』
人の足をひっぱって、快感を味わいたいとう類(たぐい)の人間がいます。心の中に、鬼が住んでいる人がいます。
夜、9時15分に教室に集合して、みんなで話し合って、困難を克服します。心を割っての、本音での話し合いはだいじです。
藤竹はこどものころ、恐竜少年だった。科学に興味があった。
裕福な家のおぼっちゃまだった。
東京世田谷区の一戸建てに生まれて住み、中高一貫の私立高に通い、大学に入った。(本では東都大学ですが、現実では東京大学でしょう)。
父は大手ゼネコンの研究職、母は小学校教師をしていた。
そんな話から、学歴差別の話へとつながれていきます。藤竹さんが推す(おす)人物は、高等専門学校卒であったために、研究の実績をなきがものとされて不利益をこうむります。藤竹さんに推(お)された人物と柳田岳人のキャラクター(個性)が重なります。
教師という人たちは、人に点数をつけることが仕事の人たちです。
成績の点数結果で人間に上下のランクをつけます。
勉強ができる頭がいい人たちがつくる世界です。
大きな組織では、『本流(主流派)』とか、『支流(非主流派)』などと表現することもあります。
学歴とか成績で人間を色分けします。思いやりなどというものは、あるようでありません。利害関係でつながります。そういう世界があります。
ツーソン:メキシコとの国境に近い。藤竹のアメリカ合衆国での就労先。アリゾナ大学の研究員。藤竹は、上司にさからったので、日本の学術派閥から排除された。
ポスドク:期限付きの研究者
なんというか、想像力とか発明とかいう能力は、学歴とは関係ない時があるのです。そのことひとつについて、生まれながらのずば抜けた能力がある。だけどそのこと以外のほかのことは何もできないという人はいます。
ひととおり、なんでも平均点のことはできるけれど、ずばぬけた能力はないという人もいますが、それはそれで、会社や組織にとっては使い勝手がいい人であり、わたしは、すばらしい能力をもった人だと判断しています。
柳田岳人の言葉には説得力があります。
なにかをやるときに、具体的な理由とか理屈なんてないのです。
『やりたいからやる』のです。
アスペクト比:モニターなどの画像において、縦横の比率。1対2とか、3対とか。
解析(かいせき):細かく調べる。
実験では、想定外の結果が出ることがあるそうです。(なるほど)
深い意味合いがあります。
藤竹にとっては、定時制高校のメンバーを科学部に集めて研究をしたら、集まった人間たちによってどのような効果が生まれるかという実験をしているのです。目の前の火星をつくるという実験はそのための素材に過ぎないのです。
252ページに藤竹さんの言葉があります。『人間は、その気にさせられてこそ、遠くまで行ける』
『第七章 教室は宇宙をわたる』
最後の章まできました。ずいぶん長い文章になってしまいました。疲れました。
根気よく最後まで読んでいただいた方には感謝します。なにかの役(やく)に立てたら幸いです。
さあラストスパートです。(最後のがんばり)
小説の舞台は、JR京葉線海浜幕張駅南口から幕張メッセ国際会議場へと移ります。
自分も何度か訪れたことがある場所と地域です。
車を運転して、海浜幕張駅まで人を送ったこともあります。読んでいて、親しみを感じます。
初めて行ったのは、息子がまだ小学生のときで、4年生ぐらいだった記憶です。
ふたりで、大恐竜博展を観たあと、プロ野球の球場を横目に歩き、海岸辺りをぶらぶらしました。
その時は、もう二度とここへ来ることはないだろうと思いましたが、縁があって、その後何度も訪れました。
物語の中では、定時制高校のメンバーが発表会に参加します。『日本地球惑星科学連合大会』です。
この章では、柳田岳人(やなぎだ・たけと)が語り手です。彼のひとり語りが続きます。彼の気持ちが表現されます。
『火星重力下でランパート・クレーターを再現する』
研究メンバーは、東京都立東新宿高校定時制課程、柳田岳人、名取佳純、越川アンジェラ、長嶺省造です。発表者は、柳田岳人と名取佳純です。
真空チャンパー:内部を真空にするための容器。
標的:攻撃目標。ただ、こちらのお話の場合は、仮定した火星の地表とか地中のことをさすようです。
読んでいて思うのは、『オタクの世界』です。
オタク:こだわりがある対象をもち、対象物に時間やお金を集中する人。まあ、だれしもそういうところはあるでしょう。
物語ですので、当然ですが、メンバーたちの研究成果は表彰対象となります。
お笑いコンビティモンディ高岸宏行さんの決めゼリフ、『やればできる!』を思い出しました。
『見えるか、先生。獲ったぞ。(とったぞ)』
あの日あの時あの場所で、あの人に会わなければ、今の私はなかったということがあるし、会ったがために、ひどい目にあったということもあります。幸運な人に出会うことは良縁です。不運な人に出会わないためには工夫が必要です。
自分が人を見るときのものさしがあります。その行動を見て近づかいないように気をつけている人がいます。たばこを吸う人にいい人はいない。ながらスマホをする人にいい人はいない。ありがとうを言わない人にいい人はいない。お酒飲みも避けたほうがいい。長い間生きてきての教訓です。
奇人でもいいから善人と付き合う。悪人と思われる人とは距離を開ける。不利益に巻き込まれないようにする。
物語にある、『部屋』の文章の部分を読みながらそう思いました。部屋=人との出会いの空間です。
282ページ、夢のような(実現性のない)話ではあるという感想で読み終わりました。
『作者あとがき』
さきほど、実現性のない夢と書きましたが、実話のモデルがあるそうです。びっくりしました。
2017年の日本地球惑星科学連合で実際にあったお話をモデルにしてこの小説ができあがっているそうです。
大阪にある定時制高校がチャレンジして成功をおさめています。『重力可変装置で火星表層の水の流れを解析する』がタイトルでした。すごいなあ。立派です。
(その後 98ページに記事がある映画、『オデッセイ』を動画配信サービスで観ました)
物語は、火星にひとり残された男性植物学者宇宙飛行士をみんなで救出する物語になっています。
地球の科学者たちみんなが、国籍を問わずに協力し合って火星に取り残された男性を救い出します。
感動的です。
現実社会では、アメリカ合衆国と中国は仲が悪いようですが、映画の中では仲良しです。
最終的には、アメリカ合衆国が一番という映画です。かまいません。それがアメリカ合衆国の人の誇りであり心の支えなのでしょう。アメリカ合衆国らしい娯楽映画です。
オデッセイ:意味は、『長い冒険旅行』だそうです。映画の原題は、『The Martian(火星人)』です。
小説は、『火星の人 アンディ・ウィアー ハヤカワ文庫SF 1巻・2巻各上・下』です。
こちらの本の登場人物の名取佳純(なとりかすみ 16歳 中学不登校 リストカット女子)が、『火星の人』を読んで、へこんだ気持ちが助けられるわけですが、小説とかマンガを読むことで、励まされたり、心が救われたりすることってあります。音楽や映画でも同様です。ですから、人間にとって、芸術や娯楽は大事です。お笑いも大事です。
(追記:2024年9月10日火曜日)
本作品がNHKでドラマ化されて放送されることを知りました。
びっくりしました。
本年10月8日火曜日午後10時からの『NHKドラマ10』にて、全10回で放送されます。
本の帯を読むとどうも定時制高校のお話らしい。
まだ、自分が二十歳前後の頃、定時制高校に通っていた親族がいて、一度見学に行ったことがあります。また、大学の夜間部も見たことがあります。
なんというか、年齢がさまざまでした。昼間の学校のように、学年に応じた年齢の生徒・学生のかたまりではありません。年齢層の幅がとても広い。夜間の大学では、60代の男性もいました。彼は、片道2時間半ぐらいかけて、遠方にある港町のご自宅から電車で休まず通学されているということでした。それだけ、学習意欲が強い人たちが集う(つどう)学校でした。
定時制高校にしても大学の夜間部にしても、勤め先の企業や組織が、通学する社員のためにいろいろ配慮をしてくれていました。仕事の終業時刻が午後4時半ぐらいに設定されていました。企業や組織にとって、優秀な人材を確保して働いてもらって、企業や組織の寿命を継続していくという目的がありました。お金も大切ですが、人材はお金以上に大切な財産でした。昭和時代は、終身雇用の時代でした。
さて、この小説の出だしでは、柳田岳人(やなぎだ・たけと)という若い人が、定時制高校の授業をサボっているような記述から始まります。タバコも吸っています。
現実の学生が柳田岳人のようないいかげんな人間ばかりだと誤解を生むような内容ではないことを願って文章を読み始めます。勉強ができないから夜学に行っているのではないのです。経済的に通うことが無理だから夜学に行っているのです。夜学には、昼間の学生に負けない学力をもっている人もおられました。
第一章から始まって、第七章まであります。全体で282ページの小説です。
仮想の高校でしょう。都立東新宿高校です。昼間は昼間部の生徒、夜は、夜間定時制の生徒がいます。1学年に1クラスある。クラスの定員が30人。定員割れになっている。5時45分開始、9時に4時限が終了する。一日4時限で、4年間で卒業する。
『第一章 夜八時の青空教室』
柳田岳人(やなぎだ・たけと):21歳。2年生。喫煙者。授業に途中から出席する。愛称、『ガッくん』。麻薬の売買に関与しそうになっている。大麻はやらない。酒はほとんど飲まない。常にシラフ(飲酒せず通常の状態)でいたい。柳田岳人が在籍する2年生のクラスは、在籍者数が18人。本人いわく、自分はごみ収集の仕事をしている。リサイクル作業所。定時制高校を辞めたいという気持ちがある。計算式を解く能力が高いが、文章題問題を解けない。なにか障害があって文章を読めないようすです。
藤竹:柳田岳人のクラスの担任教師。34歳男性。見た目は頼りない。なでがた。なまっちろい(顔色が白い)。態度はでかい。理科、数学担当。口癖として、『自動的にはわからない』。つかみどころのない人間。頭脳明晰(ずのうめいせき)、冷静沈着。怒らない(おこらない)。論理的な思考で行動する。
佐藤:藤竹の前の担任教師。メンタルの不調で休職中。
三浦:定時制高校の退学者。一年で中退。原付、ノーヘル(ヘルメット)で校内を走る。麻薬の売人をしている。
朴(パク):退学者。一年で中退。三浦と同じく原付、ノーヘル。坊主頭を赤く染めている。麻薬の売人をしている。
長老:柳田のクラスメート。70代男性。やせこけている。最前列に座っている。だれよりも勉強熱心。
麻衣:新宿歌舞伎町のキャバクラ嬢。授業中に男性客からスマホに電話が入ると教室を出て廊下に出て行く。
クラスメート:40代~50代の女性がふたり。ひとりはいつもノートをとっている。もうひとりは東南アジア系小太りでよくしゃべる。ニックネームは、『ママ(フィリピンパブのママのイメージ)』。外国にルーツをもつ生徒が複数いる。かれらは、日本語が不自由である。ほかに、素行不良で全日制の高校をつまみだされた生徒たち。それぞれ、カラフルな髪色にごついアクセサリーを付けている者。授業中は寝ている者。それから、中学校での元不登校組、小中学校でいじめにあった者。集団生活になじめなかった者。アニメオタクが多い。クラスとしてのまとまりはない。
場所は、東京新宿駅近くの牛丼屋から始まります。
20ページまで読んで、心配していたとおり、おちこぼれの人間たちが定時制高校に通っているような書き方で不快です。
『こんなとこに(定時制高校)、まともに勉強してるやつなんているかよ』(こんなセリフは書かないでほしい。勉強したくて来ている人間がちゃんといます)
関係者が読んだら、世間に誤解が広がると怒るでしょう。
昔、『同情するなら金をくれ』という決めゼリフで大ヒットした、『家なき子』というドラマがありました。その後、似たようなドラマを放映したところ、関係先から猛攻撃を受けて(事実とは違うという理由で)、スポンサーが全部降りて、途中で放送がたちいかなくなったことがあったと思います。
大麻の価格表として、ヤサイ7500:(乾燥大麻の隠語1グラムの単価(円)7500円)そして、リキッド18000:(大麻リキッド(大麻から抽出された液体)単位は本。1本の単価(円)18000円)
三浦と朴(パク)は、やくざや不良外国人とのつきあいあり。
柳田岳人が廃棄物処理工場の職場で暴力を振るいます。定時制高校に通っていることを馬鹿にされたからです。
柳田岳人は、もともと、周囲の同僚と仲良くしようという気持ちがありません。だからまわりから嫌われます。『金さえもらえりゃそれでいいんだ』(そんな気持ちで働いてほしくありません。仕事は楽で、給料が良くて、休みが多いほうがいいと思っているだけの人間は不祥事を起こします。会社のお金を自分のポケットに入れたりします。まずは、世のため人のために働くという動機付けが必要です)
柳田岳人が暴力をふるった相手は、暴力を振るわれる前に、定時制高校の生徒を馬鹿にするセリフが出てきます。また、柳田岳人の人格を否定するような発言があります。一般的に、人格を否定された人間は、一生そのことを忘れず、相手を憎み続けます。
まあ、意図的につくってある物語です。つまらなくなりました。流し読みに入ります。
主人公の柳田岳人に学習障害があるようです。文章を読めない。ディスなんとか。(読み進めていたら31ページに『ディスレクシア』という言葉が出てきました。文字の読み書きが困難。俳優のトム・クルーズ、アメリカ大統領だったブッシュ、映画監督のスティーブン・スピルバーグがディスレクシアという記事を読んだことがあります)だからこれまで、家庭や学校で苦労をしてきた。柳田岳人は、大手電機メーカーの社員である父親に突き放されています。
柳田岳人は、運転手の仕事に就きたい。ひとりでする仕事がいい。他人とはできるだけ関わり合いになりたくない。
でも、文章を読めない。運転免許を取得するための教本の文章を読めない。運転実技は合格できても学科試験に合格できない。文章を読めるようになるために、定時制高校に入学した。彼が定時制高校で学ぶ動機です。
藤竹教諭が柳田岳人を導きます。
文字のフォント(デザイン)で、ディスレクシアの人でも文字や文章を読めることがある。
まあ、たばこの話が多いです。
ヒムネ:韓国のことばで、がんばれ。
柳田岳人は、科学的なことに興味が強い。理科教師の藤竹が、柳田岳人をいい方向へと誘導していきます。
話が飛びますが、毎週日曜日の午前10時過ぎから、NHKのラジオ番組で、こども科学電話相談が流れています。そのラジオ番組でこどもたちがする質問と柳田岳人の考える質問が重なります。
自分の長い人生をふりかえってみると、自分がとても世話になった人が何人かいます。逆に、自分が一生懸命世話をして立ち直ってくれた人も何人かいます。人は、やってもらうと、お返しをしようという気持ちになります。
お世話になった人たちはもう他界されました。世話をした人からは年賀状が届きます。
歳をとって、今は、特段世話になることも、世話をすることもなくなりました。
今どきの日本人は、なんだか、人の性質が変わってしまいました。自分が悪いとは定義せずに、うまくいかないのは、自分ではなく、相手のせいだと主張する人が出てきました。
他者への依存では、いつまでたっても、自活や自立はできません。
柳田岳人は、普通の昼間の高校に行きたかった。
『空がなぜ青いのか』を知りたかった。宇宙とか地球のことを知りたかった。雲はどうして白いのか、虹はどうして七色なのか、知りたかった。
教師である藤竹は柳田岳人と、科学部をつくりたい。
『第二章 雲と火山のレシピ』
以下、定時制高校の生徒として、
越川アンジェラ:40歳。日本とフィリピンのハーフ。フィリピン料理店、『ジャスミン』を夫婦で営んでいる。店の営業は今年で12年目である。夫は商業高校を出ている。娘が、栄養専門学校に通っている。母が定時制高校に通学している時間帯は、娘が店を手伝っている。夫も娘も、アンジェラの通学に協力している。アンジェラは、『高校』にあこがれて入学した。クラスメートからは、『ママ』と呼ばれている。フィリピンパブのママの印象がある。若い頃は、ホステスをしていたことがある。越川アンジェラは、ほんとうは、小学校の先生になりたかった。
池本マリ:16歳。愛嬌(あいきょう。人と接するとき、相手に好感を与える雰囲気)がある。中学を卒業して定時制高校に入学してきた。昼間は、清掃業の会社で働いている。ホテルや病院の清掃をしている。父親は日本人、母親はフィリピン人のハーフである。両親はマリが幼いころに離婚した。以降、母親と妹と三人で暮らしている。母親は体調がすぐれない。マリが家族の生活を支えている。大学に行って教師になりたいという希望がある。
長嶺(ながみね):70代の男性。陰で、『長老』と呼ばれている。
昼間の女子生徒が教室に入って来て、夜、定時制で自分の机を使っている池本マリが、机の中に入れてあった自分のペンケースを盗んだんじゃないかと言い出す。
池本マリが知らないと返答する。
そんなことがあった。
昼間の生徒は、ブレザーの制服姿ですが、夜の生徒は私服です。柳田岳人は、清掃会社の作業服姿です。
物理準備室:物理担当藤竹教師の部屋。ここが、なにかの本拠地になるようです。
みそ汁で、積乱雲をつくる実験をする。柳田岳人と越川アンジェラがいます。
『対流(たいりゅう)』の実験です。
カラマンシージュース:カラマンシーは、フィリピン方面東南アジアの柑橘系(かんきつけい)果実。さわやかな酸味がある。別名「フィリピンレモン」
2年2組の黒田玲奈(くろだ・れな):昼間の生徒。黒髪ロング。定時制の生徒をばかにする。定時制の生徒を泥棒扱いする。生活保護者をばかにする。
べっこう飴を使って、地震発生モデル実験を行う。逆断層、正断層。
物語に出てくる中学校というところは、いじめがあって、教師たちは知らん顔をしてひどいところです。
わたしは、中学校は、父親が中1の6月に、いきなり病死したことで、どたばたがあって、3校通いました。最初の中学校にいじめはありませんでした。転校した次の中学校もいじめはありませんでした。さらに転校した3校目もいじめはありませんでした。だけど、先生の体罰がありました。けっこうきつい体罰でした。体罰があったから生徒がおとなしくしていたということはありました。まあ、そんな時代でした。親も教師の体罰を容認していました。思うに、第二次世界大戦中の軍国教育が、終戦後30年間ぐらいは尾を引いていたのだと思います。
キムワイプ:アメリカ製のふきんみたいな布。油をふきとる。藤竹の物理準備室に置いてある。
『じゃぱゆきさん』という言葉が出てきます。フィリピン生まれの女性が、日本に渡って風俗の仕事をするのです。
わたしは逆に、『からゆきさん』という言葉を知っています。九州の西海岸地方で生まれた女性が、東南アジアの国へ行って風俗の仕事をするのです。小説作品があります。『サンダカン八番娼館 山崎朋子 文春文庫』、映画にもなりました。
どこもかしこも、女性は、売られる扱いです。
倉橋先生:小学校の先生。越川アンジェラがこどもの頃に世話になった。
火山の噴火実験をする。重曹(じゅうそう)と酢を使う。
短い推理小説にも似た書き方です。
『第三章 オポチュニティの轍(わだち)』
オポチュニティ:チャンス、良い機会、タイミング
名取佳純(なとり・かすみ):定時制高校1年生。三人家族。母と姉。父親は、佳純が7歳のときに出て行った。母がおかしい。姉と妹を比較して、妹を差別する。佳純は中学時代不登校になった。中学3年生からリストカット(カミソリで手首を切る。自殺企図だが死ねない)を始める。定時制高校は、5月23日から保健室登校になり、3週間が経過している。教室は1A。
佐久間:定時制高校保健室の先生。養護教諭。読んでいて最初保健師かと思いましたが、元看護師でした。いろいろわけありです。髪を真っ赤に染めている。30歳より上ぐらい。
松谷真耶(まつたに・まや):定時制高校一年生。この子もわけありです。リストカットの常習者。なお、名取佳純も同様の常習者です。年齢は、名取佳純より1歳上ですから、17歳ぐらいか。全身黒づくめで、肩までの黒髪にピンクのメッシュ(髪全体に薄いピンク色をつけてある。立体感が出る)。起立性調節障害(自律神経の異常)がある。全身がだるい。立ちくらみと頭痛がする。松谷摩耶のバイト代を、母親が、パチンコと酒に使う。(とんでもない母親です)
<来室ノート>:保健室に置いてあったノート。4年間ぐらいだれも書き込みをしていなかった。保健室登校をしている名取佳純が書き込んでいる。(定時制高校にも保健室登校というものがあるのかと驚きました)
火星の話です。
ソル:火星における一日のこと。約24時間40分
ハブ:火星での居住施設
星を継ぐもの:イギリスのSF(サイエンス・フィクション)作家ジェームス・P・ホーガン(1941年(日本だと昭和16年)-2010年(平成22年)69歳没)のSF小説。
EVA:宇宙服を着ての船外活動(施設外活動)
火星の人:アメリカ合衆国のSF作家アンディ・ウィアー(1972年生まれ(昭和47年)51歳)の作品。アメリカの小説家。火星の人は、2011年発表(平成23年)
定時制高校を火星とし、ハブを保健室とする。名取佳純は、ハブでしか、呼吸ができない。
名取佳純は、EVAを着て、教室に行く。決死の覚悟がいる。
過換気:発作的に息苦しくなって、呼吸が早くなる。
過呼吸:緊張、ストレスで、呼吸の深さが増加する。
熊太郎は長いこと生きてきて、一度だけ、リストカットというものを見たことがあります。手首に無数の細い切り傷がある人でした。わたしには、理解できない行動です。心の病気です。よっぽどひどい目にあったのでしょう。自殺するために切ったというよりも、自分を傷つけるという軽い傷の付き方でした。自傷行為で心が満たされる。異常です。
この物語では、リストカット常習者の松谷摩耶が、名取佳純に、『(自分たちは)同類だね』と声をかけます。
夏への扉:1956年(昭和31年)発表のSF作品。アメリカ合衆国SF作家ロバート・A・ハインライン(1907年(明治40年)-1988年(昭和63年)80歳没)。タイムトラベルもの。1970年(昭和45年)と2000年(平成12年)を行き来する。3月に放送が終わったドラマ、『不適切に問ほどがある!』みたいです。
アイザック・アシモフ:アメリカ合衆国の生化学者(生物化学)、作家。1992年(平成4年)72歳没。
アーサー・C・クラーク:イギリスのSF作家。2008年(平成20年)91歳没。作品として、『2001年宇宙の旅』
いろいろむずかしい言葉が多い。
アムカ:アームカット。腕を傷つけること。
ふと気づいたのですが、『リストカットの痕(あと)』と、この章のタイトル、『オポチュニティの轍(火星探査車のわだち)』が、重ねてあるのです。痕(あと)も轍(わだち)もどちらも、『これまで生きてきた証(あかし。軌跡)』なのです。
物理準備室で、科学クラブの実験です。
『火星の夕焼けを再現する』という実験です。
透過光(とうかこう):透明な物体を通した光。
オデッセイ:『火星の人』を原作としたハリウッド映画。2015年(平成27年)のアメリカ合衆国のSF映画。(この本を読んだあと、動画配信サービスで観ました。アメリカらしい豪快な映画でした)
100ページで、この第三章の部分のタイトル、『オポチュニティの轍(わだち)』の意味が解き明かされます。味わいがあります。
オポチュニティ:火星で活動する無人探査船の名称。オポチュニティの轍(わだち。左右に3つずつの車輪の2本の跡(あと))が、人生の軌跡と重なります。
火星探査船オポチュニティを擬人化してあります。オポチュニティは、遠く離れた火星で、ひとりぼっちでがんばったのです。火星の写真をたくさん撮って、地球に送ってくれたのです。
オポチュニティは、2003年(平成15年)7月に打ち上げられ、2004年(平成16年)に火星に到着した。運用期間3か月の予定だったが、気がつけば、14年間火星での旅を続けてくれた。
2018年(平成30年)、オポチュニティは、大規模な砂嵐に襲われて、太陽電池がダウンして、機能が停止した。
2019年(平成31年)2月、NASA(アメリカ航空宇宙局)は、ミッション終了を宣言した。
オポチュニティは、調査中に、前輪を一つ失ったり、砂だまりにはまりこんだり、原因不明の電力低下に見舞われたり、数々の困難に直面したが、克服し続けた。
『この子(オポチュニティにたとえて)は、自分の後ろに続く轍(わだち)を見て、ただ孤独を感じたわけではないのだ。きっと、もう少しだけ前へ進もうと思ったに違いない……』オポチュニティの背後には、地球に応援してくれる仲間がいた(NASAのスタッフメンバー)。この子にも、仲間が必要だ(定時制高校科学部の生徒)。
108ページにいいことが書いてあります。共感します。
『……わたしの第一の仕事は、学校の中で子どもたちを死なせないこと……』
小学生や中学生をもつ親が教師に望むことは、『生きて卒業させてください』ということです。勉強も運動もできなくてもかまいません。いじめや体罰や事故でこどもが死んだら、親は教師や学校を許しません。
トリアージ:おおぜいの負傷者が出たとき、患者の状態に応じて、治療や搬送の順位を決めること。
レイリー散乱(さんらん):地球の空は青い。夕焼けは赤いという理由の説明があります。昼間は、波長の長い青色の光が散乱する。日没時は、太陽光が大気を通る距離が長くなり、散乱されにくい赤い光が生き残って夕焼けになる。火星ではその逆になるそうです。火星の昼間は赤色の空で、日没のころは青い夕焼けだそうです。空気が薄い、塵(ちり)が多いことが理由だそうです。
『第四章 金の卵の衝突実験』
長嶺省造:定時制高校二年生。昭和23年生まれ。74歳。金属加工の会社を自営で経営していたが、70歳で会社経営を閉じた。子どもはふたりで、孫がいる。福島の常磐炭田(じょうばんたんでん)の炭鉱町で育った。炭鉱が斜陽化したためもあり、中卒で、集団就職で東京に来て町工場でがんばった。37歳で独立した。父親は10歳のときに炭鉱事故で亡くなった。
長嶺江美子:長嶺省造の妻。『じん肺(仕事中に大量の粉塵(ふんじん。ほこり、金属の粒(つぶ)などを長期間吸い込んで肺の組織が壊れた)』で現在は入院中。退院はいつになるのかわからない。学歴は中学卒業。青森から集団就職で上京して、タイル工場で10年間粉まみれで働いた。高校に行きたかった。
木内:50代。英語教師
庄司麻衣(しょうじ・まい):定時制高校二年生。いつもスマホをさわっている。キャバ嬢。
昭和三十年代から四十年代、日本の高度経済成長期にあった、地方に生まれた中学卒業者男女を列車に乗せて都市部へ就職させるという『金の卵』という歴史を振り返ります。長嶺省造夫婦が紹介されます。
現在の六十代以上で体験者がいると思います。こちらの本では、青森、福島の東北地方ですが、九州の鹿児島あたりからでもありました。電車に乗せられて延々と都会まで義務教育卒業の男女のこどもたちが運ばれていくのです。当時、新幹線はなかったか、あっても東京・大阪間で、今ほど普及していませんでした。みなさんたいへんな思いをされました。
いっぽう、もともと都会暮らしをしていた人たちは、景気がいい時期で、生まれてから歳をとるまでずっと貧困暮らしを体験したことがないという人もいます。人は、生まれる場所で人生の過ごし方が大きく変わります。
物語の中の学校では、世代間の対立が、くっきりと出てきて、荒っぽい言動も出てくる表現になってきます。世代間衝突です。
老齢者は、いまどきの若いもんはと定時制高校に来ても勉強しない若い人たちを𠮟りつけ、若い人は、自分たちのことを何も知らないくせにうっとおしいと高齢者の世代を攻めます。
気づくのは、貧困という苦労はあったけれど、昭和時代の若い人には未来への夢があった。地方から出て来てがんばって、じっさいに経済的に豊かになった人が多い。ところが、今の若い人には、未来への夢がないということです。
社会制度とか社会秩序が変わりました。人口構成も大きく変化しました。
この部分を読んでいて思ったのは、昔は、たいてい、まわりにいるみんなが、同じように貧乏だった。
今は、貧富の差とか、学歴・学力の差が、極端に分かれてしまった。格差というのでしょう。
わたしが高校生の頃、大学進学にあたって、家が経済的に苦しい母子家庭だったので、日本育英会の奨学金を申請しました。審査のために面接があったのですが、今はどうか知りませんが、当時は集団面接で、面接会場に行ってみたら、同じ高校に通っている顔見知りの生徒がたくさんいて、なんだおまえもかという雰囲気になり、みんな貧乏なんだなあとお互いにお互いを思った次第です。あんな、頭が良くてかっこいい奴でも、家は貧乏なんだなあです。いいとこのボンボンなんていない田舎でした。
クレーター実験。砂地に鉄球を落とす。
食えん:ずるがしこくて油断ができない。
『第五章 コンピューター室の火星』
昼間部の高校生が出てきます。2年2組です。定時制の柳田岳人と同じ机を共用しています。
丹羽要(にわ・かなめ):高校2年生17歳ぐらい。この子もわけありです。学力が高かったのに、いろいろあって低レベルの高校にしか入学できなかったと嘆いています。家庭が壊れています。両親はケンカして父親が家を出て行き、弟は素直ないい子だったのですが、荒れて、家庭内暴力で暴れています。丹羽要は、自宅に帰りたくない。昼間の高校のコンピュータークラブの部員です。部員とはいえ、まあ、ひとりぼっちです。陰キャらのパソコンオタクだと書いてあります。
第五章を読み終えたときに思ったことです。(読みながら感想をつぎ足しています)
社会に出ると、学校で何があったかはまったく問題になりません。
学校であったことは、社会では、関係ないのです。
社会では、年齢層の幅が広い、人が多い、広い空間で自分の居場所を探します。
学校で何があったかなんて気にすることはありません。
社会に出ると、一日一日、日にちがたつごとに、学校のことは、日常生活から遠ざかっていきます。そのうち学校に通っていたことも忘れてしまいます。
山崎:丹羽要の前の席に座っている。
河本(こうもと):コンピュータークラブの部員一年生。一年生部員3人のうちのひとり。丹羽要を入れて、実質4人しかコンピュータークラブの部員はいない。
津久井:昼間の高校の数学教師。コンピューター部顧問。
コンピューター室:別棟の校舎にある。4階にある。以前は、地学実験室で使用されていた部屋である。室内には、白いパソコンがずらりと並んでいる。隣に、コンピューター準備室がある。
藤竹教師が、コンピューター準備室の天井パネルをはずして、実験の下準備をしている。
定時制のメンバーが利用している物理準備室は同じ建物の2階にある。
エンカウント:ゲーム用語で、「敵との遭遇(そうぐう)」のこと。
アルゴリズム:手順、計算方法、問題解決の手法
筐体(きょうたい):機器の箱
日本情報オリンピック:丹羽要がチャレンジしている。プログラミング能力を競う。数学・物理の大会、『科学オリンピック』の種目のひとつ。『国際情報オリンピック』日本代表の選考を兼ねている。
定時制の科学部が、コンピューター準備室を実験で利用したい。数か月間毎日利用したい。
拒否反応を示すコンピュータークラブの丹羽要です。
定時制の科学部は、実験成果を、学会で発表したい。(毎年5月に開催される日本地球惑星科学連合の大会にある高校生セッションで発表したい。セッション:期間、時間
実験では、『火星を作る』作業を行う。
最小二乗法(さいしょうじじょほう):わたしには説明できる能力がありません。ご自分で調べてくださいな。データをとって、グラフ化するようです。もっとも確からしい結果を表現するようです。
リム:クレーター作成実験で、鉄の玉を砂地に落とすと、砂がはじかれて、円形に穴があき、その穴のふちが盛り上がるのですが、その盛り上がった部分をリムと呼ぶようです。
ランパート・クレーター:リムのまわりに、エジェクタ堆積物が花びらみたいに広がった状態をいうようです。
エジェクタ:排出。エジェクタ堆積物を研究者は、『ローブ』と呼ぶ。
火星のランパート・クレーターを実験室で再現する。
丹羽要と定時制科学部との間で、コンピューター準備室の利用について衝突があります。
丹羽要は、パソコンがあればしたいことができるのですが、自宅にある彼のパソコンは、弟の家庭内暴力で破壊されてしまったそうです。だから、学校のパソコンをどうしても神経を集中できる静かな環境下で使いたい。
丹羽要の弟は、母親は殴らない。自分を守るために、親を殴るかわりに、物をぶっこわしている。(おそろしいけれど、かわいそうでもあります。暴力ではなにも解決しません)
弟の名前は、『衛(まもる)』。兄の要が高一のとき、衛は中一だった。半年ほどで不登校になり、家の中の物を破壊する家庭内暴力が始まった。
丹羽要は、小学三年生の時に、システムエンジニアだった父親が、中古のノートパソコンを要にくれたことがきっかけでプログラミングを始めた。
丹羽要の両親の性格:ふたりとも、自分の考えが常に正しいと思っているタイプの人間。
藤竹:大学研究者。席はまだ大学にある。(無給)。なにやら事情があって、定時制高校で教師をしている。
秘密兵器:滑車のこと。
タワー・オブ・テラー:ディズニーシーにあるアトラクション
重力可変装置:重力の力を変えることができる装置と理解しました。火星の重力をつくる。
加速度計:部費の予算1万円で買ったそうです。
食えん:ずるがしこくて、油断できない奴。
第五章まで読んで、第三章まで戻ることにしました。
実験装置のことが文章で書かれています。
絵本なら実験装置の絵が描いてあるでしょうから、すんなりわかりますが、文章ではわかりにくいというか、わかりません。
第三章から流し読みをしながら、自分で、いらなくなった紙の裏に実験装置の絵を描いてみます。
トロ舟:一般的には、セメントをこねる容器に使用するようです。長さ1m四方ぐらいのプレスチック容器のようです。長方形かもしれない。
乾燥珪砂(かんそうけいしゃ):石英の粒(つぶ)。陶磁器、ガラスの原料。
クレーターの形成実験:鉄球をトロ舟に落とす。鉄球が隕石(いんせき)のつもり。鉄球は、直径4cm、3cm、2cmがあるが、藤竹は、4cm以上のものがほしいらしい。
高さ2mから直径4cmの鉄球を珪砂に落とすと、鉄球がくぼみに沈んで頭を出す。頭のまわりに、輪ができる。砂が持ち上げられて、放出された砂がたまる。たまった砂が盛り上がった部分を、『リム』という。くぼみは直径が10cmぐらい。
鉄球の運動エネルギーとクレーターの直径には、比例関係がある。そこからスクーリング則(そく)という話になるのですが、わたしには理解できません。規則的なものがあるのでしょう。
科学部のメンバーはさらに、砂の固まりを加工して(お湯で溶かした寒天を流し込んである)、色付けをした砂を地層のように扱います。下から、緑色、青色、赤色、茶色とし、火星の地面を表現します。そこへ鉄球を落とします。同心円状に飛び散った4色の砂の飛び散り方の規則性を調べます。
次は、鉄球の発射装置の図面です。溶接やネジやバネをつくる製造業をしていた長嶺省造のアイデアが登場します。上等なパチンコ、下に向けて撃つとあります。
科学部のメンバーで研究して、全国的な学会で発表して、栄誉をもらうという人生の思い出づくりをするのです。学会は年に一度千葉市にある幕張メッセで開催されるそうです。(幕張メッセには行ったことがあるので、身近に感じます)
鉄球発射装置は、台のような形で、トロ船の上に設置する。アルミの4本足の上に木の板の台がある。台のまんなかに穴が開いている。穴の中に直径20cmの塩ビ管が通してある。
塩ビ管の上に、幅広ゴムが十文字に設置してある。このゴム紐(ひも)の弾力で、鉄球を飛ばす。
塩ビ管の下に、速度測定装置(光センサー使用)が取り付けてある。
3m50cmの高さが必要になるから、コンピューター準備室の天井のパネル板をはずして、実験装置をつくる。滑車を利用する。数か月間、同室を利用する。
この装置のことを、『重力可変装置』と呼ぶ。火星の重力を再現する。
直径50cm~60cmのプラスチック製たらいに、粒(つぶ)が非常に細かい砂が入れてある。砂は、火山灰のつもりである。砂は、水気(みずけ)を含んでいる。砂の火山灰が100gに水が56gでつくってある。越川アンジェラがなんどもチャレンジして適度な火山灰をつくった。
櫓(やぐら)のようなもの:メンバーいわく、『秘密兵器』。てっぺんに自転車のホイールがはめてある。
ホイールには、金属の細いワイヤーがかけてある。ワイヤーの両端に金具で木製の箱が取り付けてある。片方は長辺が40cmほどの箱で、もう片方は、一片15cmの箱で、小さい箱のほうが軽い。これを、『重力可変装置』と呼ぶ。大きいほうの木箱を、『実験ボックス』と呼ぶ。大きいほうの木箱を落下させる。底に4cm角ほどの加速度計が取り付けてある。小さいほうの箱は、おもりの役割を果たす。火星の重力が発生するように砂を入れてある。(地球の0.38倍)
火星は意外に小さい。半径が地球の半分ぐらいしかない。大気は二酸化炭素で、地表の気圧は地球の0.6%しかない。休眠状態の微生物とか、地中で生きている生命体がいる可能性はある。寒い。赤っぽい地面ばかりしかない。質量は地球の10分1。
加速度計:物体の加速度を測定する装置。1万円ぐらい。
『第六章 恐竜少年の仮説』
相澤(あいざわ):藤竹の友人。准教授。ふたりは、東都大学の同期生。オフィスの主人。ずんぐりした体と短い指をしている。藤竹は、東都大学大学院理学研究科で無給の学術研究員の立場にある。藤竹の研究テーマは、『天体衝突と惑星の進化』
奥多摩の雪景色が見えるオフィスには、探査機『はやぶさ2』、金星探査機『あかつき』、月周回衛星『かぐや』のプラモデルなどが飾ってある。時は、2月である。
JAXA(ジャクサ):宇宙航空研究開発機構。
宇宙科学研究所:所在地は、神奈川県相模原市(さがみはらし)。
アカデミア:大学や公的機関で働く研究者。教授、准教授など。
日本地球惑星科学連合大会:千葉市幕張メッセで5月に開催される。
藤竹の実験:定時制高校に科学部をつくるということ。定時制高校に科学部をつくり、どんなことが起きるのかを観察する。
首肯(しゅこう):うなずくこと。
メンバーの多様性:メンバーが同じような能力だと伸びない。
逡巡(しゅんじゅん):決心がつかずためらう。
(ちょっと横道にそれます)
たまたま先日の夜、BSフジのプライム・ニュースという番組を見ていたら、JAXA(ジャクサ)の人たちが出ていて、今年月面に着陸したSLIM(スリム。小型月着陸実証機)についてお話をされていました。ちょうどこの本に出ていた組織なので興味をもって見ました。
AI(エーアイ)みたいなもので、着陸20分前に相模原市のJAXAから指示を出すと、あとはSLIM(スリム)が自分自身で判断して月面に着陸していくそうです。
横流れしながら着陸して転倒した状態で静止した。計画していたとおりの姿勢での着陸ではなかったが、太陽光発電は利用できる状態だった。
月面の温度は昼100℃以上、夜は、-170℃前後だそうです。
地上では、事前にいろいろなパターンを考えてあって、実際の状況があてはまるパターンで淡々と処理を進めていくというようなお話でした。冷静沈着、機械的でもありますが、落ち着いて実行していくのです。
宇宙開発は基本的には、『ものづくりです』という言葉を聞いて、この物語に出てくる74歳の定時制高校生長嶺省造さんを思い浮かべたのです。
(では、もとに戻ります)
文章を読みながら装置のイメージ図を紙に書いているのですが、だんだんわからなくなってきました。
実験ボックス(大きいほうの木箱→透明のアクリル容器に変更した。側面が扉のように開く。長辺40cmの箱である)にデジタルカメラをつける。
コンピューター準備室の角(すみ)に、角材で組まれた櫓(やぐら)がある。
天井パネルが2枚はずされている。
その穴に、櫓の頭が少しつっこんでいる。
天井の穴から、自転車のホイールが下半分だけ見える。
櫓の高さは3mである。
滑車にワイヤーが釣り下がっている。ワイヤーの片方に実験ボックス、もう片方におもりの役目の小箱が付いている。
火星の重力は、0.38Gである。
その持続時間は、0.6秒である。
実験ボックスの中に、標的の砂(これがなにかわかりません→その砂を、火星の地表として、0.38Gの環境をつくって、隕石にたとえた金属球を撃ち込むのだろうか)を入れたプラスチック容器を入れる。
実験ボックスが滑車で落下する間に、上から金属球の弾(たま)を打ち込んで、クレーターをつくる。
実験ボックスの上に、金属球の発射装置を付ける。実験ボックスと金属球の発射装置は、一体である。両者は一体となって落下する。
発射装置は、スプリング式空気銃の仕組みを応用したものとする。
発射装置はアルミ製の筒で、長さは20cmぐらい、内部に、強力なばねとピストンが仕込まれている。(こどものころ、竹でつくった水鉄砲みたいです)
押しつぶしたばねが、元に戻る力で(伸びる)ピストンを押し出し、圧縮された空気が弾を撃ち出す。
この発射装置が、実験ボックスの上ぶたに金具で取り付けられている。
アクリル製実験ボックスの箱の上に、アルミの筒が立っている。アクリル箱の上ぶたには、筒から弾を通すための丸い穴が開いている。
引き金にばねを取り付ける。収縮したばねが動かないように小さな金属の留め金でとめる。留め具と櫓の最上部とを紐(ひも)でつなぐ。実験ボックスが、紐の長さまで落下したときに、留め具がはずれて、ばねが引き金を引いて隕石にたとえた球が、火星の地表にたとえた砂に向かって発射される。
紐は、細くてがんじょうなチェーンにした。チェーンの長さで、引き金を引くタイミングを調整する。誤射を防ぐ安全装置も装着した。製造業を職としていた長嶺省造さんのアイデアと技術です。
ストッパーである留め具はアルミ製にした。
ランパート・クレーター:この意味がなかなかしっくり頭に入ってきません。花びら状のクレーター。
二重ローブのクレーター:円形が二重になっているクレーター。まずひとつ円形があって、さらにひとまわり大きな円形が囲む状態でしょう。
名取佳純の性質・資質・性格として:記録魔です。いつどこでだれがなにをどうしてそうしてどうなったのかをていねいに記録します。たぶん、こういう人って、古代大和朝廷の時代からいたと思います。そういう人たちが文書を残してくれたおかげで、昔の歴史をふりかえることができます。
ドライアイス:火星の二酸化炭素の氷とする。
間隙率(かんげきりつ):すきま。火山灰の粒子の間のすきま。ちょっとむずかしくて、わたしにはわかりません。
昇華量:ドライアイスが蒸発することだと受け取りました。
マハブランカ:フィリピンの伝統的なスイーツ。ココナッツミルクでつくる。お豆腐みたいに見えます。
220ページまで読んできて、話がうまくいきすぎている感じがします。(このあと、波乱が訪れて、研究が中断します。冒頭の定時制高校退学者ふたりがコンピューター準備室に乗り込んできて、実験装置を破壊します。バカヤローたちです)
224ページ、読んでいて、脳の中で登場人物たちが生きている感覚があります。
実験装置を壊されて、メンバー同士の諍い(いさかい)があります。
おもりの小箱を手動で操作するのをやめて、電磁石を導入した。
藤竹の思考と苦悩が明かされます。
以前ノーベル賞を受賞したアメリカ合衆国在住日本人のお話と共通します。日本では、しがらみがあって、研究に専念できないのです。
読んでいて共感します。今年になって政治家の派閥が大きな問題になりましたが、それは、国会だけのことではなくて、日本中いたるところにある組織で行われていることです。
基本的に、大学ごとという学閥で、グループで集まって、師匠と弟子の関係ができて、自分たちの利益のために物事を決めていきます。師匠のポストを弟子が引き継いでいく手法です。派閥に入れない者は、能力があっても排除されます。自由度が低い。また、上司にあたる人のいうことに従わないと上司がもつ人事権で排除されます。
税金とか保険料とか、そんなお金という、『砂糖の山』に、みんなでアリのように群(むら)がって、権利を得て、関係者でお金を分け合うのです。そこに正義はありません。不合理、不条理、理不尽な世界が広がっています。
生き残るためには、パワハラやセクハラになどに耐えて、気持ちに折り合いをつけていくことが必要です。忍耐と順応です。それが現実です。
エリート:優秀とされる人。指導者の立場になる人。人口1億2300万人の日本人から選ばれた人。
233ページに重い言葉があります。『エリートという連中は、真っ当なレールの上を歩んでこなかった人間が自分たちの足もとまでのし上がってきた途端、手のひらを返して蹴落としにかかるものだ……』
人の足をひっぱって、快感を味わいたいとう類(たぐい)の人間がいます。心の中に、鬼が住んでいる人がいます。
夜、9時15分に教室に集合して、みんなで話し合って、困難を克服します。心を割っての、本音での話し合いはだいじです。
藤竹はこどものころ、恐竜少年だった。科学に興味があった。
裕福な家のおぼっちゃまだった。
東京世田谷区の一戸建てに生まれて住み、中高一貫の私立高に通い、大学に入った。(本では東都大学ですが、現実では東京大学でしょう)。
父は大手ゼネコンの研究職、母は小学校教師をしていた。
そんな話から、学歴差別の話へとつながれていきます。藤竹さんが推す(おす)人物は、高等専門学校卒であったために、研究の実績をなきがものとされて不利益をこうむります。藤竹さんに推(お)された人物と柳田岳人のキャラクター(個性)が重なります。
教師という人たちは、人に点数をつけることが仕事の人たちです。
成績の点数結果で人間に上下のランクをつけます。
勉強ができる頭がいい人たちがつくる世界です。
大きな組織では、『本流(主流派)』とか、『支流(非主流派)』などと表現することもあります。
学歴とか成績で人間を色分けします。思いやりなどというものは、あるようでありません。利害関係でつながります。そういう世界があります。
ツーソン:メキシコとの国境に近い。藤竹のアメリカ合衆国での就労先。アリゾナ大学の研究員。藤竹は、上司にさからったので、日本の学術派閥から排除された。
ポスドク:期限付きの研究者
なんというか、想像力とか発明とかいう能力は、学歴とは関係ない時があるのです。そのことひとつについて、生まれながらのずば抜けた能力がある。だけどそのこと以外のほかのことは何もできないという人はいます。
ひととおり、なんでも平均点のことはできるけれど、ずばぬけた能力はないという人もいますが、それはそれで、会社や組織にとっては使い勝手がいい人であり、わたしは、すばらしい能力をもった人だと判断しています。
柳田岳人の言葉には説得力があります。
なにかをやるときに、具体的な理由とか理屈なんてないのです。
『やりたいからやる』のです。
アスペクト比:モニターなどの画像において、縦横の比率。1対2とか、3対とか。
解析(かいせき):細かく調べる。
実験では、想定外の結果が出ることがあるそうです。(なるほど)
深い意味合いがあります。
藤竹にとっては、定時制高校のメンバーを科学部に集めて研究をしたら、集まった人間たちによってどのような効果が生まれるかという実験をしているのです。目の前の火星をつくるという実験はそのための素材に過ぎないのです。
252ページに藤竹さんの言葉があります。『人間は、その気にさせられてこそ、遠くまで行ける』
『第七章 教室は宇宙をわたる』
最後の章まできました。ずいぶん長い文章になってしまいました。疲れました。
根気よく最後まで読んでいただいた方には感謝します。なにかの役(やく)に立てたら幸いです。
さあラストスパートです。(最後のがんばり)
小説の舞台は、JR京葉線海浜幕張駅南口から幕張メッセ国際会議場へと移ります。
自分も何度か訪れたことがある場所と地域です。
車を運転して、海浜幕張駅まで人を送ったこともあります。読んでいて、親しみを感じます。
初めて行ったのは、息子がまだ小学生のときで、4年生ぐらいだった記憶です。
ふたりで、大恐竜博展を観たあと、プロ野球の球場を横目に歩き、海岸辺りをぶらぶらしました。
その時は、もう二度とここへ来ることはないだろうと思いましたが、縁があって、その後何度も訪れました。
物語の中では、定時制高校のメンバーが発表会に参加します。『日本地球惑星科学連合大会』です。
この章では、柳田岳人(やなぎだ・たけと)が語り手です。彼のひとり語りが続きます。彼の気持ちが表現されます。
『火星重力下でランパート・クレーターを再現する』
研究メンバーは、東京都立東新宿高校定時制課程、柳田岳人、名取佳純、越川アンジェラ、長嶺省造です。発表者は、柳田岳人と名取佳純です。
真空チャンパー:内部を真空にするための容器。
標的:攻撃目標。ただ、こちらのお話の場合は、仮定した火星の地表とか地中のことをさすようです。
読んでいて思うのは、『オタクの世界』です。
オタク:こだわりがある対象をもち、対象物に時間やお金を集中する人。まあ、だれしもそういうところはあるでしょう。
物語ですので、当然ですが、メンバーたちの研究成果は表彰対象となります。
お笑いコンビティモンディ高岸宏行さんの決めゼリフ、『やればできる!』を思い出しました。
『見えるか、先生。獲ったぞ。(とったぞ)』
あの日あの時あの場所で、あの人に会わなければ、今の私はなかったということがあるし、会ったがために、ひどい目にあったということもあります。幸運な人に出会うことは良縁です。不運な人に出会わないためには工夫が必要です。
自分が人を見るときのものさしがあります。その行動を見て近づかいないように気をつけている人がいます。たばこを吸う人にいい人はいない。ながらスマホをする人にいい人はいない。ありがとうを言わない人にいい人はいない。お酒飲みも避けたほうがいい。長い間生きてきての教訓です。
奇人でもいいから善人と付き合う。悪人と思われる人とは距離を開ける。不利益に巻き込まれないようにする。
物語にある、『部屋』の文章の部分を読みながらそう思いました。部屋=人との出会いの空間です。
282ページ、夢のような(実現性のない)話ではあるという感想で読み終わりました。
『作者あとがき』
さきほど、実現性のない夢と書きましたが、実話のモデルがあるそうです。びっくりしました。
2017年の日本地球惑星科学連合で実際にあったお話をモデルにしてこの小説ができあがっているそうです。
大阪にある定時制高校がチャレンジして成功をおさめています。『重力可変装置で火星表層の水の流れを解析する』がタイトルでした。すごいなあ。立派です。
(その後 98ページに記事がある映画、『オデッセイ』を動画配信サービスで観ました)
物語は、火星にひとり残された男性植物学者宇宙飛行士をみんなで救出する物語になっています。
地球の科学者たちみんなが、国籍を問わずに協力し合って火星に取り残された男性を救い出します。
感動的です。
現実社会では、アメリカ合衆国と中国は仲が悪いようですが、映画の中では仲良しです。
最終的には、アメリカ合衆国が一番という映画です。かまいません。それがアメリカ合衆国の人の誇りであり心の支えなのでしょう。アメリカ合衆国らしい娯楽映画です。
オデッセイ:意味は、『長い冒険旅行』だそうです。映画の原題は、『The Martian(火星人)』です。
小説は、『火星の人 アンディ・ウィアー ハヤカワ文庫SF 1巻・2巻各上・下』です。
こちらの本の登場人物の名取佳純(なとりかすみ 16歳 中学不登校 リストカット女子)が、『火星の人』を読んで、へこんだ気持ちが助けられるわけですが、小説とかマンガを読むことで、励まされたり、心が救われたりすることってあります。音楽や映画でも同様です。ですから、人間にとって、芸術や娯楽は大事です。お笑いも大事です。
(追記:2024年9月10日火曜日)
本作品がNHKでドラマ化されて放送されることを知りました。
びっくりしました。
本年10月8日火曜日午後10時からの『NHKドラマ10』にて、全10回で放送されます。
2024年05月10日
私は誰になっていくの? アルツハイマー病者からみた世界
私は誰になっていくの? アルツハイマー病者からみた世界 クリスティーン・ボーデン著 桧垣陽子(ひがき・ようこ)訳 クリエイツかもがわ
本の帯に、『世界でも数少ない認知症の人が書いた本』とあります。
介護するほうの人の本や映画を観たことはありますが、認知症である人が書いた自身の病気を紹介する本は1冊しか読んだことがありません。『ボクはやっと認知症のことがわかった 医師 長谷川和夫 読売新聞編集委員 猪熊律子(いのくま・りつこ) KADOKAWA』でした。そちらの本では、認知症の医療や介護にかかわってきた自分自身が認知症になりましたと書かれていました。
さて、これから読む本には、どんなことが書いてあるのだろう?
読み始めます。(読みながら感想を書き足していきます)
筆者は、オーストラリア人です。
自分はオーストラリアには2回行ったことがあります。もうずいぶん前のことになりました。
死ぬまでにもう一度シドニーのオペラハウスを見たいねと夫婦で話をしたことがありますが、歳をとってきて体も若い頃のようにびゅんびゅんとは動かなくなったのであきらめもようです。
自分は認知症にはならないとは思っていません。歳をとってきて物忘れが多くなってきました。早期発見、早期治療です。ニュースの報道番組などで、初期のアルツハイマー型認知症には、エーザイのレカネマブ(商品名:レケンビ)という薬が効く人もいるという知識はもっています。完治はしないそうですが、完治しなくても、効果がある数年間の間だけでも正気(しょうき)でいて、こどもたちに迷惑をかけたくないという気持ちはあります。
『日本の読者のみなさまへ』
ご自身は、今日が何曜日なのか、お昼に何を食べたのか、きのう何をしたのかなどを覚えていないそうです。わたしも多少、そういうことはあります。定年退職後は毎日が日曜日です。何を食べたのかを思い出す必要もありません。働いていたころは、サービス残業の長時間労働で、夜間や休日の呼び出しもあったし、一年ぐらい先の仕事に関するプランを一日中ずーっと考えて仕事の準備に専念していました。そういうことから解放されたら、気が抜けて、記憶力がどんどん落ちていきました。体もあちこちが痛みだしました。
自分は認知症だけれど、堂々としていたいというような強い意思表示の文章があります。
アルツハイマー型認知症の有効な治療法ができることを期待されています。
認知症をもつ人たちが、希望をもって生きられることを願っておられます。
その部分の文章を書かれた日付はかなり古い。2003年2月オーストラリア・ブリスベーンにてとあります。2003年は、平成15年で、今からもう21年ぐらい前のことになりました。
231ページにある著者略歴を見ると、著者は、7回来日されています。2003年(平成15年 岡山、松江(島根県))、2004年(平成16年 京都)、2006年(平成18年 京都)、2007年(平成19年 札幌)、2012年(平成24年 場所は書いてありません)、2017年(平成29年 場所は書いてありません)、2023年(令和5年 場所は書いてありません)
1949年(昭和29年生まれ)今年75歳ぐらいの女性です。アルツハイマー型認知症の発病が、1995年46歳のときとあります。そのときの職業が、オーストラリア首相内閣省の職員です。日本でいうところの高級官僚でしょう。翌年、おそらく認知症が原因で退職されています。
4ページに、マイク・マンロというジャーナリストの『はしがき』があり、この本の著者は、自分の電話番号が覚えられなくなり、『やかん(英語でケトル)』という単語を思い出せなくなったとあります。著者は、介護者の苦労を理解したとあります。娘さんが三人おられます。著者は、シングルマザーだそうです。著者は、見知らぬ世界にいる人になっているとあります。
『はじめに』
ご自身の経歴に自負あり。(じふ:才能と仕事を誇りに思う)。オーストラリア国の上級行政官だった。
しかし、退職して、余命わずかな認知症の年金生活者になってしまった。
1995年(平成7年阪神淡路大震災の年です)46歳で、アルツハイマー病の初期と診断された。(いまだと、エーザイのレカネマブという初期の認知症に効果があるという薬があります)その後、奇跡的な改善があったそうです。
途中でクリスチャンになられたらしい。本の内容は宗教の話が多くなりそうなので、興味がない人は読み飛ばしてほしいそうです。(わたしは、神さまというものは自分の心の中にいるから自分を信じて生きています。祈りだけでは課題は解決しません。できもしないことをできるように思わせるという暗示をかけるような特定の宗教とはかかわりをもちません。だからこの本の宗教の部分は読み飛ばします)
アルツハイマー病は、オーストラリアでは、4番目に多い死因だそうです。
発病したころとして、娘が3人いる。イアンシー23歳、リアノン17歳、ミシェリン12歳
自分にひんぱんな偏頭痛(へんずつう。血管の拡張でズキズキという痛み)があった。
マーガレット・フリッシェ:首相・内閣省で著者の個人秘書官だった。
祖母:103歳。
『はじめに』の部分を書いた日付は、1998年4月(平成8年)になっています。
『目次』
8つのパート(部分)に分かれています。第1章から第23章まであります。最後に、【付録】があります。
『診断』
まだ若いのにアルツハイマー病の診断がくだります。若くても診断は出るし、外交官や、弁護士、判事でも診断を下したことがあると医師が言います。(著者は、自分が優秀な人間であることに誇りをもっておられます)
脳の前頭葉全体に神経の脱落が見られるそうです。CTスキャンとかMRIの検査を受けておられます。
著者は不安な世界に突き落とされました。娘三人がいるシングルマザーです。住宅ローンもあります。
しばらく読んでいて、気づいたことがあります。外国人はこういう書き方をするのだろうか。去年読んだ本で、乳がんを克服された西加奈子さんの、『くもをさがす』がありました。読みにくい本でした。だらだらと友人や医療関係者とのやりとりが、牛のよだれのように延々と続くのです。夏目漱石作品、『吾輩は猫である』のパターンでもあります。
今読んでいるこの本もそのような書き方です。
時系列に従って、病気の経過が書いてあります。
仕事のストレスは大きかったようすです。それでも著者は、仕事が好きな仕事人間でした。
理由はわかりませんが、長女のイアンシーが自殺企図をしています。
著者が1993年5月(日本だと平成5年)に離婚した夫は、DVの加害者でした。家庭内暴力。
自分の思いどおりにならないと、机をたたいたり、イスを蹴ったり(けったり)する男性がいます。学力的には優秀な人だったりもします。
著者はひどい偏頭痛に苦しんでいた。
1995年、出勤途中に、職場への道がわからなくなる。自分で車を運転中です。怖い(こわい)。
同年9月15日に、専門医から退職勧告を受けた。
『私は誰になっていくの?』
『アルツハイマー病で死ぬはずがない』から始まります。
アルツハイマー病が原因で、退職しなければならないので、老齢退職年金会社に年金の申請をしますが受け付けてもらえません。年金査定委員会にはねられます。仮病扱いです。16年間以上保険料を納めてきたのに。(オーストラリアの年金制度は日本とは異なるようです)
長女は大学を一年間休学することになりました。(休学中は学費を払わなくていいようです)
1996年2月(平成8年)の専門医の判断として、著者は、約一年後に身の回りの世話の解除が必要になる。数年後には、全介護が必要になる。
この部分を読んでいて、先日自分が整形外科クリニックを受診した時のことを思い出しました。見るからに認知症であろう小柄な70代ぐらいの女性が、年老いた夫と看護師に両腕をかかえられてよろよろと、ほんとうにゆっくり歩いているというか、前に進んでおられました。夫がかける声にはかすかな反応があるのですが、看護師がかける声には無感心なようすでした。喜怒哀楽のない無表情の女性でした。その方は、声を発することはありませんでした。
安心はできません。明日は我が身かもしれません。気をつけていても認知症になってしまいます。
高齢のアルツハイマー病患者の生存予想年数:15年~20年と書いてあります。
65歳以下のアルツハイマー病患者は、全体の2%。若いと病気の進行が早い。生存予想年数:5年~10年と書いてあります。
状態として、脳の細胞が侵され(おかされ)、もつれて混乱し、もはや機能できなくなると書いてあります。人格、行動、思考、記憶をつかさどる細胞が働かなくなる。
『アルツハイマー病になると、どんな感じなのか?』
病状について書いてあります。
まわりに人がいるときは、元気だが、人がいなくなると、疲れ切ってぐったりしてしまうそうです。
人とにぎやかに談笑したあとは疲れ果てて2・3時間、横になるそうです。
1995年10月のこととして、『タクリン』という薬を飲まれています。今なら、エーザイの『レカネマブ』という薬のような位置づけなのでしょう。認知症の薬です。(その後、タクリンは全般的に効果がなかったようです)
以前のご自身の能力(脳の力ともいえる)について語っておられます。
生まれつき、記憶力が抜群に良かった。(天才です。関係先のたくさんの電話番号とか、10ケタもある各種カード番号とかを瞬時に口にすることができたそうです)
あらゆるものを短時間で記憶できた。すばやかった。相手が遅いことにイライラした。
しかし、認知症になった今、その並外れた、『記憶力(記憶する力)』は、もうない。
今日が何曜日なのかわからないそうです。西暦もわからない。
今、午前なのか、午後なのかもわからない。
頭の中全体にぼんやり霧がかかっていて、何をするのにも、大変な努力とコントロールがいるそうです。
いつも間違ってしまう。
遠い過去の記憶はあるけれど、最近のことが思い出せない。
同時に複数のことができない。火事を出しそうになるそうです。料理をしながら、洗濯をして、アイロンをかけて、そういうことをしているうちに、お鍋やアイロンのことを忘れて放置する。
用事があって電話をかけているうち(番号を押す)に、用事の内容を忘れて、相手が電話に出て、相手がだれなのかを忘れて、相手にあやまる。(つらいことです)
にぎやかなところが苦痛です。おおぜいが参加するパーティとか、ショッピングセンターとか、音や人の声で、とても疲れるそうです。
どこから音が聞こえてくるのかがわからないそうです。
『その時、何歳だった?』と質問されて、『4時半だったわ』と返答してしまいます。
『郵便受け』という単語を思い出せなくて、『切手を貼った手紙を入れるあの箱』と表現します。
読んでいて、ふと思ったのです。
こうやって、きちんと文章が書かれていることが不思議です。
認知症の状態からして、このようなしっかりした文章は書けないような気がするのです。
93ページにそのことについて書かれてあります。
コンピューター(パソコン)なら、(文章などを)打てる。手書きはほとんどできないそうです。コンピューターで字を書くのは自分にとってはやさしいこととあります。
著者の脳みそは、ロボットのようです。
娘さんから、『ママの声は、ロボットのようだわ……』と言われます。
アラーム付き薬入れ:そういうものがあることを初めて知りました。飲み忘れ防止対策です。
物の置忘れが多い。
『見知らぬ世界への旅立ち』
自分で自分の脳を、『腐れ脳(くされのう)』と呼ぶ。
計算能力がなくなる。銀行口座の管理・運用はできない。
長女のイアンシーに代理人の権限を設定する手続きをした。
手書きで文字や数値を書くことがむずかしくなった。
車の運転席で、どのペダルがなにかわからなくなった。(すぐに思い出すので、しばらく運転をされていました。恐ろしいことです(おそろしいことです))。車のバックがむずかしくなる。
階段ののぼりおりが、気持ちを集中させないとできない。自分の足につまずく。
娘や孫たちと過ごす時間を大切にしたい。いっしょに過ごしたい。
宗教の話が多くなってきました。(わたしは興味がないので流し読みします)
『これからどこへ』
1996年(平成8年)、新聞の記事になる。テレビ番組に出る。アルツハイマー病について説明がなされた。
神さまの話が続きます。
『後記 驚きにみちた神!』
1997年7月から数か月間のことです。(平成9年)
(病状が)よくなっている感じがする。
また、車の運転をしたい。
1998年2月。車の運転をしています。頭がはっきりしているそうです。
イギリスにいる父親が亡くなって、葬儀に出席されているようです。
(このあたり、文章が興奮していて、時系列がよくわかりませんでした。ご自身はわかっているのでしょうが、読み手にはわかりにくい)
『神が担って(になって)くださる!』
だいじょうぶだろうか。思いこみで心をコントロールされているような雰囲気があります。マインドコントロール。この場合、宗教。聖書とか、クリスチャンとかの単語が出てきます。
6年後から8年後には、死ぬだろう。3年後から5年後には、ホームで全介護が必要になるだろう。
『付録』アルツハイマー病とはどのような病か?
著者の言葉です。
脳室が拡大する。脳回(脳のしわの隆起した部分)が縮む(ちぢむ)。脳溝(のうこう。脳のしわのくぼんだ部分)は開く。大脳皮質(脳を覆う(おおう)しわしわの部分)が減少する。大脳皮質ほかに老人斑(ろうじんはん。たんぱく質の沈着(アミロイドという核をもっている))が見られる。
以下、本に書いてあることは、説明がとても細かいので、ここに書くのは疲れるからやめておきます。
アミロイドβ(アミロイドベータ)というたんぱく質(「ごみ」らしい)が、アルツハイマー型認知症の原因になっていて、アミロイドβを退治する薬が、エーザイの『レカネマブ』という薬のことだろうと、自分は理解しています。(株式投資をしていての知識です。自分は、エーザイの株を保有しています)
全人格がゆっくりと崩れていく。知性、想像力、コミュニケーション、感情、判断、動機づけ、行動、自制心に影響が及ぶ。
最終的には、脳が減少して、身体機能が維持できなくなり死に至る。排泄のコントロールができなくなり、言葉を話したり、歩いたり、立ち上がったり、ほほえむことができなくなる。
最後に、動けなくなり、寝たきりになり、意識がなくなり、死を迎える。
『クリスティーンさん訪問の記録 石倉康次 立命館大学産業社会学部教授』
有志5人で、オーストラリア・ブリスベーン郊外にある著者のご自宅を訪問された時の記録です。
著者は、再婚されています。1998年(平成10年)に結婚紹介所で知り合われたそうです。
宗教とか信仰の話があります。
著者の一日の過ごし方について、お話されています。
著者は、作家のような生活を送られています。
『認知症を生きるということ 小澤勲 精神科医 2008年(平成20年)70歳没』
読んでいて自分が思ったことと同じことが書いてあります。『これが認知症を病む人が書いた文章だろうか』、誤診ではなかろうかということです。
でも、脳の画像は異常なのです。MRIの画像では、脳に激しい萎縮があるそうです。
『認知症になってしまえば、本人は何もわからないのだから……』→ということはないそうです。認知症になっても、心の動きはあるのです。
全体を読み終えて思ったことです。
人間は、最後はだれでも死んでしまう。
だから、どう生きて、どう死ぬのか、よく考える。
本の帯に、『世界でも数少ない認知症の人が書いた本』とあります。
介護するほうの人の本や映画を観たことはありますが、認知症である人が書いた自身の病気を紹介する本は1冊しか読んだことがありません。『ボクはやっと認知症のことがわかった 医師 長谷川和夫 読売新聞編集委員 猪熊律子(いのくま・りつこ) KADOKAWA』でした。そちらの本では、認知症の医療や介護にかかわってきた自分自身が認知症になりましたと書かれていました。
さて、これから読む本には、どんなことが書いてあるのだろう?
読み始めます。(読みながら感想を書き足していきます)
筆者は、オーストラリア人です。
自分はオーストラリアには2回行ったことがあります。もうずいぶん前のことになりました。
死ぬまでにもう一度シドニーのオペラハウスを見たいねと夫婦で話をしたことがありますが、歳をとってきて体も若い頃のようにびゅんびゅんとは動かなくなったのであきらめもようです。
自分は認知症にはならないとは思っていません。歳をとってきて物忘れが多くなってきました。早期発見、早期治療です。ニュースの報道番組などで、初期のアルツハイマー型認知症には、エーザイのレカネマブ(商品名:レケンビ)という薬が効く人もいるという知識はもっています。完治はしないそうですが、完治しなくても、効果がある数年間の間だけでも正気(しょうき)でいて、こどもたちに迷惑をかけたくないという気持ちはあります。
『日本の読者のみなさまへ』
ご自身は、今日が何曜日なのか、お昼に何を食べたのか、きのう何をしたのかなどを覚えていないそうです。わたしも多少、そういうことはあります。定年退職後は毎日が日曜日です。何を食べたのかを思い出す必要もありません。働いていたころは、サービス残業の長時間労働で、夜間や休日の呼び出しもあったし、一年ぐらい先の仕事に関するプランを一日中ずーっと考えて仕事の準備に専念していました。そういうことから解放されたら、気が抜けて、記憶力がどんどん落ちていきました。体もあちこちが痛みだしました。
自分は認知症だけれど、堂々としていたいというような強い意思表示の文章があります。
アルツハイマー型認知症の有効な治療法ができることを期待されています。
認知症をもつ人たちが、希望をもって生きられることを願っておられます。
その部分の文章を書かれた日付はかなり古い。2003年2月オーストラリア・ブリスベーンにてとあります。2003年は、平成15年で、今からもう21年ぐらい前のことになりました。
231ページにある著者略歴を見ると、著者は、7回来日されています。2003年(平成15年 岡山、松江(島根県))、2004年(平成16年 京都)、2006年(平成18年 京都)、2007年(平成19年 札幌)、2012年(平成24年 場所は書いてありません)、2017年(平成29年 場所は書いてありません)、2023年(令和5年 場所は書いてありません)
1949年(昭和29年生まれ)今年75歳ぐらいの女性です。アルツハイマー型認知症の発病が、1995年46歳のときとあります。そのときの職業が、オーストラリア首相内閣省の職員です。日本でいうところの高級官僚でしょう。翌年、おそらく認知症が原因で退職されています。
4ページに、マイク・マンロというジャーナリストの『はしがき』があり、この本の著者は、自分の電話番号が覚えられなくなり、『やかん(英語でケトル)』という単語を思い出せなくなったとあります。著者は、介護者の苦労を理解したとあります。娘さんが三人おられます。著者は、シングルマザーだそうです。著者は、見知らぬ世界にいる人になっているとあります。
『はじめに』
ご自身の経歴に自負あり。(じふ:才能と仕事を誇りに思う)。オーストラリア国の上級行政官だった。
しかし、退職して、余命わずかな認知症の年金生活者になってしまった。
1995年(平成7年阪神淡路大震災の年です)46歳で、アルツハイマー病の初期と診断された。(いまだと、エーザイのレカネマブという初期の認知症に効果があるという薬があります)その後、奇跡的な改善があったそうです。
途中でクリスチャンになられたらしい。本の内容は宗教の話が多くなりそうなので、興味がない人は読み飛ばしてほしいそうです。(わたしは、神さまというものは自分の心の中にいるから自分を信じて生きています。祈りだけでは課題は解決しません。できもしないことをできるように思わせるという暗示をかけるような特定の宗教とはかかわりをもちません。だからこの本の宗教の部分は読み飛ばします)
アルツハイマー病は、オーストラリアでは、4番目に多い死因だそうです。
発病したころとして、娘が3人いる。イアンシー23歳、リアノン17歳、ミシェリン12歳
自分にひんぱんな偏頭痛(へんずつう。血管の拡張でズキズキという痛み)があった。
マーガレット・フリッシェ:首相・内閣省で著者の個人秘書官だった。
祖母:103歳。
『はじめに』の部分を書いた日付は、1998年4月(平成8年)になっています。
『目次』
8つのパート(部分)に分かれています。第1章から第23章まであります。最後に、【付録】があります。
『診断』
まだ若いのにアルツハイマー病の診断がくだります。若くても診断は出るし、外交官や、弁護士、判事でも診断を下したことがあると医師が言います。(著者は、自分が優秀な人間であることに誇りをもっておられます)
脳の前頭葉全体に神経の脱落が見られるそうです。CTスキャンとかMRIの検査を受けておられます。
著者は不安な世界に突き落とされました。娘三人がいるシングルマザーです。住宅ローンもあります。
しばらく読んでいて、気づいたことがあります。外国人はこういう書き方をするのだろうか。去年読んだ本で、乳がんを克服された西加奈子さんの、『くもをさがす』がありました。読みにくい本でした。だらだらと友人や医療関係者とのやりとりが、牛のよだれのように延々と続くのです。夏目漱石作品、『吾輩は猫である』のパターンでもあります。
今読んでいるこの本もそのような書き方です。
時系列に従って、病気の経過が書いてあります。
仕事のストレスは大きかったようすです。それでも著者は、仕事が好きな仕事人間でした。
理由はわかりませんが、長女のイアンシーが自殺企図をしています。
著者が1993年5月(日本だと平成5年)に離婚した夫は、DVの加害者でした。家庭内暴力。
自分の思いどおりにならないと、机をたたいたり、イスを蹴ったり(けったり)する男性がいます。学力的には優秀な人だったりもします。
著者はひどい偏頭痛に苦しんでいた。
1995年、出勤途中に、職場への道がわからなくなる。自分で車を運転中です。怖い(こわい)。
同年9月15日に、専門医から退職勧告を受けた。
『私は誰になっていくの?』
『アルツハイマー病で死ぬはずがない』から始まります。
アルツハイマー病が原因で、退職しなければならないので、老齢退職年金会社に年金の申請をしますが受け付けてもらえません。年金査定委員会にはねられます。仮病扱いです。16年間以上保険料を納めてきたのに。(オーストラリアの年金制度は日本とは異なるようです)
長女は大学を一年間休学することになりました。(休学中は学費を払わなくていいようです)
1996年2月(平成8年)の専門医の判断として、著者は、約一年後に身の回りの世話の解除が必要になる。数年後には、全介護が必要になる。
この部分を読んでいて、先日自分が整形外科クリニックを受診した時のことを思い出しました。見るからに認知症であろう小柄な70代ぐらいの女性が、年老いた夫と看護師に両腕をかかえられてよろよろと、ほんとうにゆっくり歩いているというか、前に進んでおられました。夫がかける声にはかすかな反応があるのですが、看護師がかける声には無感心なようすでした。喜怒哀楽のない無表情の女性でした。その方は、声を発することはありませんでした。
安心はできません。明日は我が身かもしれません。気をつけていても認知症になってしまいます。
高齢のアルツハイマー病患者の生存予想年数:15年~20年と書いてあります。
65歳以下のアルツハイマー病患者は、全体の2%。若いと病気の進行が早い。生存予想年数:5年~10年と書いてあります。
状態として、脳の細胞が侵され(おかされ)、もつれて混乱し、もはや機能できなくなると書いてあります。人格、行動、思考、記憶をつかさどる細胞が働かなくなる。
『アルツハイマー病になると、どんな感じなのか?』
病状について書いてあります。
まわりに人がいるときは、元気だが、人がいなくなると、疲れ切ってぐったりしてしまうそうです。
人とにぎやかに談笑したあとは疲れ果てて2・3時間、横になるそうです。
1995年10月のこととして、『タクリン』という薬を飲まれています。今なら、エーザイの『レカネマブ』という薬のような位置づけなのでしょう。認知症の薬です。(その後、タクリンは全般的に効果がなかったようです)
以前のご自身の能力(脳の力ともいえる)について語っておられます。
生まれつき、記憶力が抜群に良かった。(天才です。関係先のたくさんの電話番号とか、10ケタもある各種カード番号とかを瞬時に口にすることができたそうです)
あらゆるものを短時間で記憶できた。すばやかった。相手が遅いことにイライラした。
しかし、認知症になった今、その並外れた、『記憶力(記憶する力)』は、もうない。
今日が何曜日なのかわからないそうです。西暦もわからない。
今、午前なのか、午後なのかもわからない。
頭の中全体にぼんやり霧がかかっていて、何をするのにも、大変な努力とコントロールがいるそうです。
いつも間違ってしまう。
遠い過去の記憶はあるけれど、最近のことが思い出せない。
同時に複数のことができない。火事を出しそうになるそうです。料理をしながら、洗濯をして、アイロンをかけて、そういうことをしているうちに、お鍋やアイロンのことを忘れて放置する。
用事があって電話をかけているうち(番号を押す)に、用事の内容を忘れて、相手が電話に出て、相手がだれなのかを忘れて、相手にあやまる。(つらいことです)
にぎやかなところが苦痛です。おおぜいが参加するパーティとか、ショッピングセンターとか、音や人の声で、とても疲れるそうです。
どこから音が聞こえてくるのかがわからないそうです。
『その時、何歳だった?』と質問されて、『4時半だったわ』と返答してしまいます。
『郵便受け』という単語を思い出せなくて、『切手を貼った手紙を入れるあの箱』と表現します。
読んでいて、ふと思ったのです。
こうやって、きちんと文章が書かれていることが不思議です。
認知症の状態からして、このようなしっかりした文章は書けないような気がするのです。
93ページにそのことについて書かれてあります。
コンピューター(パソコン)なら、(文章などを)打てる。手書きはほとんどできないそうです。コンピューターで字を書くのは自分にとってはやさしいこととあります。
著者の脳みそは、ロボットのようです。
娘さんから、『ママの声は、ロボットのようだわ……』と言われます。
アラーム付き薬入れ:そういうものがあることを初めて知りました。飲み忘れ防止対策です。
物の置忘れが多い。
『見知らぬ世界への旅立ち』
自分で自分の脳を、『腐れ脳(くされのう)』と呼ぶ。
計算能力がなくなる。銀行口座の管理・運用はできない。
長女のイアンシーに代理人の権限を設定する手続きをした。
手書きで文字や数値を書くことがむずかしくなった。
車の運転席で、どのペダルがなにかわからなくなった。(すぐに思い出すので、しばらく運転をされていました。恐ろしいことです(おそろしいことです))。車のバックがむずかしくなる。
階段ののぼりおりが、気持ちを集中させないとできない。自分の足につまずく。
娘や孫たちと過ごす時間を大切にしたい。いっしょに過ごしたい。
宗教の話が多くなってきました。(わたしは興味がないので流し読みします)
『これからどこへ』
1996年(平成8年)、新聞の記事になる。テレビ番組に出る。アルツハイマー病について説明がなされた。
神さまの話が続きます。
『後記 驚きにみちた神!』
1997年7月から数か月間のことです。(平成9年)
(病状が)よくなっている感じがする。
また、車の運転をしたい。
1998年2月。車の運転をしています。頭がはっきりしているそうです。
イギリスにいる父親が亡くなって、葬儀に出席されているようです。
(このあたり、文章が興奮していて、時系列がよくわかりませんでした。ご自身はわかっているのでしょうが、読み手にはわかりにくい)
『神が担って(になって)くださる!』
だいじょうぶだろうか。思いこみで心をコントロールされているような雰囲気があります。マインドコントロール。この場合、宗教。聖書とか、クリスチャンとかの単語が出てきます。
6年後から8年後には、死ぬだろう。3年後から5年後には、ホームで全介護が必要になるだろう。
『付録』アルツハイマー病とはどのような病か?
著者の言葉です。
脳室が拡大する。脳回(脳のしわの隆起した部分)が縮む(ちぢむ)。脳溝(のうこう。脳のしわのくぼんだ部分)は開く。大脳皮質(脳を覆う(おおう)しわしわの部分)が減少する。大脳皮質ほかに老人斑(ろうじんはん。たんぱく質の沈着(アミロイドという核をもっている))が見られる。
以下、本に書いてあることは、説明がとても細かいので、ここに書くのは疲れるからやめておきます。
アミロイドβ(アミロイドベータ)というたんぱく質(「ごみ」らしい)が、アルツハイマー型認知症の原因になっていて、アミロイドβを退治する薬が、エーザイの『レカネマブ』という薬のことだろうと、自分は理解しています。(株式投資をしていての知識です。自分は、エーザイの株を保有しています)
全人格がゆっくりと崩れていく。知性、想像力、コミュニケーション、感情、判断、動機づけ、行動、自制心に影響が及ぶ。
最終的には、脳が減少して、身体機能が維持できなくなり死に至る。排泄のコントロールができなくなり、言葉を話したり、歩いたり、立ち上がったり、ほほえむことができなくなる。
最後に、動けなくなり、寝たきりになり、意識がなくなり、死を迎える。
『クリスティーンさん訪問の記録 石倉康次 立命館大学産業社会学部教授』
有志5人で、オーストラリア・ブリスベーン郊外にある著者のご自宅を訪問された時の記録です。
著者は、再婚されています。1998年(平成10年)に結婚紹介所で知り合われたそうです。
宗教とか信仰の話があります。
著者の一日の過ごし方について、お話されています。
著者は、作家のような生活を送られています。
『認知症を生きるということ 小澤勲 精神科医 2008年(平成20年)70歳没』
読んでいて自分が思ったことと同じことが書いてあります。『これが認知症を病む人が書いた文章だろうか』、誤診ではなかろうかということです。
でも、脳の画像は異常なのです。MRIの画像では、脳に激しい萎縮があるそうです。
『認知症になってしまえば、本人は何もわからないのだから……』→ということはないそうです。認知症になっても、心の動きはあるのです。
全体を読み終えて思ったことです。
人間は、最後はだれでも死んでしまう。
だから、どう生きて、どう死ぬのか、よく考える。
2024年05月06日
海よ光れ! 3・11被災者を励ました学校新聞
海よ光れ! 3・11被災者を励ました学校新聞 田沢五月・文 国土社
本に、A4ぐらいの大きさの新聞縮小版がはさんであったので、最初に読もうかと思いましたが、内容が、令和5年(2023年)となっていたので、本を読んだあとで新聞を読んだほうがいいと思い、後回しにしました。
まず全体のページを最初から最後までめくってみました。
東日本大震災が素材です。2011年3月11日金曜日午後2時46分発災です。平成23年でした。もうずいぶん前のことになりました。日本ではその後、熊本地震、能登半島地震が起きました。いつになるかわかりませんが、また、どこかで大きな地震は起きると思います。
本の中の場所として、『岩手県山田町』が出てきます。北にある宮古市と南にある釜石市の間に位置しています。
岩手県の県庁所在地である盛岡市の東南、海岸沿いの町で、南には、ニュースでときおり耳にする大槌町(おおつちちょう)があります。
山田町内の鉄道駅として、三陸鉄道リアス線で、久慈(くじ駅。久慈市)から盛(さかり駅。大船渡市)までの路線の途中に、『陸中山田』という駅があります。
東日本大震災が起きて何日かして、山田町から愛知県内に避難してきたという人を見たことがあります。わたしはそれまで、岩手県に山田町があるということすら知りませんでした。そして、ずいぶん遠くから愛知県まで避難して来られたものだと驚きました。
そのとき気づいたのですが、避難者のご家族というのは、ずっと同じところにいるわけではなくて、どこにいても一時的な滞在地で、短期間でよそへ移動されていきます。安住の地を見つけるのには時間がかかります。
この本の趣旨はなんだろう。『海よ光れ!』というのは、どういう意味なのだろう。今はわかりません。
学校新聞の話らしい。
この本のつくりは、相手にインタビューをして、聞き取ったことを文章にしてあるようです。
(わたしは、本を読みながら本の感想をつぎ足して文章を仕上げていく人です)
(1回目の本読み。最初のページから最後のページまでゆっくりめくってみる)
山田町:漁業の町。山田湾がある。カキやホタテの養殖をしている。
大沢地区という集落の話をするらしい。
被災後の白黒写真があります。凄惨です。(せいさん:むごたらしいようす。目をそむけたい)。家が津波で海水に水没しています。
文章にリズム感があります。音楽のようです。
明治29年6月15日(1896年)に地震があった。大津波が起きた。(この年の8月27日には、岩手県花巻市で、童話作家の宮沢賢治が誕生しています。37歳没。この本を読んでいた時に、邦画『銀河鉄道の父』を動画配信サービスで観ました)
自分の記憶では、明治27年が、日清戦争です。1894年でした。10年後の明治37年が、日露戦争でした。1904年でした。東北で大きな地震があったのは、1896年です。『1896年明治三陸津波』というそうです。ということは、2011年から数えて、また115年ぐらいたったら大津波が起きるほどの地震が発生すると考えてしまいます。
本の内容は、学校という狭い世界、狭い箱の中の空間の話です。
自然災害は戦争ではありません。人為的なことではないので、防ぎようがありません。地震や津波の発生を人間は止められません。
写真には、『がんばろう』の文字が並びます。だけど、『がんばろう』だけでは、息が詰まるということもあります。『リラックス』も必要です。
被災者のつらさは、被災した人間にしか出来事を実感できないということはあります。これからどうしようという絶望感があるとお察しします。
テレビや新聞でニュースを聞いた人は、たいていは、募金をしたり、現地の特産物を買ったりすることぐらいしか応援できません。
こどもは、いつまでもこどもでいるわけではありません。
文字を読むことはたいへんなことです。
新聞をすみからすみまで読む人は少ない。
新聞は、書いた人、作った人がいちばん内容を理解しているということはあります。
新聞をつくるという行為で、沈んでいた気持ちが救われるということはあると思います。
功績がある内容でも、仕事でやったからということはあります。
生活していくためにはお金が必要です。お金を手に入れるために仕事をすることが基本です。
社会生活は複雑ですからいろいろあります。
(2回目の本読み)
『はじめに』があって、小さな項目が1から13まであって、『おわりに』があって、『出版記念「海よ光れ」号外』があって、『あとがき』があります。本に別紙で付いている号外と本の150ページにある号外は同じものでした。
山田湾をはさんでいるのが、『重茂半島(おもえはんとう)』と『船越半島(ふなこしはんとう)』です。
力強い雰囲気で書かれた文章が続きます。
山田湾には、『大島』と『小島』があって、江戸時代には、大島にオランダ船が立ち寄ったそうです。
以前読んだ本に、ペリーが来航したとき、江戸幕府は、そのときはじめて外国から開国を迫られたわけではなくて、何年も前から、複数の国に開国を迫られて断っていたと書いてありました。外国はまずは、日本と貿易をしてお金を稼ぎたかった。
山田町の夏のイベント:魚賀波間神社(ながはまじんじゃ)のお祭り。おみこしがある。踊りとして、『神楽(かぐら)』、『虎舞(とらまい)。「大沢虎舞」と書いてあります。地元に保存会があって、小学校の運動会で披露しているそうです』、『獅子踊り(ししおどり)』がある。(東北らしいと思いました。以前読んだ本に、小学生の舞(まい)のことが書いてありました。『ふたりのえびす 高森美由紀 フレーベル館』 そちらは、舞台は青森県八戸あたり(はちのへあたり)、小学校5年1組の(郷土芸能であるらしき)地元の歌舞伎みたいなお祭り演技に小学生が挑戦します。えびす舞(まい):縁起がよくなりますように。豊作でありますように。無事祈願でしょう)
2011年3月11日東日本大震災が発災して、大津波が押し寄せた。山田町立大沢小学校に、おおぜいの人たちが避難した。
1 全校表現劇『海よ光れ』(悠太くん(5年生。福士悠太さん))
ここで、タイトルの“海よ光れ”が、劇であることがわかりました。
でも、書いてあるのは、東日本大震災が起きる一年前の時点です。どうしてだろう。
1年生から6年生まで全員で、『海よ光れ』という劇を演じるそうです。毎年その劇を上演するそうです。昭和63年(1988年)に脚本ができたそうです。大沢小学校に勤務していた箱石敏巳先生と、地元の劇団きたかぜ代表の藤原博行さんでつくったそうです。
祖父が孫に大沢地区に関する昔話をするストーリーだそうです。捕鯨の話、イカ漁の話、そして、明治と昭和に津波があった話だそうです。(明治はわかりましたが、昭和にもあったのか)
自然災害の発生に関する伝承があります。気をつけろ。また津波が来るぞです。
小学生たちが組み合って、津波の波を体で表現するそうです。潮のうねりがあるのでしょう。
(津波から子孫が身を守ることを示唆するための演劇なのだろうか。しさ:暗に教える。暗示する)
昭和の津波
昭和8年3月3日(1933年)昭和三陸地震津波。岩手県内の死者1408人(知りませんでした)
昭和35年5月24日(1960年)チリ地震の影響による津波。岩手県内の死者55人。(なんとなく、昔聞いたことがあります)
明治の津波
明治29年6月15日(1896年)明治三陸地震津波。岩手県内の死者18158人。うち、山田町で亡くなった人の数は、2984人だそうです。
劇は日本の宗教っぽい。
明神様(みょうじんさま。威厳と徳のある神)
登場する人の数が増えてきたので整理が必要です。
演劇の劇中の人物(役柄)として:よっぱらいの辰治郎じいさん(たつじろうじいさん)、校長先生、船頭)
福士悠太:大沢小学校5年生。お父さんは消防署員。大学と高校に進学する姉がいる。
古久保優希菜:5年生。背が高い。バスケットボールがじょうず。海の子児童会執行部員。なお、悠太も同じく海の子児童会執行部員をしている。4年生の時に内陸部の小学校から転校してきた。ミニバスケットボールのスポーツ少年団に入った。
中村奈緒:6年生。児童会長。村人役を演じた。学校新聞『海よ光れ』の編集長をしている。
箱石佑太(はこいし・ゆうた):6年生。老人役を演じた。ミニバスケットボールのスポーツ少年団員。
武藤愛(ぶとう・あい):6年生。ナレーターをつとめた。
大川海渡(おおかわ・かいと):6年生。ふたごの兄。大沢スポーツ少年団員。悠太も同じく大沢スポーツ少年団員である。ケガをして松葉杖をついている。
大川海成(おおかわ・かいせい):6年生。ふたごの弟。大沢スポーツ少年団員。鼻たれ坊主のこども役だった。
佐藤はるみ先生:新聞製作の担当。
この演劇は、東日本大震災の一年前に演じられています。
翌年、津波に被災したということは、そこに住んでいた人たちがどこかへ避難したということです。避難したということは、そこにあったコミュニティ(地域社会の集まり。集落)が消えたということです。読んでいて気になりました。本のページをずーっとめくっていきました。
143ページに、『大沢小学校は本年度で閉校になるため、これが最後の「海よ光れ」になります』と書いてありました。せつないものがあります。2019年(令和元年)秋のことでした。演劇での津波のシーンは、心が傷つく人がいるからやらないそうです。震災の翌年からずーっと、津波のシーンはやらなかったそうです。最後の演劇でもやりませんでした。
2 もう一つの「海よ光れ」(悠太くん)
小学校の学校新聞があります。全校表現劇(演劇)と同じ名称が付いています。
『海よ光れ』です。岩手県で新聞コンクールがあるようで、毎年いい成績をあげているそうです。
2010年3月には、全国大会で、『内閣総理大臣賞』を受賞しているそうです。たいしたものです。東日本大震災の前年です。
新聞の第73号:文化祭での学習発表会に合わせた特別号。2011年のことです。地震はまだ起きていません。担当は、佐藤はるみ先生でした。当時小学生のこどもさんがいたそうです。ベテラン教師です。
フライ旗(ふらいき):大漁旗(たいりょうばた)
できあがった学校新聞を、劇が始まる前に、水産会社の人、植木屋の人に渡します。いろいろお世話になっているそうです。
全校新聞である、『海よ光れ』以外に、一年生から、個人新聞をつくっているそうです。大沢小学校は、新聞づくりに熱心です。
29ページの新聞4枚は、文字が小さいので、老眼のわたしには読めません。
レタリング:手書きの文字。
なんというか、おとなの世界だと、仕事は、利潤の追求が目的です。(お金もうけ)
学校新聞づくりは、利潤の追求ではありません。
お金のことを考えなくてすむということは、自由な発想でつくれるということです。
3 楽しかった東京(優樹菜さん)
震災直前のことです。2011年3月5日、5年生の古久保優樹菜さんが東京へ行きました。
大久保裕明校長と佐藤はるみ先生と東北新幹線に乗りました。学校新聞の表彰式に参加するためでした。
これからは、卒業する6年生のあとを継いで、今の5年生のメンバーが中心になって、学校新聞『海よ光れ』の第78号をつくります。
大津波の発生の日が近づいています。
4 大津波(奈緒さん(児童会長6年生中村奈緒さん))
東京から岩手県山田町に帰ってきた6日後に被災されたそうです。
マグニチュード9.0(とても大きい)。巨大地震の発生です。
2011年(平成23年)3月11日午後2時46分のことでした。
しばらくして、大津波警報が発令されました。
大沢小学校は、標高が高い位置に建っていたので津波はそこまで届かない位置だったそうです。土地の人たちの避難所になったそうです。
逆に海に近いところに住んでいたこどもたちは家に帰れなくなりました。親にも会えないこどももいたそうです。
高橋信之副校長が安全を呼びかけて保護者をコントロールします。その後、大久保校長も小学校に駆けつけます。
まるで、災害パニック映画のような光景が、目の前で現実に繰り広げられます。大きな津波が、海に設置されている防潮堤を超えて、人間が住む住宅地へなだれこんできます。津波火災も発生します。乗用車もトラックも津波に流されています。救急車は呼べません。携帯電話もつながりません。
足りないものとして、薬、タオル、石油ストーブ、灯油、米、食料、ラジオ、トイレットペーパーなど。
生徒は全員が無事だったそうです。
小学校への避難者は、500人ぐらい。
東北の三月ですから屋外はまだ寒い。
『自助(じじょ。ほかに共助(近隣住民)と公助(役所の援助)があります)』が始まります。
とりあえず、自分や自分たちのことは、自分や自分たちでやるのです。
沖だし:中村奈緒さんのお父さんは漁師だったので、船を守るために船を沖に出しに行ったそうです。(なんだか、津波が来る中、津波に向かっていくわけで、恐そうです(こわそうです)。実際波に飲み込まれた人もいたようです)。お父さんは無事でした。
5 目を覚ませ、大沢の子(はるみ先生(佐藤はるみ先生))
避難所になった小学校には先生たちがいました。先生たちはこどもたちのめんどうをみます。
被災の翌朝(3月12日)、朝6時半に起きて、コイの池に流れ込んでいる沢水(湧き水)で顔を洗います。顔を洗ったらランニングです。ゆっくりランニングをしながら先生はこどもたちのつらい気持ちを聞きます。
6 ぼくらにできること(海渡くん(かいとくん。6年生大川海渡さん。ふた子の兄。将来は漁師になりたい)
近所のおばさんたちがつくってくれたおにぎりとおみそ汁を飲む。
避難所は孤立状態にあったので、助けがくるのを待ちます。
女の子たちは、トイレ掃除を始めました。災害で困るのは、トイレです。水がありません。男子は、コイの池から水を運びます。
おばさんたちは、ご飯をつくります。みんなで協力します。
大川ヒメ子さんは、こどもたちがつくった『がんばろう』のポスターに心が励まされました。
大川海渡さんのお母さんのお父さんは亡くなり、お母さんのおばあさんとおじさんは行方不明だそうです。
7 肩もみ隊出動!(雅みやびさん(6年生女子 福士雅さん)
お年寄りの肩を一年生から四年生のこどもたちでもんであげます。
お年寄りから昔ばなしを聞きます。
昭和8年(1933年)に三陸津波を体験されたそうです。
福士雅さんのご自宅は浸水で住めなくなったそうです。
役場職員さん道又城さん(みちまたじょうさん)は、役場は浸水した。周囲は火の海になった。津波の翌日に大沢地区を訪れた。こどもたちがしっかり動いていたそうです。
8 支援の手(悠太くん(福士悠太さん))
震災・大津波から三日後、航空自衛隊山田分屯基地(ぶんとんきち)の自衛隊員の人たちが救助・救援に来てくれました。孤立状態の解除です。
食料不足、着替えなし、お風呂なしでした。
校長の提案で、避難所で、『朝のあいさつ』の時間が始まる。
災害で亡くなった方に黙とうをささげて、困難を乗り越えていきましょうと声をだす。
お祭りのときにこどもたちが舞うのが、『差餌鳥舞(さしとりまい)』だそうです。また、お祭りで神楽(かぐら)の踊り手を見たい。平和な日が恋しい。
全国から支援の手が届き始めます。自衛隊員、医療チーム、警察官も全国から駆けつけます。
3月17日が、小学校の登校日だった。ひさしぶりに顔をみるこどももいた。
福士悠太さんは、『ありがとう』の感謝を伝えるために、学校新聞をつくりたいと思った。
85ページまで読んできて、親世代とこども世代の意識の違いについて考えました。
親世代がこどもだったころ、水道はなかったような気がします。
なにもかもが生まれたときからそろっている現代のこどもさんにはわからない世界です。不便な生活を体験したことがある親や祖父母の世代は、物がなかった時代に生きたことがあるので、いざ災害時には力を発揮するということはあります。
昔、水道がなかったことを熊太郎が文章にしたことがあります。データを探したら出てきたので、ここに落としてみます。
『水道がない』
(1967年)昭和四十二年までのわたしの体験で、水道が自宅になかったのは、茨城県、福岡県、熊本県に住んだときでした。(父親に放浪癖があって、短気だったこともあり、仕事場で上司や同僚とケンカして仕事を辞めてばかりいたので転校を何回も体験しました。景気のいい時代だったので、どこに行っても仕事が見つかりました)
1 茨城県
小学校には水道がありました。
冬が近づいてくると先生から水道の水は少しの量を出しっぱなしにしておくようにと教えられました。
そうしないと、水道がこおってしまうということでした。
自宅がある集落には、手押し式のポンプの井戸がたくさんありました。
奥さんたちの井戸端会議という言葉はここからきたのですね。
井戸端会議という言葉も今では死語(しご)になってしまいました。
おふろは銭湯(せんとう)のような大きな共同風呂がありましたが、無料でした。
茨城県と福島県の県境に近い太平洋側のところで炭鉱でした。
炭鉱労働者用の風呂で、家族は無料でした。
2 福岡県
ここには井戸はありませんでした。
自宅の台所に水をためるコンクリート製のかめがありました。
水はどうするかというと、バケツを持って近くの山道を少し登り、湧き水が流れているので、それをくんできて、かめに貯めて使っていました。
集落の中に、小さな共同風呂がありました。
風呂当番というのがあって、毎日各世帯もちまわりで、風呂をわかす仕事を奥さんたちがしていました。
夕方4時ころから夜中まで、奥さんたちは自宅とお風呂との間を行ったり来たりしていました。
トイレは、屋外にあって共同でした。
小学校に水洗トイレができたとき、朝礼で先生からその使い方を習いました。
わたしは、学校からの帰り道にのどがかわくと、田んぼのあぜ道の横を流れている用水路の水を飲んでいました。
そんなわけで、わたしと弟は、学校のギョウチュウ検査などで、時々ひっかかりました。
3 熊本県
熊本県内で何回か引っ越しをしたので、順番に書くと、最初の場所では、集落に水道が1本だけあったことを覚えています。
集落に住んでいる人たちみんなで、その1本の水道を使用していたのではないかと思います。
その地区では、わたしは自分が毎日入浴をしていたという記憶がありません。
父親の会社の社員用の風呂に入ったという記憶が1回だけあります。
毎月、父の給料が支給されると、家族4人そろって路線バスに乗って、近くの温泉に入りにいっていたことはよく覚えています。
次に住んだところでは、山からわき出る清水(しみず)を樋(とい)を使って、台所に引き込んで使用していました。
そこは農村で、おおかたの家には、つるべ式の井戸がありましたが、わたしの家の井戸は、自宅から山道を1分ぐらい歩いたところにありました。
井戸の底には、魚が何匹かいて、その魚が死んで浮かんできたら、その水は汚染(おせん)されているからのんじゃいけないということなのかなと今は考えます。
その家にお風呂(ふろ)があったのかどうか記憶がありません。
近所の家に、何回か風呂に入りに行ったことがあります。
それらはみな五右衛門風呂(ごえもんぶろ)と呼ばれるもので、火傷(やけど)しないように、足の裏で板を踏みながら入るもので、こわかったことをおぼえています。
洗濯は、川でしていました。
近所の奥さんたちが、せんたく物とせんたく板をもって集まって、川まで行ってせんたくをしていました。
せんたくが終わるまでの間、わたしは、竹がいっぱい生えていたので、笹舟(ささぶね)をたくさんつくって川に流して遊んでいました。わたしが、小学校1年生ぐらいのときのお話です。
わたしは、小学校で習った一寸法師(いっすんぼうし)とか、桃太郎とかの話は、本当のことだろうと、その当時は思っていました。
本にはさんである学校新聞の縮小版を読んでみます。
『海よ光れ』号外となっています。発行の日付は、令和5年(2023年)です。大沢小学校は、1876年開校(昭和51年)、2020年閉校(令和2年)となっています。寄稿者は、この本にでてくる当時小学5年生、6年生だったメンバーです。みなさんおとなになっています。23歳とか24歳です。
しっかりした手書きの文章です。みなさん、がんばられました。
福士悠太さん(役場職員)、福士雅さん(ふくし・みやびさん 看護師)、古久保優樹菜さん(大学生でバスケットボールをしている)、大川海渡さん(漁師)、中村奈緒さん(航空自衛官)、武藤愛さん(実家の食料品店経営)、箱石佑太さん(職業は書いてありませんが、被災時の思い出話が書いてあります)、大川海成さん(警察官)
当時の思い出とか、コロナ禍のこと、未来は何が起きるかわからないこと、震災・津波から10年少し経って思うことなどが書いてあります。月日がたつのは早いものですが、それぞれご苦労があったとお察しします。
9 卒業式(海成くん。大川海成くん6年生)
項目はまだ9ですが、全ページを読み終えました。(読みながら感想をつぎ足しています)
最後の先生の手記を読んで、この本のつくりを観察して、本の内容は、意図的につくってある美談ではないという仕切りに好感をもちました。
生身の人間、東北弁をお互いにしゃべりながらの気持ちの交流があります。書籍化するにあたっての葛藤(かっとう。本当の本にしていいのか。書かれているおとなになっているこどもたちにマイナスの影響があるのではないか)がありました。関係者のみなさんの了解を得てできあがっている本です。
さて、項目9からの感想メモです。
各個人の話になります。
大川海成くん、6年生、ふたごの弟さんのほうです。全校表現劇、『海よ光れ!』では、鼻たれ坊主のこぞうを演じました。津波のあとは、小学校に泊まって、その後は、親戚の家でお世話になっているそうです。
6年生の卒業式は、津波の影響で、3月25日に延期になったそうです。
卒業式に出席した6年生は29人です。29人が6年生全員だそうです。少ない数ですね。
親にとってみれば、こどもというものは、生きていてくれればそれでいいのです。勉強ができなくてもいいし、運動ができなくてもいいのです。親が、小学校の先生に一番望むことは、生きて卒業させてくださいということなのです。
10 2101通の手紙(愛さん。武藤愛さん6年生)
学校新聞、『海よ光れ!』の第78号をつくる。つくるメンバーは、6年生の武藤愛さん、大川海渡くん、大川海成くん、5年生の福士悠太くんの4人です。
学校新聞が全国大会で表彰されたことがきっかけになって、全国から被災地の大川小学校のメンバーを励ます手紙が新聞社を仲介にして届きます。津波災害が発生した当初、大川小学校の児童の安否がわからなかったそうです。
2101通ものたくさんの応援手紙が届きました。
11 学校新聞 第78号 『大沢の海よ光れ!』(悠太くん。福士悠太くん。進級して6年生)
第78号の学校新聞、『海よ光れ!』が発行されました。つくっている最中の4月7日にも大きな地震があったそうです。たいへんです。
まだ、150人の人たちが小学校で避難所生活を送っているそうです。
12 新聞にこめる思い(優樹菜さん。進級して6年生。古久保優樹菜さん)
4月20日が大沢小学校の入学式です。震災後、入学式が遅れていました。新一年生は11人です。全校生徒の数は91人です。少ないです。
5月11日:学校新聞、『海よ光れ』第79号が完成しました。
お弁当給食だったのが、給食が実施されたそうです。避難所で避難している人たちがつくってくれたそうです。
こどもたちを午前中で下校させても、家でお昼の準備をできる家庭が少なかったそうです。
こどもたちはずっと、トイレ掃除とお年寄りの肩もみを続けています。
5月31日:学校新聞、『海よ光れ』第80号が発行されました。
避難所のお年寄りへの感謝があります。こどもたちのために、ぞうきんを縫ったり、畑を耕したり草取りをしてくれたりしたそうです。
13 思いがけないこと(悠太くん。福士悠太くん。6年生)
学校新聞は、第81号、第82号と発行を重ねていきました。
三陸鉄道の、『陸中山田駅』のことが書いてあります。
先日、NHK土曜夜の番組、『プロジェクトX(エックス)』で、被災当時のことが放送されていました。三陸鉄道の沿線では津波で線路や駅や橋脚が流されて、一時は廃線しかないという状況もあったそうですが、みなさん努力されて、三陸鉄道を奇跡が起こるように復活させておられます。人間の力って、すごいなあと思いました。
全校表現劇、『海よ光れ』は、23年間続いてきた大沢小学校の伝統行事でしたが、震災の年の上演はありませんでした。中止です。運動会もなし。大沢虎舞(おおさわとらまい)もありませんでした。
学校新聞、『海よ光れ』第85号が発行されました。
大沢の町が少しずつ復興に向かっていることがわかります。
町の復興ベスト5です。
1位 店が再開した。(お買い物ができます) 2位 ガレキが片付けられた。(町がきれいになりました) 3位 漁船が増えた。(大沢は、漁業の町なのでしょう) 4位 仮設や建物が建ってきた。(新たな市街地の形成です) 5位 道路が直った。(道路は、人間の血管のようなものです。物流が回復します)
小学校の復興ベスト5です。
1位 校庭が使えるようになった。(校庭が使えない小学校はつらい。遊び場がありません) 2位 学校が避難所ではなくなった。(避難者がちゃんと住むところができたということです) 3位 図書館が利用できるようになった。(本読みは、心の支えのために大切です) 4位 (支援)物資がなくなった。(支援の手が少なくなったということはいいことなのです。自活できるようになった) 5位 転校してきた子どもたちが戻ってきた。(同じ土地で育った仲間です)
2012年(平成24年)1月31日発行の、『海よ光れ』第88号
来年度児童会執行部選挙特集だった。
福士悠太くんたち6年生は、3月で小学校を卒業します。
時間の流れは早いものです。
佐藤はるみ先生が、学校新聞、『海よ光れ』が、全国新聞コンクールで、内閣総理大臣賞を受賞したことを教えてくれます。
2月21日、6年生だけで、『海よ光れ』の劇を披露しました。
あきらめていた修学旅行にも行けました。
盛岡市での福祉大会で、『大沢虎舞』を披露できました。
『終わりに』
2019年秋(令和元年)に筆者の田沢五月さんが、多田敢校長(ただ・つよしこうちょう)に話をして、全校表現劇、『海よ光れ』を観劇されたそうです。
大沢小学校は、その年の年度で閉校になったそうです。大沢小学校の143年の歴史が閉じました。
学校新聞、『海よ光れ』は、新聞委員会でつくっているそうです。委員会の6年生のメンバーが、三上乃愛(みかみ・のあ)さん始め5人だったそうです。震災のときは、3歳だったそうです。
最後の新聞:『海よ光れ』第175号です。コロナ禍が始まる頃でもありました。
2023年(令和5年):出版記念号外、『海よ光れ』発行。23歳、24歳になった昔のメンバーが、号外を発行しました。みなさん故郷や社会に貢献されています。町役場職員、警察官、看護師、漁師、町の商店経営、航空自衛官、みなさん、しっかり地に足を付けて生活されています。学校新聞、『海よ光れ』をつくった体験が、その後の人生に生かされていると、本を読み終えて考えました。
とかく、いい話として本をつくりがちですが、現実の現場では、ドラマや映画、テレビの放送のように事実や映像を加工することはできないし、加工する必要もありません。
災害を利用して利潤の追求をする悪意の人や組織もいます。
本の内容は、現実的な内容で、飾らない出来事の記述が良かったと思います。また、筆者自身も故郷が山田町のお隣だそうで、実感のこもったレポートでした。取材を申し込んでも、まだ津波の話はしたくないという人の存在もリアルでした。身内や親族を失うような、よほど悲しい思いを体験されたのでしょう。
本に、A4ぐらいの大きさの新聞縮小版がはさんであったので、最初に読もうかと思いましたが、内容が、令和5年(2023年)となっていたので、本を読んだあとで新聞を読んだほうがいいと思い、後回しにしました。
まず全体のページを最初から最後までめくってみました。
東日本大震災が素材です。2011年3月11日金曜日午後2時46分発災です。平成23年でした。もうずいぶん前のことになりました。日本ではその後、熊本地震、能登半島地震が起きました。いつになるかわかりませんが、また、どこかで大きな地震は起きると思います。
本の中の場所として、『岩手県山田町』が出てきます。北にある宮古市と南にある釜石市の間に位置しています。
岩手県の県庁所在地である盛岡市の東南、海岸沿いの町で、南には、ニュースでときおり耳にする大槌町(おおつちちょう)があります。
山田町内の鉄道駅として、三陸鉄道リアス線で、久慈(くじ駅。久慈市)から盛(さかり駅。大船渡市)までの路線の途中に、『陸中山田』という駅があります。
東日本大震災が起きて何日かして、山田町から愛知県内に避難してきたという人を見たことがあります。わたしはそれまで、岩手県に山田町があるということすら知りませんでした。そして、ずいぶん遠くから愛知県まで避難して来られたものだと驚きました。
そのとき気づいたのですが、避難者のご家族というのは、ずっと同じところにいるわけではなくて、どこにいても一時的な滞在地で、短期間でよそへ移動されていきます。安住の地を見つけるのには時間がかかります。
この本の趣旨はなんだろう。『海よ光れ!』というのは、どういう意味なのだろう。今はわかりません。
学校新聞の話らしい。
この本のつくりは、相手にインタビューをして、聞き取ったことを文章にしてあるようです。
(わたしは、本を読みながら本の感想をつぎ足して文章を仕上げていく人です)
(1回目の本読み。最初のページから最後のページまでゆっくりめくってみる)
山田町:漁業の町。山田湾がある。カキやホタテの養殖をしている。
大沢地区という集落の話をするらしい。
被災後の白黒写真があります。凄惨です。(せいさん:むごたらしいようす。目をそむけたい)。家が津波で海水に水没しています。
文章にリズム感があります。音楽のようです。
明治29年6月15日(1896年)に地震があった。大津波が起きた。(この年の8月27日には、岩手県花巻市で、童話作家の宮沢賢治が誕生しています。37歳没。この本を読んでいた時に、邦画『銀河鉄道の父』を動画配信サービスで観ました)
自分の記憶では、明治27年が、日清戦争です。1894年でした。10年後の明治37年が、日露戦争でした。1904年でした。東北で大きな地震があったのは、1896年です。『1896年明治三陸津波』というそうです。ということは、2011年から数えて、また115年ぐらいたったら大津波が起きるほどの地震が発生すると考えてしまいます。
本の内容は、学校という狭い世界、狭い箱の中の空間の話です。
自然災害は戦争ではありません。人為的なことではないので、防ぎようがありません。地震や津波の発生を人間は止められません。
写真には、『がんばろう』の文字が並びます。だけど、『がんばろう』だけでは、息が詰まるということもあります。『リラックス』も必要です。
被災者のつらさは、被災した人間にしか出来事を実感できないということはあります。これからどうしようという絶望感があるとお察しします。
テレビや新聞でニュースを聞いた人は、たいていは、募金をしたり、現地の特産物を買ったりすることぐらいしか応援できません。
こどもは、いつまでもこどもでいるわけではありません。
文字を読むことはたいへんなことです。
新聞をすみからすみまで読む人は少ない。
新聞は、書いた人、作った人がいちばん内容を理解しているということはあります。
新聞をつくるという行為で、沈んでいた気持ちが救われるということはあると思います。
功績がある内容でも、仕事でやったからということはあります。
生活していくためにはお金が必要です。お金を手に入れるために仕事をすることが基本です。
社会生活は複雑ですからいろいろあります。
(2回目の本読み)
『はじめに』があって、小さな項目が1から13まであって、『おわりに』があって、『出版記念「海よ光れ」号外』があって、『あとがき』があります。本に別紙で付いている号外と本の150ページにある号外は同じものでした。
山田湾をはさんでいるのが、『重茂半島(おもえはんとう)』と『船越半島(ふなこしはんとう)』です。
力強い雰囲気で書かれた文章が続きます。
山田湾には、『大島』と『小島』があって、江戸時代には、大島にオランダ船が立ち寄ったそうです。
以前読んだ本に、ペリーが来航したとき、江戸幕府は、そのときはじめて外国から開国を迫られたわけではなくて、何年も前から、複数の国に開国を迫られて断っていたと書いてありました。外国はまずは、日本と貿易をしてお金を稼ぎたかった。
山田町の夏のイベント:魚賀波間神社(ながはまじんじゃ)のお祭り。おみこしがある。踊りとして、『神楽(かぐら)』、『虎舞(とらまい)。「大沢虎舞」と書いてあります。地元に保存会があって、小学校の運動会で披露しているそうです』、『獅子踊り(ししおどり)』がある。(東北らしいと思いました。以前読んだ本に、小学生の舞(まい)のことが書いてありました。『ふたりのえびす 高森美由紀 フレーベル館』 そちらは、舞台は青森県八戸あたり(はちのへあたり)、小学校5年1組の(郷土芸能であるらしき)地元の歌舞伎みたいなお祭り演技に小学生が挑戦します。えびす舞(まい):縁起がよくなりますように。豊作でありますように。無事祈願でしょう)
2011年3月11日東日本大震災が発災して、大津波が押し寄せた。山田町立大沢小学校に、おおぜいの人たちが避難した。
1 全校表現劇『海よ光れ』(悠太くん(5年生。福士悠太さん))
ここで、タイトルの“海よ光れ”が、劇であることがわかりました。
でも、書いてあるのは、東日本大震災が起きる一年前の時点です。どうしてだろう。
1年生から6年生まで全員で、『海よ光れ』という劇を演じるそうです。毎年その劇を上演するそうです。昭和63年(1988年)に脚本ができたそうです。大沢小学校に勤務していた箱石敏巳先生と、地元の劇団きたかぜ代表の藤原博行さんでつくったそうです。
祖父が孫に大沢地区に関する昔話をするストーリーだそうです。捕鯨の話、イカ漁の話、そして、明治と昭和に津波があった話だそうです。(明治はわかりましたが、昭和にもあったのか)
自然災害の発生に関する伝承があります。気をつけろ。また津波が来るぞです。
小学生たちが組み合って、津波の波を体で表現するそうです。潮のうねりがあるのでしょう。
(津波から子孫が身を守ることを示唆するための演劇なのだろうか。しさ:暗に教える。暗示する)
昭和の津波
昭和8年3月3日(1933年)昭和三陸地震津波。岩手県内の死者1408人(知りませんでした)
昭和35年5月24日(1960年)チリ地震の影響による津波。岩手県内の死者55人。(なんとなく、昔聞いたことがあります)
明治の津波
明治29年6月15日(1896年)明治三陸地震津波。岩手県内の死者18158人。うち、山田町で亡くなった人の数は、2984人だそうです。
劇は日本の宗教っぽい。
明神様(みょうじんさま。威厳と徳のある神)
登場する人の数が増えてきたので整理が必要です。
演劇の劇中の人物(役柄)として:よっぱらいの辰治郎じいさん(たつじろうじいさん)、校長先生、船頭)
福士悠太:大沢小学校5年生。お父さんは消防署員。大学と高校に進学する姉がいる。
古久保優希菜:5年生。背が高い。バスケットボールがじょうず。海の子児童会執行部員。なお、悠太も同じく海の子児童会執行部員をしている。4年生の時に内陸部の小学校から転校してきた。ミニバスケットボールのスポーツ少年団に入った。
中村奈緒:6年生。児童会長。村人役を演じた。学校新聞『海よ光れ』の編集長をしている。
箱石佑太(はこいし・ゆうた):6年生。老人役を演じた。ミニバスケットボールのスポーツ少年団員。
武藤愛(ぶとう・あい):6年生。ナレーターをつとめた。
大川海渡(おおかわ・かいと):6年生。ふたごの兄。大沢スポーツ少年団員。悠太も同じく大沢スポーツ少年団員である。ケガをして松葉杖をついている。
大川海成(おおかわ・かいせい):6年生。ふたごの弟。大沢スポーツ少年団員。鼻たれ坊主のこども役だった。
佐藤はるみ先生:新聞製作の担当。
この演劇は、東日本大震災の一年前に演じられています。
翌年、津波に被災したということは、そこに住んでいた人たちがどこかへ避難したということです。避難したということは、そこにあったコミュニティ(地域社会の集まり。集落)が消えたということです。読んでいて気になりました。本のページをずーっとめくっていきました。
143ページに、『大沢小学校は本年度で閉校になるため、これが最後の「海よ光れ」になります』と書いてありました。せつないものがあります。2019年(令和元年)秋のことでした。演劇での津波のシーンは、心が傷つく人がいるからやらないそうです。震災の翌年からずーっと、津波のシーンはやらなかったそうです。最後の演劇でもやりませんでした。
2 もう一つの「海よ光れ」(悠太くん)
小学校の学校新聞があります。全校表現劇(演劇)と同じ名称が付いています。
『海よ光れ』です。岩手県で新聞コンクールがあるようで、毎年いい成績をあげているそうです。
2010年3月には、全国大会で、『内閣総理大臣賞』を受賞しているそうです。たいしたものです。東日本大震災の前年です。
新聞の第73号:文化祭での学習発表会に合わせた特別号。2011年のことです。地震はまだ起きていません。担当は、佐藤はるみ先生でした。当時小学生のこどもさんがいたそうです。ベテラン教師です。
フライ旗(ふらいき):大漁旗(たいりょうばた)
できあがった学校新聞を、劇が始まる前に、水産会社の人、植木屋の人に渡します。いろいろお世話になっているそうです。
全校新聞である、『海よ光れ』以外に、一年生から、個人新聞をつくっているそうです。大沢小学校は、新聞づくりに熱心です。
29ページの新聞4枚は、文字が小さいので、老眼のわたしには読めません。
レタリング:手書きの文字。
なんというか、おとなの世界だと、仕事は、利潤の追求が目的です。(お金もうけ)
学校新聞づくりは、利潤の追求ではありません。
お金のことを考えなくてすむということは、自由な発想でつくれるということです。
3 楽しかった東京(優樹菜さん)
震災直前のことです。2011年3月5日、5年生の古久保優樹菜さんが東京へ行きました。
大久保裕明校長と佐藤はるみ先生と東北新幹線に乗りました。学校新聞の表彰式に参加するためでした。
これからは、卒業する6年生のあとを継いで、今の5年生のメンバーが中心になって、学校新聞『海よ光れ』の第78号をつくります。
大津波の発生の日が近づいています。
4 大津波(奈緒さん(児童会長6年生中村奈緒さん))
東京から岩手県山田町に帰ってきた6日後に被災されたそうです。
マグニチュード9.0(とても大きい)。巨大地震の発生です。
2011年(平成23年)3月11日午後2時46分のことでした。
しばらくして、大津波警報が発令されました。
大沢小学校は、標高が高い位置に建っていたので津波はそこまで届かない位置だったそうです。土地の人たちの避難所になったそうです。
逆に海に近いところに住んでいたこどもたちは家に帰れなくなりました。親にも会えないこどももいたそうです。
高橋信之副校長が安全を呼びかけて保護者をコントロールします。その後、大久保校長も小学校に駆けつけます。
まるで、災害パニック映画のような光景が、目の前で現実に繰り広げられます。大きな津波が、海に設置されている防潮堤を超えて、人間が住む住宅地へなだれこんできます。津波火災も発生します。乗用車もトラックも津波に流されています。救急車は呼べません。携帯電話もつながりません。
足りないものとして、薬、タオル、石油ストーブ、灯油、米、食料、ラジオ、トイレットペーパーなど。
生徒は全員が無事だったそうです。
小学校への避難者は、500人ぐらい。
東北の三月ですから屋外はまだ寒い。
『自助(じじょ。ほかに共助(近隣住民)と公助(役所の援助)があります)』が始まります。
とりあえず、自分や自分たちのことは、自分や自分たちでやるのです。
沖だし:中村奈緒さんのお父さんは漁師だったので、船を守るために船を沖に出しに行ったそうです。(なんだか、津波が来る中、津波に向かっていくわけで、恐そうです(こわそうです)。実際波に飲み込まれた人もいたようです)。お父さんは無事でした。
5 目を覚ませ、大沢の子(はるみ先生(佐藤はるみ先生))
避難所になった小学校には先生たちがいました。先生たちはこどもたちのめんどうをみます。
被災の翌朝(3月12日)、朝6時半に起きて、コイの池に流れ込んでいる沢水(湧き水)で顔を洗います。顔を洗ったらランニングです。ゆっくりランニングをしながら先生はこどもたちのつらい気持ちを聞きます。
6 ぼくらにできること(海渡くん(かいとくん。6年生大川海渡さん。ふた子の兄。将来は漁師になりたい)
近所のおばさんたちがつくってくれたおにぎりとおみそ汁を飲む。
避難所は孤立状態にあったので、助けがくるのを待ちます。
女の子たちは、トイレ掃除を始めました。災害で困るのは、トイレです。水がありません。男子は、コイの池から水を運びます。
おばさんたちは、ご飯をつくります。みんなで協力します。
大川ヒメ子さんは、こどもたちがつくった『がんばろう』のポスターに心が励まされました。
大川海渡さんのお母さんのお父さんは亡くなり、お母さんのおばあさんとおじさんは行方不明だそうです。
7 肩もみ隊出動!(雅みやびさん(6年生女子 福士雅さん)
お年寄りの肩を一年生から四年生のこどもたちでもんであげます。
お年寄りから昔ばなしを聞きます。
昭和8年(1933年)に三陸津波を体験されたそうです。
福士雅さんのご自宅は浸水で住めなくなったそうです。
役場職員さん道又城さん(みちまたじょうさん)は、役場は浸水した。周囲は火の海になった。津波の翌日に大沢地区を訪れた。こどもたちがしっかり動いていたそうです。
8 支援の手(悠太くん(福士悠太さん))
震災・大津波から三日後、航空自衛隊山田分屯基地(ぶんとんきち)の自衛隊員の人たちが救助・救援に来てくれました。孤立状態の解除です。
食料不足、着替えなし、お風呂なしでした。
校長の提案で、避難所で、『朝のあいさつ』の時間が始まる。
災害で亡くなった方に黙とうをささげて、困難を乗り越えていきましょうと声をだす。
お祭りのときにこどもたちが舞うのが、『差餌鳥舞(さしとりまい)』だそうです。また、お祭りで神楽(かぐら)の踊り手を見たい。平和な日が恋しい。
全国から支援の手が届き始めます。自衛隊員、医療チーム、警察官も全国から駆けつけます。
3月17日が、小学校の登校日だった。ひさしぶりに顔をみるこどももいた。
福士悠太さんは、『ありがとう』の感謝を伝えるために、学校新聞をつくりたいと思った。
85ページまで読んできて、親世代とこども世代の意識の違いについて考えました。
親世代がこどもだったころ、水道はなかったような気がします。
なにもかもが生まれたときからそろっている現代のこどもさんにはわからない世界です。不便な生活を体験したことがある親や祖父母の世代は、物がなかった時代に生きたことがあるので、いざ災害時には力を発揮するということはあります。
昔、水道がなかったことを熊太郎が文章にしたことがあります。データを探したら出てきたので、ここに落としてみます。
『水道がない』
(1967年)昭和四十二年までのわたしの体験で、水道が自宅になかったのは、茨城県、福岡県、熊本県に住んだときでした。(父親に放浪癖があって、短気だったこともあり、仕事場で上司や同僚とケンカして仕事を辞めてばかりいたので転校を何回も体験しました。景気のいい時代だったので、どこに行っても仕事が見つかりました)
1 茨城県
小学校には水道がありました。
冬が近づいてくると先生から水道の水は少しの量を出しっぱなしにしておくようにと教えられました。
そうしないと、水道がこおってしまうということでした。
自宅がある集落には、手押し式のポンプの井戸がたくさんありました。
奥さんたちの井戸端会議という言葉はここからきたのですね。
井戸端会議という言葉も今では死語(しご)になってしまいました。
おふろは銭湯(せんとう)のような大きな共同風呂がありましたが、無料でした。
茨城県と福島県の県境に近い太平洋側のところで炭鉱でした。
炭鉱労働者用の風呂で、家族は無料でした。
2 福岡県
ここには井戸はありませんでした。
自宅の台所に水をためるコンクリート製のかめがありました。
水はどうするかというと、バケツを持って近くの山道を少し登り、湧き水が流れているので、それをくんできて、かめに貯めて使っていました。
集落の中に、小さな共同風呂がありました。
風呂当番というのがあって、毎日各世帯もちまわりで、風呂をわかす仕事を奥さんたちがしていました。
夕方4時ころから夜中まで、奥さんたちは自宅とお風呂との間を行ったり来たりしていました。
トイレは、屋外にあって共同でした。
小学校に水洗トイレができたとき、朝礼で先生からその使い方を習いました。
わたしは、学校からの帰り道にのどがかわくと、田んぼのあぜ道の横を流れている用水路の水を飲んでいました。
そんなわけで、わたしと弟は、学校のギョウチュウ検査などで、時々ひっかかりました。
3 熊本県
熊本県内で何回か引っ越しをしたので、順番に書くと、最初の場所では、集落に水道が1本だけあったことを覚えています。
集落に住んでいる人たちみんなで、その1本の水道を使用していたのではないかと思います。
その地区では、わたしは自分が毎日入浴をしていたという記憶がありません。
父親の会社の社員用の風呂に入ったという記憶が1回だけあります。
毎月、父の給料が支給されると、家族4人そろって路線バスに乗って、近くの温泉に入りにいっていたことはよく覚えています。
次に住んだところでは、山からわき出る清水(しみず)を樋(とい)を使って、台所に引き込んで使用していました。
そこは農村で、おおかたの家には、つるべ式の井戸がありましたが、わたしの家の井戸は、自宅から山道を1分ぐらい歩いたところにありました。
井戸の底には、魚が何匹かいて、その魚が死んで浮かんできたら、その水は汚染(おせん)されているからのんじゃいけないということなのかなと今は考えます。
その家にお風呂(ふろ)があったのかどうか記憶がありません。
近所の家に、何回か風呂に入りに行ったことがあります。
それらはみな五右衛門風呂(ごえもんぶろ)と呼ばれるもので、火傷(やけど)しないように、足の裏で板を踏みながら入るもので、こわかったことをおぼえています。
洗濯は、川でしていました。
近所の奥さんたちが、せんたく物とせんたく板をもって集まって、川まで行ってせんたくをしていました。
せんたくが終わるまでの間、わたしは、竹がいっぱい生えていたので、笹舟(ささぶね)をたくさんつくって川に流して遊んでいました。わたしが、小学校1年生ぐらいのときのお話です。
わたしは、小学校で習った一寸法師(いっすんぼうし)とか、桃太郎とかの話は、本当のことだろうと、その当時は思っていました。
本にはさんである学校新聞の縮小版を読んでみます。
『海よ光れ』号外となっています。発行の日付は、令和5年(2023年)です。大沢小学校は、1876年開校(昭和51年)、2020年閉校(令和2年)となっています。寄稿者は、この本にでてくる当時小学5年生、6年生だったメンバーです。みなさんおとなになっています。23歳とか24歳です。
しっかりした手書きの文章です。みなさん、がんばられました。
福士悠太さん(役場職員)、福士雅さん(ふくし・みやびさん 看護師)、古久保優樹菜さん(大学生でバスケットボールをしている)、大川海渡さん(漁師)、中村奈緒さん(航空自衛官)、武藤愛さん(実家の食料品店経営)、箱石佑太さん(職業は書いてありませんが、被災時の思い出話が書いてあります)、大川海成さん(警察官)
当時の思い出とか、コロナ禍のこと、未来は何が起きるかわからないこと、震災・津波から10年少し経って思うことなどが書いてあります。月日がたつのは早いものですが、それぞれご苦労があったとお察しします。
9 卒業式(海成くん。大川海成くん6年生)
項目はまだ9ですが、全ページを読み終えました。(読みながら感想をつぎ足しています)
最後の先生の手記を読んで、この本のつくりを観察して、本の内容は、意図的につくってある美談ではないという仕切りに好感をもちました。
生身の人間、東北弁をお互いにしゃべりながらの気持ちの交流があります。書籍化するにあたっての葛藤(かっとう。本当の本にしていいのか。書かれているおとなになっているこどもたちにマイナスの影響があるのではないか)がありました。関係者のみなさんの了解を得てできあがっている本です。
さて、項目9からの感想メモです。
各個人の話になります。
大川海成くん、6年生、ふたごの弟さんのほうです。全校表現劇、『海よ光れ!』では、鼻たれ坊主のこぞうを演じました。津波のあとは、小学校に泊まって、その後は、親戚の家でお世話になっているそうです。
6年生の卒業式は、津波の影響で、3月25日に延期になったそうです。
卒業式に出席した6年生は29人です。29人が6年生全員だそうです。少ない数ですね。
親にとってみれば、こどもというものは、生きていてくれればそれでいいのです。勉強ができなくてもいいし、運動ができなくてもいいのです。親が、小学校の先生に一番望むことは、生きて卒業させてくださいということなのです。
10 2101通の手紙(愛さん。武藤愛さん6年生)
学校新聞、『海よ光れ!』の第78号をつくる。つくるメンバーは、6年生の武藤愛さん、大川海渡くん、大川海成くん、5年生の福士悠太くんの4人です。
学校新聞が全国大会で表彰されたことがきっかけになって、全国から被災地の大川小学校のメンバーを励ます手紙が新聞社を仲介にして届きます。津波災害が発生した当初、大川小学校の児童の安否がわからなかったそうです。
2101通ものたくさんの応援手紙が届きました。
11 学校新聞 第78号 『大沢の海よ光れ!』(悠太くん。福士悠太くん。進級して6年生)
第78号の学校新聞、『海よ光れ!』が発行されました。つくっている最中の4月7日にも大きな地震があったそうです。たいへんです。
まだ、150人の人たちが小学校で避難所生活を送っているそうです。
12 新聞にこめる思い(優樹菜さん。進級して6年生。古久保優樹菜さん)
4月20日が大沢小学校の入学式です。震災後、入学式が遅れていました。新一年生は11人です。全校生徒の数は91人です。少ないです。
5月11日:学校新聞、『海よ光れ』第79号が完成しました。
お弁当給食だったのが、給食が実施されたそうです。避難所で避難している人たちがつくってくれたそうです。
こどもたちを午前中で下校させても、家でお昼の準備をできる家庭が少なかったそうです。
こどもたちはずっと、トイレ掃除とお年寄りの肩もみを続けています。
5月31日:学校新聞、『海よ光れ』第80号が発行されました。
避難所のお年寄りへの感謝があります。こどもたちのために、ぞうきんを縫ったり、畑を耕したり草取りをしてくれたりしたそうです。
13 思いがけないこと(悠太くん。福士悠太くん。6年生)
学校新聞は、第81号、第82号と発行を重ねていきました。
三陸鉄道の、『陸中山田駅』のことが書いてあります。
先日、NHK土曜夜の番組、『プロジェクトX(エックス)』で、被災当時のことが放送されていました。三陸鉄道の沿線では津波で線路や駅や橋脚が流されて、一時は廃線しかないという状況もあったそうですが、みなさん努力されて、三陸鉄道を奇跡が起こるように復活させておられます。人間の力って、すごいなあと思いました。
全校表現劇、『海よ光れ』は、23年間続いてきた大沢小学校の伝統行事でしたが、震災の年の上演はありませんでした。中止です。運動会もなし。大沢虎舞(おおさわとらまい)もありませんでした。
学校新聞、『海よ光れ』第85号が発行されました。
大沢の町が少しずつ復興に向かっていることがわかります。
町の復興ベスト5です。
1位 店が再開した。(お買い物ができます) 2位 ガレキが片付けられた。(町がきれいになりました) 3位 漁船が増えた。(大沢は、漁業の町なのでしょう) 4位 仮設や建物が建ってきた。(新たな市街地の形成です) 5位 道路が直った。(道路は、人間の血管のようなものです。物流が回復します)
小学校の復興ベスト5です。
1位 校庭が使えるようになった。(校庭が使えない小学校はつらい。遊び場がありません) 2位 学校が避難所ではなくなった。(避難者がちゃんと住むところができたということです) 3位 図書館が利用できるようになった。(本読みは、心の支えのために大切です) 4位 (支援)物資がなくなった。(支援の手が少なくなったということはいいことなのです。自活できるようになった) 5位 転校してきた子どもたちが戻ってきた。(同じ土地で育った仲間です)
2012年(平成24年)1月31日発行の、『海よ光れ』第88号
来年度児童会執行部選挙特集だった。
福士悠太くんたち6年生は、3月で小学校を卒業します。
時間の流れは早いものです。
佐藤はるみ先生が、学校新聞、『海よ光れ』が、全国新聞コンクールで、内閣総理大臣賞を受賞したことを教えてくれます。
2月21日、6年生だけで、『海よ光れ』の劇を披露しました。
あきらめていた修学旅行にも行けました。
盛岡市での福祉大会で、『大沢虎舞』を披露できました。
『終わりに』
2019年秋(令和元年)に筆者の田沢五月さんが、多田敢校長(ただ・つよしこうちょう)に話をして、全校表現劇、『海よ光れ』を観劇されたそうです。
大沢小学校は、その年の年度で閉校になったそうです。大沢小学校の143年の歴史が閉じました。
学校新聞、『海よ光れ』は、新聞委員会でつくっているそうです。委員会の6年生のメンバーが、三上乃愛(みかみ・のあ)さん始め5人だったそうです。震災のときは、3歳だったそうです。
最後の新聞:『海よ光れ』第175号です。コロナ禍が始まる頃でもありました。
2023年(令和5年):出版記念号外、『海よ光れ』発行。23歳、24歳になった昔のメンバーが、号外を発行しました。みなさん故郷や社会に貢献されています。町役場職員、警察官、看護師、漁師、町の商店経営、航空自衛官、みなさん、しっかり地に足を付けて生活されています。学校新聞、『海よ光れ』をつくった体験が、その後の人生に生かされていると、本を読み終えて考えました。
とかく、いい話として本をつくりがちですが、現実の現場では、ドラマや映画、テレビの放送のように事実や映像を加工することはできないし、加工する必要もありません。
災害を利用して利潤の追求をする悪意の人や組織もいます。
本の内容は、現実的な内容で、飾らない出来事の記述が良かったと思います。また、筆者自身も故郷が山田町のお隣だそうで、実感のこもったレポートでした。取材を申し込んでも、まだ津波の話はしたくないという人の存在もリアルでした。身内や親族を失うような、よほど悲しい思いを体験されたのでしょう。