2024年07月19日

体験格差 今井悠介

体験格差 今井悠介(いまい・ゆうすけ) 講談社現代新書

 いろいろサブタイトルが本の帯に書いてあります。
 『習い事や家族旅行は贅沢?(ぜいたく)』
 『連鎖するもうひとつの貧困』
 『体験ゼロの衝撃!』
 『日本社会の課題』
 『低所得家庭の子どもの約3人に1人が「体験ゼロ」』
 『小4までは「学習」より「体験」』
 『「サッカーがしたい」「うちは無理だよね」』
 『人気の水泳と音楽で生じる格差』

 わたしは、実用書を読むときは、まず、ページをゆっくり全部めくりながら、なにが書いてあるのかをおおまかに把握します。

(1回目の本読み)
 読む前に、先日読んだ別の本のことが頭に浮かびました。
 『ことばのしっぽ 「こどもの詩」50周年精選集 読売新聞社生活部監修』
 ちびっこの語録なのですが、昭和の時代の昔々はおもしろいのですが、現代に近づくにつれて、おもしろくなくなるのです。
 ことばのしっぽは、1967年(昭和42年)から始まっています。
 例として、2ページの、『たちしょん』では、『あ、おしっこが、たびにでた』とあります。ほほえましい。 4歳の男の子の作品です。
 2010年(平成22年)ころから、こどもの生活が管理されて、豊かな生活体験が減って、まるで標準化された人工知能ロボットのような心もちのこどもが増えたのです。
 そういうことも関係あるのではなかろうかと興味が湧き、こちらの本を読むことにしました。

目次です。
『第一部 体験格差の実態』
 「お金」、「放課後」、「休日」、「地域」、「親」、「現在地」
『第二部 それぞれの体験格差』
 「ひとり親家庭の子ども」、「私が子どもだった頃」、「マイノリティの子ども」、「体験の少ない子ども時代の意味」
『第三部 体験格差に抗う(あらがう。闘う。(相手に)負けないぞ)』
 「社会で体験を支える」、「誰が体験を担うのか(になう。引き受ける。担当する)」

 分析する本です。
 調査のための資料を集めます。取材です。
 お金の話ですが、お金がないから体験ができないというつながりはないように感じます。
 わたしは、貧困なこども時代をおくりましたが、体験は豊富でした。
 むしろ、お金があまるほどある家庭のこどもさんのほうが、親が、こどもをかばって、しなくてもいい体験はさせないようにするから、体験不足になるような気がします。

 世の中にはいろんな人がいます。いい人がたくさんいますが、そうでない人もいます。きれいごとだけを教えると、こどもの心はへし折れます。まじめだけではやっていけません。社会のベースは(下地したじ)は、不合理・不条理・理不尽でできています。なんとか、心に折り合いをつけて、生活していきます。それが、現実です。
 『勇気ってなんだろう 江川紹子 岩波ジュニア文庫』という本があります。職場の不祥事を内部告発した本人とその家族・親族がぼろぼろになっていく記事がありました。世の中は、正しいか、正しくないかという基準だけで回っているわけではないのです。
 まず大きな利益の固まりがあって、そこにたくさんの人たちが群がって利益を分けようとしているのです。利益の取得を阻む(はばむ)存在は干されるのが人間社会の厳しい現実なのです。

 オギャーと生まれてから、一戸建ての実家暮らしで、ずーっと実家暮らしで、大学も自宅からの通学で、勤め先も自宅からの通勤でとなると、かなり人生体験が不足します。
 衣食住の社会経験が薄くなります。アパートの借り方、電気・ガス・水道の契約のしかた、公共料金などの支払い方、洗濯機の使い方、おふろの洗い方、ごみの出し方、そういった雑多なことを知っているようで知らない人が多いのが実家暮らしをしている若い人の実情です。実家では、親や祖父母が生活に必要なことをやっているのです。
 会社勤めになって、出張するときに、電車の路線も乗り方もわからない。切符も買ったり手配したりしたことがない。車の運転免許証はもっているけれど、実際に社用車を運転することはこわいからできない。仕事場では、役に立たない人間だと判断されてしまいます。
 生活するにしても働くにしても、自分のことは自分でやる。人にやってもらうのではなくて、自分が主体的になって、計画を立てて実行するという意欲がいります。自立と自活です。がんばらないと、結婚も子育てもできません。人生体験が少ないと、いつもわたしはどうしたらいいのでしょうかと悩むことになります。

 批判を受けるかもしれませんが、わたしが働いていた時は、大卒新入社員のありようで頭が痛かった経験があります。
 どうやったらこういう人間ができあがるのだろうかです。
 いつでもどこでも誰かが自分の面倒を、ただでみてくれると思っている。
 自分はどこにいっても、お客さん扱いをしてもらえると勘違いしている。
 思うに、これまで本来こども自身が自分で体験してやっておくべきことを、親や先生が代わりにやってしまっていたのではないかと推測してしまうのです。

 こちらの本に書いてあるのはこどもさんのことなので、年齢層が限られます。
 主に(おもに)十代の少年少女のことが書いてあるようです。
 人生は、成人式を迎えて、そこから先が長い。はるかに長い。
 こどもでいられる時間はそれほど長くはありません。

(2回目の本読み)
 サッカーをしたいけれど、(たぶん、習うお金がないから)サッカーができないというようなこどもさんがおられます。
 不思議です。老齢者からみれば、自分たちの世代は、野球がメインで、野球しかなかったような時代で、どこでも野球をやれた時代でした。お金もいらなかった。お金を払って野球をするとかサッカーをするとか、そういう発想がありません。
 同じく水泳も、身近な場所に海や川があって、小さいころから海や川で泳いでいました。習う必要もなかった。プールは学校や公民館付設のプールで無料でした。自己流で泳いでいました。
 水が深いところで、立ち泳ぎもできたし、中学生の時に、遠泳で2kmぐらいは泳げました。
 
 本の説明では、お金のあるなしが、体験のあるなしに関連していると考える。(そうかなあ。親やこどもの気持ちしだいで工夫はできます)

 『体験』を、『管理』しようとする意識が感じられるこちらの本の雰囲気です。

『第一部 体験格差の実態』
 「お金」「放課後」「休日」「地域」「親」というポイントで考察します。
 裕福なこどもは体験が豊富で、裕福でないこどもは体験が豊富ではない。(そうかなあ。いちがいにそうとはいえません。お金があっても、ボードゲーム体験やテレビゲームの体験だけが豊富なこどももいそうです)
 
 うーむ。これはこれと決めつけて対処方法を示すマニュアル本だろうか。

 ふと思う。
 大卒就職者と高卒就職者を比較してみる。
 世間では、高卒者よりも大卒者のほうが、生涯獲得所得が多いなどといいますが、本当にそうだろうか。
 大学生の学習期間はたいてい4年間です。
 高卒者は、その4年間働いて、大卒者よりも早く給料をもらいます。4年後大卒者が社会に出るころに、堅実な高卒者は、それなりの貯蓄を蓄えています。
 いっぽう大卒者は、4年間無職のようなものです。学費を支払う側の人間です。払った学費やひとり暮らしをした場合の住居費はばく大です。学費のために奨学金などの借金をする人もいます。大卒者は、就職した途端、給料をもらっても借金の返済から生活が始まります。
 お金のことだけを考えたら、たとえば工業高校卒で、倒産のおそれが少ない堅実な会社に入って技術者として定年退職までコツコツと働いて、退職金を受け取って、定年後は再雇用で同じ会社で働いて、その後は年金をしっかり受けとってというパターンのほうが、経済的には、人生の勝利者といえるような気がするのです。

 あと、思うのは、お金は働いて稼ぐのが基本ですが、本を読んでいるとどうも、よそからお金を支給すべきだというふうに読み取れます。
 お金がほしかったら、こどもだろうが働くべきです。お金が欲しかったらまず働くことが基本です。心身に危険がない範囲での労働体験は必要です。昔は、農家や漁業、職人仕事の家のこどもは家の手伝い名目で働いていました。

 学校外の体験がゼロのこどもが、全体の15%ぐらいいる。(放課後の体験、休日の体験、スポーツ系、文科系の習い事、地域の行事、お祭りなど)
 自然体験とありますが、半世紀以上前であれば、身近に自然がたくさんありました。当時あった原野は開発され、コンクリートとアスファルト、金属とガラスの世界ができて、次々と空間を占めていきました。
 野球遊びをできる空き地が姿を消しました。身近にある小公園には、野球はしないでくださいという看板が立っています。
 こどもだけの集団で遊ぶ姿を見かけなくなりました。
 昔は、親はこどもを放任して、子どもだけの縦型社会があって、小学生や幼児は、集団で固まって遊んでいました。缶けり、おにごっこ、かくれんぼ、お金がかかる遊びはありませんでした。そのなかで人付き合いを学びました。
 いまは、おとなやお金がからむ遊びばかりで、ゲームはお金がかかる孤独な遊びです。
 こどもが遊ぶ時は、民間事業者、地域のボランティア、学校のクラブ活動、自治体がらみです。こどもだけの自主的な世界が消えました。
 こどもの送迎や親同士の付き合いがたいへんとか、遊ぶ場所が近くにないなどあれこれ事情や理由があって、こどもは、そばにおとながいないと、こどもだけでは遊べないことが多くなりました。

 こちらの本は、お金がない家のこどもは体験ができないという考えで書いてあるように思いますが、違う切り口もあったのではないかと思いながら読んでいる40ページ付近です。

 世帯の年収を、『300万円未満』、『300万円以上599万円以下』、『600万円以上』と、3分類してあります。

 旅行と観光について書いてあります。
 世帯年収が多い家のこどもは、旅行や観光に行くことが世帯年収の少ない家と比較して多い。
 当然の状況だと思います。ほかのこともそうでしょう。
 ただ、個別だと違う状況がピックアップされてくる気がします。お金をかけない旅のしかたもあります。車中泊とか、在来線や長距離バスで移動するとか。ぶっそうですが、テントで野宿もあります。親の趣味嗜好にこどもが引っ張られるのでしょう

 中学のときに病気で亡くなったわたしの父には放浪癖があって、短期間で転職を繰り返しながら日本各地を転々と移動しました。ゆえにこどもであったわたしは、何回も転校を体験しました。引っ越し貧乏ですからお金はありませんでした。
 どうしてこんな家に生まれてきてしまったのだろうと思い悩んだこともありましたが、歳をとってみると、あの体験があったから、むずかしい社会で生き抜いてくることができたと、いまでは父親をうらむ気持ちはありません。今も生きていたら、文句は言いたいから言いますが、あわせて、ありがとうとも言うことができます。
 
 こちらの本を読んでいて、なにか期待していたものとは異なる記述が続きます。
 問題点の指摘が延々と続きます。解決策の提示はまだうしろのページでしょう。
 自力で稼ぐことが自活の基本です。
 もし、足りない金額分を国や政府、自治体に求めるのなら、どうかなあと首をかしげます。

 ピアノ、サッカー、水泳、登山、それらをやらねばちゃんとした社会人になれないということもありません。

『第二部 それぞれの体験格差』
 体験格差の調査で、2000人の保護者から回答を得たそうです。
 記述は、社会福祉の調査結果を読むようです。
 シングルマザーが多い。母子家庭で育ったこどもがおとなになって、また母子家庭になる。親子で離婚が連鎖しています。離婚した親は、こどもの離婚を止めることができません。離婚するなと説得できません。
 後半では、生活保護受給家庭の記録を読むようでした。
 事例が、並べてあるだけです。著者の考えは明記されていません。
 質問があって、相手からの答えがあります。答えは長い文章です。
 片親母子家庭、夫から暴力を受けていた家庭、読んでいると、問題点の起点は、『男』にあるのではないかと判断できます。男が原因なのに、男ではない女やこどもが苦労、苦悩している現実があります。
 家事をしない男も、家庭の平和と安定において、マイナス要因になっています。
 
 こどものそばにいつも親がいっしょにいなければならない時期は、こどもが乳幼児・小学校低学年ぐらいまででいいと思います。
 小学校4年生ぐらいになれば、友だちと4人ぐらいのグループで、小中学生は毎回無料の動植物園へ行くとか(名古屋の東山動植物園は中学生以下のこどもは無料です)、図書館に行くとか、お金がなくてもやりようがある気がします。

 親がどこかに連れて行くのではなく、こどもが自分でできることは、おとなの付き添いなしで、なるべく自分でやらせることが体験です。
 そうしないと、こどもが、あれもこれもできない、やれないと言い出します。パパ・ママ・先生やってということになります。

 本の中にある、『体験』とは、料金を払って活動に参加するスポーツや文科系の習い事です。
 学習塾に行かせたからといって、成績が上がるわけでもありません。わたしの経験だと、あれは(塾通い)何だったのだろうかと思ったことがあります。成績はさっぱりでした。塾が、こどもたちの社交場になっていたのです。スポーツも音楽も似たようなものです。
 お金を払えば、いたれりつくせりの対応が待っていたりもします。

 ディズニーランドに行けないことが不幸のように書いてあるのですが、うちは、ディズニーランド自体に興味がありません。こどもや孫たちも興味をもっていません。ディズニーランドを好きじゃないとだめだみたいな風潮があることが不思議です。

 こどもはいつまでもこどもではありません。
 こども時代は、過ぎてしまえばあっという間なのです。
 
『第三部 体験格差に抗う(あらがう)』
 著者からの提案部分です。
1 教育支援、寄付金を原資とした、『スタディクーポン』の提供について書いてあります。
2 実態調査をする重要性について書いてあります。
3 費用負担を行政に求めることが書いてあります。
4 マニュアル(手引き)のようです。スタッフの心得があります。こころえ:心構え、心がけ。
5 公共施設の維持活用について書いてあります。
 
 おわりにで、ご自身が、『体験格差の解消』に取り組むきっかけが書いてあります。
 学生時代に行ったボランティア活動がきっかけです。
 不登校、引きこもりの青年たちとの共同生活です。
 体験することで、困難を克服することができることを知ったそうです。

 まずは、親が考えることなのでしょう。
 お金があろうがなかろうが、こどもに適度な体験ができる環境を提供したほうがいい。
 体験というのは、日常生活における体験とか、祖父母や親戚、近隣の人たちとの交流をさすのかと思って本を読み始めましたが違っていました。お金を払っての習い事とか、旅行などの娯楽の体験でした。  

Posted by 熊太郎 at 07:09Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2024年07月11日

ぼくはうそをついた 西村すぐり

ぼくはうそをついた 作・西村すぐり 絵・中島花野(なかじまかの) ポプラ社

(1回目の本読み)
 とりあえず、ページを全部めくってみて、どんなことが書いてあるのかを把握します。はあく:(おおまかに)理解する。

 出てくる人たちです。時代設定は、2005年(平成17年)になっているようです。
 舞台は広島県広島市です。

ひいおじいさん:リョウタのひいおじいさんのこと。94歳で今年初めに亡くなったそうです。リョウタの祖父であるシゲルさんとそのひいおじいさんは一緒に暮らしていましたが、ひいおじいさんが亡くなったので、おじいさんは、リョウタの家族といっしょに暮らすようになったそうです。ちょっとややこしい。この物語は、おじいさんやおばあさんなどのお年寄りがいっぱいです。おじいさん・おばあさんに加えて、ひいおじいさん・ひいおばあさんが出てきます。

レイ:リョウタより1歳上の女子。ヘロウばぁ(レイのひいおばあさん)のひ孫娘。物語の途中で、長い髪を切って、ショートヘアに変えます。

シゲル少年:リョウタの祖父シゲルの少年時代でしょう。

カープ:プロ野球チームの広島カープでしょう。

ミノル:リョウタの祖父であるシゲルじいちゃんの3歳年上の兄。原爆に被爆したため13歳で亡くなったそうです。

タヅ(レイのひいおばあさん):90歳代の高齢女性。去年の夏、家を出ていなくなったことがある。認知症の徘徊(はいかい。さまよい歩き)があるのでしょう。今は在宅しているようです。(数日前にニュースで、認知症のために家を出たまま行方不明になって警察に届け出があった高齢者が日本国内で1万9000人ぐらいいるようなことをいっていました。そのうちの何割かはその後発見されているのでしょう)。
タヅは、アメリカへ渡った日本人移民のこどもとして生まれた。(アメリカというのは、アメリカ合衆国ではなく、移民先だった南米の国ということでしょう。ブラジルとかペルーとか)。貧しくて生活できず、一家で帰国したというように書いてあります。認知症のためか、自分で、『(自分は)12歳です。男の子をさがしとります(自分のこども)』と言ったそうです。

リョウタ:小学5年生の夏という設定です。広島市内を流れている太田川のむこうに住んでいた母方祖父シゲルじいちゃんが来て、家族四人の同居になった。両親がいる。ほかに家が二軒建っている。リョウタの家(普通車2台の駐車スペースあり。庭なし。父の普通車と母の軽自動車、シゲルじいちゃんの軽自動車、合計3台を2台分のスペースに無理やり停(と)めている)、隣に広い庭付きの古家(ふるや)がある。リョウタは、ジュニアバレーボール部員で、『大田川プルムス』というチームに所属している。夏休み中は、週に3回練習がある。話の始まりでは小学5年生だが、途中で6年生に進級する。

シゲルじいちゃん:リョウタの母方祖父とあります。

(伝説の)ヘロウばぁ:リョウタの一学年上の女子レイのひいおばあさん。認知症があるように見えます。原爆で子どもさんを亡くしているそうです。

 太田川をはさんで家が2軒ある。小学5年生のリョウタとリョウタの母方祖父であるシゲルじいちゃんが住んでいる一戸建てがある。
 
 広島原爆を扱った反戦ものの児童文学でしょう。
 原爆投下から時が流れて、世代が変わりました。
 以前の物語だったら、祖父母で良かった設定が、令和の今は、ひいおじいさん・ひいおばあさんの時代を設定しての話になりました。広島原爆の投下が1945年(昭和20年)ですから、あれから79年です。ただ、この物語の場合は、西暦2005年ころの設定になっています。平成17年ころです。当時だと、原爆投下は60年ぐらい前です。

 序章:いただきます
 第一章:ひいおじいさんのたからもの
 第二章:猫のタオルハンカチ
 第三章:レイのゆううつ
 第四章:シゲル少年四年生の夏
 第五章:わしらのカープ
 第六章:レイのゆううつ2
 第七章:ミノルがめざした場所
 第八章:たずねびと
 終章:タヅさんのぞうり
 あとがき
 以上の構成です。

 昔大きな戦争があった。第二次世界大戦。1939年(昭和14年)9月1日~1945年(昭和20年)9月2日。
 日独伊(日本、ドイツ、イタリア)と連合国が戦って、連合国が勝利した。
 
 広島市への原爆投下:1945年8月6日午前8時15分に投下された。人類史上初の核兵器による都市攻撃だった。
 56万人ぐらいが放射能に被爆した。投下された年に約14万人が亡くなった。
 当時の広島市の人口は約35万人だった。
 広島市には軍事施設があったので原爆投下の候補地に選ばれたという文章を以前読んだことがあります。

横川駅:原爆ドームの北方向にあるJRの駅(昔は国鉄の駅だった。日本国有鉄道)

あたらしい球場:昔あった広島市民球場でしょう。わたしは広島見物に行ったときに、野球場のスタンドからグランドを見たことがあります。そのときはもう新しいマツダスタジアムができていたような時期で、広島市民球場のグランドでは、中学生同士が試合をしていました。

あとがき:作者西村すぐりさんのおかあさんの戦争体験をもとにして、この児童文学をつくられたそうです。お名前から性別がわからなかったのですが、作者は女性です。

(2回目の本読み)
 (魚釣りをするときの)鑑札(かんさつ):リョウタと祖父のシゲルがアユ釣りをします。釣るための権利としてお金を支払うともらえる。漁業組合に払う。漁業組合が川や魚の管理をしている。環境維持のための費用を負担している。

 祖父と小学生5年生男児の孫とでおとり鮎を使った釣りをしています。祖父と孫のペアという、あまりそのような光景は見かけなくなりました。
 アユ釣りのやり方の講習本のようでもあります。
 
 河川敷で三角ベースの野球遊びをするこどもも見かけなくなりました。
 正式なチームに入って野球をするこどもばかりです。時代が変わりました。

 シゲルじいちゃんが持っている小さな箱:もともとは、シゲルじいちゃんの父親(シゲルのひいおじいさん)の遺言書が入っていた。ひいおじいさんは、一年前に亡くなった。一周忌の法要があった。今は、箱の中には、原爆で亡くなったシゲルじいちゃんの3歳年上の兄ミノルの遺品が入っている。さきっぽが折れた小刀(こがたな。鉛筆を削るための折り畳み式ナイフ)と、つくりかけの木の彫刻が入っている。兄は、学徒動員の勤労奉仕で家屋を倒す作業をしていて原爆の犠牲者になった。遺体は見つからなかったが、さきほどのミノルさんが使っていたナイフは見つかった。

 話の途中でときおり、遊びの、『だるまさんがころんだ』が出てきます。なにか意味があるのでしょう。伏線かも。(あとで感動を生むためのしかけ)(読み終えてとくに伏線らしきものはありませんでした)

 出てくる人の名前がカタカナ表記ばかりです。なにか配慮があるのでしょう。

 リョウタのひいおじいさんは、息子のミノルさん(シゲルさんの3歳年上の兄)を原爆で亡くした。遺体は見つからなかった。持っていた小刀(こがたな。鉛筆を削るための折り畳み式ナイフ)だけが見つかった。

カイト:レイのいとこでレイの家の隣の家に住んでいる。レイより1歳下ですから、リョウタと同じ学年でしょう。将来バイオリニストになりたい。

カイトの妹:生まれたばかりだそうです。

ミドリ先生:1945年(昭和20年)8月広島に原爆が投下された当時、17歳の女子で先生をしていた。戦争で教員不足となり、代用教員として働いていた。原爆投下後、袋を縫って、亡くなった人の遺品を入れる作業をした。袋には亡くなっていた人の情報を書いた。

ユキワリイチゲ:多年草。野山に自然に咲く。作者はこの花になにかこだわりがあるようです。

 なんというか、説明の文章が多いので、こどもさんにとっては、読みづらいかもしれません。人間関係も続き柄がややこしい。
 これから、原爆投下のことを知らない世代へと交代していく経過の中で、表現のしかたをシンプルにする手法に転換する術(すべ。やりかた)を発想していくことが必要でしょう。
 時系列的な表現のしかただと、今はひいおじいさんやひいおばあさんが体験したといえますが、ひいひいおじいさんやひいひいおばあさんとなると伝承のためのインパクト(強調点)が薄くなります。

 リョウタの祖父シゲルが小学四年生だったときの話が出ます。
 広島菜:漬物(つけもの)にできる野菜でしょう。
 シゲルからリョウタに、広島市に原子爆弾が投下されたときについての話があります。
 空襲警報発令です。
 わたしは、広島市は軍都だったから、原爆投下の目標地に選ばれたと聞いたことがあります。
 シゲル少年は当時、広島市内の爆心地から10kmぐらい離れた小学校の校庭にいたそうです。
 原爆投下後、救護活動に従事した。
 6年生は、8人で、ほとけさん(遺体)をのせた戸板(といた。引き戸に使う板)を運んだ。四年生は体がちいさいので、手伝わせてもらえなかった。

松根油(しょうこんゆ):松の根っこにある油。飛行機の燃料にするそうですが、ちょっと考えられません。無理でしょ。

 94ページまで読みましたが、いまだにタイトルの意味がわかりません。『ぼくはうそをついた』の意味です。主人公の小学6年生リョウタはまだうそをついていません。

 リョウタは、『原爆ドーム』を見学に行きます。ちなみにわたしは二度見学したことがあります。最初の時と二度目とは印象が異なりました。
 最初見たときは、次のような感想メモが残っています。
 『第一印象は、建物の色が思っていたものとずいぶん異なることでした。わたしは壁が濃厚な緑がかった暗い雰囲気の構築物を想像していましたが、実際は正反対で、淡いパステルカラーでした。話は脱線してしまうのですが、以前名古屋市東区の徳川美術館で、源氏物語絵巻の再製版を見たことがあるのですが、そのときも深い色の水彩画をイメージしていたのですが、パステル(クレパスのようなもの)で描いたような明るい色調でした。話を戻すと、この広島ドームを見学した前日に京都の同志社大学横の道を歩いていたのですが、同大学の建物と原爆ドームの建物のレンガ色が同一で、かつ両者ともに洋風建築でわたしにとってはいずれも不思議なことでした。ながめていて、原爆ドームについては、建築されたときにこの姿になることが運命づけられていたのではないかと神がかりのように思えました』
 次が、二度目の時の感想メモです。
 『夏の暑さで視野がぼやけてしまいました。4年前に来たときは秋でした。パステルカラーの明るい建物に感じましたが、今回は暗い雰囲気を感じました。季節や朝・昼・晩で印象が変わるのでしょう。(こちらの本に紹介がある平和公園にある折り鶴を上にかかげた少女像を見て)この像を長い間ながめていました。胸にぐっとくるものがありました』
 原爆ドーム:広島県産業奨励館(ひろしまけんさんぎょうしょうれいかん)

 物語の設定では2005年(平成17年)のことですから、プロ野球広島カープスの本拠地は、広島市民球場です。現在はマツダスタジアム広島(2009年竣工、供用開始)に変わっています。先日、九州博多へ行ったときに、新幹線の車窓から見えました。
 広島市民球場だったときのことが書いてあります。『たる募金』。たるの中に募金を入れてもらい球場のために使用する。広島カープは、ほかの球団のように、スポンサーとして、特定の企業をもたない市民球団としてスタートしています。

相生橋(あいおいばし):原爆投下のときの目標地点だった。原爆ドームとか昔の広島市民球場の近くにあります。

 物語は、平和公園内の説明が延々と続きます。
 建物疎開(たてものそかい):空襲が来る前に建物をあらかじめ壊して、火事が延焼しないようにしておく。

 この物語は、原爆の話と、超高齢者の認知症の話が並べてあるような印象です。

ミノル:リョウタの祖父シゲルの兄。

 平和公園あたりを中心において、広島市街地を背景に、超高齢者であるレイのひいおばあさんタヅ(別名ヘロゥばあさん)の記憶の中にある原爆投下時の世界が広がります。
 タヅは、原爆で亡くなった自分の息子の小学一年生タケタショウタ(リョウタの祖父シゲルの兄ミノルと同級生。シゲルも原爆で亡くなった)を探しているのです。(さがしている)

 149ページで、この本のタイトル、『ぼくはうそをついた』の意味がわかります。
 
 お盆の時期が近づいています。
 たまたまこの本を読み終える前日に、わたしたち夫婦は東京見物で、東京九段下(くだんした)の駅から出て、靖国神社(やすくにじんじゃ)へと歩いていました。
 靖国神社には、戦争で亡くなった人たちの霊(れい。魂たましい)が祀られています。(まつられています:尊敬し心をなぐさめ感謝する)。政治的にはいろいろ考えの対立もあるようですが、関係者遺族にとっては、心休まる場所でしょう。わたしたちが訪れたときは、全国各地から寄せられた個人名や組織名などが書かれた小型の黄色い提灯(ちょうちん)をたくさん取り付ける作業をされていました。戦没者の遺族会が関係しているのかもしれません。7月13日土曜日からなにか行事が開催されるようすでした。
 戦争とは違いますが、邦画、『異人たちとの夏』の内容も、ご先祖様を大切に思ういい映画だったことをふと思い出しました。亡くなった若き日のおとうさんおかあさんが、息子である片岡鶴太郎さんの目の前に現れて、おまえもなかなかたいへんだなあとなぐさめてくれるのです。しみじみしました。状況としては、異人たちとの夏ではなく、死人たちとの夏です。こわくはありません。だって、親子なんですもの。

 こちらの物語では、リョウタは、タケタショウタになり、レイは、ミノルになったのです。  

Posted by 熊太郎 at 06:45Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2024年07月08日

優等生サバイバル ファン・ヨンミ

優等生サバイバル -青春を生き抜く13の法則- ファン・ヨンミ作 キム・イネ訳 評論社

 韓国の青春文学です。
 韓国は勉強の競争が厳しく激しいらしい。日本よりもきついと聞いたことがあります。
 韓国の若い人たちは勉強に追われている。
 本のカバーに、『テスト、課題、進路、SNS……』とあります。一日24時間では足りなさそうです。 体を壊したり、心が折れたりしなればいいのだけれどと心配になります。
 青春時代は、長い人生の中では短い期間です。人生は、社会人になってからがはるかに長い。
 青春時代にいられるは、一時的な期間です。やがて、その時期を抜けるべきときがきます。おとなになったら、やりたくないことでもやるべきことは、気持ちに折り合いをつけてやらねばなりません。そうしないと食べていけません。(生活ができません)。やりたくないことをやらないのはこどもです。
 さて、この本には、どんなことが書いてあるのだろうかと楽しみにしながら読み始めます。

 勉強、勉強ですが、まわりのおとなを見渡すと、あんがい読み書き計算が十分にできないまま働いている人はたくさんいます。英会話ができない人などは山ほどいます。大卒の人でも、文字は毎日手書きなりで書いていないと漢字も文章もかけなくなってしまいます。歳をとると、住所氏名を書くだけでも大変になります。漢字をたくさん書ける人は少ない。ましてや、文章を書くことはとてもハードルが高い。
 それでもみんな働いて稼いでいます。なにか、得意なことを生かして働くのです。
 わたしは、仕事は、才能と努力、そして、人間関係だと思っています。

 サバイバル:厳しい条件の世界で生き残ること。

パン・ジュノ:作中では、『ぼく』のこと。高校1年生で優等生。トゥソン高校に通っている。人当たりよく、ルックスもそこそこいい。シミン中学校卒業。『ぼく』が語りながらストーリーを進行します。両親と離れて叔父と暮らしている。両親は、父親が大腸がんの新薬治療のため夫婦で別の土地にいる。パン・ジュノは、ヴィラと呼ばれる低層集合住宅の201号室に住んでいる。リビングでゲームをする叔父さんがいる。ジュノと同級生男子のキム・ゴヌは、女子と付き合ったことはない。けっこうジュノのことを好きな女性は多いが、本人はそのことに気づいていないそうです。
パン・ジュノの父親は医者です。医療系ボランティアの仲間たちと病院をつくった。大金を稼ぐ医者ではない。無料診療、内戦地域での医療活動などをしていた。
父親は今、大腸がんのステージ3(ステージ4が最も重い)で闘病中だそうです。仕事はしていない。母親と父は、忠清道(チュンチョンド)というところでがんの治療に専念している。
パン・ジュノは、叔父と都市部(たぶんソウル)で暮らしている。パン・ジュノは、女子に対する片思いを力に変えて耐えてきたそうです。
パン・ジュノは、医師をめざしていたが、今は、歴史を学んで職業にしたいと思っている。
学校での教室は、校舎の3階にある。

チョ・ハリム:女子。高校生。可愛い。中学時代に芸能事務所の練習生になったことがある。演劇スクールを中途でやめている。なにか、問題がある女子らしい。アイドルになりそこねているのか。プロアナ(拒食をライフスタイルにしている。死ぬほどダイエットすること。チョ・ハリムは、死ぬ寸前までいって、医者に止められたようです)だそうです。なんのことかわかりません。
読んでいて、ルックス(見た目)だけがいい女子という印象があります。本人は自分のルックスがいいことに自信をもっていて、男からふられると激高します。
別の本の小説で読んだことがありますが、イケメンの男と付き合ったら、『なんか違う』という感覚が女子に生まれて女子が去ったというパターンがありました。自分が理想とした頭脳が、イケメンの脳みその中にありませんでした。

キム・ゴヌ:ジュノの同級生男子。マンション住まい。正読室のメンバーには選ばれなかった。

 サブタイトルが、『青春を生き抜く13の法則』ですから、13の法則が目次のように提示されています。
1 名前を呼ばれても慌てないこと(あわてないこと)
2 強風に備えること
3 曲者(くせもの)の登場に動揺しないこと。

 なんだか、NHK朝ドラ、『虎に翼』の週ごと毎週提示されるテーマのようです。

4 トッポキは食べて帰ること
 トッポキ:餅(もち)を使用した韓国料理。餅炒め(もちいため)。日本語では、トッポギと表記されることが多い。
5 どれもダメだった時は、ひと眠りすること
6 どうしてもダメな時は、思い切って白旗をあげること
7 敗北にもくじけないこと
8 目の前にあることを、「ただやる」ってこと
9 メニューが今ひとつの時はパスすること
10 元気のない友達には、おかゆを持っていくこと
11 思いを口に出すこと
12 大海原を想像すること
13 猫かと思った時は、もう一度見ること
(読み終えてみると、ピントこない項目が多い。韓国人と日本人の受け止め方の感覚が異なるのかもしれません)

 さて、どんな話だろうか。
 シチュエーション:場所、状況、立場、情勢
 正読室(「せいとくしつ」と読むのでしょう):図書室のことらしい。なにやら選ばれたメンバーが利用するような書き方がしてあります。(その後読み進んで違っていました。自習用の教室で、本作品の場合は、選抜された30名が使用できる。自習のために室内環境と設備が充実している部屋だそうです)
 パン・ジュノは、チョ・ハリムに誘われて、土曜日にどこかへ行くらしい(デート?)
 なお、正読室は、建物の3階にある。3年生用の正読室は図書室の隣にある。1・2年生用は、廊下の行き止まりにある。
 
 夜間自習:放課後学校に残って自習すること。

 恋愛において、『行動派』と『自然派』があるらしい。
 発情する男ふたりです。こういうときは、空振りになるパターンです。

(つづく)

 古色蒼然(こしょくそうぜん):長い年月がすぎて、ひどく古びて見えるようすのこと。
 スティーブ・ジョブズ:アメリカ合衆国の起業家。Appleの共同創業者のひとり。1955年-2011年。56歳で病死。
 バラク・オバマ:アメリカ合衆国第44代大統領。1961年生まれ。62歳。
 ヴィラ:戸建てタイプの宿泊施設。

 チャン・ジョン・ファン:家庭教師。テスト問題を予想する名人。
 
 ミン・ビョンソ:男子高校生。幼稚園と小学校が、ジュノと同じだった。学校では、2組。正読室の30人のメンバーに選ばれる能力をもっているが、そこは利用せずに、帰宅して家庭教師から学んでいる。
コア部(時事討論サークルの名称)に入部申請をした。母親とこどものころ、カナダに移住歴あり。主人公のパン・ジュノとは学習面ほかでのライバル関係となっている。模試では学年トップ、癒し系のイケメン、おしゃべりじょうず、性格良さそう。ボランティア活動は、総合病院でするつもり。医師になることが目標。
 パン・ジュノに、こどものころに誕生日のプレゼントであげた、『ティモン(ライオンキングに登場するミーアキャットの人形)』を返してくれと要求する。ちょっと頭がおかしい。知能は高度でも、思考に幼稚な面あり。
 成績は学年トップ。
 父親の不倫で、家庭は一度壊れて、現在は継母が家にいる。実母はカナダにいる。

 レベル・マックス:よくわかりませんが、ゲームで、最高地点というような意味のようです。

 オフ講:オンライン講座の逆。普通の面と向かってする講義ということか。
 ソシオ・パス:けんか、攻撃、怒りやすい。(おこりやすい)。無責任。
 
 25ページまで読んで、韓国の青春時代とは、学力競争のなかにあって、息が詰まるほど狭苦しい感じがします。

(つづく)
 
 水曜ステージ:音楽のリズムに合わせて生徒が五人踊っている。毎週水曜日の高校の昼休みに中央昇降口で、ミニステージを開催することがトゥソン高校の伝統だそうです。バンド部、ダンス部、器楽部などが演技を披露している。

 コア:時事討論サークルの名称。入部申請をして入部する。部員となる。大学進学率が高いメンバーである。選抜方式。クラス分けテストの成績表と読書感想文の評価で入部が決まる。課題図書は、『これからの「正義」の話をしよう マイケル・サンデル(パン・ジュノが選んだ)』か、『すばらしい新世界 オルダス・ハクスリー』、『二重らせん ジェームス・D・ワトソン(キム・ゴヌが選んだ)』のいずれかの本から選ぶ。

 いまどきの高校生は、読書感想文は、ノートパソコンでつくるのか。
 原稿用紙に消しゴムをごしごしさせながら、鉛筆書きをしていた昔がなつかしい。
 なんでもかんでもデジタル化で、人間はこのさき幸せになれるのだろうか。デジタル事業推進で金銭的に豊かになるのは、デジタル産業のトップだけのような気がします。

 読んでいると、異様な世界が目の前に広がります。
 学力優先の空間です。
 成績で上下関係ができます。
 成績が上位の者が、下位の者を見下します。

 弘大(ホンデ):街の名称。若者に人気がある。
 ジュノは、チョ・ハリムとデートしますが、カップルとしての実感は湧かないままデートは終わりました。

 スムージー:野菜やくだものを組み合わせてつくるドリンク(飲み物)。

 コンセプト:概念。基本的な観点、考え方。

 コアの入部最終審査に、チョ・ハリムとキム・ゴヌのふたりは合格します。ふたりとも、シミン中学出身です。新入生の合格者は全員で9人です。活動は2週間に1回のペースです。
 
 レンギョウ:落葉低木広葉樹。黄色い花がたくさん咲く。
 物語の中で咲いています。季節は、春が近づくころです。

 ノ・ユビン:新入生女子。時事討論サークルである『コア』の部員。水曜ステージでダンスを踊っていた。警備員のおじさんの脚立(きゃたつ)を支えていた。どうも、この先、パン・ジュノは、このノ・ユビンが好きになるようです。学校での教室は校舎の2階にある。

(つづく)

 バリー:両親が飼っている犬の名前。父親は、抗がん剤治療をしている。

 パン・ジュノとチョ・ハリムの恋人関係が消滅します。
 チョ・ハリムの話を一方的に聞かされる関係に、パン・ジュノが切れました。(怒った(おこった))

(つづく)

 パク・ボナ先輩:『コア(時事討論サークル)』の会長。高校2年生女子(韓国名は性別がわかりにくいです)。予備校街にあるスタディカフェで、2週間に一度のコアの活動がある。パク・ボナのファミリーは、エリート一家で、父親は実業家、母親は弁護士、親戚には教授や国会議員もいる。勉強に厳しい。ソウル大学のロースクールに行くよう強制されている。ロースクール:大学院課程。法曹(ほうそう。裁判官、検察官、弁護士など)を養成する。この女性は、将来に向けて、わが道をいく人です。

 チョン・ホビン:サッカー選手。ユビンが、ファンクラブに入っている。背番号は29。

 ヒョウンジュン:中学2年生のころ学力がトップだった男子。

 サークルのグループチャット:複数人が参加するチャンネル内でのチャット(おしゃべり。文字を入力して会話をかわす。わたしは、そんなものはキライです。声を出すならまだしも、文字だけのやりとりはむなしい。ばかばかしい)。みんな、人工知能ロボットになろうとしているように見えます。

 “無気力な世代と嫌悪”
 昭和40年代に、若者について、『三無主義』という言葉があったことを思い出します。『無気力、無関心、無責任』です。時代が変わっても課題は同じですな。その後、三無主義に無感動も加わった記憶です。

 ポン・ジュノ:韓国の映画監督、脚本家。作品として、『パラサイト 半地下の家族』。1969年(昭和44年)生まれ。54歳。
 ピエール・ブルデュー:フランスの社会学者、哲学者。2002年(平成14年)71歳没。

 ポリコレ:ポリティカル・コネクトネス:不快感や不利益を与えないための中立的な表現。政治的正しさ。政治的妥当性。

 ヤマボウシ:落葉中香木。白い花が咲く。
 カシワ:落葉高木。
 ロウル:タヌキの昔の呼び方。(伏線になります)。見ると幸運が訪れるそうです。学年トップになれる。
 
 勉強することの話が延々と続きます。つまらない。

 ゴヌが、恋をしたいと訴える。今年のクリスマスは絶対に彼女と過ごすとアピールする。カノジョとかカレシとか、なんだか、所有物のようです。
 
 学年トップコレクター:89ページにこの単語がありますが、ちょっと意味をとれません。収集家ではない様子です。

(つづく)

 オ・セジュン:ゴヌのクラスメート。兄がいる。兄が、パク・ボナ先輩と同じクラスだった。

 Kリーグ:韓国のプロサッカーリーグ

 いろいろ考えて、パン・ジュノは、将来の目標について、医師から歴史学者のような仕事に進路変更をしたい。
 父母の日に、離れて住む両親に会って話をしたい。そして、両親といっしょに暮らしたい。両親がいる土地の高校へ転校したい。
 同じように、ノ・ユビンは、こちらは転校することが確定しています。1学期の8月までで終わり。実業系の高校に転校する。大学へは行く気はない。もともと実業系の高校にある観光学科へ行きたかったが父親が反対していた。ようやく父親を説得できたとのこと。旅行会社勤務を経て、自分の旅行会社をもちたい。大学へ行っても、将来の仕事のことを考えるといいことないと考えています。

 いっぽうゴヌは、パク・ボナ先輩と付き合いたい。パク・ボナ先輩が好きだそうです。いろいろあります。
 ゴヌはさしあたって、勉強をしたい。

 ブブゼラ:南アフリカの楽器。口で吹く。こちらの話では、サッカーの応援で使用する。プラスチック製。

 韓国の学期制:2学期制。1学期は3月スタート。入学式は3月にある。2学期は9月からスタートする。

 わたしが思うに、仕事というのは、才能と努力と人間関係です。
 自分の生まれ持った才能が、どの分野だったら発揮できるのかを考えてがんばれば、仕事は続くと思うのです。自分はこれしかできないから、これを仕事として続けていますという人は多い。

 学校というとても狭い世界の中でのことが詳しく書いてあります。とても狭い。

 転校についての不安などが書いてあります。
 わたしなんぞは、転校は何回も体験したし、仕事を始めてからも、人事異動による転勤は何度も体験しました。だから、読んでいて、転校はイヤですなどという雰囲気で書いてあると、そんなことは問題にはならない。イヤだなどと考える余地もないという気持ちになってしまうのです。
 人によって違うのかもしれませんが、わたしは変化することをなんとも思わない人間です。
 どこでどうなろうが、やるしかないのです。

 包菜(サンチュ):葉物野菜で焼き肉包んで食べる。

 競争に勝った人に、案外、いい人は少ない。むしろ、負けた人に、いい人が多い。

 民間のスタディルーム:レンタルできる自習室。

 このころの恋愛で(青春時代)、カレシとかカノジョというのは、『人間』ではなく、『商品』のようなものという感覚があります。装飾品のような、所有物であったりもする。
 そんなことより、まず、仕事に就(つ)かなければなりません。経済的な支えがなければ、恋愛の先にある結婚までとどりつけません。

(つづく)

 ペーパーテストの問題を解く能力と、実際に仕事をしてお金を稼ぐ能力は違います。
 そして、お金がなければ、生活していくのに困ります。
 韓国においては、学力重視に非常にかたよっている社会背景があって、個々の高校生たちの将来に対する希望とか夢があって、この小説は、韓国における教育現場の社会背景と学ぶこどもんもの将来への希望が一致していないことを題材にしてある物語です。

 いまどきの若い人は、SNSがないと生活できないのか。
 SNSの歴史はまだ浅く、2010年(平成22年)ぐらいから社会に浸透した記憶です。
 SNS世代はある意味、しんどい時代を生きているように見えます。
 SNSにのめりこむと、人としての創意工夫に満ちた空間が壊れていくではなかろうか。
 物語の中では、自分に対して従順でなかった異性の同級生に対して、ストレートではなく、暗喩(あんゆ。たとえ。この物語の場合、『鳩の目玉(をした女)』)を用いてねちねちと痛めつけるようなことをSNSに投稿をする学力優秀者が現れます。

 オギャーとこの世に生まれたとたん、お金や有価証券や不動産などがからだにくっついてくる富豪のところに生まれたあかちゃんがいます。生まれたとたん、一生働かなくて生活していけるのです。いっけん、うらやましいのですが、それは、不幸なことです。夢のない人生だからです。この物語の中では、そういうこどもはドラッグ(薬物)中毒になっていきます。お金があってもむなしいのです。

 『統制の所在』:すんなり意味をとれないのですが、学校の教師の対応を指しているのでしょう。学習について、やる気のない生徒を置き去りにするのです。成績が優秀ではない生徒は学校にとってはいらない存在なのです。

 主人公のパン・ジュノが、自己主張を始めました。
 正読室の利用をやめると宣言します。
 教師たちからは何の反応も返ってきません。やめたい奴はやめればいいのです。引き止めはありません。
 学力優秀な特定の生徒だけが人間扱いです。
 主人公は、『自分のことを自分で判断して、決定して、実行する。そして、ふりかえりをして、また前へ進む』という一連(いちれん)の行動ができるようになります。
 『……だれかが決めた基準で流されている限り、ぼくは永遠に不安の奴隷として生き続けるしかない……』
 
 正解自販機:登場人物のうちのだれかのこと。

 言葉の聞き間違いについて書いてある部分があります。
 韓国の言語であるハングルだから起きる意味のとりかた間違いなのだろうと推察しました。
 どちらにもとれる言葉があるということには、不安定さがつきまといます。
 書いてある内容はおもしろいけれど、ちょっと怖い(こわい)です。

 本アカ・サブアカ:SNSで、ひとりの人間がふたつのアカウントをもつ。アカウント:個人認証情報。IDとパスワードをもつ。本アカが主に利用するもの。サブアカが、補助的に利用するもの。

 シールド:守って保護してくれるもの。

 釜のふた:パン屋の店名。ベーカリー(パン・洋菓子販売店)

 自由の海:社会のことだと受け取りました。人生は、学校を出てからがはるかに長い。もうすぐこの本のラストですが、青春時代のこういったことは、何十年も先に思い出すものです。もう、とおーい過去になっています。そして、青春時代のあのときに約束したラブは、たいていかなっていないのです。  

Posted by 熊太郎 at 06:31Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2024年06月27日

図書館がくれた宝物 ケイト・アルバス

図書館がくれた宝物 ケイト・アルバス・作 櫛田理恵・訳 徳間書店

 イギリスが舞台の児童文学です。
 時代は第二次世界大戦中の1940年(昭和15年)6月で、ロンドンから始まります。
 両親を亡くして祖母に預けられていた三人きょうだいがいるのですが、親代わりだった祖母が亡くなってしまいました。祖父はいません。こども三人が家政婦さん付の屋敷に残されました。
 弁護士が出てきて、空襲を避けるためにいなかへ疎開するという流れのようです。学童疎開です。とりあえず、18ページまで読みました。

登場する家族は、ピーアス家(け)です。

ウィリアム:男児12歳。5歳のときに両親が死亡した。7年前のことです。両親の死因は出てきません。

エドマンド:男児11歳。4歳のときに両親死亡。

アンナ:女児9歳。2歳のときに両親死亡。三人とも読書が好きなようすで、アンナは今、『メアリー・ポピンズ』を読んでいます。物語の中には、メアリー・ポピンズとジェインとマイケルがいます。学校で寄宿舎生活を送っているような話が出ます。

ケジア・コリンズ:ピーアス家のお手伝いさん。40年間以上ピーアス家でお手伝いをしている。歳をとった女の人。祖母の死亡により雇用契約は解除となる。三人の子どもたちが学童疎開したあと、ロンドンの北西25キロのところにあるワトフォードで、自分の妹と暮らす。

エリナー:三きょうだいの亡くなった祖母

エンガーソル:祖母の弁護士。耳から毛がぼうぼうと生えている。あたまのてっぺんには毛がない。

 こどもたちの後見人決めとか、遺産とかの話があります。

 学童疎開先にある図書館に助けられるという流れのようです。
 
(さて、お話です)
祖母のお葬式の日から始まります。
イギリスですから、教会でお葬式です。
祖母は、外の人たちからは立派な人と思われていたようですが、三人のこどもたちにとってはそうでもないようすです。あんまり悲しくなさそうです。
次男のエドマンドは祖母のことを、あのいやなばあさんと言います。祖母はこどもたちに向かって、『イライラさせる子たちだね』と言っていたそうです。
 
いまいましいドイツ人:(第二次世界大戦)今回の戦争をしかけてきたのは、ナチス・ドイツです。

(ふと気づいたこと)
 本のタイトルは、『図書館がくれた宝物』ですが、本の裏表紙を見ると、『A PLACE to HANG the MOON』と書いてあります。それが、この本の原題ではなかろうか。
 直訳すると、『月を吊るすための場所』です。
 読みながら、タイトルの意味を考えてみます。

セント・マイケル小学校:疎開先の小学校。ロンドンの北のほうにある。

ジュディス・カー先生:学校疎開の責任者。攻撃的で厳しい姿勢がある。裏では、こどもたちがばかにするように、『バーカラス』と呼んでいる。

フランシス:女生徒。三きょうだいの長男のウィリアムに気があるようです。

ウォーレン先生:いい人。優しい。疎開先の小学校で、ピーアス家のこどもたち三人のクラス担任になる。お話の途中で、北アフリカに行っていた(たぶん戦争の兵隊として)夫が亡くなり、夫のもとへ行って小学校からいなくなります。

 どうも三人きょうだいは、お金持ちのこどもたちです。大きな遺産があります。
 お金はありますが、両親も祖父母もいません。お金があっても、まだこどもです。
 遺産目当てに、悪いおとなたちに利用されるわけにはいきません。
 遺産のことは秘密にして生きていかねばならないこどもたち三人です。

 祖母の遺言に、三人のこどもたちの後見人をだれにしたらいいかの事柄が書かれていればいいのですが書いてありません。適任者がいなかったから書けなかったということもあるでしょう。
 こどもたちとお手伝いさん、弁護士の関係者は、疎開先で、後見人になってくれそうな人を探せないかと考えています。だれかの養子になれないかということです。されど、こども三人いっぺんに養子にしてくれるような人はなかなか見つからない。三人バラバラ、ひとりずつなら養親になってくれる人が見つかる可能性が高い。だけど、三人はバラバラにはなりたくありません。
 長男ウィリアム:『つまりね、ぼくらにはお金はあるけど、世話をしてくれる人がいないってことだよ』

 疎開する少年少女は、25万人もいます。

 疎開先へ移動するための荷物の準備をします。
 お気に入りの本を一冊だけ持って行くこと。
 候補として、『ピーターパンとウェンディ』、『アルプスの少女ハイジ』、『小公女』、『ブリタニカ百科事典第四巻(かん。全体だと24巻ある)』、『モンテ・クリスト伯(はく)』
 
 1940年(昭和15年)の話ですから、もうずいぶん前のことです。
 現実のことなら、ピーアス家(け)の3きょうだいはもうこの世にはいないでしょう。
 生きていれば、
 ウィリアムが、96歳
 エドマンドが、95歳
 アンナが、93歳です。
 日本人ならもしかしたら生きている平均寿命ですが、イギリス人だと平均寿命が、80.70歳です。

 シラミの検査:シラミは、大きさ数ミリの小さな虫。人間の血液や体液を吸う。

 『ハーメルンの笛吹男』:ドイツの伝説。ハーメルンは町の名称。笛の音で、こどもたちを町から連れ出した。

 キングス・クロス駅:ロンドンの主要ターミナル駅。昔、わたしがオーストラリアのシドニーに行ったとき、同じ名称の駅がありました。オーストラリアは、イギリスの人たちがつくったということがわかります。たしか、そこで二泊しました。帰国してから、そのとき泊まった場所が繁華街で、ちょっとぶっそうな場所だったと知りました。実際はそんな感じはしませんでした。でも今思うと、ホテルのエレベーターは利用するときにカードキーがいりました。キングス・クロス駅で切符を対面販売で買って乗車しましたが、切符を買わずに自動改札機を力づくで足でストッパーの板を押して通って列車に乗り込む人がいて、すごいなーーと思ったことを思い出しました。

 宿舎:学童疎開先のセント・マイケル小学校のある町でお世話になるお宅のことを『宿舎』という。宿舎の提供者にはお金が出る。宿舎には、終戦まで一時的に滞在する。(だけど、この三きょうだいは、終戦後、どこの家に行くのだろう。これまでのロンドンにある家は空襲で燃えてなくなるかもしれません)

 『モンテ・クリスト伯』:貧しい少年たちのヒーロー、エドモン・ダンテスの物語。日本での題名は、『岩窟王(がんくつおう)』。

イヴリン・ノートン夫人:婦人奉仕団の代表。学童疎開の担当で、いばった感じの女性。

ネリー・フォレスター:ピーアス三きょうだいの疎開受け入れ先の奥さん。明るくおしゃべり。三きょうだいの長女であるアンナ・ピアース9歳を気に入った。夫婦ともに人柄は良さそう。

ピーター・フォレスター:フォレスター家のご主人。優しそう。家は、肉屋を営んでいる。

サイモンとジャック:12歳フォレスター家の双子の兄弟。ピーアス三きょうだいに対して冷たい。いじわるをする。まあ、無理もありません。自分たちの寝室にウィリアム12歳とエドマンド11歳が入ってきて寝るようになりました。もとからいた双子にとっては、侵略されているようなものです。

ネリー・フォレスター(受け入れ先の奥さん)は、もともと、9歳のアンナ・ピアースだけを預かりたかったが、まあしょうがないかというようなようすで、ウィリアムとエドマンドもついでで預かった。

 キャベツとナメクジ亭:パブ(飲み屋)
 アンダーソン・シェルター:家庭用の防空壕(ぼうくうごう)。ドイツの飛行機が空襲に来たら隠れるところ。
 村の公会堂:学童疎開に来たこどもたちを見て、地元の人がどの子を預かるか見に来た場所。
(日本の学童疎開だと、地元のお寺さんとか旅館で、いちどに全員を預かっていたと思います。集団生活、集団行動でした)

ヒュー:学童疎開できた児童。小さい男の子。エドマンドがチョコレートをあげた。
アルフィー:地元のこども。
フランシス:同じく地元のこども。

 イギリスは、6月ぐらいから夏休みで、本来なら学校で勉強はないのですが、このときは、学校が開かれています。疎開に来た児童は、夏休み中ではありますが、午前中9時から12時まで地元の小学校で授業を受けます。
 アンナ9歳は、自分が地元の人たちにとって、『負担扱い』されていることがおもしろくありませんでした。

 フォレスター宅の建物がチューダー様式:建物のデザインなど。イギリス風のデザインの戸建て。
 
 この物語のポイントは、両親がいないけれど、両親が残してくれた財産がたくさんあると、こどもたち三人の未来はどうなるかという点にあります。
 財産を三人の幸せのために、じょうずに生かさなければなりません。亡くなったご両親の願いです。

 他人の家に居候(いそうろう)するとき、心はブルーになります。若かったころ、自分も何度か体験があります。親戚の家だったり、知り合いの家だったりでした。
 気を使います。たいてい、いやがられます。狭くてもいい。汚くてもいい。自分が好きにすごせる空間がほしい。
 相手は、最初はウェルカム(ようこそ)という態度でも、だんだん、やっかい者扱いされます。

 宿泊先の奥さんのネリーさんはいい人なのでしょうが、彼女の希望は、『かわいい女の子がほしかった』であり、アンナ9歳の兄のウィリアムとエドマンドは、しかたなしのおまけなのです。(話の設定として無理があります。現実には、このパターンはまずないでしょう)
 戦争はひどい状況を生みます。戦争はしてはいけないのです。対立しても武力行使はせず、話し合いで解決を図るのです。

 作者は、アメリカ合衆国の児童文学作家です。年配の人かと思ったら若い女性でした。意外です。物語の中身は、現在80代後半ぐらいから90代はじめの人たちが体験したことです。あわせて、場所はイギリスロンドンの郊外です。

 居候先の家族とギクシャクしそうな不穏な雰囲気がただよっています。わざといじわるをするようにつくってある話なら、わたしは流し読みに入ります。つくったじめじめ話を読まされることは読み手にとっては苦痛です。不快な思いはしたくありません。

 疎開野郎(そかいやろう):差別用語。双子のサイモンとジャック12歳が使う言葉。

 お金の話です。
 お金があるといいことのひとつに、優位な気持ちに立つことができるということがあります。
 たとえば、クレーマーみたいな人にひどいことを言われても、心の中で、(ああ、自分はこの人よりもお金をもっているから、この人よりも自分のほうが幸せだ)と思うと、優越感が余裕になって、相手に対する怒りの気持ちが(いかりのきもちが)おさまるということはあります。
 物語の中のこどもたち三人は、まだそういうことが理解できないことが残念です。
 おそらく、こどもたち三人は、本を読むことでつらい境遇に耐えるのでしょう。

 がっしりとした石造りの建物があった。
 『図書館』と書いてある。
 アンナは…… ここがあれば、なにがあってもだいじょうぶ、と思った。

 ひとつの教室で、複数の学年の児童が勉強します。自習が多い。
 9歳と10歳が教室の前のほうで先生の話を聞く。11歳と12歳は、そのうしろで自習です。

 ヨーロッパは、はるか昔から、多くの災害や戦争に見舞われてきた。いっぽう日本は、第二次世界大戦のときに初めて戦闘機や爆撃機の空襲を受ける戦地になりました。
 
 89ページまで読んで思い出した本があります。
 『としょかんライオン ミシェル・ヌードセン・さく ケビン・ホークス・え 福本友美子・やく 岩崎書店』以下は、感想メモの一部です。
 孤独なライオンはどこから来たのだろう。孤独なライオンはだれかのそばにいたかった。
 ライオンは自分のために本読みをしてほしい。自分のために本をもっと読んでほしい。ライオンは人にかまってほしい。甘えたい。甘えるだけでなくて、だれかの役に立ちたい。
 
 もう一冊あります。
 『わたしのとくべつな場所 パトリシア・マキサック 新日本出版社』こちらも感想メモの一部です。
 わたしのとくべつな場所がどこなのかが秘密としてスタートします。登場したのは、おそらく12歳の女の子、パトリシアです。彼女は、とくべつな場所に向かう途中、いくつかの人種差別を体験します。彼女は黒人です。差別するのは、アメリカ合衆国の白人です。
 バスの中のパトリシアは怒っています。黒人席はこっちという案内サインに憤り(いきどおり)を感じているのです。
 公園のベンチには白人専用という表示がありますが、じゃあ、黒人専用のベンチがあったかというとなかったでしょう。白人以外は人間ではなかったのです。絵本の時代設定は、1950年代、今から60年ぐらい前のアメリカ合衆国の社会です。
 この本でパトリシアが行きたいとくべつな場所とは、『公共図書館』を指します。『だれでもじゆうにはいることができます』で結ばれています。

(つづく)

ミュラー夫人(ノラ):図書館の司書。栗色の髪、細かい花柄模様のワンピースを着て、もこもこした毛糸のカーディガンを羽織っている。読書をとおして、三人のきょうだいの心の支えになってくれる。

フローレンス:白髪(しらが)のおばあさん。

 図書館には、<子どもの本>コーナーがあります。

 寄宿学校:イギリスの全寮制の学校。公立と私立があって、男女共学。寮は男女別。初等教育(4歳または5歳から13歳)、中等教育(11歳または13歳から16歳)、そのあとは、16歳から18歳が対象となっている。

 三人きょうだいの家では、こどもは、寄宿学校に通っていた。
 乳幼児のときは、乳母(うば)がいた。
 乳母とは別に、家政婦のコリンズさんがいた。
 でも、両親はいなかった。家族は、きょうだい三人だけだった。

 愛書家:あいしょか。書籍という物体を愛する者。読書家は、本の内容とか読書という行為が好きな者をいう。

 本がたくさん出てきます。書き並べてみます。
 『ブレインストーム教授大あわて』、『きいろの童話集』、『むらさきいろの童話集』、『しっかり者のスズの兵隊』、『火打ち箱』、『魔法の森』、イギリス人は魔法が好きなようです。『小公女』、『赤毛のアン』、なにかと孤児の話が多い。『砂の妖精』、たのしい川べ』、『はなのすきなうし』、『野生の呼び声』、『バスカビル家の犬』、『アンナ・カレーニナ』、『クリスマスのまえのばん』、『ホビットの冒険』、『アラビアンナイト』、『ビロードうさぎ』(最後まで読んで、373ページに、この物語に登場する本を列記してあるページがありました。わたしが読んだことがある本が何冊も含まれています)

 ウィリアムとエドマンドは、ふたりにいじわるをする双子の兄弟サイモンとジャックともめて、彼らの部屋を出ます。ふたりは、アンナの部屋ですごすことにしました。三人きょうだいが同じ部屋です。三人で悩みます。お金があっても、行くところがないこども三人です。
 双子の兄弟の母親であるネリー・フォレスターは、いい人ですが、きちんと自分のこどもが何をしているのかが見えていません。こどもに甘い親です。そして、双子はずるがしこい。

 ラディッシュ:ダイコンのこと。

 フランスがナチス・ドイツの手に落ちた。フランスの領土にドイツ軍がいる。
 
 『小公女』に出てくるセーラーはお金持ち。こどもなりに判断したのは、ミンチン先生がセーラーに優しくするのは、セーラーがお金持ちだからに違いないそうです。

 戦争対策として、家庭菜園を使って、野菜をつくる。食糧不足なので、自給自足をする。

 聡明(そうめい):賢い(かしこい)ということ。

 図書館にドイツ人が書いた本を置くことはけしかんことなのか。(グリム童話を書いたグリム兄弟はドイツの人)

 1940年(昭和15年)7月、ドイツ軍がイギリス西部の町や、港を攻撃した。
 イギリスのチャーチル首相はドイツ軍とまだまだ戦う気持ちが強い。けして、ナチス・ドイツには屈しない。(ウクライナの大統領を思い出しました)
 
 映画館で、『ピノキオ』を観た。
 映画のタイトルがいろいろ出てきます。『ランカシャーのラッシー(おとな向けのミュージカル・コメディ)』、『オズの魔法使い』、『白雪姫と七人のこびと』

 153ページまで読んで、(全体は、372ページです)、ふと思ったのです。
 この三きょうだいは、最終的には、図書館で司書をしているミュラー夫人が、三人きょうだいの後見人になってくれるのではないか。(予想が当たるかどうか、これから先を読むことが楽しみです)

 コヴェントリー:イギリスにある都市の名称。航空機とか弾薬とかの工場がある。三きょうだいが学童疎開しているところから40キロの位置にある。のちのちドイツ軍から空襲される場所です。

 夏休みが終わり、村のこどもたちが小学校に戻って来て、村のこどもたちと疎開で来ているこどもたちの間に溝が生まれています。
 ふと思い出したのは、2011年(平成23年)の東日本大震災の時に、各地へ避難した東北のこどもたちが、避難先で苦労したことです。(原発の)放射能がうつるとか、ばいきん扱いするとか、賠償金をもらっただろうとか、国を問わず、人間の現実のありようとして、いじめがなくなりません。残念なことです。人をばかにしたり、いじめたりして、うれしがる人がいます。

 1940年(昭和15年)9月7日、ロンドン大空襲。

 戦争というのは、国民と国民が戦うのではなく、独裁者とそのグループの判断でするものだと理解できます。
 国民は、権力闘争に巻き込まれるのです。独裁者に反対すると、拘束されたり、殺されたりするのです。

 エリザベス王女(1940年当時のこととして本に記述があります):エリザベス二世。1926年(大正15年)-2022年(令和4年)96歳没。女王としての在位期間:1952年(昭和27年)-2022年(令和4年)70年間。

 地元のこどもと疎開で来ているこどもが対立します。やられたらやりかえします。仕返しとか、復讐です。混乱します。

 ミュラー夫人の家庭菜園講演会に人が集まりません。集まったのは、講師のミュラー夫人を入れてもたった6人です。
 いばりんぼうの婦人奉仕団所属イヴリン・ノートンが月間に政府関係者を呼んで、盛大に家庭菜園の講演会を開くからだそうです。だから、人が集まらない。
 
 いろいろあって、エドマンドが、双子きょうだいの罠(わな)にはまって、三人きょうだいは、フォレスター家から追い出されそうです。たいへんだ! フォレスターのおじさんもおばさんも、結局は自分たちのこどもであるいじわるな双子兄弟の味方です。ピーアス家の三きょうだいは、他人です。

 ああ、三人きょうだいは、フォレスター家から追い出されてしまいました。

 次に見つかった家は、かなり貧困そうです。
 三人きょうだいのめんどうをみるともらえる手当目当てで、こどもを預かる女性宅です。夫は、戦争に行っています。
 サリー・グリフィス:こどもが3人いる母親で主婦。住所は、リビングストーン横丁四番地。
 ペニー:サリーの長女。ちょっと大きい子と書いてあります。5歳か6歳ぐらい。
 ヘレン:サリーの次女。2歳か3歳。
 ジェイン:サリーの三女。1歳ぐらいか。
 ロバートジュニア:まだあかちゃん。サリーの長男。

 三人きょうだいを預かると国からもらえる手当の金額。
 1人目:10シリングと6ペンス。
 2人目以降:8シリングと6ペンス。
 3人分の配給(食べ物を支給してもらえる)
 こども3人の昼食は学校給食で支給される。

 生活習慣として、月曜日は洗濯、金曜日の夜はおふろ、おふろは週に一回しか入れない。トイレは屋外にあって汚い。虫がいそうです。
 さあ、たいへんだ。(だけど、わたしがこどものころの日本のいなか暮らしもそんなものでした)

 司書のミュラーさんにお世話になることはできないそうです。
 なにか、事情があるようですが、まだその理由は明かされません。
 婦人奉仕団代表のイヴリン・ノートン夫人が言います。『ノラ・ミュラーは、子どもを預かるのにふさわしくありません』
 
 デヴォン:イギリス南西部の地域。

 三人きょうだいの亡くなった両親の話がときおり出ます。
 長男のウィリアムが、末っ子のアンに話してくれます。たぶんつくり話です。
18ページ:母さんが小さかったころ、友だちがローラースケートで走ってきて、母さんの足の小指にぶつかったんだって。それで、折れちゃったんだ。
106ページ:父さんはラディッシュ(ダイコン)がきらいだったんだ。
171ページ:母さんはこどものころ、タクシーの運転手になりたかったんだ。
190ページ:結婚したとき、父さんと母さんは、それぞれのタオルに刺繍(ししゅう)で名前をいれてたんだ。
 
 ウォーレン先生のご主人が北アフリカで亡くなってしまいました。たぶん戦死でしょう。ウォーレン先生はしばらく学校には来ることができないそうです。優しい先生がいなくなって、厳しい先生が残ってしまいました。カー先生のことです。

 三きょうだいは、お金持ちの家のこどもだったので、こどもたちだけで買い物をしたことがありません。ロンドンの家にいたときは、お手伝いのコリンズさんがそばにいてくれていました。残念ですが、三きょうだいには、生活能力に欠けた部分があります。
 以前お世話になっていた肉屋のフォレスター家に買いものに行って、父親が、自分の息子たちが三きょうだいにひどいしうちをしたことを知っていて、三きょうだいを家から追い出したことがわかりました。失望するアンナたちです。それが、人間界の現実なのです。寛容になって、心に折り合いをつけるしかありません。しかたがないのです。
 三きょうだいはみじめですが、将来のためにしておくべき経験です。三人はお金持ちの家に生まれて、これまで甘やかされていたのです。

 入浴の話が出ます。
 わたしは、外国人は、日本人のように浴槽につかることはないと思いこんでいました。
 外国人はたいていシャワーだけの利用です。
 でも、この本には、浴槽に入浴すると書いてあるので意外でした。
 あたたかいお湯にゆったりつかれるお風呂ならいいけど…… と書いてあります。

 お手伝いだったケジア・コリンズさんは、リウマチだそうです。リウマチ:関節の炎症で、関節の機能が失われる。放置しておくと関節が変形してしまう。

 この時代の人たちは苦労されています。
 
 アルフィー:すでにお話に登場している地元のこども。男児。
 アーネスト:疎開に来ている男児。アルフィー宅で世話になっている。

 土曜日です。
 アンナは、グリフィスおばさんが買い物に出ている間に、三人のちびっこのめんどうをみます。
 ウィリアムとエドマンドは、集落であるネズミの駆除に参加します。やっつけたネズミの数だけお金をもらっておばさんに渡します。でもふたりとも、気が優しいというか、気が弱いというかで、苦戦します。ちょっと、男としては情けない。お金持ちのおぼっちゃんだからなのか、考えが甘い。ネズミは害獣(がいじゅう)です。ディズニーのミッキーマウスとは違います。もっと強くなれ! もっと強い気持ちをもて! くそっ、負けてたまるか思え! と応援したくなりました。
 わたしも小学生だったこどものころ、海が近い福岡県の炭鉱住宅で、集落のネズミ退治に参加したことがあります。おとなたちが木造家屋の床下に罠(わな)をかけて捕まえて、麻袋にたくさんのネズミを入れて、こどもの集団でネズミの息の根を止めました。う~む。あまりそういうことは、ここには書かないほうがいいな……
 似たようなことが、こちらの本に書いてあります。
 物語の中で、ネズミ狩りを指導してくれるのはおじいさんたちです。戦争に行かなくていい年齢の人たちが集落に残っています。

 つらい体験をして、ウィリアムとエドマンドは成長しました。
 とくに、エドマンドは、『ありがとう』が言える人間になりました。
 『ありがとう』が言えない人間はダメ人間です。

 両親を亡くした三人の疎開児童たちは、母(というもの)を知らない。父(というものも)知らない。図書館司書のミュラーさんが、母親代わりになっています。

 この本を読み始めて10日ぐらいが経過します。
 自分の頭の中で、ふだんから、主人公のウィリアムとエドマンドとアンナが動いています。本当に生きているみたいに動いています。読書の心地よさがあります。
 本の中では、疎開を始めてから半年がたち、12月、ヨーロッパイギリスは冬を迎えています。
 寒い。1940年(昭和15年)です。終戦は、1945年(昭和20年)ですから、終戦まではまだ遠い。

 アンナ9歳が、グリフィス家にいる4人のちびっこたちのお母さんみたいです。アンナは、ちびっこたちに本の読み聞かせをしています。

 降誕劇(こうたんげき):イエス・キリストの誕生を祝う劇。
 エドマンドが、星の役を演じます。
 ウィリアムは、フランシスに好かれているので、フランシスがウィリアムとヨセフとマリアの夫婦役をやりたいとささやかれますが、どうもウィリアムは、フランシスがお好みではないようです。だんだん女の子は、色気(いろけ。異性を意識した言動)づいてきましたな。

 長頭(ちょうとう):『バスカビル家の犬』に出てくる言葉。人間の風貌(ふうぼう。身なり、顔かたち)として、長頭蓋(ちょうとうがい)。頭の形。頭の前後が長い形をしている。
 
 シラミ:小さな虫。かゆくなる。
 婦人奉仕団による服の交換会でもらったコートにシラミがいたようです。アンナの髪の毛にシラミがわきました。
 図書館司書のミュラーさんが、薬を提供してくれました。
 ミュラーさんの事情がミュラーさんから語られます。
 ミュラーさんのだんなさんは、敵国であるドイツ人だそうです。だから、近隣の人たちからミュラーさんは、よく思われていないそうです。
 ふたりは、イギリスノーザンプロンにある本屋で知り合って結婚したそうです。
ドイツで独裁者が誕生して、軍事化がすすんで、だんなさんは、ドイツにいる両親と妹のことが心配で、ドイツの実家へようすを見に行って、以降行方不明になってしまったそうです。だんなさんがいなくなってから、もうじき3年たつそうです。だんなさんは、ナチス党の人間ではなさそうです。
 人生、いろいろあります。
 
 エドマンドが言います。ぼくらは、疎開児童で、地元の人間から嫌われる。
 司書のミュラーさんは、夫がドイツ人だから、地元の人間から嫌われている。
 おんなじだ。

 読んでいて思ったことです。
 シーンとはぴったりきませんが、むかしのことにしばられて今を生きる必要はないのではないか。今は、今なのだから。

 いろいろトラブルがあって、三きょうだいは、グリフィス家を追い出されるように出て行きました。
 悲惨です。
 いくところがありません。今夜泊るところがありません。
 しかたなく、教会へ行くのです。
 不吉な物語を思い出しました。パトラッシュという犬が出てくる児童文学、動画アニメでした。犬と少年が最後に死んでしまうのです。

 三きょうだいに助け舟を出してくれたのはやはり、図書館司書のノラ・ミュラー夫人でした。

 雪が降り、クリスマスイブなのに、すったもんだがあります。
 おなかいっぱい食べ物を食べたい。
 サンタクロースにプレゼントをもらいたい。
 三きょうだいとグリフィス夫人の間でトラブルのもとになる本、『はなのすきなうし』は読んだことがあります。『はなのすきなうし おはなし/マンロー・リーフ え/ロバート・ローソン やく/光吉夏弥(みつよし・なつや) 岩波書店』、闘牛なのに、闘志がなく、心優しい闘牛用の牛の話でした。お母さん牛がその牛を守ってくれます。

 途中、三きょうだいは、図書館で暮らすことを考えます。(無理でした)
 そんな本が二冊ありました。
 村上春樹氏の「海辺のカフカ 新潮文庫上・下」では、カフカくんが、四国の図書館で寝泊まりの暮らしをします。もうひとり、ナカタさんという人が、東のほうからカフカくんの図書館を目指す内容だったと思います。わたしには好みの設定でした。
 もう一冊が、『図書室で暮らしたい 辻村深月(つじむら・みずき) 講談社』で、エッセイ集でした。

 クリスマスイブに住む場所をなくした三きょうだいです。
 ミュラー夫人の夫がドイツ人、もしかしたら、夫は、ナチス・ドイツの党の味方で、連合国軍の敵ではないか。
 ミュラー夫人自身はイギリス人で、ドイツ人ではないし、ナチスの人間でもないのに、夫婦は一体に見られます。犯罪加害者の親族が冷たい目で見られるのに似ています。自分がやったわけでもないのに、犯罪をおかした親族と同類のように見られます。それが人間世界の現実です。

 読んでいて不思議なのが、宗教です。
 戦時中で、都市部では空襲があるのに、疎開地のいなかでは、クリスマスイブでイエスキリストの生誕を祝います。
 宗教の異様さがあります。クリスマス休戦という言葉がありますが、平和を望むのなら、クリスマスだけではなく、いつだって殺し合いをする戦争はやめるのではないかと思うのです。
 なにか、考え方の基本がおかしい。

 だれも知らないようで、だれもが知っています。
 三きょうだいが、預けられた先で、差別のような扱いを受けていたことを、ご近所さんたちは知っていても、知らぬふりをしているのです。

 世の中には、ひどいことをする人もいますが、優しい人もいます。

 親子で会話がない家が多い。
 家族内での話し言葉は、親から子への命令とか、指示だけになっている。
 気持ちのこもった言葉でのキャッチボールが親子の間でないから、こどもの心がすさみます。
 
 親の役割はただひとつ、こどもに食べさせることです。
 小説そして映画になった、『東京タワー -オカンとボクと、時々、オトン- リリー・フランキー 新潮文庫』では、母親役の樹木希林さん(きききりんさん)が、息子のことをいつも気にかけています。実家は九州福岡で、息子は東京へひとりで出て行くわけですが、いつも息子に、『ちゃんと食べてるか?』とたずねます。息子が、『食べてるよ』と返事をすると、母親は安心するのです。母親にとってのこどもに対する役割はただ一点なのです。食べさせることだけなのです。

 ミュラー夫人と三きょうだいの食事風景があります。
 幸福があります。

 マーティン:ミュラー夫人の行方不明になっている夫の名前。

 外国は寝るときはベッドなので、日本のように和室でふとんで固まってというようなスキンシップがしにくいやり方です。

 こどもは寝る前に、おとなに本を読んでほしい。
 本の中身というよりも、そういう時間帯が、こどもは好きです。

 クリスマスの朝は、ひとりだけでは迎えたくない。
 
 ミュラー夫人の家には本がたくさんあります。

 本のプレゼントがあります。紙の本です。いまどきの電子書籍だと渡しにくい。
 ラジオ放送があります。まだ、このころ、テレビは普及していなかったのではないか。
 
 新年が近づいています。
 以前の家に置いてきた三きょうだいの荷物を取りに行かねばなりませんが、グリフィス夫人とけんか別れしたので三きょうだいは、グリフィス夫人宅へ行きにくいのです。
 ミュラー夫人がひとりで行ってくれることになりました。ありがたい。
 ミュラー夫人は優しい。長男に声をかけてくれました。『……特にあなたの場合、がんばりすぎたと思うの…… もうがんばらなくていいいから』
 
 ときおり出てくる言葉が、『比喩(ひゆ)』です。
 -あることを、別の言葉でたとえること-

 ラバ:オスのロバとメスの馬の交配種。北米、アジア、メキシコに多い。
 セントポール大聖堂:ロンドンにある。
 
 涙なくしては読めない316ページです。
 長男ウィリアムと、次男エドマンドの会話です。
 長男が9歳の長女をかばって、両親についてのつくり話をしていることを次男が長男に指摘します。
 母親の話として、ひとつだけ本当の話があります。この本の原題に関するものです。
 『A PLACE to HANG the MOON』と書いてあります。それが、この本の原題ではなかろうか。
 直訳すると、『月を吊るすための場所』です。
 母親が、三きょうだいは、夜空に輝く、『月』みたいだと言っていたそうです。
 でももう、母親はこの世にいません。
 次男のエドマンドが言います。『…… ぼくらのこと、お月さまみたいだって思ってくれる人に、お母さんになってもらうんだ』
 そして、『…… これまで、いろいろとありがとう。兄さん』
 (考え方、感じ方として、三きょうだいだから月が3つあるのではなく、三きょうだいを一体のものとしてとらえて、ひとつの大きな月を思い浮かべたほうがいい)

 (以前疎開に来た時にエドマンドがチョコレートをあげた)ヒューからエドマンドにチョコレートのお返しがあります。
 
 バチがあたります。(悪いことをすると、悪いことをした人に、神さまや仏さまが罰(ばつ)を与えること)
 人をいじめた人間にはバチがあたります。
 わたしは長いこと生きてきて、バチが当たった人を何人か見たことがあります。うまくいかないことが起きます。

 『……竜がそばにいる以上、竜に気を配るしかないってね?』(ホビットの冒険から)

 ベティ・バクスター:元教師。園芸好き。ノラ・ミュラー夫人の協力者。

 ノラ・ミュラー夫人のドイツ人夫マーティン・ミュラー氏が亡くなっていたことが判明します。
 ドイツベルリンで8月に空襲があったそうで、空襲のときに亡くなったそうです。
 1940年(昭和15年)8月にドイツのベルリンで空襲があった。
 調べたら、8月24日にドイツ軍がイギリスロンドンを爆撃して、8月26日にイギリス軍がベルリンを報復爆撃しています。仕返しです。イギリス人妻ノラ・ミュラー夫人とドイツ人夫マーティン・ミュラー氏のつながりを考えると複雑な気持ちになります。
 やられたらやりかえす。人類が大昔からやっていることです。これから先もなくなることはないのでしょう。そして最後に核戦争になって、人類は滅ぶというのは映画や小説のテーマになる素材です。

 三きょうだいにとっての今の目標は、自分たちを養育してくれる親探しです。
 両親から受け継いだ相続財産というお金はあっても、親がいません。
 『…… ぼくらのことを、お月さまみたいだって思ってくれる人が、お母さんになる人なんだ』
 363ページに答えがあります。ノラ・ミュラー夫人の言葉、『わたしにはあの子たちが、暗闇をてらしてくれるお月さまみたいに思えるのよ』

 ウィリアムは誕生日(1月11日)を迎えて13歳になりました。(人生は、まだまだはるかに長い)
 誕生日祝いに自転車のプレゼントがあります。

 こどもたちが思う自分たちの母親になってほしいノラ・ミュラー夫人は、三きょうだいが、親なし子であることを知りません。
 ノラ・ミュラー夫人は、空襲がおさまって、戦争が終わるころに、三きょうだいは、ロンドンにいる親の元へ帰るものだと思いこんでいます。

 『勝利のための菜園運動』(食糧不足の戦時中のこととして、食料を自給自足で確保するために庭や公園を畑にする運動)日本と似ています。日本でも空いた(あいた)土地を畑にして野菜や穀物をつくっていました。

 『ミュラーさんとエドマンドは、それぞれやるべきことにもくもくと取り組んだ……』

 ホビットの冒険に出てくる竜のような人物→ジュディス・カー先生。おこりんぼさん。本では、こわい年寄り魔女と表現があります。

 ドイツ人の夫がイギリス空軍によるドイツベルリンの空襲で死んだから、イギリス人であるノラ・ミュラー夫人に対するまわりのイギリス人たちの気持ちがノラ・ミュラー夫人を許す方向へ気持ちが変化したという皮肉があります。ひにく:遠回しに、敵国ドイツを嫌い、自国イギリスを愛す。

 野菜を育てて食べる。農業を賛美するメッセージがあります。
 『疎開児童たちの勝利のための菜園』
 『…… ぼくは、きたない疎開野郎さ!』
 
 お金はある。でも、親はいない。
 親になってくれる人が見つかった。
 こどもは、いつまでもこどもでいるわけではありません。
 あと、10年もたてば、三人とも自立・自活をしていく年齢になります。
 そのときは親代わりになってくれたノラ・ミュラー夫人に感謝してほしい。
 ありがとうが言える人であってほしい。

 最後まで読んで思い出した本が二冊あります。
 『おいしいごはんが食べられますように 高瀬準子(たかせ・じゅんこ) 講談社』
 『宙ごはん(そらごはん) 町田そのこ 小学館』
 おいしいごはんを食べながら、なんだかんだと会話をすることが、人間であることの楽しみなのです。

 読み始めて終わるまで2週間ぐらいかかりましたが、読みごたえのあるいい本でした。  

Posted by 熊太郎 at 07:28Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2024年06月24日

じゅげむの夏 最上一平

じゅげむの夏 最上一平(もがみ・いっぺい) マメイケダ・絵 佼成出版社

 小学4年生のメンバーです。小学校の夏休み前の時期で、場所は天神集落です。雨傘川(あまがさがわ)が流れています。川には、天神橋がかかっています。天神橋を右に回ると、筋ジストロフィーという病気にかかっているかっちゃんの家があります。
 4人の少年たちが、ひと夏の冒険をします。

アキラ:誠蔵の孫の明。『ぼく』という一人称で、この物語を引っ張っていきます。ぼくのひとり語りのお話です。

山ちゃん:喜一郎の孫の大輔(だいすけ)。両すねに、けがをしたあとにできた血のかさぶたがあります。用水路をとびこそうとして失敗して、けがをしたのです。

かっちゃん:筋ジストロフィーという病気です。筋肉が動かなくなってやがて動けなくなる病気です。保育園だった時はふつうだった。
 今は、ひっくりかえりそうになるぐらい体を左右にふって歩く。松葉づえや車いすを使うこともある。かっちゃんの家の部屋が、4人の少年のたまり場になっている。かっちゃんは、将来、落語家になりたい。落語の演目(えんもく)である、『じゅげむ』の練習をしている。

シューちゃん:政彦の孫の修一。どこでも寝っ転がる(ころがる)。きたないスニーカーをはいている。スニーカーの側面にシューちゃんがペンで、ナイキのマークを書いている。ニセナイキのスニーカーである。

熊吉つぁん:本当の名前は千吉という、へんくつじいさん。じいさんはひよこを飼い始めた。ひよこをニワトリにして卵をとる。卵を産まなくなったら、殺して食べる。
 熊吉つぁんは、40歳のときに、熊とばったり会って、柔道の一本背負いで、熊を投げた。熊は逃げ出した。それから、集落の人たちに熊吉と呼ばれるようになったそうです。
 周囲からへんくつ者といわれているが、それは誤解で、人付き合いがにがてなだけだそうです。
 熊吉つぁんが、熊とたたかったときのことが書いてあります。熊吉つぁんは、無我夢中だったそうです。

 参考までにわたしが、以前読んだ本を紹介します。
 『クマにあったらどうするか アイヌ民族最後の狩人 姉崎等 聞き書き・片山龍峯(かたやま・たつみね) 筑摩書房』、感想メモの一部です。
 さて、クマに出会ったら人間はどうしたらいいかの話です。
 逃げてはいけない。逃げることは一番ダメ。クマに背を向けてはいけない。棒立ちに立つ。(姉崎さんは棒立ちでクマをにらみつけた経験が何度もあるそうです)クマの目をにらみつけて、ウォーとクマを威嚇する大きな声を出す。その繰り返し。クマは立ち上がるが、人を襲うために立ち上がるのではなく、自分の周囲の安全を確認するために立ち上がる。クマは安全な方向を見極めて自分の逃げ道にする。
 クマの目をにらみ続ける。クマよりも人間のほうが弱いとクマに思わせてはいけない。
 ほかにも、クマはヘビが苦手なので、ヘビのように見えるものを使って追い払うという手法が紹介されています。長いものをふりまわして追い払う。ベルトでもいいそうです。
 クマから逃げるのではなく、逆に、クマを追いかけるぐらいの気迫をもつ。(なんだか、人生のあり方にも通じるものがあります。困難にぶつかっても乗り越えて克服するのです)
 クマは、見た目は大きくても臆病な動物だから人間を恐れて逃げていくそうです。
 立ち向かう時に『棒』は使わない。たくさん枝がついた『柴(しば)』を使う。クマの鼻の前で振ったことがあるそうです。クマが嫌がったそうです。
 農機具のクワをひきずって逃げると、クマはクワを飛び越えてこない。なにか、物を引きずって逃げると引きずっている物をクマは飛び越えようとはしない。
 さきほども書きましたが、ベルトを振り回すのは有効です。クマは、ベルトをクマがきらいなヘビと勘違いするようです。
 ペットボトルを押してペコペコと音をさせるとクマは嫌がる。クマにとって、奇妙な音に聞こえるのだろうとのことです。

 話を戻します。こちらの本のもくじを見ると、章がみっつあります。
 少ない章の数だと思いました。
 1 『ひよことパインサイダー』を読み終えて、ああ、短編3本のつくりかと理解しました。
 2 『じゅげむの夏』
 3 『おばけのトチノキ』です。

『1 ひよことパインサイダー』
 4年生の夏休みです。
 わたしが小学4年生の時は、夏休み中に引っ越しと転校を体験しました。
 そんな夏があったことを思い出しました。

 物語の中の4人の少年の冒険先は、熊吉つぁんの家へ行くところです。
 
 ドウダンツツジ:落葉低木。庭木や公園にある。

 ひよこを飼う話が出ます。
 熊吉つぁんが、ひよこを成長させて、ニワトリにして、卵とか鶏肉(とりにく)を食べるために買うのです。

 ここで思い出した一冊があります。
 『ニワトリと卵と、息子の思春期 繁延あづさ(しげのぶ・あづさ) 婦人之友社』 以下、感想の一部です。
 自立したいという、お子さんの反抗期の始まりがあります。
 これまでは、おかあさんの言うことをきいてきた。でも、これからは、おかあさんのいうことをききたくないのです。母は母で、どう対応したらいいのかわからず悩みます。まっこうからダメと言えなくて、条件闘争になったりもします。(そうしたかったら、こういう条件をのみなさいというパターンです) 『お母さんがなんと言おうと、オレは放課後ゲームを買いに行く!』強い主張があります。オレの人生はオレのもので、お母さんのものではない。オレの人生をお母さんが支配することはできないというこどもさんからの強い主張が母親に対してあります。オレのことはオレが一番わかる。オレのことは、お母さんにはわからない。
 ゲーム機を買うと吠えていた(ほえていた)ご長男が、ゲーム機ではなく、ニワトリを買ったというところがおもしろいエピソードです。理由は、卵がとれるからでした。

 また、話はこちらの本に戻ります。
 少年たちも熊吉つぁんも心がやさしい。
 38ページの熊吉つぁんの顔はこわいけれど、勝手に人の家に忍び込んだら、だれでもおこります。
 『おめえはどこのだんじゃ?』→『おまえたちは、どこのだれだ?』

 熊吉つぁんの家は、山で湧く清水(しみず)を利用しています。
 半世紀ぐらい前、わたしがこどものころも、いなかでは、水道設備がまだ十分ではなく、井戸や山の湧き水を利用していました。つるべ式の井戸や、手押しポンプ式の井戸がありました。

 熊吉つぁんは、4人の少年たちに、楽しく遊べと声をかけてくれました。熊吉つぁんは、心がやさしい。井戸で冷えたパインサイダーをこどもたちにごちそうしてくれました。

『2 じゅげむの夏』
 7月31日。自転車に乗っての冒険・探検です。
 浮き輪持参です。川で泳ぎます。川の水はきれいで、鮎(あゆ)もいます。
 
 ときおり筋ジストロフィー症の落語家志望かっちゃんが、落語話(らくごばなし)じゅげむの長ったらしい名前をとなえます。
 『じゅげむじゅげむ、ごこうのすりきれ、かいじゃりすいぎょの、すいぎょまつ、うんらいまつ、ふうらいまつ、くうねるところにすむところ、やうらこうじのぶらこうじ、パイポパイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイの、ポンポコピーの、ポンポコナーの、ちょうきゅうめいの、ちょうすけ』(自分がこどものころに、本で、この話を読んだことを思い出しました)

 小学3年生とか4年生、この年頃のこどもたちは、ギャグのような文章を言っておもしろがります。
 うちの小学生の孫たちがときおりくりかえして言っている言葉があるので、ここに落としてみます。
 『ごめんごめん いったんごめん』、それから、『ゴーケツ、ゴーケツ、カンゼンムケツのダイシュウケツ』(わたしには、意味はわかりません。マンガが関係しているようです)

 こどもは遊ぶのが仕事です。遊びながら、社会を学びます。

 さし絵がおもしろい。なんまいかありますが、どれも雰囲気があって楽しめます。
 小学生のときの思い出がいっぱいです。

 天神橋からの飛込み:岐阜県郡上八幡市での吉田川への飛込みを思い浮かべます。夏の風物詩です。

 筋ジストロフィー症のかっちゃんも川に飛び込みたい。
 本人はやる気です。
 出川哲朗さんの、『ヤバイよ、ヤバイよ』が出ます。
 飛んだーーー
 70・71ページ、見開き2ページに、かっちゃんのジャンプシーンの絵があります。
 ダイナミックです。
 ドボーン!
 大成功でした。安堵(あんど。安心)しました。
 かっちゃん『いいなあ。今年の夏はいいなあ』
 
 ふつう、小学四年生だったら、そこから先の人生は長い。
 だけど、筋ジストロフィー症のかっちゃんは、そうではないかもしれない。

 1リットルの涙という本を思い出しました。動けていたのに、だんだん動けなくなってしまうのです。
 『1リットルの涙 木藤亜矢 幻冬舎文庫』、感想メモの一部です。
 体が不自由、歩き方を笑われる。自分を金食い虫と責める。頭が悪くてもいいから丈夫な体がほしい。本人もお母さんもつらい。Dr.(ドクター。医師)に病気を治してと訴える。生徒手帳と身体障害者手帳をもらう。修学旅行先で気持ちの悪いものを見るように見つめられる。ついに歩けなくなる。自分は何のために生きているのか。結婚したい。自分にできることは、自分の死体を医学に役立ててもらうことだけ。(日記を書いていたご本人は、脊髄小脳変性症という病気で、25歳で亡くなっています)
 
『おばけトチノキ』
 こちらも一冊思い出す本があります。
 『怪物はささやく パトリック・ネス あすなろ書房』、感想メモの一部です。
 主人公コナー・オマリーは書中で13才とありますが、読んでいる本の途中では小学校5年生ぐらいの男子です。
 コナーの両親は6年前に離婚しています。そして今、同居している母親は末期癌で死につつあります。コナーとおかあさん、そしてかれらと別居のおばあさんはイギリスで生活しています。コナーは学校でいじめに遭っています。
 コナーの心理状態は精神病の症状のようです。幻覚が見えます。幻聴も聞こえます。家の外にある「イチイの木」がしゃべったり歩いたりするのです。そして、イチイの木は怪物です。イチイの木がどんな木か知らなかったので調べてみました。別名「アララギ」、なんだか聞いたことがあります。常緑針葉樹、高さ20mぐらい。コナーは常に恐怖感を抱いている。(この小説はその後、映画化されています)

 さて、こちらは明るい少年4人組です。
 いかずち山のトチノキ=おばけトチノキ。いかずち山の棚田の上にある。
 むかし、トチノキが村を救ったそうです。冷害があったときに、トチの実が村人の食料になったそうです。トチの実は、見た目が栗に似ています。

 話ははずれますが、シューちゃんはたいていドラえもんのコミック本をねっころがって読んでいます。
 うちもドラえもんのコミック本全巻を手に入れて、孫たちが楽しみに読んでいます。
 ドラえもんの未来の道具は多種多様で驚かされます。
 作者の藤子・F・不二雄さん(藤本弘さん)はたいしたものです。

 屁八十のばっちゃん(へはちじゅうのばっちゃん):いまどきは、おならのことを屁(へ)とは言わなくなりました。昔はよく、へをこいたとか、へをしたとか言ったり聞いたりしましたが、屁という言葉をいまではほとんど聞かなくなりました。上品な社会になったのでしょう。
 『生栗ひとつ、屁八十』と、シューちゃんのひいばあさんがこどもたちに教えたそうです。
 『バカウケ』という言葉も出てきました。思い出すに、欽ちゃん(きんちゃん)こと萩本欽一さんが、欽ドン(欽ちゃんのドンといってみよう)というラジオ番組で、視聴者からのコントが書いてあるハガキを読み上げて、評価としての、『バカウケ、ヤヤウケ、ドッチらけ』、という格付けからきている言葉なのでしょう。
 昭和40年代ぐらいのころのことでした。

 『ドロドロドロは、ゆうれいだよ』
 (最近は、幽霊が、ドロドロドロと出てくるという表現もしなくなりました)

 おばけトチノキは、樹齢が千年。
 今年2024年の1000年前は、1024年です。
 NHK大河ドラマ、『光る君へ』みたいですが、清少納言の枕草子ができたのが1001年、紫式部の源氏物語ができたのが1007年ですから、おばけトチノキが芽を出した時代は平安時代ですな。ドラマに出てくる柄本佑(えもと・たすく)さんの藤原道長の寿命が、966年~1028年でした。
 
 棚田のというのは、一般的に、景観が美しい風景の観光地というイメージがあるのですが、わたしはそうは感じません。昔の人たちの、『貧困』の象徴だと思っています。
 土地がなかったから棚田形式で田んぼをつくって稲を育てて米を手に入れた。
 棚田の上にまいた肥料は、雨風の自然現象で棚田の下に流れるから、下のたんぼのほうがいい米がとれた。下の者は裕福で、上のものはそうではなく、上の土地の耕作のほうが、下の土地の耕作よりもつらかった。そんな文章を読んだことがあります。『飢餓海峡(きがかいきょう) 上下巻 水上勉(みずかみつとむ) 新潮文庫』だったという記憶です。

 棚田の上まで行くのに、筋ジストロフィーのかっちゃんは、体が不自由です。車いすで行くのは無理そうです。
 ドラえもんのどこでもドアがあればいいのにねとシューちゃんが言います。
 発想として、『ねこ』が登場します。建築工事現場などで使う一輪車のことを、『ねこ』といいます。なぜねこというのかは、わたしにはわかりませんが、わたしは高校生の頃、学校の長期休み中に、建築現場で肉体労働をしていました。その時の作業で使っていました。おもに生コンクリート(なまコンクリート)を入れて運んでいました。
 その『ねこ』に筋ジストロフィーのかっちゃんをのせて、山の上まで、ほかの三人で運んで行くのです。いいアイデアです。
 小学4年生というのは、体はまだ大きくもありません。いろいろなつかしい思い出がいつまでも残る年齢です。とくに男子にとっては、冒険心が燃え上がる年齢です。がんばれーー
 
 バケット:三輪車である『ねこ』の物を入れる容器部分(皿、さら)。

 山の上ですから、行きは登りでたいへんですが、帰りは下り坂です。ころばぬように気をつけてね。

 97ページのこどもたちの絵からは、こどもたちによる、協力とか、無邪気とか、おもしろいこととか、笑えることに挑戦する気持ちが伝わってきます。
 
 『ねこ』がひっくりかえって、筋ジストロフィーのかっちゃんがほおりだされませすが、かっちゃんは、よつんばいになって、ハイハイしながら、おーれは、不死身だとアピールします。
 かっちゃんの不自由な体のことについて、胸が詰まる(つまる)ほかのメンバーたちです。
 ただ、じっくり考えてみてください。
 人間は歳をとるとたいてい、かっちゃんみたいな体になるのです。ころんで倒れて骨折して立って歩けなくなってやがて寝たきりになってあの世へ行くのです。
 若い頃、どんなにスポーツマンでかっこよくても、男でも女でもそうなるのです。

 物語全体の冒険は、洋画、『スタンド・バイ・ミー(ぼくのそばにいて)』パターンです。
 
 将来の夢について語り合う4人です。今はまだ全員10歳です。
 大村勝利(おおむら・かつとし。かっちゃん):落語家、医学者、宇宙飛行士、歌手、画家
 山本大輔(やまもと・だいすけ):冒険家
 鈴木修一(すずき・しゅういち):世界中の大地に寝る人(寝っ転がる人)
 細谷明(ほそや・あきら):橋をかける人  

Posted by 熊太郎 at 06:27Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2024年06月21日

いつかの約束1945 山本悦子・作 平澤朋子・絵

いつかの約束1945 山本悦子・作 平澤朋子・絵 岩崎書店

 『1945』は、西暦1945年で、昭和20年のことでしょう。
 第二次世界大戦終戦の年です。日本が欧米を中心とした連合国軍に負けた年です。
 いろいろありました。
 わたしたちの上の世代は、とても苦労されました。

 一部の権力者たちが暴走したために、多数の国民の命が犠牲になりました。
 独裁国家反対です。
 本の帯に、『あたし、いろんな人のひとりになる』と書いてあります。
 どういうことだろう。
 あたしが、いろんな人、ひとりひとりにのりうつるのだろうか。(憑依(ひょうい)です。青森県恐山(おそれざん)のイタコみたいです。(これから本を読み始めます。読んでみないとわかりません。読みながら感想をつぎたしていきます)

 『1』、から、『9』までの章になっています。
 目次を読むと、まいごのおばあちゃんがいて、そのおばあちゃんは、どこに行ってしまったのだろう? でしょう。
 すずちゃんというのは、おばあちゃんのお名前でしょう。たぶん。
 すずちゃんおばあちゃんが、若い時にもどるようです。
 そして最後に、だれかとだれかがした約束が披露されるのでしょう。(ひろう:公表すること)

 さて、読み始めます。

みく:麦わら帽子をかぶっている。みくのひいおばあちゃんが介護施設に入所している。(82ページにみくのお父さんはパイロットと書いてあります。わたしは、飛行場のそばにあるホテルに泊まったときに、朝食会場で、パイロットという人は見たことがありますが、パイロットのこどもは見たことがありません)。
 みくの家族は、13階建てマンションの最上階に住んでいます。

ゆきな:野球帽をかぶっている。みくとゆきなは同級生の友だち。小学四年生ぐらいに見えます。(あとから73ページに書いてあって、3年2組、教室は校舎の二階であることがわかりました)

 市立図書館があって、その向かいに時計屋があって、ふたつの間にある横断歩道のむこう、時計屋のそばに、88歳ぐらいの(たぶん認知症の)おばあさんである関根すずがいて、すずさんは、自称9歳で(自分で自分は9歳だと言う人です)、みくとゆきなは、関根すずを認知症だと思わずに、9歳のだれかと高齢者女性の心が、互いに体がぶつかったことが原因になって、入れ替わったのであろうと勘違いして、あれやこれや、たぶん戦争がらみの話に発展していくのだろうと思いながら読んでいるいまは71ページあたりです。
 広島県尾道を舞台にした邦画、『転校生』パターンの勘違いですな。尾身としのりさんと小林聡美(こばやし・さとみ)さんの心が入れ替わる1982年(昭和57年)の映画でした。まだ結婚する前、奥さんと映画館で観ました。自分たちも含めて、俳優さんたちも歳をとりました。いい映画でした。男女の心が入れ替わって、お互いの苦労を知るのです。
 そういえば、先日観た邦画、永野芽郁さん(ながのめいさん)主演の、『マイ・ブロークン・マリコ』で、尾身としのりさんが、アル中のDV(家庭内暴力)父を演じていました。暗い内容の映画でした。尾身くんも歳をとりました。がんばっています。
 
 さて、最初のページに戻って感想を付け足します。
 関根すずは、自分のことを、自分はおばあちゃんじゃない。自分は9歳と言います。
 もうずいぶん昔、わたしが30歳なかばぐらいだった頃、そういうおじいさんを実際に見たことがあります。
 外見はどう見ても80歳を超えているのに、ご自身は、自分の年齢を40歳と言っていた記憶です。わたしとそれほど年齢差がありません。冗談で言っているようすはなく、話をしていて、まあ、本人がそう言うのならそれでいいじゃないかという気持ちになったことを覚えています。
 そのときは、その人とは短期間の付き合いで、どこかへ行かれてしまいました。本人はぼけていたのかなあ。よくわかりません。

 その後、民族として、年齢にこだわるのは日本人ぐらいで、とくに東南アジアの人たちは、自分の生まれた年はわかるけれど、自分の誕生日は知らない人が多いと聞いて、そんなものなのかと世界の広さを知りました。
 日本には、戸籍制度があるから生年月日にこだわれるということもあるのでしょう。外国のほとんどの国には戸籍はありません。外国には、日本でいうところの住民登録のようなものがあるだけだと聞きます。

 みくもゆきなも小学生中学年だからか、『認知症』のことをほとんど知りません。『いろんなこと、わすれる病気なんでしょ?』、ぐらいしか知りません。

 関根すずの住所は、『おいけのはた一丁目』だそうです。
 昔あった住所で、現在は、町名変更とか、住居表示(街区と家に番号を付ける)がなされているかもしれません。
 みくとゆきなのふたりは、誤解があるけれど、心は優しい。
 関根すずを助けようとします。
 話はややこしいけれど、9歳のときの関根すずを探すことになります。
 
 おかっぱ(昔の表現):ヘアースタイルです。本では、『ボブ』と書いてあります。
 
 『かっぱ』にこだわりがある作者です。
 以前、こちらの作者さんの別の本を読んだことがあります。たしか、かっぱがからんでいました。
 『がっこうかっぱのイケノオイ 山本悦子 童心社』
 ブラジル人の男の子が、池にいる『カエル』のことを、日本語の発音がうまくできないせいなのか、『かっぱ』と言い、『イケノオイ』は、『池の匂い(におい)』ということで、カッパ(カエルのこと)の名前なのです。その本は、登校拒否を防ぐための本だった記憶です。作者は、こどもたちが、学校を好きになるようにという願いをこめて、この作品をつくりました。(そんなふうに、自分の読書メモが残っています)

 『かっぱ、かっぱ、おかっぱすずちゃん』
 
 駅が出てきます。
 おばあさんの心と入れ替わった心をもつ9歳の女の子を探します。
 読んでいて、絵本にあるその駅は、自分がまだ若かったころ、たまたま用事があって行ったことがある駅のことではなかろうかと思いました。
 日本で一番古い駅舎と言われているそうです。愛知県半田市にある、『亀崎駅(かめざきえき)』です。
 ほかの本で見たことがあります。絵本でした。
 『でんしゃでいこう でんしゃでかえろう 間瀬なおかた ひさかたチャイルド』、次が、読んだ時の読書メモの一部です。
 『うみのえき』の建物のモデルは、愛知県半田市にある、『亀崎駅』だそうです。わたしは、30年ぐらい前に用事があって何度か亀崎駅を利用しました。坂を下ったところにあった記憶です。まだ今も、木造のまま残っているらしくびっくりしました。

 無人駅:半世紀以上前、わたしがこどもだったときには、無人駅というものはなかった記憶です。無人というのは、駅員がいない駅ということです。列車の運転手や車掌が切符を回収します。

 老人クラブ:自主的な集まり。おおむね60歳以上がメンバー。

 いろいろ勘定(かんじょう。計算)してみると、関根すずは、1936年(昭和11年)生まれで、2024年(令和6年)の今年、88歳になる計算です。

 飲み物の自動販売機:昔はありませんでした。
 アスファルト舗装(ほそう)の道路:これも昔はありませんでした。半世紀以上前、とくにいなかでは、道路面はまだ土でした。車自体が少なかった。自家用車をもつ人は少なかった。道は、こどもたちの遊び場でした。
 路線バスは、土の上を走っていました。砂ぼこりが舞い上がっていました。

 ぶうんちょうきゅう:武運長久。この言葉が、この物語の伏線になっていきます。(ふくせん:あとあと感動をうむしかけ(仕掛け))。戦時中の祈り。武人(ぶじん。兵士)としての命が長く続くこと。兵士としての役割を果たし続ける命が続くこと。勝利運があること。

 同じ地域に何十年間も住んでいると、土地に、どのような建物が建っていたかの記憶が脳に残っています。
 昔はあったけれど、今はもうなくなった建物があります。
 そのあとに新しくできた建物が現在あります。
 原野でなにもなかったところが、区画整理などで、道路や住宅や店舗やビルが密集する街になっているということもあります。
 土地には、歴史があります。

 七ツ木池(ななつぎいけ):読んでいてピンときたのですが、この池のモデルは、愛知県半田市にある、『七本木池』ではなかろうか。近くに用事があって、たまに車を運転してそばを通ります。

 爆弾の話があります。
 戦時中に空襲でたくさんの爆弾が落とされました。
 まだ自分が十代後半だった頃、年配の人たちから聞いた話です。
 『(まだ自分がこどものころ。10歳ぐらい)爆弾が空からどんどん落ちてくる中をぴょんぴょんはねながら逃げた記憶がある。火災が起きていた』
 さらに別の人で、爆発しなかった爆弾がころがっていたので、家に持ち帰って庭に飾ったという人もいました。(今考えるとびっくりです。人間って、精神的に、たくましくて、強い面をもっています)
 
 90ページに、戦後食糧難の時代に、野生の鳥や魚を食べた話が出ます。
 たしかに、わたしが幼児、小学校低学年のときは、集落の人たちは、山にワナをかけて野鳥を捕って(とって)焼いて食べたりしていました。今はやっちゃいけないのでしょう。
 戦後はみんなおなかをすかしていました。先日のNHK朝ドラ、『虎に翼』で、お弁当につめるごはんがないというような話をしていました。
 ヤミ米の話です。ヤミ米(闇米):違法な取引で流通するお米のこと。たてまえとしては売買してはいけない米です。食糧管理法の規制がありました。
 ヤミ米を手に入れてはいけないという法律を守った裁判官が、栄養失調で亡くなったという出来事がドラマ、『虎に翼』に出てきました。
 たしか、わたしが中学生の時に、先生からそういうことがあったと教わった記憶が脳みそに残っています。
 事実なのです。あのころ、戦争で中国や東南アジアの戦地に行って兵隊として戦った体験のある先生が、中学や高校に何人かおられて、戦時中のことや戦後まもなくのことを授業中に話されていました。生きるか死ぬか、殺すか殺されるかの話です。そうして、戦争はもうやっちゃいけないと教わりました。
 
 広島市の平和公園にあるような銅像の絵が93ページにあります。わたしは、広島の平和公園には二度行ったことがあります。千羽鶴を上にかかげる、『原爆の子の像』を見たときには、胸にグッとくるものがありました。原爆で、たくさんのこどもさんたちが亡くなりました。犠牲者多数です。戦争においては、ひどいことをする人たちがいます。

 以前読んだ反戦の本で、強く記憶に残った写真本があります。
 『ヒロシマ 消えた家族 指田和(さしだ・かず 女性) ポプラ社』
 おとうさんは、鈴木六郎さんで、床屋さんです。おかあさんが、フジエさん。英昭おにいちゃんがいて、本のなかにいる『わたし』が、公子(きみこ)さん、いっしょに写真に写っているのが、和子ちゃんです。その全員が、原子爆弾の投下(とうか)で亡くなります。つらいです。原爆のバカヤローです。
 ペットのネコのクロとイヌのニイも写真の中にはいます。でもきっと、原子爆弾が爆発したあと、二匹とも、この世には、もういなかったと思います。

 さて、こちらの本に戻ります。
 関根すずの体には、戦争、おそらく空襲のときにできたやけどの傷が残っています。
 
 114ページ、『決めた。あたし、いろんな人になる』(関根すずの言葉)
 『じゃあ、あたし、いろんな人のひとりになる!』
 わたしは、その部分の表現がピンときません。
 この部分では、関根すずの心は、自分が7歳のときの心になっています。
 同一人物の過去と現在で完結している状態なので、ほかの人の心をもつということは、意味が異なるのではないかと感じるのです。

 みくのマンションの前の道で、関根すずのひ孫が現れます。中学生女子です。
 舞台は、時計屋→図書館→駅→小学校→七ツ池→みくの家(マンション)と移動してきました。
 
 旧姓が、『関根』で、結婚して、現在は、『後藤すず』だそうです。
 124ページの小学生女子3人の絵を見て、若さが輝いていたと気づくのは、歳をとってからだと思います。若い時は、若いことのありがたさに気づけません。歳をとると、若い時は良かったなとしみじみするのです。

 昔は、『米穀配給通帳(べいこくはいきゅうつうちょう)』というものがありました。自分がこどものころに見たことがあります。1981年(昭和56年)に廃止されています。
 戦後、お米は、配給制だったそうです。はいきゅう:家の家族の人数ごとに割り当てられた分のお米が支給された。
 
 歴史をふりかえって、人間のおかした過ち(あやまち)を二度と繰り返さないように学ぶ。
 されど、現実には、大昔から、戦争とか戦いの歴史は繰り返されています。
 世代が入れ替われば、戦時中の苦労を知らない世代になって、また、戦争が起きます。それが人間のありようです。戦争になると、たいていは、体力が弱い者が犠牲になります。こどもや女性、年寄り、そして障害がある人たちです。敵の攻撃から逃げきれません。

 物語では、後半のクライマックスになって、胸が熱くなるものがあります。
 本のタイトル、『いつかの約束』は、絵のタイトルでもあるのです。  

Posted by 熊太郎 at 07:51Comments(0)TrackBack(0)読書感想文