2023年04月17日

ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と…… 五十嵐大

ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐大(いがらし・だい) 幻冬舎

 ろう(聾):聴力を失っている。耳が聞こえない。

 本の帯に『耳の聞こえない母が大嫌いだった。』と書いてあります。
 コーダ:耳が聞こえない・聞こえにくい親をもつこどものこと。著者の両親は、ふたりとも耳が聴こえないと本の帯に書いてあります。
 暗い内容の本に感じました。これから読み始めます。

 わたしの読書習慣のパターンです。
 複数の本を同時進行で読みます。
 ときに複数の本の内容を合体させたりして、頭の中で、この世にない本を想像して楽しんだりしています。
 たいていは、三冊を同時進行で読んでいます。ひとつめは、こどもさん向けの絵本のたぐいです。気に入った絵本に出会った時は、自分の孫や親戚のちびっこたちにプレゼントしたりもします。
 ふたつめは、実用書です。日常生活のことに関する本を読みます。
 みっつめが小説です。

 こちらの本は、耳が聴こえない両親をもつこどもさんが書いた本です。
 内容は暗そうです。
 もう一冊類似のもので読み始める本があります。
 『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』です。
 耳が聴こえるこどもをもつ耳が聴こえなくて手話で話す両親のうちのパパが書いた育児まんが日記です。内容は明るそうです。
 本の帯には『毎日は、いつもおもしろい』と書いてあります。手話で話す両親と、0才と3才の健常者であるこどもたちの『ことば』の成長と発見を描いた育児まんが日記!と書いてあります。
 本のカバーにあるこどもさんの姿を描いた絵は優しい感じがします。
 
 今回は実用書の部類としてこの本を読むのですが、まず、自分の実用書の読み方として、わたしはページ全部を最初から最後までゆっくりめくりつつ、書いてある中身を確認します。
 
 著者は、ろうあ者の両親のもとに生まれて、いつもひとりぼっちだったそうです。
 第一章から第五章まで、第一話から第三十話まであります。
 お母さんのことで情けない思いをされたようなことが書いてあります。
 親には学校に来ないでほしい。
 自分の親が恥ずかしい(はずかしい)とあります。けっこうつらい言葉です。親が聞いたら泣きます。

 仙台という地名が出てきました。
 昨年秋に訪れました。
 大都会で驚きました。

 『障害者のこどもになんてなりたくなかった』とあります。
 わたしはこどものころ、お酒飲みの父親のこどもになんてなりたくなかったと思ったことがあります。
 それぞれ事情があります。
 しかたがないのです。
 いったん受け入れて、おとなになったら自立と自活をめざすのです。
 そして、自分が理想とする家庭を築くのです。
 みんな苦労しています。
 人生は長いから、今ある困難が永久に続くわけでもありません。

 大学にいくことをあきらめざるをえなかったとあります。
 わたし以上の世代には、学力があっても家にお金がなくて、進学をあきらめたり、定時制高校や夜間の大学で、働きながら学んだりした人がたくさんいました。
 そんな人たちが中小企業などに入って、しっかり働いてがんばって、日本の社会を支えてきたから、日本の経済が発展したのだと思っています。
 大学へ行ったからといって仕事での成功が約束されるわけでもないし、大学を出ていても働いていない人はたくさんいます。希望する職業に必要な資格の取得が目的なら大学進学は理解できますが、そうでないのなら、大学に行けなかったからといって、親をうらむのは筋違いです。

 障害者夫婦がこどもをつくることが書いてあります。
 強い決断がいりそうなことです。遺伝の不安と障害者の夫婦に子育てができるのかという課題があります。

 全部のページをめくり終わりました。
 211ページある本です。
 著者は1983年生まれで、宮城県出身です。健常者です。ご両親がろう者です。
 この文章のはじめのほうで紹介した本『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』の作者であるパパは、ろう者で1983年生まれです。奥さんもろう者です。こどもたちふたりは健常者です。人生いろいろです。

(2回目の本読み)
 著者の父親:後天性の聴覚障害者。幼少期の病気が原因で聴覚を失った。
 著者の母親:生まれつき音を知らない先天性の聴覚障害者

 CODA(コーダ):Children of Deaf Adults 聞こえない親の元で育った、聴こえるこどもたち

 『いつも、ひとりぼっちだった。』から始まります。この言葉が、著者の人生の前半を占めていきます。(しめていきます。時間を埋めていく)

 自分の生れた家の家庭環境をうらむ部分を読んで、こども時代というものは『そういうものかもしれない』と思いました。
 他人同士お互いに知らないだけで、子育てに快適で満足な生活環境の家庭に生まれてくるこどもの数というのは少ないと感じています。お金持ちの家や家柄のいい家に生まれたとして、それはそれで苦労があります。
 どこの家もポンコツ一家です。親族を広げれば変な身内がいないこともありません。
 先日読んだ『ポンコツ一家 にしおかすみこ 講談社』では、おかあさんが認知症、お姉さんがダウン症、お父さんはお酒飲み、にしおかさんはSM女王キャラクターの芸人さんです。読んでいて、なかなかハードなものがありました。
 ろうの両親のこどもに生まれてしまったというこちらの本を109ページまでいっきに読んで、著者は、人の目を気にしすぎる人だと思いました。
 一般的に、人が関心をもつのは自分のことで、他人のことには興味がありません。
 著者は、被害者意識が強い人です。人目(ひとめ)を気にすることはありません。恥ずかしいと思うことはありません。人はそれほどあなたを見ていません。
 こどものころに、自分は家庭に恵まれず不幸だと思っていたことが、歳をとってみて、あのときはあれで良かったのだと思える時があります。
 わたしは、気が短くて、仕事が長続きしないお酒飲みの父親のこどもとして生まれてきて、こどものころは、たいそう苦労しました。父親は職場でケンカして仕事を辞めてきて、転職してのくり返しで全国各地を転々と引っ越しばかりして、小学校は6校、中学校は3校通いました。わたしは自分がとんでもない家に生まれてきてしまったと腹が立ちましたが、六十代になった今思うと、あのこども時代があったからこそ、これまで精神的につぶれることもなく、さまざまな体験が自分を支えてくれて、つらいことがあってもくじけずに働けて、穏やかな(おだやかな)老後を迎えることができたと判断しています。暴れん坊の父親もわたしが中学のときに病気で亡くなってしまいました。もう遠い昔のことです。

 本読みの感想の続きです。
 宮城県の仙台から電車で30分ぐらいのところがご実家のようです。
 仙台あたりは、昨年晩秋に観光で訪れた場所であるので、親近感が湧きます。
 著者の家の窓から港が見えるそうです。
 4人家族で祖父母がおられます。祖父は元ヤクザの暴れ者とあります。お酒を飲んで暴れるそうです。昔はそういう男が日本各地にけっこういました。祖母はとある宗教の熱心な信者です。夫が壊れると家庭が荒れるので、妻が宗教にすがるということは、しばしばあります。
 
 ご自身が小さいころは、母親の耳が聴こえないということは、なんの問題もないと思っていたそうです。
 耳は聞こえないけれど、目の観察力が良かった。お母さんは有名人をはじめとした身近な人の物まねが得意だったそうです。
 読んでいて、すごいなあ。すごい体験です。なかなかできません。

 きれいな文章です。ご本人の文章作成能力もあるのでしょうが、編集者の手助けもあるのかもしれません。

 祖父母は障害をもつ子の親の気持ちとして、養護学校ではなく、著者の母親を普通学級に通わせた。そのことで、母親は言葉をわからないままに育つことになった。
 むずかしいものがあります。平等とはと考えると普通学級がいいのでしょうが、こどもさんの未来を考えると専用の教育を受けたほうがいいのでしょう。

 次に書く内容は、手話のことです。
 大丈夫だよ:そろえた右手の指先を左胸にあてる。それを、ゆっくり右胸へと動かす。
 次は、著者の母親が発する言葉です。
 おういあね:よく来たね(こどもである著者の友だちが家に遊びに来たときにかけた言葉です)
 おうど:どうぞ。
 あいちゃん:大ちゃん(著者のこと)
 
 著者は、人に対して『(母親は)耳が聴こえないから、仕方ないんだよ。』と言えないこどもでした。
 著者は、もう少し、気を強く持って生きていけたら、悩みを小さくできたような気がします。
 なにくそ! コンチクショー 負けてたまるか! という気迫は、生き続けていくために必要です。

 本の中の著者は小学4年生です。
 学校で『手話クラブ』をつくります。
 小学校時代の思い出話が続きます。
 苦労話です。
 
 近所に住む嘘(うそ)をつくおばあさんが出てきます。
 ずいぶん昔のことですが、わたしにも体験があります。
 世の中には、嘘つきのおばあさんがいるのです。
 ひどい人です。認知症とは思えませんが、その気配はあるのかもしれません。
 ありもしないことをあるがごとくに、自分が善良な被害者であるようにつくり話をするおばあさんに出会ったことがあります。びっくりしました。情(じょう)のある正直者の男性は、ひ弱そうに見えるおばあさんの言葉に簡単にだまされます。自分は、そうやってだまされたお年寄りの男性に怒られたことがあります。(おこられた)。だけど、そんな事実はないのです。本当に、びっくりしました。

 人を差別する人もけっこういます。
 学歴差別をする人がいます。
 まさか、この人がというような人が、裏では厳しい差別をする人だったりもします。
 人間の表(おもて)と裏(うら)は違います。
 女性蔑視(べっし。見くだす)の男性もいます。妻を家政婦扱いする男性を見ると、不快な気分になります。
 著者は障害者差別に直面しています。
 47ページあたりは、人間の強さと弱さ、もろさが表現されています。
 自分を差別した人間を許すことで、笑顔が生れています。

 本の中で、著者は中学生になりました。
 この年齢は、むずかしい時期です。
 母親への反発、反抗があります。
 一番苦しいのは、耳が聴こえないお母さんです。
 
 お母さんの補聴器が20万円しました。
 中学生である著者が高すぎると怒ります(おこります)。
 お母さんは、息子である著者の声を聴きたかったから高い補聴器を買ったのです。
 息子が、どんな声をしているのか知りたかったのです。
 そういうことは、お金の問題じゃありません。
 自分や家族の世話をしてくれる人には、たとえ高くても、お金は使うものです。

 著者と同じように聴覚障害の両親をもつ同級生女子が登場します。
 彼女は両親の聴覚障害を隠しません。あっぱれです。
 
 高校進学の時期が来ました。
 祖父母も聴覚障害者の両親もこどもの高校進学の相談相手になるだけの実力と経験がありません。
 ここまで(76ページ)まで、読んできて思うのは、著者に友だちがいません。
 この本の冒頭にあった言葉『いつも、ひとりぼっちだった。』が思い出されました。先生のフォローが必要です。(不足を補う行為)
 著者はひっそりと隠れるように毎日を送っています。
 78ページに『障害者の子どもになんてなりたくなかった』という項目が出てきました。

 塾の話が出てきました。
 わたしは、親の立場として今思うのは、塾に行ったからといって、成績が上がるものではない。
 こどもたちを塾に通わせましたが、効果があったとは思えませんでした。友だちづきあいの延長だっただけです。
 わたし自身は塾には行ったことがありません。当時住んでいたいなかの町には塾はありませんでした。

 著者の高校受験は失敗に終わっています。
 すべり止めの高校に入学しましたが、学力面で授業についていけません。
 こどもが受験で第一志望校に不合格になると、こどもは荒れます。

 著者は自分の高校受験不合格が、貧しさとか、聴覚障害者である親のせいだとしたのですが、そんなことはありません。
 わたしが歳をとって思うには、テストでいい点をとる能力というのは、家の貧富とは関係ありません。貧乏人の家でも学力優秀なこどもはいます。生まれつき問題を解く脳みそのできがいいのです。ただ、一芸に秀でた(いちげいにひいでた)人は、その一芸以外のことはできなかったりもします。

 著者は大学進学をあきらめています。
 芸術系の大学進学を希望されています。
 芸術系の大学の学費はとても高いです。
 そのことを最初、著者は気づけていません。
 そして、芸術系の大学を出たからといって、就職が安定しているわけでもありません。
 世間知らずの著者です。

 電車の中で、複数のおとなのろうあの人たちが手話をする光景はたまに見かけます。
 電車の中で、聾学校の生徒さんたちの姿も見かけます。
 変だと思ったことはありません。
 著者は、その光景が変で、イヤだと思っていたそうです。
 著者は、人の目を気にしすぎです。
 自分に自信がないから、人の目を気にして、いつもオドオドしているような弱い人間に思えます。

(つづく)

 同時進行で『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』を読んでいるのですが、内容の趣は(おもむきは)こちらの本とは、だいぶ異なります。
 なんだろう。『聴覚障害者が快適に生活できるための教育』があるか、ないかです。障害者に限らず、教育の有無で、人生の送り方が変わってくるという気づきがあります。
 育児マンガのほうは、三十代のご両親がろう者で耳が聴こえません。言葉もうまく出ません。そのおふたりのこどもさん3才長男と1才近い次男は、耳が聴こえて、言葉も発します。
 じょうずに子育てをされていて、こどもさんは、日本語の言葉と指文字と手話を使ってご両親と会話を楽しんでおられます。あわせて、顔の表情で感情を伝えるということもあるのでしょう。
 将来が楽しみなおふたりのお子さんたちです。きっと将来は、社会に貢献してくれるお子さんに育つことでしょう。
 対して、こちらの本の著者のこども時代はつらい。高校進学先の相談をしたくても、ろう者のご両親には頼りづらい。祖父母については、高校進学の考え方が時代錯誤でアドバイスにならなかったようです。

 こちらの著者は、高校をなんとか卒業されて、母親を捨てる気持ちをもちながら東京へと旅立ちます。仙台駅発の新幹線でしょう。母親とのせつない別れがあります。
 思春期のころの著者にはマザーコンプレックスの気配があります。そして、心が屈折しています。母親の温情がわからないばかたれでもあります。親の気持ちは、親になってみないとわからないということはあります。
 マザーコンプレックス:母親に対する愛着と執着がつよい。

(つづく)

 124ページ。第四章『コーダに出会う』からです。
 今同時進行で読んでいる『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』に登場している、ろう者同士の夫婦のお子さんである3才長男ともうじき1才の次男に出会うようなものですが、なにせそちらはまだ小さい。
 聴覚障害者のこどもさんが、コーダですから、こちらの本の著者とさきほどの本のちびっこたちもコーダです。

 本の中では、著者と他人である聴覚障害者たちとの出会いがあります。
 手話と手話で話すのですが、言葉が通じると、心が通い合ったり、気持ちが通じたりします。ステキなことです。
 同時進行で読んでいる『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』では、3歳と0歳のちびっこたちが、生まれてすぐに聴覚障害者対応の教育を受け始めています。
 こちらの『ろうの両親から生まれたぼくが……』のほうの著者は、25歳からようやく聴覚障害者対応の教育に取り組み始めました。遅いスタートになりましたが、一生何もやらないよりはましです。
 著者は、聴覚障害者のお子さんから『コーダ』の意味を教えてもらって、初めて『コーダ』という言葉を知ります。
 そして『……ぼくは決して孤独ではなかったのだ。』という自覚が芽生えます。(日本国内には推定2万2000人のコーダがいる)

 耳が聴こえない人たちのお誕生日会があります。
 あっぴーあーすでぃうーゆー:ハッピバースディトゥユー
 拍手を表す手話:両手を上にあげてヒラヒラさせる。(音はしません)
 ステキです。

 東日本大震災が、著者の実家がある宮城県を襲ってドタバタ騒ぎがあります。
 耳が聴こえない両親と老齢の祖父、認知症の祖母がいる世帯ですから心配です。
 その後の経過のなかで、祖父が亡くなり、祖母が亡くなり、家族の数が減っていきます。
 昔話のことで、障害者同士が結婚した夫婦は、遺伝で障害を持つこどもが生れてくる可能性があるから結婚してもこどもをつくってはいけないというような話が出ます。つまり、著者は、この世に生まれてくることはなかった人間だったかもしれないということです。

 158ページあたりは、涙なくしては読めないような内容です。
 今年読んで良かった一冊になりました。
 今の年配の世代の人たちは苦労されています。
 ようやくできたこども(著者)に差別される障害者夫婦です。
 著者に後悔と反省が生まれます。
 身内とか、親族というものは、なるべくいっしょにいる時間をもって、むだ話をしているだけでいいのです。

 『第五章 母親との関係をやり直す』が始まりました。
 介護の苦労があります。
 介護の苦労は介護の体験をした者にしかわかりません。
 介護の苦労から逃げる親族もいます。
 本では、障害者に対する健常者がする間違った対応について書かれています。
 障害者が自分でできることを健常者は奪わないでくださいです。
 「自分でやれることは自分でやります」です。
 
 親を聴覚障害者にもつ高校野球選手の取材話が出ます。
 
 本が始まったころにあったトゲトゲした、グルグルした、クチャクチャした状況が、本の最後のほうに近づくようになって、ゆっくりほぐれていきます。ぼんやり丸くて柔らかな(やわらかな)玉になっていくようです。

 あとがきではあの頃のぼくに戻ります。
 『いつも、ひとりぼっちだった。』です。

 209ページでびっくりしました。
 この本と同時進行で読んでいた『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』の斎藤陽道(さいとう・はるみち)さんのお名前が出てきました。
 こちらの『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐内(いがらし・だい) 幻冬舎』の本のカバーの写真を斎藤陽道(さいとう・はるみち)さんが撮影されたそうです。斎藤陽道(さいとう・はるみち)さんの本職は写真家です。
 カバーの写真を見ました。少年が、大きな葉っぱを持って自分の顔を隠しています。
 葉っぱには、両目と鼻の穴として4か所に穴があけられていて、その葉っぱをお面(おめん)にして、少年が写真におさまっています。
 少年の片目の瞳は見えていますが、もう片方の目は見えていません。少年の目つきがいい。
 片方見えて、片方見えていないという世界を表現してあります。
 聴こえる世界と、聴こえない世界を重ね合わせてあるのです。
 秀逸です。
 二冊の別々の本を同時に読んでいて、最後に作者同士の出会いのシーンがあって、びっくりしました。

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