2023年04月18日
育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道
育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社
この本と同時進行で読み始める本があります。
『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐大(いがらし・だい) 幻冬舎』
ろう(聾):聴力を失っている。耳が聞こえない。
本の帯に『耳の聞こえない母が大嫌いだった。』と書いてあります。
コーダ:耳が聞こえない・聞こえにくい親をもつこどものこと。著者の両親は、ふたりとも耳が聴こえないと本の帯に書いてあります。
その本は、ろうの両親から生まれたこどもさんが書いた本です。
そして、対比するようにこれから読むのは、ふたりのお子さんをもつ、ろうのご両親のうちのパパが書いたこちらの本です。本の帯にあるメッセージは『毎日は、いつもおもしろい』です。0才と3才のこどもさんがおられます。2018年生まれの長男とあります。そして二男です。
こどもの立場の人が書いたほうは暗そうな内容、親の立場の人が書いたほうは明るそうな内容です。
さて、どのような感想になるか楽しみです。
まず、ページ全体をゆっくり最後のページまでめくってみます。
絵がいっぱい書いてありますが(マンガ)、言葉もいっぱい書いてあります。
楽しそうです。
手話のことが書いてあります。
いつき:3才3か月。長男
ほとり:0才2か月。次男
まなみ:ママ『背中を使って手話でおしゃべり』とあります。どうやってやるのだろう。
昔風の大学ノートの写真です。たくさんの冊数があります。まんが日記が書いてあります。
文章創作の基本は日記を書くことです。
『回転と宇宙』『時間』『ぼくたちは手で話す』
会話は手話です。(こういう世界があるのか。手話による子育てです)
『こどもを「通訳者」にさせない』
力作の本です。
こどもさんは、しゃべることができます。
『おかあさん 33さいおめでとう』
東日本大震災のことが出てきました。最近読んだ『君のクイズ 小川哲(おがわ・さとる) 朝日新聞出版』それからさきほど紹介した『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐内(いがらし・だい) 幻冬舎』にも出てきます。地震のことが重なりました。不思議です。
旧優生保護法のことも『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐内(いがらし・だい) 幻冬舎』に書いてありました。
祖父母の存在は大事そうです。
絵本の本読みが始まります。
でも親の口からことばが出てきません。出てくるのは『ぱん』という単語だけです。それでもこどもさんは大笑いします。
旅行好きです。熊本県へ行って、高知県へ行って。
沖縄行って、石垣島にも行って。飛行機に乗って。
こどもにはいろんな体験をさせておくと、将来こどもの役にたちます。
まだちびっこですが、なんども飛行機に乗っています。
ページをめくり続けて、最後のほうのページ近づいてようやく気づいたことがあります。
見開き2ページの左側のページの端に、西暦と日付が書いてありました。
本のタイトルどおり、まんが日記でした。
なんだか、すごいなあ。
(2回目の本読み)
育児まんが日記ですから、本のつくりは、日記です。
2019年(平成31年・令和元年)1月から始まって、同年8月で終わっています。
パパ 齋藤陽道(さいとう・はるみち):1983年生まれですから、この日記のときは、35歳です。
ママ 森山麻奈美(もりやま・まなみ):1986年生まれ。日記のときは、33歳です。仕事をもつママですから旧姓を使用しているのかもしれません。ご実家は家族みんながろう者だそうです。
いつき:長男。日記のときは、3才2か月
ほとり:二男。0才1か月。日記のときは、あかちゃんです。
『ことば』にこだわる本です。
耳が聴こえない両親です。会話は手話でします。
意思を伝えあうために『ことば』にこだわります。
日本手話:日本語とは異なる言語。手指の動き、速さ、視線、表情、からだの動きに意味あり。(別の本で、手話にはふたつあって、生まれながらに耳が聴こえない人が使う手話と、後天的に耳が聴こえなくなった人や健常者の人が使う手話は異なると読んだことがあります)
こちらのまんがでは『日本語対応手話』と『日本語手話』というようにイラストで説明があります。
CODA(コーダ):Children of Deaf Adults 聞こえない親をもつ、聞こえる子。
『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐内(いがらし・だい) 幻冬舎』でも同じ説明があります。そちらの本の内容は、かなり暗い。泣いている顔があります。対して、こちらのまんが日記は明るい。家族に笑顔があります。
指文字を使って、我が子をあやすそうです。
こどもさんは、手話と指文字と日本語を同時に覚えていくそうです。(すばらしい)
こどもさんの耳が聴こえて、こどもさんが、言葉を話すことがうれしいそうです。(胸にじんときます)
おならをしたら、各自は手をあげて、みんなに自己申告するそうです。(いいなーー)
あかちゃんのほとりさんが、手を「ぐっぱぐっぱ」するのは、「おっぱいください」のお願い指文字だそうです。
イラスト入りの「指文字」がなかなかおもしろい。漫才やコントのネタになりそうです。
右手の親指と人差し指で輪をつくると、それが太陽で(お金を表すような形)、左手のてのひらの右側を下へ動かすと日が暮れるという意味です。
右手の輪っかだけを上にあげると「明るい」(なるほど)
こどもさんがその動きをします。(こどもは頭がいい)
家族同士が「手」で話すのです。(すごいなーー)
3歳の長男が、0歳の二男を指文字であやします。
指文字は、スキンシップです。
ろう者である祖母が、指文字で「あいうえお」を教えます。
不思議です。言葉を話すことができるこどもさんが、あえて、言葉を使わずに、指文字でコミュニケーションを図ります。
数字も指文字で覚えます。
『教育のしかた』について、深く考えさせられる本です。
こどもさんが、節分の『鬼は外』を指の言葉で表現します。
片手の5本指であごをつまむのが『ふく(福)』両手で屋根をつくるのが『うち(家)』福は内。そして、手を前に出すのが『鬼は外の』豆まきです。
感動した時の涙の表現のしかたが、非凡で納得できました。
両手それぞれ、つまんだ形の5本の指を頬のあたりから頭の方向へ上げていく。
涙というのは、目もとから下方向へ指を動かすものと思っていましたが、感動した時の涙は逆で、感情が下から上へこみあげてきてこぼれるものなのです。つまり『感動の涙』なのです。
『はやく!』は、親指と人さし指をつけて、びゅっ!とななめ下に動かしながら、すばやく逆方向へ動かして、指でピストルの形をつくるそうです。
パパは、効率優先の資本主義社会(お金獲得目的の競争社会のことです)がイヤだと反発しています。
年齢を表すときの指文字です。
ぼくは3才は、右手で三本指、おかーさんの年齢は、右手を3本、左手を3本立てて並べて33才と表現します。
あかちゃんの誕生を表現する手の動きです:両手を胸の前で迎え合わせにして、斜め下に「ハ」の字を描くように下げる。
(つづく)
2019年(平成31年)1月30日水曜日から同年3月31日日曜日までを読みました。
なかなかいい本です。今年読んで良かった一冊になりました。
デフファミリー:家族メンバーの全員が、聴覚障害者である家族。こちらの本の家族はそうではありません。三十代の両親は聴覚障害者です。乳幼児の長男と次男は耳が聴こえます。
同調圧力:自分たち家族が強く生きていくためには、同調圧力に屈しない姿勢が大切とおっしゃられています。みんな同じが正しいという考え方は、場合によっては、間違っているときもあるのです。
ご夫婦が、ハグをしながら、お互いの背中に手を当てながら手話をされて意思疎通(いしそつう)を図られます。(はかられます)。すごいなあ。
相手の顔を見なくても会話ができます。
ご夫婦の出会いの話があります。
高校生です。
だんなさんは、鋭くて怖い目つきで、とんがっていた。奥さんの目は死んでいた。5年ぐらい付き合って、だんなさんは丸くなった。奥さんのおかげだそうです。
こどもさんは『表情』が言葉になる。
『もしネアンデルタール人が生き残っていたら手話がもっと主な言語になっていたかも……』
そうか、たぶん、人類が言葉を発する前段階として、手話による会話があったに違いない。
耳が聴こえずに生れてきた人が、成長過程で『音』の存在を知った時、『言葉の存在と意味』を知った時に受ける心の視界がぱっと広がる感覚がステキでした。
3歳のいつきさんは、はだしが好きで、くつしたもシャツもズボンもパンツも脱いでしまいます。
草や土や川沿いの感触を楽しむのです。
すっぱだかで、世界にあるものを体感したい。
そして、いつきさんは、すべりだいからのジャンプで骨折してしまいました。
(小さなこどものケガや事故はつきものです。一瞬のことで起きるので防ぎきれません。親ならたいていの人が体験していると思います)
SNS(ソーシャルネットワークサービス)のアプリケーションソフトが、聴覚障害者の生活をより良い方向へ導いてくれているというようなお話があります。
耳が聴こえないといろいろと不便なことが多い。
病院での呼び出しが聴こえないそうです。福祉機器に呼び出しの振動ベルがあるそうです。
(本では、このあとのページで、東日本大震災のときに聴覚障害者として困ったことがあったと書いてあります。非常事態発生時に、障害者はおいてきぼりにされてしまいます)
『音声文字変換&音検知通知』というAndroidスマホのアプリケーションソフトがあるそうです。
救急車や消防、警察を呼ぶためのものとして『NET119 緊急通報システム』というものもあるそうです。
コロナ禍では、マスクをしている人たちの口元を見て、何を言っているのか判断できなくて困ったことでしょう。口の動きで言葉がわかるそうです。
読んでいてあれっと思うのは、パパさんは、こどもさんの名前に『さん』づけでこの本に書いています。こどもの名前を呼び捨てにしたり、愛称で呼んだりする親もいるなかで、違和感があるのですが、相手の人格をきちんと認めた『さん』づけで感心しました。
パパとママの本業(職業)は、写真家です。
写真を中心において、コミュニケーションを図ります。
この本の成り立ちについて書いてあります。
(わたしが思うに、創作の基本は『日記』です)
最初のこどもさんが生れて、パソコンで日記をつけ始めた。
日記のデータを誤って消してしまった。バックアップはない。(ありがちです。バックアップはとりましょう)
紙ノートに日記をつけ始めた。
途中から、まんが絵日記を書くようになった。
パパは、障害者プロレスをやるそうです。元気です。
(つづく)
優生保護法の話が本に出てきます。(不妊手術。人工妊娠中絶)
障害者の関係ではありませんが、昔見た洋画のシーンを思い出します。
男性同僚ふたりの会話です。ふたりともパイロットだったという記憶です。映画のタイトルは思い出せません。飛行機の操縦室の中でのふたりの会話でした。
『こどもが何人もできてしまって、生活が苦しくなってきて、妊娠したこどもを中絶するかどうかで、もめたことがあるよ(妊娠している子を人為的に排出して産まれないようにする)』
『そうか…… それで、どうしたんだ……』
『中絶はしなかった』
『そうか』
『何人もいるこどもの中で、そのときに生れてきた子が一番可愛いよ』
こどもはどういうわけか『恐竜』が好きです。
恐竜に関する手話が出てきます。『むかーしむかし おおむかし』を両手で表現するのです。むかーしむかし、おおむかし、きょうりゅうがいたのです。
お子さんの絵を見ていて迷うのですが、長男さんの顔が女子に見えるのです。でも男の子です。
著者が、昔、おこなった活動のひとつとして『2015年に仙台の映画館で男性と「筆談トーク」をした』
そのときの相手の言葉として『オレは男だけど、赤ちゃんが産めるんだったら、そうしたいと思うよ』その言葉に共感した著者がいます。
4年後、ふたりは、女装をして筆談トークをします。(こどもを産めるようにとの願望が感じられます)
なんだか、すごい。
おかたし:「おかたづけ」のこと。かわいい。
ラップの芯と(しんと)、玩具の人形を1.5メートルくらいのひもでつないで、ドアの上部ごしに、おトイレの中と外で分けて、トイレが終わったら人形が動いて、トイレの終了がわかるというシステムがおもしろかった。(トイレのカギがないようです。耳が聴こえない。声が出せないことでのアイデアです。用を足しているときにドアを開けないでということだそうです)
こどもさんが走り回る音が、近所迷惑になるのではないかとたいへん心配されていますが、ご本人は聴覚障害者なので音が聴こえません。
平屋の借家を選択されて成功されています。
まんが絵日記に書いてあることで、自分にも覚えがあるのですが、仕事が休みの朝に、遅寝して、おふとんの上でちびっこたちも含めて家族みんなでくっつきあって、だらだらしながらおしゃべりをして、そんなことに幸福感を感じた時期がありました。
『間(ま)』について書いてあります。手話にも『間(ま)』があるのです。
感情表現において『間(ま)』は大事なのです。
ゲージ:長さや重量を測定する器具
小学生の時の意識として『聞こえる人のほうがえらい』があったそうです。
(そんなことはありません)
寝言を言うように、眠りながら手話で言葉を出すことがあるそうです。寝手話です。初めて聞きました。手話でなんでもできます。
熊本の話が出ます。わたしか訪れたことがあるところもいくつか出てきます。阿蘇山のあたりです。
(その後、一家は、熊本県へ引越しています。ろう者の家族として暮らしやすい場所だと判断されたそうです)
こどもたちがのびやかだった。(私立学校です)手話も音声も身につけることができるとあります。
おふたりのお子さんふたりは、聴文化(ちょうぶんか。聞こえる文化)とろう文化(聴こえない文化)の間を行き来しながら生きていく。
教育のやりかたです。
こちらのまんが絵日記の著者は、ろう者ですが、小学校・中学校は、補聴器をつけて(すべての音が雑音に聞こえて苦痛だったそうです)普通学校に通われたあと、高校は、ろう学校に進学されています。ご本人は、最初からろう学校に通えば良かったという感想をもたれています。
もうひとつ、同時進行で読んでいる『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐内(いがらし・だい) 幻冬舎』に出てくるお母さんも両親の考えで普通学校に通われてその後苦労されています。
障害がある人は、専用の学校に通うのが本人のためと思われる内容です。
熊本の方言のことは出てきません。
ろう者であるので、方言という感覚はないのかもしれません。
2020年(令和2年)12月に熊本へ移住されています。引っ越しは、ご主人は、自家用車で20時間のドライブでした。こどもたちは飛行機で行かれたようです。
ちびっこたちは、まだ3歳ぐらいですが、何度か飛行機搭乗体験をしています。
思うに、こどもの勉強は問題集を解くことに加えて、いろいろな体験をさせてあげることです。こどもは体験から多くのことを学びます。いいときもあるし、いやな思いをすることもあります。なにごとも二面性があるのです。そんなことを学びます。
1歳ぐらいのほとりさん(二男)も毎日新しい手話を覚えて、見せてくれます。すごいなあ。
音がある世界と音がない世界を体験するコーダ(聴覚障害者のこどもで健常者)は、緊張があって疲れるそうです。
このまんが絵本の文章は普通に書いてあります。
読みやすい。
聴覚障害者の方が書く文章はいかようなものかと思いながら読んでいます。
親の立場として、ほかの子と同じようになってほしい、してほしいという気持ちがあります。
だけど、違うのです。いいとかわるいとかではなく、著者の文章を読んでいると、実態に合った教育をしてほしい。それがこども自身のためになるのです。
著者は、小中学生、高校生のころ、補聴器を付けて無理に聴こえない音を聴こうとして苦しんでいました。著者は、二十歳の誕生日で補聴器を付けることをやめました。楽になれました。
ご長男『樹(いつき)』さんの名付けの由来が紹介されています。
沖縄石垣島で著者が見たガジュマルという木からきています。地に足を付けて育ち美しく輝く存在になる。
本を読みながら考えたことです。
人は、18歳になれば、自分の好きなところに住むことができます。(居住地選択の自由です。たしか憲法に書いてありました)
自分も九州にいた高校2年生の時に今のこの地に住むことを決めました。社会科が好きで、それまで、日本各地のことを調べたり、訪れて現地で体験をしたりしました。東海地区は、どこも製造業主体の町で、おもしろみはありませんが、経済的には安定した地域です。生まれてから結婚するころまで貧しい暮らしで苦労体験をした自分は、ここならお金の心配をせずに子孫代々暮らしていけると判断しました。不動産や物価が高い東京は、たまに遊びに行くだけでいいと割り切りました。正解だったと思います。
著者も自分たち家族にとって暮らしやすい町を選択されています。著者は、わたしとは逆で九州の地を選択されました。人それぞれです。
ろう者向けの育児書がなかった。
ネットにもなかった。
だからということでもありませんが、自分でこの本をつくったそうです。
たくさんの人の協力があったことに感謝されています。
本一冊つくるのにもたいへんな苦労がともないます。
同時進行で読んでいた別の本も読み終えました。
『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐内(いがらし・だい) 幻冬舎』
そちらの本の表紙カバーの写真を撮影されたのが、こちらの本の著者斎藤陽道(さいとう・はるみち)さんであることが、読んでいたそちらの本の終わり近くでわかりびっくりしました。
思えば、ろう者の狭い世界であることから関係者同士が出会うこともあるのでしょう。濃密な人間関係のなかで生活されている人たちだという感想をもちました。
この本と同時進行で読み始める本があります。
『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐大(いがらし・だい) 幻冬舎』
ろう(聾):聴力を失っている。耳が聞こえない。
本の帯に『耳の聞こえない母が大嫌いだった。』と書いてあります。
コーダ:耳が聞こえない・聞こえにくい親をもつこどものこと。著者の両親は、ふたりとも耳が聴こえないと本の帯に書いてあります。
その本は、ろうの両親から生まれたこどもさんが書いた本です。
そして、対比するようにこれから読むのは、ふたりのお子さんをもつ、ろうのご両親のうちのパパが書いたこちらの本です。本の帯にあるメッセージは『毎日は、いつもおもしろい』です。0才と3才のこどもさんがおられます。2018年生まれの長男とあります。そして二男です。
こどもの立場の人が書いたほうは暗そうな内容、親の立場の人が書いたほうは明るそうな内容です。
さて、どのような感想になるか楽しみです。
まず、ページ全体をゆっくり最後のページまでめくってみます。
絵がいっぱい書いてありますが(マンガ)、言葉もいっぱい書いてあります。
楽しそうです。
手話のことが書いてあります。
いつき:3才3か月。長男
ほとり:0才2か月。次男
まなみ:ママ『背中を使って手話でおしゃべり』とあります。どうやってやるのだろう。
昔風の大学ノートの写真です。たくさんの冊数があります。まんが日記が書いてあります。
文章創作の基本は日記を書くことです。
『回転と宇宙』『時間』『ぼくたちは手で話す』
会話は手話です。(こういう世界があるのか。手話による子育てです)
『こどもを「通訳者」にさせない』
力作の本です。
こどもさんは、しゃべることができます。
『おかあさん 33さいおめでとう』
東日本大震災のことが出てきました。最近読んだ『君のクイズ 小川哲(おがわ・さとる) 朝日新聞出版』それからさきほど紹介した『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐内(いがらし・だい) 幻冬舎』にも出てきます。地震のことが重なりました。不思議です。
旧優生保護法のことも『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐内(いがらし・だい) 幻冬舎』に書いてありました。
祖父母の存在は大事そうです。
絵本の本読みが始まります。
でも親の口からことばが出てきません。出てくるのは『ぱん』という単語だけです。それでもこどもさんは大笑いします。
旅行好きです。熊本県へ行って、高知県へ行って。
沖縄行って、石垣島にも行って。飛行機に乗って。
こどもにはいろんな体験をさせておくと、将来こどもの役にたちます。
まだちびっこですが、なんども飛行機に乗っています。
ページをめくり続けて、最後のほうのページ近づいてようやく気づいたことがあります。
見開き2ページの左側のページの端に、西暦と日付が書いてありました。
本のタイトルどおり、まんが日記でした。
なんだか、すごいなあ。
(2回目の本読み)
育児まんが日記ですから、本のつくりは、日記です。
2019年(平成31年・令和元年)1月から始まって、同年8月で終わっています。
パパ 齋藤陽道(さいとう・はるみち):1983年生まれですから、この日記のときは、35歳です。
ママ 森山麻奈美(もりやま・まなみ):1986年生まれ。日記のときは、33歳です。仕事をもつママですから旧姓を使用しているのかもしれません。ご実家は家族みんながろう者だそうです。
いつき:長男。日記のときは、3才2か月
ほとり:二男。0才1か月。日記のときは、あかちゃんです。
『ことば』にこだわる本です。
耳が聴こえない両親です。会話は手話でします。
意思を伝えあうために『ことば』にこだわります。
日本手話:日本語とは異なる言語。手指の動き、速さ、視線、表情、からだの動きに意味あり。(別の本で、手話にはふたつあって、生まれながらに耳が聴こえない人が使う手話と、後天的に耳が聴こえなくなった人や健常者の人が使う手話は異なると読んだことがあります)
こちらのまんがでは『日本語対応手話』と『日本語手話』というようにイラストで説明があります。
CODA(コーダ):Children of Deaf Adults 聞こえない親をもつ、聞こえる子。
『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐内(いがらし・だい) 幻冬舎』でも同じ説明があります。そちらの本の内容は、かなり暗い。泣いている顔があります。対して、こちらのまんが日記は明るい。家族に笑顔があります。
指文字を使って、我が子をあやすそうです。
こどもさんは、手話と指文字と日本語を同時に覚えていくそうです。(すばらしい)
こどもさんの耳が聴こえて、こどもさんが、言葉を話すことがうれしいそうです。(胸にじんときます)
おならをしたら、各自は手をあげて、みんなに自己申告するそうです。(いいなーー)
あかちゃんのほとりさんが、手を「ぐっぱぐっぱ」するのは、「おっぱいください」のお願い指文字だそうです。
イラスト入りの「指文字」がなかなかおもしろい。漫才やコントのネタになりそうです。
右手の親指と人差し指で輪をつくると、それが太陽で(お金を表すような形)、左手のてのひらの右側を下へ動かすと日が暮れるという意味です。
右手の輪っかだけを上にあげると「明るい」(なるほど)
こどもさんがその動きをします。(こどもは頭がいい)
家族同士が「手」で話すのです。(すごいなーー)
3歳の長男が、0歳の二男を指文字であやします。
指文字は、スキンシップです。
ろう者である祖母が、指文字で「あいうえお」を教えます。
不思議です。言葉を話すことができるこどもさんが、あえて、言葉を使わずに、指文字でコミュニケーションを図ります。
数字も指文字で覚えます。
『教育のしかた』について、深く考えさせられる本です。
こどもさんが、節分の『鬼は外』を指の言葉で表現します。
片手の5本指であごをつまむのが『ふく(福)』両手で屋根をつくるのが『うち(家)』福は内。そして、手を前に出すのが『鬼は外の』豆まきです。
感動した時の涙の表現のしかたが、非凡で納得できました。
両手それぞれ、つまんだ形の5本の指を頬のあたりから頭の方向へ上げていく。
涙というのは、目もとから下方向へ指を動かすものと思っていましたが、感動した時の涙は逆で、感情が下から上へこみあげてきてこぼれるものなのです。つまり『感動の涙』なのです。
『はやく!』は、親指と人さし指をつけて、びゅっ!とななめ下に動かしながら、すばやく逆方向へ動かして、指でピストルの形をつくるそうです。
パパは、効率優先の資本主義社会(お金獲得目的の競争社会のことです)がイヤだと反発しています。
年齢を表すときの指文字です。
ぼくは3才は、右手で三本指、おかーさんの年齢は、右手を3本、左手を3本立てて並べて33才と表現します。
あかちゃんの誕生を表現する手の動きです:両手を胸の前で迎え合わせにして、斜め下に「ハ」の字を描くように下げる。
(つづく)
2019年(平成31年)1月30日水曜日から同年3月31日日曜日までを読みました。
なかなかいい本です。今年読んで良かった一冊になりました。
デフファミリー:家族メンバーの全員が、聴覚障害者である家族。こちらの本の家族はそうではありません。三十代の両親は聴覚障害者です。乳幼児の長男と次男は耳が聴こえます。
同調圧力:自分たち家族が強く生きていくためには、同調圧力に屈しない姿勢が大切とおっしゃられています。みんな同じが正しいという考え方は、場合によっては、間違っているときもあるのです。
ご夫婦が、ハグをしながら、お互いの背中に手を当てながら手話をされて意思疎通(いしそつう)を図られます。(はかられます)。すごいなあ。
相手の顔を見なくても会話ができます。
ご夫婦の出会いの話があります。
高校生です。
だんなさんは、鋭くて怖い目つきで、とんがっていた。奥さんの目は死んでいた。5年ぐらい付き合って、だんなさんは丸くなった。奥さんのおかげだそうです。
こどもさんは『表情』が言葉になる。
『もしネアンデルタール人が生き残っていたら手話がもっと主な言語になっていたかも……』
そうか、たぶん、人類が言葉を発する前段階として、手話による会話があったに違いない。
耳が聴こえずに生れてきた人が、成長過程で『音』の存在を知った時、『言葉の存在と意味』を知った時に受ける心の視界がぱっと広がる感覚がステキでした。
3歳のいつきさんは、はだしが好きで、くつしたもシャツもズボンもパンツも脱いでしまいます。
草や土や川沿いの感触を楽しむのです。
すっぱだかで、世界にあるものを体感したい。
そして、いつきさんは、すべりだいからのジャンプで骨折してしまいました。
(小さなこどものケガや事故はつきものです。一瞬のことで起きるので防ぎきれません。親ならたいていの人が体験していると思います)
SNS(ソーシャルネットワークサービス)のアプリケーションソフトが、聴覚障害者の生活をより良い方向へ導いてくれているというようなお話があります。
耳が聴こえないといろいろと不便なことが多い。
病院での呼び出しが聴こえないそうです。福祉機器に呼び出しの振動ベルがあるそうです。
(本では、このあとのページで、東日本大震災のときに聴覚障害者として困ったことがあったと書いてあります。非常事態発生時に、障害者はおいてきぼりにされてしまいます)
『音声文字変換&音検知通知』というAndroidスマホのアプリケーションソフトがあるそうです。
救急車や消防、警察を呼ぶためのものとして『NET119 緊急通報システム』というものもあるそうです。
コロナ禍では、マスクをしている人たちの口元を見て、何を言っているのか判断できなくて困ったことでしょう。口の動きで言葉がわかるそうです。
読んでいてあれっと思うのは、パパさんは、こどもさんの名前に『さん』づけでこの本に書いています。こどもの名前を呼び捨てにしたり、愛称で呼んだりする親もいるなかで、違和感があるのですが、相手の人格をきちんと認めた『さん』づけで感心しました。
パパとママの本業(職業)は、写真家です。
写真を中心において、コミュニケーションを図ります。
この本の成り立ちについて書いてあります。
(わたしが思うに、創作の基本は『日記』です)
最初のこどもさんが生れて、パソコンで日記をつけ始めた。
日記のデータを誤って消してしまった。バックアップはない。(ありがちです。バックアップはとりましょう)
紙ノートに日記をつけ始めた。
途中から、まんが絵日記を書くようになった。
パパは、障害者プロレスをやるそうです。元気です。
(つづく)
優生保護法の話が本に出てきます。(不妊手術。人工妊娠中絶)
障害者の関係ではありませんが、昔見た洋画のシーンを思い出します。
男性同僚ふたりの会話です。ふたりともパイロットだったという記憶です。映画のタイトルは思い出せません。飛行機の操縦室の中でのふたりの会話でした。
『こどもが何人もできてしまって、生活が苦しくなってきて、妊娠したこどもを中絶するかどうかで、もめたことがあるよ(妊娠している子を人為的に排出して産まれないようにする)』
『そうか…… それで、どうしたんだ……』
『中絶はしなかった』
『そうか』
『何人もいるこどもの中で、そのときに生れてきた子が一番可愛いよ』
こどもはどういうわけか『恐竜』が好きです。
恐竜に関する手話が出てきます。『むかーしむかし おおむかし』を両手で表現するのです。むかーしむかし、おおむかし、きょうりゅうがいたのです。
お子さんの絵を見ていて迷うのですが、長男さんの顔が女子に見えるのです。でも男の子です。
著者が、昔、おこなった活動のひとつとして『2015年に仙台の映画館で男性と「筆談トーク」をした』
そのときの相手の言葉として『オレは男だけど、赤ちゃんが産めるんだったら、そうしたいと思うよ』その言葉に共感した著者がいます。
4年後、ふたりは、女装をして筆談トークをします。(こどもを産めるようにとの願望が感じられます)
なんだか、すごい。
おかたし:「おかたづけ」のこと。かわいい。
ラップの芯と(しんと)、玩具の人形を1.5メートルくらいのひもでつないで、ドアの上部ごしに、おトイレの中と外で分けて、トイレが終わったら人形が動いて、トイレの終了がわかるというシステムがおもしろかった。(トイレのカギがないようです。耳が聴こえない。声が出せないことでのアイデアです。用を足しているときにドアを開けないでということだそうです)
こどもさんが走り回る音が、近所迷惑になるのではないかとたいへん心配されていますが、ご本人は聴覚障害者なので音が聴こえません。
平屋の借家を選択されて成功されています。
まんが絵日記に書いてあることで、自分にも覚えがあるのですが、仕事が休みの朝に、遅寝して、おふとんの上でちびっこたちも含めて家族みんなでくっつきあって、だらだらしながらおしゃべりをして、そんなことに幸福感を感じた時期がありました。
『間(ま)』について書いてあります。手話にも『間(ま)』があるのです。
感情表現において『間(ま)』は大事なのです。
ゲージ:長さや重量を測定する器具
小学生の時の意識として『聞こえる人のほうがえらい』があったそうです。
(そんなことはありません)
寝言を言うように、眠りながら手話で言葉を出すことがあるそうです。寝手話です。初めて聞きました。手話でなんでもできます。
熊本の話が出ます。わたしか訪れたことがあるところもいくつか出てきます。阿蘇山のあたりです。
(その後、一家は、熊本県へ引越しています。ろう者の家族として暮らしやすい場所だと判断されたそうです)
こどもたちがのびやかだった。(私立学校です)手話も音声も身につけることができるとあります。
おふたりのお子さんふたりは、聴文化(ちょうぶんか。聞こえる文化)とろう文化(聴こえない文化)の間を行き来しながら生きていく。
教育のやりかたです。
こちらのまんが絵日記の著者は、ろう者ですが、小学校・中学校は、補聴器をつけて(すべての音が雑音に聞こえて苦痛だったそうです)普通学校に通われたあと、高校は、ろう学校に進学されています。ご本人は、最初からろう学校に通えば良かったという感想をもたれています。
もうひとつ、同時進行で読んでいる『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐内(いがらし・だい) 幻冬舎』に出てくるお母さんも両親の考えで普通学校に通われてその後苦労されています。
障害がある人は、専用の学校に通うのが本人のためと思われる内容です。
熊本の方言のことは出てきません。
ろう者であるので、方言という感覚はないのかもしれません。
2020年(令和2年)12月に熊本へ移住されています。引っ越しは、ご主人は、自家用車で20時間のドライブでした。こどもたちは飛行機で行かれたようです。
ちびっこたちは、まだ3歳ぐらいですが、何度か飛行機搭乗体験をしています。
思うに、こどもの勉強は問題集を解くことに加えて、いろいろな体験をさせてあげることです。こどもは体験から多くのことを学びます。いいときもあるし、いやな思いをすることもあります。なにごとも二面性があるのです。そんなことを学びます。
1歳ぐらいのほとりさん(二男)も毎日新しい手話を覚えて、見せてくれます。すごいなあ。
音がある世界と音がない世界を体験するコーダ(聴覚障害者のこどもで健常者)は、緊張があって疲れるそうです。
このまんが絵本の文章は普通に書いてあります。
読みやすい。
聴覚障害者の方が書く文章はいかようなものかと思いながら読んでいます。
親の立場として、ほかの子と同じようになってほしい、してほしいという気持ちがあります。
だけど、違うのです。いいとかわるいとかではなく、著者の文章を読んでいると、実態に合った教育をしてほしい。それがこども自身のためになるのです。
著者は、小中学生、高校生のころ、補聴器を付けて無理に聴こえない音を聴こうとして苦しんでいました。著者は、二十歳の誕生日で補聴器を付けることをやめました。楽になれました。
ご長男『樹(いつき)』さんの名付けの由来が紹介されています。
沖縄石垣島で著者が見たガジュマルという木からきています。地に足を付けて育ち美しく輝く存在になる。
本を読みながら考えたことです。
人は、18歳になれば、自分の好きなところに住むことができます。(居住地選択の自由です。たしか憲法に書いてありました)
自分も九州にいた高校2年生の時に今のこの地に住むことを決めました。社会科が好きで、それまで、日本各地のことを調べたり、訪れて現地で体験をしたりしました。東海地区は、どこも製造業主体の町で、おもしろみはありませんが、経済的には安定した地域です。生まれてから結婚するころまで貧しい暮らしで苦労体験をした自分は、ここならお金の心配をせずに子孫代々暮らしていけると判断しました。不動産や物価が高い東京は、たまに遊びに行くだけでいいと割り切りました。正解だったと思います。
著者も自分たち家族にとって暮らしやすい町を選択されています。著者は、わたしとは逆で九州の地を選択されました。人それぞれです。
ろう者向けの育児書がなかった。
ネットにもなかった。
だからということでもありませんが、自分でこの本をつくったそうです。
たくさんの人の協力があったことに感謝されています。
本一冊つくるのにもたいへんな苦労がともないます。
同時進行で読んでいた別の本も読み終えました。
『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐内(いがらし・だい) 幻冬舎』
そちらの本の表紙カバーの写真を撮影されたのが、こちらの本の著者斎藤陽道(さいとう・はるみち)さんであることが、読んでいたそちらの本の終わり近くでわかりびっくりしました。
思えば、ろう者の狭い世界であることから関係者同士が出会うこともあるのでしょう。濃密な人間関係のなかで生活されている人たちだという感想をもちました。
2023年04月17日
ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と…… 五十嵐大
ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐大(いがらし・だい) 幻冬舎
ろう(聾):聴力を失っている。耳が聞こえない。
本の帯に『耳の聞こえない母が大嫌いだった。』と書いてあります。
コーダ:耳が聞こえない・聞こえにくい親をもつこどものこと。著者の両親は、ふたりとも耳が聴こえないと本の帯に書いてあります。
暗い内容の本に感じました。これから読み始めます。
わたしの読書習慣のパターンです。
複数の本を同時進行で読みます。
ときに複数の本の内容を合体させたりして、頭の中で、この世にない本を想像して楽しんだりしています。
たいていは、三冊を同時進行で読んでいます。ひとつめは、こどもさん向けの絵本のたぐいです。気に入った絵本に出会った時は、自分の孫や親戚のちびっこたちにプレゼントしたりもします。
ふたつめは、実用書です。日常生活のことに関する本を読みます。
みっつめが小説です。
こちらの本は、耳が聴こえない両親をもつこどもさんが書いた本です。
内容は暗そうです。
もう一冊類似のもので読み始める本があります。
『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』です。
耳が聴こえるこどもをもつ耳が聴こえなくて手話で話す両親のうちのパパが書いた育児まんが日記です。内容は明るそうです。
本の帯には『毎日は、いつもおもしろい』と書いてあります。手話で話す両親と、0才と3才の健常者であるこどもたちの『ことば』の成長と発見を描いた育児まんが日記!と書いてあります。
本のカバーにあるこどもさんの姿を描いた絵は優しい感じがします。
今回は実用書の部類としてこの本を読むのですが、まず、自分の実用書の読み方として、わたしはページ全部を最初から最後までゆっくりめくりつつ、書いてある中身を確認します。
著者は、ろうあ者の両親のもとに生まれて、いつもひとりぼっちだったそうです。
第一章から第五章まで、第一話から第三十話まであります。
お母さんのことで情けない思いをされたようなことが書いてあります。
親には学校に来ないでほしい。
自分の親が恥ずかしい(はずかしい)とあります。けっこうつらい言葉です。親が聞いたら泣きます。
仙台という地名が出てきました。
昨年秋に訪れました。
大都会で驚きました。
『障害者のこどもになんてなりたくなかった』とあります。
わたしはこどものころ、お酒飲みの父親のこどもになんてなりたくなかったと思ったことがあります。
それぞれ事情があります。
しかたがないのです。
いったん受け入れて、おとなになったら自立と自活をめざすのです。
そして、自分が理想とする家庭を築くのです。
みんな苦労しています。
人生は長いから、今ある困難が永久に続くわけでもありません。
大学にいくことをあきらめざるをえなかったとあります。
わたし以上の世代には、学力があっても家にお金がなくて、進学をあきらめたり、定時制高校や夜間の大学で、働きながら学んだりした人がたくさんいました。
そんな人たちが中小企業などに入って、しっかり働いてがんばって、日本の社会を支えてきたから、日本の経済が発展したのだと思っています。
大学へ行ったからといって仕事での成功が約束されるわけでもないし、大学を出ていても働いていない人はたくさんいます。希望する職業に必要な資格の取得が目的なら大学進学は理解できますが、そうでないのなら、大学に行けなかったからといって、親をうらむのは筋違いです。
障害者夫婦がこどもをつくることが書いてあります。
強い決断がいりそうなことです。遺伝の不安と障害者の夫婦に子育てができるのかという課題があります。
全部のページをめくり終わりました。
211ページある本です。
著者は1983年生まれで、宮城県出身です。健常者です。ご両親がろう者です。
この文章のはじめのほうで紹介した本『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』の作者であるパパは、ろう者で1983年生まれです。奥さんもろう者です。こどもたちふたりは健常者です。人生いろいろです。
(2回目の本読み)
著者の父親:後天性の聴覚障害者。幼少期の病気が原因で聴覚を失った。
著者の母親:生まれつき音を知らない先天性の聴覚障害者
CODA(コーダ):Children of Deaf Adults 聞こえない親の元で育った、聴こえるこどもたち
『いつも、ひとりぼっちだった。』から始まります。この言葉が、著者の人生の前半を占めていきます。(しめていきます。時間を埋めていく)
自分の生れた家の家庭環境をうらむ部分を読んで、こども時代というものは『そういうものかもしれない』と思いました。
他人同士お互いに知らないだけで、子育てに快適で満足な生活環境の家庭に生まれてくるこどもの数というのは少ないと感じています。お金持ちの家や家柄のいい家に生まれたとして、それはそれで苦労があります。
どこの家もポンコツ一家です。親族を広げれば変な身内がいないこともありません。
先日読んだ『ポンコツ一家 にしおかすみこ 講談社』では、おかあさんが認知症、お姉さんがダウン症、お父さんはお酒飲み、にしおかさんはSM女王キャラクターの芸人さんです。読んでいて、なかなかハードなものがありました。
ろうの両親のこどもに生まれてしまったというこちらの本を109ページまでいっきに読んで、著者は、人の目を気にしすぎる人だと思いました。
一般的に、人が関心をもつのは自分のことで、他人のことには興味がありません。
著者は、被害者意識が強い人です。人目(ひとめ)を気にすることはありません。恥ずかしいと思うことはありません。人はそれほどあなたを見ていません。
こどものころに、自分は家庭に恵まれず不幸だと思っていたことが、歳をとってみて、あのときはあれで良かったのだと思える時があります。
わたしは、気が短くて、仕事が長続きしないお酒飲みの父親のこどもとして生まれてきて、こどものころは、たいそう苦労しました。父親は職場でケンカして仕事を辞めてきて、転職してのくり返しで全国各地を転々と引っ越しばかりして、小学校は6校、中学校は3校通いました。わたしは自分がとんでもない家に生まれてきてしまったと腹が立ちましたが、六十代になった今思うと、あのこども時代があったからこそ、これまで精神的につぶれることもなく、さまざまな体験が自分を支えてくれて、つらいことがあってもくじけずに働けて、穏やかな(おだやかな)老後を迎えることができたと判断しています。暴れん坊の父親もわたしが中学のときに病気で亡くなってしまいました。もう遠い昔のことです。
本読みの感想の続きです。
宮城県の仙台から電車で30分ぐらいのところがご実家のようです。
仙台あたりは、昨年晩秋に観光で訪れた場所であるので、親近感が湧きます。
著者の家の窓から港が見えるそうです。
4人家族で祖父母がおられます。祖父は元ヤクザの暴れ者とあります。お酒を飲んで暴れるそうです。昔はそういう男が日本各地にけっこういました。祖母はとある宗教の熱心な信者です。夫が壊れると家庭が荒れるので、妻が宗教にすがるということは、しばしばあります。
ご自身が小さいころは、母親の耳が聴こえないということは、なんの問題もないと思っていたそうです。
耳は聞こえないけれど、目の観察力が良かった。お母さんは有名人をはじめとした身近な人の物まねが得意だったそうです。
読んでいて、すごいなあ。すごい体験です。なかなかできません。
きれいな文章です。ご本人の文章作成能力もあるのでしょうが、編集者の手助けもあるのかもしれません。
祖父母は障害をもつ子の親の気持ちとして、養護学校ではなく、著者の母親を普通学級に通わせた。そのことで、母親は言葉をわからないままに育つことになった。
むずかしいものがあります。平等とはと考えると普通学級がいいのでしょうが、こどもさんの未来を考えると専用の教育を受けたほうがいいのでしょう。
次に書く内容は、手話のことです。
大丈夫だよ:そろえた右手の指先を左胸にあてる。それを、ゆっくり右胸へと動かす。
次は、著者の母親が発する言葉です。
おういあね:よく来たね(こどもである著者の友だちが家に遊びに来たときにかけた言葉です)
おうど:どうぞ。
あいちゃん:大ちゃん(著者のこと)
著者は、人に対して『(母親は)耳が聴こえないから、仕方ないんだよ。』と言えないこどもでした。
著者は、もう少し、気を強く持って生きていけたら、悩みを小さくできたような気がします。
なにくそ! コンチクショー 負けてたまるか! という気迫は、生き続けていくために必要です。
本の中の著者は小学4年生です。
学校で『手話クラブ』をつくります。
小学校時代の思い出話が続きます。
苦労話です。
近所に住む嘘(うそ)をつくおばあさんが出てきます。
ずいぶん昔のことですが、わたしにも体験があります。
世の中には、嘘つきのおばあさんがいるのです。
ひどい人です。認知症とは思えませんが、その気配はあるのかもしれません。
ありもしないことをあるがごとくに、自分が善良な被害者であるようにつくり話をするおばあさんに出会ったことがあります。びっくりしました。情(じょう)のある正直者の男性は、ひ弱そうに見えるおばあさんの言葉に簡単にだまされます。自分は、そうやってだまされたお年寄りの男性に怒られたことがあります。(おこられた)。だけど、そんな事実はないのです。本当に、びっくりしました。
人を差別する人もけっこういます。
学歴差別をする人がいます。
まさか、この人がというような人が、裏では厳しい差別をする人だったりもします。
人間の表(おもて)と裏(うら)は違います。
女性蔑視(べっし。見くだす)の男性もいます。妻を家政婦扱いする男性を見ると、不快な気分になります。
著者は障害者差別に直面しています。
47ページあたりは、人間の強さと弱さ、もろさが表現されています。
自分を差別した人間を許すことで、笑顔が生れています。
本の中で、著者は中学生になりました。
この年齢は、むずかしい時期です。
母親への反発、反抗があります。
一番苦しいのは、耳が聴こえないお母さんです。
お母さんの補聴器が20万円しました。
中学生である著者が高すぎると怒ります(おこります)。
お母さんは、息子である著者の声を聴きたかったから高い補聴器を買ったのです。
息子が、どんな声をしているのか知りたかったのです。
そういうことは、お金の問題じゃありません。
自分や家族の世話をしてくれる人には、たとえ高くても、お金は使うものです。
著者と同じように聴覚障害の両親をもつ同級生女子が登場します。
彼女は両親の聴覚障害を隠しません。あっぱれです。
高校進学の時期が来ました。
祖父母も聴覚障害者の両親もこどもの高校進学の相談相手になるだけの実力と経験がありません。
ここまで(76ページ)まで、読んできて思うのは、著者に友だちがいません。
この本の冒頭にあった言葉『いつも、ひとりぼっちだった。』が思い出されました。先生のフォローが必要です。(不足を補う行為)
著者はひっそりと隠れるように毎日を送っています。
78ページに『障害者の子どもになんてなりたくなかった』という項目が出てきました。
塾の話が出てきました。
わたしは、親の立場として今思うのは、塾に行ったからといって、成績が上がるものではない。
こどもたちを塾に通わせましたが、効果があったとは思えませんでした。友だちづきあいの延長だっただけです。
わたし自身は塾には行ったことがありません。当時住んでいたいなかの町には塾はありませんでした。
著者の高校受験は失敗に終わっています。
すべり止めの高校に入学しましたが、学力面で授業についていけません。
こどもが受験で第一志望校に不合格になると、こどもは荒れます。
著者は自分の高校受験不合格が、貧しさとか、聴覚障害者である親のせいだとしたのですが、そんなことはありません。
わたしが歳をとって思うには、テストでいい点をとる能力というのは、家の貧富とは関係ありません。貧乏人の家でも学力優秀なこどもはいます。生まれつき問題を解く脳みそのできがいいのです。ただ、一芸に秀でた(いちげいにひいでた)人は、その一芸以外のことはできなかったりもします。
著者は大学進学をあきらめています。
芸術系の大学進学を希望されています。
芸術系の大学の学費はとても高いです。
そのことを最初、著者は気づけていません。
そして、芸術系の大学を出たからといって、就職が安定しているわけでもありません。
世間知らずの著者です。
電車の中で、複数のおとなのろうあの人たちが手話をする光景はたまに見かけます。
電車の中で、聾学校の生徒さんたちの姿も見かけます。
変だと思ったことはありません。
著者は、その光景が変で、イヤだと思っていたそうです。
著者は、人の目を気にしすぎです。
自分に自信がないから、人の目を気にして、いつもオドオドしているような弱い人間に思えます。
(つづく)
同時進行で『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』を読んでいるのですが、内容の趣は(おもむきは)こちらの本とは、だいぶ異なります。
なんだろう。『聴覚障害者が快適に生活できるための教育』があるか、ないかです。障害者に限らず、教育の有無で、人生の送り方が変わってくるという気づきがあります。
育児マンガのほうは、三十代のご両親がろう者で耳が聴こえません。言葉もうまく出ません。そのおふたりのこどもさん3才長男と1才近い次男は、耳が聴こえて、言葉も発します。
じょうずに子育てをされていて、こどもさんは、日本語の言葉と指文字と手話を使ってご両親と会話を楽しんでおられます。あわせて、顔の表情で感情を伝えるということもあるのでしょう。
将来が楽しみなおふたりのお子さんたちです。きっと将来は、社会に貢献してくれるお子さんに育つことでしょう。
対して、こちらの本の著者のこども時代はつらい。高校進学先の相談をしたくても、ろう者のご両親には頼りづらい。祖父母については、高校進学の考え方が時代錯誤でアドバイスにならなかったようです。
こちらの著者は、高校をなんとか卒業されて、母親を捨てる気持ちをもちながら東京へと旅立ちます。仙台駅発の新幹線でしょう。母親とのせつない別れがあります。
思春期のころの著者にはマザーコンプレックスの気配があります。そして、心が屈折しています。母親の温情がわからないばかたれでもあります。親の気持ちは、親になってみないとわからないということはあります。
マザーコンプレックス:母親に対する愛着と執着がつよい。
(つづく)
124ページ。第四章『コーダに出会う』からです。
今同時進行で読んでいる『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』に登場している、ろう者同士の夫婦のお子さんである3才長男ともうじき1才の次男に出会うようなものですが、なにせそちらはまだ小さい。
聴覚障害者のこどもさんが、コーダですから、こちらの本の著者とさきほどの本のちびっこたちもコーダです。
本の中では、著者と他人である聴覚障害者たちとの出会いがあります。
手話と手話で話すのですが、言葉が通じると、心が通い合ったり、気持ちが通じたりします。ステキなことです。
同時進行で読んでいる『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』では、3歳と0歳のちびっこたちが、生まれてすぐに聴覚障害者対応の教育を受け始めています。
こちらの『ろうの両親から生まれたぼくが……』のほうの著者は、25歳からようやく聴覚障害者対応の教育に取り組み始めました。遅いスタートになりましたが、一生何もやらないよりはましです。
著者は、聴覚障害者のお子さんから『コーダ』の意味を教えてもらって、初めて『コーダ』という言葉を知ります。
そして『……ぼくは決して孤独ではなかったのだ。』という自覚が芽生えます。(日本国内には推定2万2000人のコーダがいる)
耳が聴こえない人たちのお誕生日会があります。
あっぴーあーすでぃうーゆー:ハッピバースディトゥユー
拍手を表す手話:両手を上にあげてヒラヒラさせる。(音はしません)
ステキです。
東日本大震災が、著者の実家がある宮城県を襲ってドタバタ騒ぎがあります。
耳が聴こえない両親と老齢の祖父、認知症の祖母がいる世帯ですから心配です。
その後の経過のなかで、祖父が亡くなり、祖母が亡くなり、家族の数が減っていきます。
昔話のことで、障害者同士が結婚した夫婦は、遺伝で障害を持つこどもが生れてくる可能性があるから結婚してもこどもをつくってはいけないというような話が出ます。つまり、著者は、この世に生まれてくることはなかった人間だったかもしれないということです。
158ページあたりは、涙なくしては読めないような内容です。
今年読んで良かった一冊になりました。
今の年配の世代の人たちは苦労されています。
ようやくできたこども(著者)に差別される障害者夫婦です。
著者に後悔と反省が生まれます。
身内とか、親族というものは、なるべくいっしょにいる時間をもって、むだ話をしているだけでいいのです。
『第五章 母親との関係をやり直す』が始まりました。
介護の苦労があります。
介護の苦労は介護の体験をした者にしかわかりません。
介護の苦労から逃げる親族もいます。
本では、障害者に対する健常者がする間違った対応について書かれています。
障害者が自分でできることを健常者は奪わないでくださいです。
「自分でやれることは自分でやります」です。
親を聴覚障害者にもつ高校野球選手の取材話が出ます。
本が始まったころにあったトゲトゲした、グルグルした、クチャクチャした状況が、本の最後のほうに近づくようになって、ゆっくりほぐれていきます。ぼんやり丸くて柔らかな(やわらかな)玉になっていくようです。
あとがきではあの頃のぼくに戻ります。
『いつも、ひとりぼっちだった。』です。
209ページでびっくりしました。
この本と同時進行で読んでいた『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』の斎藤陽道(さいとう・はるみち)さんのお名前が出てきました。
こちらの『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐内(いがらし・だい) 幻冬舎』の本のカバーの写真を斎藤陽道(さいとう・はるみち)さんが撮影されたそうです。斎藤陽道(さいとう・はるみち)さんの本職は写真家です。
カバーの写真を見ました。少年が、大きな葉っぱを持って自分の顔を隠しています。
葉っぱには、両目と鼻の穴として4か所に穴があけられていて、その葉っぱをお面(おめん)にして、少年が写真におさまっています。
少年の片目の瞳は見えていますが、もう片方の目は見えていません。少年の目つきがいい。
片方見えて、片方見えていないという世界を表現してあります。
聴こえる世界と、聴こえない世界を重ね合わせてあるのです。
秀逸です。
二冊の別々の本を同時に読んでいて、最後に作者同士の出会いのシーンがあって、びっくりしました。
ろう(聾):聴力を失っている。耳が聞こえない。
本の帯に『耳の聞こえない母が大嫌いだった。』と書いてあります。
コーダ:耳が聞こえない・聞こえにくい親をもつこどものこと。著者の両親は、ふたりとも耳が聴こえないと本の帯に書いてあります。
暗い内容の本に感じました。これから読み始めます。
わたしの読書習慣のパターンです。
複数の本を同時進行で読みます。
ときに複数の本の内容を合体させたりして、頭の中で、この世にない本を想像して楽しんだりしています。
たいていは、三冊を同時進行で読んでいます。ひとつめは、こどもさん向けの絵本のたぐいです。気に入った絵本に出会った時は、自分の孫や親戚のちびっこたちにプレゼントしたりもします。
ふたつめは、実用書です。日常生活のことに関する本を読みます。
みっつめが小説です。
こちらの本は、耳が聴こえない両親をもつこどもさんが書いた本です。
内容は暗そうです。
もう一冊類似のもので読み始める本があります。
『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』です。
耳が聴こえるこどもをもつ耳が聴こえなくて手話で話す両親のうちのパパが書いた育児まんが日記です。内容は明るそうです。
本の帯には『毎日は、いつもおもしろい』と書いてあります。手話で話す両親と、0才と3才の健常者であるこどもたちの『ことば』の成長と発見を描いた育児まんが日記!と書いてあります。
本のカバーにあるこどもさんの姿を描いた絵は優しい感じがします。
今回は実用書の部類としてこの本を読むのですが、まず、自分の実用書の読み方として、わたしはページ全部を最初から最後までゆっくりめくりつつ、書いてある中身を確認します。
著者は、ろうあ者の両親のもとに生まれて、いつもひとりぼっちだったそうです。
第一章から第五章まで、第一話から第三十話まであります。
お母さんのことで情けない思いをされたようなことが書いてあります。
親には学校に来ないでほしい。
自分の親が恥ずかしい(はずかしい)とあります。けっこうつらい言葉です。親が聞いたら泣きます。
仙台という地名が出てきました。
昨年秋に訪れました。
大都会で驚きました。
『障害者のこどもになんてなりたくなかった』とあります。
わたしはこどものころ、お酒飲みの父親のこどもになんてなりたくなかったと思ったことがあります。
それぞれ事情があります。
しかたがないのです。
いったん受け入れて、おとなになったら自立と自活をめざすのです。
そして、自分が理想とする家庭を築くのです。
みんな苦労しています。
人生は長いから、今ある困難が永久に続くわけでもありません。
大学にいくことをあきらめざるをえなかったとあります。
わたし以上の世代には、学力があっても家にお金がなくて、進学をあきらめたり、定時制高校や夜間の大学で、働きながら学んだりした人がたくさんいました。
そんな人たちが中小企業などに入って、しっかり働いてがんばって、日本の社会を支えてきたから、日本の経済が発展したのだと思っています。
大学へ行ったからといって仕事での成功が約束されるわけでもないし、大学を出ていても働いていない人はたくさんいます。希望する職業に必要な資格の取得が目的なら大学進学は理解できますが、そうでないのなら、大学に行けなかったからといって、親をうらむのは筋違いです。
障害者夫婦がこどもをつくることが書いてあります。
強い決断がいりそうなことです。遺伝の不安と障害者の夫婦に子育てができるのかという課題があります。
全部のページをめくり終わりました。
211ページある本です。
著者は1983年生まれで、宮城県出身です。健常者です。ご両親がろう者です。
この文章のはじめのほうで紹介した本『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』の作者であるパパは、ろう者で1983年生まれです。奥さんもろう者です。こどもたちふたりは健常者です。人生いろいろです。
(2回目の本読み)
著者の父親:後天性の聴覚障害者。幼少期の病気が原因で聴覚を失った。
著者の母親:生まれつき音を知らない先天性の聴覚障害者
CODA(コーダ):Children of Deaf Adults 聞こえない親の元で育った、聴こえるこどもたち
『いつも、ひとりぼっちだった。』から始まります。この言葉が、著者の人生の前半を占めていきます。(しめていきます。時間を埋めていく)
自分の生れた家の家庭環境をうらむ部分を読んで、こども時代というものは『そういうものかもしれない』と思いました。
他人同士お互いに知らないだけで、子育てに快適で満足な生活環境の家庭に生まれてくるこどもの数というのは少ないと感じています。お金持ちの家や家柄のいい家に生まれたとして、それはそれで苦労があります。
どこの家もポンコツ一家です。親族を広げれば変な身内がいないこともありません。
先日読んだ『ポンコツ一家 にしおかすみこ 講談社』では、おかあさんが認知症、お姉さんがダウン症、お父さんはお酒飲み、にしおかさんはSM女王キャラクターの芸人さんです。読んでいて、なかなかハードなものがありました。
ろうの両親のこどもに生まれてしまったというこちらの本を109ページまでいっきに読んで、著者は、人の目を気にしすぎる人だと思いました。
一般的に、人が関心をもつのは自分のことで、他人のことには興味がありません。
著者は、被害者意識が強い人です。人目(ひとめ)を気にすることはありません。恥ずかしいと思うことはありません。人はそれほどあなたを見ていません。
こどものころに、自分は家庭に恵まれず不幸だと思っていたことが、歳をとってみて、あのときはあれで良かったのだと思える時があります。
わたしは、気が短くて、仕事が長続きしないお酒飲みの父親のこどもとして生まれてきて、こどものころは、たいそう苦労しました。父親は職場でケンカして仕事を辞めてきて、転職してのくり返しで全国各地を転々と引っ越しばかりして、小学校は6校、中学校は3校通いました。わたしは自分がとんでもない家に生まれてきてしまったと腹が立ちましたが、六十代になった今思うと、あのこども時代があったからこそ、これまで精神的につぶれることもなく、さまざまな体験が自分を支えてくれて、つらいことがあってもくじけずに働けて、穏やかな(おだやかな)老後を迎えることができたと判断しています。暴れん坊の父親もわたしが中学のときに病気で亡くなってしまいました。もう遠い昔のことです。
本読みの感想の続きです。
宮城県の仙台から電車で30分ぐらいのところがご実家のようです。
仙台あたりは、昨年晩秋に観光で訪れた場所であるので、親近感が湧きます。
著者の家の窓から港が見えるそうです。
4人家族で祖父母がおられます。祖父は元ヤクザの暴れ者とあります。お酒を飲んで暴れるそうです。昔はそういう男が日本各地にけっこういました。祖母はとある宗教の熱心な信者です。夫が壊れると家庭が荒れるので、妻が宗教にすがるということは、しばしばあります。
ご自身が小さいころは、母親の耳が聴こえないということは、なんの問題もないと思っていたそうです。
耳は聞こえないけれど、目の観察力が良かった。お母さんは有名人をはじめとした身近な人の物まねが得意だったそうです。
読んでいて、すごいなあ。すごい体験です。なかなかできません。
きれいな文章です。ご本人の文章作成能力もあるのでしょうが、編集者の手助けもあるのかもしれません。
祖父母は障害をもつ子の親の気持ちとして、養護学校ではなく、著者の母親を普通学級に通わせた。そのことで、母親は言葉をわからないままに育つことになった。
むずかしいものがあります。平等とはと考えると普通学級がいいのでしょうが、こどもさんの未来を考えると専用の教育を受けたほうがいいのでしょう。
次に書く内容は、手話のことです。
大丈夫だよ:そろえた右手の指先を左胸にあてる。それを、ゆっくり右胸へと動かす。
次は、著者の母親が発する言葉です。
おういあね:よく来たね(こどもである著者の友だちが家に遊びに来たときにかけた言葉です)
おうど:どうぞ。
あいちゃん:大ちゃん(著者のこと)
著者は、人に対して『(母親は)耳が聴こえないから、仕方ないんだよ。』と言えないこどもでした。
著者は、もう少し、気を強く持って生きていけたら、悩みを小さくできたような気がします。
なにくそ! コンチクショー 負けてたまるか! という気迫は、生き続けていくために必要です。
本の中の著者は小学4年生です。
学校で『手話クラブ』をつくります。
小学校時代の思い出話が続きます。
苦労話です。
近所に住む嘘(うそ)をつくおばあさんが出てきます。
ずいぶん昔のことですが、わたしにも体験があります。
世の中には、嘘つきのおばあさんがいるのです。
ひどい人です。認知症とは思えませんが、その気配はあるのかもしれません。
ありもしないことをあるがごとくに、自分が善良な被害者であるようにつくり話をするおばあさんに出会ったことがあります。びっくりしました。情(じょう)のある正直者の男性は、ひ弱そうに見えるおばあさんの言葉に簡単にだまされます。自分は、そうやってだまされたお年寄りの男性に怒られたことがあります。(おこられた)。だけど、そんな事実はないのです。本当に、びっくりしました。
人を差別する人もけっこういます。
学歴差別をする人がいます。
まさか、この人がというような人が、裏では厳しい差別をする人だったりもします。
人間の表(おもて)と裏(うら)は違います。
女性蔑視(べっし。見くだす)の男性もいます。妻を家政婦扱いする男性を見ると、不快な気分になります。
著者は障害者差別に直面しています。
47ページあたりは、人間の強さと弱さ、もろさが表現されています。
自分を差別した人間を許すことで、笑顔が生れています。
本の中で、著者は中学生になりました。
この年齢は、むずかしい時期です。
母親への反発、反抗があります。
一番苦しいのは、耳が聴こえないお母さんです。
お母さんの補聴器が20万円しました。
中学生である著者が高すぎると怒ります(おこります)。
お母さんは、息子である著者の声を聴きたかったから高い補聴器を買ったのです。
息子が、どんな声をしているのか知りたかったのです。
そういうことは、お金の問題じゃありません。
自分や家族の世話をしてくれる人には、たとえ高くても、お金は使うものです。
著者と同じように聴覚障害の両親をもつ同級生女子が登場します。
彼女は両親の聴覚障害を隠しません。あっぱれです。
高校進学の時期が来ました。
祖父母も聴覚障害者の両親もこどもの高校進学の相談相手になるだけの実力と経験がありません。
ここまで(76ページ)まで、読んできて思うのは、著者に友だちがいません。
この本の冒頭にあった言葉『いつも、ひとりぼっちだった。』が思い出されました。先生のフォローが必要です。(不足を補う行為)
著者はひっそりと隠れるように毎日を送っています。
78ページに『障害者の子どもになんてなりたくなかった』という項目が出てきました。
塾の話が出てきました。
わたしは、親の立場として今思うのは、塾に行ったからといって、成績が上がるものではない。
こどもたちを塾に通わせましたが、効果があったとは思えませんでした。友だちづきあいの延長だっただけです。
わたし自身は塾には行ったことがありません。当時住んでいたいなかの町には塾はありませんでした。
著者の高校受験は失敗に終わっています。
すべり止めの高校に入学しましたが、学力面で授業についていけません。
こどもが受験で第一志望校に不合格になると、こどもは荒れます。
著者は自分の高校受験不合格が、貧しさとか、聴覚障害者である親のせいだとしたのですが、そんなことはありません。
わたしが歳をとって思うには、テストでいい点をとる能力というのは、家の貧富とは関係ありません。貧乏人の家でも学力優秀なこどもはいます。生まれつき問題を解く脳みそのできがいいのです。ただ、一芸に秀でた(いちげいにひいでた)人は、その一芸以外のことはできなかったりもします。
著者は大学進学をあきらめています。
芸術系の大学進学を希望されています。
芸術系の大学の学費はとても高いです。
そのことを最初、著者は気づけていません。
そして、芸術系の大学を出たからといって、就職が安定しているわけでもありません。
世間知らずの著者です。
電車の中で、複数のおとなのろうあの人たちが手話をする光景はたまに見かけます。
電車の中で、聾学校の生徒さんたちの姿も見かけます。
変だと思ったことはありません。
著者は、その光景が変で、イヤだと思っていたそうです。
著者は、人の目を気にしすぎです。
自分に自信がないから、人の目を気にして、いつもオドオドしているような弱い人間に思えます。
(つづく)
同時進行で『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』を読んでいるのですが、内容の趣は(おもむきは)こちらの本とは、だいぶ異なります。
なんだろう。『聴覚障害者が快適に生活できるための教育』があるか、ないかです。障害者に限らず、教育の有無で、人生の送り方が変わってくるという気づきがあります。
育児マンガのほうは、三十代のご両親がろう者で耳が聴こえません。言葉もうまく出ません。そのおふたりのこどもさん3才長男と1才近い次男は、耳が聴こえて、言葉も発します。
じょうずに子育てをされていて、こどもさんは、日本語の言葉と指文字と手話を使ってご両親と会話を楽しんでおられます。あわせて、顔の表情で感情を伝えるということもあるのでしょう。
将来が楽しみなおふたりのお子さんたちです。きっと将来は、社会に貢献してくれるお子さんに育つことでしょう。
対して、こちらの本の著者のこども時代はつらい。高校進学先の相談をしたくても、ろう者のご両親には頼りづらい。祖父母については、高校進学の考え方が時代錯誤でアドバイスにならなかったようです。
こちらの著者は、高校をなんとか卒業されて、母親を捨てる気持ちをもちながら東京へと旅立ちます。仙台駅発の新幹線でしょう。母親とのせつない別れがあります。
思春期のころの著者にはマザーコンプレックスの気配があります。そして、心が屈折しています。母親の温情がわからないばかたれでもあります。親の気持ちは、親になってみないとわからないということはあります。
マザーコンプレックス:母親に対する愛着と執着がつよい。
(つづく)
124ページ。第四章『コーダに出会う』からです。
今同時進行で読んでいる『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』に登場している、ろう者同士の夫婦のお子さんである3才長男ともうじき1才の次男に出会うようなものですが、なにせそちらはまだ小さい。
聴覚障害者のこどもさんが、コーダですから、こちらの本の著者とさきほどの本のちびっこたちもコーダです。
本の中では、著者と他人である聴覚障害者たちとの出会いがあります。
手話と手話で話すのですが、言葉が通じると、心が通い合ったり、気持ちが通じたりします。ステキなことです。
同時進行で読んでいる『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』では、3歳と0歳のちびっこたちが、生まれてすぐに聴覚障害者対応の教育を受け始めています。
こちらの『ろうの両親から生まれたぼくが……』のほうの著者は、25歳からようやく聴覚障害者対応の教育に取り組み始めました。遅いスタートになりましたが、一生何もやらないよりはましです。
著者は、聴覚障害者のお子さんから『コーダ』の意味を教えてもらって、初めて『コーダ』という言葉を知ります。
そして『……ぼくは決して孤独ではなかったのだ。』という自覚が芽生えます。(日本国内には推定2万2000人のコーダがいる)
耳が聴こえない人たちのお誕生日会があります。
あっぴーあーすでぃうーゆー:ハッピバースディトゥユー
拍手を表す手話:両手を上にあげてヒラヒラさせる。(音はしません)
ステキです。
東日本大震災が、著者の実家がある宮城県を襲ってドタバタ騒ぎがあります。
耳が聴こえない両親と老齢の祖父、認知症の祖母がいる世帯ですから心配です。
その後の経過のなかで、祖父が亡くなり、祖母が亡くなり、家族の数が減っていきます。
昔話のことで、障害者同士が結婚した夫婦は、遺伝で障害を持つこどもが生れてくる可能性があるから結婚してもこどもをつくってはいけないというような話が出ます。つまり、著者は、この世に生まれてくることはなかった人間だったかもしれないということです。
158ページあたりは、涙なくしては読めないような内容です。
今年読んで良かった一冊になりました。
今の年配の世代の人たちは苦労されています。
ようやくできたこども(著者)に差別される障害者夫婦です。
著者に後悔と反省が生まれます。
身内とか、親族というものは、なるべくいっしょにいる時間をもって、むだ話をしているだけでいいのです。
『第五章 母親との関係をやり直す』が始まりました。
介護の苦労があります。
介護の苦労は介護の体験をした者にしかわかりません。
介護の苦労から逃げる親族もいます。
本では、障害者に対する健常者がする間違った対応について書かれています。
障害者が自分でできることを健常者は奪わないでくださいです。
「自分でやれることは自分でやります」です。
親を聴覚障害者にもつ高校野球選手の取材話が出ます。
本が始まったころにあったトゲトゲした、グルグルした、クチャクチャした状況が、本の最後のほうに近づくようになって、ゆっくりほぐれていきます。ぼんやり丸くて柔らかな(やわらかな)玉になっていくようです。
あとがきではあの頃のぼくに戻ります。
『いつも、ひとりぼっちだった。』です。
209ページでびっくりしました。
この本と同時進行で読んでいた『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』の斎藤陽道(さいとう・はるみち)さんのお名前が出てきました。
こちらの『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐内(いがらし・だい) 幻冬舎』の本のカバーの写真を斎藤陽道(さいとう・はるみち)さんが撮影されたそうです。斎藤陽道(さいとう・はるみち)さんの本職は写真家です。
カバーの写真を見ました。少年が、大きな葉っぱを持って自分の顔を隠しています。
葉っぱには、両目と鼻の穴として4か所に穴があけられていて、その葉っぱをお面(おめん)にして、少年が写真におさまっています。
少年の片目の瞳は見えていますが、もう片方の目は見えていません。少年の目つきがいい。
片方見えて、片方見えていないという世界を表現してあります。
聴こえる世界と、聴こえない世界を重ね合わせてあるのです。
秀逸です。
二冊の別々の本を同時に読んでいて、最後に作者同士の出会いのシーンがあって、びっくりしました。
2023年04月14日
君のクイズ 小川哲
君のクイズ 小川哲(おがわ・さとし) 朝日新聞出版
初めて読む作家さんです。
本屋大賞の候補作と帯に書いてあります。(大賞には別の作品が選ばれました)
クイズ番組『Q-1グランプリ』決勝とあります。
三島玲央(みしま・れお。男性)がいて、本庄絆(ほんじょう・きずな)がいる。
本庄絆はクイズ問題が出る前に、クイズの答がわかるそうです。
なぜだろう。
読み始めます。
話は、クイズ番組が生放送されているテレビスタジオの中から始まります。
三島玲央と本庄絆の対決です。
三島玲央(みしま・れお。男子大学生):彼の語りで物語は進行していきます。身長171cm。医療系の出版社勤務。23歳。
桐崎:女性。三島玲央の同棲相手。旅行代理店勤務。23歳
本庄絆(ほんじょう・きずな。男性):クイズの解答がすばらしい。クイズの神さまみたいな存在に思えます。東大医学部四年生。22歳。スター性あり。身長185cm
今回の件(問題が出る前に正答ができた)は、本来、直接、面と向かって、本庄絆に不正の有無を聞くべきですが、物語はそうはいきません。
まあ、大相撲(おおずもう)で言えば審判からの『物言い』がついて、審議すべきことがらです。
本庄一家は、2011年3月11日(東日本大震災の日)、山形県鶴岡市にいた(日本海側にある市)。当時、本庄絆は、中学生だった。
本庄絆は、中学生時代いじめにあって不登校だった時期がある。本庄絆は、いじめに対する復讐の手段として『クイズ』を選んだ。いじめたやつらに、自分が成功した姿を見せつけてやる。
『ママ、クリーニング小野寺よ』(争点となる本庄絆の答です。正解です。でも、問題が読まれる前に答えています。おかしい。不正があったとこの本の読者も思う)
本庄絆はこの正解で、クイズ大会で優勝しました。おかしすぎる。
坂田泰彦(さかた・やすひこ):クイズ番組の総合演出担当者
準決勝出場者として、三島玲央意外に6人がいます。
優勝賞金は1000万円でした。
やってる:やらせ。わたしは「不正」と受け取りました。あとは、自分は、テレビ番組というものは「加工」されていると思いながら見ています。だからだまされちゃいけない。
23ページまで読んで思うことです。
『クイズ』は、娯楽であって、仕事ではない。
不可解なことがあったとしても、実害が大きいとはいえない。
ゆえに読み手としては、事(こと)の重大性に気持ちがのらない。
されど、なにか、しかけがあるようなので、それを知りたい。
推理小説です。
『なぜ、読まれていないクイズ問題の正答がわかったのか』
おもしろい。
(つづく)
テレビ番組製作スタッフはいいかげんなところがあるに違いない。約束をきちんと守らない慣例があるように感じます。やりますといいながら、やるわけないよと腹の中で思っていることもあるでしょう。まあ、テレビに限らず、ほかの世界でもありそうです。釈明会見をやるといいつつ、うやむやになる。まあ、人間というものは信用ならない。
一対一のクイズの勝負の雰囲気は洋画『リアルスチール』のようでもある。戦闘ロボット対戦闘ロボットとの闘いです。
ページ45。ふと、ピンとくるものがある。
この物語には、なにか仕掛け(しかけ)がしてある。
これまでのページの分(ぶん)は、現実ではない可能性がある。
思い過ごしだろうか。(考えすぎでした)
創造力遊びの文脈です。
優秀なクイズプレーヤーは、テレビ局番組制作者にとっては、視聴率をとってスポンサーを喜ばせるための都合のいいロボットです。各自に勇ましい肩書きをつけて、興奮をあおる。
大阪の天保山(てんぽうざん)といえば、そばに水族館の『海遊館(かいゆうかん)』があります。何度か行きました。
abc:大学四年生以下が対象の短文早押しクイズ大会。学生クイズプレーヤーのオリンピック大会のようなもの。
『クイズが生きている……』
東日本大震災と本庄絆のクイズ解答能力の向上がつながっているようです。
三島玲央のクイズ美学:正解を確信してから美しい早押しをする。
クイズで勝利するコツとして:『恥ずかしい』という感情を捨てる。(なにごとにもいえます)クイズで間違えることは恥ずかしいことではない。同様に、若い頃の失敗は、失敗ではない。(歳をとってからの失敗は、とりかえしがつかないということはあります)
人の生き方の教示(きょうじ。教え)があります。
読んでいて『演技』という言葉が頭に浮かびます。
テレビ番組を盛り上げるための演技です。
やらせともいえます。
本庄絆を役者にする。
本庄絆というクイズの英雄がテレビ番組制作者によって創られていく。(つくられていく)本人の実態とは別のキャラクター(個性)が作成される。お金のための広告塔としての役割を果たすようにキャラクターを設定していく。(ありがちな現実です)
さらに、クイズ番組にストーリー性をつくる。物語としての流れをつくる。
(つづく)
クイズ解答者としての『ライバル』という存在があるからこと成り立つ物語です。(事項について考察できる人間がいる)
クイズの問題を答える側の人間と、クイズの問題をつくる側の人間がいます。
本庄絆は、つくる側の人間の思考をもっている。
クイズを解く立場にある人間から見て、どんなクイズ問題でも正解する、正解できるということが前提です。(間違えることはない)
大事なことは、対戦相手よりも早く解答するために、早くボタンを押すことなのです。
野島断層(のじまだんそう):兵庫県淡路島にある活断層。淡路島出身の有名人のことが出ます。阿久悠(あく・ゆう)、上沼恵美子(かみぬま・えみこ)、堀井雄二、渡哲也、渡瀬恒彦。先日、昔の太川&えびすローカルバス乗り継ぎの旅にマドンナとして出演されていた宮地真緒(みやじ・まお)さんも淡路島出身でした。
本庄絆を疑っていた三島玲央が、本所絆を擁護(ようご。かばう)する方向へと変わっていきます。
反発から擁護への変化があります。
背理法(はいりほう):偽(にせ)と仮定して矛盾(むじゅん。理屈が合わない)を導く経過の中で、偽ではないという結論を導く。
良かった表現として『ピンポンという音は、解答者を「君は正しい」と肯定してくれる音でもある』クイズが、僕の人生を肯定してくれる。
『僕は……人間としてはとても未熟だ……』
千葉駅前の交番の話が出ます。
先月旅行の途中で千葉駅に行ったばかりなので縁を感じました。
クイズプレーヤーは、しょせん、クイズ番組制作者の手のひらの上でころがされているのにすぎない。(洗脳されている。いいように利用されている)
緊張感があります。
シンボリルドルフ:なつかしい。競走馬の名前です。この馬が走っていた頃、自分は競馬に熱中していました。競馬で家が建つと錯覚していました。競馬をやり始めた時はもうけましたが、やがて、儲け以上に損をして競馬に関心がなくなりました。
読み終えて、現実が書いてある小説でした。
人間界の(社会の)常識です。
利益を得ようとすると、自然でなくなる。
人類の歴史として『狩猟生活』(やがて傷んでしまう(いたんでしまう)肉をその場で分かち合う)から『農耕生活』(米を備蓄できて、上下関係と貧富の差ができる)を再現したような物語だったと感じました。
初めて読む作家さんです。
本屋大賞の候補作と帯に書いてあります。(大賞には別の作品が選ばれました)
クイズ番組『Q-1グランプリ』決勝とあります。
三島玲央(みしま・れお。男性)がいて、本庄絆(ほんじょう・きずな)がいる。
本庄絆はクイズ問題が出る前に、クイズの答がわかるそうです。
なぜだろう。
読み始めます。
話は、クイズ番組が生放送されているテレビスタジオの中から始まります。
三島玲央と本庄絆の対決です。
三島玲央(みしま・れお。男子大学生):彼の語りで物語は進行していきます。身長171cm。医療系の出版社勤務。23歳。
桐崎:女性。三島玲央の同棲相手。旅行代理店勤務。23歳
本庄絆(ほんじょう・きずな。男性):クイズの解答がすばらしい。クイズの神さまみたいな存在に思えます。東大医学部四年生。22歳。スター性あり。身長185cm
今回の件(問題が出る前に正答ができた)は、本来、直接、面と向かって、本庄絆に不正の有無を聞くべきですが、物語はそうはいきません。
まあ、大相撲(おおずもう)で言えば審判からの『物言い』がついて、審議すべきことがらです。
本庄一家は、2011年3月11日(東日本大震災の日)、山形県鶴岡市にいた(日本海側にある市)。当時、本庄絆は、中学生だった。
本庄絆は、中学生時代いじめにあって不登校だった時期がある。本庄絆は、いじめに対する復讐の手段として『クイズ』を選んだ。いじめたやつらに、自分が成功した姿を見せつけてやる。
『ママ、クリーニング小野寺よ』(争点となる本庄絆の答です。正解です。でも、問題が読まれる前に答えています。おかしい。不正があったとこの本の読者も思う)
本庄絆はこの正解で、クイズ大会で優勝しました。おかしすぎる。
坂田泰彦(さかた・やすひこ):クイズ番組の総合演出担当者
準決勝出場者として、三島玲央意外に6人がいます。
優勝賞金は1000万円でした。
やってる:やらせ。わたしは「不正」と受け取りました。あとは、自分は、テレビ番組というものは「加工」されていると思いながら見ています。だからだまされちゃいけない。
23ページまで読んで思うことです。
『クイズ』は、娯楽であって、仕事ではない。
不可解なことがあったとしても、実害が大きいとはいえない。
ゆえに読み手としては、事(こと)の重大性に気持ちがのらない。
されど、なにか、しかけがあるようなので、それを知りたい。
推理小説です。
『なぜ、読まれていないクイズ問題の正答がわかったのか』
おもしろい。
(つづく)
テレビ番組製作スタッフはいいかげんなところがあるに違いない。約束をきちんと守らない慣例があるように感じます。やりますといいながら、やるわけないよと腹の中で思っていることもあるでしょう。まあ、テレビに限らず、ほかの世界でもありそうです。釈明会見をやるといいつつ、うやむやになる。まあ、人間というものは信用ならない。
一対一のクイズの勝負の雰囲気は洋画『リアルスチール』のようでもある。戦闘ロボット対戦闘ロボットとの闘いです。
ページ45。ふと、ピンとくるものがある。
この物語には、なにか仕掛け(しかけ)がしてある。
これまでのページの分(ぶん)は、現実ではない可能性がある。
思い過ごしだろうか。(考えすぎでした)
創造力遊びの文脈です。
優秀なクイズプレーヤーは、テレビ局番組制作者にとっては、視聴率をとってスポンサーを喜ばせるための都合のいいロボットです。各自に勇ましい肩書きをつけて、興奮をあおる。
大阪の天保山(てんぽうざん)といえば、そばに水族館の『海遊館(かいゆうかん)』があります。何度か行きました。
abc:大学四年生以下が対象の短文早押しクイズ大会。学生クイズプレーヤーのオリンピック大会のようなもの。
『クイズが生きている……』
東日本大震災と本庄絆のクイズ解答能力の向上がつながっているようです。
三島玲央のクイズ美学:正解を確信してから美しい早押しをする。
クイズで勝利するコツとして:『恥ずかしい』という感情を捨てる。(なにごとにもいえます)クイズで間違えることは恥ずかしいことではない。同様に、若い頃の失敗は、失敗ではない。(歳をとってからの失敗は、とりかえしがつかないということはあります)
人の生き方の教示(きょうじ。教え)があります。
読んでいて『演技』という言葉が頭に浮かびます。
テレビ番組を盛り上げるための演技です。
やらせともいえます。
本庄絆を役者にする。
本庄絆というクイズの英雄がテレビ番組制作者によって創られていく。(つくられていく)本人の実態とは別のキャラクター(個性)が作成される。お金のための広告塔としての役割を果たすようにキャラクターを設定していく。(ありがちな現実です)
さらに、クイズ番組にストーリー性をつくる。物語としての流れをつくる。
(つづく)
クイズ解答者としての『ライバル』という存在があるからこと成り立つ物語です。(事項について考察できる人間がいる)
クイズの問題を答える側の人間と、クイズの問題をつくる側の人間がいます。
本庄絆は、つくる側の人間の思考をもっている。
クイズを解く立場にある人間から見て、どんなクイズ問題でも正解する、正解できるということが前提です。(間違えることはない)
大事なことは、対戦相手よりも早く解答するために、早くボタンを押すことなのです。
野島断層(のじまだんそう):兵庫県淡路島にある活断層。淡路島出身の有名人のことが出ます。阿久悠(あく・ゆう)、上沼恵美子(かみぬま・えみこ)、堀井雄二、渡哲也、渡瀬恒彦。先日、昔の太川&えびすローカルバス乗り継ぎの旅にマドンナとして出演されていた宮地真緒(みやじ・まお)さんも淡路島出身でした。
本庄絆を疑っていた三島玲央が、本所絆を擁護(ようご。かばう)する方向へと変わっていきます。
反発から擁護への変化があります。
背理法(はいりほう):偽(にせ)と仮定して矛盾(むじゅん。理屈が合わない)を導く経過の中で、偽ではないという結論を導く。
良かった表現として『ピンポンという音は、解答者を「君は正しい」と肯定してくれる音でもある』クイズが、僕の人生を肯定してくれる。
『僕は……人間としてはとても未熟だ……』
千葉駅前の交番の話が出ます。
先月旅行の途中で千葉駅に行ったばかりなので縁を感じました。
クイズプレーヤーは、しょせん、クイズ番組制作者の手のひらの上でころがされているのにすぎない。(洗脳されている。いいように利用されている)
緊張感があります。
シンボリルドルフ:なつかしい。競走馬の名前です。この馬が走っていた頃、自分は競馬に熱中していました。競馬で家が建つと錯覚していました。競馬をやり始めた時はもうけましたが、やがて、儲け以上に損をして競馬に関心がなくなりました。
読み終えて、現実が書いてある小説でした。
人間界の(社会の)常識です。
利益を得ようとすると、自然でなくなる。
人類の歴史として『狩猟生活』(やがて傷んでしまう(いたんでしまう)肉をその場で分かち合う)から『農耕生活』(米を備蓄できて、上下関係と貧富の差ができる)を再現したような物語だったと感じました。
2023年04月12日
おしりをしりたい 鈴木のりたけ
おしりをしりたい 鈴木のりたけ 小学館
ざーっとページをめくって『にんげんのおしりだいしゅうごう』の見開き2ページのところがおもしろい。
いろんな人、いろんなタイプのおしりが12種類描いてあります。けして、エロ本ではありません。こどもさん向けの絵本です。
「ちいさなおしり」「おおきなおしり」「つきでたおしり」「たいらなおしり」「きんにくしつなおしり」「ながいおしり」「たれたおしり」「しわだらけのおしり」……などとつづいていきます。こどもさんは、よろこぶでしょう。じっさいにありそうなおしりばかりです。
漫才のような本です。
落語のようでもある。
言葉あそびがあります。
リズミカルです。
ああ、そういう言葉がありました。気づきがあります。
『しりが ながい』(人の家に来て、なかなか帰ろうとしない人のこと)
『しりが おもい』(うごきがにぶい。動こうとしない人のこと)
『しりを たたく』(励ましの意味をこめて、けしかけること)
ほかにもいろいろ書いてあります。
おしりの分析があります。
どこからどこまでが『おしり』で、どこからが『あし』で、どこからが『せなか』なのか。
おもしろい。
こんど親戚のちびっこたちに会ったときにプレゼントする絵本の候補の一冊にします。
自分のおしりを直接見るのはむずかしい。
おしりをだいじにしよう。
さいごのオチもよかった。
『この本のおしりです』
裏表紙にある絵『シリマンジャロ』に笑いました。
アフリカにある山、キリマンジャロに似たおしりの形をした山の絵です。
ざーっとページをめくって『にんげんのおしりだいしゅうごう』の見開き2ページのところがおもしろい。
いろんな人、いろんなタイプのおしりが12種類描いてあります。けして、エロ本ではありません。こどもさん向けの絵本です。
「ちいさなおしり」「おおきなおしり」「つきでたおしり」「たいらなおしり」「きんにくしつなおしり」「ながいおしり」「たれたおしり」「しわだらけのおしり」……などとつづいていきます。こどもさんは、よろこぶでしょう。じっさいにありそうなおしりばかりです。
漫才のような本です。
落語のようでもある。
言葉あそびがあります。
リズミカルです。
ああ、そういう言葉がありました。気づきがあります。
『しりが ながい』(人の家に来て、なかなか帰ろうとしない人のこと)
『しりが おもい』(うごきがにぶい。動こうとしない人のこと)
『しりを たたく』(励ましの意味をこめて、けしかけること)
ほかにもいろいろ書いてあります。
おしりの分析があります。
どこからどこまでが『おしり』で、どこからが『あし』で、どこからが『せなか』なのか。
おもしろい。
こんど親戚のちびっこたちに会ったときにプレゼントする絵本の候補の一冊にします。
自分のおしりを直接見るのはむずかしい。
おしりをだいじにしよう。
さいごのオチもよかった。
『この本のおしりです』
裏表紙にある絵『シリマンジャロ』に笑いました。
アフリカにある山、キリマンジャロに似たおしりの形をした山の絵です。
2023年04月08日
信仰から解放されない子どもたち 横道誠 編・著
信仰から解放されない子どもたち #宗教2世に信教の自由を 横道誠 編・著 明石書店
2022年7月8日、前総理大臣の銃撃事件があった昨年夏から話題になっていることがらです。
新刊書をチェックしていて目に留まり、興味を持ち取り寄せました。
関係者は、元統一教会2世信者、元オウム真理教2世信者、天理教5世信者、元エホバの証人2世信者、元創価学会2世信者、教育学者、社会福祉士、ジャーナリスト(報道に関わる人)、宗教社会学者などの方々です。
ふつう、宗教で心が救われるのではないか。
宗教で苦しまなければならないのは、本末転倒ではないか。(ほんまつてんとう:逆効果。本来の意味を失っている)
ひとつには、お金の問題があります。
社会生活を送るためにはお金がいります。
わたしたちは、税金を支払って、国や自治体に運用をまかせています。
収入や財産に応じて、税金を負担しています。
宗教団体活動にもお金がいります。組織を運営し維持していくためにお金がいります。
宗教団体には、税金という法律に基づく制度はありません。うちわ(内輪)の取り決めで運営費の徴収があります。度が過ぎた徴収(寄附行為)は、不幸を生みます。
読み始めます。
(そして、最初の人の文章を読み終えました)
かなり衝撃を受けました。ひどい。
宗教二世の不幸が書いてありました。
この文章を読んで、救われる人がいるでしょう。同じく宗教二世で育って、ひどい体験をされた、あるいは、今されている人たちです。
読む前の前知識として、宗教団体は税金が非課税になる部分がある。学校法人も、医療法人も同様の取り扱いがある。
だれのために宗教団体があるのか。金銭で利益を受ける組織の上層部にいる人間のためにあるのか。宗教集団の中で、利益を分かち合うのか。仲間である人間関係を利用して、利益獲得活動に生かしていくのか。
さて、最初の人のお話です。
発達障害の母親が宗教活動を始めた不幸が書いてあります。
孤独な発達障害の人は、宗教勧誘のカモだったそうです。(カモ:だまされやすい人。餌食(えじき)都合のいい人)
夫と妻の関係があります。
妻は信仰活動に熱心で、夫は反対していても無関心で妻の信仰活動に干渉しないという構図があります。そして、こどもたちは不幸におちいります。父親には、家族という小さな社会をまとめる力(ちから)がありません。
こどもに対する「ムチ」の時間というのは初めて聞きました。
明らかに児童虐待です。「しつけ」という名の「暴力」です。気が狂っています。
サタンとは何? わたしからすれば、自分のこどもをたたく母親がサタンです。(悪魔)
宗教に浸かった(つかった)発達障害の母親は暴力の加減(かげん。程度)を知りません。徹底的にこどもの心身を痛めつけます。そんなことを続けていたら、こどもが死んじゃいます。こどもが発狂します。宗教が殺人者を生んでしまいます。
こどもに対するかなりひどい体罰があります。理由がわかりません。再び、サタンとは何者なのかという疑問が生じます。
宗教二世のこどもに時間の感覚がありません。成長しておとなになっても、虐待を受けた時期の前後関係がありません。時間の経過がないのです。虐待は、過去のことではないのです。フラッシュバックという現象で、過去が、現在のこととして瞬間的に脳裏によみがえるのです。おそろしい。
(体育教師で体操に失敗して車いす生活になった)星野富弘さんという障害者で、口にくわえた筆でお花の植物絵を描かれる人のことが文章の中に出てきました。(わたしは、群馬県にある富弘美術館まで星野富弘さんの絵を見に行ったことがあります。絵画集も数冊購入しました)
ふつうは、星野富弘さんのことを、障害に負けずにがんばっている人と思うのですが、こちらの宗教二世である執筆者はそうは思っておられませんでした。宗教をめぐる親子関係に悩んでいた小学四年生のときに、団地の5階から飛び降り自殺をしようとしたけれど、もし即死しないで、星野富弘さんみたいな障害者になったらイヤだと思って飛び降り自殺を思いとどまっておられます。
こどもの心をそこまで追い込む宗教とはなんだろう。
ちなみに、星野富弘さんは体が不自由になられたあと、宗教によって救われています。宗教ってなんだろう。宗教には二面性があるようです。
星野富弘さんは、絶望のふちから帰還されていますが、とても長い時間がかかっています。自由のないお体になられたあと、宗教が心の支えになっていきます。
1970年6月(昭和45年)中学校の体育教師をしていて運動中に頚椎(けいつい。首のうしろ)を損傷し手足が動かなくなる。口に筆をくわえて絵や文章を書き始める。
勉強もできてスポーツにも長(た)けている。事故は相当のショックだったでしょう。24歳からの9年間の寝たきり入院生活は絶望の淵(ふち)にいたとお察しします。
星野富弘さんの言葉で心に残っているものがあります。おぼろげな記憶ですが『川で泳いでいたら川の水の勢いに巻き込まれて自分の体が下流に流されてしまった。元の岸に戻ろうとあがいていたら溺れて死にそうになった。川の流れにさからうことをやめて、川の流れに身をまかせて流れていたら、体は自分の知らない岸に流れ着いた。自分は、流れ着いた岸で暮らしていくことにした。気持ちが楽になった』というような内容でした。自分なりに『川』というのはお住いの近くを流れている『渡良瀬川(わたらせがわ)』だろうと決めつけました。最近読んだ本『リバー 奥田英朗(おくだひでお) 集英社』の舞台です。物語は連続殺人事件の犯人を追う警察ものでした。
宗教団体の幹部の人は、こちらの宗教二世の本を読んでどう思い、どう感じるのだろうか。
こどもにとって不幸だらけの生活があります。
(話は飛びますが、このあと、168ページあたりまで読んで思ったこととして:特定の宗教団体の活動のありかたがおかしい)
宗教二世のご本人の気持ちとして、(自分に信仰を強制した)母親は、現実には生きているけれど、自分のなかでは死んだままになっているそうです。
希死念慮(きしねんりょ):消えてなくなりたい。楽になりたい。
『永遠の地獄を生きている』(すごい言葉です)
楽しいことがいっぱいあるはずのこども時代です。
『地獄への扉は開いたままになっている。』と結んであります。
おそろしい。
(つづく)
ふたり目は別の宗教の二世の方の記述です。四十代女性。
両親が入信していて、家族とともに教団施設で生まれ育ったそうです。
異常な世界があります。
どうしてこんなことが起きるのだろう。
人間はだまされやすい。
だれが得をしたのだろう。
教団の上層部の人間です。
合法的な暴力と虐待があります。
被害者は抵抗ができないこどもです。
国政選挙の時には、両親が強制的に選挙の仕事に駆り出される(かりだされる)そうです。選挙の運動員とかウグイス嬢として働き、数週間帰宅しないそうです。(無料奉仕のようなことをニュースで聞きました。政策立案面で団体に利益があるようにという下心が見えます)
教団施設内のこどもたちは、そのあいだほったらかしにされて、食べ物はなく、衣類の洗濯もしてもらえなかったそうです。
関与した政治家はこれを聞いてどう思うのだろう。こどもの福祉向上のためにがんばりますなんて、大きな声では言えないでしょう。
昔のアイドル女性歌手の名前が出ます。
彼女のファンだった友人に誘われて、わたしも彼女のコンサートに行ったことがあります。
もう昔のことです。
その後、彼女が宗教団体と関係があるというニュースを聞いたときには、なんのことか自分にはわかりませんでした。集団だったか合同だったかの結婚式があって、教団が決めた相手と結婚するというような報道でした。(相手とは会ったこともないという状態で結婚する)
たしか日本国憲法の学習では、両性の合意のみで男女は結婚すると学んだ気がしたのですが、当人同士が了解しているのならそういうこともありなのだろう。教団もそれなりの相手をあてがってくれるのだろうと、そのときはあまり気にもしませんでした。(されど、当事者たちの中には相当悩んでいた人がいたと、この本を読んでわかりました)
こどもたちの親が洗脳されています。(せんのう。権力者の都合のいいように、心の動きをコントロールされている。心も体もお金も命も、権力者の意のままに管理されている)
親は教団に対しては、被害者であり、こどもに対しては、加害者でもあります。
教えとして『……天の前では嘘ではない』『……神さまのところにそのお金が行くことによって、そのサタン側にあったお金が、天の側(そば)に帰る……』
(わたしには、教団の教えであるその部分を読んでも、教えが、なにを言っているのかわかりません。わたしは、長いこと生きてきましたが、これまでに、神さまを見たことはありません。神さまはいてほしいけれど、現実にはいないのです。ガッツ(闘志)という強い気持ちをもって、自分でがんばるしかないのです)
『天国では公用語は韓国語なんだ……』(? 天国では、韓国語で話すのか。そんなことありえないでしょ。そんな教えを信じることが信じられません)
疑問をもたないという恐さ(こわさ)があります。何でもすんなり受け入れてしまう。危険です。(人に指示されて生活することは、楽な生き方ではあります。トラブルが起きた時に、あの人がああ言ったからと、責任を他者のせいにすればいいのですから。それは『自立・自活』からは遠ざかった生き方です。だれかに、あるいは組織に寄生する(きせいする)生き方ともいえます)
相談窓口について書いてあります。
役所は頼りない。事なかれ主義です。とりあえず、外部向けに、こんなことをしていますというみかけだけの相談窓口をつくってある。なかみはない。
働く人間は、毎月決まった日に決まった額の給料をもらえればそれでいい。やっかいなことには深入りしない。
対応する職員の資質次第で、その後の流れの方向性が決まってしまいます。
宗教二世は途方(とほう)に暮れています。
宗教二世からの叫び声が聞こえてくる本です。
(つづく)
3人目の方の告白です。
仲良しだった母のいとこに誘われて母とともに入信(にゅうしん。信者になる)。1988年(昭和63年)ご本人はまだ小学生です。
親族の名前を勝手に使って、本人の知らない間に入信させられていた親族もいたそうです。めちゃくちゃです。
宗教団体の巧妙な仕掛けにはまっていきます。
読んでいると、まるでばかげたような修行に魂を奪われるようにのめりこんでいます。人間って、洗脳されるとなんでもできてしまうのか……(拒否できないのです)
修行において、覚せい剤まで使用されています。当然修行をすれば、幻覚が見えます。それが修行の効能だという嘘があります。
教えに従うことで、社会を敵だと思い、教団を正義だと思う。そんな思い込みがあります。
宗教を妄信(もうしん)して、教祖を尊ぶ(とうとぶ)。『絶対的な尊師』とあります。
シャクティ-パット:眉間(みけん。まゆの間)を指圧するイニシエーション(儀式。エネルギーを与えて、弟子を成就(じょうじゅ)・解脱(げだつ)させる(わたしにはなんのことかわかりません。そんなことをしなくても人間は生きていけます))なんだか、マンガの本を見るようです。
宗教二世は、こどものころから閉鎖的な空間に置かれていたので『おかしい』と思う思い付きがありません。
『中二病(背伸び、自己顕示欲、劣等感、ひねくれた物言い)』がいつまでも抜けない人がいます。
脳の中身がこどものままで体がおとなになって、なにもしないまま、歳をとっていく人がいます。思考は十代のままです。ただ、そういう人生もあります。否定はできません。
帰依(きえ):拠り所(よりどころ)
かなり重いお話でした。
人生はまだ長いので、これから幸せを取りもどしてほしい。
(つづく)
4人目の方です。 三十代の方です。
宗教5世の方です。現役です。
独特な世界観がありますが、日常生活への規制はゆるい。ゆえにやれるということはあります。
ほかの宗教を否定しない。政府を否定しない。(読んでいて、いろんな考え方をする宗教があると感じました)
今は宗教活動になじんでいるが、若い頃は悩まれたそうです。
読みながら『バランス』について考えました。
いろんな人がいます。宗教活動に熱心な人から、辞めたい人までの幅がある。
『宗教』自体には、学ぶ価値がある。
『信仰(神や仏を信じて、生きていくための心や気持ちのよりどころとする)』が人間にとって大切なものであるという事実は存在する。
『どうやったらほかの人に迷惑をかけずに楽しく幸せに信仰を広めていくことができるのかを考える……』というメッセージには、共感しました。
宗教のことで悩んでいる人たちがたくさんいることがこの本でわかりました。ただし、みなさん、世間では、自分が宗教活動に関わりをもっていることを隠されています。(かくされています)
(つづく)
5人目の方です。
3人兄弟のうち、末っ子の三男が17歳で自殺しています。(宗教が原因の自殺)
暗い話になりそうです。
生き続けるために宗教や信仰があるのではないのか。
スピリチュアル(精神世界。目には見えない)、霊能力者。
そんなものはないと自分は思っています。信じちゃいけない。だまされます。
亡くなった人を悼む気持ちは大事です。(悼む:いたむ。悲しむ。慕う(したう)。感謝する)
どこの宗教の家でも、夫あるいは父親の立場の男性は、無関心、不干渉です。そして、トラブルになると家からいなくなる人が多い。最終的に離婚です。シングルマザーが残ります。
宗教に染まっている親はどうかしているとしか思えません。
こどもに対する『ムチ』という行為は虐待だと思うのですが、家庭の中でやられていると外部の人間は気づけません。されど、宗教施設の中ではやられていたわけで、その場で異論を唱えるおとながひとりもいなかったということは異常です。とくに教団役職のポジションにある人間が『ムチ行為』をやめさせなかったことには読んでいて落胆(らくたん)します。
なんというか、親族も学校も助けてくれない。警察を呼んでもいいような出来事もあります。だけど警察もどこまで対応できるか疑問です。なにかしら、こどもを救うための法令とか手段が必要です。昨年夏の前首相銃撃事件から検討されているのでしょう。(この部分を書いたあと、150ページに専門家の方の支援者としての強い衝撃があったと書いてありました。大学教授。内閣府・子どもの貧困対策に有識者として参画。学校は宗教二世のこどもの貧困に気づかず、助けてくれなかったのです)
さらになんというか、こうしている間でも、日本のどこかで、現在進行形で、児童虐待行為は行われているのでしょう。
ほかの方の告白も含めて、宗教二世は、精神を病(や)んだり、アルコール依存になったりすることが書いてあります。
宗教活動がない家に生まれていたら起きない現象があります。
バーンアウト:燃え尽き症候群
この方の告白部分を読み終えて思ったことです。
-自分が、自分として、しっかりしなきゃ。人から嫌われてもいいから、自分はこうすることが自分にとって正しいと思うからそうするという強い意志をもったほうがいい。迷信を信じちゃいけない。(迷信:めいしん。合理的な根拠がない。科学的な根拠がない。誤った情報。ウソの情報。いないものはいない。いるものはいる。白か黒かの世界を見きわめる。とかく、人はグレーゾーンで生きたがるものですが、肝心なときには、喜怒哀楽の感情を消して、理屈で割り切る)-
(つづく)
6人目の方です。
母親が信仰をする人です。
読んでいると、気の毒で、涙がこぼれ落ちそうになります。
ちびっこにとっての毎日は『遊び』です。こどもは『遊び』から生活を学びます。
お経さん(おきょうさん)を強制的に毎日決まった時間に唱えさせられます。(となえさせられます)お経に書いてあること(文章)は何が書いてあるのか、何の意味なのかは、こどもにはわかりません。あんがい、おとなもわかっていません。そして、父親は酒飲みです。
信仰をしている人にとっては、大切なものなのでしょうが、信仰をしていない人にとっては『紙』でしかありません。そもそも、仏像や紙に魂は宿ってはいないと思います。もとは、木であり、紙であるだけです。
結局お母さんは、自殺しています。
救いはなかった。
夫婦関係は冷え切っていた。
こどもはがっくりくるしかありません。
信仰は、天国に行くためではなく、地獄にいくためにあったのか。
母親は、教団以外に人間関係がなかった。
勧誘はしつこい。
母親が亡くなったあとも勧誘はやまりません。
選挙になれば、投票の依頼があります。(指示に近いのでしょう。強制という圧迫感があります)
気が狂っている行為です。理解できません。家族のうちのおひとりが、信仰が理由で自殺しているというのに、信仰活動の勧誘をする人はどんな気持ちで勧誘をしているのだろうか。脳の中の活動が機械的です。あるいは、人間にとって大切な脳みその一部分が欠落しているようでもあります。
(つづく)
第Ⅱ部は専門家同士の対談です。
宗教二世のこどもは、ものすごい労力を宗教布教活動に費やしています。(ついやしています)
お金だけではなく、時間と労力です。こどもが労働力として扱われていた昔の日本社会、昔のヨーロッパ社会のようです。
そうやって、こどもは、いろいろなものを失っていきます。あるいは、おとなたちに奪われています。
PTA会長をしている人が教団の人だったりもする。
そんな人が自分のこどもに人が見ていないところで『ムチ』という虐待行為をする。
だれもがやりたくない地域の職に、みかけの立派さで就(つ)いてしまう危険があります。隙(すき)があります。公的な立場が布教活動に利用されるのではないかという怖さが(こわさが)潜んでいます。(ひそんでいます)
見かけだけは上品な人が多い宗教というような印象があります。
子育てがじょうずにできる親は少ない。
愛情不足の親がいます。
愛情表現のしかたが、屈折している親がいます。
こどもは(宗教活動をしていてもしていなくても)最後は、「自分で」なんとかするしかない。自立と自活をするしかない。
アディクション:依存症。満たされなさや空虚な感じを、なにかで満たす。薬物や暴力の行使、アルコール、ギャンブルなどの手段をとる。ネット中毒、ゲーム中毒など。日本語で、嗜癖(しへき)。
神に依存する。
こどもを「叱る(しかる)」ことで、快感が生れる。
パワハラ上司も「叱る」ことで、上司に快感が生れる。部下はひたすら苦痛で、なんの効果もない。こどもも同様に苦痛を感じるだけで、苦痛からの抜け道を考えることしか思い浮かばない。
とりあえず安心な宗教:どんな宗教でも絶対に安全ではない。
提案として、そういう考え方があるのかとはっとさせられました。
『宗教活動を18歳未満は禁止にする。成人後、各自がどうするのかを判断する』
日本国憲法の精神に沿わない宗教を否定する。
基本的人権の尊重。平和主義。法の下(もと)の平等。教育を受ける権利
カルト:崇拝。礼拝。中心にカリスマ的指導者の存在がある。(超人間的。教祖。英雄)。熱狂的な会員がいる。反社会的な団体。犯罪行為がある。
ドグマ的:宗教の教義。独断的な説(せつ)。
165ページまで読んできて、宗教のことでこんなに悩んでいるのかと驚かされました。
イヤなことはイヤだと主張できる人間になれたらいいのに。
自立・自活できるまではがまんして、18歳になったら、そんな親とはサヨナラです。合法的な家出をするしかないという気持ちになります。
親が、犯罪者に見えてくるような行為を、親が何の疑問ももたずにしてきます。
こどもは親に連れ回されます。
ウェルビーイング:利益を実現した状態
猜疑心(さいぎしん):疑う気持ち
宗教に関しては『親は親、こどもはこども』と分離する。
こども家庭庁のことも話題として出てきます。
児相(じそう):文章の中では、児童相談所のことを「児相」と略して表記してありますが、略さずに児童相談所と書かれたほうが読むほうは、わかりやすいです。一般の人で、児童相談所のことを知っている人は少ないと思います。児童相談所と関わりをもつ人は、人口全体のなかでは少ない割合でしょう。
教義に従わないと『先祖代々まで地獄に落ちる』(先祖というのは、もうこの世に存在しない人たちです。何を言っているのか理解できません)
『神の子』(いいえ、人の子です)
どれもこれも「脅迫」です。
ピアサポーター:同じような立場にいる支援者
フランスの反セクト法:宗教団体に対する規制法。2001年成立。(自分なりに、人の道に反する反社会的な行為をする宗教団体を取り締まる法律だろうと解釈しました)
(つづく)
アドボカシー:擁護(ようご)、代弁、支持、表明
親が宗教にのめりこんでいくなかで、こどもが翻弄される。(ほんろう:本人の意思に関係なくふりまわされる)
こどもにとっては、まるで、嵐の中にいるようです。不安定です。
いろいろ問題提起があります。
現在の政府与党の枠組みから考えて、与党は、特定の団体のこととして処理したい。
伝統的な宗教団体においても宗教二世の問題と課題は存在する。
裁判所は、宗教問題の判断に消極的
リテラシー:読解記述力(どっかいきじゅつりょく)。適切に、理解・解釈・分析をして、改めて、記述で表現する。
読んでいて、いろいろむずかしい現状があります。
『こども家庭庁』といのは、最初の頃は『こども庁』でいくのだろうと思われていたというのは初めて知りました。社会的に問題になった宗教団体の「家庭連合」からきているのではないかという説があり、真偽のほどはわかりません。
とかく人間界とか政治の世界は、グレーゾーン(灰色の空間)です。最優先は「権力」と「お金」なのでしょう。
(つづく)
宗教団体が設立した学校を卒業した宗教二世の不幸が書かれてあります。
就職時に、偏見、差別にさらされるのです。
パーソナリティ:個性。人柄
宗教家だから人に優しいということはない。
教義に従うことに厳しいという面はある。
自分だけでなくて、抵抗力のないこどもにも信仰を強制する。
そこに問題点と課題がある。
いじめが多い学校生活です。
社会に出てもいじめや差別があります。
宗教二世は、なにかといじめの対象者になりやすい。
生きづらさがあります。
こどもは孤立します。
作品『星の子』は読みました。
邦画では、最後に、芦田愛菜さんが演じるこどもさんは信仰から逃れる(のがれる)ことをあきらめるのです。
両親が信仰する宗教に浸かる(つかる)ことにしたのです。物悲しいお話でした。
『星の子 今村夏子 朝日新聞出版』
病弱に生まれた主人公林ちひろ(ちーちゃん)を救うために、「水」にからんだ新興宗教らしき活動に積極的に関わる両親がいます。それが原因で、親族関係、親子関係(ちーちゃんの5歳上に姉のまさみさん、まーちゃんがいる)が破たんしていきます。
宗教小説は避けられる傾向にあるのですが、この小説の場合、成功しています。
今年読んで良かった一冊になりました。
前半のひとりひとりの告白は、胸に響くものがありました。
後半の専門家同士の対談では、『宗教』とか『信仰』とか、個人の自由に関するもので、対応が不明瞭で取り組みにくかったりすることがわかりました。
『信仰』というものは、個人の心を支えるものであり、こどもの心を破壊するものではないというところはしっかり押さえておきたいという気持ちになりました。
非合理的なこと、理屈に合わないことには従わないという強い意志が必要なことがわかりました。
2022年7月8日、前総理大臣の銃撃事件があった昨年夏から話題になっていることがらです。
新刊書をチェックしていて目に留まり、興味を持ち取り寄せました。
関係者は、元統一教会2世信者、元オウム真理教2世信者、天理教5世信者、元エホバの証人2世信者、元創価学会2世信者、教育学者、社会福祉士、ジャーナリスト(報道に関わる人)、宗教社会学者などの方々です。
ふつう、宗教で心が救われるのではないか。
宗教で苦しまなければならないのは、本末転倒ではないか。(ほんまつてんとう:逆効果。本来の意味を失っている)
ひとつには、お金の問題があります。
社会生活を送るためにはお金がいります。
わたしたちは、税金を支払って、国や自治体に運用をまかせています。
収入や財産に応じて、税金を負担しています。
宗教団体活動にもお金がいります。組織を運営し維持していくためにお金がいります。
宗教団体には、税金という法律に基づく制度はありません。うちわ(内輪)の取り決めで運営費の徴収があります。度が過ぎた徴収(寄附行為)は、不幸を生みます。
読み始めます。
(そして、最初の人の文章を読み終えました)
かなり衝撃を受けました。ひどい。
宗教二世の不幸が書いてありました。
この文章を読んで、救われる人がいるでしょう。同じく宗教二世で育って、ひどい体験をされた、あるいは、今されている人たちです。
読む前の前知識として、宗教団体は税金が非課税になる部分がある。学校法人も、医療法人も同様の取り扱いがある。
だれのために宗教団体があるのか。金銭で利益を受ける組織の上層部にいる人間のためにあるのか。宗教集団の中で、利益を分かち合うのか。仲間である人間関係を利用して、利益獲得活動に生かしていくのか。
さて、最初の人のお話です。
発達障害の母親が宗教活動を始めた不幸が書いてあります。
孤独な発達障害の人は、宗教勧誘のカモだったそうです。(カモ:だまされやすい人。餌食(えじき)都合のいい人)
夫と妻の関係があります。
妻は信仰活動に熱心で、夫は反対していても無関心で妻の信仰活動に干渉しないという構図があります。そして、こどもたちは不幸におちいります。父親には、家族という小さな社会をまとめる力(ちから)がありません。
こどもに対する「ムチ」の時間というのは初めて聞きました。
明らかに児童虐待です。「しつけ」という名の「暴力」です。気が狂っています。
サタンとは何? わたしからすれば、自分のこどもをたたく母親がサタンです。(悪魔)
宗教に浸かった(つかった)発達障害の母親は暴力の加減(かげん。程度)を知りません。徹底的にこどもの心身を痛めつけます。そんなことを続けていたら、こどもが死んじゃいます。こどもが発狂します。宗教が殺人者を生んでしまいます。
こどもに対するかなりひどい体罰があります。理由がわかりません。再び、サタンとは何者なのかという疑問が生じます。
宗教二世のこどもに時間の感覚がありません。成長しておとなになっても、虐待を受けた時期の前後関係がありません。時間の経過がないのです。虐待は、過去のことではないのです。フラッシュバックという現象で、過去が、現在のこととして瞬間的に脳裏によみがえるのです。おそろしい。
(体育教師で体操に失敗して車いす生活になった)星野富弘さんという障害者で、口にくわえた筆でお花の植物絵を描かれる人のことが文章の中に出てきました。(わたしは、群馬県にある富弘美術館まで星野富弘さんの絵を見に行ったことがあります。絵画集も数冊購入しました)
ふつうは、星野富弘さんのことを、障害に負けずにがんばっている人と思うのですが、こちらの宗教二世である執筆者はそうは思っておられませんでした。宗教をめぐる親子関係に悩んでいた小学四年生のときに、団地の5階から飛び降り自殺をしようとしたけれど、もし即死しないで、星野富弘さんみたいな障害者になったらイヤだと思って飛び降り自殺を思いとどまっておられます。
こどもの心をそこまで追い込む宗教とはなんだろう。
ちなみに、星野富弘さんは体が不自由になられたあと、宗教によって救われています。宗教ってなんだろう。宗教には二面性があるようです。
星野富弘さんは、絶望のふちから帰還されていますが、とても長い時間がかかっています。自由のないお体になられたあと、宗教が心の支えになっていきます。
1970年6月(昭和45年)中学校の体育教師をしていて運動中に頚椎(けいつい。首のうしろ)を損傷し手足が動かなくなる。口に筆をくわえて絵や文章を書き始める。
勉強もできてスポーツにも長(た)けている。事故は相当のショックだったでしょう。24歳からの9年間の寝たきり入院生活は絶望の淵(ふち)にいたとお察しします。
星野富弘さんの言葉で心に残っているものがあります。おぼろげな記憶ですが『川で泳いでいたら川の水の勢いに巻き込まれて自分の体が下流に流されてしまった。元の岸に戻ろうとあがいていたら溺れて死にそうになった。川の流れにさからうことをやめて、川の流れに身をまかせて流れていたら、体は自分の知らない岸に流れ着いた。自分は、流れ着いた岸で暮らしていくことにした。気持ちが楽になった』というような内容でした。自分なりに『川』というのはお住いの近くを流れている『渡良瀬川(わたらせがわ)』だろうと決めつけました。最近読んだ本『リバー 奥田英朗(おくだひでお) 集英社』の舞台です。物語は連続殺人事件の犯人を追う警察ものでした。
宗教団体の幹部の人は、こちらの宗教二世の本を読んでどう思い、どう感じるのだろうか。
こどもにとって不幸だらけの生活があります。
(話は飛びますが、このあと、168ページあたりまで読んで思ったこととして:特定の宗教団体の活動のありかたがおかしい)
宗教二世のご本人の気持ちとして、(自分に信仰を強制した)母親は、現実には生きているけれど、自分のなかでは死んだままになっているそうです。
希死念慮(きしねんりょ):消えてなくなりたい。楽になりたい。
『永遠の地獄を生きている』(すごい言葉です)
楽しいことがいっぱいあるはずのこども時代です。
『地獄への扉は開いたままになっている。』と結んであります。
おそろしい。
(つづく)
ふたり目は別の宗教の二世の方の記述です。四十代女性。
両親が入信していて、家族とともに教団施設で生まれ育ったそうです。
異常な世界があります。
どうしてこんなことが起きるのだろう。
人間はだまされやすい。
だれが得をしたのだろう。
教団の上層部の人間です。
合法的な暴力と虐待があります。
被害者は抵抗ができないこどもです。
国政選挙の時には、両親が強制的に選挙の仕事に駆り出される(かりだされる)そうです。選挙の運動員とかウグイス嬢として働き、数週間帰宅しないそうです。(無料奉仕のようなことをニュースで聞きました。政策立案面で団体に利益があるようにという下心が見えます)
教団施設内のこどもたちは、そのあいだほったらかしにされて、食べ物はなく、衣類の洗濯もしてもらえなかったそうです。
関与した政治家はこれを聞いてどう思うのだろう。こどもの福祉向上のためにがんばりますなんて、大きな声では言えないでしょう。
昔のアイドル女性歌手の名前が出ます。
彼女のファンだった友人に誘われて、わたしも彼女のコンサートに行ったことがあります。
もう昔のことです。
その後、彼女が宗教団体と関係があるというニュースを聞いたときには、なんのことか自分にはわかりませんでした。集団だったか合同だったかの結婚式があって、教団が決めた相手と結婚するというような報道でした。(相手とは会ったこともないという状態で結婚する)
たしか日本国憲法の学習では、両性の合意のみで男女は結婚すると学んだ気がしたのですが、当人同士が了解しているのならそういうこともありなのだろう。教団もそれなりの相手をあてがってくれるのだろうと、そのときはあまり気にもしませんでした。(されど、当事者たちの中には相当悩んでいた人がいたと、この本を読んでわかりました)
こどもたちの親が洗脳されています。(せんのう。権力者の都合のいいように、心の動きをコントロールされている。心も体もお金も命も、権力者の意のままに管理されている)
親は教団に対しては、被害者であり、こどもに対しては、加害者でもあります。
教えとして『……天の前では嘘ではない』『……神さまのところにそのお金が行くことによって、そのサタン側にあったお金が、天の側(そば)に帰る……』
(わたしには、教団の教えであるその部分を読んでも、教えが、なにを言っているのかわかりません。わたしは、長いこと生きてきましたが、これまでに、神さまを見たことはありません。神さまはいてほしいけれど、現実にはいないのです。ガッツ(闘志)という強い気持ちをもって、自分でがんばるしかないのです)
『天国では公用語は韓国語なんだ……』(? 天国では、韓国語で話すのか。そんなことありえないでしょ。そんな教えを信じることが信じられません)
疑問をもたないという恐さ(こわさ)があります。何でもすんなり受け入れてしまう。危険です。(人に指示されて生活することは、楽な生き方ではあります。トラブルが起きた時に、あの人がああ言ったからと、責任を他者のせいにすればいいのですから。それは『自立・自活』からは遠ざかった生き方です。だれかに、あるいは組織に寄生する(きせいする)生き方ともいえます)
相談窓口について書いてあります。
役所は頼りない。事なかれ主義です。とりあえず、外部向けに、こんなことをしていますというみかけだけの相談窓口をつくってある。なかみはない。
働く人間は、毎月決まった日に決まった額の給料をもらえればそれでいい。やっかいなことには深入りしない。
対応する職員の資質次第で、その後の流れの方向性が決まってしまいます。
宗教二世は途方(とほう)に暮れています。
宗教二世からの叫び声が聞こえてくる本です。
(つづく)
3人目の方の告白です。
仲良しだった母のいとこに誘われて母とともに入信(にゅうしん。信者になる)。1988年(昭和63年)ご本人はまだ小学生です。
親族の名前を勝手に使って、本人の知らない間に入信させられていた親族もいたそうです。めちゃくちゃです。
宗教団体の巧妙な仕掛けにはまっていきます。
読んでいると、まるでばかげたような修行に魂を奪われるようにのめりこんでいます。人間って、洗脳されるとなんでもできてしまうのか……(拒否できないのです)
修行において、覚せい剤まで使用されています。当然修行をすれば、幻覚が見えます。それが修行の効能だという嘘があります。
教えに従うことで、社会を敵だと思い、教団を正義だと思う。そんな思い込みがあります。
宗教を妄信(もうしん)して、教祖を尊ぶ(とうとぶ)。『絶対的な尊師』とあります。
シャクティ-パット:眉間(みけん。まゆの間)を指圧するイニシエーション(儀式。エネルギーを与えて、弟子を成就(じょうじゅ)・解脱(げだつ)させる(わたしにはなんのことかわかりません。そんなことをしなくても人間は生きていけます))なんだか、マンガの本を見るようです。
宗教二世は、こどものころから閉鎖的な空間に置かれていたので『おかしい』と思う思い付きがありません。
『中二病(背伸び、自己顕示欲、劣等感、ひねくれた物言い)』がいつまでも抜けない人がいます。
脳の中身がこどものままで体がおとなになって、なにもしないまま、歳をとっていく人がいます。思考は十代のままです。ただ、そういう人生もあります。否定はできません。
帰依(きえ):拠り所(よりどころ)
かなり重いお話でした。
人生はまだ長いので、これから幸せを取りもどしてほしい。
(つづく)
4人目の方です。 三十代の方です。
宗教5世の方です。現役です。
独特な世界観がありますが、日常生活への規制はゆるい。ゆえにやれるということはあります。
ほかの宗教を否定しない。政府を否定しない。(読んでいて、いろんな考え方をする宗教があると感じました)
今は宗教活動になじんでいるが、若い頃は悩まれたそうです。
読みながら『バランス』について考えました。
いろんな人がいます。宗教活動に熱心な人から、辞めたい人までの幅がある。
『宗教』自体には、学ぶ価値がある。
『信仰(神や仏を信じて、生きていくための心や気持ちのよりどころとする)』が人間にとって大切なものであるという事実は存在する。
『どうやったらほかの人に迷惑をかけずに楽しく幸せに信仰を広めていくことができるのかを考える……』というメッセージには、共感しました。
宗教のことで悩んでいる人たちがたくさんいることがこの本でわかりました。ただし、みなさん、世間では、自分が宗教活動に関わりをもっていることを隠されています。(かくされています)
(つづく)
5人目の方です。
3人兄弟のうち、末っ子の三男が17歳で自殺しています。(宗教が原因の自殺)
暗い話になりそうです。
生き続けるために宗教や信仰があるのではないのか。
スピリチュアル(精神世界。目には見えない)、霊能力者。
そんなものはないと自分は思っています。信じちゃいけない。だまされます。
亡くなった人を悼む気持ちは大事です。(悼む:いたむ。悲しむ。慕う(したう)。感謝する)
どこの宗教の家でも、夫あるいは父親の立場の男性は、無関心、不干渉です。そして、トラブルになると家からいなくなる人が多い。最終的に離婚です。シングルマザーが残ります。
宗教に染まっている親はどうかしているとしか思えません。
こどもに対する『ムチ』という行為は虐待だと思うのですが、家庭の中でやられていると外部の人間は気づけません。されど、宗教施設の中ではやられていたわけで、その場で異論を唱えるおとながひとりもいなかったということは異常です。とくに教団役職のポジションにある人間が『ムチ行為』をやめさせなかったことには読んでいて落胆(らくたん)します。
なんというか、親族も学校も助けてくれない。警察を呼んでもいいような出来事もあります。だけど警察もどこまで対応できるか疑問です。なにかしら、こどもを救うための法令とか手段が必要です。昨年夏の前首相銃撃事件から検討されているのでしょう。(この部分を書いたあと、150ページに専門家の方の支援者としての強い衝撃があったと書いてありました。大学教授。内閣府・子どもの貧困対策に有識者として参画。学校は宗教二世のこどもの貧困に気づかず、助けてくれなかったのです)
さらになんというか、こうしている間でも、日本のどこかで、現在進行形で、児童虐待行為は行われているのでしょう。
ほかの方の告白も含めて、宗教二世は、精神を病(や)んだり、アルコール依存になったりすることが書いてあります。
宗教活動がない家に生まれていたら起きない現象があります。
バーンアウト:燃え尽き症候群
この方の告白部分を読み終えて思ったことです。
-自分が、自分として、しっかりしなきゃ。人から嫌われてもいいから、自分はこうすることが自分にとって正しいと思うからそうするという強い意志をもったほうがいい。迷信を信じちゃいけない。(迷信:めいしん。合理的な根拠がない。科学的な根拠がない。誤った情報。ウソの情報。いないものはいない。いるものはいる。白か黒かの世界を見きわめる。とかく、人はグレーゾーンで生きたがるものですが、肝心なときには、喜怒哀楽の感情を消して、理屈で割り切る)-
(つづく)
6人目の方です。
母親が信仰をする人です。
読んでいると、気の毒で、涙がこぼれ落ちそうになります。
ちびっこにとっての毎日は『遊び』です。こどもは『遊び』から生活を学びます。
お経さん(おきょうさん)を強制的に毎日決まった時間に唱えさせられます。(となえさせられます)お経に書いてあること(文章)は何が書いてあるのか、何の意味なのかは、こどもにはわかりません。あんがい、おとなもわかっていません。そして、父親は酒飲みです。
信仰をしている人にとっては、大切なものなのでしょうが、信仰をしていない人にとっては『紙』でしかありません。そもそも、仏像や紙に魂は宿ってはいないと思います。もとは、木であり、紙であるだけです。
結局お母さんは、自殺しています。
救いはなかった。
夫婦関係は冷え切っていた。
こどもはがっくりくるしかありません。
信仰は、天国に行くためではなく、地獄にいくためにあったのか。
母親は、教団以外に人間関係がなかった。
勧誘はしつこい。
母親が亡くなったあとも勧誘はやまりません。
選挙になれば、投票の依頼があります。(指示に近いのでしょう。強制という圧迫感があります)
気が狂っている行為です。理解できません。家族のうちのおひとりが、信仰が理由で自殺しているというのに、信仰活動の勧誘をする人はどんな気持ちで勧誘をしているのだろうか。脳の中の活動が機械的です。あるいは、人間にとって大切な脳みその一部分が欠落しているようでもあります。
(つづく)
第Ⅱ部は専門家同士の対談です。
宗教二世のこどもは、ものすごい労力を宗教布教活動に費やしています。(ついやしています)
お金だけではなく、時間と労力です。こどもが労働力として扱われていた昔の日本社会、昔のヨーロッパ社会のようです。
そうやって、こどもは、いろいろなものを失っていきます。あるいは、おとなたちに奪われています。
PTA会長をしている人が教団の人だったりもする。
そんな人が自分のこどもに人が見ていないところで『ムチ』という虐待行為をする。
だれもがやりたくない地域の職に、みかけの立派さで就(つ)いてしまう危険があります。隙(すき)があります。公的な立場が布教活動に利用されるのではないかという怖さが(こわさが)潜んでいます。(ひそんでいます)
見かけだけは上品な人が多い宗教というような印象があります。
子育てがじょうずにできる親は少ない。
愛情不足の親がいます。
愛情表現のしかたが、屈折している親がいます。
こどもは(宗教活動をしていてもしていなくても)最後は、「自分で」なんとかするしかない。自立と自活をするしかない。
アディクション:依存症。満たされなさや空虚な感じを、なにかで満たす。薬物や暴力の行使、アルコール、ギャンブルなどの手段をとる。ネット中毒、ゲーム中毒など。日本語で、嗜癖(しへき)。
神に依存する。
こどもを「叱る(しかる)」ことで、快感が生れる。
パワハラ上司も「叱る」ことで、上司に快感が生れる。部下はひたすら苦痛で、なんの効果もない。こどもも同様に苦痛を感じるだけで、苦痛からの抜け道を考えることしか思い浮かばない。
とりあえず安心な宗教:どんな宗教でも絶対に安全ではない。
提案として、そういう考え方があるのかとはっとさせられました。
『宗教活動を18歳未満は禁止にする。成人後、各自がどうするのかを判断する』
日本国憲法の精神に沿わない宗教を否定する。
基本的人権の尊重。平和主義。法の下(もと)の平等。教育を受ける権利
カルト:崇拝。礼拝。中心にカリスマ的指導者の存在がある。(超人間的。教祖。英雄)。熱狂的な会員がいる。反社会的な団体。犯罪行為がある。
ドグマ的:宗教の教義。独断的な説(せつ)。
165ページまで読んできて、宗教のことでこんなに悩んでいるのかと驚かされました。
イヤなことはイヤだと主張できる人間になれたらいいのに。
自立・自活できるまではがまんして、18歳になったら、そんな親とはサヨナラです。合法的な家出をするしかないという気持ちになります。
親が、犯罪者に見えてくるような行為を、親が何の疑問ももたずにしてきます。
こどもは親に連れ回されます。
ウェルビーイング:利益を実現した状態
猜疑心(さいぎしん):疑う気持ち
宗教に関しては『親は親、こどもはこども』と分離する。
こども家庭庁のことも話題として出てきます。
児相(じそう):文章の中では、児童相談所のことを「児相」と略して表記してありますが、略さずに児童相談所と書かれたほうが読むほうは、わかりやすいです。一般の人で、児童相談所のことを知っている人は少ないと思います。児童相談所と関わりをもつ人は、人口全体のなかでは少ない割合でしょう。
教義に従わないと『先祖代々まで地獄に落ちる』(先祖というのは、もうこの世に存在しない人たちです。何を言っているのか理解できません)
『神の子』(いいえ、人の子です)
どれもこれも「脅迫」です。
ピアサポーター:同じような立場にいる支援者
フランスの反セクト法:宗教団体に対する規制法。2001年成立。(自分なりに、人の道に反する反社会的な行為をする宗教団体を取り締まる法律だろうと解釈しました)
(つづく)
アドボカシー:擁護(ようご)、代弁、支持、表明
親が宗教にのめりこんでいくなかで、こどもが翻弄される。(ほんろう:本人の意思に関係なくふりまわされる)
こどもにとっては、まるで、嵐の中にいるようです。不安定です。
いろいろ問題提起があります。
現在の政府与党の枠組みから考えて、与党は、特定の団体のこととして処理したい。
伝統的な宗教団体においても宗教二世の問題と課題は存在する。
裁判所は、宗教問題の判断に消極的
リテラシー:読解記述力(どっかいきじゅつりょく)。適切に、理解・解釈・分析をして、改めて、記述で表現する。
読んでいて、いろいろむずかしい現状があります。
『こども家庭庁』といのは、最初の頃は『こども庁』でいくのだろうと思われていたというのは初めて知りました。社会的に問題になった宗教団体の「家庭連合」からきているのではないかという説があり、真偽のほどはわかりません。
とかく人間界とか政治の世界は、グレーゾーン(灰色の空間)です。最優先は「権力」と「お金」なのでしょう。
(つづく)
宗教団体が設立した学校を卒業した宗教二世の不幸が書かれてあります。
就職時に、偏見、差別にさらされるのです。
パーソナリティ:個性。人柄
宗教家だから人に優しいということはない。
教義に従うことに厳しいという面はある。
自分だけでなくて、抵抗力のないこどもにも信仰を強制する。
そこに問題点と課題がある。
いじめが多い学校生活です。
社会に出てもいじめや差別があります。
宗教二世は、なにかといじめの対象者になりやすい。
生きづらさがあります。
こどもは孤立します。
作品『星の子』は読みました。
邦画では、最後に、芦田愛菜さんが演じるこどもさんは信仰から逃れる(のがれる)ことをあきらめるのです。
両親が信仰する宗教に浸かる(つかる)ことにしたのです。物悲しいお話でした。
『星の子 今村夏子 朝日新聞出版』
病弱に生まれた主人公林ちひろ(ちーちゃん)を救うために、「水」にからんだ新興宗教らしき活動に積極的に関わる両親がいます。それが原因で、親族関係、親子関係(ちーちゃんの5歳上に姉のまさみさん、まーちゃんがいる)が破たんしていきます。
宗教小説は避けられる傾向にあるのですが、この小説の場合、成功しています。
今年読んで良かった一冊になりました。
前半のひとりひとりの告白は、胸に響くものがありました。
後半の専門家同士の対談では、『宗教』とか『信仰』とか、個人の自由に関するもので、対応が不明瞭で取り組みにくかったりすることがわかりました。
『信仰』というものは、個人の心を支えるものであり、こどもの心を破壊するものではないというところはしっかり押さえておきたいという気持ちになりました。
非合理的なこと、理屈に合わないことには従わないという強い意志が必要なことがわかりました。
2023年04月07日
ぼくのおふろ 鈴木のりたけ
ぼくのおふろ 鈴木のりたけ PHP研究所
表紙をめくると、たくさんのおふろの絵が出てきます。
幼児にとって、新しい言葉と言葉の意味を覚えることができる絵本です。
読み終えて、今度親戚のちびっこたちに会った時にプレゼントする絵本の候補の一冊にすることにしました。
想像力の例示、アイデア集です。
ひらがなをリズムにのせて読む絵本です。
歌のようでもある。
迷路ぶろがあります。
なるほど、ちびっこは、迷路遊びが大好きです。
絵本に『おふろめいろ』は、わたしにはちょっとむずかしかった。
なかなかとけなかったので、逆方向、ゴールからスタートをめざしてやれました。
『会議室ぶろ』は、アイデアがおもしろい。
国際会議は、入浴しながらやりましょう。
裸の付き合いです。
男女混浴ぶろは、見当たりませんが、男女別のおふろはあります。
スーパー銭湯みたいです。
『ふかいふろ』は、こわい。かなり深い。だいじょうぶだろうか。
ママに気を使います。
ママのためのおふろがあります。
ママをねぎらうのです。(ねぎらう:苦労に感謝して、いたわる)
絵本を見ていると、温泉につかりたくなります。
おふろに入っている人たちがいっぱいいます。
絵本『ウォーリーをさがせ!』みたいな展開になりました。
もじゃもじゃあたまのサングラスをかけた男をさがします。
顔の雰囲気は、フォークシンガーだったころの井上陽水(いのうえ・ようすい)さんみたいです。
『小』から『大』へ。『狭い』から『広い』へと絵は変化していきます。
世界は広がりを見せます。
絵本の中は、宇宙です。
もじゃもじゃあたまのサングラス男を見つけてどうするのかと思っていたら、水鉄砲で男を狙い撃ち(ねらいうち)です。
ドラえもんとのび太が飛行機にのっているようでもある。
そして、絵本では、最後は自宅のおふろに戻ります。
その絵を見ていて、ふと思いました。
じいちゃんであるわたしは、孫たちがうちに泊まりに来たときは、孫たちがまだしゃべることができないあかちゃんだった時から、いっしょにおふろに入っています。
あかちゃんと浴槽の湯につかるのは、わたしにとっては得意技です。右手をお尻のしたにおいてあかちゃんの体を支えます。左の手のひらを頭の下において、耳にお湯が入らないように、左手親指であかちゃんの右の耳、薬指で左の耳をふさぎます。もう慣れたのでこわくはありません。湯船にぷっかりと赤ちゃんの体を浮かせます。力はいりません。ぷかぷか浮かんだあかちゃんだったころの孫たちは、気持ち良さそうにしていました。
孫の数が増えて、数年前からは、おふろは、三人でいっしょに入っています。浴槽の中で大暴れして(おおあばれして)、手に負えません。
体がちいさかったので、わたしが孫たちのからだを洗います。シャンプーつけて、頭を洗って、あわあわせっけんをつけて体を洗ってあげて、そんなことをしています。
思うのです。幼稚園も卒園したので、そろそろ、自分で自分の体を洗ってほしい。なのに、洗ってくれという態度なのです。まあいいか。洗ってあげている間、ちびっこたちは、うれしそうな表情をしています。
おふろが嫌い(きらい)な人もいます。
入浴はしない。シャワーだけという人もいます。
おふろには、毎日は入らないという人もいます。
女の人でもおふろにあまり入らない人もいます。
心身の健康のために、入浴習慣は身につけたいものです。
裏表紙の裏に「かいてんずしぶろ」というおふろの絵があります。
最近、なにかと話題になった回転寿司です。
人がいやがるようなことをやって喜ぶという心理は、正常な精神状態とは思えません。心が、屈折(くっせつ)しています。
表紙をめくると、たくさんのおふろの絵が出てきます。
幼児にとって、新しい言葉と言葉の意味を覚えることができる絵本です。
読み終えて、今度親戚のちびっこたちに会った時にプレゼントする絵本の候補の一冊にすることにしました。
想像力の例示、アイデア集です。
ひらがなをリズムにのせて読む絵本です。
歌のようでもある。
迷路ぶろがあります。
なるほど、ちびっこは、迷路遊びが大好きです。
絵本に『おふろめいろ』は、わたしにはちょっとむずかしかった。
なかなかとけなかったので、逆方向、ゴールからスタートをめざしてやれました。
『会議室ぶろ』は、アイデアがおもしろい。
国際会議は、入浴しながらやりましょう。
裸の付き合いです。
男女混浴ぶろは、見当たりませんが、男女別のおふろはあります。
スーパー銭湯みたいです。
『ふかいふろ』は、こわい。かなり深い。だいじょうぶだろうか。
ママに気を使います。
ママのためのおふろがあります。
ママをねぎらうのです。(ねぎらう:苦労に感謝して、いたわる)
絵本を見ていると、温泉につかりたくなります。
おふろに入っている人たちがいっぱいいます。
絵本『ウォーリーをさがせ!』みたいな展開になりました。
もじゃもじゃあたまのサングラスをかけた男をさがします。
顔の雰囲気は、フォークシンガーだったころの井上陽水(いのうえ・ようすい)さんみたいです。
『小』から『大』へ。『狭い』から『広い』へと絵は変化していきます。
世界は広がりを見せます。
絵本の中は、宇宙です。
もじゃもじゃあたまのサングラス男を見つけてどうするのかと思っていたら、水鉄砲で男を狙い撃ち(ねらいうち)です。
ドラえもんとのび太が飛行機にのっているようでもある。
そして、絵本では、最後は自宅のおふろに戻ります。
その絵を見ていて、ふと思いました。
じいちゃんであるわたしは、孫たちがうちに泊まりに来たときは、孫たちがまだしゃべることができないあかちゃんだった時から、いっしょにおふろに入っています。
あかちゃんと浴槽の湯につかるのは、わたしにとっては得意技です。右手をお尻のしたにおいてあかちゃんの体を支えます。左の手のひらを頭の下において、耳にお湯が入らないように、左手親指であかちゃんの右の耳、薬指で左の耳をふさぎます。もう慣れたのでこわくはありません。湯船にぷっかりと赤ちゃんの体を浮かせます。力はいりません。ぷかぷか浮かんだあかちゃんだったころの孫たちは、気持ち良さそうにしていました。
孫の数が増えて、数年前からは、おふろは、三人でいっしょに入っています。浴槽の中で大暴れして(おおあばれして)、手に負えません。
体がちいさかったので、わたしが孫たちのからだを洗います。シャンプーつけて、頭を洗って、あわあわせっけんをつけて体を洗ってあげて、そんなことをしています。
思うのです。幼稚園も卒園したので、そろそろ、自分で自分の体を洗ってほしい。なのに、洗ってくれという態度なのです。まあいいか。洗ってあげている間、ちびっこたちは、うれしそうな表情をしています。
おふろが嫌い(きらい)な人もいます。
入浴はしない。シャワーだけという人もいます。
おふろには、毎日は入らないという人もいます。
女の人でもおふろにあまり入らない人もいます。
心身の健康のために、入浴習慣は身につけたいものです。
裏表紙の裏に「かいてんずしぶろ」というおふろの絵があります。
最近、なにかと話題になった回転寿司です。
人がいやがるようなことをやって喜ぶという心理は、正常な精神状態とは思えません。心が、屈折(くっせつ)しています。