2012年11月16日

白夜行 小説と映画 東野圭吾

白夜行 小説と映画 東野圭吾

 以下は、2007年につくった感想文です。5年前です。

白夜行 東野圭吾 集英社文庫

 遅ればせながら854ページという分厚い文庫を読み始めました。私はドラマを見ていません。妻とこどもたちは見ていました。私は音楽を何度か耳にし、映像をたまに目にしていただけです。内容は知りません。本を読んでいて思ったのです。原作とドラマは話の運びが違うようです。
 さて本の感想です。桐原亮司、唐沢雪穂のふたりは、人間の姿をしていますが、人間ではありません。目には見えない気体のようなもの。そう、怨念とか憎悪とか、ねたみ、嫉妬、殺意、欲望、企み。そう、人間の精神、魂なのです。ふたりの登場人物は作品のなかでは、目には見えません。
 読み終えて、ただ悲しい。854ページのうちの827ページまでは、著者の企て(くわだて)です。企て、プロットでした。昔、脚本書きの勉強をしたときに教わりました。著者は、亮司であり、雪穂です。ふたりが作者にのりうつっています。ラストシーンに至るまでの直前の文章の固まりには、ヒャー、ヒャーとします。快感があります。犯罪は犯罪者だけではなく周囲の人間をも壊していく。同じ著者作「手紙」のメッセージです。日本犯罪史の集大成という形態をとっています。私はこの作品が訴えたいことは、基本的人権の尊重を犯すものに対する抗議と受け取りました。


次は先日観た映画の感想です。

白夜行 映画 2011年 ケーブルTV録画

 ロリコン趣味の男性たちと貧しいがゆえに小学3年生の娘に客をあてがう母親を複数の悪魔として扱い、殺人の動機をつくった作品です。加害者とされる女性の娘と被害者とされる男性の息子は互いに愛し合い、男子は影となり、女子を守り続ける。
 物語は暗く、かつ硬く、おぞましくもある。人間がもつ「悪」の部分を刻銘に浮き上がらせようとする。うらみはらしますの世界でもある。
 数年ぶりの作品との接触だったので、内容を忘れていました。ドラマでは、最後に武田鉄矢刑事は桐原亮司に銃か刃物で殺害されて死すというシーンだと思いこんでいました。たぶんのほかの作品とごっちゃになったのでしょう。
 この作品と対(つい)になる作品がありますので、そちらの読書感想文も続けておきます。
 書いたのはだいぶ前だと思います。

幻夜 東野圭吾 集英社文庫

 ありがちな暗い話の出だしです。
 現実に起きた自然災害の現場で架空の犯罪を設定することは災害被害者への冒瀆(ぼうとく)になるような気がします。阪神淡路大震災の援助活動に参加しましたが、店舗荒らしとか強姦とか、そんな犯罪が起きたということは聞いたことがありません。わたしがまじめすぎるのでしょうか。
 人間を見る目が鋭くて深い。この本は同作者著「白夜行」の対(つい)となっています。水原雅也は桐原亮司、新海美冬は唐沢雪穂となっています。「白夜行」では主人公ふたりの姿は見えない、しかし「幻夜」ではふたりの姿が存在しています。
 ひとりの人間の思考(新海美冬)を加藤刑事が追っていく。そこに義理の姉頼江が加わり最後に水原雅也が決着をつける。8章後半からふたりの協力関係が崩れる。608ページから種明かしが始まる。全体で800ページの本ですが読みやすい。遅読のわたしでも1日に150ページぐらい読めました。
 人間というものは必ず歳をとるもので、女性はいつまでも若さと美貌を保つことはできない。ずいぶんまえに「卑弥呼」の本を読んだことがあります。若い卑弥呼は男たちをその魅力で手なずけるのですが、やがて彼女は歳をとり、男は誰も相手にしてくれなくなったという記述がありました。
 この本の主人公美冬についてもそのように考えながら読んでいたら後半は美貌の維持に関する手法が語られていました。
 犯罪を起こす機会が訪れたという「一期一会」そして、いちずに愛するという作者のテーマです。水原雅也について、人間は罪を犯すとこうなるということが、著者の作品「手紙」にも通じます。しあわせをつかみ損ねた男、水原が可哀想です。不幸はお金がないことから始まっている。

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