2014年05月25日

映画館と小説 青天の霹靂(へきれき) 劇団ひとり

映画館と小説 青天の霹靂(へきれき) 劇団ひとり

まず、小説を読んだときの感想を置きます。
【2012年6月14日】
青天の霹靂(へきれき) 劇団ひとり 幻冬舎
 前作「陰日向に咲く(かげひなた)」は傑作でした。前作では登場人物がたくさん登場しましたが、今回は轟春夫(とどろき)35歳売れないマジシャン(手品師)のひとり語りが記述の大部分となります。
 読書感想について、ページをめくりながらの経過に従(したが)って書いてみます。
 青天の霹靂(へきれき)、ずいぶん難しい漢字のタイトルにしたものです。読書前は、売れない芸人が突然売れ出したというような晴天の霹靂があったと受け取りましたが、小説の中身はまったく違います。
 出だしの書き方は面白い。前半、テレビの話が多いのですが、わたしは、私生活を切り売りして収入を得る苦痛を味わいたくありません。テレビに出ることができない売れないマジシャンの轟(とどろき)春夫くんですから、小説の内容は地味です。場末のマジックバーで働く彼と彼の周囲の人間のやりとり記述は、水準を超えています。轟くんはなんだかみじめな男です。こういうタイプの男性像が主人公となる小説が増えました。
 轟春夫くんの父親及び父子関係に関する構想のヒントは「ホームレス中学生」だと推測します。73ページ付近の記述には、おとうさんがあまりにもやさしくて、息が詰まります。82ページで、「晴天の霹靂」の意味が判明します。この小説自体が手品なのです。
 社会の底辺で暮らす生活が続きます。ドラマの脚本のようでもあります。中盤は期待はずれになってきました。このまま尻すぼみになってしまうのだろうか。203ページにある手品の種明かしは、本来、ことが終わってから書くものではないだろうか。この内容を下地にして書き直したほうがいいとまで思いました。不完全です。
 そして、最後にふーむとうなりました。よくできています。まんまとだまされました。読み手は完敗です。

【封切り日に映画を観てきました。】
 もうずいぶん前に読んだ小説なので、記憶が遠ざかっていました。トランプ手品から始まるのですが、小説にその場面があったことを思い出せません。これ以上ここに書くと映画のだいご味が損なわれますので書きません。
 まじめで優しい映画でした。ていねいに積み重ねられて、時間をかけて制作されたことがわかります。細かなシーンのつなぎが絶妙で、うまい!音楽も素晴らしい。1978年、昭和48年の風景です。牛乳の三角パックはなつかしい。クジラ肉を食べるシーンでは、たしかに自分もクジラの冷凍刺身を何度も食べたことがあって、おいしかったのを覚えていますが、このご時世に映像に出していいのだろうかと、シーンを観ながら不安になりました。傑作・名作映画の「三丁目の夕日」みたいなパターンになるのかなと予想しましたがそうはなりませんでした。
 昔のドラマは、未来人が現代に来るというタイムトラベラーの設定が多かった。ところが現代は、現代人が過去へとタイムトラベルをするようになりました。これも時代の変化のひとつなのでしょう。
 後半、雨がだんだんやんでいくシーンがよかった。雨の音がしずまり病室の空気がやわらいでいく。両親が、もう大きくなった息子と会話をするわけです。両親は、そんなこと、あるはずがないと思いつつも、手品師ペペが自分たちのこどもであることをほのかに感じとるのです。名シーンです。
 前半は、スプーン曲げシーンが頻繁に登場します。スプーンが伏線になって、やがてスプーンは、キッチンペーパーでつくったバラに変化するのです。
 太宰治、生まれてきてすいませんの世界があります。父親は息子に対して優しかった。母親も優しかった。たまたま、運がなかった。
 最後は、産んでくれてありがとうの感謝の気持ちで満たされます。いい映画でした。

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