2015年09月09日

月と蟹 道尾秀介 文春文庫

月と蟹 道尾秀介 文春文庫

 直木賞受賞作品ですが、読み始めは、児童文学を読み始めたような感じがします。小学校5年生の利根慎一、富永春也、葉山鳴海(女子)たちが登場人物で、舞台は神奈川県、地名は書いてありませんが、わたしは、藤沢市あたりだろうと勝手に設定して読み始めました。(読み進めた先で、横須賀線沿線のような記述があったので、はずれでしょう。)現在40ページ付近、慎一と春也が、鎌倉の鶴岡八幡宮、建長寺、十王岩を訪れています。

 「月と蟹」のタイトルの意味はまだわかりませんが、冒頭付近に、慎一の祖父昭三が何度か、「カニは食ってもガニ食うな」と繰り返します。なにかのヒントでしょう。
 
 勝手な推測ですが、読み始めの数ページが経過したときに、この小説のテーマは、「みんな善人のような顔をしているけれど、実は悪人なんだ」、それを子どもが発見するんだと予測しました。

 小学校5年生の登場人物たちの言動を読んでいたら、自分の息子の小学生時代の思い出がよみがえりました。自分の小学生時代ではないことで、自分が老いたことをさとりました。

(つづく)

 なかなか長い物語です。今は、224ページ付近を読んでいます。
 こどもたちは、こどもたちのまま、それぞれ、悩みをもっています。利根慎一は、母の恋愛、葉山鳴海は、慎一の母の恋愛相手の娘です。慎一の父は病死、鳴海の母は事故死しています。事故死に関して、慎一の祖父が操舵していた漁船がからんでいます。そして、春也自身は、親から虐待行為を受けていますが、ひた隠しにしています。

 癌のことを英語でキャンサー、蟹もキャンサー、そのフレーズになにか、ヒントがあると感じました。たしか、慎一の父親は、胃がんで亡くなりました。

 ヤドカリを神とする「ヤドカミ」、ヤドカミを火あぶりにすると、何かしらいいことが起こる。ヤドカリをキー(鍵)にのせて、100円ライターの炎で、貝殻からヤドカリを貝殻からあぶり出すシーンが続きます。少し飽きてきました。昔観た映画「禁じられた遊び」を思い出しました。

 車の中のシーンは強い、なんだろう、現実味があって、いい発想でした。
 父親とか母親とかいう以前に、男と女だった。親は、子を捨てることができる性質をもっている。だから、親を信じない。子は自立していく。

(つづく)

 ふーっ。読み終えました。
 後半には、交換殺人という厳しい展開が待ち受けていました。
 違う終わり方もあったのではないかと想像しますが、これでいいと納得もします。

 読書の経過です。
 30代独身男女の性(さが)が、小学5年生に責められても仕方がない。それでも、男子と女子で、受け取り方が違う。否定と否定含みの許容

 人が不幸になることを期待する。
 世の中は虚構の仕掛けでできあがっていることを知る。幸運な500円玉、事実ではない交通事故、なぜ。

 物語は佳境ではあるが、読んでいると哀しい気持ちにさせられる。(ただし、その後、気持ちには青空が広がる。)

 祖父昭三の病死は、孫慎一との関係から、読み手である自分が祖父、まだちいさな孫を思い出させる。

 人は成長するにつれて、ヤドカリのように殻を身につけるようになるというたとえ話がある。

印象に残った表現です。
・「もう、飽きた」
・「どうして全部うまくいかないのだろう」

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