2024年08月02日
なんかひとりおおくない? うめはらまんな
なんかひとりおおくない? うめはらまんな BL出版
意味深な絵本です。いみしん:なにやら深い意味がありそうだ。
ゆうれいばなしを想像、予想します。
まずは、文章を読まずに最後のページまでめくりました。
そうか、『ざしきわらし(座敷童)』の話だなと悟る。さとる:理解する。
ざしきわらしを素材にして、水谷豊さんが出ていたいい映画がありました。映画館で観ました。
原作も良かった。たしかこの映画が映画館で上映されていたころ、阿部寛さんの、『テルマエ・ロマエ』も上映されていました。テルマエ・ロマエは満員で、こちらのざしきわらしの映画はあまりお客さんが入っていませんでした。
『愛しの座敷わらし(いとしの)上・下 荻原浩 朝日文庫』
映画館で映画を観たときの感想が残っていたのでここに落としてみます。
岩手県の自然が美しい。冒頭付近は、邦画、『トトロ』のようです。
水谷豊・安田成美夫妻が演じる高橋ファミリーには東京でいじめに遭っていた長女とゲームでしかサッカーをしたことがない小学生長男がいます。
水谷パパは左遷で盛岡に飛ばされた50代の食品会社課長職という設定になっています。草笛光子さん演じる澄代おばあさんには認知症の気配があります。
悪いこともあればいいこともある。コンクリート、アスファルト、ガラスと金属とプラスチックに囲まれた都会のマンション暮らしから、山や川、田畑や樹木という自然に包まれた地域に引っ越したファミリーは引っ越してきたばかりなのに都市暮らしに戻ろうとします。
最初、ファミリーは、座敷わらしに恐怖感をもちます。古老のおばあさんが「(座敷わらしは)間引きされたこども(いらないこどもと判断されて、わざと流産させられた(死んじゃった))」というあたりから物語は真剣味を増します。
大木が風に揺すられて出す葉の重なり合う音、ときおり差し込まれるコノハズク(フクロウ)の映像、満天いっぱいに広がる無数の星、わたしは風に揺れるススキの一瞬の映像が気に入りました。
座敷わらしのぼくちゃんは座敷わらしそのものの表情としぐさで適役です。水谷パパは愛を語ります。世の中がそうであるといいなという夢があります。でも現実はそうではありません。無理なことです。せめて映画の世界のなかではこんな世界にひたりたい。
絵本の表紙には7人の小学生たちが書いてあります。
男の子が3人、女の子が4人です。
そして、裏表紙のところにもうひとりいます。ざしきわらしくんですな。
樹木の上のほう、ちょっと太い枝のうえにちいさな男の子がちょこんとおすわりをしています。
きみが、ざしきわらしくんだね。
絵にあるようなわらぶきの大きな家でわたしも暮らしていた頃(ころ)があります。
熊本県にある父方の祖父母宅で居候(いそうろう。間借り。一時的なもの)みたいにして世話になっていた時期があります。自分は7歳前後でした。
大きな農家だったので、牛小屋もあり、小屋には、親子の牛がいて、農耕作業で働く牛でした。
深いつるべ式の井戸もありました。ほかにニワトリも飼っていたような覚えです。
岐阜県の白川郷とか五箇山集落(ごかやま)に観光で行ったことがあるのですが、大きな農家に自分が住んでいた体験があると、そのような家屋についての興味は湧きません。
今住んでいる愛知県だと、豊田市に合併した足助町(あすけちょう)にも、この絵本に描いてあるような家屋が展示されています。
ざしきわらしは、ふだんはひとりぼっちでさみしいから、だれか遊びにくると、じぶんも仲間に入れてほしくて、そーっとあそびに入ってくるのです。
(さて、ゆっくり、読み始めます)
大縄跳びをしている絵から始まりました。
小学校低学年ぐらい、それから幼稚園生ぐらいのこどもたち7人とたぶん白いワンちゃん(ふつうの柴犬っぽいけれど、たぶん雑種でしょう)の姿があります。
次のページでは、7人が両手をつないで輪をつくって、笑顔でなにか歌いながらまわっているようすです。まんなかにひとり、だれかがしゃがんでいれば、『かーごめ、かごめ かーごのなかのとーりぃは……』という遊びですが、だれもしゃがんでいません。それとも、目には見えないけれど、ざしきわらしが、しゃがんでいるのだろうか。想像はふくらみます。
夏休みに祖父宅にいとこたちが集まりました。
昔はよくあった光景です。今どきはどうでしょうか。少子化です。いとこ関係がたぶん減っています。祖父母との交流もこどもさんが小さいうちだけのような気がします。さみしい限りです。
昭和の時代、盆正月には、祖父母宅には兄弟姉妹やそのこどもたち(いとこ)が集まって、冠婚葬祭でも集まって、親睦を深めてという慣例や風習がありましたが、すたれてしまいました。
生まれてくるこどもの数は減って、ひとり暮らしをする人が増えて、なんだか孤独な日本人が増えています。この傾向は、もうなんともしようがないのでしょう。
(この大きな古い家は)ぼくたちが住んでいるマンションとは違うというこどもさんの言葉があります。
それでも最近はいなかでもマンションが建つようになりました。
空き家が多いのに、いなかにマンションを建てる必要があるのだろうか。
いつも金もうけ優先、工事優先の世の中です。
ページをめくると、広い屋根裏の空間に、ざしきわらしがいます。
顔はよく見えませんが、鼻から下が見えます。
屋根裏の梁(はり。柱と柱をつなぐために横にのびる木の部分)の部分に、ざしきわらしがちょこんとのっかって座っています。
次のページにもざしきわらしがいます。
屋根裏の空間で、女の子の背後にそーっと隠れています。そこは薄暗い。
なんだか、絵本、『ウォーリーをさがせ!』、みたいになってきました。
こどもたちは、かくれんぼ遊びをしたあと、こんどは、ドッジボールを始めました。
頭髪がおちょんぼ(サムライのちょんまげみたい)で、おもしろいみためのざしきわらしです。小さなおとこの子です。人間だと、二歳半ぐらいです。わたしは、こどもさんは、二歳半ぐらいがいちばんかわいらしい時期だと感じています。まるで天使です。
ページをめくるたびに、ざしきわらしが、どこかに隠れています。
絵本の読み聞かせなどをしながら、読み手と聞き手で、ざしきわらしがどこにいるのかを探すゲームになりますな。
おじいさんはいるけれど、おばあさんは出てきませんなあ。
次のページをめくったら、おばあさんが出てきました。
やっぱりおじいさんとおばあさんは両方でてきたほうが安心します。
ひとりだけ、江戸時代のこどものようなみためをしています。ざしきわらしのことです。
みんなで、スイカを食べて、庭に向かって、スイカの種を飛ばします。
いなかの大きな敷地にある大きな農家だからできることです。
ここには、ゲームはなさそうです。
夜になりました。オバケが出てくるような雰囲気があります。
暗い庭にだれかがいます。(ざしきわらしです)、何かをしています。
たくさんのスイカの芽が見えます。
お昼にこどもたちが、スイカの種飛ばし競争をしたのですが、その種から芽が出たようです。
魔法ですな。
お庭に大きなまるいスイカがたくさんできました。
ざしきわらしの恩返しです。
きのうごちそうになったから、おかえしに、たくさんのスイカをくれたのでしょう。
スイカの皮に、三角のおめめと口をかいてお面みたいにして、顔を隠しているのが、ざしきわらしです。ほかの子たちも、おめん遊びをしています。
ざしきわらしのスイカのおめんがはずれて、ざしきわらしの照れている笑顔がみんなに丸見えになりました。
(全体をとおしてですが、ちみつな絵です。白黒鉄筆版画の線でしょうか。時間をかけて、ていねいに作画してあります。わたしが中学生のときに体験した美術版画作成のためのエッチングという手法を思い出しました)
いろりを囲んで、ざしきわらしに関するおじいさんのお話をこどもちが聞いています。
年寄りの話はためになります。経験で物事を考える人間になった人たちが年寄りです。
ざしきわらし=妖怪(ようかい)です。妖精(ようせい)ともいえます。
会いたいときに会えないのが、ざしきわらしです。
夏休みが終わります。
こどもはみんな、じいちゃんの家を去ります。2台の乗用車が、こどもたちをお迎えに来ました。
おじいちゃんの家は、さみしくなります。
『らいねんもきてね』
麦わら屋根のてっぺんで、ざしきわらしがぽつんと座って、都会の自宅に帰るこどもたちをながめています。
こどものときだけ見えるのが、ざしきわらしです。ピーターパンに似ています。
バイバーイ
最後のページです。
なわとびしよう。そうしよう。
いとこがいっぱいいていいねぇ。
意味深な絵本です。いみしん:なにやら深い意味がありそうだ。
ゆうれいばなしを想像、予想します。
まずは、文章を読まずに最後のページまでめくりました。
そうか、『ざしきわらし(座敷童)』の話だなと悟る。さとる:理解する。
ざしきわらしを素材にして、水谷豊さんが出ていたいい映画がありました。映画館で観ました。
原作も良かった。たしかこの映画が映画館で上映されていたころ、阿部寛さんの、『テルマエ・ロマエ』も上映されていました。テルマエ・ロマエは満員で、こちらのざしきわらしの映画はあまりお客さんが入っていませんでした。
『愛しの座敷わらし(いとしの)上・下 荻原浩 朝日文庫』
映画館で映画を観たときの感想が残っていたのでここに落としてみます。
岩手県の自然が美しい。冒頭付近は、邦画、『トトロ』のようです。
水谷豊・安田成美夫妻が演じる高橋ファミリーには東京でいじめに遭っていた長女とゲームでしかサッカーをしたことがない小学生長男がいます。
水谷パパは左遷で盛岡に飛ばされた50代の食品会社課長職という設定になっています。草笛光子さん演じる澄代おばあさんには認知症の気配があります。
悪いこともあればいいこともある。コンクリート、アスファルト、ガラスと金属とプラスチックに囲まれた都会のマンション暮らしから、山や川、田畑や樹木という自然に包まれた地域に引っ越したファミリーは引っ越してきたばかりなのに都市暮らしに戻ろうとします。
最初、ファミリーは、座敷わらしに恐怖感をもちます。古老のおばあさんが「(座敷わらしは)間引きされたこども(いらないこどもと判断されて、わざと流産させられた(死んじゃった))」というあたりから物語は真剣味を増します。
大木が風に揺すられて出す葉の重なり合う音、ときおり差し込まれるコノハズク(フクロウ)の映像、満天いっぱいに広がる無数の星、わたしは風に揺れるススキの一瞬の映像が気に入りました。
座敷わらしのぼくちゃんは座敷わらしそのものの表情としぐさで適役です。水谷パパは愛を語ります。世の中がそうであるといいなという夢があります。でも現実はそうではありません。無理なことです。せめて映画の世界のなかではこんな世界にひたりたい。
絵本の表紙には7人の小学生たちが書いてあります。
男の子が3人、女の子が4人です。
そして、裏表紙のところにもうひとりいます。ざしきわらしくんですな。
樹木の上のほう、ちょっと太い枝のうえにちいさな男の子がちょこんとおすわりをしています。
きみが、ざしきわらしくんだね。
絵にあるようなわらぶきの大きな家でわたしも暮らしていた頃(ころ)があります。
熊本県にある父方の祖父母宅で居候(いそうろう。間借り。一時的なもの)みたいにして世話になっていた時期があります。自分は7歳前後でした。
大きな農家だったので、牛小屋もあり、小屋には、親子の牛がいて、農耕作業で働く牛でした。
深いつるべ式の井戸もありました。ほかにニワトリも飼っていたような覚えです。
岐阜県の白川郷とか五箇山集落(ごかやま)に観光で行ったことがあるのですが、大きな農家に自分が住んでいた体験があると、そのような家屋についての興味は湧きません。
今住んでいる愛知県だと、豊田市に合併した足助町(あすけちょう)にも、この絵本に描いてあるような家屋が展示されています。
ざしきわらしは、ふだんはひとりぼっちでさみしいから、だれか遊びにくると、じぶんも仲間に入れてほしくて、そーっとあそびに入ってくるのです。
(さて、ゆっくり、読み始めます)
大縄跳びをしている絵から始まりました。
小学校低学年ぐらい、それから幼稚園生ぐらいのこどもたち7人とたぶん白いワンちゃん(ふつうの柴犬っぽいけれど、たぶん雑種でしょう)の姿があります。
次のページでは、7人が両手をつないで輪をつくって、笑顔でなにか歌いながらまわっているようすです。まんなかにひとり、だれかがしゃがんでいれば、『かーごめ、かごめ かーごのなかのとーりぃは……』という遊びですが、だれもしゃがんでいません。それとも、目には見えないけれど、ざしきわらしが、しゃがんでいるのだろうか。想像はふくらみます。
夏休みに祖父宅にいとこたちが集まりました。
昔はよくあった光景です。今どきはどうでしょうか。少子化です。いとこ関係がたぶん減っています。祖父母との交流もこどもさんが小さいうちだけのような気がします。さみしい限りです。
昭和の時代、盆正月には、祖父母宅には兄弟姉妹やそのこどもたち(いとこ)が集まって、冠婚葬祭でも集まって、親睦を深めてという慣例や風習がありましたが、すたれてしまいました。
生まれてくるこどもの数は減って、ひとり暮らしをする人が増えて、なんだか孤独な日本人が増えています。この傾向は、もうなんともしようがないのでしょう。
(この大きな古い家は)ぼくたちが住んでいるマンションとは違うというこどもさんの言葉があります。
それでも最近はいなかでもマンションが建つようになりました。
空き家が多いのに、いなかにマンションを建てる必要があるのだろうか。
いつも金もうけ優先、工事優先の世の中です。
ページをめくると、広い屋根裏の空間に、ざしきわらしがいます。
顔はよく見えませんが、鼻から下が見えます。
屋根裏の梁(はり。柱と柱をつなぐために横にのびる木の部分)の部分に、ざしきわらしがちょこんとのっかって座っています。
次のページにもざしきわらしがいます。
屋根裏の空間で、女の子の背後にそーっと隠れています。そこは薄暗い。
なんだか、絵本、『ウォーリーをさがせ!』、みたいになってきました。
こどもたちは、かくれんぼ遊びをしたあと、こんどは、ドッジボールを始めました。
頭髪がおちょんぼ(サムライのちょんまげみたい)で、おもしろいみためのざしきわらしです。小さなおとこの子です。人間だと、二歳半ぐらいです。わたしは、こどもさんは、二歳半ぐらいがいちばんかわいらしい時期だと感じています。まるで天使です。
ページをめくるたびに、ざしきわらしが、どこかに隠れています。
絵本の読み聞かせなどをしながら、読み手と聞き手で、ざしきわらしがどこにいるのかを探すゲームになりますな。
おじいさんはいるけれど、おばあさんは出てきませんなあ。
次のページをめくったら、おばあさんが出てきました。
やっぱりおじいさんとおばあさんは両方でてきたほうが安心します。
ひとりだけ、江戸時代のこどものようなみためをしています。ざしきわらしのことです。
みんなで、スイカを食べて、庭に向かって、スイカの種を飛ばします。
いなかの大きな敷地にある大きな農家だからできることです。
ここには、ゲームはなさそうです。
夜になりました。オバケが出てくるような雰囲気があります。
暗い庭にだれかがいます。(ざしきわらしです)、何かをしています。
たくさんのスイカの芽が見えます。
お昼にこどもたちが、スイカの種飛ばし競争をしたのですが、その種から芽が出たようです。
魔法ですな。
お庭に大きなまるいスイカがたくさんできました。
ざしきわらしの恩返しです。
きのうごちそうになったから、おかえしに、たくさんのスイカをくれたのでしょう。
スイカの皮に、三角のおめめと口をかいてお面みたいにして、顔を隠しているのが、ざしきわらしです。ほかの子たちも、おめん遊びをしています。
ざしきわらしのスイカのおめんがはずれて、ざしきわらしの照れている笑顔がみんなに丸見えになりました。
(全体をとおしてですが、ちみつな絵です。白黒鉄筆版画の線でしょうか。時間をかけて、ていねいに作画してあります。わたしが中学生のときに体験した美術版画作成のためのエッチングという手法を思い出しました)
いろりを囲んで、ざしきわらしに関するおじいさんのお話をこどもちが聞いています。
年寄りの話はためになります。経験で物事を考える人間になった人たちが年寄りです。
ざしきわらし=妖怪(ようかい)です。妖精(ようせい)ともいえます。
会いたいときに会えないのが、ざしきわらしです。
夏休みが終わります。
こどもはみんな、じいちゃんの家を去ります。2台の乗用車が、こどもたちをお迎えに来ました。
おじいちゃんの家は、さみしくなります。
『らいねんもきてね』
麦わら屋根のてっぺんで、ざしきわらしがぽつんと座って、都会の自宅に帰るこどもたちをながめています。
こどものときだけ見えるのが、ざしきわらしです。ピーターパンに似ています。
バイバーイ
最後のページです。
なわとびしよう。そうしよう。
いとこがいっぱいいていいねぇ。
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