2024年05月02日
ニワトリと卵と、息子の思春期 繁延あづさ(しげのぶ・あづさ)
ニワトリと卵と、息子の思春期 繁延あづさ(しげのぶ・あづさ) 婦人之友社
2021年発行の本です。(令和3年)
当時ご家族は長崎県長崎市住まいで、ご主人と高校一年生のご長男(お名前は、「あやめ」)、中学二年生の次男(「葵」あおい)、小学二年生の長女さん(お名前はわかりませんが、「あげちゃん」です)の5人家族です。著者の職業は、写真家で女性です。
本に書いてある内容は、2017年(平成29年)夏から始まっています。長男さんは、小学6年生でした。次男さんが、小学4年生、長女さんは、まだ幼稚園年長ぐらいです。(45ページに、4歳とありました。年少ですな)
表紙をめくるとカラー写真があります。
ニワトリが4羽と長男さんだろうか。
長崎での写真の雰囲気は、昭和40年代の、いなかです。ニワトリのエサは、そのへんに生えている野草に見えます。
以前テレビで観た東野&岡村の旅猿で、長崎が旅先だったのですが、ゲストで出ていた平成ノブシコブシの吉村崇さん(よしむらたかしさん)の言葉を思い出します。吉村崇さん『(自分は)なんで東京になんか住んでいるのだろう。こんなおいしいものが地方にはいっぱいある』、おいしい物を食べて、美しい景色に囲まれて、人情がいっぱいの人たちのそばで暮らしを送る。長崎には人と自然の幸(さち)がたくさんあります。
次のページの写真は、三人のこどものちいさな手のひらにのせたニワトリの卵があります。手の中に、『命』があります。
その次のページには、ニワトリの成鳥の写真があります。わたしはまっさきに、『鶏のから揚げ(とりのからあげ)』が思い浮かびました。おいしいです。
序章から始まって、第1章から第4章まで、そして、あとがきです。
読み始めます。
『序章 2017年夏』
自立したいという、お子さんの反抗期の始まりがあります。
これまでは、おかあさんの言うことをきいてきた。でも、これからは、おかあさんのいうことをききたくないのです。母は母で、どう対応したらいいのかわからず悩みます。まっこうからダメと言えなくて、条件闘争になったりもします。(そうしたかったら、こういう条件をのみなさいというパターンです)
『お母さんがなんと言おうと、オレは放課後ゲームを買いに行く!』
強い主張があります。オレの人生はオレのもので、お母さんのものではない。オレの人生をお母さんが支配することはできないというこどもさんからの強い主張が母親に対してあります。オレのことはオレが一番わかる。オレのことは、お母さんにはわからない。
ゲーム機を買うと吠えていた(ほえていた)ご長男が、ゲーム機ではなく、ニワトリを買ったというところがおもしろいエピソードです。理由は、卵がとれるからでした。
経済動物・産業動物:人間の食べ物になるための動物。反対言葉が、愛玩動物。
ニワトリを買って育てることは、人として、健全な志向です。なんの問題もありません。
『第1章 ニワトリがやってきた』
登場される人たちとして、
剛君:著者の友人。山の上でカフェを営んでいる。養鶏体験あり。馬(対州馬(たいしゅうば。長崎県対馬(つしま)の馬)、ヤギ、犬、猫と暮らしていて動物好き。
小野寺睦さん:剛君の友人。養鶏家。ニワトリを5羽長男に分けてもらった。
弥彦さん:烏骨鶏(うこっけい)を長男に分けてもらった。
自然卵養鶏法(中嶋正著 農山漁村文化協会刊):養鶏の本
烏骨鶏(うこっけい):ニワトリの一品種。烏骨は、黒い骨という意味。皮膚、骨、内臓などが黒い。
内容は、しっかりとした文章で書いてあります。
ケージに土を入れたら、ニワトリのトイレの臭いが消えた。
蹴爪(けづめ):ニワトリの足で、後ろに突き出た爪のようなもの。
鳥は恐竜の子孫。そういう話は、なにかの本で読んだことがあります。
ニワトリの卵の話をこどもさんとしていて、実は自分が流産の体験があることをポロリとこどもに話したお母さんです。こどもさんが、あのとき自分は5歳だったと思い出話をします。いい人生教育です。
読んでいて自分のことで思い出したことがあります。
自分は7歳のころ、農業を営む熊本県の父方祖父母宅で暮らしていました。農耕用の牛を飼っていました。身近にニワトリの卵があったことからおそらくニワトリも飼っていました。物々交換の風習がありました。こどもであったわたしは、おそらく祖母に言われて、ニワトリの卵をよその家に持って行って、その家にある冷蔵庫の氷と交換してもらっていました。
料理で出る野菜くずが、ニワトリのエサになる。ゴミだったものが、ゴミではなくなったそうです。
ニワトリに愛着がわいた4歳の長女さんが、ニワトリに名前を付けようとすると、5年生の長男が、家畜に名前を付けてはいけないと自分の意見を言います。うちのニワトリは、愛玩動物(あいがんどうぶつ。ペット)ではない。名前を付けると愛情が芽生えて食べるために殺すことが苦痛・苦悩になるからです。
長男は、ニワトリが卵を産まなくなったら、つぶして食べると言います。(つぶす:殺す)
ここで思い出す作品がふたつあります。
『食堂かたつむり 小川糸 ポプラ社』
『ブタがいた教室 邦画 日活㈱』
小説、『食堂かたつむり 小川糸著』では、言葉を失ったシェフの倫子(りんこ)さんが、エルメスと名付けた豚ちゃんを愛情込めて育てて、最後に自分でエルメスを捌(さば)いて食べます。
『ブタがいた教室』は、実話の映画化です。本は、『豚のPちゃんと32人の小学生 命の授業900日 ミネルバ書房』です。その本をもとにつくられた映画、『ブタがいた教室』では、小学生26人がPちゃんと名付けた豚を愛情を込めて育てたのですが、倫子さんのようにはいきません。食肉にすることがそうそう簡単にはできません。こどもたちは、迫真の演技でした。
自立心が強いご長男とお母さんとの対立話があります。
ご長男がちっちゃな家出を繰り返します。
兄弟はケンカをしますが、おとなになって、歳をとるとたいていの兄弟は、ケンカはしなくなります。それぞれが自分の世界をもちます。
『第2章 ニワトリのいる日々』
この2章までを読み終えて感じたことは、この本は、こどもの自立、自活、成長の本です。
長男さんは、自分でお金を稼ぎたい。実業家の面があります。親から離れて自活していきたいという気持ちが強い。こどもさんは、なかなかたいした人物です。読んでいると、こどもさんのほうが、お母さんよりもおとなです。息子さんは、必要があって、歯を食いしばって、ニワトリを殺す作業もやりました。
ニワトリの飼育は、ニワトリをペットとして扱うのではなく、利益を生む事業として扱っています。
卵を販売する。養鶏業(ようけいぎょう)です。数羽のニワトリは、家族では食べきれないぐらいにたくさんの数の卵を産むようになります。
読んでいてふと思い出したことがあります。わたしも母方の実家がある福岡県にいた中学生のときに、ジュウシマツを繁殖させて、生まれてきたジュウシマツのこどもたちを売りに行っていました。ジュウシマツは夫婦仲がいいので、どんどん卵を産んで、ヒナをかえしていきます。わたしは、鳥小屋をつくって、たくさん生まれてきたジュウシマツたちを売りに行っていました。井筒屋という百貨店の小鳥コーナーとか、住んでいた町内にあった小鳥屋のおじいさんが買い取ってくれました。一羽120円ぐらいで買ってもらえました。最初は、『小鳥買います』みたいな表示が、店舗にしてあったことがきっかけでした。お店で売られるときは一羽780円ぐらいだったという記憶です。当時は貧乏な母子家庭だったので、とにかくお金が欲しかったことを覚えています。
こちらの本の長男さんは、まだ中学生ですが、ニワトリでもうけたお金で、今度は株式投資を始めました。ジュニアNISA(ニーサ)の活用です。わたしは、ジュニアNISAというものがどういうものか知りませんが、ご長男は口座を開設して、株式投資の研究を始めます。(ジュニアNISAの制度は2023年で廃止になっているようです)
仄見える:ほのみえる。(読めませんでした。ほのかに見える。かすかに見える)
ボリスブラウン:飼っているニワトリの銘柄
今度は、ヒヨコを仕入れに行きます。
かわいいヒヨコが4羽加わりました。
オツベルと象(ぞう):宮沢賢治作品の童話。オツベルという地主が、大きな白い象をだましてこきつかう。それを知った象たちが、オツベルの邸宅になだれこんで、オツベルをつぶしてしまう。
ビオトープ:野生生物が生息する空間。
長男さんは、養蜂(ようほう)にも興味を持ちます。お母さんが思いとどまらせます。蜂が飛んで、近所迷惑になると思ったからです。
とりあえず、養鶏と株式投資です。
『第3章 “食べ物”は“生き物”』
ジビエというのでしょう。東京中野区から長崎市へ引っ越しをしてきた経過などが書かれたあと、地元の猟師と友だちになって、野生動物の肉(イノシシとかシカとか)をもらって料理を始めたことが書いてあります。
その部分を読みながら、自分の体験として思い出したことがあります。この本に出てくる地元の人と同じく、うちの両親も九州出身です。素行や考え方が、共通するのです。動物はペットではなく、食べるものという意識が同じです。
わたしは、小学生の頃は動物が大好きでいろいろ飼っていましたが、ほとんどを両親に食べられてしまいました。そんなことを文章にしたものが、データで残っていました。文章をつくったのはもう何十年も昔のことです。ちょっとここに落としてみます。
『ぼくのペットは、両親にとっては、おかずだったこと』
小学生だったこどものころ、わたしは、たくさんの動物を飼っていました。
しかし、戦前戦後の食糧難(しょくりょうなん)の時代に育った両親は、愛玩動物(あいがんどうぶつ。ペット)という感覚はまったくもっておらず、動物は食べるために飼うという習性が身についていました。
以下、その犠牲(ぎせい)になった、わたしのペットたちを紹介します。
1 鳩(はと)
夕食時、こたつの上に、どーんと置かれた鍋の中に、プカーっと大きな見慣れぬ肉のかたまりが浮いていました。
「これ、何の肉?」とわたし。
両親が声をそろえて「鳩」
ガーンとくるわたし。
「ぼくは、食べない!」
「どうして?」と父。
「こっちがどうして、と言いたいわ!」
「好き嫌いはいけない」と母。
「食べない!」
わたしが、つがいで飼っていた鳩の片方を両親に食べられました。
そして、しばらくして、もう1わも食べられてしまいました。
「卵を産んだら、卵も食べてみるつもりだった」と父。
バカヤローー わたしは、父が嫌いでした。
2 うさぎ
数匹飼っていました。
餌ははっぱで、小学校から帰って来てから、山へ、餌になる草を取りに行っていました。
うさぎは、ころころっとした糞(ふん)をするので、わたしはせっせと掃除をしていました。
それは、わたしが原因でした。
うさぎを両手でだいていたところ、うさぎがバタバタっとあばれたので、思わず自分の両手を広げてしまいました。
うさぎは地面に落ちて、そのまま死んでしまいました。
ふつうは、それから土をほって、死んだうさぎを土にうめて、お墓をつくります。
両手をあわせて、悲しいお別れ…… というすじがきなのですが、わがやの場合は、ちがっていました。
うれしそうな父。
もうだめだと、わたしは、あきらめました。
父は、うさぎをもっていくと、料理のしかたを考えるそぶりをみせました。
わたしは、もう悲しくて、家の外に出て、ひたすらなわとびをしました。
前とびを延々(えんえん)と、とびました。
悲しい、くやしい、にくい。
そんなことを考えながら、とびつづけました。
このままでは、ほかのうさぎたちも親に食べられてしまう。
危機感をいだいたわたしは、友だちをあたり、残ったうさぎを飼ってくれるように頼みこみ、ひきとってもらいました。
3 亀
けっこう大きな亀を、わたしは飼っていました。
甲羅(こうら)のふちっこに錐で(きり)で穴を開けて、穴に針金を通し、針金の先を地面に打ち込んだ杭(くい)につなぎ、亀を家の前を流れる浅い溝に放していました。
餌は、溝の上流から流れてくる生活排水である残飯(ざんぱん)のくずでした。
ある夜、父の友人が、家に遊びに来ました。
そのとき父が、
「亀を食べると、長生きできる。亀をさかさづりにして、首をスパンと切り落として、流れ落ちてくる血をコップに入れて、亀の血を飲み干すと、長生きのいい薬になる」と友人に話をしていました。
わたしは、不吉な予感がしました。
数日後、わたしのペットの亀はいなくなりました。
母に言いました。
「亀がいない!」
「逃げたんじゃないの」
(違う! オヤジが食っちまったんだ)
4 あひる
わたしは、お祭りの縁日で買って来たそのあひるくんを、本当に本当に心をこめて育てていました。
当時、アンデルセンの『みにくいあひるの子』を読んで涙したわたしは、そのあひるくんを大切に育てていました。
しかし、大事に育てすぎて、死なせてしまいました。
ある日、川のそばを流れる用水路で、たくさんのおたまじゃくしを見つけたわたしは、愛するあひるくんに食べさせてあげようと、大量のおたまじゃくしを捕まえてきました。
そして、それらを、あひるくんに食べさせました。
あひるくんは、喜びながら大量のおたまじゃくしを食べました。
それから、あひるくんは、元気がなくなり、動かなくなり、数日後にひっそりと息を引き取りました。
そして、父の登場です。
さばくんですよ。
あひるの首を包丁で。
「ほら、こんなに、おたまじゃくしが、のどにつまっている。窒息死だな」
また、夕食のお鍋に肉のかたまりが浮いていました。
わたしは、胸がつまって、あひるどころか、ごはんつぶひとつも食べることができませんでした。
5 犬
わたしによくなつく白い野良犬(のらいぬ)がいたので、家に連れて帰りました。
わたしは、その犬に『ブタ犬』という名前をつけて飼い始めました。
体が白くて、鼻が赤くて、ブタみたいだったからです。
父が、
『戦時中は、犬も食べたなあ。赤い犬は、食べることができるんだよ』
(おまえは、犬も食べるのか!)
わたしは、恐怖(きょうふ)を覚えて、ブタ犬を逃がすことにしました。
でも、心配はいりませんでした。
ブタ犬のほうが、先にそのことに気づいたのか、わたしの家から逃げてしまいました。
小学校から帰ると、家にはブタ犬はもういませんでした。
数日後、集落のはずれでブタ犬を見つけたので、わたしはブタ犬に、何度も声をかけましたが、(フンとした表情で横向きで)無視されました。
長くなってしまいました。
本の感想に戻ります。
2011年(平成23年)東日本大震災を東京都中野区で体験して、そのあとの理由がふあ~とされた感じなのですが、地方への移住を考えたそうです。いろいろ地方を見て回って、場所を長崎にしたそうです。とくだん、長崎に親戚がいるということもなく、見て回ったときの印象が良かったそうです。
長崎は、坂の上にたくさん家が建っていて、車を横付けできるスペースがないのですが、地元の人が不便だと感じることを、東京暮らしをしていたご夫婦にとっては、快適な空間だったそうです。
不便なだけ、住民同士の距離が近いそうです。気持ちのもちかたの話です。声をかけやすい。声をかけられやすい。ものをもらったり、あげたりすることが楽しい。
ベルベット:毛足の長い織物。光沢がある。
母親と長男で、雉(キジ)を捌きます(さばきます)。迫力に満ちています。
しっかりした文章ですが、書いているお母さんは、ちょっと理屈っぽい人でもあります。
ここまで読んできて、今年読んで良かった一冊になりました。
『第4章 家族、この儘ならぬ(ままならぬ)もの』
コロナ禍だったときのことが書いてあります。
ご主人は職を失っておられます。長い在宅期間があって、どうも、これから先、ご家族で養鶏を目指されるような内容で終わっています。
ご長男は、実業家タイプです。まだ中学生の時から株式投資に目覚めて、農業関係の業種に投資先としての目をつけておられます。あわせて、コロナ禍の時は、株の暴落を体験されています。
ご長男の立場になってみると、生まれてから、勝手なことをする両親に振り回されているという不満はあられるかとは思います。東京の中野区にいたのに、長崎の山の中に連れてこられて、大きな環境の変化があったわけで、こずかいせんももらえず、自分で考えてお金をゲットしなければ、ほしいものも買えないという状況でした。
夫から妻に電話があって、『(コロナ禍の影響があって)退職することになりそう』と話があります。
中学生の長男が、『うちはなんでこんな不安定なんだよ!』と怒鳴り(どなり)、『子どもを養うのが親の務めだろ』と言います。
その部分を読んでいて思い出したことがあります。
自分がまだ四十代はじめだった頃、仕事でおもしろくないことがあって、家で家族がそろっているところで、『こんな仕事辞めてやる!』と大声で怒鳴った(どなった)ことがあります。
その後、しばらくたって、まだ小学校中学年ぐらいだった息子から、『あの時、本当にお父さんが仕事を辞めたら、これからさきうちは、どうやって生活していくのだろうかと不安だったよ』と聞かされて、すまなかったなと思ったことがあります。(がまんして、仕事は辞めませんでした)
長男さんはプチ家出を繰り返されて(公園で一夜を過ごすとか)、なかなか波乱万丈なご家庭です。中学生の長男さんが通っているのは、中高一貫教育の私立の学校なので、高校受験がないぶん、気持ちがあせらなくてすんだということはあります。(以前読んだ本に似たようなことが書いてありました。『喫茶店で松本隆さんから聞いたこと 山下賢二 夏葉社』 なによりもだいじなものは、『時間』。私立学校だったので大学受験がなかった。エスカレーター式(中学から大学まで内部進学できる)だった。受験勉強をしなくてよかったので、自分が自由に使える『時間』があった。時間を有効に使う。時間をムダにしない)
受験勉強に大量の時間を使うよりも、もっとほかのことに時間を使ったほうが、青春時代にとっては有益なのです。
なかなか厳しい長男と父親の対立があります。
(失業した父親に向かって長男が)『仕事もなくて、お父さんはあわれだよな』(いくらなんでも、言ってはいけない言葉です)
インターネット中毒のような話も出てきます。父親はスマホ、長男はパソコンです。そうやって、互いにぶつからないよう別々の世界をもちます。
読んでいるうちに、名作ドラマ、『北の国から』を思い出しました。父親である黒板五郎(田中邦衛さん(たなかくにえさん))と長男である純(吉岡秀隆さん。まだ小学校低学年のこどもでした)が対立します。純は、北海道富良野(ふらの)から生き別れになった(離婚後の)お母さんがいる東京に帰りたいのです。
プチ家出をした中学生の長男さんを地域社会が見守ります。田舎のいいところです。都会だと知らん顔で警察頼みです。
儘ならぬもの:ままならぬもの。思うようにならない。
後半部は、正直な母親の苦労を語られています。ふつう、心の奥底で、人に言うことは、はばかるような(思いとどまる)ことを書かれています。
(3人の)兄弟妹間で、区別(差別ともとれる)する扱いを自分はしていた。自分の心の中に、『鬼』がいた。
ほかの人の話で、泣き止まない(やまない)こどもを、マンションから落とそうと思ったことがあると書いてあるのを見て、自分も思い出したことがあります。
まだ、こどもがあかちゃんだったとき、生後半年ぐらいからひどい夜泣きが毎晩続き、心身ともに憔悴(しょうすい。疲れ果ててやつれる)したことがあります。真夜中、台所があるリビングで、泣きわめくあかちゃんを抱いてあやしながら、発作的に、床にたたきつけたいと思ったことがあります。たしか、翌日職場で先輩にその話をしたら、自分はそういうことはなかったけれど、あかちゃんの夜泣きは、半年ぐらいがまんすれば、ぱたりとなくなるし、それから一年もすれば、あかちゃんが夜泣きをしていたことも忘れてしまうよと言われたことを覚えています。じっさいそのとおりになりました。
親というものはつらいものなのです。子育てには、気が遠くなるほどの忍耐の積み重ねが必要です。世代交代しながら、順繰りで体験をして、人生とは、こういうものだということを味わうのです。
長男の家出がやまったら、こんどは、次男が小さな家出をしたそうです。なかなかたいへんです。
2021年発行の本です。(令和3年)
当時ご家族は長崎県長崎市住まいで、ご主人と高校一年生のご長男(お名前は、「あやめ」)、中学二年生の次男(「葵」あおい)、小学二年生の長女さん(お名前はわかりませんが、「あげちゃん」です)の5人家族です。著者の職業は、写真家で女性です。
本に書いてある内容は、2017年(平成29年)夏から始まっています。長男さんは、小学6年生でした。次男さんが、小学4年生、長女さんは、まだ幼稚園年長ぐらいです。(45ページに、4歳とありました。年少ですな)
表紙をめくるとカラー写真があります。
ニワトリが4羽と長男さんだろうか。
長崎での写真の雰囲気は、昭和40年代の、いなかです。ニワトリのエサは、そのへんに生えている野草に見えます。
以前テレビで観た東野&岡村の旅猿で、長崎が旅先だったのですが、ゲストで出ていた平成ノブシコブシの吉村崇さん(よしむらたかしさん)の言葉を思い出します。吉村崇さん『(自分は)なんで東京になんか住んでいるのだろう。こんなおいしいものが地方にはいっぱいある』、おいしい物を食べて、美しい景色に囲まれて、人情がいっぱいの人たちのそばで暮らしを送る。長崎には人と自然の幸(さち)がたくさんあります。
次のページの写真は、三人のこどものちいさな手のひらにのせたニワトリの卵があります。手の中に、『命』があります。
その次のページには、ニワトリの成鳥の写真があります。わたしはまっさきに、『鶏のから揚げ(とりのからあげ)』が思い浮かびました。おいしいです。
序章から始まって、第1章から第4章まで、そして、あとがきです。
読み始めます。
『序章 2017年夏』
自立したいという、お子さんの反抗期の始まりがあります。
これまでは、おかあさんの言うことをきいてきた。でも、これからは、おかあさんのいうことをききたくないのです。母は母で、どう対応したらいいのかわからず悩みます。まっこうからダメと言えなくて、条件闘争になったりもします。(そうしたかったら、こういう条件をのみなさいというパターンです)
『お母さんがなんと言おうと、オレは放課後ゲームを買いに行く!』
強い主張があります。オレの人生はオレのもので、お母さんのものではない。オレの人生をお母さんが支配することはできないというこどもさんからの強い主張が母親に対してあります。オレのことはオレが一番わかる。オレのことは、お母さんにはわからない。
ゲーム機を買うと吠えていた(ほえていた)ご長男が、ゲーム機ではなく、ニワトリを買ったというところがおもしろいエピソードです。理由は、卵がとれるからでした。
経済動物・産業動物:人間の食べ物になるための動物。反対言葉が、愛玩動物。
ニワトリを買って育てることは、人として、健全な志向です。なんの問題もありません。
『第1章 ニワトリがやってきた』
登場される人たちとして、
剛君:著者の友人。山の上でカフェを営んでいる。養鶏体験あり。馬(対州馬(たいしゅうば。長崎県対馬(つしま)の馬)、ヤギ、犬、猫と暮らしていて動物好き。
小野寺睦さん:剛君の友人。養鶏家。ニワトリを5羽長男に分けてもらった。
弥彦さん:烏骨鶏(うこっけい)を長男に分けてもらった。
自然卵養鶏法(中嶋正著 農山漁村文化協会刊):養鶏の本
烏骨鶏(うこっけい):ニワトリの一品種。烏骨は、黒い骨という意味。皮膚、骨、内臓などが黒い。
内容は、しっかりとした文章で書いてあります。
ケージに土を入れたら、ニワトリのトイレの臭いが消えた。
蹴爪(けづめ):ニワトリの足で、後ろに突き出た爪のようなもの。
鳥は恐竜の子孫。そういう話は、なにかの本で読んだことがあります。
ニワトリの卵の話をこどもさんとしていて、実は自分が流産の体験があることをポロリとこどもに話したお母さんです。こどもさんが、あのとき自分は5歳だったと思い出話をします。いい人生教育です。
読んでいて自分のことで思い出したことがあります。
自分は7歳のころ、農業を営む熊本県の父方祖父母宅で暮らしていました。農耕用の牛を飼っていました。身近にニワトリの卵があったことからおそらくニワトリも飼っていました。物々交換の風習がありました。こどもであったわたしは、おそらく祖母に言われて、ニワトリの卵をよその家に持って行って、その家にある冷蔵庫の氷と交換してもらっていました。
料理で出る野菜くずが、ニワトリのエサになる。ゴミだったものが、ゴミではなくなったそうです。
ニワトリに愛着がわいた4歳の長女さんが、ニワトリに名前を付けようとすると、5年生の長男が、家畜に名前を付けてはいけないと自分の意見を言います。うちのニワトリは、愛玩動物(あいがんどうぶつ。ペット)ではない。名前を付けると愛情が芽生えて食べるために殺すことが苦痛・苦悩になるからです。
長男は、ニワトリが卵を産まなくなったら、つぶして食べると言います。(つぶす:殺す)
ここで思い出す作品がふたつあります。
『食堂かたつむり 小川糸 ポプラ社』
『ブタがいた教室 邦画 日活㈱』
小説、『食堂かたつむり 小川糸著』では、言葉を失ったシェフの倫子(りんこ)さんが、エルメスと名付けた豚ちゃんを愛情込めて育てて、最後に自分でエルメスを捌(さば)いて食べます。
『ブタがいた教室』は、実話の映画化です。本は、『豚のPちゃんと32人の小学生 命の授業900日 ミネルバ書房』です。その本をもとにつくられた映画、『ブタがいた教室』では、小学生26人がPちゃんと名付けた豚を愛情を込めて育てたのですが、倫子さんのようにはいきません。食肉にすることがそうそう簡単にはできません。こどもたちは、迫真の演技でした。
自立心が強いご長男とお母さんとの対立話があります。
ご長男がちっちゃな家出を繰り返します。
兄弟はケンカをしますが、おとなになって、歳をとるとたいていの兄弟は、ケンカはしなくなります。それぞれが自分の世界をもちます。
『第2章 ニワトリのいる日々』
この2章までを読み終えて感じたことは、この本は、こどもの自立、自活、成長の本です。
長男さんは、自分でお金を稼ぎたい。実業家の面があります。親から離れて自活していきたいという気持ちが強い。こどもさんは、なかなかたいした人物です。読んでいると、こどもさんのほうが、お母さんよりもおとなです。息子さんは、必要があって、歯を食いしばって、ニワトリを殺す作業もやりました。
ニワトリの飼育は、ニワトリをペットとして扱うのではなく、利益を生む事業として扱っています。
卵を販売する。養鶏業(ようけいぎょう)です。数羽のニワトリは、家族では食べきれないぐらいにたくさんの数の卵を産むようになります。
読んでいてふと思い出したことがあります。わたしも母方の実家がある福岡県にいた中学生のときに、ジュウシマツを繁殖させて、生まれてきたジュウシマツのこどもたちを売りに行っていました。ジュウシマツは夫婦仲がいいので、どんどん卵を産んで、ヒナをかえしていきます。わたしは、鳥小屋をつくって、たくさん生まれてきたジュウシマツたちを売りに行っていました。井筒屋という百貨店の小鳥コーナーとか、住んでいた町内にあった小鳥屋のおじいさんが買い取ってくれました。一羽120円ぐらいで買ってもらえました。最初は、『小鳥買います』みたいな表示が、店舗にしてあったことがきっかけでした。お店で売られるときは一羽780円ぐらいだったという記憶です。当時は貧乏な母子家庭だったので、とにかくお金が欲しかったことを覚えています。
こちらの本の長男さんは、まだ中学生ですが、ニワトリでもうけたお金で、今度は株式投資を始めました。ジュニアNISA(ニーサ)の活用です。わたしは、ジュニアNISAというものがどういうものか知りませんが、ご長男は口座を開設して、株式投資の研究を始めます。(ジュニアNISAの制度は2023年で廃止になっているようです)
仄見える:ほのみえる。(読めませんでした。ほのかに見える。かすかに見える)
ボリスブラウン:飼っているニワトリの銘柄
今度は、ヒヨコを仕入れに行きます。
かわいいヒヨコが4羽加わりました。
オツベルと象(ぞう):宮沢賢治作品の童話。オツベルという地主が、大きな白い象をだましてこきつかう。それを知った象たちが、オツベルの邸宅になだれこんで、オツベルをつぶしてしまう。
ビオトープ:野生生物が生息する空間。
長男さんは、養蜂(ようほう)にも興味を持ちます。お母さんが思いとどまらせます。蜂が飛んで、近所迷惑になると思ったからです。
とりあえず、養鶏と株式投資です。
『第3章 “食べ物”は“生き物”』
ジビエというのでしょう。東京中野区から長崎市へ引っ越しをしてきた経過などが書かれたあと、地元の猟師と友だちになって、野生動物の肉(イノシシとかシカとか)をもらって料理を始めたことが書いてあります。
その部分を読みながら、自分の体験として思い出したことがあります。この本に出てくる地元の人と同じく、うちの両親も九州出身です。素行や考え方が、共通するのです。動物はペットではなく、食べるものという意識が同じです。
わたしは、小学生の頃は動物が大好きでいろいろ飼っていましたが、ほとんどを両親に食べられてしまいました。そんなことを文章にしたものが、データで残っていました。文章をつくったのはもう何十年も昔のことです。ちょっとここに落としてみます。
『ぼくのペットは、両親にとっては、おかずだったこと』
小学生だったこどものころ、わたしは、たくさんの動物を飼っていました。
しかし、戦前戦後の食糧難(しょくりょうなん)の時代に育った両親は、愛玩動物(あいがんどうぶつ。ペット)という感覚はまったくもっておらず、動物は食べるために飼うという習性が身についていました。
以下、その犠牲(ぎせい)になった、わたしのペットたちを紹介します。
1 鳩(はと)
夕食時、こたつの上に、どーんと置かれた鍋の中に、プカーっと大きな見慣れぬ肉のかたまりが浮いていました。
「これ、何の肉?」とわたし。
両親が声をそろえて「鳩」
ガーンとくるわたし。
「ぼくは、食べない!」
「どうして?」と父。
「こっちがどうして、と言いたいわ!」
「好き嫌いはいけない」と母。
「食べない!」
わたしが、つがいで飼っていた鳩の片方を両親に食べられました。
そして、しばらくして、もう1わも食べられてしまいました。
「卵を産んだら、卵も食べてみるつもりだった」と父。
バカヤローー わたしは、父が嫌いでした。
2 うさぎ
数匹飼っていました。
餌ははっぱで、小学校から帰って来てから、山へ、餌になる草を取りに行っていました。
うさぎは、ころころっとした糞(ふん)をするので、わたしはせっせと掃除をしていました。
それは、わたしが原因でした。
うさぎを両手でだいていたところ、うさぎがバタバタっとあばれたので、思わず自分の両手を広げてしまいました。
うさぎは地面に落ちて、そのまま死んでしまいました。
ふつうは、それから土をほって、死んだうさぎを土にうめて、お墓をつくります。
両手をあわせて、悲しいお別れ…… というすじがきなのですが、わがやの場合は、ちがっていました。
うれしそうな父。
もうだめだと、わたしは、あきらめました。
父は、うさぎをもっていくと、料理のしかたを考えるそぶりをみせました。
わたしは、もう悲しくて、家の外に出て、ひたすらなわとびをしました。
前とびを延々(えんえん)と、とびました。
悲しい、くやしい、にくい。
そんなことを考えながら、とびつづけました。
このままでは、ほかのうさぎたちも親に食べられてしまう。
危機感をいだいたわたしは、友だちをあたり、残ったうさぎを飼ってくれるように頼みこみ、ひきとってもらいました。
3 亀
けっこう大きな亀を、わたしは飼っていました。
甲羅(こうら)のふちっこに錐で(きり)で穴を開けて、穴に針金を通し、針金の先を地面に打ち込んだ杭(くい)につなぎ、亀を家の前を流れる浅い溝に放していました。
餌は、溝の上流から流れてくる生活排水である残飯(ざんぱん)のくずでした。
ある夜、父の友人が、家に遊びに来ました。
そのとき父が、
「亀を食べると、長生きできる。亀をさかさづりにして、首をスパンと切り落として、流れ落ちてくる血をコップに入れて、亀の血を飲み干すと、長生きのいい薬になる」と友人に話をしていました。
わたしは、不吉な予感がしました。
数日後、わたしのペットの亀はいなくなりました。
母に言いました。
「亀がいない!」
「逃げたんじゃないの」
(違う! オヤジが食っちまったんだ)
4 あひる
わたしは、お祭りの縁日で買って来たそのあひるくんを、本当に本当に心をこめて育てていました。
当時、アンデルセンの『みにくいあひるの子』を読んで涙したわたしは、そのあひるくんを大切に育てていました。
しかし、大事に育てすぎて、死なせてしまいました。
ある日、川のそばを流れる用水路で、たくさんのおたまじゃくしを見つけたわたしは、愛するあひるくんに食べさせてあげようと、大量のおたまじゃくしを捕まえてきました。
そして、それらを、あひるくんに食べさせました。
あひるくんは、喜びながら大量のおたまじゃくしを食べました。
それから、あひるくんは、元気がなくなり、動かなくなり、数日後にひっそりと息を引き取りました。
そして、父の登場です。
さばくんですよ。
あひるの首を包丁で。
「ほら、こんなに、おたまじゃくしが、のどにつまっている。窒息死だな」
また、夕食のお鍋に肉のかたまりが浮いていました。
わたしは、胸がつまって、あひるどころか、ごはんつぶひとつも食べることができませんでした。
5 犬
わたしによくなつく白い野良犬(のらいぬ)がいたので、家に連れて帰りました。
わたしは、その犬に『ブタ犬』という名前をつけて飼い始めました。
体が白くて、鼻が赤くて、ブタみたいだったからです。
父が、
『戦時中は、犬も食べたなあ。赤い犬は、食べることができるんだよ』
(おまえは、犬も食べるのか!)
わたしは、恐怖(きょうふ)を覚えて、ブタ犬を逃がすことにしました。
でも、心配はいりませんでした。
ブタ犬のほうが、先にそのことに気づいたのか、わたしの家から逃げてしまいました。
小学校から帰ると、家にはブタ犬はもういませんでした。
数日後、集落のはずれでブタ犬を見つけたので、わたしはブタ犬に、何度も声をかけましたが、(フンとした表情で横向きで)無視されました。
長くなってしまいました。
本の感想に戻ります。
2011年(平成23年)東日本大震災を東京都中野区で体験して、そのあとの理由がふあ~とされた感じなのですが、地方への移住を考えたそうです。いろいろ地方を見て回って、場所を長崎にしたそうです。とくだん、長崎に親戚がいるということもなく、見て回ったときの印象が良かったそうです。
長崎は、坂の上にたくさん家が建っていて、車を横付けできるスペースがないのですが、地元の人が不便だと感じることを、東京暮らしをしていたご夫婦にとっては、快適な空間だったそうです。
不便なだけ、住民同士の距離が近いそうです。気持ちのもちかたの話です。声をかけやすい。声をかけられやすい。ものをもらったり、あげたりすることが楽しい。
ベルベット:毛足の長い織物。光沢がある。
母親と長男で、雉(キジ)を捌きます(さばきます)。迫力に満ちています。
しっかりした文章ですが、書いているお母さんは、ちょっと理屈っぽい人でもあります。
ここまで読んできて、今年読んで良かった一冊になりました。
『第4章 家族、この儘ならぬ(ままならぬ)もの』
コロナ禍だったときのことが書いてあります。
ご主人は職を失っておられます。長い在宅期間があって、どうも、これから先、ご家族で養鶏を目指されるような内容で終わっています。
ご長男は、実業家タイプです。まだ中学生の時から株式投資に目覚めて、農業関係の業種に投資先としての目をつけておられます。あわせて、コロナ禍の時は、株の暴落を体験されています。
ご長男の立場になってみると、生まれてから、勝手なことをする両親に振り回されているという不満はあられるかとは思います。東京の中野区にいたのに、長崎の山の中に連れてこられて、大きな環境の変化があったわけで、こずかいせんももらえず、自分で考えてお金をゲットしなければ、ほしいものも買えないという状況でした。
夫から妻に電話があって、『(コロナ禍の影響があって)退職することになりそう』と話があります。
中学生の長男が、『うちはなんでこんな不安定なんだよ!』と怒鳴り(どなり)、『子どもを養うのが親の務めだろ』と言います。
その部分を読んでいて思い出したことがあります。
自分がまだ四十代はじめだった頃、仕事でおもしろくないことがあって、家で家族がそろっているところで、『こんな仕事辞めてやる!』と大声で怒鳴った(どなった)ことがあります。
その後、しばらくたって、まだ小学校中学年ぐらいだった息子から、『あの時、本当にお父さんが仕事を辞めたら、これからさきうちは、どうやって生活していくのだろうかと不安だったよ』と聞かされて、すまなかったなと思ったことがあります。(がまんして、仕事は辞めませんでした)
長男さんはプチ家出を繰り返されて(公園で一夜を過ごすとか)、なかなか波乱万丈なご家庭です。中学生の長男さんが通っているのは、中高一貫教育の私立の学校なので、高校受験がないぶん、気持ちがあせらなくてすんだということはあります。(以前読んだ本に似たようなことが書いてありました。『喫茶店で松本隆さんから聞いたこと 山下賢二 夏葉社』 なによりもだいじなものは、『時間』。私立学校だったので大学受験がなかった。エスカレーター式(中学から大学まで内部進学できる)だった。受験勉強をしなくてよかったので、自分が自由に使える『時間』があった。時間を有効に使う。時間をムダにしない)
受験勉強に大量の時間を使うよりも、もっとほかのことに時間を使ったほうが、青春時代にとっては有益なのです。
なかなか厳しい長男と父親の対立があります。
(失業した父親に向かって長男が)『仕事もなくて、お父さんはあわれだよな』(いくらなんでも、言ってはいけない言葉です)
インターネット中毒のような話も出てきます。父親はスマホ、長男はパソコンです。そうやって、互いにぶつからないよう別々の世界をもちます。
読んでいるうちに、名作ドラマ、『北の国から』を思い出しました。父親である黒板五郎(田中邦衛さん(たなかくにえさん))と長男である純(吉岡秀隆さん。まだ小学校低学年のこどもでした)が対立します。純は、北海道富良野(ふらの)から生き別れになった(離婚後の)お母さんがいる東京に帰りたいのです。
プチ家出をした中学生の長男さんを地域社会が見守ります。田舎のいいところです。都会だと知らん顔で警察頼みです。
儘ならぬもの:ままならぬもの。思うようにならない。
後半部は、正直な母親の苦労を語られています。ふつう、心の奥底で、人に言うことは、はばかるような(思いとどまる)ことを書かれています。
(3人の)兄弟妹間で、区別(差別ともとれる)する扱いを自分はしていた。自分の心の中に、『鬼』がいた。
ほかの人の話で、泣き止まない(やまない)こどもを、マンションから落とそうと思ったことがあると書いてあるのを見て、自分も思い出したことがあります。
まだ、こどもがあかちゃんだったとき、生後半年ぐらいからひどい夜泣きが毎晩続き、心身ともに憔悴(しょうすい。疲れ果ててやつれる)したことがあります。真夜中、台所があるリビングで、泣きわめくあかちゃんを抱いてあやしながら、発作的に、床にたたきつけたいと思ったことがあります。たしか、翌日職場で先輩にその話をしたら、自分はそういうことはなかったけれど、あかちゃんの夜泣きは、半年ぐらいがまんすれば、ぱたりとなくなるし、それから一年もすれば、あかちゃんが夜泣きをしていたことも忘れてしまうよと言われたことを覚えています。じっさいそのとおりになりました。
親というものはつらいものなのです。子育てには、気が遠くなるほどの忍耐の積み重ねが必要です。世代交代しながら、順繰りで体験をして、人生とは、こういうものだということを味わうのです。
長男の家出がやまったら、こんどは、次男が小さな家出をしたそうです。なかなかたいへんです。
2024年05月01日
おじいちゃんがおばけになったわけ 絵本
おじいちゃんがおばけになったわけ キム・フォップス・オーカソン文 エヴァ・リリクソン・絵 菱木晃子・訳 あすなろ書房
先日読んだ本を思い出します。
『ことばのしっぽ 「こどもの詩」50周年精選集 読売新聞社生活部監修』
小学一年生の男児が、ゆうれいを見てみたいと言ったら、祖父と祖母が、自分が死んだら、ゆうれいになって出てきてあげると言ったそうです。小学生のぼくは、それが、楽しみですと言っています。(笑いました。おじいちゃんとおばあちゃんのゆうれいならこわくありません。おこづかいをくれるかもしれません)
さて、こちらの絵本です。
デンマークの作家さんの本です。スウェーデン生まれの絵描きさんです。
熊太郎もおじいさんなので、最初の絵は、おんなじだという気持ちになります。
男の子とおじいさんが並んで座っています。
熊太郎じいさんは今でも覚えています。
最初の孫の男の子がまだ2歳ぐらいのころ、うれしそうにそわそわと熊太郎じいさんのお隣に座っていたことを、なかなかいい感じだったと覚えています。血がつながっているから、なんとなく気持ちがわかりあえるのです。三月末に最終回を迎えた金曜夜のドラマ、『不適切にもほどがある!』の祖父と孫娘の関係にも似たものがあります。
エリック:男の子。6歳ぐらいに見えます。
エリックは、おじいちゃんが好きだったけれど、おじいちゃんは、道で倒れて死んでしまったそうです。
エリックは、悲しくて、いっぱい泣いたそうです。(ありがとね)
おじいさんのお葬式です。
うちの孫たちは、ひいおじいさんと、ひいおばあさんのお葬式に来てくれました。
仏教系の幼稚園に通っていたので、経典(きょうてん)を開きながら、お坊さんと一緒に、じょうずにお経(きょう)さんをあげてくれました。(ありがとね)
むずかしい事情が発生しました。
亡くなったじいじは、この世に心残りがあって、天国にも行けないし、土にもなれないそうです。
そうです。ゆうれいになって、空気中を、ただよっているのです。
じいじは、どういうわけか、背広でネクタイ姿です。(仕事人間なのか)
挿絵の(さしえの)絵は、洋画みたいです。
『この世にわすれものがあると、人はおばけになるよ』
人生というよりも、人の歴史です。
おじいさんは、なにかが心残りで、成仏(じょうぶつ。仏さまになる。悟りを開いて(さとりを開いて)仏さまになる)できないのでしょう。
こどもさんの絵を見ていて、自分にもこれぐらいの年齢の時があったことを覚えています。
小学校低学年のときは、まだ体もそれほど大きくありませんが、自分がそのくらいの年齢のときは、もうおとなの気分でした。
絵本の中では、おじいさんから孫にいろいろなことについてお話があります。
(なんとなく、癌で余命を告知された人が、遺る(のこる)人に伝言をしているようでもあります)
伝え終われば、きちんと、『さよなら』のあいさつをして、さよならをする。
冷静に考えて、死んだ人にはもう感情はありません。
この世に遺された人(のこされた人)が、ふんぎり(思い切った決心とか割り切りの気持ち)がつかないから、こういった作品群がこの世にあるのです。
別のこととして、孫が祖父母になつくためには、祖父母にはそれなりの努力が必要です。
祖父母というだけでは、孫は祖父母になついてはくれません。おもちゃを買ってあげたり、おいしいものを食べさせてあげたり、おこずかいをあげねばなりません。からだを動かして、いっしょに遊ぶことも必要です。
なにをやるにしても、ぼーっとしているだけでは、なにもできあがりません。
祖父母からの願いとしては、こどもや孫というものは、ただ、生きていてくれれば、それでいい。わたしはそう思っています。
(その後)
類似の作品をひとつ思い出しました。
『青空のむこう アレックス・シアラー 金原瑞人(かねはら・みずひと)・訳 求龍堂(きゅうりゅうどう)』
死んでしまった少年の話です。イギリスの小説家の児童文学作品です。
ハリー・デクランド:交通事故死した少年。サッカーが好き。10歳から12歳ぐらいに見える。死ぬ前に姉のエギーとけんかをしていたことを、死んでから後悔している。とても後悔している。捨てゼリフを姉にぶつけて家を出て、そのあと交通事故にあって死んでしまった。自転車に乗っていて、10トントラックにひかれた。
『…… お姉ちゃんなんか大嫌い! …… 帰ってくるもんか。もう二度と会いたくない』、姉のエギーが、『じゃあ帰ってこないで』と言い返したのが、この世の姉との会話の最後だった。(つらい話です。現実でも起きることです。家から出かける時は、ケンカしないほうがいい。本当に、それが最後になることがありえます)
先日読んだ本を思い出します。
『ことばのしっぽ 「こどもの詩」50周年精選集 読売新聞社生活部監修』
小学一年生の男児が、ゆうれいを見てみたいと言ったら、祖父と祖母が、自分が死んだら、ゆうれいになって出てきてあげると言ったそうです。小学生のぼくは、それが、楽しみですと言っています。(笑いました。おじいちゃんとおばあちゃんのゆうれいならこわくありません。おこづかいをくれるかもしれません)
さて、こちらの絵本です。
デンマークの作家さんの本です。スウェーデン生まれの絵描きさんです。
熊太郎もおじいさんなので、最初の絵は、おんなじだという気持ちになります。
男の子とおじいさんが並んで座っています。
熊太郎じいさんは今でも覚えています。
最初の孫の男の子がまだ2歳ぐらいのころ、うれしそうにそわそわと熊太郎じいさんのお隣に座っていたことを、なかなかいい感じだったと覚えています。血がつながっているから、なんとなく気持ちがわかりあえるのです。三月末に最終回を迎えた金曜夜のドラマ、『不適切にもほどがある!』の祖父と孫娘の関係にも似たものがあります。
エリック:男の子。6歳ぐらいに見えます。
エリックは、おじいちゃんが好きだったけれど、おじいちゃんは、道で倒れて死んでしまったそうです。
エリックは、悲しくて、いっぱい泣いたそうです。(ありがとね)
おじいさんのお葬式です。
うちの孫たちは、ひいおじいさんと、ひいおばあさんのお葬式に来てくれました。
仏教系の幼稚園に通っていたので、経典(きょうてん)を開きながら、お坊さんと一緒に、じょうずにお経(きょう)さんをあげてくれました。(ありがとね)
むずかしい事情が発生しました。
亡くなったじいじは、この世に心残りがあって、天国にも行けないし、土にもなれないそうです。
そうです。ゆうれいになって、空気中を、ただよっているのです。
じいじは、どういうわけか、背広でネクタイ姿です。(仕事人間なのか)
挿絵の(さしえの)絵は、洋画みたいです。
『この世にわすれものがあると、人はおばけになるよ』
人生というよりも、人の歴史です。
おじいさんは、なにかが心残りで、成仏(じょうぶつ。仏さまになる。悟りを開いて(さとりを開いて)仏さまになる)できないのでしょう。
こどもさんの絵を見ていて、自分にもこれぐらいの年齢の時があったことを覚えています。
小学校低学年のときは、まだ体もそれほど大きくありませんが、自分がそのくらいの年齢のときは、もうおとなの気分でした。
絵本の中では、おじいさんから孫にいろいろなことについてお話があります。
(なんとなく、癌で余命を告知された人が、遺る(のこる)人に伝言をしているようでもあります)
伝え終われば、きちんと、『さよなら』のあいさつをして、さよならをする。
冷静に考えて、死んだ人にはもう感情はありません。
この世に遺された人(のこされた人)が、ふんぎり(思い切った決心とか割り切りの気持ち)がつかないから、こういった作品群がこの世にあるのです。
別のこととして、孫が祖父母になつくためには、祖父母にはそれなりの努力が必要です。
祖父母というだけでは、孫は祖父母になついてはくれません。おもちゃを買ってあげたり、おいしいものを食べさせてあげたり、おこずかいをあげねばなりません。からだを動かして、いっしょに遊ぶことも必要です。
なにをやるにしても、ぼーっとしているだけでは、なにもできあがりません。
祖父母からの願いとしては、こどもや孫というものは、ただ、生きていてくれれば、それでいい。わたしはそう思っています。
(その後)
類似の作品をひとつ思い出しました。
『青空のむこう アレックス・シアラー 金原瑞人(かねはら・みずひと)・訳 求龍堂(きゅうりゅうどう)』
死んでしまった少年の話です。イギリスの小説家の児童文学作品です。
ハリー・デクランド:交通事故死した少年。サッカーが好き。10歳から12歳ぐらいに見える。死ぬ前に姉のエギーとけんかをしていたことを、死んでから後悔している。とても後悔している。捨てゼリフを姉にぶつけて家を出て、そのあと交通事故にあって死んでしまった。自転車に乗っていて、10トントラックにひかれた。
『…… お姉ちゃんなんか大嫌い! …… 帰ってくるもんか。もう二度と会いたくない』、姉のエギーが、『じゃあ帰ってこないで』と言い返したのが、この世の姉との会話の最後だった。(つらい話です。現実でも起きることです。家から出かける時は、ケンカしないほうがいい。本当に、それが最後になることがありえます)
2024年04月30日
テーブルマナーの絵本 髙野紀子・作
テーブルマナーの絵本 髙野紀子・作 あすなろ書房
本のカバーも本体表紙も絵がきれいです。こどもさん向けの絵本です。
食べ物や食事をするときの道具が美しく描かれています。
登場してくるのは、くまさんやうさぎ、きつね、たぬきなどのキャラクターです。
ごはんを食べるときのマナー(礼儀作法)を教えてくれる絵本です。
表紙をめくると、ごはんのふたは左に、おみそ汁のふたは右にと書いてあります。(そうか、自分はこれまで間違えていなかった。ほっとしました)
くまさんの(たぶんクマだと思います)おばあさんが、マナーを教えてくださいます。
13ページにある、『手で持って食べる器』に、日本そばのつけ汁、さしみなどのしょうゆ皿、てんぷらのつけ汁の器があって、手で持って食べていもいいということを知りませんでした。
14ページに、『返し箸(はし。箸の上で食べ物をとって配る)』は、よくないことですというのも初めて知りました。やめましょうとあります。
15ページ、江戸前ちらし寿司のばあい、寿司ネタを小皿のおしょうゆにつけながら食べるということも知りませんでした。熊太郎じいさんは、長いこと生きてきましたが、まだまだ知らないことがたくさんあります。
うな重のふたは、器の下にしいてもOKだそうです。
17ページには、ざぶとんの座り方が書いてあります。ざぶとんの手前にすわってから、両手で体を支えながら前に進んで座るそうです。ふむふむ、なるほど。
こどもさん向けのマナー本です。
食事時にやんちゃやっちゃいけないと教えます。
まわりにいる人たちに迷惑をかけちゃいけないのです。
まず、『和食』、次に『洋食』、それから、『外食』と項目が分かれています。
焼き魚の食べ方が役立ちます。
頭の後ろからしっぽに向かって食べる。次に骨をはずして、骨を上に置く。次に左側から反対側にある身の部分を食べる。なるほど。
あいさつもちゃんとする。『いただきます』、『ごちそうさま』です。
お箸(はし)の持ち方の説明もあります。
日本茶の入れ方・飲み方、くわえて、和菓子の食べ方もあります。
もう1回あいさつの説明があります。よその家に行ったときのあいさつです。
『こんにちは!』、『ありがとうございます』、『さようなら』
こちらの絵本は、マナーだけではなくて、お料理の本でもあります。お菓子づくりの説明も少しあります。
カトラリー:洋食で、ナイフ・フォーク、スプーンなどのことを、カトラリーというそうです。
洋食の食べ方は、熊太郎のにがてな世界です。
洋食のマナーは、読んでいるだけで疲れてきました。
外食のマナーがあります。
ルールがいっぱい書いてあります。
『回転寿司店』でのことが、書いてあります。
以前、SNSの投稿で、回転寿司店でひどい迷惑行為をした高校生が、お店や世間の人たちから、徹底的にたたかれたことがありましたが、この絵本を読んでおけばよかったのにと思ったのです。こどものうちに、絵本をしっかり読んでおくことはだいじなことです。
裏表紙を見ました。
まんなかにお皿があって、左右にフォークとナイフがたくさん並べてあります。
外側に置いてあるものから使うそうです。
そういうレストランに行ったことが何度かありますが、もうずいぶん前のことで、どこからナイフとフォークを手にしたのか覚えていません。
結婚式に呼ばれて行ったときかもしれません。
もう歳をとってきたので、最近は、結婚式よりもお葬式に行くことのほうが増えました。
手を洗う、『フィンガーボール』のことが出てきました。
たしか、小学生の頃の道徳の授業で、フィンガーボールの水を間違えて飲んでしまった人の話を聞きました。マナーを知らずに、間違ってしまった人をばかにしてはいけないという趣旨のお話だった記憶です。
本のカバーも本体表紙も絵がきれいです。こどもさん向けの絵本です。
食べ物や食事をするときの道具が美しく描かれています。
登場してくるのは、くまさんやうさぎ、きつね、たぬきなどのキャラクターです。
ごはんを食べるときのマナー(礼儀作法)を教えてくれる絵本です。
表紙をめくると、ごはんのふたは左に、おみそ汁のふたは右にと書いてあります。(そうか、自分はこれまで間違えていなかった。ほっとしました)
くまさんの(たぶんクマだと思います)おばあさんが、マナーを教えてくださいます。
13ページにある、『手で持って食べる器』に、日本そばのつけ汁、さしみなどのしょうゆ皿、てんぷらのつけ汁の器があって、手で持って食べていもいいということを知りませんでした。
14ページに、『返し箸(はし。箸の上で食べ物をとって配る)』は、よくないことですというのも初めて知りました。やめましょうとあります。
15ページ、江戸前ちらし寿司のばあい、寿司ネタを小皿のおしょうゆにつけながら食べるということも知りませんでした。熊太郎じいさんは、長いこと生きてきましたが、まだまだ知らないことがたくさんあります。
うな重のふたは、器の下にしいてもOKだそうです。
17ページには、ざぶとんの座り方が書いてあります。ざぶとんの手前にすわってから、両手で体を支えながら前に進んで座るそうです。ふむふむ、なるほど。
こどもさん向けのマナー本です。
食事時にやんちゃやっちゃいけないと教えます。
まわりにいる人たちに迷惑をかけちゃいけないのです。
まず、『和食』、次に『洋食』、それから、『外食』と項目が分かれています。
焼き魚の食べ方が役立ちます。
頭の後ろからしっぽに向かって食べる。次に骨をはずして、骨を上に置く。次に左側から反対側にある身の部分を食べる。なるほど。
あいさつもちゃんとする。『いただきます』、『ごちそうさま』です。
お箸(はし)の持ち方の説明もあります。
日本茶の入れ方・飲み方、くわえて、和菓子の食べ方もあります。
もう1回あいさつの説明があります。よその家に行ったときのあいさつです。
『こんにちは!』、『ありがとうございます』、『さようなら』
こちらの絵本は、マナーだけではなくて、お料理の本でもあります。お菓子づくりの説明も少しあります。
カトラリー:洋食で、ナイフ・フォーク、スプーンなどのことを、カトラリーというそうです。
洋食の食べ方は、熊太郎のにがてな世界です。
洋食のマナーは、読んでいるだけで疲れてきました。
外食のマナーがあります。
ルールがいっぱい書いてあります。
『回転寿司店』でのことが、書いてあります。
以前、SNSの投稿で、回転寿司店でひどい迷惑行為をした高校生が、お店や世間の人たちから、徹底的にたたかれたことがありましたが、この絵本を読んでおけばよかったのにと思ったのです。こどものうちに、絵本をしっかり読んでおくことはだいじなことです。
裏表紙を見ました。
まんなかにお皿があって、左右にフォークとナイフがたくさん並べてあります。
外側に置いてあるものから使うそうです。
そういうレストランに行ったことが何度かありますが、もうずいぶん前のことで、どこからナイフとフォークを手にしたのか覚えていません。
結婚式に呼ばれて行ったときかもしれません。
もう歳をとってきたので、最近は、結婚式よりもお葬式に行くことのほうが増えました。
手を洗う、『フィンガーボール』のことが出てきました。
たしか、小学生の頃の道徳の授業で、フィンガーボールの水を間違えて飲んでしまった人の話を聞きました。マナーを知らずに、間違ってしまった人をばかにしてはいけないという趣旨のお話だった記憶です。
2024年04月29日
パンやの くまさん フィービとセルビ・ウォージントン
パンやの くまさん フィービとセルビ・ウォージントン さく/え まさきるりこ/やく 福音館書店
かわいらしいくまの絵です。ぬいぐるみみたいな、くまです。
1987年(昭和62年)発行の絵本です。
仕事人間のくまに見えます。
まじめに朝早くから働くのです。
絵本に登場しているくまは、仕事をするために生きているのです。
パン屋という店舗での販売と、パンの移動販売車による販売と、ふたつの販売方法を一日のうちに一頭のくまが両方こなします。稼ぐのです。
パン屋ですから、朝ご飯はパンです。(ちなみに、夜のごはんもパンでした)
くまはひとりで、パンとケーキとパイをつくります。
くまは、移動販売車の運転もします。
くまは、がらんがらんと鐘をならして、お客さんの呼び込みもします。
人気のパンやさんです。
くまは、配達もします。
くまは、たんじょうびのパーティをするおうちに、ケーキを届けます。
移動販売車の販売終了後、くまは、お店にもどって、お店でパンを売ります。
くまは、あいさつがしっかりしています。
『おはようございます』、『いらっしゃいませ』、『ありがとうございます』
こどもづれのおきゃくさんのときは、くまはこどもさんに、キャンデーをプレゼントします。
くまの晩ごはんは、ジャムをぬったマフィンとゼリーでした。
マフィンは、イギリスの絵本作家さんですから、イングリッシュ・マフィンで丸型のパンでしょう。
夕食後、本日の儲けを(もうけを)確認します。
お客さまからいただいた硬貨を貯金箱に入れます。これで、安心だそうです。お金をためると気持ちが落ち着きます。お金がたまると、気持ちにゆとりが生まれます。
くまは、ひとりでがんばるのね。
仲間がほしいところです。
ひらがなが読めるようになったこどもさんが、自分で声を出して読むのに最適な絵本だと感じました。そして、しっかり働こう(こどもだから勉強しよう)ということを教える絵本でもあります。
かわいらしいくまの絵です。ぬいぐるみみたいな、くまです。
1987年(昭和62年)発行の絵本です。
仕事人間のくまに見えます。
まじめに朝早くから働くのです。
絵本に登場しているくまは、仕事をするために生きているのです。
パン屋という店舗での販売と、パンの移動販売車による販売と、ふたつの販売方法を一日のうちに一頭のくまが両方こなします。稼ぐのです。
パン屋ですから、朝ご飯はパンです。(ちなみに、夜のごはんもパンでした)
くまはひとりで、パンとケーキとパイをつくります。
くまは、移動販売車の運転もします。
くまは、がらんがらんと鐘をならして、お客さんの呼び込みもします。
人気のパンやさんです。
くまは、配達もします。
くまは、たんじょうびのパーティをするおうちに、ケーキを届けます。
移動販売車の販売終了後、くまは、お店にもどって、お店でパンを売ります。
くまは、あいさつがしっかりしています。
『おはようございます』、『いらっしゃいませ』、『ありがとうございます』
こどもづれのおきゃくさんのときは、くまはこどもさんに、キャンデーをプレゼントします。
くまの晩ごはんは、ジャムをぬったマフィンとゼリーでした。
マフィンは、イギリスの絵本作家さんですから、イングリッシュ・マフィンで丸型のパンでしょう。
夕食後、本日の儲けを(もうけを)確認します。
お客さまからいただいた硬貨を貯金箱に入れます。これで、安心だそうです。お金をためると気持ちが落ち着きます。お金がたまると、気持ちにゆとりが生まれます。
くまは、ひとりでがんばるのね。
仲間がほしいところです。
ひらがなが読めるようになったこどもさんが、自分で声を出して読むのに最適な絵本だと感じました。そして、しっかり働こう(こどもだから勉強しよう)ということを教える絵本でもあります。
2024年04月25日
がん「ステージ4」から生まれ変わって 小倉一郎
がん「ステージ4」から生まれ変わって いのちの歳時記 小倉一郎(おぐら・いちろう) 双葉社
幼少期を鹿児島県下甑島(しもこしき島)で過ごされたそうです。
わたしがこどものころ読んだ本に、『孤島の野犬(ことうのやけん)』という児童文学本がありました。甑島(こしきじま)が舞台だった記憶です。作者は、椋鳩十(むく・はとじゅう)さんです。1905年(明治38年)-1987年(昭和62年)82歳没。小説家。児童文学作家。
自分が就職した時、甑島出身の人が職場にいて、その本を読んだことがあると話したことを覚えています。
さて、こちらは、がんの宣告を受けた俳優さんの手記です。
本の最後のほうに、ご本人が文章を書いたのではなく、ご本人から聞き取りをしてつくられた文章だと書いてありました。(11ページに、双葉社の編集長の質問に答える形でこの本ができているそうです)
いずれにしても、ステージ4という(わたしは死の宣告だと思っています)厳しい状態から命をつないでおられます。たいしたものです。
目次に、『なぜ僕は生還できたのか?』とあります。全体的に、がんの早期発見を勧める内容になっているような気がする目次の内容でした。
『第一章 予兆』
2021年(令和3年)12月10日に、移動撮影用のアルミ製レールに足をとられて転倒して右足首を骨折した。(当時小倉さんは70歳ぐらいです。老齢になってからの転倒は、大きな話に発展します。もう若い時のように体が反応してくれません。わたしもふらふらすることがあります。ころびそうになると、自力で自分の体を支えて体勢を元に戻せません。いかにして、じょうずに、ころぼうかと考えます)
自分の実感だと、だれしもが、48歳ぐらいから体の具合が悪くなり始めます。壊れた体はもう元には戻りません。目が見にくくなってきて、歯は歯周病になって、皮膚もかぶれやすくなります。記憶力は衰えて、若い頃はびゅんびゅん動いていた体が、ゆっくりしか動けなくなります。女性は女性で更年期障害とか、またいろいろあると思います。
十代・二十代の若い人にはわからないと思います。中高年になってくると、指先はかさかさになって、しめりけがなくなります。新聞紙や本のページをめくれなくなります。だれもが、歳をとるのです。早くそういうことに気づいて、若い時から、心身のケアをしておいたほうがいいですよとアドバイスします。暴飲暴食は体を壊して歳をとってから深く後悔する原因になります。心身を酷使しないほうがいいですよ。健康が最優先です。
さて小倉一郎さんは、転倒して骨折した翌年、背中の右側に激痛があって、それが、肺がんの発見につながっています。
思うに、がんと気づくまでに痛みの予兆があると思うのです。
自覚症状です。内臓に痛みがあると思うのです。
早期に医療機関を受診したほうがいいです。小倉一郎さんは、30年間ぐらい健康診断を受けていなかったそうです。
本では、生まれ育ちのふりかえりから、身内にがんの遺伝血統があるような記述があります。いとこが末期の肺がんステージ4で、65歳で亡くなっています。
小倉一郎さんは、肺がんです。だいぶ前に禁煙されたそうですが、それまでは長いことタバコを吸っておられたそうです。
アルコールもだいぶ飲まれたようです。
怒られるかもしれませんが、わたしは、人間を判断するときの、ものさしのひとつとしてタバコを吸う人かどうかで、人間性を判断しています。たばこを吸う人に、いい人はいないと判断しています。
PET検査:注射をして、画像を見て、がんの有無や広がりを確認する。
『第二章 告知』
死ぬ準備を考えなければなりません。
わたしはこれまでに、がんで余命宣告を受けて亡くなっていった方たちの本を何冊も読みました。
自分ではどうすることもできない命でした。
覚悟を決めて、まわりにいる家族や友人たちとよく話をして、死地に旅立つ用意をして、みんなにサヨナラをしていくのです。
つらいものがあります。
小倉一郎さんの元の妻、昌子さんとのお子さんとして、長女:悠希さん 長男:龍希さん 次女:瑞希さん 三女:彩希さん みなさん、「希望」の「希」がつきます。
小倉一郎さんの実母、早苗さんは、小倉さんが誕生して1週間後に亡くなっています。(洋画、『愛情物語』みたいです)
叔母(父親の姉)山下初穂さんが育ての親です。
叔母山下初穂さんの息子憲夫さん(5歳年下)が、ステージ4の末期肺がんで亡くなっています。65歳でした。同居されていたから兄弟のような感じでお互いに育ったのでしょう。いとこです。
今の奥さんがまきさんです。小倉一郎さんは何度か結婚を経験されています。
小倉一郎さんは、父、兄、姉も亡くされています。なんだか、ご親族の命に恵まれない様子で、文章を読んでいて胸が詰まります。
2022年(令和4年)3月4日余命宣告を受ける。あと1年か2年の命と言われる。
いろいろ葛藤があります。(かっとう:苦悩する心理状態)
医師にとって、余命宣告は日常的な仕事なのでしょう。余命宣告にあたって、思いやりというような感情はこもっていません。事務的な通告です。
病状に関する具体的な話が淡々と出てきます。
本人の気持ちとして、『受け入れる』というよりも、『あきらめる』というほうが気持ちに合っていたそうです。奥さんとマネージャーと三人、みな無言です。
ご本人の頭の中にあるのは、残りの人生をどうやって過ごそうかです。
中学生から幼稚園までの孫5人には祖父ががんであることを教えないようにと指示をされています。
わたしは、孫たちには、遺体を見せるようにしています。義父母(妻の両親。孫たちからみれば、ひいおじいさんとひいおばあさん)の遺体は、葬儀のときに幼稚園生だった孫たちに見せました。孫たちは神妙な顔をしていましたが、なんだか状況をよくわかっていないようすでした。こちらの願いとしては、『人間の死』というものを体感してほしかった。
あきらめて静かになった小倉一郎さんを、友人や、とくに長女さんが鼓舞します。(こぶ:励まし振るい立たせる)
『少しはジタバタしなよ』
あきらめないのです。病院を変えます。がん治療の専門病院へ転院します。4月8日が初診です。
思い出づくりのための親族旅行です。
三世代総勢15人で、熱海へ行かれました。元妻とそのこどもたちもいます。
桜が満開だったそうです。
ご本人は、最後の家族旅行になるだろうと観念されています。(かんねん:あきらめる)
その後、ご本人は、やせてフラフラになります。
『救いの手』
深刻な話が続きます。
なんだかもう死ぬしかないみたいな雰囲気です。
肺がんステージ4です。
神奈川県立がんセンターのあたりから潮目が変わります。感謝という雰囲気が生まれてきます。
わたしには、理解できない単語が続きます。『重粒子線治療等(じゅうりゅうしせんちりょうとう)』、『手術や放射線治療』、『抗がん剤による化学療法』、『細胞障害性抗がん剤』、『根治(こんち。再発しない)』、『免疫チェックポイント阻害薬』、『分子標的薬』、『KRAS G12C遺伝子変異』、『緩和照射』、『医療用麻薬オキノーム』、『サイバーナイフ』
医師からの励ましの言葉は、『やれることは、すべてやりましょう』
がんが脳に転移しています。右の脳に10円玉大の腫瘍が見つかります。
読んでいて、絶望的な状態に思えます。
役者さんですから、医師の役をしたこともあるし、脳腫瘍の患者の役もしたこともあるそうです。
それが、現実になるという不思議な感覚があります。
脳に腫瘍があるから幻覚があります。実際は起きていないことが、脳の中で展開されます。
がん治療にはお金がかかるそうです。お子さんたちからの援助があります。
家族はだいじです。
高額療養費の制度があるので、だいじょうぶなような気がするのですが、自由診療(全額自己負担。保険適用なし)というのもあるようです。
(第四章で、脱毛対策ウィッグには、購入費助成制度があるそうです)
わずか2か月間で、55kgだった体重が、44kgに減少した。身長は、4cm縮んだ。
骨川筋衛門(ほねかわすじえもん)になってしまいます。死んじゃいます。
ふつうに考えると、在宅でしばらくすごして、家族と今後のことについてよく話し合って、記録を残して、状態が悪化したら入院して、楽にあの世へ旅立つという筋書きが思い浮かびます。
以前読んだ本に、『無人島のふたり 120日生きなくちゃ日記 山本文緒(やまもと・ふみお) 新潮社』があります。亡くなった女性小説家の方の日記です。余命宣告を受けて、2021年10月13日(令和3年)に、すい臓がんのため58歳でご逝去(ごせいきょ)されています。
『第四章 奇跡』
わたしの知らない単語が続きます。『新薬ソトラシブ』、『カルボプラチン(従来の抗がん剤)』、『ペメトレキセド(従来の抗がん剤)』、『ペムブロリズマブ(免疫チェックポイント阻害薬)』、『キイトルーダ』、『CD169陽性マクロファージ』、『カロナール』
治療の効果が現れます。
肺にあったがんの映像が小さくなります。
食欲が戻ってきました。やはり人間は、食べなくなったら死にます。小倉さんは自分でつくる手料理に目覚めます。味覚も良くなったそうです。
さらに、脳にあったがんが、『サイバーナイフ』という治療で、死滅しました。たった1回の照射で、癌細胞の固まりの映像が、ちりぢりのゴマ粒(つぶ)みたいな映像になったそうです。
俳句をつくること、俳句の会を運営することが、心の支えになっています。
番組、『徹子の部屋』に出演された回はわたしも見ました。2023年5月2日(火)でした。そのときはお元気そうなようすでした。
そのころうちの家族も大腸ポリープ切除の入院をしたころで、それはがんではなかったので、ほっとしたということが自分の当時の日記に書いてあります。
がんは治ったのではなく、治った“かのように”見えるだけですと書いてあります。
小倉一郎さんは、過去に転移したことがあるわけで、油断は禁物です。一日一日が大切な命の時間です。
育ての親の叔母さんのことが書いてあります。ひもじい思いをしたことは一度もないそうです。
邦画、『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』では、九州の母親役を演じる樹木希林さん(きき・きりんさん)が、東京で暮らす息子さんに、いつも、なんども、『ちゃんとごはんを食べているか?』と聞きます。息子が食べていると返事をすると、樹木希林さんは気持ちが落ち着きます。母親の役目はただひとつ、こどもにちゃんとごはんを食べさせることだけなのです。
『第五章 生かされて、今思うこと』
余命宣告をされて、来年に桜を見ることはないだろうと思ったそうです。桜と余命宣告はよく結び付けられます。さくらの花びらが散る光景が、命が尽きることを思い浮かべるきっかけになるからでしょう。
足を骨折したことがきっかけになって、がんがあることが判明した。めぐりあわせの奇妙さがあります。
人生では、幸運な流れが大切です。失敗したと思っていても、それが成功につながることがあります。
生き続けるための3カ条が書いてあります。①異常を感じたらすぐ病院を受診する。②可能であれば、がん専門病院を受診する。③モニターしか見ないドクターには要注意(患者の顔を見て話をしてくれるドクターを選ぶ)
気持ちの持ち方として、(がんの)再発は、絶対にある。
162ページの文章がよくわかりませんでした。
『遺書は、これから書くつもりです。』の次に、俳句で、『遺言を呟いてゐる秋の蝉(ゆいごんを つぶやいている あきのせみ』と書いてあります。最初の『遺書(いしょ)』は、『遺言(ゆいごん)』の間違いではなかろうか。『遺書』だとなんだか、もうすぐに死んでしまうみたいです。
わたしはすでに遺言(ゆいごん)をつくって、司法書士法人にお願いして、公証人役場に届け出をしましたが、小倉一郎さんがこのページで書いた、『遺書』の意味は、公正証書遺言の手続きで出てくる『付言(ふげん)』だろうと考えました。遺言は、相続のやり方の内容で、付言は気持ちの伝達です。付言は遺族に自分の気持ちを伝えるのです。感謝と気遣いの言葉です。
本の後半は、気持ちが落ち着かれたのか、緩い(ゆるい)流れになっています。
たわいのないことだけれど、『生きている』という実感があります。
最後のほうに娘さんのコメントがあります。
読んでいると、自分にこどもがいて良かったなという気持ちになります。
人生の記念誌という位置づけの本でした。
がんで苦しんでいる人たちに役立つ本です。
幼少期を鹿児島県下甑島(しもこしき島)で過ごされたそうです。
わたしがこどものころ読んだ本に、『孤島の野犬(ことうのやけん)』という児童文学本がありました。甑島(こしきじま)が舞台だった記憶です。作者は、椋鳩十(むく・はとじゅう)さんです。1905年(明治38年)-1987年(昭和62年)82歳没。小説家。児童文学作家。
自分が就職した時、甑島出身の人が職場にいて、その本を読んだことがあると話したことを覚えています。
さて、こちらは、がんの宣告を受けた俳優さんの手記です。
本の最後のほうに、ご本人が文章を書いたのではなく、ご本人から聞き取りをしてつくられた文章だと書いてありました。(11ページに、双葉社の編集長の質問に答える形でこの本ができているそうです)
いずれにしても、ステージ4という(わたしは死の宣告だと思っています)厳しい状態から命をつないでおられます。たいしたものです。
目次に、『なぜ僕は生還できたのか?』とあります。全体的に、がんの早期発見を勧める内容になっているような気がする目次の内容でした。
『第一章 予兆』
2021年(令和3年)12月10日に、移動撮影用のアルミ製レールに足をとられて転倒して右足首を骨折した。(当時小倉さんは70歳ぐらいです。老齢になってからの転倒は、大きな話に発展します。もう若い時のように体が反応してくれません。わたしもふらふらすることがあります。ころびそうになると、自力で自分の体を支えて体勢を元に戻せません。いかにして、じょうずに、ころぼうかと考えます)
自分の実感だと、だれしもが、48歳ぐらいから体の具合が悪くなり始めます。壊れた体はもう元には戻りません。目が見にくくなってきて、歯は歯周病になって、皮膚もかぶれやすくなります。記憶力は衰えて、若い頃はびゅんびゅん動いていた体が、ゆっくりしか動けなくなります。女性は女性で更年期障害とか、またいろいろあると思います。
十代・二十代の若い人にはわからないと思います。中高年になってくると、指先はかさかさになって、しめりけがなくなります。新聞紙や本のページをめくれなくなります。だれもが、歳をとるのです。早くそういうことに気づいて、若い時から、心身のケアをしておいたほうがいいですよとアドバイスします。暴飲暴食は体を壊して歳をとってから深く後悔する原因になります。心身を酷使しないほうがいいですよ。健康が最優先です。
さて小倉一郎さんは、転倒して骨折した翌年、背中の右側に激痛があって、それが、肺がんの発見につながっています。
思うに、がんと気づくまでに痛みの予兆があると思うのです。
自覚症状です。内臓に痛みがあると思うのです。
早期に医療機関を受診したほうがいいです。小倉一郎さんは、30年間ぐらい健康診断を受けていなかったそうです。
本では、生まれ育ちのふりかえりから、身内にがんの遺伝血統があるような記述があります。いとこが末期の肺がんステージ4で、65歳で亡くなっています。
小倉一郎さんは、肺がんです。だいぶ前に禁煙されたそうですが、それまでは長いことタバコを吸っておられたそうです。
アルコールもだいぶ飲まれたようです。
怒られるかもしれませんが、わたしは、人間を判断するときの、ものさしのひとつとしてタバコを吸う人かどうかで、人間性を判断しています。たばこを吸う人に、いい人はいないと判断しています。
PET検査:注射をして、画像を見て、がんの有無や広がりを確認する。
『第二章 告知』
死ぬ準備を考えなければなりません。
わたしはこれまでに、がんで余命宣告を受けて亡くなっていった方たちの本を何冊も読みました。
自分ではどうすることもできない命でした。
覚悟を決めて、まわりにいる家族や友人たちとよく話をして、死地に旅立つ用意をして、みんなにサヨナラをしていくのです。
つらいものがあります。
小倉一郎さんの元の妻、昌子さんとのお子さんとして、長女:悠希さん 長男:龍希さん 次女:瑞希さん 三女:彩希さん みなさん、「希望」の「希」がつきます。
小倉一郎さんの実母、早苗さんは、小倉さんが誕生して1週間後に亡くなっています。(洋画、『愛情物語』みたいです)
叔母(父親の姉)山下初穂さんが育ての親です。
叔母山下初穂さんの息子憲夫さん(5歳年下)が、ステージ4の末期肺がんで亡くなっています。65歳でした。同居されていたから兄弟のような感じでお互いに育ったのでしょう。いとこです。
今の奥さんがまきさんです。小倉一郎さんは何度か結婚を経験されています。
小倉一郎さんは、父、兄、姉も亡くされています。なんだか、ご親族の命に恵まれない様子で、文章を読んでいて胸が詰まります。
2022年(令和4年)3月4日余命宣告を受ける。あと1年か2年の命と言われる。
いろいろ葛藤があります。(かっとう:苦悩する心理状態)
医師にとって、余命宣告は日常的な仕事なのでしょう。余命宣告にあたって、思いやりというような感情はこもっていません。事務的な通告です。
病状に関する具体的な話が淡々と出てきます。
本人の気持ちとして、『受け入れる』というよりも、『あきらめる』というほうが気持ちに合っていたそうです。奥さんとマネージャーと三人、みな無言です。
ご本人の頭の中にあるのは、残りの人生をどうやって過ごそうかです。
中学生から幼稚園までの孫5人には祖父ががんであることを教えないようにと指示をされています。
わたしは、孫たちには、遺体を見せるようにしています。義父母(妻の両親。孫たちからみれば、ひいおじいさんとひいおばあさん)の遺体は、葬儀のときに幼稚園生だった孫たちに見せました。孫たちは神妙な顔をしていましたが、なんだか状況をよくわかっていないようすでした。こちらの願いとしては、『人間の死』というものを体感してほしかった。
あきらめて静かになった小倉一郎さんを、友人や、とくに長女さんが鼓舞します。(こぶ:励まし振るい立たせる)
『少しはジタバタしなよ』
あきらめないのです。病院を変えます。がん治療の専門病院へ転院します。4月8日が初診です。
思い出づくりのための親族旅行です。
三世代総勢15人で、熱海へ行かれました。元妻とそのこどもたちもいます。
桜が満開だったそうです。
ご本人は、最後の家族旅行になるだろうと観念されています。(かんねん:あきらめる)
その後、ご本人は、やせてフラフラになります。
『救いの手』
深刻な話が続きます。
なんだかもう死ぬしかないみたいな雰囲気です。
肺がんステージ4です。
神奈川県立がんセンターのあたりから潮目が変わります。感謝という雰囲気が生まれてきます。
わたしには、理解できない単語が続きます。『重粒子線治療等(じゅうりゅうしせんちりょうとう)』、『手術や放射線治療』、『抗がん剤による化学療法』、『細胞障害性抗がん剤』、『根治(こんち。再発しない)』、『免疫チェックポイント阻害薬』、『分子標的薬』、『KRAS G12C遺伝子変異』、『緩和照射』、『医療用麻薬オキノーム』、『サイバーナイフ』
医師からの励ましの言葉は、『やれることは、すべてやりましょう』
がんが脳に転移しています。右の脳に10円玉大の腫瘍が見つかります。
読んでいて、絶望的な状態に思えます。
役者さんですから、医師の役をしたこともあるし、脳腫瘍の患者の役もしたこともあるそうです。
それが、現実になるという不思議な感覚があります。
脳に腫瘍があるから幻覚があります。実際は起きていないことが、脳の中で展開されます。
がん治療にはお金がかかるそうです。お子さんたちからの援助があります。
家族はだいじです。
高額療養費の制度があるので、だいじょうぶなような気がするのですが、自由診療(全額自己負担。保険適用なし)というのもあるようです。
(第四章で、脱毛対策ウィッグには、購入費助成制度があるそうです)
わずか2か月間で、55kgだった体重が、44kgに減少した。身長は、4cm縮んだ。
骨川筋衛門(ほねかわすじえもん)になってしまいます。死んじゃいます。
ふつうに考えると、在宅でしばらくすごして、家族と今後のことについてよく話し合って、記録を残して、状態が悪化したら入院して、楽にあの世へ旅立つという筋書きが思い浮かびます。
以前読んだ本に、『無人島のふたり 120日生きなくちゃ日記 山本文緒(やまもと・ふみお) 新潮社』があります。亡くなった女性小説家の方の日記です。余命宣告を受けて、2021年10月13日(令和3年)に、すい臓がんのため58歳でご逝去(ごせいきょ)されています。
『第四章 奇跡』
わたしの知らない単語が続きます。『新薬ソトラシブ』、『カルボプラチン(従来の抗がん剤)』、『ペメトレキセド(従来の抗がん剤)』、『ペムブロリズマブ(免疫チェックポイント阻害薬)』、『キイトルーダ』、『CD169陽性マクロファージ』、『カロナール』
治療の効果が現れます。
肺にあったがんの映像が小さくなります。
食欲が戻ってきました。やはり人間は、食べなくなったら死にます。小倉さんは自分でつくる手料理に目覚めます。味覚も良くなったそうです。
さらに、脳にあったがんが、『サイバーナイフ』という治療で、死滅しました。たった1回の照射で、癌細胞の固まりの映像が、ちりぢりのゴマ粒(つぶ)みたいな映像になったそうです。
俳句をつくること、俳句の会を運営することが、心の支えになっています。
番組、『徹子の部屋』に出演された回はわたしも見ました。2023年5月2日(火)でした。そのときはお元気そうなようすでした。
そのころうちの家族も大腸ポリープ切除の入院をしたころで、それはがんではなかったので、ほっとしたということが自分の当時の日記に書いてあります。
がんは治ったのではなく、治った“かのように”見えるだけですと書いてあります。
小倉一郎さんは、過去に転移したことがあるわけで、油断は禁物です。一日一日が大切な命の時間です。
育ての親の叔母さんのことが書いてあります。ひもじい思いをしたことは一度もないそうです。
邦画、『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』では、九州の母親役を演じる樹木希林さん(きき・きりんさん)が、東京で暮らす息子さんに、いつも、なんども、『ちゃんとごはんを食べているか?』と聞きます。息子が食べていると返事をすると、樹木希林さんは気持ちが落ち着きます。母親の役目はただひとつ、こどもにちゃんとごはんを食べさせることだけなのです。
『第五章 生かされて、今思うこと』
余命宣告をされて、来年に桜を見ることはないだろうと思ったそうです。桜と余命宣告はよく結び付けられます。さくらの花びらが散る光景が、命が尽きることを思い浮かべるきっかけになるからでしょう。
足を骨折したことがきっかけになって、がんがあることが判明した。めぐりあわせの奇妙さがあります。
人生では、幸運な流れが大切です。失敗したと思っていても、それが成功につながることがあります。
生き続けるための3カ条が書いてあります。①異常を感じたらすぐ病院を受診する。②可能であれば、がん専門病院を受診する。③モニターしか見ないドクターには要注意(患者の顔を見て話をしてくれるドクターを選ぶ)
気持ちの持ち方として、(がんの)再発は、絶対にある。
162ページの文章がよくわかりませんでした。
『遺書は、これから書くつもりです。』の次に、俳句で、『遺言を呟いてゐる秋の蝉(ゆいごんを つぶやいている あきのせみ』と書いてあります。最初の『遺書(いしょ)』は、『遺言(ゆいごん)』の間違いではなかろうか。『遺書』だとなんだか、もうすぐに死んでしまうみたいです。
わたしはすでに遺言(ゆいごん)をつくって、司法書士法人にお願いして、公証人役場に届け出をしましたが、小倉一郎さんがこのページで書いた、『遺書』の意味は、公正証書遺言の手続きで出てくる『付言(ふげん)』だろうと考えました。遺言は、相続のやり方の内容で、付言は気持ちの伝達です。付言は遺族に自分の気持ちを伝えるのです。感謝と気遣いの言葉です。
本の後半は、気持ちが落ち着かれたのか、緩い(ゆるい)流れになっています。
たわいのないことだけれど、『生きている』という実感があります。
最後のほうに娘さんのコメントがあります。
読んでいると、自分にこどもがいて良かったなという気持ちになります。
人生の記念誌という位置づけの本でした。
がんで苦しんでいる人たちに役立つ本です。
2024年04月23日
東京の編集者 山高登さんに話を聞く 夏葉社
東京の編集者 山高登さんに話を聞く 夏葉社
本のカバーをはずして、カバーを横に広げて見ています。
一枚の白黒写真です。
昭和三十年代ぐらいの風景に見えます。
場所は東京都内にある港の近くでしょう。
海の向こうに、木造の古い家屋が、薄く(うすく)かすむように写っています。
京都、丹後半島に似たような景色があったと思います。『伊根の舟屋(いねのふなや)』という場所の風景に似ています。東京にも昔は稲の舟屋に似た場所があったのだなと、時代の経過を感じます。
山高登(やまたか・のぼる):1926年(大正元年)生まれ。木版画家。新潮社の文芸編集者だった。こちらの本は、山高登さんの写真とエッセイになっています。カラー写真は好まない。白黒写真がいいというようなことが書いてあります。現在98歳。
二葉亭四迷(ふたばてい・しめい):1864年(江戸時代末期)-1909年(明治42年)45歳没。小説家。翻訳家。
白黒写真です。
去年の秋に熊太郎夫婦が訪れた東京渋谷あたりの昔の写真です。昭和33年ですから、1958年です。以降、そのあたりの時代の写真が続きます。テレビ番組では先日、『アド街ック天国』で、渋谷にある百軒店(ひゃっけんだな)の特集を見ました。
渋谷、恵比寿、それから、まだ建設途中の東京タワーの写真があります。邦画、『三丁目の夕日シリーズ』の風景です。麻布(あざぶ)、丸の内、日本橋(昨年秋に熊太郎夫婦が歩いたあたりです。そのときは、日本銀行の前にあった貨幣博物館も見学しました)。
写真集は、山高登さんの伝記のようにして始まっています。
今の、西新宿四丁目あたりで生まれたとあります。東京都庁のそばにある新宿中央公園の西にある地域です。当時は、花柳界の街だったそうです。(芸者、遊女屋の集まった街。遊郭(ゆうかく))
泉鏡花(いずみ・きょうか):1873年(明治6年)-1939年(昭和14年)65歳没。小説家。
武蔵野にある明星学園(みょうじょうがくえん)に通った。現在の三鷹市、吉祥寺あたり。井の頭恩賜公園(いのかしらおんしこうえん)の南。帝都電鉄で通った。現在の京王電鉄。(あのあたりを武蔵野と呼ぶのか。知りませんでした。武蔵野は、もっと西北のあたりかと思っていました)
この本は、夏葉社の発行者である島田潤一郎さんが、当時91歳であられた山高登さんから聞き取ったことを文章にして本にまとめたものです。
インタビューは、2016年(平成28年)8月4日、9月27日、10月6日に、山高登さんのご自宅にて行われています。
本の雰囲気は、黒柳徹子さんの、『窓際のトットちゃん』みたいです。
第二次世界大戦後のことがからんでいます。食糧不足のことが書いてあります。
靖国通り:東京都道302号。東京を東西につなぐ道路。靖国神社の前を通る。
学徒勤労動員:学生が軍需産業のために集められて働いた。
山高登さんは、横浜鶴見の工場でドラム缶をつくっていた。
昭和20年3月の東京大空襲の被害は避けられた地域にいた。(場所は、目黒だそうです)
戦争末期に召集令状が来て、品川駅から広島県福山市の部隊に入隊した。そこでは、古兵にいじめられた。たまらなくいやな体験をした。
8月15日終戦の日に、玉音放送を聞いて、『命が助かった』と思った。
とても重い気持ちがあります。(心の負担。気持ちが晴れない)。一部の政治的権力者の言動のためにおおぜいの国民の命が失われるのが戦争です。
記述は、素直な言葉で淡々と書いてあります。書かれている内容は、胸に響く戦争体験の事実です。読んでいて、読み手は、戦争はしてはいけないと思います。
西田幾太郎(にしだ・きたろう):1870年(明治3年)-1945年(昭和20年)75歳没。哲学者。文学博士
山本有三:昨年三鷹市にある山本有三記念館を訪れて見学しました。昨秋のことですが、なつかしい。1887年(明治20年)-1974年(昭和49年)86歳没。小説家。政治家。
吉田甲子太郎(よしだ・きねたろう):山本有三の弟子(でし)。1894年(明治27年)-1957年(昭和32年)62歳没。翻訳家、英文学者、児童文学者。
銀河:新潮社の少年少女雑誌。山高登さんが昭和22年から編集者として参加した。1946年創刊(昭和21年)。1949年終刊(昭和24年)
坂口安吾(さかぐち・あんご):1906年(明治39年)-1955年(昭和30年)48歳没。小説家、評論家、随筆家。
田村泰次郎(たむら・たいじろう):1911年(明治44年)-1983年(昭和58年)71歳没。小説家。代表作として、『肉体の門 1947年(昭和22年)発表 終戦直後の東京を舞台にして、混乱する社会を生き抜く女性を描いた』
林芙美子(はやし・ふみこ):1903年(明治36年)-1951年(昭和26年)47歳没。小説家。
高浜虚子(たかはま・きょし):1874年(明治7年)-1959年(昭和34年)85歳没。俳人、小説家。
ゾッキ屋:投げ売りの新本を売る店。
水上勉(みなかみ・つとむ):1919年(大正8年)-2004年(平成16年)85歳没。小説家。
永井荷風(ながい・かふう):1879年(明治12年)-1959年(昭和34年)79歳没。小説家。
内田百閒(うちだ・ひゃっけん):1889年(明治22年)-1971年(昭和46年)81歳没。小説家。随筆家。
88ページまで読み続けてきて思ったことです。
もうほとんどのみなさんがお亡くなりになった。
日本の近代文学の流れを読むようです。
明治時代以降の流れです。
第二次世界大戦を境目に考え方が変わります。
現在NHKの朝ドラ、『虎に翼』で、日本人社会の『(男女)差別』が素材のひとつになっています。戦前、女性は、家畜同然の扱いです。『(女性は)無能力者』なのです。女性は、なにをするにしても、戸主である夫とか、男性の許可がいるのです。それが当然と思いこんでいる女性もいます。
近代文学の流れにもそういったことが下地になっている作品もあるのでしょう。
二丁(にちょう。距離として):一丁が約109m。声が二丁先からでも聞こえるとあります。
氏より育ち:うじよりそだち。家柄や身分よりも、育った環境やしつけのほうが、人間の形成に影響を与える。
成城の町:世田谷区成城(せいじょう)
土門拳(どもん・けん):1909年(明治42年)-1990年(平成2年)80歳没。写真家。
新美南吉(にいみ・なんきち):1913年(大正2年)-1943年(昭和18年)29歳没。児童文学作家。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン):アイルランド系・ギリシャ生まれ。1896年(明治29年)に日本国籍を取得している。1850年(江戸時代末期)-1904年(明治37年)54歳没。
宇野千代:1897年(明治30年)-1996年(平成8年)98歳没。小説家、随筆家。
坪田譲二:1890年(明治23年)-1982年(昭和57年)92歳没。児童文学作家
第二次世界大戦中は、言論統制の時代でした。言いたい事、書きたい事が書けない時代でした。
共産主義社会、社会主義社会の国と似ています。
『自由』と『平等』は大切です。
野暮天(やぼてん):ダサイ。融通がきかない。雰囲気を読めない。
低徊趣味(れいかいしゅみ):世俗を離れて、余裕をもって、自然や芸術、人生をながめる方針のようなもの。
書票(しょひょう。蔵書票・ぞうしょひょう):所蔵者名を記した美しい絵・図版の小さな紙。
本のカバーをはずして、カバーを横に広げて見ています。
一枚の白黒写真です。
昭和三十年代ぐらいの風景に見えます。
場所は東京都内にある港の近くでしょう。
海の向こうに、木造の古い家屋が、薄く(うすく)かすむように写っています。
京都、丹後半島に似たような景色があったと思います。『伊根の舟屋(いねのふなや)』という場所の風景に似ています。東京にも昔は稲の舟屋に似た場所があったのだなと、時代の経過を感じます。
山高登(やまたか・のぼる):1926年(大正元年)生まれ。木版画家。新潮社の文芸編集者だった。こちらの本は、山高登さんの写真とエッセイになっています。カラー写真は好まない。白黒写真がいいというようなことが書いてあります。現在98歳。
二葉亭四迷(ふたばてい・しめい):1864年(江戸時代末期)-1909年(明治42年)45歳没。小説家。翻訳家。
白黒写真です。
去年の秋に熊太郎夫婦が訪れた東京渋谷あたりの昔の写真です。昭和33年ですから、1958年です。以降、そのあたりの時代の写真が続きます。テレビ番組では先日、『アド街ック天国』で、渋谷にある百軒店(ひゃっけんだな)の特集を見ました。
渋谷、恵比寿、それから、まだ建設途中の東京タワーの写真があります。邦画、『三丁目の夕日シリーズ』の風景です。麻布(あざぶ)、丸の内、日本橋(昨年秋に熊太郎夫婦が歩いたあたりです。そのときは、日本銀行の前にあった貨幣博物館も見学しました)。
写真集は、山高登さんの伝記のようにして始まっています。
今の、西新宿四丁目あたりで生まれたとあります。東京都庁のそばにある新宿中央公園の西にある地域です。当時は、花柳界の街だったそうです。(芸者、遊女屋の集まった街。遊郭(ゆうかく))
泉鏡花(いずみ・きょうか):1873年(明治6年)-1939年(昭和14年)65歳没。小説家。
武蔵野にある明星学園(みょうじょうがくえん)に通った。現在の三鷹市、吉祥寺あたり。井の頭恩賜公園(いのかしらおんしこうえん)の南。帝都電鉄で通った。現在の京王電鉄。(あのあたりを武蔵野と呼ぶのか。知りませんでした。武蔵野は、もっと西北のあたりかと思っていました)
この本は、夏葉社の発行者である島田潤一郎さんが、当時91歳であられた山高登さんから聞き取ったことを文章にして本にまとめたものです。
インタビューは、2016年(平成28年)8月4日、9月27日、10月6日に、山高登さんのご自宅にて行われています。
本の雰囲気は、黒柳徹子さんの、『窓際のトットちゃん』みたいです。
第二次世界大戦後のことがからんでいます。食糧不足のことが書いてあります。
靖国通り:東京都道302号。東京を東西につなぐ道路。靖国神社の前を通る。
学徒勤労動員:学生が軍需産業のために集められて働いた。
山高登さんは、横浜鶴見の工場でドラム缶をつくっていた。
昭和20年3月の東京大空襲の被害は避けられた地域にいた。(場所は、目黒だそうです)
戦争末期に召集令状が来て、品川駅から広島県福山市の部隊に入隊した。そこでは、古兵にいじめられた。たまらなくいやな体験をした。
8月15日終戦の日に、玉音放送を聞いて、『命が助かった』と思った。
とても重い気持ちがあります。(心の負担。気持ちが晴れない)。一部の政治的権力者の言動のためにおおぜいの国民の命が失われるのが戦争です。
記述は、素直な言葉で淡々と書いてあります。書かれている内容は、胸に響く戦争体験の事実です。読んでいて、読み手は、戦争はしてはいけないと思います。
西田幾太郎(にしだ・きたろう):1870年(明治3年)-1945年(昭和20年)75歳没。哲学者。文学博士
山本有三:昨年三鷹市にある山本有三記念館を訪れて見学しました。昨秋のことですが、なつかしい。1887年(明治20年)-1974年(昭和49年)86歳没。小説家。政治家。
吉田甲子太郎(よしだ・きねたろう):山本有三の弟子(でし)。1894年(明治27年)-1957年(昭和32年)62歳没。翻訳家、英文学者、児童文学者。
銀河:新潮社の少年少女雑誌。山高登さんが昭和22年から編集者として参加した。1946年創刊(昭和21年)。1949年終刊(昭和24年)
坂口安吾(さかぐち・あんご):1906年(明治39年)-1955年(昭和30年)48歳没。小説家、評論家、随筆家。
田村泰次郎(たむら・たいじろう):1911年(明治44年)-1983年(昭和58年)71歳没。小説家。代表作として、『肉体の門 1947年(昭和22年)発表 終戦直後の東京を舞台にして、混乱する社会を生き抜く女性を描いた』
林芙美子(はやし・ふみこ):1903年(明治36年)-1951年(昭和26年)47歳没。小説家。
高浜虚子(たかはま・きょし):1874年(明治7年)-1959年(昭和34年)85歳没。俳人、小説家。
ゾッキ屋:投げ売りの新本を売る店。
水上勉(みなかみ・つとむ):1919年(大正8年)-2004年(平成16年)85歳没。小説家。
永井荷風(ながい・かふう):1879年(明治12年)-1959年(昭和34年)79歳没。小説家。
内田百閒(うちだ・ひゃっけん):1889年(明治22年)-1971年(昭和46年)81歳没。小説家。随筆家。
88ページまで読み続けてきて思ったことです。
もうほとんどのみなさんがお亡くなりになった。
日本の近代文学の流れを読むようです。
明治時代以降の流れです。
第二次世界大戦を境目に考え方が変わります。
現在NHKの朝ドラ、『虎に翼』で、日本人社会の『(男女)差別』が素材のひとつになっています。戦前、女性は、家畜同然の扱いです。『(女性は)無能力者』なのです。女性は、なにをするにしても、戸主である夫とか、男性の許可がいるのです。それが当然と思いこんでいる女性もいます。
近代文学の流れにもそういったことが下地になっている作品もあるのでしょう。
二丁(にちょう。距離として):一丁が約109m。声が二丁先からでも聞こえるとあります。
氏より育ち:うじよりそだち。家柄や身分よりも、育った環境やしつけのほうが、人間の形成に影響を与える。
成城の町:世田谷区成城(せいじょう)
土門拳(どもん・けん):1909年(明治42年)-1990年(平成2年)80歳没。写真家。
新美南吉(にいみ・なんきち):1913年(大正2年)-1943年(昭和18年)29歳没。児童文学作家。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン):アイルランド系・ギリシャ生まれ。1896年(明治29年)に日本国籍を取得している。1850年(江戸時代末期)-1904年(明治37年)54歳没。
宇野千代:1897年(明治30年)-1996年(平成8年)98歳没。小説家、随筆家。
坪田譲二:1890年(明治23年)-1982年(昭和57年)92歳没。児童文学作家
第二次世界大戦中は、言論統制の時代でした。言いたい事、書きたい事が書けない時代でした。
共産主義社会、社会主義社会の国と似ています。
『自由』と『平等』は大切です。
野暮天(やぼてん):ダサイ。融通がきかない。雰囲気を読めない。
低徊趣味(れいかいしゅみ):世俗を離れて、余裕をもって、自然や芸術、人生をながめる方針のようなもの。
書票(しょひょう。蔵書票・ぞうしょひょう):所蔵者名を記した美しい絵・図版の小さな紙。